補遺43「再度、日本の国号について」

天孫族考補遺43「再度、日本の国号について」

◯「日本」という国号の由来について

江戸時代までは、本邦の国号は、音読みでは“ニッポン”だが、一般的には訓読みで“ヒノモト”である事が常識であった。しかもそのヒノモトとは日之下の意味であることも併せて常識だった言えるだろう。

日の本は、辞書で引くと;

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 デジタル大辞泉(小学館)

ひ‐の‐もと【日の本】

読み方:ひのもと

《日が昇る本の意》日本の異称。日の本の国。「—一の山」

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とある。他の辞書でもほぼ同様。

ところが、和歌の枕詞に“日の本の”があり、これは大和に係るという。

「日の本の大和の国の鎮 (しづ) めともいます神かも」〈万・三一九〉

これは、以下の富士山を称える高橋虫麻呂作の長歌の一節である。

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原文

奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与 己知其智乃 國之三中従 出立有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 霊母 座神香聞 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曽 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鎮十方 座祇可間 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞

よみ

なまよみの甲斐(かひ)の国、うち寄する駿河(するが)の国と、こちごちの国のみ中ゆ、出で立てる、富士の高嶺は、天雲(あまくも)も、い行きはばかり、飛ぶ鳥も飛びも上らず、燃ゆる火を雪もち消ち、降る雪を火もち消しつつ、言ひも得ず、名付けも知らず、くすしくも、います神かも、せの海と名付けてあるも、その山のつつめる海ぞ、富士川と人の渡るも、その山の水のたぎちぞ、日の本の大和の国の鎮めとも、います神かも、宝ともなれる山かも、駿河なる富士の高嶺は見れど飽かぬかも

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この万葉仮名でも日本と書いて(恐らく)ヒノモトと読ませる体になっている。つまり、万葉集編纂の時代には、日本=ヒノモトという観念が形作られていたと知れるのである。

※ナマヨミノは甲斐に係る枕詞。由来には諸説がある。

『大言海』では、「甲斐国の枕詞。鰒(アハビ)ナドノ生肉、美ナリ、介肉ヲ膾ニスルコト多シ」とあって、“生美肉(ナマヨミ)の介(=貝)から転じて甲斐に掛ける”洒落から来たものとする。他に“生弓の”とか“並山の”、“半黄泉の” などという解釈が出されている。

※ 石花(せの)海: 富士山北麓にあった湖の名。貞観六年(西暦864年)の富士噴火で、本栖(もとす)湖、西湖、精進湖に分断された。それ以前はセノウミと言う一つの湖だった。

高橋連虫麻呂は、天平前期活躍の歌人で、藤原宇合の下僚であったようだ。

「“日本”書紀」が完成されたのは養老4年(720年)とされているので、丁度遣唐執節使・粟田真人が則天武后に国号を倭から日本への変更を容認させた(大宝3年=703年)頃の、少し後の時期であり、また虫麻呂の活動期はその後である。

だからこの文武朝〜奈良時代初期天平時代までに、本邦の国号が日本になった事は一般官吏に至るまでの人口に膾炙していたのである。

ところで、私説「天孫族考」では、“中九州〜北九州にあった日下国(漢訳狗奴國)が、日下=日之下だから、これを遣唐使が「日本」という雅字表記に変えて唐朝に提示して承認を得た”として来た。そも月氏の中核(和族=龢バラモン)の発祥の地であるパミールはタジク語呼称であるが、月氏語ではソヒル(蘇毗琉=曽冨理)で、これは“太陽神の足下”という原義なので、まさしく日下なのである。

一方で、百済人で唐朝の将軍になった祢軍(イェグン:本邦では天智朝時代の人;613年〜678年没)の墓誌によって、日域(唐や百済方面から見ての日昇の方向にある地域)には、“日本と扶桑の2地域がある”という認識があったように推測できる。

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※日域 じち‐いき〔‐ヰキ〕

解説 ①日が照らす域内。天下。

②《日の出る国の意から》日本の異称。じついき。にちいき。「汝—に渡って」〈平治・上〉

因みに百度辞書では

日出之处。古代以喻极东之地。日照之处。犹天下。

今の場合、①の方の意味になる。

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つまり祢軍に依れば、「滅亡百済の復興を唱えていた(百済人残党とこれに与した倭人系)勢力は、日本を脱出して扶桑(島)に逃亡した」とするからだ。

日本餘噍據扶桑以逋誅」 =「日本の餘噍は、扶桑に拠って、もって誅からにげる」即ち”日本の生き残りは、扶桑に閉じこもり、罰を逃れている“という意味。

この場合扶桑は明らかに、アキツシマの事であろうから、そうなると日本とは、アキツシマから外れた(或いはアキツシマの極西界を含めての)百済に隣接する地域、即ち任那加羅(と北九州まで)のことであっただろうと想像できる。

(もっとも九州をも日本に入れれば、本州が扶桑に相当するとも考えられる。)

つまり百済人の観点では倭人の国は、旧弁辰とアキツシマ(九州+本州)であったという事だ。

何故そういう推理が成立するかといえば、昨今の研究で、「応神朝からの倭人軍の拠点であった所謂“日本府”は、ほぼ韓半島南部の安羅に置かれていた」と考えられるようになって来たからである。

従来日本府は日本軍の拠点という意味もしくは軍事上のみならず交易上の拠点として、倭人が営んでいた日本の出先機関だと解釈されて来た。

しかしもし、任那加羅の地域が、祢軍いうところの日本その地だとすれば、日本府とは単なる出先機関などではなく加羅地域自体の軍事・交易などの拠点であったと言わなければならないであろう。

だからこういう実態の反映として、南韓は倭国の版図だったという見解も生じたのだろう。(この見解では、元来アキツシマで発生した倭人が南韓に進出したと見る。つまり天孫族国内発祥説に立つものである。)

だが私説では、むしろ南韓の大加羅(高霊加羅)の分国が日下国であり、金官加羅の分国が豊の宇佐国、伊西国の分国が伊都や出雲(ヤマト)だと考えるので、南韓加羅は概略、アキツシマ側と緩く連合した;民族を同じくする都邑国群だったと考えている。

この為、大倭を征服した河内王朝からすれば、日下国が、古の辰国の継承王権であり、辰王が南遷して馬韓の月支国王となり、辰韓と弁辰に潜在的な王権を有していたのであるから、倭の五王時代に中国南朝に朝貢した倭王の武が、「使持節都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と自称し、その地位への同意を要求した理由という事になるのである。結局この内、先んじて南朝に朝貢していた百済を除く六国に対する軍事権・宗主権が認められたのであった。

つまり、新羅に対する辰王以来の統制権も南朝には容認された事になっている。

従来の解釈では、秦韓・慕韓の旧地名までが含まれているのは自大主義だという事になっていたが、これは新羅や百済に属さない、旧秦韓・慕韓の小地域が未だ残っていたからの主張ではないだろうか?

言い換えれば、新羅とは秦韓の一部の斯羅であり、秦韓には伊西国の様な反新羅派の地域もあったであろうし、同様に百済は慕韓の百残(伯済)国なので、牛頭方や月支国の様な百済にならなかった地域があった筈だ、という主張である。

この為、敢えて重複あるを承知で倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国の超王権(シャーハンシャー位)を要求したものだと考えるのである。

ところで”倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓“というのは、”倭・百済・新羅・任那・加羅“+”秦韓・慕韓“なのか、”倭・百済・新羅・任那“+”加羅・秦韓・慕韓“なのか?という問題もある。

つまり任那・加羅は、任那加羅という総括的な概念になり得るものか? それとも任那とは、イクオール加羅ではない;この場合どちらかがより広い概念で、多くの地域は重複するが一部は外れているという地理的な観念なのか、ではなくて任那の方が時代の新しい地域概念で、その多くは昔の加羅と重複している(が重複しない部分もある)歴史的・時間的な概念であるのか?という問題である。

要するに、百済+新羅+任那は、ほぼ以前の加羅+秦韓+慕韓に相当するが、全く同一ではないという考え方でもある。

こういう場合、早くに新羅に併合された金官加羅などは、旧概念では加羅で秦韓には属さないが後世概念では新羅内になり、最後まで倭側と協調して新羅に抵抗していた伊西国は旧秦韓諸国だが後世は任那に与する勢力だというような主張もできそうに思えるのである。

戻るが、中国側知識人に、日域=日本+扶桑(倭地)という認識があったのに対して、本邦側は元来、日本=任那+日下(倭を征服して拡大)という認識だったのではないだろうか? この場合、中国側からは、日本=加羅の新羅未征服地(本邦側でいう任那)という観念だったのだろう。そして扶桑は同系の倭種の島国という認識なのだろう。

私説では、筑紫島の日下国は、本国である高霊加羅の分国だったが、新羅との戦争の過程で、日下国が和族の本拠となり、南韓の加羅地域(で新羅の未征服地)は、元の本国である高霊加羅から統治を委任された地域、即ち任那となったのでは無いかと考えるのである。この内、最終的に任那が新羅に併合されて、日本とは、残る日下国のみになったのである。

(※任那=ミマナは美愛那で愛しき国原の意味だという解釈もあるようだ。この場合はアイリッシュのタラに相当する。奇しくも弁韓多羅国がその任那であり、タラシ彦系王家は、多羅から渡来したと主張する人もいる。一方、洛東江の支流南江流域を特に弁韓の内の下韓と呼ぶようだが、この下韓を含む地域が弁前那=べマナ→ビマナ→ミマナだとする考えもあるようだ。類例は美作の由来で、備前朔=備前北部、もしくは備前割で、共に備前を南北に分割して成立したビマサク→ミマサク→ミマサカだというがそれと同様であるとするものだ。実際に任那四県割譲問題などを見ても、任那は一都邑ではなく複数都邑を含むある地域の名称だったと考えるべきだろう。)

※なお、伽耶は加羅の後世名である。本邦で、和泉国を中世後期から泉州と呼ぶ様になった如きものかと理解している。

弁韓時代からの南韓の都邑国家群の版図(いわゆる第一次加羅同盟時代)が加羅であり、金官加羅が脱落して、大加羅を中心とした第二次加羅同盟時代以降の加羅もしくはその一部(or 大部分?)が任那に相当するのではないか、というのが私の推論である。

任那という概念が何時から成立したのかが分からない。図では「475年ころの任那」とあるのは、むしろ「475年ころの加羅」であろうと考える。

◯ 国号としての「日本」の成立時期

古事記の完成時期についてだが、公には和銅5年(712年)元明天皇に献上されたとされている。

しかし、その構想や執筆進捗の時期については、そも天武天皇の発意に基づいて、徐々にまとめられ書き進められたと考えられている。

京都大学の笹川尚紀氏は、「舒明天皇の時代の後半に天皇と蘇我氏の対立が深まり、舒明天皇が蘇我氏が関わった『天皇記』などに代わる自己の正統性を主張するための『帝紀』と『旧辞』を改訂と編纂を行わせ、後に子である天武天皇に引き継がれてそれが『古事記』の元になった」と推測している。(笹川尚紀「帝紀・旧辞成立論序説」『史林』第83巻3号、2000年)

従って、古事記の内で、先に編纂されたと諸学者のいう『帝紀』と『旧辞』に相当するパートは、藤原朝には、その稿本が書き下ろされていたとも考えられる。

この、神代〜皇室の成長過程についての基本的な構想は、当時の最高権力者であった藤原不比等に報告して同意を得ていたのではないだろうか。

(不比等自体が、田辺史氏によって成育された人であったので、史書の書き方については、太安万侶以上に、心得があった可能性がある。)

そうならば、この時代の最高の知識人と目され、かつ不比等の腹心だったと言われた粟田真人が、稿本に目を通していたとしても全く不思議ではない。

従って、私は、粟田真人が遣唐使として渡唐した703年には、この日本国成立論を頭に入れていて、それに従って、倭→日本への国号変更の申請の理由説明を行ったのではないだろうか?と考えている。(大方の史学者は、大宝律令完成期が日本を国号と認識した画期だろうとしている。)

つまりその論旨としては、

①日本国の君主は、大陸からの渡来人ではなく、アキツシマ列島内部で自生した民族の中から、筑紫島南東の、その名も“日向”を根拠にした部族長が東征して就位したもの。

②大アキツシマの中心部には、(出雲族の)大国主の支配していた倭人の国が先に成立していたが、日向からの東征軍はそこの大国主から国譲りを受け、また一部の抵抗勢力(長髄彦ら)を打ち破って、ヤマト入りした。これらの旧勢力こそが、南韓に派兵して唐朝に歯向かった者たちであるが、それらは東征で一掃されている。現政権は親唐派である。

(天孫族東征と壬申の乱を合成した立論。)

③ここ暫くの間、唐朝同様に、倭国でも、ウノササラという名の女君主が統治している。

④都城の制度や律令などの法制度や国史の編纂などを、唐朝を模範にして進めている。(既に条理制の藤原京が出来、また大宝律令が完成していた。)

⑤倭国は東征以前の旧国の名称なので、日域にあること(また日向所縁の君主の統治するところでもある)から「日本」という国号にしたいので、承認してほしい。

---------こんなところではなかったろうか。

なお、一部の学者?の説に、粟田真人以前の遣唐使でも、唐朝に日本の国号の申告をしたが、高宗によって拒否されたとするものがある。しかし私は、それは無いと考えている。何故なら、その以前の遣唐使は669年(天智8年)の事である。

果たしてそんな前に、国号を日本にするという政権内部の統一見解が出来ていたものであろうか?

仮にもし、国内的に、本邦の国号を日本にする事のコンセンサスができていたとしても、当時の「日本」の名称は、上述祢軍の墓誌にあるが如く、亡国百済と共に唐に反抗した百済残党勢力の蟠踞した南韓域にあった地方名でもあり、それは唐の知識人にも知られていたであろう。そんな名称を幾ら国際情勢音痴?の天智朝でも、敢えて使うような馬鹿はしないだろう。「扶桑に逃げた賊軍の本国は、実は私どもの国であり、反抗に因み“日本”の名に変更したいのです」と言っている様なものだからである。

但し、(ほとんど可能性の低い想定だが)天智が(中国側の認識では「“日本”は百済残党賊軍の蟠踞地の名称だった」ということを知らなかったとすれば)「反抗に手を貸したのは倭人の勢力であり、自分達は和人なので倭人とは違う。だから倭の国号は、前政権の国号なので、日本に改めたい」と、669年までの遣唐使で、頓馬にも申告させたといういう事があったのかも知れないのだが。

しかしこんな想像は、内外の情報が分かっている現代だからのものだろう。

なお、遣唐使は凡そ20年おきに派遣されていたが、669年から702年(大宝2年)まで30年も派遣されなかったのは、当然ながらこの間に壬申の乱があり、それどころではなかったからである。従って、記録に残らない遣唐使派遣がこの間にあったとも考えられない。

白村江の海戦(663年)から半世紀近くも経過して、ほぼ唐朝も世代交代をした頃だろうという状況判断から、国号変更の申告がなされたものだと解される。

◯安羅日本府と都怒我阿羅斯等

都怒我阿羅斯等とは、角干安羅“人(もしくは叱智)”。

角干とは三韓の貴族名でソフル干だという。ソフルは蘇冨理で都の事なので、和風に言えば、京大夫安羅執政。

(この角干が都怒我阿羅斯等の都怒我の由来という。)

于斯岐阿利叱智干岐というのが、都怒我阿羅斯等の別名(韓名)として伝来しているが、于斯岐が牛角、阿利叱智干岐は安羅人叱智干なので、安羅人は黄牛族(辰韓)系だと想像される。(もしや牛角冠を被っていたのかも。)

また都怒我阿羅斯等とほぼ同一の伝説として天日槍伝説があり、天孫族考で考証したように、天日槍には牛に関わる伝承が付随していることからも、黄牛族系であると思われる。

蘇那曷叱知(そなかしち、蘇那曷叱智)は、『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の任那からの最初の朝貢使とされるが、この蘇那曷は都怒我であり、蘇那曷叱知こそが、都怒我阿羅斯等だとする見解もある。

安羅には安羅人の大官のほかに、日本府全体を取り仕切る倭宰(ヤマトのミコトモチ、一大率=太宰帥の現地司令官)の存在が窺われ、一種の二頭体制であったらしい。

蘇那曷叱知は、『日本書紀』によれば崇神天皇65?年7月に任那から朝貢のため来朝し、垂仁天皇2年に帰国したという。また、その帰国に際して天皇から任那王へと赤絹100匹(200反)が贈られたのだが、途中でこれを新羅兵に奪われたといい、これが任那と新羅の争いの始まりとなったとしている。

更に、垂仁天皇2年の分注には、大加羅国王子の都怒我阿羅斯等による「任那(みまな)」の語源伝承が載せられており、この都怒我阿羅斯等と蘇那曷叱知とを同一視する説が出された。

この説から、任那とは皇孫にスメミマの読みがあるが如く、大加羅王の王孫(ミマ)を派遣統治させた国(那)で王孫那(ミマナ)だとする解釈が生じた。

しかし、スメミマ皇孫の概念は、スメラミコトの概念が成立して以降の事であり、そんな上古に於いての用語法としては首肯できない。

また上述の如く安羅人は黄牛族であり、龢族の大加羅王家とは別系統と考えている。従って私は任那=王孫国説は採らない。

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