補遺44「加羅と任那についての考察」

天孫族考補遺44「加羅と任那についての考察」

◯辛いという味覚

味覚の分類を表す言葉に、四味とか五味という言葉がある。

宝酒造の料理に関する味覚の解説のHPには、以下の記述がある。

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味の種類には基本五味と呼ばれる「甘味、塩味、酸味、苦味、旨味」と、基本五味には含まれませんが、味の嗜好性に深く関わる「渋味、辛味」があります。 これらの味のバランスが、おいしさづくりの上では重要なポイントとなります。

https://chomiryo.takarashuzo.co.jp › ...味の種類と相互作用 - 宝酒造

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しかし、旨味などというのは、日本でも江戸時代になってからの事だ。

料理通によれば、

>> 「辛味」や「渋味」は刺激やしびれとして感じ取る感覚

>>のため、五味には含まれません。

としている。しかし、一般に、江戸料理でも京料理でも(従って和食の)五味として

>> 和食の五味とは酸味、苦味、甘味、辛味、塩味

としている。塩味とは、中国風に言えば鹹味である。

一方、味覚というより食材に観点を置いた“食材の六味”と云う概念もあるらしい。

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六味とは「酸味(渋味)・苦味・甘味・淡味・辛味・鹹味」という6つの味を指しています。 この6つの味は食材そのものの味。 食べてから現れる効果も含まれます。  https://ra-story.com › ...食材の六味

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※淡味とは、和食の真髄である、だし、かつお節や昆布、シイタケなどから優しく引き出された旨み成分の淡い味覚というニュアンス、という事の様だ。これも実際は料理の技法の発展した江戸時代になってからの概念だろう。

だが、古代〜中世において、味覚の種別は、中世の禅宗に至るまで、大陸渡来の概念であった。

整理すると、甘味・鹹味・酸味・辛味・苦味の5味である。

この内、辛味は中国風の読み(漢字の音読み)では、シン(もしくはジン)という事になる。ここで解釈すれば、苦味が薬草や薬石の味であるのに対して、辛味は(我が国でいう嗜好性の強い植物)葱や大蒜などの味を云う。

前置きが長くなったが、この辛味を我が国では「辛い」味と言ってきた。つまり、漢字「辛」の訓読みがカライなのである。

しかしこの訓が、何処から来たものかの(由来の)考察は見た事が無い。

私は、カライというのは古代南韓の地域名である「加羅」に由来する言葉だと考えている。つまり、辛いというのは、加羅渡来の味覚という事だという意味である。

私説では、大加羅(高霊加羅)は月氏龢族の国であるので、聖草・薬草としての葱韮類(ニンニク=大蒜を含む)とカラシ(芥子)菜が栽培され食されていた。

この単なる食材を超えた葱韮類や芥子菜にまつわる習俗が本邦の日之下国に伝来した為に、我が国では辛味を、カライ(加羅の味)と表現したのであると考える。

そこで、以下に上古に弁韓といった三韓の内の南韓地域=加羅について考察する。

◯高霊加羅の韓語名

金官加羅が新羅へ投降した後に、伽耶連盟の中心になったのは大加羅であるが、この国は高霊加羅とも呼ばれて来た。今でも、高霊郡の地名が残っている。

しかし、この都邑国家は、元々は半路(パンルー) もしくは半跛(パンパ、パンピ)と言ったという。伴跛の表記(日本書紀)もあるようだ。

半は中国読みではパン(中国語には濁音が無い)。よって、パンルー、もしくはパンパ(ピ)になる。

半跛(パンパ、パンピ;韓語ではハヘ?)は、日本で言う片チンバ(差別用語)。跛はビッコとかチンバといい、片脚が不自由な状態、転じて並行ではない動き。

(例 経済跛行。経済発展がアンバランスの状態。)

何故この様な一見蔑称ともいう様な名称になっているのか?

半路だけであるなら、何処かからある地点までの経路の中間点(例えば馬韓月支国〜金官加羅までの半分の距離の地域とか?)を半路と言ったのか?というような解釈も成立する。半路の方はそんな説明ができても、半跛の方は説明できない。

半路は中国の史書(魏志韓伝)での弁韓十二国の列挙の地名。

半跛は高麗時代の史書(三国史記)。もっとも、それ以前の日本書紀が伴跛と書くので、(恐らくそれは亡命した百済系の史官の書いたものなので)半跛もしくは伴跛が三韓時代の現地表現であったということではないかと推理できる。

しかし、半路と半跛では余りに音韻と意味の両方が飛びすぎるので、もしやその二つが一つから分離したのではないか?との疑いも生じる。例えば半跛路(ハヘル)だったりはしないだろうか?

すると有意の表記ではなく、これは、音訳なのではないか?単に漢字を仮借した表記なのではないか。漢字の原意とは無関係な単なる音標としての使用!(一種の万葉仮名の如きものではないか)と、考えてみた。

では、そうだとしたらそれは何処から来たと推理できるのか?

月氏龢族=蘇毗族はチベット読みではソンパ族という。

もっとも中国では彼らは羌族と同族だと解して蘇毗羌と呼んだ。ソンパル蘇毗琉は日下;太陽神(琉)の足(ソ)下という意味。蘇の中国音はスー syu 。韓語でもスか?

すると、蘇毗琉はスンピルかスヒル→それが転訛し半跛路パンピルもしくはハヒルとなったのかも知れない。

蘇毗琉→曽毗琉→ 普毗琉→ 半毗琉→ 半跛路→ 半跛、半路---------とか?

これとは、全く離れた地名由来説に、高霊加羅地方で葱が重要視された為では、ないかとするものがある。月氏龢族がカラコルム〜ヒンズークシ山脈北麓高原のチベット〜パミール(そこが原初カラ地方)にいた頃葱や大蒜を聖草バルソムにして崇めていた。この原初カラは、インド側から聖鳥カルラが来る祝福の地を意味。マギバラモン(龢族)の支配する高マギが原=高天原。

高霊加羅はまさしくタカマがカラ。加羅地方が第二のカラだと考えたものかとも思えるのだ。

日本では、豊後〜河内〜伏見〜------〜下仁田〜深谷まで中央構造線に沿って葱の栽培地が続く。韓国ではこれが洛東江流域(と、今では牙山(アサン)地方も。)そこはやはり断層地帯の河川沿いの軟土壌地域である。

蘇毗族の聖草が葱。韓語では葱はパ。葱畠がパロ→パルー(半路)か?

だがこれではパンピ ・ハヘ(半跛)の説明がつかない。

しかし、最近これらに対して、別の解を与える説に出会った。

先ず、大加羅の旧名(本来名)は半路であり、半跛は尚州(沙伐)と星州(本彼)を含む洛東江上流の西岸の広い地域名だというものである。半跛と半路が近似な為、同じ都邑の異名と錯同されたという解釈の様だ。

但し、半路は中国側資料であり、半跛の方は中世のものとはいえ朝鮮側資料である。そうすると伴跛と表記する日本側の資料(書紀)もあるのはどうなるのか?

これらを勘案すれば、むしろ半跛が本来名で、中国側が誤伝したものと考えるべきではないだろうか。その場合、半跛は洛東江上流右岸を示す広域名で、かつそこの代表的な都邑もまた半跛と言った、という事ではないだろうか?

半跛というなら、左岸側はどうかというと、そちらには中流の卓淳(今の大邱)くらいしか大きな都邑が無いので、右岸側がアンバランスに発展しているというニュアンスの地域名なのではないだろうか?というもの。

(勿論、半跛=洛東江右岸地域名で半路=大加羅の原名という可能性を全くは否定出来ない。)

大加羅という加羅を代表する都邑は、通説では、最初は金官加羅、そして次に短い期間だが安羅、そして最終的に高霊加羅になったという事になっている。

もっとも高霊加羅というのも高霊地方の加羅(正確には加羅の高霊地方の都邑)という事なのであるが、半跛と高霊は後者が前者に含まれるものなのか?という疑問もある。

◯加羅王系図

「朝鮮君主一覧」に下記の系図がある。

※中世の資料だから加羅ではなく伽耶となっている。

これで興味深いのは、建国神話では、加耶世主正見母主という女性が高霊加羅と金官加羅二国の王の生母だとされている事。また3〜5代の王が女王だという事。

これは、他の月氏和族系の国に女性君主が多いことを連想させる。

前漢の使者が訪ねた大月氏国も女王国だった。また崑崙山脈周辺に残っていた(後漢からは、羌族とも見做された)婼羌=ルーチャンが女君に率いられていた事。更に婼羌の同族であるという蘇毗羌の後継だとされる西チベットの象雄国や東チベットのソンパ(蘇毗)国が女王国だった事。特に後者は唐朝から東女国との呼称を得ている。

高霊・金官の二国王は次子・三子となっている。すると長子はどうしたのか?

また高霊加羅が和の日之下国の本国であるとした時、高皇産霊神に比定されるのは誰の事になるのだろうか?初代の加耶阿豉今、二代めの阿修あたりだろうか?

そして、北九州に渡来して日之下国の基を開いた邇邇芸命に相当すると私が想定したのは、稚松彦(孝昭天皇)だが、それはどの女君から派生したものか?

こんな疑問が湧き上がって来る。

大加耶(高霊伽耶)系図

   ・加耶世主正見母主

   1. 加耶阿豉今 悩窒朱日

       (内珍朱智・伊珍阿豉・正見母主次子)

   2. 加耶君阿修

   3. 加耶女主毗可(阿修妻・金官駕洛主居登妹)

   4. 加耶女君美理神

   5. 加耶女君河理

   ?.(錦林王?)

     ?.     己本旱岐

     ?. 嘉悉王(賀室王・荷知王)

   9. 異脳王

     10. (月光太子)

         ?.  道設智王(月光太子と同人か)

◯加羅の地名の由来

加羅の語源自体も諸説ある。加羅(伽耶)学の研究者として、故井上秀雄氏に続くのが田中俊明氏であるが、彼はカラは韓の事だとする。

田中氏によれば、従来の加羅の観念はほぼ慶尚南道(伽倻山の南側、洛東江の流域とその隣接地、いわゆる旧弁韓)であるが、実際には慶尚北道の一部都邑なども含むとしている。つまり加羅は辰韓の一部と弁韓のほぼ全域を合わせた地域の事とする。

しかし、辰韓や馬韓も韓なので、加羅=韓だとすると、この二つの措定は矛盾してしまう。

更に、韓をカラと読むのは(訓にするのは)日本だけである。

例えば、霧島連山の韓国岳とか宇佐の豪族である辛島氏(韓からの渡来系)とかが、韓=カラの証左となる名称である。

だが、これは加羅から渡来したので辛島であり、また加羅の地名に由来する何かがあったので韓国岳なのだと思われる。(もしかすると、大隅の国分に隼人対策で辛島氏が移住させられたが、辛島氏の居住地を韓国と見立てての、韓国岳であるのかもしれない。)

日本側ではカラは加羅であって、馬韓は後ほぼ百済、辰韓はその後新羅と認識しているので、三韓という概念はあっても、加羅が韓になる。つまり単に韓(カラ)とは加羅になるのだろう。

もっとも、金官加羅はそれ以前の中国史書では狗邪韓国と表記されている。だから金官に相当するのが狗邪だとして、加羅=韓だという人もある。

一説では、中国人から見て韓の地は蛮の地と同様に、蛮夷の住む土地なのであるが、直接的に蛮の表記を使わず、婉曲的(刺激を避けた)表示が韓だとする。

このニュアンスが分からない韓地の人たちが、自称でも韓人という表記を使い続けているに過ぎないというのである。

この延長上で、韓国岳の名称にも自虐的な意味合いは全くない。日本側も韓=蛮とは思っていないからである。

本邦でも、倭(ヰ)の漢字のニュアンス(矮人もしくは文身している人=委面)が理解出来ていないために、飛鳥時代まで大倭と書いてヤマトと読ませて国号としていたのである。勿論、熟字訓だから大倭の大がヤマで倭がトなのではない。ヤマトが大倭の国の中心だから、大倭と書いてヤマトとの訓が生じたのである。

漢の四郡の真番郡にしても真蛮だったが、それでは官吏を赴任させづらいので、蛮を番の字に変えたのだという。真番郡の場所比定には諸説あるが、後世の韓地と重なるという説が有力である。

また洛東江の河川名は、加羅の別表記「駕洛」に由来する。駕洛の東部を流域とするから洛東江なのである。

洛東江があれば、洛西江ともいうべき河川があるはずだが、それは蟾津江(センシンコウ:ソムジンガン)ではないかと思われる。大加羅王の荷知(嘉悉)が中国南朝の南斉に朝貢した船を出した多沙津とは、この蟾津江河口港の事だと思われる。

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「加羅國,三韓種也。建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:量廣始登,遠夷洽化。加羅王荷知款關海外,奉贄東遐。可授輔國將軍、本國王。」(南齊書)

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蟾津江は光原湾に流入しているが、この河口付近は韓国有数の干潟地域である。だが、古代には、未だ外航船が停泊できるくらいの水深があったのだろう。

だから、加羅(駕洛)は、伽耶山南方地域(とそこの部族と同系の伽耶山北方一部の都邑の部族民をも包含する地域名)なのだろう。

だが、この加羅もまた私説では、ヒマラヤ南麓の迦楼羅の飛び来る祝福の地であり、マギバラモンの司祭する“高マギが原”なのである。(決して高アマの原ではなく高マガ原なのだ)。高霊加羅の名もこれに因むものと見る。

後世、文明の発達した国=唐と錯誤して、唐=カラの読みも生まれたのだが、カラ天竺といい、唐天竺などと書かれたが、本来は駕洛天竺なのである。

駕洛の駕というのは、バラモン教のシバ神の乗る聖鳥・迦楼羅の事であるからだ。

(勿論カラスという名前は単にカラ=黒からではなく、加羅の鳥=スから来る。)

つまり駕洛とは、龢族の母なる地:原郷である蘇冨理(日之下)の事になる。

母なる地という意味では、任那も同様だ。だから任那加羅と呼び慣わされるのではないのだろうか。

因みに、辛味の元である葱韮類や芥子菜も原カラ=カラコルム〜ヒマラヤ北麓高原地帯が原産地なのである。

◯任那 地名の由来譚

日本では「みまな」と訓読するが、これは狭義の任那の、始祖王后来臨の聖地たる主浦 (しゅほ=ニムナ)の地名による---------これが井上秀雄氏の説。

この場合、主浦は主(ニム)なる汀(ナ)。

また同様な説では、いわば“妊那”で母なる地の意味合いだと言う。妊は、訓ではハラム(孕む)・ミコモル(身籠る)・ミマカス(身任す)。ミマナとは、ミコモ-ナもしくはミマカ-ナ。

それが主浦というのだから、後世任那の浦上八国連盟の一つになるのだろうか?

※「浦上八国」といわれるのは、「保羅・古自(固城)・史勿(泗川)・骨浦(合浦)」など連盟した八都邑の事。

これらは概して、任那の沿岸部に存在した。だがその内、主浦というのはどこなのだろうか?これが特定できない。

井上説では、主浦が元来の任那で、その観念が浦上八国〜加羅南部に拡張されたという事の様だ。

この考えでは、加羅北部は任那には含まれない。また金官加羅は、始祖王は大加羅の始祖王の弟だが、后妃は当然兄とは異なるのであるから、任那には含まれないということになるはずだ。つまり地理的には、洛東江中流〜下流になる。

もっとも金官加羅側の伝承では、主浦から来たのは始祖王の首露の母というのであるから、大加羅(高霊加羅)王と同母兄弟とすれば矛盾がなくなるのだが。(つまりこの説に立てば金官加羅も任那に含まれることになる。)

さりながら”任那“が意識される様になった頃には、その現地のか?もしくは倭国側からの逆渡来人の「日本」人が、加羅地域で対新羅戦争に従事し始めた頃以降の様に思えるのである。

そうすると突飛ながら、加羅(金官加羅か大加羅か)の始祖王の母后と言うのは、倭国の宇佐辺りから嫁入りしたのかもとも考えられる。それが豊の国の姫島の女神と都怒我阿羅斯等の伝説の元になったのかもしれないのだ。そうなると主浦=ニンナとは、豊前宇佐になって来る。それが宇佐でいう息長大媛に関わって来るのではないか?とも考えられないだろうか。

※今回は、考究しなかったが、同じ加羅諸国の中に多羅国がある。一説に、多羅は高霊加羅の兄弟国(同族)で、我が国の天孫族の元になったのは、この多羅国の王族の方ではないか?とするものがある。九州王朝のタラシ日子(足日彦)系の名号は、“多羅から来た日子”の意味では無いかとするのだ。更に、下級和族の多氏の多はその多羅に因むものではないか?という人もいる。

私は、この考えを全否定するものではないが、タラシ日子というのは、垂日子であり、天から降臨した日子の意味であろうと考えている。また多(意富)氏の多とは“負ふ”で、多氏の職掌である大生部(壬生)から来ているものと、過去の天孫族考で論及して来た。

◯金官加羅について

上述文で高霊加羅について考察した。また安羅については”日本府“との関わりで、前稿補遺43で言及した。残る大加羅と呼ばれた都邑である金官加羅について、ここで論考しておこう。

金官加羅の金官とは何か?金官加羅はソナカラと言うのが通説である。

ソナとは砂の事であり、実は砂鉄を意味するという解釈がある。砂鉄の匂いがする(金気臭い)ことを古語でスガスガシといったというが、このスガというのもスナ→ソナが訛ったものだという説である。

金官加羅は南韓の製鉄の中心地だった。また製鉄以前の精銅など、金属器や刃物や刀剣の製造地だったと思われる。

金官とは鍛冶の事であろう。韓(カラ)鍛冶の言葉があるが、金官加羅はその中心地であった。

月氏三族の中で探鉱冶金の職いわゆる大金冶(オオカヌチ)は白馬族工民の専門職であった。

後世に“唐金”と表記されたのは、青銅であるが、これは本来は“加羅金”であったと思われる。この場合の加羅は金官加羅のことである。

金官加羅の亡国後、倭国に亡命して来た弓月君ほかが畿内秦氏の祖になった訳だが、金官加羅は白馬族の国だったと考える。金官加羅最後の王だった仇衡が、あっさりと新羅に降ったというのも、民衆の殆どが商工民層(バイシャ)であり、軍事優先体制ではなかったからかもしれない。

異説として;

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沖縄の離島には、加羅に因む地名があるという人がいる。

(石渡古代史メモー地名の語源・沖縄諸島篇4 - 何から話そうか~龍の部屋

http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099322.html )

例えば、

渡名喜(となき)島(沖縄本島の西方にある島);

渡名喜島のトナキは、ソナカラ(新南加羅〈百〉)がソナカラ→トナキラ→トナキと変わった地名であろう。

渡嘉敷(とかしき)島(慶良間列島の島);

渡嘉敷島のトカシキは、ソカラ(東加羅〈百〉)がソカラ→トカラ→トカと変わったトカに、シキ(城)がついている地名であろう。

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これらからすれば、ソナカラとは、新南加羅か東南加羅の意味になるというのだろうか。

実際に中国の史書では、金官加羅を南加羅と表記しているものがある。

更に、平安京の宮内省に祭られていた、園神(そのかみ)と韓神(からかみ)の併称。そのからのかみ=園韓神というものがある。一般に、園神は大物主で韓神は素戔嗚だなどという解釈だが、園韓は金官加羅の事で、そこで祀られていた神だと説く人がいる。ソナカラ→ソノカラ。

また金官=ソナというのは、金がソで官がナの音符だという。これだと、ナは砂の事で、ソナは金砂=砂鉄という事にもなるのだが。

または金南加羅だろうか?

更に別の説では、金官加羅は中世からは金海(キメ)という都市名になっているのでソナは“金の汀”だともいう。これも金(黒金=鉄)の砂の汀という意味かとも思えるのである。

いずれにせよ、

・金官加羅はソナカラと呼称された、しかし

・その由来については、決定的な説明を得られない

という所であろう。

安羅は以前言及した如く黄牛族系の都邑らしい。クシャトリヤの支配した所である。金官加羅が白馬族=バイシャ系都邑。そして高霊加羅が龢族=バラモン系の都邑であろう。高霊加羅と安羅が、新羅の統一に最後まで抵抗したというのも、片やバラモン、此方クシャトリヤの国であり、容易にクシャトリヤ国の新羅には屈したくなかったのであろう。

大月氏国が複数の土侯国に分裂し最終的にはクシャトリヤのクシャン朝になる。そして近隣の白馬族の本拠であった于闐(和田)もクシャン朝の支配下に入る。

中央アジアの月氏バラモン国だった象雄国や蘇毗国は、新興の吐蕃に征服されてしまった。龢族は最早、四川省奥地の少数民族としてしか存在しない。

金官加羅がクシャトリヤ国家である新羅に併合され、加羅・任那も新羅に統一される。この結果、バラモン龢族に源を持つのは、和=日之下だけになってしまった。

(とはいえ、唯一残る本邦の天孫族だが、皇家を除く和族は、多氏・安倍氏・小野氏・穂積氏など臣姓氏族系は、かなり少数になってしまった。)

◯本邦と加羅の国際関係上の画期について

次の5つに整理される。

①(伝説的な)神功皇后のいわゆる三韓征伐の時代

②応神朝での葛城襲津彦の出兵とそこにまつわる伝承

③中国南朝の云う「倭の五王」の三韓への宗主権要求時代

④継体朝での任那4県割譲事件の時代

⑤斉明朝での百済復興軍支援と白村江海戦での敗北とその対応

この内、有史時代になる③〜⑤については、かなり明らかになって来ている。

問題は、①と②である。

まずもって①の神功皇后の三韓出兵などは、時代的にも国内政治上もあり得ない。

但し、この時期に、高句麗や新羅の伝承や碑文などで、倭人が出兵して来て百済や加羅と連合して、高句麗と新羅の両国と戦闘したという事象が存在した事の可能性は否定できない。それを、国内事情の説明理由の延長上の伝説として、神功皇后という人格を設定して、その事績としてフレームアップしたのであろう。

その神功皇后の皇子=誉田別(応神天皇)が、ヤマトの三輪王朝を打倒して、畿内に新たな王朝を開いたとし、正しく応神を神に匹敵する存在に祭り上げる為の露払いとして、その固有名詞不詳の母をクローズアップして神格化したのである。

(一応息長帯日媛という名称があるがこれは呼称でしかない。私説では日之下建=武内宿禰の妃である砧媛とその妹の豊媛のどちらかが神功皇后のモデル。後世の日本武尊東征神話の弟橘媛は三人姉妹の一人で、夭逝した。)

しかし、私が「天孫族考」で繰り返し論究したように、実際には、妃と幼い誉田別を抱え込んだ日之下建命(=日本武尊)が東征して、垂仁の5世の孫世代の忍熊命を打倒しての和族王朝の成立だったのだ。

記紀上では、垂仁ー景行Bー成務B・倭建ー仲哀ー香坂・忍熊/応神という一系が保たれる体裁に仕立て上げられているわけだが。

このような三輪王朝を打倒する過程にあった日之下国にとって、新羅を討つなどという発想が(息長帯日媛の託宣に)出て来るというのが唐突である。しかも記紀では、天孫族は日向で進化した種族であり三韓とは本来関わりが無かった筈だからだ。しかし、そういう矛盾点は無視しても、神功皇后の三韓征伐を記述せざるを得なかったのは、②の出兵の前提が何か必要だったからであろう。

②は、①に連続した時代である。そこでは、宗主権のある筈の新羅が叛き、同盟国である(同じく倭国が宗主権を持つ様に記紀では見せかけられている)百済や加羅の支援に葛城襲津彦(“武内宿禰=私説では日之下建と同一人物”の子)が派遣される。しかし、襲津彦は新羅の送った二人の美女のハニートラップに嵌まり、支援に行った筈の加羅を討ってしまう。追加で派遣された将軍たち(の説得)によって、漸く朝命に沿って(新羅と戦い)新羅の牽制にあって滞留していた亡命希望者の弓月君を日之下国に亡命させた---------というのが、記紀上での概略だが、この事件もそのディテイルが今一つ不分明である。

ハニートラップだったとは言え、支援対象の加羅を討ってしまうという様な失敗が起きるとは容易には考えられない。これにはもう一つも二つも何か今は伝わらない深い事情がありそうに思える。というのも、高霊加羅が日之下国の元の本国だとの事情を襲津彦が知らないというのは、未だ渡来後数世代しか経過していない日之下族=和族出身の襲津彦にしては不自然だと、私には思えるからだ。

朝鮮半島情勢としては、この①②の時代は、高句麗が強勢となり南進政策によって帯方郡が滅び、その後百済は首都漢城を失陥して南遷せざるを得なくなった。また東海側でも新羅も高句麗に寇掠されその将兵の駐留を受け入れざるを得なくなったが、ある時期反攻に転じ、百済や加羅とも連合して高句麗軍を押し返した。そして三韓の支援要請を受け、倭兵もこの三韓軍に加わっていたと三国の史書は(中世になってからではあるが)記している。そういう時代は、③④の時代まで続いていたのであろうか。新羅の統一意思は、高句麗の南進の前からなのか、それとも高句麗南進を食い止めて後の事なのか?これも一つのテーマである。これらがほぼ4世紀〜5世紀の事だ。

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金両基『物語韓国史』に依れば;

《三国時代の高句麗》

 高句麗によって楽浪郡・帯方郡が滅んだことは漢民族による朝鮮半島直接支配が終わったことを意味し、半島南部の韓民族も自立の動きを早めることとなり、馬韓は百済が、辰韓は新羅が統一し、4世紀後半からの朝鮮半島は三国時代へと移行した。三国時代には、高句麗の南下は主に百済に向けられ、百済は対抗上、中国の南朝や倭国(日本)とも結んだ。一方、新羅とは比較的友好関係を保ちながら、勢力を南下させていった。そのころ、朝鮮南部は加羅と言われ、小国家分立が続いていたところに、倭の勢力も進出したため、高句麗と倭は直接戦うこともあった。

《広開土王》4世紀末に登場した高句麗王の広開土王(在位391~412年)は、領土を南方に広げて高句麗の全盛期を現出させ、396年年には百済と朝鮮半島に進出した倭人(倭国)と戦って破った。その他、周辺に盛んに遠征して領土を広げ、その勝利を記念する石碑である広開土王碑が次の長寿王によって首都丸都城付近に建てられた。

《長寿王》414年に広開土王碑を建てた長寿王は、427年に都を国内城から南下させて現在の平壌に移し、朝鮮半島南部への圧力を強めた。長寿王は中国の燕と戦っただけでなく、靺鞨(後の女真)を討ち、さらに新羅にも出兵した。475年には百済の都漢城を攻めて蓋鹵王を殺し、漢江流域に進出した。そのため百済は都を南の熊津城に討つさなければならなかった。491年、長寿王はその謚の通り、98歳という長寿を全うして没した。その報せを聞いた北魏の孝文帝は、哀悼式を挙行し、「車騎大将軍大傅遼東郡開国公高句麗王」の称号を謚に康を贈った。

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またかなり明白に見える④の4県割譲問題も、「穂積押山が大伴大連や継体天皇と謀って、対新羅戦争の加羅防衛上の都合で、4県を百済に割譲して、後背への憂いを無くそうとした(4県の防衛を百済に任した)」とされて来たのだが、加羅史の研究が進み、「実際には4地域は百済が侵掠を進めていた地域であり、4県などといって、大和政権側の自由が効く被支配地の様に記紀では言っているが、実はそれら地域は加羅と連盟はしているものの各々独立小国であり、その主権を無視して、新羅戦略上の都合で、百済の侵掠を容認したものに過ぎない」という解釈にもなって来ている。

この事からは、応神5世の孫という男大迹王(継体)は、和族王家直系ではないので、和族のルーツが高霊加羅にあった事などは伝来されていなかった可能性が高い。実際、男大迹王は若い時に百済を訪問して百済王家に歓待されたという伝承もあるようで、継体の朝廷はほとんど親百済派になっていたと思われる。その中で、その4県割譲を難波京の客館にいた百済使に伝えに行くのを、物部大連が病気を理由にして不履行だったことの怪異を、かつて天孫族考の補遺で論考した。

歴史は、一方のサイドからだけ眺めていては、真実を誤解してしまう。

◯加羅の存在価値と鉄資源

何故継体朝は、4県(実は4小国地域)を百済に割譲してまで任那防衛に固執したのか。それは任那の鉄資源確保の為だった。

魏志弁辰条に“三韓の鉄産地は加羅で、倭・新羅・濊などもその鉄に依存している”事が記されている。加羅の内、鉄資源に富んでいるのは、洛東江流域と蟾津江の東部の間の地域つまり任那地方だったらしい。

上図は浦野文孝氏の「伽耶:古代朝鮮の鉄の王国」

https://note.com/fumitaka_urano/n/ncfbeb412bd4d

に記載のものであるが、この国名の色分けは、国域というよりも勢力範囲と考えるべきである。蟾津江河口の多沙の様な村邑国家などは、大加羅の使う港だったが、一応独立した国邑だったと考えられている。5世紀後半頃の事か。

従って、上古製鉄法に長けていなかった倭人側にとっては、加羅との交易は鉄を得る為に必須のものであった。当然ながら鉄製の武具の圧倒的な強さと、農具としての鉄製品が農業生産の拡大に必須であった事から、倭国政権は加羅との関係を維持強化しようとして来た。

継体天皇が、百済に割譲しようとしていた“任那4県”は、主に蟾津江の西側地方であり、ここを放棄しても良いという判断の基礎には、その4地方には鉄資源が乏しいからだったのではないか。つまり、そちらを百済に割譲して、百済の支援も得ながら、対新羅戦線に専従してでも(鉄資源の確保の為に)任那を維持したいと考えたのではないだろうか。

継体は大加羅の任那地域での優先的な地位を敢えて無視してでも、倭の派遣将軍のイニシアチィブで対新羅戦争での勝利を目指したのではないだろうか。

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