補遺45「濊族と倭人について」
天孫族考補遺45「濊族と倭人について」
◯濊族とは
古代の韓半島では、未だ漢の四郡設置前の先史時代、濊貊(即ち濊族と貊族)が混住していたという。
貊族とは北方系の狩猟民族で、濊族は中国江南系の海民の渡来者である。
本邦古代の縄文人と、後から渡来した海人族との関係に相似している。
貊族は、扶餘やツングースが南下して来た民族の系統であったと思われるが、但し韓半島南部の貊族は、北朝鮮以北の貊族とは若干違いがあったとも考えられる。
それは日本列島での縄文人の内、南九州での鬼界カルデラの大火山噴火の為、阿蘇以南の人々の殆どが死に、また堆積した火山灰の影響で、北九州も不毛の地となったので、九州の縄文人の相当数が、対馬海峡を越えて韓半島南部に移住したと考えられるからだ。
この為、韓半島南部の貊族は縄文人と混交して、北方の貊族とは、若干の差異が生じたといわれる。(だからと言って、“韓半島南部の民は縄文人の子孫であり、倭人なのだ”というのは間違いである。貊族と縄文人のどちらの方が多数であったか?などは分からないからだ。更に縄文人は、厳密に言えば倭人ではない。)
貊族の主力は扶餘族の高句麗に吸収されたと思えるが、その残余が馬韓に建てた国家が“貊残=百残“で、これが百済となった。これをクダラ(懐かしの国)と呼ぶのは、百済滅亡後我が国に亡命した東西漢(アヤ)氏や史人(フヒト;百済系史官)の旧母国に対する呼称であるという。
そして半島沿岸部には、江南地方から濊族といわれる事になる海民及び河川などの水上生活民(漂海民:後世中国でいう蛋民)が移住して来ていた。
濊族などと汚穢を連想させる表記は、中国人の異民族に対する卑字表現であり、元来は淮族であったと考えられる。
淮族とは、淮河の河口域から渡海してきた民族だから淮人と言ったのだ。
彼らは広い意味の倭人の一種である。
(倭人とは、鳥越憲三郎氏が考究された様に、江南〜東南アジア方面に居た諸民族で、中国人がそう総称したものである。その中には、タイ系の苗族のような山岳少数?民族のほか、揚子江流域から淮河までの内水及び沿岸地域の水上民や沿岸居住の漁民や、大河沿いの高地で耕作を営む半農半漁民などまで、多様な民族・種族が含まれている。それら種族のルーツも民族系統も同一ではない。)
“淮河河口”といったが、現在は淮河に黄海への河口というべきものは無い。というのも、今の淮河の本流は、下流の巨大湖沼二つを経由して、南京の南東方向で長江に合流しているからである。ただ、その巨大湖に沿って「淮河黄海水道」という放水路が設けられている。しかし古代の淮河は、現在支流の灌河という河ではないかともいわれ、これは黄海の山東半島に近い海州湾に注いでいる。しかしその南の地域に淮西港という港湾があるので、この北側の砂洲の小半島辺りが、実際の河口跡ではないか?などとの説もある。つまり現在では不確かなのである。
とはいえ、中世までは淮河の北が華北で、淮南からが華南なのである。一見長江が中国南北の境界だろうとの誤解が本邦にはあるが、南船北馬の熟語でいう南船の地域が淮河右岸から南なのである。また女真人の建てた国家である金と南宋の国境線がこの淮河であった。
時に、淮河は現在は“Huái Hé、ホワイ川”と発音され、中華人民共和国を流れる川の中で、長江・黄河に次ぐ第三の大河なのである。
しかし、“淮”という漢字は、「字源」に依れば、
形声文字。氵=「水」+声符「隹 /*WI/」河名{淮 /*wrii/}を表す字、
とされており。そも淮河を表示するために案出された漢字らしい。
その読みは、呉音 : ヱ(淮南子のヱ)、漢音 : カイ(クヮイ)、慣用音 : ワイとされるが、慣用音とは広東語での発音である。
(一方韓国では淮はホイと読む様だ。)
コトバンクで更に調べれば;
[語系]
淮はもと水の曲会集する意をもつ語であろう。淮・回huiは同声。(違)hiuiも、もとめぐる意の語である。會(会)huat、(運)hiunも、声義に通ずるところがある。
---------とあり、蛇行の多い川であったからという事らしい。
但し、「淮」の字義として、“1. 川の名、淮水。またその地に住む淮夷。2. 匯(かい)・囲と通じ、かこむ。”としている。
つまり、淮は河川の名とその流域に住む蛮夷の名であるとされる。
説文解字十一上に、“南陽より東南流して海に入る水名とする。古くその域に淮夷とよばれる夷系の族があり、下流に青蓮崗文化がさかえ、歴史時代に入っては金や織物などの物産があった。西周後期の〔兮甲盤(けいこうばん)〕に「淮夷は(もと)我が畝(はくほ)の人(たみ)なり」と、その産物を朝貢することを述べている。のち春秋期にわたってしばしば中原諸族の侵寇を受けた。〔詩、大雅、江漢〕〔詩、魯頌、水〕などに、淮夷を伐ち、その献捷のことを歌っている。”
それで書名の「淮南子」であるが、これは漢の封爵である淮南公が編纂させた物。その淮南公は、勿論淮河の南から長江までの地方を封土とした。この淮南地方は戦国時代までは「楚」と呼ばれた地域なのである。
という事は、淮夷は楚人に重なる事になる。楚と呉越が南蛮の範疇である。
ところで半島への移住ルートが何故淮河下流域からかというと、東支那海〜黄海の海流の状況から、推定淮河河口の辺りからでないと、黄海を渡る事が困難だったと思われるからだ。
黄海は夏季と冬季では、海流の様相がガラリと変わってしまうことが知られている。
図注
上図は現代の潮流図である。だが古代には、淮河が黄海に直入していたので、黄海西岸の潮流は現在とは多少異なっていたと考えられる。ことに夏季には、熱せられた淮水が沖合にまで流出し、黄海中央冷水塊にも影響がでたであろう。この為淮河河口方面から東に向かう潮流は現代より北寄りであったと想定される。今は淮水流出が無いので蘇北沿岸流が長江河口北部まで南下しているのだが。
江南の海民がもし朝鮮半島に渡ろうとしても、台湾暖流によって北に流されてしまう。ちょうど淮河あたりの沖合からは黄海を横断する潮流があり、これに乗らないと半島へは渡海しにくいのである。しかもその潮流は、韓半島南部の多島海を通り、その後半島東部で沿岸沖合流となって北上する。従って濊族の居住域は、半島南部多島海から半島東海岸になっている。東岸は濊として残り(後高句麗に吸収された)、南部はそのまま弁韓から任那の浦上八国などになったと推測する。
但し済州島古代に存在した“耽羅(たんら、ちんら、とむら)”については、馬韓や弁韓とは全く異なる習俗や建国伝承があり、海人族ではあろうが本土側と同一ではない様である。
またこの半島南部からは沖合を流れる対馬海流に乗って、南側の対馬や玄界灘に達する事ができ、この我が北九州沿岸の海人族も、濊族と源を一にした民族であったろう。つまりこの淮河から来た民族こそが倭人なのである。
倭をヰと読まず、ワヰと読んで、矮小の矮と同じだとし、淮河の民も矮人なのだとの主張をする人もいる。
そこで、倭についてだが、鳥越憲三郎博士の解釈通り、江南〜東南アジア方面に居た諸民族を中国人が総称したものである。淮族や苗族、壮(チワン)族、彝(イ)族、納西(ナシ)族などなどを総称して倭人というのである。つまり中国の考え方では「倭人」の概念はあっても倭族という単一民族は無いという事なのだ。
ヨーロッパ人というが、ヨーロッパ族という民族は勿論いない。古代でいえばブリテン族とかゲルマン族・ガリア族・ローマ族?・ギリシャ族などという諸民族がありその総称がヨーロッパ人なのである。
スラブ人などというのも総称である。複数のスラブ系民族がその中に含まれる。
(もっともゲルマン人も総称と言える。)
一方で、朝鮮や本邦では倭族という民族概念がある。
朝鮮では、(ある時期南韓に派兵された倭人がいたものの)基本的には、対馬経由で派兵が来るので、九州〜山陰などの列島(アキツシマ)に居るのが倭族だと考えている。本邦側でも、任那加羅に派兵してそこに倭人がいたとしても、そこは倭族の国ではなく、倭国とは大倭であり、後世は“大和”民族の国となったと解している。
しかし、天孫族考で述べて来たように、天孫族(和族)が東征して、列島を統一するまで、大倭は出雲族+弥生人(海人族=ワイ族+縄文人)の国であり、この時代の列島の西半分居住者が倭族であって、“そこの周縁には狗奴國(日下国)の様な“倭種”の小国家が展開している”と、魏などの三国時代までの中国人は理解していたのだろう。
しかし厳密には、弥生人までが倭人であり、出雲族や天孫族は倭人ではない。
大倭の後期は古墳時代前期となる。
またアイヌ人は、必ずしも東北〜北海道・樺太や北方諸島の固有民族ではなく、別の北方系民族が先住していたところに、縄文時代のある時期に、何処かから移住して来たのだとする人もいる。そして、古代アイヌ人は北日本の縄文人となったとされている。明治の初期に、開拓使判官に任じられた北方探検家の松浦武四郎が、旧蝦夷地の改名会議で、蝦夷地を北加伊道と命名することを提案した。その理由は、アイヌ人たちが自分達を”カイ“と自称していたから、カイの国という意味合いの提案だった。しかし、これは改名会議の議長だった旧肥前公の鍋島伯爵が「他の広域名(西海道や東海道等)に揃えて北海道とする」という裁定を下したのだ。
しかし松浦がいう様に、アイヌ人たちがカイ人を自称していたというのは、淮河のワイの読みが、カイでもある事を知ると、もしやアイヌ人は、北方系ではなく濊族と同じ淮人ではなかったかとも思えて来る。(委面の風習も双方にあるのである。)
そうすると、縄文人も元来先期到来の海人族=濊族だったのかも知れない。これは弥生時代までの日本祖語が南方系(メラネシア言語系)だった事とも併せて興味深い。この場合、縄文人と海人族は同系民族同士なので、言語的には理解し合えたかもしれないからだ。弥生時代の開始期までは戦乱が無かったと思われる事の説明が付くのではないか。
◯誰が倭をワと読み始めたのか?
ある時期から、現代に至るまで倭をワと読み、倭国をワコクと読んで和国と同じだとするようになった。
しかし、倭人と和人は同一ではない。
倭人はヰジン(もしくはワヰジン)であって、倭にはヰ(もしくはワヰ)の読みはあったが、本来ワの読みはなかった。
誰がいつ頃から、倭をワと読み始めたのかはよく分からない。歴史的に相当古い(つまり古代から)とする向きと、いや比較的に新しく新井白石あたりではないか?とする向きもある。
ワジンとは和人のことであり、天孫族の事である。
一方、倭(ヰ)人とは、先述の如く故鳥越憲三郎博士が考究した江南人とそこから派生した淮人であり、それが舟山群島や朝鮮半島南部に広がって;いわゆる海人族=半島側では濊族となった。これがアキツシマに玄界灘や朝鮮東海(日本海)を越えて移住して来たのが、本邦でいう安曇族などの海人族である。
従ってアキツシマ列島先住の縄文人は一般的理解では倭人ではない。海人族が、江南の稲作を持ち込んで、これが縄文人にも爆発的に普及し、かつ海人族と縄文人の混交が進んだことで、弥生人になった。
この弥生人の社会に、韓半島から五十猛族;後世いうところの出雲族が移住して来て組織化する事で、西日本各地に原初的な村邑国家が生まれた。
これが漢書地理誌に載る、「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす」という状況記述の状態である。
この段階では、本邦の倭人は、元来の海人族(倭族:ヰゾク)に出雲族の支配階級が乗り、更に農耕狩猟民の旧縄文人も含めてのものなった。
しかし人口的には、弥生人(海人族+縄文人)が大多数だったので、言語的には倭人の言葉が主流となり、大陸側から見ると倭人の社会だった。
この出雲族の支配する弥生人社会が発展して、西日本中心に小国の連合政治体制を成したのが三輪王朝である。三輪王朝は対外的には、“倭人の国”という体裁を継承した。
それがヤマト三輪山麓(=出雲)に王権が存在したヤマト大倭(ヤマトオホヰ)である。出雲族とは、辰韓にいた月氏黄牛族が、同族の斯羅国が南韓制覇に乗り出したのを忌避してアキツシマに渡来したものである。(もっとも一部は高句麗の南下を契機に半島を脱出し始めたとも考えられる。)
黄牛族は月氏の中のクシャトリヤ階層であったので、既に辰韓にあった時から階級社会であった。従って、黄牛族が渡来して、弥生人を支配することになり、弥生人(海人と農耕狩猟民)は非支配階級=新たなバイシャ階層になった。(大陸から連行した旧来のバイシャ;後世秦氏に合流して行く月氏白馬族出身者もいた。秦氏とはホータン族=月氏白馬族で、農商工民である。)
一方、九州には、弁韓にあった(月氏龢族の)高霊加羅などの分国;日下国があり、これが龢族=和族の国である。それが日之下武命に率いられて東征し、三輪王朝を征服して河内王朝が成立する。和というのは漢語ホゥワに依る音読みであり、訓ではナギ(龢)である。龢族というのは、月氏のナギブラーマン(波羅門)階層のことである。
和族がヤマトを征服しても、そのまま対外的には倭国の名を用い続けた。和族の国になった筈の河内王朝の王が中国南朝に朝貢した時も、倭王と名乗っている。
他方、ヤマトの別名だった“大倭”は、和族征服後は結局“大和”になって行く。オホヰがオホワになったのだが、共にヤマトとも読まれる様になった。
枕詞的にいえば、大倭のヤマトが、大和のヤマトになったということだ。
この為、“大倭=大和だから、倭=和という誤解”が生じたのである。
さりながら、この後世の誤解は、三輪王朝以降を王朝交代のない万世一系の体裁に押し込めるための記紀の詐術だったのでもあると考えられる。
中世以降、この詐術は、宗教界・政界(貴族層)・学者(知識層)の間に蔓延し、あたかも真実であったかの様になって行く。
またこの記紀の詐術は、圧倒的な覇権を東アジアに樹立した大唐帝国に対して、日本は日向発祥の独自民族国家である事のアッピールでもあった。
今流に言えば、日本列島は日本という国の固有の版図だという主張である。
◯濊族は汚いなどという差別観
「濊族は小水で顔を洗う。だから穢いので濊族だ。」などと差別的言辞を使う人がいる。しかし今まで述べて来たように、韓半島の濊族は日本の海人族も含めて、淮河流域から黄海を渡って来た海民や水上生活民であり、中国でいう倭人の仲間である。また考えようによっては、縄文人やアイヌ人もまた、古い淮族かも知れないのだ。
出雲族や秦氏や和族も含めて、倭族や海人族と混淆していない人間は、この日本列島には、ほとんど居ないはずだ。
和族の典型たる春日臣や多臣はそも海人族の頭領になっている。秦氏もまた豊の国の海人族と混淆していた。出雲族の三輪王朝も、海人系と言われる尾張氏との婚姻の伝承を持つ。第一和族の王家たる天皇家もまた、その伝説の始祖である邇邇芸命が海神の娘・木花咲耶姫との婚姻で、皇家の子孫を成しているのだ。
そして中世、皇家に独占的に后妃を送り込んだ藤原氏も、素を糺せば、対馬の浦部という濊族の係累の出身なのだ。
だから濊族を穢いなどというのは、自らの民族のルーツに唾する様なものなのだ。
中国の漂海民である蛋民も、陸上生活者から中共成立まで差別されて来た。中共では「彼らは、戦乱を逃れて水上生活を選ばざるを得なかった漢族であり、陸上の客家などとも同じだ」とされた。中国本土内水及び沿岸と香港や厦門なども含めて全中国で総計百万人近くも居たという説もある。しかしこれは、彼らを含めて“中華民族だとしようという共産党の政策”によるものであり、第一漢族の成立以前の秦の時代に既に水上生活者が居たという学説もある。それが、倭人の総称の内に含まれる淮人(古称の淮夷)なのである。
蛋民と呼ばれる様になった中世以降では、内水に生活するものを淡水蛋民、沿海部に生活するものを鹹水蛋民などと概念付けした。
中共政府の政策により1970年代から急速に減少したと言われる。沿岸部に公共住宅を作りそこに居住させる様にしたからである。
私は、蛋民が倭族海人の祖先だと言っているのではない。逆に淮人(淮河の民もその南の長江方面の水人も含めて、淮南の水人の総称として用いている)が、中世以降の中国では蛋民の素となり、古代では朝鮮半島の濊族や西日本の倭人海民となった可能性が高いと考えているということなのだ。
日本でも、1964年の東京五輪頃までは、東京湾も含めて、水上生活者は多数存在した。関西〜九州では、居住用の船を家船(エブネ)と呼んだ。瀬戸内〜九州沿岸の小港湾には多数の家船が浮かんでいた。
私の子供時代までは、(太平洋戦争後20年ほどは)家船の水上生活者は珍しいものでは無かった。見なくなってからはもはや凡そ半世紀ではあるが。
◯家舟海民は2系統あるとの説
この家舟は、西欧のハウスボートと同じく、船上で家族生活を営む海民である。
中国沿海部では、これを蛋民と呼んでいたのは上述の通りである。
だが、近世初期まで家舟には大きく分けて二つの系統があったという。
宮本常一もそのように主張していた。
①筑前鐘崎海民 潜水漁を行う。
出稼ぎには家舟に乗って行った。
熨斗鮑を作るために陸上がり(オカアガリ)しなければ
ならない。それで出稼ぎ漁地で枝村を作った。
※鐘崎は、福岡県宗像市玄海地区にある漁村名。
②瀬戸内の能地系統(能地、能美島)と西海の西彼杵や有明八代海系
主に船上から突衝具(ヤス、銛、鉾など)を用いて漁をする。磯見漁といい、船上から浅瀬を覗き見て漁具で突いて魚や鮑や栄螺を獲る。突漁(ツキリョウ)という。
基本的に船上生活だが、枝村を作ることもある。
商いの拠点であったり、墓地を求めたり、寺の檀家となる為など。
※能地は広島県三原市幸崎能地。元は竹原市側の忠海村に属した。畑岡川の河口港である。
「日本古代漁業経済史」の著者・羽原又吉氏は、前者を宗像系、後者を綿津見系と言っているが、これはちょっと認識に誤りがあると私は考える。
綿津見というのは、奈良朝時代に阿曇連稲敷が、国史編纂に参画した時に、様々な海人族の神々を纏めて綿津見神と称したのであるという(事になっている)。
元来の綿津見は、渡海を助ける海人族であり、歴史的には宗像七浦の海民が、大和朝廷軍の朝鮮への出兵に漕ぎ手として動員されたりして、どちらかと言えば、他の海人族よりも綿津見の性格を持つとされている。
即ち、“渡りツ海”の意味合いか? 渡海に巧みな海人である。
それに対して、漁撈を中心にした海民は一般には安曇であろう。西海〜松浦〜志賀島及び大三島を中心とした伊予の安曇である。安曇は、“あま(海)住み”の意味合いであろうから、単に海民という事になる。
そして、阿曇連稲敷の見解なるものは、記紀の天孫族日向発祥論に基づくものだ。しかし、本来天孫族が韓半島から渡海して来た時、それを助けて運送に当たった海人がいた筈だ。それが本当の綿津見なのだ。
私はそれが、上古に日下国時代の天孫族の多氏に率いられた水軍の基幹を為した海人だったと考えている。
しかもその核は小月氏の西域脱出の際に黄河を降った時の羊皮筏や舟を操った水夫に起源があると考えている。更にその元はタリム盆地の淡水漁民と隊商の渡河を商いにしていた渡し守達であった。これらは共に于闐(ホータン)人である。我が国でも中世までの大河の渡守職はすべて秦部(ホータン人の末裔)だった事に繋がる。
月氏の居た頃のタリム盆地は、未だ砂漠化の開始前で、大河が幾筋も流れ、楊柳の森林が広まっていた。渡河は浅瀬を馬で行くか、渡船を使うしかなかった。しかし馬は船酔いに極度に弱いので、隊商の渡船ではこの頃から既に駱駝が用いられていたのではないだろうか。また渡船としてだけでなく、荷物運送の舟運もあったと思われる。この舟運などを監視して徴税に当たったのも多氏では無かったろうか。
天孫族考で私は、白馬族=ホータン人の水夫や漁民に多氏が統制権を持っていたと考えたのである。(奈良時代になっても多氏と秦氏の友好的な関係が見られるのは、はるかタリム盆地時代からの両氏の付き合いに起因すると思うのだ。)
韓半島南部沿海の濊族を組織化したのは春日氏・多氏系の和邇氏であったが、それに綿津見としての組織的中核になったのは、秦氏系の水人だったと思われる。それらは三韓でも、大河の渡守職だったのであろう。南韓の大河である洛東江に輪中が見られる事から、三韓時代から多氏と秦氏の川勝の間に協力関係のあった証左だろうと、天孫族考で言及した。輪中は両氏の関与する水制工法の一つだからである。
ところで、鐘崎海民の得意とした熨斗鮑作りとはどういう意味を持っていたのか?
(伊勢の神戸になっている海民にも伝わり、またそれは安房にまで広まっている。)
☆熨斗鮑がどうして、熨斗として祝儀のシンボルになったのか?
乾した鮑をノシ刀で薄く八枚ほどに削いで、それを天日干しする。生乾きの物を取り込み、その後、何枚かを塩水を付けて貼り合わせて竹筒で押し延したものを作る。これがノシである。(延し→ノシ。)
貼り合わせを重ねて、長大な物が調整された。
「熨斗」は漢語で「ウット」と読み、「熨(熱でしわをのばす)」+「斗(ひしゃく状の道具)」、即ち、昔のアイロンである火熨斗(ひのし)を指した。現代中国でも、熨斗はアイロンの事である。
日本文化研究ブログには、熨斗について以下の様に記されている。
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祝儀袋などの右上にある飾りを「熨斗(のし)」といいます。
熨斗の紙の中に入っている、長細い黄色いものを「熨斗鮑
(のしあわび)」といいます。
もともと熨斗鮑は、鮑(あわび)を熨(の)して乾燥させた保存食でした。鮑の肉を薄く削ぎ、干して生乾きになったら竹筒で押して伸ばし、水洗いと乾燥、押し伸ばしを何度も繰り返して作ります。
鮑は、不老長寿の薬ともいわれ、長寿をもたらす食べ物でもあります。
そのため、古来より縁起物とされ、長寿の象徴としてお祝いごとには欠かせないものになりました。
神饌(しんせん・神社や神棚に供える供物のこと)として伊勢神宮に奉納される他、縁起物として贈答品に添えられていましたが、やがて簡略化され、鮑のかわりに黄色い紙が用いられるようになりました。
現在は、黄色い紙だけで作られた熨斗のほかに、黄色い紙を紅白の紙で包んだ熨斗、印刷で済ませた熨斗、鮑の慣習にとらわれることなく自由にデザインされた熨斗などがあり、いずれも、贈答品につける目印のような役目があります。
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要するに、鮑には長寿の縁起物だという。
Wikipediaには、以下の記述がある。
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「のし」は延寿に通じ、鮑は長寿をもたらす食べ物とされたため、古来より縁起物とされ、神饌として用いられてきた。『肥前国風土記』には熨斗鮑についての記述が記されている。
また、平城宮跡の発掘では安房国より長さ4尺5寸(約1.5m)のノシアワビが献上されたことを示す木簡が出土している(安房国がアワビの産地であったことは、『延喜式』主計寮式にも記されている)。
中世の武家社会においても武運長久に通じるとされ、陣中見舞などに用いられた。『吾妻鏡』には建久3年(1191年)に源頼朝の元に年貢として長い鮑(熨斗鮑)が届けられたという記録がある。
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武運長久の象徴とされた為に、熨斗鮑を作る鐘崎海民は、中世後期の各地の領主から歓迎されて、枝村を作りやすかった。
さりながら、この鮑熨斗の習俗が、海人族の中で、いつ頃どのような過程で誕生したのかは、分からないのだが、風土記に載るくらいなので、相当に古い歴史がある事が想像される。
鮑は長寿の薬として、秦の始皇帝に献上されたという伝説がある。
>> 古代中国ではアワビは石決明(せっけつめい)の名で
>>不老長寿、延命若返りの霊薬的食物とみなされた。
とネット上のアワビについての解説記事にある。
しかし、鮑は淡水では取れないから、この伝説は①始皇帝が沿岸部を含めて中国を統一した②始皇帝には徐福も含めて不老不死希求伝承があるのでこれに沿うもの、などと考えられる。だが、中国沿海で鮑が取れるのか?舟山群島や山東半島沿岸辺りなら取れるのかもしれない。とはいえ、秦の咸陽は海岸から遠いので、当然その鮑は干し鮑となる。舟山群島で鮑が取れるなら、始皇帝に贈ったのはそこの物か?
舟山群島はそこの岱山島に徐福が漂着したという。その後、伴った多くの老若男女を置いて、自分は東へ再舟出したというのだ。その後済州島を経由して日本に向かった事になっている。しかしその岱山島の東には群島の最果てである東山島があり、どうやら実際は徐福はここへ隠棲して果てたと考えられる。
浅学にして上古韓国に熨斗鮑を作る風習があるかどうかは知らない。古代の済州島(耽羅国)辺りはどうなのだろうか?そして加羅任那の浦上八国などではどうだったろうか?この辺りには古代に倭人が進出していたので、その倭人の海民が熨斗鮑を作っていたとしても不思議ではない。
もっとも鮑の餌は海藻なので、海藻の無いところには生息できない。(最近では韓国の陸上養殖物が西日本に輸入されている様だ。)
もし熨斗鮑が倭の海人特産なら、その任那への伝播が、倭族の日本府使臣存在の証拠になるのだが。とはいえ、帝国併合時代に入った風習かもしれないので、判定は慎重を要する。
◯中世後期の“新水上生活者”
水上生活者は、本邦にも古代から存在したが、中世後期〜近世初期に新たに加わった人たちも多数ある。
それは、戦国時代に、陸の拠点を失って、水上生活にならざるを得なかった人たちと、信長と石山本願寺との戦いの結果、一向宗の加太浦や雑賀の海民が、紀州に住むことが出来なくなり、味方であった毛利系村上水軍の勢力圏である備前以西の瀬戸内海に逃れて水上生活者となった者達がいたからである。
先述の能地系海民には、この時に加わったという伝承を持つものが多い。(とは言え、能地には自分達は平家の水軍や舎人の落人だとの伝承を持つ者もいる。)
しかし、戦国より以前、熊野水軍や根来衆などの海山伏が、瀬戸内や九州各地にまで舟足を伸ばしていたので、これらの天台系・真言系の両衆徒ゆかりの枝村は中世初頭から存在したと考えられる。
このような宗教者水夫と漁民との間には親和性があったと思われるが、この点にフォーカスをあてて研究したものには今のところ出会っていない。
だからここではラフながら、一つの研究上の示唆をするに留めたい。
まず、先述事情で、戦国末期に西日本に展開した家船海民は一向宗の門徒だった。
従って、天台宗や真言宗系の海民は中世以前からの海人族(阿曇や綿津見族)であった可能性が高い。現在では海山伏に関する知識が乏しくなってしまい、その研究者も希薄であり、修験道の学者でもよくは分からなくなってしまっている。
しかし、古代の多氏水軍系(鹿島や房総〜伊豆〜濃尾〜伊勢)や、瀬戸内の阿曇族で中世に越智水軍〜村上水軍となったのは大三島系海山伏であり、塩飽水軍となったのは児島修験の海山伏で、皆天台系である。また大山〜長門北部沿岸の海民は大山寺や島根の天台寺院系なのである。