天孫族考補遺45(続々)③“船史について”

天孫族考補遺45(続々)「淮人と倭人」③“船史について”

盆地諸河川が合流して大和川になる

◯船氏とは

古代に船氏という氏族があり、元来は百済系渡来人の王氏であったが、その内の王辰爾が、欽明朝に大臣蘇我稲目の命を受けて、”船の賦(ミツギ)“を数えて記録した事の功で、船史の姓名を賜下されたので、以後この一族は船氏となったという。

『日本書紀』巻第十九、欽明天皇14年7月4日条

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原文(句読点を付してある)

秋七月辛酉朔甲子、幸樟勾宮。蘇我大臣稻目宿禰、奉勅遣王辰爾、數錄船賦。卽以王辰爾爲船長、因賜姓爲船史。今船連之先也。

現代訳

秋7月4日(欽明天皇は)樟勾宮へと行幸された。蘇我大臣稲目は勅(ミコトノリ)をうけたまわって、王辰爾を派遣して、船の賦を数えて録(シル)した。そこで王辰爾を船の司とした。よって姓を与えて、船史(フネノフビト)とした。今の船連の祖先である。

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書紀には、この他に高句麗使が参朝した時、持参した国書を、宮廷官吏の誰も読めなかったのを、王辰爾が読めた事など、どうも書紀編纂の折に、各氏族の由来を申告させた際に、船氏が自慢げに届出たと思わしき伝承が記載されている。

また、『続日本紀』には「王辰爾の祖先は百済の貴須王の孫の辰孫王で、応神朝の時代に日本に渡来して、その太阿郎王が仁徳天皇に仕えた」とあるが、これも些か疑わしいとされている。

しかし、元は百済の王氏だったのが、船氏になった理由としては、上掲の書紀の記すような(王辰爾の)功と思われる船に纏わる何らかの業績があったのであろう。

先ず、その上掲の書紀の記事を考証してみたい。

そも話題の中心の船の賦(フネノミツギ)だが、和語で云うから分かりにくいのだが、「船賦」というのは、漢語であり、船に掛ける税を意味する。現代的な言い回しだと、船舶税とか船腹税に当たる。

古代〜近世にかけて、この船賦という語は、しばしば歴史的な記録には登場していた。「船舶賦」とも言った。そして、後世には、その賦役自体のみならず、賦役を掛ける役人の事も言ったらしい。

最も、近い例では、鹿児島藩(薩摩)の船賦が有名である。薩摩や南島に関わる書物の集成の中に、「道之嶋船賦」なる書物がある。道之嶋とは、薩摩が琉球へ通う海路の途中の島々=奄美諸島の主要5島を指して言った用語であるが、この奄美や琉球に通う鹿児島藩の御用商人の船に課した税(船賦)があり、江戸中期に薩摩阿久根の士分300石を持つ豪商・河南源兵衛が船賦に任じられたという記録があり、ここでは河南が藩の役人に代わって南島通いの大型貨物船に船賦を課したのである。

上掲「道之嶋船賦」は、その河南家が記録した船賦の詳細を記した物である。復刻版が「奄美史料集成」に収められている。

余談になるが、この河南源兵衛なる人物は、元は中国の明の人で、明末清初の混乱期に琉球へ来ていて、薩摩の役人に見出されて唐通詞をしていたのだが、能力を見込まれて薩摩に帰化したという。河南の出身だったので河南を名乗ったという。かなり数奇な人生で興味深い人なのであるが、近世史のマターなので、ここでは深入りしない。

船に掛ける税は、現代では複雑で、海事税法の専門家でないとなかなか理解できない。いわゆる船腹税は500トン以上の大型貨物船に課税するのが基本的なものらしいのだが、客船や、漁船とか小型船舶では、それぞれ別の課税方式やまた免税措置があったりするようだ。更に船は不動産の一種と見做して固定資産税の対象になったり、地方税として(母港では)法人住民税が課されたりもするのだろう。

更に、歴史的には、古代とか近世とかに、船賦としてどのような課税方式があったのかは、余り詳らかではない。

ましてや、古代に於いて、王辰爾が蘇我大臣に命じられて、課税したと云う船賦なるものの実態はよく分からない。

但し、船腹税方式なら、対象となる個々の船を特定しなければならない。つまり個々の船に、固有の船名(◯◯丸とか、何々号とか)や、標識(番号とか特有の印章や旗など)が付いていることが前提となるだろう。

古い書物の中には、船名として“波早”などの号名があったかの記事も散見するが、欽明朝のような上古に、全ての船に名前が付いていたとは到底考えられない。

とすると、船腹税ではなく、“関銭”のようなものだったろうか?即ち、大和川のある特定地点に、後世言う税関を置いて、そこを通行する船舶に(大小や目的に応じて)通行税を課したものであろう。これなら後世の税関機能と同様なので、計数が可能で記録を取り、徴税実績も残り、船賦の効能を示すことが出来たであろう。

但し、欽明朝では貨幣が普及していなかったので、物納方式であったろうと想像される。恐らく積んでいた物品などの一部を取り上げたり、また船賦用に何か特定の物品を用意させていたものか?

しかも、考えてみると、この船賦は公用の船には課せないだろうから、専ら私的利用の船を対象にしたものではなかろうか?

そうして考えていくと、この事から見えて来るのが、古代の舟運事情である。

その前に、最初に戻って、王辰爾が船賦を課したのは(関銭だとして)何処の通行を対象にしたものだったろうか?を考えてみる。

恐らく、都と難波の海(河内湖)を往復する;大和川通運の船舶に対してではないだろうか?

その手がかりとして、欽明帝が行幸したという「樟勾宮」(クスノマガリノミヤ)だが、これは今の橿原市の曲川地域の何処かであろうとされる。そこ曲川には先帝である安閑天皇の宮居があった。勾金橋宮である。(今も曲川地区に近鉄線の金橋の駅名が残る。)

そも安閑の諱は勾大兄皇子(マガリノオオエノミコ)であり、勾地域にゆかりの深い人である。

また欽明の皇后:石姫皇女は宣化天皇皇女で安閑の兄姪であり、欽明はその他に複数の宣化の皇女を妃にしているが、その内に実は安閑の皇女である者が含まれていたかも知れない。

いずれにせよ、欽明朝になっても勾地区には先帝の残した宮があって、(或いは皇太子時代の欽明の東宮でもあったのか?)これを欽明が離宮として使っていたのであろうか。

でその曲川だが、これは曽我川がこの地域で何度か蛇行しており、それに因む地名である。そしてここから北へ7キロほど行った、法隆寺の南東地域で大和川に合流している。

この事からして、船賦を課した関は、この曽我川と大和川合流点辺りに設けられたのではないだろうか?後世、大和川南岸の河合町に、対岸を結ぶ「御幸瀬ノ渡」という渡場があり、一帯は川合浜という荷降ろし場=川湊になっていたのだが、王辰爾もこの辺に関を設けたのかも知れない。

というのも河合の名が示す様に、この辺で大和盆地の主要河川が合流して大和川となるからだ。

図は河合町の広報頁から

◯古代の舟運について

一応、上の推理で、王辰爾の設定した徴税点は大和川の斑鳩の南辺りだとすると、そこをどういう船が通行していたのであろうか?

これを公私の別で分類してみよう。

A 公的な性格の船

1)租庸調を運ぶ船(納税運送船)  

※但し、大蔵の倉庫は難波京にありこれを蘇我氏が管理していたとされるので、桜井にあった都には、その都度必要な物だけ運び上げた、とは思われるのだが。)

2)公用船 貴族や官吏が公務で移動する為のものや軍兵の移動、造宮材運送船。

3)準公用船 皇族の移動用。行啓など。

4)貴族の移動船 宮居と在所の間の移動でのもの。(広義の通勤船の如きもの)

5)貢上船 (後世の供御人の)魚や宮中用度品の都への運送

-----こういった公的な性格の船舶運航があったと思われる

B 私的な運送船

主に商人の貨物船や、貴族の私的な遊興に用いたもの。

こうして分類した時には、当然Aの方は非課税だったであろう。

従ってBの私的目的の運送船が船賦の対象であろう。

そういう風に分析した時、蘇我大臣が着目し、王辰爾が実施方法を立案した船賦の課税が効果を出したのであるから、それが朝廷から手柄と認められるほどであった---------というのは、それほど欽明朝の上古の時代に於いても、商用船の運航がかなり顕著であったと推理されるのだ。

更にAの公的な目的の船の運航を加えれば、当時は大和川を上下する船が多数あったと考えてよいだろう。

そうすると、Aの5の一部の様に川漁師や海民安曇が貢上品を獲る漁民だった事を除けば、かなりな数の運送専業民(船頭や水夫)の存在が推測されるのである。

私が、古代に於いても、非漁業専従民の水辺民(海民や川の民)が、無視できぬ程の結構なボリュームで存在したと考えた所以である。

そして、王辰爾に船税官を命じたという稲目だが、蘇我氏は継体朝以来、大蔵の頭をしていたと考えられる。従って税収の増加を図ろうという政策だったというのは、十分根拠のありそうな話なのである。

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