補遺45(続)② “非漁業専業水人”
天孫族考補遺45(続)「濊族と倭人について」② “非漁業専業水人”
縄文人は丸木舟で、内海・沿海のみならず、黒曜石を求め伊豆七島辺りにまで漕ぎ出していたようだ。これらの人々には、漁労を離れて、交易に専従していた場合もありそうだ。しかし弥生時代の構造船を見ると、とても同じ民族内の発達とは思えない。大陸の海人族の文化移入だろう。
◯水辺生活民は漁民だけではない;非漁業専業水人・海人について
我が国では、海人族という時は、一般に漁民をイメージする。しかしほぼ漁民が中心と思われる安曇族以外に、水辺生活者には漁民では無い職種も存在する事に注目すべきだと思うのだ。
古代〜中世に於いて“水軍”と称される者たちの中には、必ずしも漁民ではないものも含まれていた。勿論、普段は漁民をしながら、いざという時に、水上戦闘者として働く者も多かったであろう。
しかし、いわば後世の職業軍人の如く、水軍の戦闘員や水夫としての働きが中心だった者も相当数いたと思われる。
それらの中には、(中世に於いては)宗教教団にも属していた海山伏なども含まれていたに違いない。
瀬戸内の塩飽諸島の海民は、元来は児島五流修験の海山伏の流れであり、戦国時代には塩飽衆という水軍として機能した。徳川家康に協力したことで、塩飽衆はその面々が、いわば徳川の直臣扱いとなって、(大名小名よりも小規模なので)“人名”と呼ばれたのだが、彼らは漁民ではない。この為、塩飽諸島には、戦国末期に雑賀を追われて芸州能地に移住した漁民の枝村が作られることを人名達が許可したのである。(江戸時代になって水軍の必要性が無くなると、塩飽衆は船大工や屋敷大工になったり、またその多くは操船技術を活かして船頭職となった。北前船の船頭の相当数が塩飽出身だった事が知られている。そういう状況になっても漁民になった者は建前上は存在しないというのである。)
また、大河の傍には、陸路の便の良きところ(街道筋の要所)に必ず渡守の集団が居た筈である。紀ノ川の下流、現紀の川市と岩出市の間を東西に流れる川に古来船戸の渡しという渡船があり、その南岸側に船戸という集落がある。これが紀ノ川の渡守の集落であり、南岸側にありながら、対岸側の岩出の飛地となっている。
畿内では淀川の江口の渡しとか、琵琶湖の堅田の渡しなどが有名である。また加賀には白山を開山した泰澄上人の一族であるという手取川の渡守がいた。
またこの渡守の中には、川だけでなく、瀬戸内などでは、島をつなぐ海の渡し守も居たに違いない。
尼崎の大物浦には、古くから渡海屋が軒を連ねていたという。(歌舞伎の“義経千本桜渡海屋の場”の舞台となった。)これは近世の舟宿の中世版である。
海の潮目や風向を見て待機する宿屋として、またその待ち時間の遊興の為の場を提供するものだった。
そして、中世以降に特に発達したのが、水運業・廻船業だった。これは海のみならず、河川でも舟運のあるところ必ず舟人がいたであろう。
だが古代に於いても、韓半島から北九州〜北陸の:日本海側には秦氏系と思われる商人が渡航して来ていたことが想定されている。(大黒天の袋担ぎ姿は古代商人の容姿だったという。)彼らは、無論雑貨や陶器なども扱ったであろうが、主には青銅や鉄などの金属材料塊を搬入し、水銀を輸出した。彼らに運搬の便船を提供した水運民が居た筈である。弥生時代のことであるが。
このような非漁業専業海民は、綿津見(渡津水)系と括ることが出来る水辺民である。
河川の非漁業専業水人は、古代に於いては、秦氏の川勝によって統括されていた。
実は川勝統制下の水辺民には、上古の員弁族系の水辺工夫も多数含まれていたと考えられる。土堤造りや河原内の水制工法に携わる専門の石工や大工・左官職人もである。また中世には水車作りの大工や河川の水を水道の便に供するための樋造り職も居た。これらも広義の川部である。
川部は中世になると、広域統括者の川勝が消滅したので、ほぼ天台や真言宗の修験教団の支配下にあったと考えられる。淀川水系や紀ノ川水系、阿波の吉野川水系、安芸の太田川〜江ノ川水系などはそう言える。その統制は、河川を出て周辺の海域にまで及び、修験教団の海山伏の統制下にあった。石工集団の穴太衆などもそこに含まれる。
日本海は津軽から若狭までが中世には津軽十三湊の天台系海山伏のテリトリーになっていた。安東水軍である。
戦国時代〜江戸時代は、沿海大藩の領主や幕府の船奉行や河川なら道中奉行や普請奉行の統制下に移る。員弁も黒鍬に姿を変える。
しかし、近世〜近代において家船に住まう水上生活者となると、彼らはほぼ漁民である。但し、彼らは定住の地付漁民に対して漂海民と呼ばれた。
漂海民に、筑前鐘が崎系と、芸州能地系の2系統があることは、研究者の羽原又吉氏などが明らかにした通りである。前者は古代安曇族の末裔であり、後者は近世の紀州雑賀衆漁民の末裔である。石山寺合戦の事実上の敗北で、石山本願寺が退転し味方した雑賀門徒は信長配下の武将の弾圧を受けて、紀州にいられなくなった。
しかし雑賀衆は、一方で加太神社の氏子でもあった。加太神社は、古代に於いて神功皇后と幼帝・応神天皇に随従した(との伝承を持つ)多氏水軍の拠点の一つだった。多氏は海民からは太氏と太の字で表記された。(天孫族考の海人族の章で述べた様に、多氏系海人族の海女は頭巾に太の字を書いて魔除けの呪いにしている。)太安万侶の場合も同様に太の字が使われている。多氏は紀ノ川の河口を少し遡った支流の貴志川合流点に船溜まりを持っていた。事実上大和朝廷の水軍基地であった。(先述の船戸の渡しのすぐ上流が貴志川合流点になる。)
先に(天孫族考補遺45前段で)、安曇族や韓半島の濊族は、淮河方面から渡来した(倭人の範疇に属する)淮人だったのではないか?との見解を提唱した。
しかし、上述の非漁業専業民=綿津見系水人は、必ずしも淮人ではないと思われるのだ。無論、淮人も、中国の戦国時代以来、割拠した呉越や楚などの軍兵の輸送に動員されたに違いない。しかしそのような場合は、あくまでも強制的に調達されたものである。
ところが、三韓や倭では、非漁業専業の水辺民が渡守の任を受け持った。
川漁師と重なる人もいたかもしれないが、観念的には別種の職種である。
三韓と言っても、新羅のあった東韓側(辰韓)には太白山脈が南北に縦走しているので大河はない。三韓の大河は、西岸馬韓側の漢江、白村江、弁韓の蟾津江と洛東江である。この流域の渡川舟運に当たったのは、濊族以外が中心だったのではと考えている。それは、多氏に率いられて西域から東遷してきた月氏系の水人だったと思われるのである。彼らは、月氏ホータン族(秦氏)の水人だった。
彼らは、馬韓や弁韓の各地に散らばり、恐らく先住の濊族を従属下に於いて、水運民として機能した。百済や加羅が中国南朝に朝貢する船もそういう舟人が操ったと考えられる。
また、韓地では白丁という主に川沿いに住む特殊な種族があった。
白丁の男子は、いわゆる竹細工集団であり、女性は我が国でいう白拍子の様な舞踊巫女集団だった。白丁は、出雲族の渡来に伴って山陰地方に渡来した。彼らが渡来した地が伯伎(伯耆)である。そこから東西に分巣した。中世の出雲巫女や出雲の阿国のような女歌舞伎や若衆歌舞伎の舞踊集団や各地の傀儡子集団の源になった。(もう一つ、秦族系の宇佐にも舞妓や傀儡子がいた伝承がある。)
白丁は、白拍子や梓巫女、瀬戸内の舟饅頭の様な売笑婦の源泉でもあったらしい。
彼らもまた東遷小月氏の秦族に属した最下層民だったと考えられる。
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世界大百科では;
[日本の私娼]
日本古代~中世の売春婦としては,《万葉集》に出てくる遊行女婦(あそびめ)をはじめ,浮れ女,傀儡女(くぐつめ),白拍子(しらびようし)などが知られているが,詳細には不明なことが多く,いわば私娼前史というべきものであろう。
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ところで、その竹細工集団を、サンカだなどと言っている人がいる。竹細工師らはサンカではない。竹細工集団は、原材料の竹の自生する川沿いに住んだり、それらを求めたり、竹製品を売り捌いたり、一旦売った物の修復のために里の人達と一定の交流があった。勿論人跡稀な奥山に住んだりはしていない。
龍田川の上流の生駒の里などは竹細工師で有名だが、奥山ではない。もっとも奥山に近い本村を持つのは、高千穂の竹細工集団だが、彼らは緑川〜宇土半島〜天草にまで商圏を伸ばしていた。
サンカは山奥に隠棲しているイメージがある。しかし、近世までにはそういう集団は実際には存在していた証拠はない。山伏などは相当に奥山に入り込んでいたが、彼らが木地師やマタギに遭遇したことの記録は多々あっても、正体不明の山の民などに遭遇したなどというのは、泉鏡花の幻想小説の中の話だけである。
山の隠棲者は、一つには強制的に(或いは甘言に乗せられて)鉱山労働などに徴用された朝鮮人労働者(従って韓国併合後の話になる)が、逃亡して山中の樵や山村の出作り小屋などを利用していたり、また日中戦争後は徴兵逃れで同様に山中に隠れた者がいたという事実は、各地に見られたようだ。
このような情勢下で、山中に隠棲してこれらの逃亡者を匿っている人間たちがいるのではないか?という疑いで想定されたのがサンカの概念であり、またその用語は悪名高い特高警察の造語である。
そしてこれを真に受けて、何人かの小説家が、事実確認や考証も欠いたまま、作中に登場させたことで、あたかも本当に山奥にサンカなどという山の民がいたかの如く一般民衆も思い込んだのである。
◯伊都国はどういう種族構成だったか?
魏志倭人条に出て来る伊都国;邪馬臺国の一大率が駐在しているという事になっている北九州の村邑国家のことだが、そこは魏志の記す処によれば、基本的には主要な民衆は海人系だったと考えられる。
しかし伊都(倭奴)国という名前は、辰韓伊西国に由来することを、過去の天孫族考で考証した。伊西国から渡来したのは五十猛=出雲族であり、だとすれば彼らは月氏黄牛族系の即ちクシャトリヤ(戦士階層)だったであろう。従って、伊都国の支配層には出雲族系が乗っかっており、彼らは西域由来なので冠帽子習俗を持っていたであろうことを、これも天孫族考補遺で詳述した通りである。
梁書東夷伝に書かれた伊都国の風景では、身分のある人は、胡人の帽子に似た被り物をしていたとされている。恐らく一般民衆の海人=淮人は無帽であり、伊西国から渡来した五十猛族は冠帽であったという事であろう。
奈良時代以降中世では、我が国の成人男子は、身分や職種に関わらず、烏帽子(と総称するが、微妙に異なる頂尖帽の類)を被っていた事が、各種の記録で明らかになっている。
(何処で読んだかは失念したが;中世の職人絵尽くし類の解説本辺りだったと思うのだが)一般に烏帽子を被る習慣があった中で、漁民だけが他の職人に遅れて烏帽子を被るようになったとの記述を記憶している。海人族は、時に海に潜る漁もしたので、烏帽子をかぶっていなかったのだろうか?しかし、他の職種の人々や市場での魚の販売や、魚を貴人の屋敷へ納める時などに、童子のような非人層と間違われたり、一人前に扱われたいとして、烏帽子を被るようになったと想像される。
この事は、支配層や商工民(秦族)が月氏三族(和族、黄牛族、白馬族)由来だったのに、漁民は倭人の出自だったからであろう。
それに対して、農民は多くが非月氏系だった筈なのに、早くに烏帽子を被るようになったというのは、農民の指導層には月氏の農民である秦族系が多く入っていたからではないだろうか?また弥生農民は、大多数が縄文人系であり、倭人=淮人=海人系は少数派だったのではないだろうか?
とはいえ、非漁業専業海民=綿津見系・水運民には、秦氏系海人がいた筈なので、こちらの海民は烏帽子を被っていた筈だ。中世の沿海水運でも船頭は冠帽子だった。(折れ烏帽子であった。)
一方、中世になってから烏帽子を被った漁民系は折れ烏帽子というよりも潰れ烏帽子というのに近い。上図の職人絵尽くしの漁民の烏帽子の場合は殆ど背後へ倒れている。
◯(脱線)日本人の冠帽子習俗、“ユダヤ帽埴輪”とは
この事は、過去の天孫族考補遺で詳しく述べて来た。
今ここで再確認してみよう。日本人の(中世に於ける)冠帽習俗;成人男子は烏帽子を被るという習慣を考える時、この習俗は実は決して我が国独特のものでは無かった事を認識しなければならない。
中世〜近世の韓国や、東アジア・中央アジアでは近代に至るまで、成人男子は皆、その民族ごとに独特の形状の帽子を被っていたのである。
昨今、主に関東の古墳から出土する埴輪に冠帽子男性があり、その長頭頂帽の形状が、ユダヤ人のある宗派男子の被る帽子;いわゆる“ユダヤ帽”に似ているために、「日本にもユダヤ人が渡来していた」などとの言説が出ている。
これは実に浅薄な誤解である。
先ずあの長頭頂帽は、ユダヤ教の中の一部宗派(超正統派)の教徒である人が被っているものだが、ユダヤ人一般が共通に被るものではない。
ユダヤ教も宗派が(正統派、保守派 、伝統派 、シャブタイ派 、改革派 、再建派 、カライ派 、フランク派 、今は無いセツ派など)多数あり、宗派によっては長頭頂帽ではなく、もっと低い円頂帽(我が国でいう山高帽のような帽子)を被るものもいる。
またラビという神職の被る帽子は(これも宗派による多少の差異はあるのだが)ロシア帽にも似た形状の輪状の帽子である。
またキッパーという(カソリックの高位神父が着けるのはカロッタという)皿状の円い帽子も被る。
これらを日本人は一括して“ユダヤ帽”などと呼ぶが、実際には古代中世〜近世・近代に至るまで、中央アジアの諸民族(しかもこれらの殆どがイスラム教に改宗しているのだが)の習俗の中で、往々にして見かける形状なのだ。
勿論、この事はそれらの諸民族がユダヤ教徒の帽子を真似たのではなく、むしろその逆で、ユダヤ教徒がパレスチナ(古イスラエル)の故地を追われて、各地に離散移住した時に、その亡命先の土地の帽子を取り入れて同調しようとして採用したものと考えるべきであろう。そもあゝ云う長頭頂帽は、東欧に広がっていたアシュケナージム(東方ユダヤ人)の超正統派信徒の被る物だ。アシュケナージムは、現イスラエルの過半数を握る勢力である。その言葉がイディッシュ語でイスラエルの国語となっているが、このアシュケナージムの幾ばくかは(殆ど全部という説もある)は8〜10世紀頃ボルガ河口辺りにあったハザール王国人の流れを汲むものだという。ハザールは西南のビザンチン帝国と東南のサラセン帝国の間にあってユダヤ教を国教としていた。キリスト教でもイスラム教でも無く!という中立の立場をとったのだ。
そして今俗にユダヤ帽などという帽子はこのハザール王国各地の風俗だというのだ。で問題?なのは、このハザール王国は古イスラエル人の建てた国ではなく、チュルク人の国なのだ。チュルク人の国は、勿論現トルコのほかブルガリアやトルクメニスタン・ウズベキスタンなど広範に存在する。ハザールはユダヤ教を国教にしていたので、東方ユダヤ人がある程度は集住していた可能性はあるだろう。しかしその割合は少数派だったらしい。この国は北から勃興して来たルーシ(ロシア)に圧迫されて縮小し、そこへモンゴルの西征があって滅んだ。一時イランに建国したセルジュークトルコのセルジュークは、そのハザールの王族の一人だったという。セルジュークトルコが西遷してオスマントルコとなり、それが現在のトルコ共和国になったのだ。ハザールの民衆はモンゴル侵寇を受け、西に逃れてポーランドやハンガリーからドイツ東部へ移住した。これがポーランド王国のユダヤ人優遇策に乗って西欧から来た原イスラエル起源の人々=西方ユダヤ人(セファルディム)の一部と混じって今のアュケナージムになったという。しかし今、パレスチナ自治区のアッバス議長などは、「アシュケナージムは実はほとんど全てハザール・トルコ人の末裔なので、原イスラエルの地=パレスチナに居住する権利はない民だ」と主張していて、今回のガザ紛争でも、その議論が蒸し返されているのだ。人種上の問題はさておき、もしあの俗称「ユダヤ帽」がハザールという中世チュルク人国家の風俗なら、日本の古墳時代の長頭頂帽埴輪を“ユダヤ人埴輪”などと呼ぶ事は出来ない。ハザール王国より我が国古代は数百年も前のことになるからだ。
中央アジアまで行かなくても、近世までの李朝(李氏朝鮮時代)でも、文官の非公務の時被る帽子も、ツバ付の長頭頂円帽である。
これも見方によっては、ユダヤ教の正統派の教徒の被るものとそっくりである。
だからと言って、李朝の文官は皆ユダヤ人の子孫だなどという荒唐無稽の言説には出会った事がない。
ただ偶然、過去の歴史的な風俗の中で、ああいう形状の帽子を選んだというだけである。勿論、李朝の服制官吏がユダヤ人の帽子を真似たものでもない。
世界の中の冠帽子習俗の異同などという服飾考現学的な専門分野の案件は、もっとグローバルで、世界史・世界習俗史・文化人類学などの深く広い教養知識を得て論ずるべきマターである。管見で断定してはならない。
ついつい、脇道の話題が長くなってしまった。本題の海民の件に戻そう。
◯海民の流れ;第三の流れが隼人
海人研究者の間で、阿曇系とか海部系などのほかに、第三の流れ(と言っても、そちらの方が実は先の流れかも知れないのだが)として“隼人”が挙げられる。
隼人は一般には縄文人の子孫だと考えられてきた。
日向神話では、隼人は海幸彦の末裔だとされた。天孫族から見て、隼人は海人族系だと思われたのだろう。しかし、隼人は安曇族からは同系民族とは見られていない。
京田辺月読神社の大住隼人舞
S字形紋の隼人の盾を持って舞う
縄文人も相当に舟での移動に長けていた事が昨今明らかになって来ている。魚食の習慣も含めて、沿岸部居住者は海人的な性格を持っていたと考えられている。
しかし、隼人は、天孫族日向発祥説とは裏腹に、南九州に蟠踞していたとはいえ、そこに独自に発祥・進化した部族とは思われていない。
彼らは、多分に“南島系の”海人集団、即ち南海からやって来た人々だと考えられて来た。
南九州には、かなりの程度海人だと思われる隼人と肥後南部に勢力を張った熊襲があるが、これらはほぼ同系部族だと思われている。というのは、隼人というのは、南風襲であり、熊襲とは球磨襲であって、共に襲族であると考えられるからだ。
そして彼らは、南島系と云うが、渡来は東シナ海時計回りだったと思われる。
(越南→台湾→)江南→五島・松浦→甑島・天草→不知火海→薩摩大隅→日向、
また→屋久・種子→薩南諸島→琉球列島→八重山の南下ルートであり、考古学的遺物分布によって、台湾〜八重山から北上して来たのでは無いと考えられる様になっている。
このルートに於いて、①江南〜周山諸島〜五島〜末羅・肥前外海までの西海地域と、②甑島や天草以南の西南海地域の内、後世隼人の勢力域となったのは、②の地域である。というのも、天草は恐らく海士狗襲もしくは海女草襲であり、甑島や種子島にも甑襲や多禰襲という南風襲(曽)が居たと考えられているからだ。
そうすると、安曇族のような南韓経由の渡来海人よりも、もう少し古い時代に渡来した淮人で、原住の縄文人と混住して南風曽になり球磨襲になったのであろう。
淮河の南岸(淮南)が、中国古代の楚の国だったが、南風曽や熊襲の襲(曽)も実は楚であった可能性さえあるかと思われる。
また①のルートは後世、伝説の徐福の渡来ルートとされた海路である。
隼人には、弥生人的な稲作民族の性格が感じられず、ずっと長く縄文人的な狩猟・漁業・採集民的な雰囲気が残っていた。
一方で①②を通して、捕鯨が(この特に①の西海諸島方面で)盛んだったが、これはこの地域のオリジナルの漁法ではない。近世初期に、紀州太地浦の捕鯨漁法が、五島や壱岐対馬に移流。銛打ちや捕鯨作業時の操船技術者も招請されて移住したのである。一見、西海の五島などが捕鯨の嚆矢の地と思われそうだが、実際は南紀が始源地なのである。(紀州漁民は遠州・相州〜房総にも移住。捕鯨も東へ伝わった。)
つまり隼人と捕鯨は結びつかない。
※隼人と奄美沖縄の漁民の関係
奄美沖縄の海人が、西南九州から渡来したいものだとしたら、隼人との民族近似性が想像される。共にDNAは縄文人や、アイヌ人との共通性が指摘されている。
しかし、隼人の漁法というものの痕跡が、近世の全国規模の漁民シャッフルで見えなくなってしまっている。江戸期には、薩摩は漁民といえども国域への侵入を制限していたというので、隼人的な漁法の残存がありそうだが、そうなっていない。というのも薩摩の漁師が他国へ行って先進的な漁法を学習して持ち帰るので、結局古式の漁法は消滅してしまったのである。
また沖縄でも、最も活躍していた糸満漁民などは、土佐清水沖などの宇和海辺りまで進出していたらしい。そして彼らも本土の先進漁法を学習していたという。
だから隼人の海人の独特性などは目下のところ究明できていない。今後の専門家の研究の成果を待ちたい。