第4章 小月氏の三部族の東遷

第4章 小月氏の三部族の東遷

この小月氏三部族には、羌族に同化した者以外、更に

東に移動して遼の地を越えて朝鮮半島に移住した者達

もあったと思われる。この朝鮮地域に移住した月氏族

の建てたのが(伝説上の辰国と)後の三韓であろう。

馬韓は白馬族の建てた都市国家が多く、辰韓は主に

黄牛族が建てた都市国家であり、月支国が葱茈族の

居た国であろう。そして馬韓や月支国や辰韓の諸都邑

国家には弁辰に分国を有していたものがあったと想像

される。

ところで、「小月氏三部族には、羌族に同化した者

以外、更に東に移動して遼の地へ達した者たちが

あった」と考えたが、それはどのようにして成され

たのか。

☆天孫族の黄河下流への移動について

匈奴の西征を逃れて、青海方面で羌族に混住した;

いわゆる小月氏の中から、黄河を降って東方へ

移住した部族があったのではないか?

これは、内蒙古のトクトから上陸し、山西省の

北部から張家口方面を経由して灤河→西遼河と

辿り、遼寧平原で辰国を形成したのだろう、

---------と推理した。

その際に、この民族大移動にも似た2〜3千人の

移住は、どのような舟によって可能になったのか

を考えたことがある。

しかも、この民族には、日本渡来後に員弁(稲部)族

となって造船氏族になった人々も居たので、まだ

砂漠化していない頃のタリム盆地の内陸河川で漁業

に従事したり、その為の舟を造る船大工も含まれて

いたのだろう、とも考えた。

だが、その後黄河上流域の(甘粛省方面の)習俗を

調べるにつけ、黄河の移動手段には、羊の頭と手足

を取り除いた丸々一頭大の皮袋を複数連ねて

フロートに用いる「羊皮筏(ヨウヒハツ?)」(中国音

ヤンピーファー)という筏があることを知った。

今では、これらは船外機を装備する合成樹脂成型船

に代わって来たのだが、ほんの数十年前までは、

ほとんどの河川移動は黄河流域ではこの羊皮筏が

使われていたらしい。

2000年以上の歴史があると言われ、河西回廊まで

来た西域の隊商も黄河を下るのに、この羊皮筏を

何隻も連ねて利用していたというのである。

これは蘭州から包頭までの中流域だけでなく、

山西省方面の支流にもこの羊皮筏で訪れる遠方の

商人が第二次大戦後にも暫くはあったと言って

いる中国人もいる。

第一、黄河を利用すれば野盗や蛮族の襲撃も逃れ

られるのだ。

羊皮筏の大きいものでは、20〜30トンもの荷物や

人を積載できたというのである。

そしてこの羊皮筏に用いる船材は胡楊であるという。

胡楊はかなり大きくもなりかつ柔らかで加工がし

易いだけでなく、弾力性に富むので、黄河の一部

急流岩礁地帯の通過に於いても、クッション性を

発揮して、載る人間や動物や荷物の安全性の保持に

役立ったという。

黄河を離れたのがトクト辺りと見当を付けて、その

際に乗って来たのが舟であったら、一度それを船材

にバラして、また灤河に至った時に組み立て直すか、

或いは紀元前後までは河北も未だ砂漠化せず森林が

広がっていた(特に灤河上流は松材が豊富だった)ので、

再度船団を組むことが可能だったのではないか?と

推測をした事もあったのだが、これがほとんどの

民衆が羊皮筏を利用したのであれば、トクトで上陸

しても、その筏は軽いので、牛馬の背中に載せて運ぶ

ことは容易だったろうと思われる。

攻撃性の観点から、恐らく全部が羊皮筏に乗ったので

はなく、戦士(クシャトリヤ)の一部は水主とともに、

木造船(ボート)にも乗って船団の前後と特に左側の

警戒に当たったことだろう。

無論、2千人が一度に船団を組んで移住したのではなく、

何波かに分かれ、例えば満月の明かりを利用したり

しながら、また一部の戦闘部隊は川沿いを馬で移動し

ながら異族の襲撃を警戒に当たり、途中に設定した拠点

を経過しながら、上陸目標地のトクトにたどり着くよう

な具合であったろうと想像される。

小月氏の東遷部隊の中には、古くからシルクロードの

商人として東西の交易に従事していたバイシャ階層で

あるホータン人も含まれていた筈なので、この人々は、

古来中央アジアから遼西の地域にまで商圏を拡げていた

だろうから、恐らく移住先(目的地)の情報を持っていた

と考えられる。

これらの商人が戦士と一緒に先発隊として途中の拠点を

設定しそこを繋いで目的の灤河上流にまで達したのだと

思う。

後世、遼の地は鮮卑や契丹族の活躍地になるのだが、

西暦紀元前後は、まだ匈奴の勃興期なので、遼寧の地は

比較的に安寧な土地柄であったと考えられ、それが

小月氏の一族に移住先として選ばれるに至った理由では

ないか?

大月氏は北方天山方面から、更に西にそして南へと移動

して、やがてクシャン朝ガンダーラ王国を建てるのだが、

小月氏は太陽崇拝志向が強く、ともかくも“日域”=東を

目指したのだろう。

渤海湾や遼東湾では、周辺の森林資源を利用した舟造り

が再び復興したので、羊皮筏の利用はその後廃れた

のか?(中国版Google百度によれば、清代まで黄海や

渤海湾沿岸にも羊皮筏が残っていたという。)

辰国の南には、山東半島から遼東半島へと渡ってきた

先住民の濊族があり、これは黄海を渡る舟を有した

いわゆる海人族である。やがて、燕の出身の衛満が

遼東へ侵出すると、これとの戦いを避けて、辰国は

朝鮮半島の南半に再移住する。こうして形成された

のがいわゆる初期三韓(馬韓、辰韓、弁韓)である。

三韓には無論先住民の海人族(濊族)が居たので、

旧辰国人は、度合いにもよるが海人族と同和して

いったと考えられる。馬韓などは、百残つまり貊族

の国がかなり含まれていたようだ。(高句麗は貊族の

建てた国のようなので、百済の王族は高句麗王族と

同根だと言ったのではないだろうか?)

三韓時代に至って、旧辰国の民は、かつての遊牧

の民ではなく、農耕漁労を中心にした温帯型の

民族に変質して行った。

そこではもはや、かつて羊皮筏を使って移動した

記憶も消えてしまったであろう。

しかし一時期ながら、後世の日本民族の中央アジア

からの移動に於いては、その羊皮筏の存在は不可欠

の要素であったのではないだろうか?

以下に羊皮筏についての知識を纏めておく。

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羊皮筏子、俗称排子。革袋とか革嚢とも言った。

黄河流域だけでなくかつては山東省の沿岸でも用い

られた。

>>可见,自汉唐以来,上自青海,下自山东,黄河沿岸

>>使用皮筏,经久不衰。

また清朝時代だが反乱の鎮圧の為の軍船に徴用したという。

>>清康熙十四年(公元1675年)二月,据守兰州的陕西提督

>>王辅臣判乱,西宁总兵官王进宝奉命讨伐时,曾在

>>张家河湾拆民房,以木料结革囊夜渡黄河,大破新城

>>和皋兰龙尾山;六月,王辅臣兵也造筏百余,企图渡河

>>以逃,王进宝率军沿河邀击,迫使王辅臣兵投降。

>>可见,至少在320多年前,兰州就大量使用皮筏以渡了。

       ※ 兰州(簡体字)は蘭州の事。

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現代中国人の何氏の投稿に、参考になる記述がある。

皆様、こんにちは!スマイル中国語教室のミステリーハンター

こと、何です。今日は私の故郷、山西省を含む黄河流域で

見られる、羊の皮袋を浮き袋にした羊皮筏子について紹介

させていただきます。

羊皮筏子とは羊を殺してから、頭と4本の足先を切り落とし、

毛を剥いて肉を取り出しから皮だけを乾燥させた羊の袋に

空気を入れて膨らませ、木の棒で繋いで作った筏(いかだ)

です。黄河流域は、樹木が少なく、木製の船が造れなかった

ために、羊の皮が使われるようになったともいわれています。

まさに人間の生活の知恵から作られたものなのです。

この羊皮筏子を使ってかつてシルクロードを旅する商人たち

は黄河を渡ったともいわれています。

膨らんだ皮を水につけ、棒の面に座布団を敷いてすわり、

黄河を下っていきます。貨物運搬用の羊皮筏子は、数百匹の

羊の皮を使うことで最大20~30トンの荷物を運ぶことが

できたそうです。

山西省は晋と呼ばれ、その商人は晋商と呼ばれていました。

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また「人民中国」というネットマガジンの記事も参考になる。

羊の皮を使ったいかだは、俗に「排子」と呼ばれる。

空気を入れてふくらませた羊皮の袋を、木枠につなぎ合わせて

造った水上運搬用の道具だ。

その歴史は、二千年前までさかのぼる。

羊皮いかだは簡単な構造でできているが、その造りはなかなか

凝っている。いかだに使う皮はまず、羊の頭のてっぺんから

爪先までをすっかり剥ぎ取る。次に皮を加工して、皮の四本の

足と両端の口の部分をしっかりと結いつける。その後、空気を

吹き込んで、風船のように膨らませて浮き袋とし、木枠に

くくりつけるのである。

皮の加工も手間がかかっている。剥ぎ取られた皮は、日光で

乾かし、毛をそり落とし、水に浸すなど三十六のプロセスを

経て、はじめて気密性や耐久性が保証される。こうしてできた

皮の値打ちは、一頭の羊にまさるという。また、いかだの木枠

は、硬くて弾力性に富み、腐食しにくい柳の木が使われる。

人や貨物の運搬には、羊皮の浮き袋十あまりをつないだ小さな

いかだで十分だが、大量の貨物なら数十か百くらいは必要と

なる。さらに、千ほどの浮き袋をつないだ特大のいかだもある。

それはもっぱら長距離用として使われ、いっぺんに数十トン

もの荷物を運ぶことができるという。

4、50年前、交通の立ち遅れていた甘粛省蘭州市では、貨物の

運搬のほとんどを羊皮いかだに頼っていた。水路は川を下る

いかだの群で、活況を呈した。

羊皮いかだは、そこでは「黄河」と並び称されるほど有名だった。

いかだをあやつる舵取りは、「筏子客」と呼ばれる。いかだを

巧みにあやつり、険しい浅瀬や急流の峡谷を越えて、千里の川を

下ることができるのだ。その腕の良さときっぷの良さで、彼ら

は人々から慕われていた。

交通が発達するにつれ、とくに1960年代から黄河の羊皮いかだ

は減少しはじめ、人々からも忘れられていった。しかし近年

では、蘭州市そばの黄河で羊皮いかだがよみがえり、新しい

観光スポットとなっている。昔日の風景を、再び目にすること

ができるのである。(2002年1月号より)

このような記述から、羊皮筏は十分に、民族移動の輸送手段に

なり得ることが分かるのである。

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