補遺46「穂積と鈴木に関わる疑問」

天孫族考補遺46「穂積と鈴木に関わる疑問」

◯穂積氏の出自について

以前から、以下の様な疑問を持っていた。

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穂積氏の別名の鈴木氏について

《従来の解釈》

穂積氏という氏族名があった(文字通り収穫した稲穂を積んだ様が穂積)

→穂積氏に勅勘を受けた者が出た

→穂積の名を憚って「鈴木」の氏名を用いた(変名)

変名の理由は、収穫後の稲穂乾燥の為の穂積の形状が、祭具の鈴器(神楽鈴)に似ていたからだと。(穂積氏が擬制同族の物部氏の斎く石上神宮に、斎官や巫女として従事していた頃に祭具として鈴器を使っていたと。穂積氏は鈴器との関係が深い。)

しかし実は逆で、元来は鈴器を用いる助祭氏族だから鈴器氏だったが、鈴器の形状が稲穂乾燥の穂積に似ていたので、鈴器氏を穂積氏に改めたのではないか?

私にはそういう疑問が生じたのである。

鈴は大陸の各部族が馬鈴に用いていた。天孫族渡来前から一般的な音器である。

それを手に持つ耒に取り付けた手具=鈴器として使う様になったのは、何処の民族であったのだろうか?

私は、これは月氏の日之下族(葱芘族・龢)の籥内に奉仕する楽団の引率者である多氏の配下に、パーカッションとしての鈴器を演奏する氏族があり、これを鈴器(氏)と呼んでいたのではないか?と考えた。

というのも大陸時代の和族は、稲作部族ではないので穂積氏という名は相応しくないように思えるからだ。

だからその鈴器氏が、天孫族王家に随伴して渡来し、その後稲作の普及した環境に即して、穂積に改名したのではないか?と考えついたのだ。

鈴木は直“鈴器”からではなく、鈴器→薄木→鈴木という連想過程からだという説も唱えられている。芒(ススキ)は葉がスス(薄い)の草木だからだという。

穂積氏が神職に任じられた熊野神社の在る紀州に於いて、穂積の形状が、中心の柱木に環状に稲穂を重ねた形であり、これは鈴器を拡大した形状であって、かつ中心に木の棒を立てたので鈴木と表示したものだというのが通説である。そして紀州では乾燥の為の稲穂積を鈴木と言い習わしていたので、勅勘を憚った穂積の一部が鈴木氏を名乗ったのだとされて来た。(稲穂積を鈴木と呼ぶのは紀州特有の方言だという。)

しかしそれでは、穂積氏の旧名:元来は何と言ったのか?が不明である。

ではこの氏族は、天孫族が渡来した後に臣従した新たな家来なのか?それにしては穂積氏の姓は臣である。という事は彼らが、大陸由来の天孫族の下級氏族である事を示唆するものだ。恐らく多氏の率いる楽隊=籥(ヤク)の中で鈴器やそのほかの鳴り物を演奏する楽人でもあり、また祭事の際には祝などの雑掌職を務めていたのではないかと想像する。石上や熊野の神職に任じられたのも、古来神事に携わる集団だったからなのだろう。

だから、列島渡来以前の穂積氏は実は鈴器を振る職の者だったのではないか?

そして稲作の盛んな列島に(九州北部に)天孫族に扈従して渡来した時、稲穂積(稲架=ハサ)の形状が鈴器に似ていたので、穂積の名に変えた、と解する方が自然なのではないだろうか?

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“稲穂積を紀州で鈴木というので穂積氏の支流が鈴木氏を名乗った”とされて来た。

しかし、穂積という名は、当然ながら稲作の収穫を前提にした命名なのである。

となると、その名は普通に考えれば、豊葦原瑞穂国に渡来後に付いた氏族名と考えられる。(或いは、渡来以前にも稲作の行われた地域に在住しそこで付いた名前という可能性もある。例えば、任那の洛東江流域にいた時とか?)

天孫族の下級属臣である穂積臣は、稲作地帯に来る前はどういう氏族名だったのか?これが長らく疑問だった。

穂積氏は、一時的には物部氏の擬制同族となり、物部氏の斎く石上神宮にも巫女などの奉仕の人材を出していた。巫女の持つ神具が鈴器である。

さりながら、その同族関係は何をもって始まったのか?

恐らく穂積氏が、元来鈴器を振る役割の下級バラモンだったからではないか?

バラモンたる和族の中で、籥(ヤク=宮廷内)に関わる神楽演奏集団は多氏に率いられていた。しかし、神聖な鈴器という特別なパーカッションは穂積氏に伝来する物らしい。

となると、稲作地帯以前の天孫族の居留地では、穂積でなく鈴器が元々の氏族名ではなかったかと考え着いたという事なのである。

※この籥とは、二つの禾標(両禾という)の中で;つまり宮中で奏でられる竹製の木管楽器である笛や笙などを含む楽隊を言う。例えば本邦の雅楽の如きもの。

そうなると、元は鈴器を振る人を出す氏族だった鈴器氏が、稲作地帯に入った後に、逆に鈴器の形状からの連想で穂積という雅名に変え、更に支族が、紀州熊野の神職を拝命してから、改めて鈴木と名乗ったという風に考えるのが妥当ではないかと考える様になった。

また禾本植物であるススキ(芒、薄)と鈴器の間には連想関係があるのか?

一般に、ススキが(或いは稲が)稔った状態が恰も鈴器の様であるから、鈴器→ススキという名称が生じたとされている。

(ススキの形状に似ているから鈴器だとする説もあるが、私は逆だと思う。)

但し、鈴木ではなく鈴器というと、これは漢字の使用を前提にしたものと思えてしまう。

もし、漢字の使用が前提なら、一般的には応神朝に漢字の使用が開始されたというような見解があるので、それ以前;即ち天孫族が渡来する以前には、無意味な違いだということになる。だから「鈴木が言うが如く“穂積氏の前名は鈴器氏である”というのもあり得ぬ議論になってしまう」との批判が出るであろう。

しかし私が言っているのは、漢字の器を用いるかどうかではなく、概念としての「器」=ツールを表す言葉としての「キ」の事なのだ。→これを論述すると、ややこしいので、ここでは飛ばして、文末に論述する。

ところで、その穂積氏は物部氏とは大水口宿禰という擬制共通祖先を持つという伝承を共有して、同族の様に振る舞った。

ところが、この擬制同族関係は、“継体朝に於ける任那派遣官?だった穂積押山が対新羅戦略の為に、継体帝と大連大伴金村の了解の下に、百済側にあるいわゆる任那の4県を百済に割譲した事について、もう一人の大連物部麁鹿火の反対を受けた事”を裏切りと考えて、穂積側から破綻させた、とされている。

元々末端とはいえ天孫族の下級にあった穂積臣と、出雲族系の物部連(しかも大連の家柄)が同族と主張する事に無理があった。

穂積押山の任那4県割譲問題は虚構なのか?

“4県などと恰も大和王権が任那加羅の支配権を有していたかの如き実態は無かった。これは倭国が過去に南韓の支配者だったと見せかける為の書紀の全くの虚構だった”というのが、「倭と伽耶〜朝鮮海峡の考古学〜」の著者である東潮徳島大名誉教授ほかの諸学者の意見である。

継体朝以前から、大和王権が南韓に進出して、加羅南部の任那に勢力圏を築いていた事は、考古学的な遺物によっても推理されている。倭人豪族の為の前方後円墳も複数築造されていた。

そしてその事を中国南朝に認めさせようとし、いわゆる六国諸軍事鎮東大将軍などの叙爵を受けた事は中国側の史書でも確認されている。

しかし、その実態は、倭国王がそう主張しただけで、南韓地域の実効支配をしていたわけではなく、“なんらかの理由で”南朝側が、倭国の南韓各国への宗主権の主張を容認しただけだと言われる。

この時期、南韓の加羅諸国の内の安羅に日本府という名の詰所が置かれ、そこに倭国からの使臣(派遣駐在官)と、在地の倭人系韓人・韓腹系倭人及び加羅諸国の代表に百済の代表も加わって、加羅の施政と対新羅戦術を協議したとされている。

(この頃、未だ本邦は「日本」の国号を用いておらず、対外的には「倭国」のままであったから“日本”府というのは、百済から見て日昇の方向にある地域を表現する名称に過ぎなかった。“東国”府とかいうほどの意味でしかない。)

従って、そういう状況下の任那にあって、倭国の領土であるかの如き4県などがあろうはずがない!というのが東氏他の主張するところである。

それを敢えて書紀が記載するのは、あくまでも「後世に百済の救援の為に白村江にまで派兵したことの理由を、唐に対して釈明する為のものだった」という説もあるのだ。--------?(東氏はそこまでは言っていないが。)

これは倭王武が、“海北を平らげること九十六国”と言った事とも符節が合う。(最近の説では倭王讃の上表文とも?)

言うなれば「倭地から渡海して南韓の数十カ国を平定した歴史があったので、百済の新羅による征服を黙視出来ぬから派兵したので、大唐国に刃向かった訳ではない」と弁明したかったのだろう。

この倭王武の主張は、書紀には記載されていないが、書紀の編纂者達は、南朝の史書を目にしていたかも知れない。

時に、倭王武の南朝宋の順帝への上表文にある海北九十六国の数だが、かつて三韓は辰韓・弁韓が各十二国、馬韓五十余国とあったとされるが、弁韓は金官国がリーダーだった時代に、伽倻山の神に同盟を誓った国々が四十国だったというので、弁韓十二とは主要な国であり、小国も入れるとその3倍もあったことになる。これに辰韓と馬韓南部の慕韓を入れれば、九十六国というカウントにも倭側なりの根拠があったのだろう。

さて、もし任那=日本(百済の東方にあった地域)が、実際は倭王の支配下にあったのではないとしたら、穂積押山の関わる4県割譲とは、一体実態は何だったのか?

押山が南韓(安羅日本府)に滞在していたのは、百済側史書にも意斯移麻岐彌(押山君)の名で登場するので、ほぼ事実だったろう。(書紀割注によると『百済本記』で「委意斯移麻岐彌」と表記される、とされている。)

しかし、割譲したという4県とは、先述東氏に依れば、(加羅を蚕食していたのは新羅だけでなく)西側から百済もそうであって、その4地域は実際は百済が勝手に侵略したのだという。そして(倭の代表は加羅諸国の要請で駐在していたのが建前だから)百済の併合を追認しただけなのだと言うのである。

それが、国内的には、“対新羅の加羅防衛戦略の一環として4地域の百済の占領を認めた事にした”のだと。

勿論この追認には、倭本国の大伴金村や、継体天皇の同意があったのだろう。

継体は百済の東城王やその次代の武寧王と通じていたからである。

だから穂積押山も継体朝の間は、責任追及される事は無かった。

そしてこの百済一辺倒政略は、第一次応神王朝直系の手白香皇女を母に持つ欽明天皇の時代になって、大連物部尾輿によって、金村と押山が糾弾される事になったのだ。この事の背景として、「継体と安閑の二人が同時に欽明のクーデターで弑された」のだと東氏等は言う。(間の宣化天皇の即位は虚構とする。)

※この安閑打倒のクーデターを一部学者は“辛亥の変”と呼ぶ。またいささか驚天の説として、宣化は欽明と同一人だとする者もあるようだ。

とすると、穂積氏の物部氏との離隔は物部麁鹿火に対してではなく、物部尾輿に対する遺恨からだったと言う事になる。

ともあれ、以前も私が推理した様に、背景に継体皇后の手白香皇女の意図が働いていたからではないだろうか?

この結果穂積氏は、奈良時代の聖武天皇の時代まで、不振の時を送る事になった。

恐らく欽明以降の推古天皇時代、厩戸皇子と蘇我馬子が物部守屋を誅滅するに際しては、穂積氏は本来は崇神派の筈なのに、反物部の側に立ったと思われる。

もし、この時未だ物部側だったとしたら、宮廷での存在を決定的に否定されていたであろう。尾輿の糾弾を受けた側にあった為に、尾輿の裔である守屋の側ではないと周囲からも認められていたのだろう。

そして乙巳の変と壬申の乱の両変事を無事に乗り切って元正朝で、首皇子(聖武)の即位推進の側に立って、(一時は元正帝の勅勘を受けたのだが結果的に)穂積の命脈は保たれた。だが、残念ながらその後人物に恵まれなかった。為に穂積本系は没落していき、支族の鈴木氏が熊野神社の運営法師や修験者として、全国に拡散していったのである。

(私の祖先は、熊野から派出されて天竜川上流の秋葉山寺に赴任した事で、遠州鈴木氏となって行く。当初は当然天台系だった筈だったが、南北朝時代に南朝方に与した事で、室町幕府の威光を恐れて、真言宗根来寺派に鞍替えする。戦国時代の根来寺の焼き討ち事件後は、新義真言宗は一時長谷寺が総本山となった。真言宗豊山派である。ところが、今川没落後、遠州を領有した徳川家康が、自分の禅師・仙隣等膳和尚を東海大僧録に任じた事から、曹洞宗へと改宗させられる。しかし秋葉山寺は、江戸期まで、学僧は曹洞宗だったが、大衆=修験は依然真言宗豊山派のままであった。事実上の兼修だったといえる。)

さて、“4県割譲”のテーマに戻る。

整理すれば、4県割譲ではなく、百済による4地域併合を容認しただけだっという事になる。この後も、“倭が百済に2地域を割譲した”と書紀ではいうが、実態は結果的に百済の西加羅の完全併合であった。

書紀では、親百済の立場から(執筆に当たったら史官が百済系の史人だったからでもあるが)新羅の統一鳴動での弁韓・馬韓の侵略というのがテーゼになっている。

そして倭国の派兵は専ら百済の要請だとする。(高霊加羅との関係を意図的に伏せている。)

しかし、高句麗の南下に始まる朝鮮半島の地域間の動乱では、百済も新羅も等しく拡張主義であり、結果的に統合の遅れた旧弁韓が草刈り場になったという事だ。

そして、結果的に、南朝を滅ぼし、高句麗と戦って来た隋の後継である唐と結んだ新羅が南韓を統一したのである。

一方、百済を支援して来た倭国は、壬申の乱で百済を支援し続けた近江朝を打倒した天武朝になると、親新羅に転じていく事になる。それは、唐の傀儡化・属国化を嫌って、方針転向して唐側に抵抗した新羅が当面唐との緩衝地帯になり得たから、倭側からすれば、唐の直接的な脅威が遠のいた為である。

そして、近江朝まで使い続けて来た「倭国」の国号を、支配権を有する和族のものとして、(自称の日之下国を改めた)「日本」と変えたのである。

ところで、継体朝(私はこれを第二応神朝と呼ぶ)になると、(もっとも記紀の上であるが)日本=和国=日之下国のルーツである大加羅(高霊加羅)との関係は薄弱化していった、というよりむしろ記紀では無関係を装っていると思われる。(高霊加羅との交渉は敢えて記述を回避したのだろう。)

高霊加羅とは、タカマガカラである。高天原の原像の一つである。高霊の霊は元来ミトラ=太陽神の事にほかならない。和族同様に、日辰崇拝が祭祀の中心だったであろう。

その王は、元は馬韓の一国である月支国の王族の出であったと思う。月支国は馬韓の一国でありながら、辰韓十二国全体の王(辰王)であったという。

しかし、月支国王は、馬韓の主要国の王達の推戴によって選ばれたという。

神聖ローマ帝国の選帝侯制度の如きものか?

また遊牧民族のクリルタイで大汗が選ばれる仕組にも似ている。

高霊加羅は月支国の分国である。百済が馬韓の統一に乗り出す機運の中で、弁韓に分国を建てて移住し、一部は渡海してアキツシマに来住した(=筑紫から日下国と成る)

本国の月支国は百済の馬韓統一の動きの中で併合されてしまった。百済(元は百残〜伯済)の王族は、貊族〜扶餘系なので、月支国の和族王に元々臣下の意識は持たなかった。月支国は後世の忠信北道天安あたりにあったとされる。

高霊加羅の王冠は、百済と同じ草花冠。これは馬韓系の都邑だったからだろう。

加羅地域の王冠は草花冠

百済式の草花冠(右下は法隆寺の救世観音の宝冠)

一方、金官加羅など新羅に近い古墳からは新羅系の出字型冠が出土している。

我が国では西日本では馬韓系、上毛地域には新羅系の王冠が出土している。新羅系というが、出雲族も辰韓系(黄牛族)なので、首長は“いうところの新羅系王冠”:出字冠を用いていたと考えられる。

任那の墓制は方墳や円墳だが、甕棺墓である。後期には倭国人の流入で前方後円墳も築造された。円筒埴輪のほか人物や鶏形埴輪も発見されている。

任那の老迪(ノウチョク)に須恵器や埴輪を焼く集団があり、これが河内の陶邑にも移住して来ていたらしい。

これは河内王朝時代になってからの事である。

任那の前方後円墳は確認されたところで14基を数える。

この数の多さから、韓国の一部学者から、“前方後円墳の起源は南韓にあり、それが倭国に伝来した”などという逆説を唱えるものも出てきた。しかし、南韓のそれらは、5世紀末から6世紀前半に築造された物であり、倭国の方は3世紀末から開始されて7世紀に終了している。従って、前方後円墳の歴史からすれば、南韓の方は古墳時代後期に属する時代に相当する。他の出土物などから総合して、南韓の前方後円墳は、いわゆる“倭の五王”時代以降、相当数の倭人が南韓に移住していた事の証左である。しかも、古墳を造る労力の動員の観点から、南韓には、倭の地方豪族の首長クラスが移住し、また相当数の被支配者(倭韓双方の)が従属していたと考えられるのである。また築造期は数十年に亘っている事から、恐らくそれら倭人首長は3代程度には定住していたと考えられ、その二世からは韓腹(即ち韓人の妻)の子であった可能性が高い。

また同時に築造されたこの地域特有の方台形墳と、ほぼ同域に築造されており、かつ石室の構造や使用した石材なども(それら方墳と前方後円墳が)共通している事からも、この地域に集住していた倭人豪族の支配が定着していた事が窺われる。

また、この前方後円墳の分布域は、広義の任那かも知れないが、地域的には蟾津江より西側の榮山江流域の馬韓地域、東潮氏流に言えば慕韓に相当する地方である。従って、ここの倭人首長は、大加羅の統制下にあったものではなく、大加羅と百済(熊津〜扶餘時代)の緩衝地帯に入り込んで、どちらかと言えば至近でより強勢な百済王に臣従していたのかと想像される。

後世、この韓腹の子孫の田辺史氏が帰国して元の母集団(?)である上毛野氏に帰属して行った者たちがいたらしいことは、過去の天孫族考補遺で指摘した通りである。→ 天孫族考補遺26「上毛野氏に関わる謎と藤原不比等」

書紀では、高句麗によって首都である漢城(漢江河岸;現代のソウル近辺)を失い、南韓の熊津に遷都したのを、雄略天皇が百済に“久麻那利”の地を与えた事にしている。

これもまた、旧慕韓全体が倭国の版図に入っていたかの様に装うものだ。

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『日本書紀』雄略天皇21年(477年)春3月条に「天皇聞。百済為高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其国」

汶洲王とは、文周王のことである。

『三国史記』百済本紀・文周王即位年(475年)10月条。

『三国遺事』王暦・文周王条には、「移都熊川」とある

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とは言え、この熊津付近には、倭国に多い横穴墓が多数存在するので、この辺りまで倭人が進出していたと想像される。しかしそれは倭国王の領地になっていたというのではなく、百済王の了解下で、倭人の居留が容認されていたと考えるべきだろう。もっと正確にいうなら、いまだ百済の国域ではないものの既に勢力圏には入っていたという事であろう。

☆穂積(鈴器)氏には3流があったのでは?

従来、穂積氏の姓は臣であるので、和族王家の直臣であり一つの系統しか無いと思っていた。しかし穂積氏が鈴器氏であり、下級バラモンとして神祭具の鈴器を扱う職種であるとしたら、出雲系や秦系の王族に奉仕する分流もあったのではないか?との思いに遭着した。

というのも息長氏に、出雲系(黄牛族系)や秦系(白馬族系)があった如くに、鈴器(穂積)氏にもそれら両系に従属した分流があったのでは無いだろうか?

とすれば、出雲系物部氏との上古に於ける擬制同族関係や、宇佐の息長氏の女婿となった鈴器氏との間に、息長大姫即ち息長大足日媛(=大橘媛)やその妹である弟橘媛が生まれ、その父親は穂積臣の祖であるとの伝承の理由の説明も付くのである。両橘媛の夫は共に日之下武である。

息長大足日媛が後世に神功皇后の諡号を撰進された;書紀で仲哀の皇后とされた気長足姫その人であろうが、この媛については別稿で再検討をする積りである。

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ツールを表現する「キ」という言葉(並びに概念)について

偶々、この概念を表示する漢字として「器」の文字を流用している。さりながらこの器という文字は、本来はウツワという訓読みで表される概念の仮託であり、それは原義的には“ウツ+ワ”であり、ウツとは空・笂(ウツボ)・窪という概念でそれに輪・環なのだから、言い換えれば「環状になっていて内部が空いている」物を指し示すのである。

だから土器(土師器)・陶器(須恵器)・花器などは正しくこの器(ウツワ)に該当する。

しかし、武器・楽器・音器・祭器・礼器・神器(ジンギ)などは、必ずしも中空の物体・容器には該当しない。これは器(ウツワ)から発展して、もう一次元上の概念であるツール一般を表示するキである。キは木製もあれば金属製や石製も含めての言葉である。(木器とか青銅器・鉄器など)

甑(コシキ)という言葉などは、単なる容器の概念を超えて、ある特別の用途の道具としての概念を表す物に発展している。

更にここから発展して、もう少し複雑な道具も器の中に入っている。例えば、天測器とか日足器(太陽の影の長さを測る道具)である。これがもっと複雑な機能を示す物になるとそれは、器ではなく儀という。

(天球儀などがそれである。)

古代には無かったが、火器という武器はそういう;より複雑な器である。

但し、注意すべきは、カ行動詞の連用形の体言化でのキと混同してしまいがちな事だ。(浮キ、お敷キ、スキ=鋤などである。もっとも、鋤の場合は、“鋤く器”なのかも知れない。)

もう一つ付け加えれば、キの甲乙音の違いがある。

上代には器はキの甲音、木は乙音だったので、漢字が導入される以前にも、鈴器と鈴木は発音上も違い、また聞き分けられていたのだ。なお、穂積の支流が鈴木を称するようになった頃には、既に甲乙音の差異は消滅していたと考えられる。とはいえ、万葉集などの上代文献には、器の文字は出てこない。(つまり万葉仮名には器は使われていない)

乙音キは、現代人には理解できないものだが、kii だという人がいる。木(kii)の国だから、令制の“紀伊”の表記が生まれたのだとも解される。ただ単に好字二文字表記というだけでは無いのだろう。イ段の語は、関西弁で*ii と発音するものが、大略乙音の名残かとも思われる。陶器とか冬季は関西弁でもtoki であってtokii にはならない。挿木とか植木の木はkiiと聞こえる。

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