補遺48「四隅突出型墳丘墓を造った部族は?」
天孫族考補遺48「四隅突出型墳丘墓を造った部族は?」
今の島根県と鳥取県を中心に弥生時代の後期始め頃から、
四隅突出型墳丘墓と今日呼ぶ(方墳の一種とも思える)特殊な墳墓が造成された。これは後に越中にまで展開を見せており、神話の大国主の活動域とも重なりを持つと言われている。
そしてそれは弥生時代前期までの縄文人や倭人の葬送形態と比べるなら、明白に規模の大きい物である。
この事から、この墳墓の造成には、従来に比較して格段に人手がかかるので、この段階でこの部族に階級が存在していた事が推測される。
そして、縄文族と海人族には階級というほどの身分差が無かったと思われる事から、階級を有している民族が(大陸から)渡来したと推測せざるを得ない。
また一般に墳丘墓の場合、最も単純な円丘→方形→台形といった方向で発展すると思われるので、先出雲には弥生後期の円形墳が少ない事から、四隅突出型墳丘墓がいきなりそこで創出されたというより、渡来前には円形や方形墳丘墓などを造成していた部族が、渡来後に何らかの葬送思想の変化によって四隅突出型方形墳丘墓に移行したのではないかと推測されるのである。(もっとも古墳時代後期の6世紀には、大規模な円墳も造成されるようになった。出雲に前方後円墳が造られるのと前後する時代である。またその頃、出雲地方では特有の前方後方墳も造られている。)
では、その人々は、大陸側の何処から来たのか?
これを推測させる手掛かりは、出雲風土記にいう国引きの際に、「根の島」(後世の島根半島)が何処から引っ張られたのかの説話にヒントがあるのかと考える。
日本海に向かって、島根半島の日御碕部分は新羅から、中央部が隠岐の島前及び島後から、そして右側の美保岬側が能登半島から(切り取って)、八束水臣津神が大山と三瓶山に綱をかけて引き寄せた事になっている。
能登半島には大国主に関わる伝承が残るので、島根側から能登へ移住した一族があり、それが交易のために旧地へ来往していた事を暗示しているのかも知れない。(もしくは、辰韓北部から対馬海流に流されて外能登へ漂着するルートは考えられるので、そこから島根へ再移住したとか?。)
隠岐を経由した部族渡来があったであろう事は、辰韓北部の牛頭方などから東海の鬱陵島経由で隠岐〜島根への渡来ルートがあったとの説がある。また新羅(というのは後世の土地感覚での呼称であり、新羅による統一前の辰韓)から直接島根方面へ来着するルートはあったであろう。
四隅突出型墳丘墓の分布では、能登半島自体からは発見されていないが、能登を挟む越前と越中に発見されているし、隠岐の島後にも存在するようだ。
※福島は会津だがこれは方形周溝墓だとの異見も出ている
いずれにせよ、考えられるのは辰韓に居た(が、斯羅国の統一戦役を逃れて);もしくは斯羅国の伸長前にも、ごく一時的に辰韓に居てその後、永住地を求めて山陰へ渡来した部族があったのではないかと云う事である。
これはある時期に一波だけ来着したのではなく、何波かに分けて渡来したのだろうと思う。
そしてこの渡来地も実際は複数あったと考えられる。
ここで厄介なのは、この現在島根県になっている地域を一般に出雲地方と呼んでいるのだが、私は「出雲」というのは元はヤマトの三輪山麓にあった地名で、そこに居た宮向臣淤宇宿禰が、大和王権が杵築大社を造成して三輪大神=大物主を、日本海側の各地の複数の開拓神を名寄せして大国主として祭り上げた時に、意宇郡の郡領と(新たに作られて名前を移された)「出雲」の国造を兼ねて赴任させられたのだと考えて来た。
従って後に出雲と呼ばれた地域は、元の名は不明なので“先(プレ)出雲地域”とでも呼ばなければならない。そして先出雲東部が意宇郡に、西部が出雲郡ほかになった。
そして、先出雲西部の杵築大社に大物主ほか(八千矛神とか葦原醜男や大穴持など)が大国主の名に統合されて遷御されたのであるが、同時に東部の意宇郡にはヤマトから見ての大ヤマ(熊野)にあった熊野大神が勧請された。
一方で西部の飯石郡の須佐の故地に祀られていた須佐男が、熊野大神の異名同神だとされて、東西から出雲大社の大国主を挟み込んでいる構図になっている。更に中の海から日本海に抜ける美保ヶ関に国譲りを大国主に勧めたという事代主が勧請されたのである。
従ってこの須佐神社・出雲大社・美保神社・熊野神社という配列の中で、当地プロパーなのは須佐神社であろう。
☆須佐族について
私は、日本海側に四隅突出型墳丘墓を築いたのは、渡来人集団である“須佐族”の一派ではないかとの仮説を持つ。
須佐族は、辰韓地域から長門の須佐湾を足がかりに石見から先出雲西部に定住した。その一時的南端は江の川を上った三次盆地である。(四隅突出型墳丘墓の先駆は三次だという。)また別派は、西に向かい北九州筑紫に伊都国を建てた。伊都国の葬制は円墳が中心である。
須佐族の祖神は須佐男だが、族長は五十猛である。(後の出雲建の名称はこの五十猛からの連想であろう。)
五十の名は、辰韓伊西国の名に因む。(これは過去の天孫族考で詳述した通り。)
伊都国の祖神は五十迹手の名を持つ。
須佐族の中から先出雲東部から更に日本海沿岸部を東進した分族もあった。これが四隅突出型墳墓を越中にまで拡めたのだろう。東で断続的になっているのは、その間に強力な先住者が居た地域だったからであろう。
須佐族の五十猛が(三次から、太田川や芦田川を下って瀬戸内に出て、紀州経由で畿内に入り)三輪山麓に建国したのが三輪王朝である。三輪山麓は出雲というので、畿内の須佐族を出雲族という。五十猛の開いたのが木の国である。木の国では五十猛は伊太祁曽神という。
(後に“木”の国に対比される“根”の国が先出雲内に想定された。)
三輪山麓が出雲なのは、大山(熊野)の入口が山門であるが、山から出て来た所が出門=イズモンであるからだと思われる。この観念には、熊野大神が三輪大神より上位神だという伝承があるのだろう。実際に素戔嗚は大国主より上位と見做される。
※五十猛をイドモウと読んで出雲というのはどうも後付けであり、元の名は五十迹手もしくは伊太祁あたりであり、それが出雲の名が確定してから出雲建の意味合いから五十猛の名称が考案されたのではないだろうか?
須佐とは、“牛族のシャー(王)ushu-sha”である。
辰韓は、月氏クシャトリアである黄牛族が居住した地域である。須佐族は概ね辰韓から渡来した。
また須佐は過去の天孫族考で論考したように、宇佐に対する言葉だと思われる。宇馬族のシャーが宇佐であろう。
(宇佐が秦氏の王国だったという事は、複数の先学が指摘して来ている。秦氏は于闐《和田》族であり、月氏の白馬族の国である。タリム盆地の西域南道沿いに勢力を持ち、何と言っても于闐玉の名で呼ばれる玉の産地である。また西域で初めて養蚕を手掛けた地域でもある。)
※シャーは西アジアの王侯を表す言葉。中央アジアでのカーン(干、汗、ハン)に近い。大汗は西アジアではシャーハンシャー(王者の中の王)。本邦のオオキミに近い。
一方、月氏黄牛族はかなり早い時期にパミールを降りて、
一部は罽賓(ガンダーラ)へ、そして多くはタリム盆地北西部の天山南道方面に出て、後世高昌などと呼ばれる事になった城塞国家を建てた。無論、この部族は原ゾロアスター教(拝火教)で最重要視される牛をトーテムにした。
また単にトーテムというだけでなく、牛首をアフラマズダ神への供犧にした。
クシャトリア(戦士階級)の語源にも関わるのだが、サンスクリット語では牡牛をukshan という。月氏語ではuksyuとかukshi 辺りだったろうといわれる。
牛はゾロアスター教では、神が最初に造った獣(ケモノ)。
また神への供物に用いる牛がmoti =物(→大物主、物部。
物の字は牛偏に勿の旁;勿は“刎ねる”なので、牛の首を刎ねて供犠にしたものを物というのである。だから大己貴も実は大名物とか大穴物なのかも知れない。)
クシャトリアKshatriyaは、ukshan-triya だろう。
黄牛(キウシ)もuki-ushi あたりだったろうか?
このukshanが、西伝して行き英語ではoxになっている。
一方東伝した語では、和語のushi(牛)となった。この変形が、kshi=“櫛”とか“奇し”である。
だから出雲族系の神には“櫛”とか“奇し”の形容が被っている。
須佐は、ushan-sha→shansha →shunsha →shusha 。
もしくは牛首佐ushishusha →shusha 。
或いは牛佐(gyusha)。更に別の可能性としては牛頭gozusha→zusha →須佐。
何故、首もしくは頭かと云うと、神に捧げる供犧は切り取った頭部だったからだ。
(身体は食肉にしたのか?ヒンズー教では牛肉は食べないタブーなのだが。)
英語での牝牛はcow であるが、この原語ともいうべきサンスクリットではkhu/gu であり、これが牛の異名であるギュウとかゴになったが、これが東伝してくる間に混同されて、牡牝に関わらず牛の音がギュウ・ゴ、訓がウシとなってしまったのである。
須佐之男。素戔嗚は借音。(万葉仮名的な物)
熊野大神は神祖櫛御気野命。御気野は御食津神と同じで食料神だという。御食津神と言っても稲田の神というのではなく牛宍や宍鹿(鹿宍)・猪宍・雉などの鳥獣肉や魚貝まで含む総称的な概念のものであろう。
櫛は櫛御霊=奇魂だとするのが一般的だが、ukshのkshであろう。つまり櫛とは牛と同じ語源である。
(※因みに神祖はカムロギと読まれる。)
櫛稲田媛は八岐大蛇の生贄から素戔嗚によって救われ、その妻となった。(奇稲田姫とか櫛名田姫の表記もある。)
この櫛もそうだが、一般には牛族(出雲族)に関わる神に櫛や奇が付いている。
☆四隅突出型墳丘墓と妙見神信仰
ところで、再び四隅突出型墳丘墓の話に戻すが、この方形から四隅が足の様に伸ばされている形態は、私見では四神の一つである玄武を象ったものではないかと考える。
(決して牛の四つ脚ではない。)
というのは、辰韓の黄牛族は北辰妙見信仰を持っていたので、妙見の眷属である玄武をシーニエにしたのではないかと思うのだ。
そも辰韓の辰とは、北辰の事である。辰韓は遼にあった辰国が分離南遷して出来た地域である。そしてそこは三韓の内の馬韓に在った月支国の王が辰韓全体の王として君臨したというのである。しかしその君臨とは実態がなく、辰国が崩壊して後は中国の春秋戦国時代の周の王権の様に名目的なものになっていたと思われる。
その辰国とは私が天孫族考で論究したように、日辰・月辰・星辰の三辰を信仰する三つの部族の統合国家である。
星辰は実態的には星空全体を信仰するものでなく、北極星を天の中心として信仰するので北辰とも呼ばれた。
そしてその北辰の擬神化が妙見神なのである。
何故黄牛族と北辰信仰が結びつくのか?これは古代オリエントの星座解釈に起源する。
春の大三角形を形作るのは牛飼座のα星アールクトゥルスと乙女座のスピカ及び獅子座のデボネラの3星である。
そしてこの大三角形のスピカとアールクトゥルスを通す春の大曲線の延長上に、北斗七星が位置するのである。
この星名は今の慣例に従ってギリシア語表現なのだが、古代オリエントの星名に起源があると言われている。
アールクトゥルスはギリシア語ではアールクト(熊)+オゥルス(守護者)で、北にある大熊座の熊を護っている神だとされる。しかしこれはギリシア神話で面白く潤色されたのであって、元の古代オリエントでは、牛を熊から護る神であったろう。だから牛飼座の主星なのである。
でこの牛飼座の主星は黄色に輝く星として全天で三番目に明るい星なのである。それでこの星は牛をトーテムとした黄牛族のシンボルであり、その延長上に北辰信仰が重なるのだ。(因みにアールクトゥルスは和名を麦星という。麦秋の麦の実りの色だからである。)
一方、北斗七星は道教では北斗星君という。この神は人の寿命を記した巻物を持っているとされ、そこに記された数字を増やしてもらえれば寿命が延びるとされている。
北極星が天の最高神であり、人の運命と生まれ変わりを司るとされる。
古代西アジアでは、北極星はアフラマズダと習合していただろう。(多神教時代の原ゾロアスター教には、人の寿命を司る神が別にいたのかどうかは不明である。)
妙見というのは、英語的に云うならwell viewing だが、では何を能く見るのか?といえば、要するに北斗星君と同様に人の運命を予見し、かつ天帝同様に人の輪廻転生を支配する神なのだ。だから四隅突出型墳丘墓はその妙見神の坐す玄武なので、その墓制は被葬者の王の再生を祈念したものなのだ。これが葬送思想から見た解釈となる。
つまりその墳丘は道教でいう天壇の一種に他ならない。
四隅突出型墳丘墓では墓上祭祀の痕跡があるという。
山陰地方〜丹後には妙見山が複数存在する
葬送思想から見た場合、前方後円墳は、“天円地方”の考え方からすれば、被葬者の埋葬される円部は、その被葬者の天へ転生する場であり、方部はそれを祭祀する地上の斎壇だと解釈されるだろう。四隅突出型墳丘墓が天壇と地壇を兼ね合わせたものだったのに対し、前方後円墳では二者が分離されたのである。
円墳では、羨道の入り口に向かう平場に仮の土壇や結界区などが設けられて、そこが斎場になった。その斎場が方形壇に発展したのが前方後円墳である。更に葬祭場が別に作られたと思われるのが、いわゆる「造出(ツクリダシ)」である。
前方後円墳は、ヤマトの出雲族が創意した葬送形態だが、これを天孫族が受け継いで大規模化したのだ。
天孫族が受け継いだ時に、前方部は祭日壇(日下)を兼ねる事になった。そこは日継の儀式の場でもある。そこで先王を葬る御棺もヒツギ(柩)というのであろうか。
造り出しのある古墳の場合、主に左片方だけの場合と、左右両側に造成されたものとがある。造出部が祭祀場だとするなら、一つでも使い方によって左右二つでも良い。だが四隅突出型墳丘墓の場合、突出部(脚)が一つとか二つの物はない。つまり四つ脚である事に意味がある。だからそれは単なる墓上祭祀への通路ではなく、方形墓に四つ脚が出ている構造なのだ。これが私が玄武の形象だという所以なのである。
☆四隅突出型墳丘墓の出土品
ところで、四隅突出型墳丘墓からの出土品は、基本的には弥生式土器が多いのであるが、その土器類は、他地方に比べて多少特色があるように思える。考古学の専門家がどういう風に言っているのかは知らないが、一見で土器には器台に載ったような形状のものが多数ある。
それらの中には、後世の古墳時代のいわゆる「特殊器台」と呼ばれる特別な埴輪の原型かと思われるような物があるのだ。特殊器台は一般に吉備が発祥とされるのだが、吉備と中国山地を挟む“プレ出雲”に出土した器台は、山陰と山陽の繋がりを想像させる。
更に驚いたのは、先出雲東部の宮山4号墳という四隅突出型墳丘墓から太刀が出土していることだ。島根県古代文化センターの紹介ページを引用する。
もし四隅突出型墳丘墓が、私の推理するようにクシャトリヤである黄牛族が渡来して築いた物であるなら、太刀や剣はクシャトリヤのレガリアなので、その傍証となるのかもしれない。
※西谷3号墳に見られる列柱をどう考えるか?
西“出雲”の西谷3号墳の墳丘上に四本柱が立てられたものが見つかっている。これを諏訪社に見られる御柱と同類のものと考えるか?それとも、西谷3号墳の場合、柱を渡して上に何か祭祀用建築物が作られていたのか?これははっきりしない。
もっとも諏訪の御柱にしても、何の役目をするものか?定説はないのである。しかし私は、諏訪の(御石神への原初的信仰の上にかぶさった)建御名方祭祀は、やはり出雲族のものなので、御柱も祭天の装置だと考える。出雲族=辰韓伊西族(黄牛族)に北辰明見信仰があるからには、それに関わるものと考えるのが自然であろう。
御柱の立柱祭祀を韓半島に見られる蘇塗と同類の物とする説は昔からある。但し蘇塗は鳥棹であるとして南方系(つまり倭族の)習俗だとする説もある。だが私は以前からこの様な立柱祭祀は、月氏がタリム盆地やアクサイチンにいた時の胡楊やポプラの切り出し柱や生木を聖木とする敬天の観念に通じるものがあると考えて来た。なら三韓渡来の習俗である。
とはいえ、北陸では縄文時代から列柱遺構が真脇遺跡などから見つかっている。こういう原始的な列柱祭祀も考え合わせてみなければならない。