補遺49「大倭から大和への改字変更」

天孫族考補遺49「大倭から大和への改字変更について」

ヤマトの漢字表記が、大倭→大和と変わった事は、古代史を齧る者にとっては半ば常識化している。

倭から大倭への変更は、後者が単なる地名ではなく、アキツシマ列島にできた最初の広域国家連合の名前であり、また三輪王朝時代からいわゆるヤマト王権が使い続けていた“国号”だった事もほぼ共通の知識となって来た。

そしてそれが奈良時代になって、国号を「日本」と改めた時期に前後して大倭を大和と改字したのだという事も、暗黙の了解となっている。

しかし、その改字が何時、どういう理由付けから行われたのかというのが、何故か正史に記載が無く、その事も含めて謎とされて来たのである。

今回この補遺を執筆する動機になったのは、中世史学者の桃崎有一郎氏(武蔵大学人文学部教授)が、月刊文芸春秋誌に寄せた「邪馬台はヤマトである〜邪馬台国はどこにあったのか?」が画期的新説として紹介され、その中に、“大倭から大和への改字は、倭の漢字より和の方が好字なので、奈良時代の地名は漢字好字二字令に沿って変更されたのだろう”、と従来の俗説を述べて、問題を立てていない態度に、甚だ疑問を持ったからに他ならない。

桃崎氏は「私もこの議論の門外漢だが」と言ってはいるのだが、「邪馬台は中国音ではヤマトなので、(古代の現奈良県の磯城地方の古名である)倭(ヤマト)以外には考えられない」として邪馬台国ヤマト説を唱えている。

この桃崎氏の見解自体に対する批判は、また別稿を立てるとして、今回はその論文中に出て来た上述の問題の;即ち“大倭から大和への改字は、倭の漢字より和の方が好字なので、奈良時代の地名は漢字好字二字令に沿って変更されたのだろう”という極めて半端な言説について、誤りを正すと共に、ではその謎の真実はどこにあるのか?について論究してみたい。

◯地名漢字好字二字令について

これは、元明天皇の和銅6年5月2日のいわゆる「甲子の官命」の事である。これが通称“地名好字二字令”とされるものだ。

これが誤解されて、泉→和泉や木→紀伊になり、和→大和になったなどとも言われて来た。

しかしこの甲子の官命は、「諸国の郡郷の名称は好字を選んで付けよ」というもので、各国司に支配下の郡や郷の名称を佳字二文字にすることを勧奨したものなのである。

つまり国名はこの時の対象にはなっていない。既にこの和銅6年の時点で、紀伊などは二字国名になり、和泉もあったが、大倭だけは孝謙朝にまでそのまま大倭の表記が続いているのだ。

“和銅6年 五月十一日 大倭・参河をして雲母を献ぜしめ、並びに、伊勢は水銀を、相模は石硫黄、白樊石、黄樊石を、近江は慈石を、美濃は青樊石を、飛騨・若狭はともに樊石を、信濃は石硫黄を、上野は金青を、陸奥は白石英、雲母、石硫黄を、出雲は樊石を、讃岐は黄樊石をそれぞれ献ぜしむ。”(続日本紀)

となっていて、未だこの時点では、分国名は大和とはなっていないのである。

またこの頃、山城の表記も山背のままである。

※因みに和銅6年は西暦 713年に当たる。

更に桃崎氏の見解は、「“大倭から大和への改字は、倭の漢字より和の方が好字なので”変更されたのだろう」というのだが、これは“倭の音が和と同じだから、倭より字義の好い和に変えた”というものらしい。そもこの事の前提には、倭とはワと詠まれていたという先入観が存在している。しかし私が天孫族考で繰り返し言って来たように、倭はヰ(ゐ)と読まれていた筈で、これをワと読み、「楽浪海中に倭人あり」の倭人をワジンと読ませて来た学校教育の間違いがあるのだ。

大倭をヤマトと読ませるのは、熟字訓でありそれは良い。しかし分国ヤマトの名・大倭が奈良時代に大和と変わった為に、倭→和なのだと勘違いをしてしまう。しかしそれは、大和王権にとっても、大倭が大和とイクォールだと見せかけて万世一系を装う為にも錯覚を利用したのだと思う。

この結果、多くの人は倭人が字句の表記の変更で和人になっただけだと思ってしまっている。しかしこれが違うのだ。倭人と和人では部族が異なるからだ。倭人とは「縄文人に海人が渡来して稲作を導入して弥生人となったもの」であり、そこに、辰韓から黄牛族が渡来。先住の弥生人を従えて階級国家である三輪王朝をヤマトに開いた」のであるが、彼らはその国家を大倭と呼んだ。一方和人とは和族=日之下族(天孫族)の事だからである。

この事は、後でも述べる。

◯年号:和銅の和は大和の和ではないのか?

元明天皇の即位の年(大宝8年)、武蔵国秩父郡から、初めて和銅が産したと献上されたのを契機に、和銅と改元された。(1月11日)

そして、これを端緒としてこの年8月に和銅銅銭が発行されたというのは、中学生でも習う“和同開珎”に関わる史実である。

しかしこの史実を教える側(教師)に“和銅”というのが何たるかの知識が無いため、我が国に初めて発見された銅だから和ノ銅で和銅なのだなどという明白な間違いも横行している。

この頭の中には、洋服に対する和服とか、洋紙に対する和紙・洋菓子に対する和菓子とか、本邦の産品に付す和という修飾についての先入観があり、和国の銅だから和銅なのだろうなどという誤解を生じるのである。

和銅とは漢字の熟語での音読みではワドウだが、それこそ和語では「ニギアカガネ」と訓読される。ニギの漢字表記が龢でありその簡体字が和なのである。勿論アカガネは金属である銅の事である。

和銅とは、実は自然銅の事なのである。

和鉄や和銀・和金・和錫などという表現は無いようなので、この表現は自然銅に対してだけのものである。

で自然銅とは何か?

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自然銅【しぜんどう】

天然に産する金属銅。 銅としてはまれな産状。 含銅鉱液の還元で生じ,銅鉱床の酸化帯で樹枝状,粒状をなし,金属光沢,淡紅色を示す。 等軸晶系,比重8.95,硬度2.5〜3,少量の銀,ヒ素,ビスマス,アンチモンなどを含む。

※別の解説では、

自然銅 copper

明るいが自然金よりやや暗く,赤みがある。しかし桃橙色で色調が似た斑銅鉱よりはるかに明るい。自然金同様,硬度が低く,研磨時の擦痕がよく見られ,特に大粒のものは, ---------

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これをニギ銅というのは、①硬度が低い;つまり柔らかいので”和らかい“銅でなのある。異説は②産出時に小ぶりなオニギリ状に見えるので、“龢リ”銅と言うのだ、というような解釈である。

※もしニギ銅なら、アラ(荒)銅という反対概念がなければならない。粗銅(最終精錬前の銅素材)というのはあり、それはソドウという漢語であり、アラ銅とも言ったようだ。(このニギ《和》対アラ《荒》の対比は和魂と荒魂の対比と同様のものである。)

従って、“和”という漢字は使われているが、それは大和の和では無いので、この和銅元年に既に和の文字が国名大和の略語として成立していたのではないか?などというのはとんでもない妄想である。

◯何時から大倭→大和になったのか? 本居宣長の推理

この謎に挑戦したのが、江戸中期の国学者であり、古代文芸の研究者であった本居宣長である。

宣長は、万葉集の研究中に、藤原永手の歌の詞書に大和守とあるのを見つけて、これがヤマトを大和と漢字表記した最初の例だとして

大和表記の初例の発見だと考えた。

※藤原 永手は、奈良時代の公卿。藤原北家、参議・藤原房前の次男。極官は正一位・左大臣、贈太政大臣。長岡大臣と称する。

聖武朝では橘諸兄からいとまれて出世しなかったが、孝謙朝になると、光明皇太后と藤原仲麻呂と結び急速に昇進した人である。

当該の藤原永手の歌を万葉集のインデックスから引いてみる。

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第19巻

歌番号        4277番歌

作者        藤原永手

題詞        (廿五日新甞會肆宴應詔歌六首)

原文        袖垂而 伊射吾苑尓 鴬乃 木傳令落 梅花見尓

訓読        袖垂れていざ我が園に鴬の木伝ひ散らす梅の花見に

(かな        そでたれて いざわがそのに うぐひすの こづたひちらす うめのはなみに)

訳        さあ、皆様方、晴れ着のまま私の庭にいらして下さい。鴬が梅の木伝いに散らす梅の花を見に。

左注        右一首大和國守藤原永手朝臣

          天平勝宝4年11月25日

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そしてこの作歌の日付が天平勝宝4年11月25日である事に宣長は注目した。というのは、同じ藤原永手の記事が、続日本紀の同じ月の頭に掲載されているからである。それは「同年11月3日に藤原永手を大倭守となす」とあった事である。その月末の11月25日には大和守と表示されているわけだから、本居宣長はその“大倭を大和としたのは天平勝宝4年の11月の4~25日の間”と推定したのである。 (本居宣長:国号考 和の字の項)。

だがこれは宣長の誤謬であった。同じ続日本紀の記事同士によってそういう変更が確認出来たのならそれは発見だったろう。しかし二つの記事の掲載資料が異なるからだ。

実際、続日本紀ではこの天平勝宝4年の後でも、大倭守の表示が度々登場するからだ。

これはどうしてそういう誤謬が生じたかといえば、万葉集の書写という行為を考慮すれば、後世に(或いは万葉集編纂時に、大伴家持が)大倭守を大和守と解して、そう改字表記したのかも知れないからだ。ともかく正史である続日本紀に大倭守とあるからには、この頃まだ大倭であって大和の表記ではなかった事は確認できる。

写本校異学の一般的で無かった時代にあっては、宣長がその事に気づかなかったのは致し方がない。

現在では、この宣長の推理は誤りだった事が多くの学者によって確認されている。

しかし、大和心を重んじた宣長にとって、“大和”の語彙の確立は大きな関心事であったろう。

有名な歌「敷島の 大和心を 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」は宣長の還暦の時の作である。

◯では改字変更は何時だったのか?

ところで、「現在では、この宣長の推理は誤りだった」と言ったが、実際のところは、その反対に確実な問題の解決に至っているわけではない。

一般的な、解説や辞典の類でこれを見てみよう。

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大和国」の解説 出典 平凡社「日本歴史地名大系」

大和国

やまとのくに

〔国名〕

「日本書紀」には神武天皇即位三一年の四月、天皇が腋上間(わきがみのほほま)丘(現御所市)で国を見渡し、---------と、ヤマト地方についての神話上の別称を記す。もちろん、国成立後の大和国全域をさすものではない。

また神武紀によれば、この地方には倭(やまと)国・葛城国・闘鶏(つげ)国があった。

ヤマトの表記は夜摩等・野末登等々のさまざまな一字一音表記のもの以外に、古く大倭・倭(古事記)、山門・日本・大日本・大国・東(日本書紀)、山常・山跡・和・大和(万葉集)など、なんらかの意味を含むものがある。

国成立以前、大和には六県(あがた)があり(延喜式)、各県に県神社があった。この神社を結ぶ線が初期の固有名詞的なヤマトの地域かと考えられ、さらに「和名抄」に載る大和(おおやまと)郷の地、また国神を祀る倭の大国魂(おおくにたま)神社(天理市の→大和神社)付近が中心かと思われる。「日本書紀」神武紀に「倭国の磯城邑」、崇神紀に「倭の笠縫邑」「倭国の域の内」「倭の香山」、「古事記」神代巻に「吾を倭の東の山の上にいつき奉れ」、「万葉集」に「青丹よし奈良を過ぎ、小楯大和を過ぎ」とあり、「姓氏録」に「大和国真穂御諸山」とみえ、これらからも古いヤマトの地域が想像される。しかし本来のヤマトはヤマモトと同義語で山のある所(麓)を意味し、奈良県下には約三〇のヤマト地名がある。

大化の改新で国郡制による大倭国が成立する。「続日本紀」には天平九年一二月(七三八)「大養徳」と改称の記事があり、同一九年には「大倭」、天平勝宝元年(七四九)には「大和」と記す(※?)

「大和」の表記は平安時代には一般化するが、「倭」は中国的な表現であり、倭わは和に通じることから用いられたものであろう。古代の大和国府は「和名抄」に「国府在高市郡行程一日」とあるが、正確な跡地は比定できない。

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この内、万葉集以降のものは「大和」とあっても編纂時の用字なので信用してはいけない。

→上述※?“天平勝宝元年(七四九)には「大和」と記す”は、私の持つ「続日本紀」では確認出来ない。あるいはこの解説を書いた人の持つ書写本にそうあったのかも知れないが、これは誤認であるか書写の間違いと考えられる。

ではもう一つ;よく使われるWikipediaはどう記載されているか?

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Wikipedia

奈良時代中期の737年(天平9年)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19年)には、再び「大倭国」へ戻された。

そして757年(天平宝字元年(8月18日改元))、橘奈良麻呂の乱直後に(☆)「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。このとき初めて「大和」の用字が現れた。その後、「大倭」と「大和」の併用が見られるが、次第に「大和」が主流となっていった。

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そこでこの記述にある“橘奈良麻呂の乱直後に(☆)「大倭国」から「大和国」への変更が行われた”という件であるが、;

そういう天平宝字元年の大和への改字に関わると思える「続日本紀」の記事は二つある。

 ℹ︎)この年で最も直近の“大和”の用字は、天平宝字元年(757年)十二月九日の太政官奏上で、(乙巳の変以来の諸動乱時などの論功の功田等の有効期間を提案する文書の中に、養老律令撰進に功のあった)「正五位上大和宿禰長岡」という人名が出てくる。※Wikipediaのいう「天平宝字元年」の“大和”はこの表記を指すのだと思う。

ℹ︎ℹ︎)二つ目の大和の用字は;翌年、天平宝字二年(758年)二月二十七日の勅に、「大和国国守従四位下大伴宿禰稲公からの奏状があり、『部内城下郡の大和の神山(ミワヤマ)に、奇妙な藤の木が生えていて、その根本に虫が十六の文字を彫り出しました」とある。

※これが続日本紀で“大和守”と表記した初めである。

さてこのℹ︎の方の記事に於ける、

天平宝字元年に恩典を受けた“長岡”は、実際は未だ大倭長岡の名であったらしいが、続日本紀編纂の時点で一般に大和長岡と呼称されていたので、遡及して大和宿禰という表記にしたのだと思われる。そしてこの長岡が大和宿禰の称になったのは、称徳朝になってからの神護景雲2年なので、実際にはℹ︎ℹ︎の“大和守大伴稲公”の方が大和を冠した冠位としては初出だと考えられる。

大和長岡と大伴稲公の二人はどういう人か?

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大倭長岡

孝謙朝から淳仁朝にかけて、天平勝宝2年(750年)従五位上、天平勝宝3年(751年)正五位下、天平勝宝9年(757年)正五位上、天平宝字7年(763年)従四位下と順調に昇進し、駿河守・紫微大忠・民部大輔・左京大夫・河内守を務める。天平宝字8年(764年)右京大夫に任ぜられるが、老齢のため致仕。ところが、神護景雲2年(768年)賀正の宴において称徳天皇の詔により特に昇殿を許されるが、鬢髪は豊かで所作も作法を違わなかったことから、天皇に年齢を問われ、80歳になったと答えると、天皇は久しく感嘆して自ら位記を書き正四位下に昇叙した。翌神護景雲3年(769年)10月29日卒去。享年81。最終官位は大和国造正四位下。

※という事だが、大和国造はある種の名誉呼称的なものであろうかと思われる。(他にも出雲などで国造と国守が別在した。国守以外に国造がいた国は、推定であるが、国造が国魂神社の祭主を勤めたのではないだろうか。)

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大伴稲公

稲公は旅人の異母弟。730年(天平2)右兵庫助で,駅使となって兄大宰帥旅人の病を見舞い,また大伴田村大嬢(おおいらつめ)に歌を贈るなど,大伴氏の人々と和歌を通じて交際のあったこと,跡見(とみ)庄を領有していたことなどが,《万葉集》によって知られる。

749(天平勝宝1)年8月、兵部大輔。754(天平勝宝6)年4月、上総守。757(天平勝宝9)年5月、正五位上。さらに同年8月、橘奈良麻呂の乱鎮圧の直後、従四位下に昇叙される。758(天平宝字2)年2月、大和守として城下郡大和神山の奇藤に瑞字が生じたことを報告する(この瑞字は神意が藤原仲麻呂の執権を肯定するものと解釈された)。

(※ 個人的には、旅人が藤原四兄弟の長屋王冤罪押し付けに怒って上級貴族の矜持を貫いたのに対して、権力者である紫薇内相・藤原仲麻呂にゴマスリしている稲公の態度は醜く見えてしまう。そうなると万葉集に載る相聞歌も、実際は姉の大伴坂上郎女による代作だという話とも相まって、どうもこすからい嫌な奴だと思えて来てしまうのである。)

大倭長岡が続日本紀編纂の時点の大和宿禰(また大和国造)の呼称で登場するからには、先述の大伴稲公の大和守もまた、この時点では大倭守だったのではという疑問が呈されるであろう。しかし、続日本紀ではここまで一貫してヤマトの国守を大倭守と表記していたが、この時点で初めて大和守としたので、これは後世の改訂によるものではなく、実際にこの大伴稲公の大和守が、分国名として大和を用いた初めてのものだと推理されるのである。

またこの前年:天平勝宝9年、五月二十日の勅で、多数の昇任を詔しているが、その中に従五位下の大倭忌寸東人が出てくる。実はこの人は大倭長岡の旧名である。

従って、天平勝宝九年の五月二十日以降、天平宝字二年(758年)二月二十七日までの間に、大倭→大和の改字が為されたことになる。しかし正史である続日本紀に、この首府のある分国名の改訂に関わる記事が無い!これは怪異なことである。と言う事は、元来の原稿にはその記事があった筈だが、編纂の時点で、何らかの意図によって削除したという事しか考えられない。その表に出ていない意図とは何であったのか?

◯橘奈良麻呂の乱と大和への改字

ところで、この天平勝宝九(757)年の6月末〜7月にかけてが橘奈良麻呂の変で、首謀者奈良麻呂のほか多数の王族や貴族(大伴古麻呂などの大伴氏や佐伯氏など)が謀反の罪で捕縛処刑されている。従ってこの混乱時に国名改字があったとは思えない。

あったとすれば、変乱の前の天平勝宝九年五月末〜六月中旬か、もしくは先述Wikipediaの☆のいう天平宝字改元の直後;八月〜翌年二月までの間のどちらかになる。

でもし後者なら、既に奈良麻呂の変は落着しているので、首府国名改字の様な重要な国事行為があるならこれが正史に記録されないはずはない。

しかしそれが無いというのは、改字は蓋然性の前者即ち天平勝宝九年五月末〜六月中旬の間だという事になる。

そこで改字がなされたが、これは時の政権(孝謙女帝+皇太后藤原光明子+藤原仲麻呂:紫薇内相兼大納言)には面白くない理由付けのものだったと推理する。

即ち奈良麻呂とこれに呼応した王族や大伴連や佐伯連一党は、全て和族の人たちである。それが現政権の藤原氏とその血脈の孝謙女帝に対して、“本邦の皇統の本義は和族波羅門の子孫の承継すべきものだという主張の心理的掣肘策として、大倭ではなく大和であるべきだ”との宣言を内々したものではなかったろうか?

深読みすれば、対馬の卜部に起源する中臣〜藤原氏は実は海人倭族そのもので和族ではないからである。

これは奈良麻呂の一味同心のモットーでもあったろうが、知らずに孝謙女帝が改字を聴許してしまったが、動乱の後になってみると、その改字の意図に気付いたが、“今更大倭に戻せば、和族の国では無くなった事を広告するようなものだから、その改字はそのままにして過ごした”というのが真相ではないだろうか?

恐らくは、改字の提案をした頃、奈良麻呂は左大弁だったので、勅定を起草する権限はあった。そこで奈良麻呂は、「大倭の倭の字は、中国では余りよろしくない文字である。よって、我ら和族の国日本であるからには、佳字の大和に表記を改めよう」と女帝に提案したのではないだろうか?この時、以前の郡郷好字二字令の事が意識されたかも知れない。(そも孝謙には和族の何たるかが分かっていなかった。だから称徳として重祚の後、事もあろうに入れ込んだ弓削道鏡に皇位を譲ろうとしたのである。道鏡は真偽は不詳ながら、弓削の物部系氏族の出であるらしい。物部氏は出雲族=黄牛族であり、和族=天孫族ではない。)

この推理を裏付けるのが、続日本紀の編纂過程である。コトバンクから引用する。

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改訂新版 世界大百科事典

「続日本紀 (しょくにほんぎ)」

《日本書紀》につぐ勅撰史書。六国史の第2。漢文編年体で,文武1年(697)1月から延暦10年(791)12月までを含み,全40巻。

編纂過程は複雑であるが,《類聚国史》に収められている延暦13年8月13日付の藤原継縄の上表文と,《日本後紀》にみえる延暦16年2月13日付の菅野真道の上表文によって,概要が知られる。

まず(1)文武~孝謙紀(文武1年1月~天平宝字2年7月)が淳仁朝に30巻として撰修されたが,その発議は藤原仲麻呂によるらしい。光仁朝に石川名足が淡海三船,当麻永嗣とともにこれに修正を加えて奏上したが,29巻のみで,問題の多い巻三十は亡失と称して削除された。

名足はまたほぼ同時に上毛野大川と(2)淳仁~光仁紀(天平宝字2年8月~宝亀8年12月)を20巻に撰修した。さらに桓武朝に入ると,藤原継縄,菅野真道,秋篠安人が勅を受けて(2)を修正して14巻に改め,現《続日本紀》の巻二十一~三十四が完成し,794年(延暦13年)8月に奏上された。

ついでこれにつづく(3)光仁~桓武紀(宝亀9年1月~延暦10年12月)が菅野真道,秋篠安人,中科巨都雄によって4巻(現《続日本紀》巻三十五~四十)として撰修され,また同じ人たちによって(1)で欠けていた部分を補充して改めて20巻に再編され(現《続日本紀》巻一~二十),併せて797年(延暦16)2月に奏上された。かくて現在の(1)20巻,(2)14巻,(3)6巻がまとまって《続日本紀》が完成した。写本としては蓬左文庫所蔵の金沢文庫本,天理図書館所蔵の吉田兼右本などが古く,注釈書には河村秀根《続紀集解》,村尾元融《続日本紀考証》,佐伯有義校訂標注《続日本紀》などがある。《新訂増補国史大系》所収。---------執筆者:岸 俊男

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版

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要するに、天平勝宝九年(宝字元年)の記録が、紛失し後世に補われたというのである。

だから問題の時期に、ヤマトの国字改訂が為されたとしても、後世の編纂時に、総監修者であったという藤原良房の眼を恐れて、敢えて欠如にしてしまったと考えられるのである。

即ちこの続日本紀の完成時期は、摂関政治の開始時期にあたり、私の言う和族天皇家の古代王政が、新興の“成り上がりクシャトリヤ相当の”藤原氏に奪権されて、中世が開始された時期に当たるのである。

そこに、本邦は本来は和族王家の統治すべき国柄だなどという主張がまかり通る筈はないのである。

こうして、大倭→大和への国名改字という極めて重要なエポックは闇に葬られ、粟田真人が大宝3年に則天武后に認めさせた対外国名(大倭→日本への)変換のみが正史に刻まれているのである。

これとて日之下族の国だという宣言なのだから、大倭→大和への国名改字と同様なのだが、抽象度が高い前者は、未だ藤原氏全盛の以前だからスルーされたのである。

恐らくこの日本への国号変更の事の重要性は大伴旅人辺りのみが気づいていたことだろう。

この時点、春日氏や多氏は和族の本流としての力を喪失し、和族の配下のクシャトリヤであった大伴氏のみが中央政界で権力を維持していた。大伴氏が兵権を継承していたからだろう。和族・非藤原氏の元正天皇以降は藤原氏の権力拡大の歴史である。それが完成するのは言うまでもなく平安前期の摂関政治の開始である。

それ以降、和族は残ったが、権力を掌握する事は無くなった。そして和人は、倭人〜弥生人と同様、列島在住の人民一般を意味するものになってしまったのである。そして「龢を以て貴しと為す」も部族の名である龢(簡体字が和)が、天地同和の和・協和の和の和にすり替えられてしまった。

考えるに、東洋史や中央アジア史の知識などありようもない本居宣長も含めて今日まで、“大和とは和族(龢族)の国の事だ”などという発想が生じる事は無かったのである。

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