補遺49続「桃崎有一郎氏の“邪馬台=ヤマト説”」
天孫族考補遺49続「桃崎有一郎氏の“邪馬台=ヤマト説”について」
桃崎有一郎氏の”画期的新説“(月刊文春3月号)とやらについては、既に、前回の補遺49で、“桃崎氏が「大和は大倭を好字二字令によって改字した」というのは、誤りであること”を指摘した。
そもその元明朝の「好字二字令(甲子の官命)」の後も、大倭国の表記が継続していたこと、またこの好字令は郡名と郷名に関わるものであり、それ以前に木の国→紀伊は二字になっていた事など、ちょっと調べればすぐ分かるような勘違いをしているのは、“歴史学者”を標榜するからにはあまりにも迂闊である。自分は中世史が専門だからなどという言い訳は通用しない。何時代史であれ、発言の裏付けになる客観的な歴史的事実を挙証するのが歴史学者の基本的な態度であろう。
※もっとも泉→和泉は河内から分国されたり再併合されたり、河内国司とは別に和泉監が置かれてその統括下とされたりもしたので些か例外的である。
元正朝の霊亀2年(716)3月に河内国から 和泉・日根二郡が珍努宮のために割かれ、そのあと同年4月になって大鳥・和泉・日根3郡から なる和泉監が設けられたのである。従って国名が“泉→和泉と改字”の俗説と異なり、郡設置時に既に和泉の二字表記だった可能性がある。天平12年 (740)一時は河内国へと合併されるが,天平宝字元年(757)になって「国」として分置されたのである。
とは言えこの大和改字については、桃崎論文のごく一部の事であり、また主張の主要部分では無い。だからと言って、その一部にうっかりミスがあれば、素人なら見落としで済むが、専門家では許されない。(おっと、「専門家ではない」と言っていたのか!)
そこで、桃崎論文の全体的な主張についても、考査してみる事にする。
桃崎有一郎氏が文春3月号に書いたのは「邪馬台はヤマトである」という主張である。
◯桃崎氏の主張の要点
私なりに要約してみた。
ヤマトという言葉の持つ観念は、
1)ヤマトとは、枕詞の“敷島の”が付くので、本来は敷島郡(後世の城下郡)にあった地域名だった
2)それが、そこに政治権力の中心があったので、後の(令制の)国名という広域(中域)名となり、
3)更にヤマトと連合する小国家郡(奴国や伊都国など)を含む大域名=総称(後世言う所の「国号」)にも使われることになった
というマトリョーシカ構造(→文末に図解してみた)で考える必要があるとする。
一方で倭とは、
4)本来中国人が江南の水郷地帯の民(南蛮)を指した言葉だったが、
5)倭人は大陸を出て朝鮮半島南部や日本列島西部にまで移住展開していたのであるが、大陸の倭人が中原の中国人によって版図に加えられると、残った朝鮮〜日本にいた倭人が、中国側からは“倭人”と意識され続けられた。そしてそれらの内、日本列島にいた倭人が複数の村邑小国家群を形成すると、それらを総称して「倭国」(「倭種の国」と中国側では)呼んだ
6)やがて、それらの倭国の中から他を従属させる支配権を確立した国が出た。その国は倭人に依れば“邪馬台”と呼ばれる国である。
7)中国側から見る時、邪馬台国は倭国の中の一国家でありながら、女王を戴くという特徴のある国であった。
そこが支配権を持っているので、倭国全体も邪馬台国と(中国側は)呼ぶのだ。
こういうヤマト(邪馬台)と倭とは相互に“逆ベクトル”的な関係で、国の総称同士と意識された。
そこで、倭もまたヤマトと呼ばれるようになった。
やがて倭は雅表現の“大倭”と書かれ、また一時“大養徳”とも書かれたが、地名を好字二字表現にするとの国家方針によって“大和”とすることにした。倭よりも和の方がイメージが良い字だからだ。
(※この『好字二字令によって』というのが誤りなのは既述の通り)
一方、総国名として対外的には(中国側の呼称を用いてそのまま)“倭國”と称して来たが、これも奈良時代に、より雅表現として“日本”に変えた。
---------概ねこんなところだろうか?
桃崎氏流の解釈では、「元来日本側での認識では国家の総称もヤマトだったのが、中国側では倭人の連合国家が倭国だったので、倭人のいう女王国の邪馬台(ヤマト)をもって倭国の総称ともした」のであるから、邪馬台国とは元々敷島郡の(後世は城上郡に分かれた)纏向地域にあった国の事だ!」となるようだ。
◯“ヤマトは邪馬台であって山門ではない(桃崎説)”の疑点
桃崎氏は、ヤマトは漢字書きすれば元来が邪馬台であって、山門ではない!とする。
山門の門(ト)は甲音で、邪馬台の台は苔(万葉仮名でト乙音を表す)と同じ声符の台であるので、やはりト乙音であろうとした。
(※但し最近の上代仮名遣い研究では、ト乙音はtəで甲音が現在のトに近いto だというが、これを桃崎氏は知っておられるのか不明。)
門をトと読ませる万葉仮名は私は見た事がないが、戸がやはりト甲音だとされるので、門=家戸(カド)と考えれば、類推で門もトと読まれる時はト甲音と考えても良いかとは思われる。(と言っても、山門とは甲乙音の消滅した後の表記なので無意味な批評だというのは、後述する。)
しかし、だからと言って、ヤマトとは山門でなく邪馬台だと桃崎氏がいいい切るのは些か考え違いだろう。
そも邪馬台(邪馬臺)というのは、古代中国人が倭人がヤマトと言うのを音訳した表記である。中国人にはトの甲乙音の差異の認識などはないので、yamatoなのかyamatəなのかは聞き分けられない。
※但し、我が国で一般に邪馬台国という時には本来は邪馬臺国と史書で表示される“臺”(正字)の略字の“台”が使われている。その略字の台の声符が万葉仮名“苔”の声符と一致していると言っても、果たしてそれはどうなんだろうか?もっとも、臺の声符は何かは知らない(室なのか?至か?)。だが臺は“臺灣”の簡体表示“台灣”の台と等価に使われるので、臺=台としていいのだろう。だがそれは、トではなくタイもしくはダイの音としてだろう。
本邦では臺の訓読みはウテナである。台をウテナと訓読した例は、続日本紀元明天皇和銅2年五月二日に;造宮大丞“台忌寸宿奈麻呂に従五位上を授けた”とある。台忌寸とはウテナノイミキである。蓮台などと使う時も台の字が使われる。台と臺は我が国ではほぼ同じ扱いの様である。
更に山門を今はヤマトと読むが、むしろヤマドだったかもしれないのだ。トの濁音ドは普通には戸(ト甲音)の濁音だからド甲音(=度)だろうが、ド乙音(=杼)との違いは、清音トの甲乙よりもっと聞き分けにくい筈だ。
但しドの乙音は万葉仮名で耐の字が使われる。すると邪馬台はヤマトでなくヤマド(乙音)だった可能性もあると思われる。乙音でのヤマドはyamadəというよりyamadəiに近い発音だったかも知れないと思う。
トの清音だとしても、仮にト乙音ならyamatəiに近くなるかと思われる。
また和名類聚抄に記される城下(敷島郡の下)郡内の名に「大和(於保夜末止)」があって、夜末止の止はトの乙音である。さりとは言え、和名類聚抄の頃には甲乙音の区別が喪失していたので、これは何の証明にもなるまい。またその時代の前には、ヤマトが倭の字で表されていた。それが大和(於保夜末止)と表記される様になってから後の地名解である。
更に(これは後述するつもりだが)ヤマトは山門だなどと言っているが、この地域がヤマトと呼ばれ始めたのは、漢字公伝の前だから、漢字を使う様になってからの当て字にしか過ぎない。
私が「ヤマトは山門だ」と言うのは、「山門をヤマトと読んだ」と言っているのではなく、「ヤマトのヤマ=山には異議はなかろうから、その下に付く“ト”がどういう意味合いかを究明すれば、入り口を示す門(ト)が相応しいのでは?」と言っているのである。
地名考究家の箕岡義憲氏によれば、「ヤマトとは棚を意味する」と日本地名研究所の事典に載っているようだ。しかし、ヤマトの付く地名は、ある識者に依れば全国に40余あるとの事。そのヤマトの全てが棚(山棚、ある広さのある段丘)を意味しているとは究明されていない。むしろその一部には山麓(山のフモト)とか山地への“とば口(途場口)”を意味する場合もあるのではないか?と考えられるのだ。
万葉仮名に門=トというのは、一般的には登場しない。地名に穴門(後世の長門だとさてるが?)と筑後国の山門県が記載される。
山門県は後世に山門郡となった地域である。これは神功皇后摂政前紀の《仲哀天皇九年三月(二十五)丙申。転至山門県。則誅土蜘蛛田油津媛。》という有名な記事による。
この今は柳川市とみやま市の市域に相当する旧山門郡なのだが、その山門とは何を意味する“門”なのかがよく分からないのである。
(またこの山門県が邪馬台国九州説の一部の人たちから邪馬台女王国所在地だろうとの推理がなされた曰くの地名である。だがこれに反論する人たちからは、“山門のトはト甲音で、邪馬台【ヤマトと読んだとすると】のトはト乙音だから、筑後国の山門は邪馬台ではない”という批判がなされたのである。)
しかしこの神功皇后紀に載る山門県だが、大王直轄領を意味する「御県」は、恐らく孝徳朝に倭六県が設置されたのが行政上の最初であり、それ以前の御県は後世に県となった(つまり書紀編纂時に県となっていた)地域を遡って言ったのかしれない。
但し初期の姓の一つとしての県主の研究家からは、県は上古の国造の居た国(クニ)よりももう少し狭域の村邑国家であり、ヤマト王権の成立過程で、一定地域の支配を容認されていた独立地方政権だとも考えられるとする。
もっとも、筑後の山門が県であろうとなかろうと、そこにヤマトと読まれる地域があった事は推測できるだろう。だが、地図をどう睨んでも、この筑後の山門は、矢部川の沖積平野の真ん中であり、どこにも山のとば口などと類推できる箇所が無い。さればここが山門川という河川の流域であれば山門と呼ばれたという可能性はあるのだが、矢部川水系には山門を推測できる支流も見当たらない。という事は、百歩譲って、矢部川の河岸段丘地(棚)かと思うしか無いが、それとて該当する地形は発見できない。(強いて云えば、有明海の潟の陸棚?東南に山鹿があるが、山門とは余りに離れ過ぎている。)
という事は、後世に山門の用字で表記されたここ筑後の山門郡のヤマトは、本来は別の意味を持っていた言葉では無いかと考えられる。根拠なしでいうのだが、ヤムバル(山原)とか矢場処、あるいは矢部湊とか。それが後世に山門という好字二字に改称されたという事では無いだろうか?だとすれば、(無論“筑後山門=邪馬台ではあり得ないが)甲音乙音の差などの話も吹っ飛んでしまうのだ。
この例からして倭(ヤマト)もまた、後世の意味で山門であるからと考えれば、乙音トでないから山門はあり得ないとも言い切れないのだ。→このマターは文末で再検討する。
◯桃崎氏への意見
桃崎氏は、「倭は雅表現の大倭と書かれ、一時的に大養徳とも書かれたが、地名を好字二字表現にするとの国家方針によって大和とすることにした。倭よりも和の方がイメージが良い字だからだ。
一方、総国名として対外的には(中国側の呼称を用いて)“倭國”と称して来たが、これも奈良時代に、より雅表現として“日本”に変えた。」(要旨)とする。
これは倭國が総称のヤマト(邪馬台)と同様なので、倭をヤマトと呼ぶ様になったが、それが大倭→大養徳→大和→日本と変遷したのも、全てイメージの良い様に変えた為だとの理由付けである。
しかし、この立論には①そも倭は元来は何と読む字だったか?(中国ではワではなく一貫してヰ《ゐ》だった筈)②倭→ヤマトになった!というのは良しとして、それがいつの間にか“倭=和(ワ)となってしまった”というのが短絡である(そういう解釈は、倭がワと読まれていたということが前提になるからだ。だから大倭=オホヰが大和=オホワとイクォールだ(?)と短絡する。
和は単に倭の雅字表記ではない。私説では天孫族=龢族の氏族名“龢”の簡略字の和である。)
③更に、その大和が日本になるのは、これまた好字だからとするが、その前提には日本もまたヤマトと読まれる事があるから大和→日本なのだとする。(これは、結果的にそうなる様に作為された事を暗黙に承認してしまっている。倭をヤマトと読むので、国号を日本とした時に、日本も旧国称である倭國と同様にヤマトという熟字訓を与えられたのである。強いて言えば“日之下の倭の国”という枕詞的な関係とでも説明すれば、幾分は筋が通りそうに思える。
更に、桃崎氏の誤解は、倭国→日本の国号変更(大宝3年=西暦703年に武則天が承認)の方が、大倭→大和への改字よりも早かったのであるのに、どうもそれを逆に理解していること。
というのも、改字の時期は孝謙朝の天平宝字年間だったと言われているし、また「大倭→大養徳→大和→日本と変遷した」のではなく、実際には「大倭→大養徳→大倭/倭国→日本/大倭→大和」という具合に変遷したのである。
とは言え、元々「日本」とは、倭國ではなく、南韓の任那を百済から見て日昇の方向《東方》にある地域=“東照域”を指すものであったのは、安羅日本府の称とか、唐の百済人将軍・祢軍の墓碑などの表現(「倭族は日本から逃げて扶桑に行った」)によって明らかなのである。
※祢軍の認識では、任那=日本(そこには倭族がいた)であり、日本=/=倭国=扶桑国なのである。
一方飛鳥時代になって、日之下の雅字表現として日本としたものであると考えられるのだ。つまり、倭國の支配権は和族に移り、和族の国=日之下国となっていたからだ、というのが私説である。)
もっとも、一般的には大倭→日本への国号変更は大宝律令の時だとするが、粟田真人が武則天に国号変更を認められる前の高宗時代に国号変更を新羅を通じて打診して拒否されていたという話があるので、その時の遣新羅使の出発以前の天武持統朝に、日本を国号とする事が我が国内では既に決定していたのではないか?という説もある。
この国号変更については、 東北歴史博物館長岡田茂弘「歴史とは何か」が要を得た記述をしているので、これを引用させて頂く。
--------------------------------------------
674(天武天皇3)年3月の対馬国からの銀産出を伝える『日本書紀』も「およそ銀の倭国に有ることは、初めて此の時に出(み)えたり」と記述していますから、7世紀後半まで朝廷はこの国の名を「倭国」としていました。『日本書紀』が記す神武天皇即位が百歩譲って史実だったとしても、その国は「日本国」では無く「倭国」であったはずです。
●「日本」国号の始まり
701(大宝元)年に制定・公布された大宝律令で始めて「日本」の国号が使用されました。すなわち「公式令」の公文書として天皇が発布する詔書の様式を定めた詔書式条に、海外諸国へ出す文書の様式として「明神御宇日本天皇詔旨(あらひとかみと あめのしたしらす ひのもとのすめらが おほむごとらまと)」の冒頭の例文が記されています。大宝令に明記される以上、その制定以前に「日本」の国号が定まっていたとも考えられますが、それを裏付ける史料は存在しませんから、「日本国」は、701年に始まったといえます。
--------------------------------------------
つまり文献資料的には、国号変更は701年、対外的に認められたのが703年だったという事になる。
この粟田真人節刀遣唐使派遣の前回は、669年(天智天皇8年)任命された“河内 鯨”大使の時である。これは前年の668年の唐の高句麗平定を慶賀する使節だと言われる。
この時は、白村江出兵の言い訳もあった筈なので、とても国号変更を言い出すような機会ではない。実際この帰国時天智10年11月2日に唐国の遣使郭務悰ら600人、送使沙宅孫登ら1,400人を載せた、船47隻の大船団が現れ、対馬国司は大宰府に急変を伝えている。やがて筑紫に着き駐留して軍兵と思われる2000人での駐留状態になり深刻な問題となった。
郭務悰は、これ以前2回来日している。その時祢軍も同行しているので、その祢軍が、(南韓の日本の倭賊が逃亡した先と認識していた)倭国であるから、日本とは同一ならざるものという観念でいてその後死去した後の墓碑にそう書かれている以上、祢軍が来訪した先は日本ではなく倭国だと考えていた事になる。
という事は、少なくとも近江朝時代には未だ、日本だとの認識が公にはなされていなかったと推理できそうだ。
この郭務悰の駐在時の12月に天智は崩御。郭務悰は弔意を表するために大津京を訪問している。
しかしこの後は、壬申の大乱となる。
壬申の乱に勝利して即位した大海人皇子(天武)が、新羅を通して唐へ国号の変更を打診しようとした心理は、“本邦の王権が、従来百済を支援していた近江朝・大倭勢力から、親唐を標榜する日之下族の勢力に交代した;その親唐勢力の国号は「日本」だ”という理屈ではなかったろうか?(対中国的には革命があったとみせかけた?)
だがこの打診は、その真実性を疑った唐の高宗によって否認されてしまったものと思われる。
この頃、時を同じくして、唐に滅ぼされた高句麗に代わって沿海州の女真族勢力をまとめ上げた大祚栄によって「大震」が建国された。「震」の国号は、古代に遼地にあったという幻の王国「辰」に因むものであった。(この為、後世日本に朝貢してきた渤海使は、辰国の後裔たる日本とは兄弟国に当たるとの国書を持参して、時の孝謙帝の怒りを買っている。)
処がその大震の国号申告も高宗から拒否されている。その後、大震を渤海と変更して再申請、倭国→日本国への変更とほぼ同時に、則天武后から承認されているのである。
震は一字国号なので、唐からは国内王の称号と同じになってしまう。しかし日本も渤海も二字国号であり、朝貢国の国名として容認され易かったのである。
更に則天武后に賞賛されるほどの中国故実通だった粟田真人の説得力もあったと考えられる。更にもう一つ、この頃、東チベットにあった蘇毗(ソンパ)国も唐へ朝貢して来た。ソンパは唐からは東女国と通称された女性上位体制の国である。それは中国王朝最初の女帝であった武則天からすれば愉快な事実であった。そこで粟田真人は、今の文武の前の大王であり上皇は女性(持統)であった事をアッピールしたのではないだろうか?武則天から見て、天下の東西の涯で女王が存在しているというのは、中国に女帝が居ても何か歴史的な必然性がある;つまり女王・女帝は特殊ではなく普遍的なものだ!という事を証明するものだったに違いない。
しかも留学生の経験のある粟田真人は中国語にも堪能だったと考えられる。
※その東女国=蘇毗国は月氏の末裔であり、奇しくも極東の日本の和族もまた月氏の末裔であった。
◯ヤマトの3層構造(マトリョーシカ構造)
上層(Ⅲ) (大八洲全体・瑞穂国=後世の日本)大倭国
中層(Ⅱ) (令制時代分国の大和)大倭
下層(Ⅰ) (後世の磯城郡、敷島の)倭(ヤマト)→桃崎氏の云う邪馬台
※実際は“漢字表記上では大倭(Ⅱ)が先で、狭域のヤマトに倭(Ⅰ)の漢字表記を用いたのは後”とする説もあるようだ。つまり漢字の字面で見ると、倭があってそれより広域だから大倭だろうと思ってしまうが、それは逆なのだという主張である。
●大和は主に(Ⅱ)と(Ⅲ) に適用された。後世に(Ⅰ) にも用いられた。
●日本は原則(Ⅲ) であるが、ごく一部例外的に(Ⅱ)に用いられたものがあるというが、これは誤用か意図的流用であろう。
◯倭から大和への概念変遷過程
これまでの論考をレヴューして、倭〜大和までの意味を整理しておこうと思う。
①倭(ヰ)人A ---------中国でいう淮南の水上民や河川沿岸の半農民=淮民
②濊族---------朝鮮半島沿岸の海民、淮民が朝鮮に渡来したもの
※「濊」の漢字表記は恐らく中国人のものであろう。
③倭人B ---------②が秋津島列島に渡来したもの;海民・海人族・安曇族
④倭人C ---------先住民(縄文人)と③が融合した原“弥生人”
⑤倭国---------半島の辰韓等から渡来した民族(出雲族)が④を配下にして成立した北九州など西日本にあった国々;弥生時代末期
⑥倭種の国---------⑤と同様に、大陸からの渡来部族が中心になって成立した国々(豊=宇佐国、狗奴国=日下国など)
⑦大倭A ---------⑤と⑥の多数の国々の連合国(ヤマト大倭=邪馬台)
※宮処のあったヤマトは「倭」字で表記されるようになる
※古墳時代前期に相当
⑧大倭B ---------九州の和族国が東征してヤマトを奪権した統合国家
この段階で大倭もヤマトと呼称されるようになった
また分国名のヤマトも大倭(C)と表記された
※古墳時代後期から飛鳥時代及び奈良時代初期まで
⑨大養徳(ヤマト)---------聖武朝での⑧の異名
⑩大倭---------⑨が再度元の名に戻った
※対外的には⑧⑨⑩は「倭国」のままであった。
⑪日本---------文書上と対外的に⑩の国号のみを改名した(大宝令)
⑫大和---------国内的に、和族の国である事を宣言した
※⑧⑨⑩⑪⑫は内容的には同じである。
主に令制分国名の大倭が大和になって、国号は日本だが別名として大和も使われるようになった。
◯再度トの甲乙音について
ヤマトのトが本当にト乙音なのかどうかは実は確定できないのではないか。というのもヤマトを夜末止と書いているのは、和名抄という甲乙音の消失後の文献だからである。
一般に、古事記では倭乃至大倭がヤマトの表記として使われた。しかし倭の読みは夜麻登だと書かれている。また“夜麻登登母母曾毘売”という表記もあり、倭=夜麻登だとされている。
登もまたトの乙音である。
ヤマトに日本の表記を当てるのは日本書紀であるが、書紀編纂時には国号を日本とする事が決まっていたからだ。(しかし先述の様に書紀でも日本の前の国号は倭国だとしている。)
ところで、何故表音に甲乙音があるのか?それによって上代の母音が8音であった事になるのだが、それは何故か?
勿論それはいわゆる同音異義語を識別するためだ。
例えば日(甲音ヒ)と火(乙音ヒ)は、現在では同じ発音のヒだが、これは漢字表記すれば即理解できる。
だから、漢字の使用が普及した奈良朝末期には甲乙音やヤ行やワ行のエ段音は消滅に向かったのである。
※同音異義語の識別には、もう一つアクセントによる違いがある。---------こちらの方は今も持続されている。
実際、音標文字しか無い欧州語では、母音が10も20もあって、その発音の違いで語(word)の違いが識別される仕組みなのだ。漢字カナ混じり文が標準となると、微妙な発音の違いは摩耗していく。太陽の日と、熾した火の違いは、ジツの方のヒ(日)とカサイ(火災)のヒ(火)などと用例に言及して識別される。
さてそれでヤマトだが、このヤマトの語尾のトに甲乙音の違いがあるというのはどういう意味を持つか?つまり言い換えれば甲乙音に発音し分けて識別すべき同音異義語があるのか?という問題である。
軽々に結論は言えないが、ヤマト(甲音)とヤマト(乙音)の区別すべき観念があるのか?と云えば、そんなものは無さそうなのである。
そこで山門(甲音)と夜麻登(乙音)・邪馬台(乙音)の意味合いが変わるか?という問題である。
しかも乙音は同時代的なもので、山門は甲乙音消失後の音訳表記なのである。ト1音だけでもそうだ。(英語のentrance に相当する概念なのである。)戸は甲音で途は乙音か?
ここで参考に「ポルトガル」の音訳漢字表記の例を見てみよう。
漢字表記は「葡萄牙」で、 葡と略される。
これは広東語の発音(Pou -tou -nga≒ポウトウガー)による漢字表記に由来し、19世紀の中国南部で生まれ、日本を含む周辺国に伝わった表記である。
それまでは「波爾杜瓦爾」「保留止賀留」「蒲麗都家」などの多くの表記もあったが、幕末期より日本でも葡萄牙の漢字表記が優勢となったものである。
ポルトガルとはポルト・カーレ伯の支配地に由来する。カーレの由来は未詳だがドーロ川の(支流の)異名とも。そしてPortoは勿論港町ポルトの事だ。しかしこの中世の漢字表記の保留止を見て、止はトの乙音だと言うなら滑稽に過ぎる。(保留止賀留は南蛮人が来航した室町末期の事だから、当たり前ながらとうに甲乙音は消滅している。)ところがPortoが港だというからには保留止という表記は単なる音訳では無い。意訳にもなる。
山門はそういう類の表記だという事である。
◯ヤマトとは何か?
とは言え、ここまで検討をしてきても肝心のヤマトの原義・謂れは分からぬままである。
“ヤ+マト”(矢的)などではあり得ないだろうから、やはり“ヤマ+ト”つまり“山+ト”であろう。その場合、山は至近の三輪山と考える向きもあろうが、私はヤマとは熊野の事だと考えている。応神の皇子大山守の管轄する地域が吉野熊野でありこれを“山”もしくは“大山”と呼んだので、大山守命なのである。従って、ヤマトとは熊野への入り口という意味合いしか考えられないのである。
もしトを棚とか麓と捉えるなら単に三輪山の山麓の意味となるが、巻とヤマトは全く同じ地域を意味する事になってしまう。(別称にする意味が無い。)
でそのトであるが、私のいう門(ト)は戸と同音同義である。井戸は井門とも書かれる。戸とは扉を持つ建築物の入り口だが、関戸というようにある施設の構内への入り口をも意味する。後世の修験道では、山入りする時の特別な王子祠などをト(門)と言った。そこには所により素朴な鳥居なども構えられていた。修験道のトは結界の境を意味する。吉野熊野は中世には修験の聖地となった地域である。上古から熊野は特殊な地域と意識されていたと考えられる。そしてその山入りする場所が“ト”なのだ。
ただ虚心坦懐に考えるに、トは単に山本=山下の下(モト)の意味というのがそもそもの原義だったのかも知れない。
下をモトというのは、他に坂下という例がある。
勿論小噺の“和和和”ではあるまいし、トは和では無い。
とはいえ、今やその和和和の小噺も死語かも知れない。
--------------------------------------------
どこかのお殿様があるとき魚を食べました。
その魚はとてもおいしかったのでお殿様は家来に聞きました。 「これは何という魚じゃ。」
家来は答えます。「いとよりと申します。」
「いとよりか。してどのように書くのじゃ。」
家来は紙に、《和和和》と書きました。
「和泉の『い』、大和の『と』、日和の『より』で
『いとより』ございます。」
--------------------------------------------
日和のヨリは和の訓の一つだが、和泉も大和も熟字訓であって、大(ヤマ)+和(ト)では無い。これは熟字訓の知識のない:つまり無知の愚かさを笑いの素にした小咄なのだ。
ヤマトのトの甲乙音談義はともすれば、それと同じレベルに陥ってしまいかねない。
※「大野 晋博士による『日本語タミル語説』は、提唱されて以来40年間経つ今日まで、多くの学者によって全否定されてきた。しかし本当にこれはおかしな説なのだろうか? 例えば、ヤマトはタミル語で日の本、巻向は日の出、木花開耶姫は「王の命・早く・散らす」姫を意味する。
これまで意味不明とされてきた日本書紀・万葉集・古代地名などの未詳語をタミル語で解くと、驚くべき古代日本の真実が明らかに!」これは昨年出版された田中孝顕氏の著書「日本語・タミル語 言語接触説」の宣伝文である。私も“日本は日之下”論者ではあるが、「ヤマトは日之下」という説には同意しない。何故なら日之下族(天孫族)が日之下武命(武内宿禰)に率いられて畿内入りする前から、ヤマトの名が存在したと思われるからだ。出雲がヤマトに言い換えられた訳ではないだろう。
補遺49続 付言
◯再度「邪馬台について」
桃崎氏は「邪馬台はヤマトと読み、従って中国側の言う邪馬台国は大倭にあった」としているわけだ。
しかし、邪馬台は果たしてヤマトと読んだかどうかへの疑問を先述した。
というより実際的には「ヤマトを中国で邪馬台と音訳した」という事についての疑問である。前述の如く、邪馬台にはやはりヤマタイと読まれる(言い換えればヤマタイと発音された)可能性を述べた。
私は、桃崎氏と違って、
「ヤマト大倭」Yamato-ohwi →yamatowi→yamatai 「邪馬台」ではないか?という仮説に立っている。
ヤマト大倭というのは、“ヤマトなる大倭”という枕詞的な観念だ。
「微かなる春日(ハルヒ)」(冬至の=初春の日昇の光は微かで頼りなげである、という意味)から春日にカスガという読みが生まれた。また時は下るが「飛鳥(トブトリ)の 明日香の里を」では飛鳥が明日香と読まれる根拠とされる。
同様に「ヤマト大倭」から大倭がヤマトと読まれる所以となった、と考えるからだ。
ここで未解決の疑問も生じてくる。
三輪山の山麓に最初の統一王朝である“三輪王朝”が建てられた。私説では、月氏黄牛族の集住地である辰韓から、非斯羅派の国々の部族が渡来して、(恐らく山陰及び北九州経由で)三輪山近辺(出雲)に移住して建てた国が、山陽山陰〜北九州までの(倭種の;と中国側が言った)複数の村邑国家群と連合してできたのが大倭であろう。
しかしそこで、「その大倭がヤマトと呼ばれる様になったというのは、主要な国家が三輪山麓=ヤマトにあったからだろう、だがそこは出雲でもあった筈なのに、なぜ“出雲大倭”となって大倭がイヅモと呼ばれるようにならなかったのか?」という疑問が生じて来るのである。
出雲も三輪山麓の地名である事が分かっている。またヤマトもほぼ同様の地域を指す言葉だった。
三輪山麓を示す地名にはほかに「巻」がある。ヤマト川(初瀬川)を挟んだ向こう岸が巻向である。巻向には三輪王朝の初期の宮処があったと想定されている。
だから巻も巻向も出雲の一部である。
三輪王朝系の垂仁天皇と目される大王:活目入彦五十狭茅は、この範囲にある纒向珠城宮に宮処を置いた。
しかし一説によれば垂仁の育成地は、イクメで巻向よりも西北に当たるという。(具体的にはどこか未詳だが、大倭川と佐保川の合流点北方、今の大和郡山付近か?更に北の菅原か?)そこら迄も出雲だったのか?
更に北に佐紀がある。佐紀は“出雲より先”から来た言葉なのだろうか?
大倭がイヅモではなくヤマトと呼ばれたのは、
①ヤマトは出雲をも含むより広域を指す言葉だった(?)からなのか。
②後世の応神系河内王朝が、イヅモの方が前王朝に直結する言葉だと感じて嫌い、ヤマトの呼称の方を存続させたからか。
③大物主を山陰の根の国に(杵築大社を開いて)封じ込めてしまう為に出雲の地名を転用したので(言い換えれば地名込みで遠ざけた為に)、異名であるヤマトの方が残った、なのか。
---------等々の理由が考えられる。
☆和泉監の設置と薑(ハジカミ)
霊亀年間に河内から分離して(後世;天平年間に)和泉国となる地域を平城京政権の直轄下に置く和泉監が設置された。
最初2郡だったが後に3郡となった。この和泉監は、和泉地域に建てられた茅渟(珍努)ノ宮の管理と、和泉地域で取れる海産物及び特産の薑(ハジカミ=生姜)を管理する為だったと言われる。薑の語源は“ハディカラミ”で“歯に(噛むと)辛い”草だという事である。中国から伝来したとの伝承があり“呉ノハジカミ”とか刺激のある生姜臭を“クサハジカミ”と言ったようだ。
※これに対し本邦特産の山椒を和のハジカミと、これは奈良時代になって言ったようだ。
つまり薑もまた葱韮や辛味を好む天孫族の嗜好品だったのだろう。葱は(豊後の禰疑野から移植されて)河内で栽培された。葱は単なる野菜ではなく和族のバルソム(聖草)である。
また薑を宮廷の膳部の直轄下で管理する為にも和泉監が置かれたとすれば、大変に興味深い。
※先に「国名が“泉→和泉と改字”の俗説と異なり、郡設置時に既に和泉の二字表記だった可能性がある」と記したが、未だ河内国の郡名だった時代に好字二字令によって改字されていた可能性は考えられるのだが、目下文献上辿れていない。なお、和泉監と同様に芳野監も置かれた事がある。吉野の方は、吉野川(紀ノ川上流)の鮎を王家が独占する為だったという説もあるが、吉野は大海人皇子の挙兵の聖蹟であるし、その後天武の関係者(持統や文武ら)が吉野宮を度々訪れるなど、王家にとって特別な場所だったのでそこを直轄管理というのは理解できる。和泉と吉野は特別行政区だったという事である。
和泉監の長は和泉正であろうが、国司の三等官である大掾クラスなのでその叙任記事は通常なら国史には載らない。しかしたまたま元正天皇が霊亀2年、和泉宮(茅渟宮から改名)に行幸した時、宮の造営を誉めて和泉正である堅部使主石前(カタソベノオミイワサキ)の位を正七位上から従六位下に昇進させた事が続日本紀に載っている。堅部(片曽部)氏というのは珍しい。元は修理職の次官あたりだったと思われる。この氏族は高句麗からの亡命帰化人で建築技能者であったらしい。だが同時に史官も兼ねていたようなので相当有能な人だったろう。子孫は後世讃岐介などの地方官に起用されている。