天孫族考途中小括改訂版
補論 「天孫族考及び同補遺の途中小括」改訂版
補遺54をアップロードしたところで、天孫族考及び補遺で述べて来た事のいわば中間的なまとめを再度しておきたい。
◯天孫族及び月氏三族の原像
私は、天孫族とは、中央アジアのパミール高原からチベット高原(青藏高原〜青海高原〜アクサイチンまで含む)に居住していた月氏曽彌琉(ソビル)族が源流であると考えた。
その月氏はこの高原地帯から、先ずクシャトリアである;黄牛族が、(後世に云う)ガンダーラとタリム盆地の天山南路方面へ進出し、次にバイシャである白馬族が西域南道の崑崙南麓沿いに移住した。
高原地帯にはバラモン階級である曽彌琉族が残って、高原性の農耕牧畜の生活を維持した。
バラモンである曽彌琉族は、和文風に表記すれば日之下族である。ソとは脚を意味する月氏語で、ビルとはビ=神霊、ル=太陽である。従ってソビルは“太陽神の足下の土地(もしくはそこの住人)”の意味である。
これをタジク語で言うとパミールになる。パは英語のPadの語源でpede=脚の事であり、ミールは神+太陽。後にミソラとかミトラとか呼ばれた日神と全く同義同根の言葉である。
クシャトリアである黄牛族はタリム盆地の交易路に降りて早くから都市国家を形成したと考えられる。後の楼蘭や高昌などである。
また崑崙南麓に分布したバイシャ層の白馬族は、自ら作った商品を持って商業活動を行い、後世のシルクロードの地の利を活かして交易の民となっていく。その活動範囲は地中海から黄海に亘る。
また崑崙からの河川を活かした穀作農業や、同じく崑崙から産出する玉を加工して、主に東方の中国へ輸出するなど、生産加工商業民としても成長していく。
その最も発達した都市国家が于闐(和田)に他ならない。于闐の月氏語での読みはKhotan。中国側はこれをホータンと音訳した。(日本の秦氏の秦:ハタはこのホータンから来ている。漢字の秦は大秦帝国の末裔を仮冒したもの。)
于闐とは、(交易の)馬が、街路に充満している事(充填)を意味する言葉の音訳。
曽彌琉族は、ナギ・ブラーフマンであるので、自らを龢族とも呼んだ。
この龢の漢字の簡体が和である。即ち龢族=和族である。(決して和は倭の別表記ではない。倭人と和人は全くの別系統である。)
また龢の転訛が、聖職者を意味する禰宜なのである。
彼らは、禰宜の被る宝珠形の帽子に似た華穂を付ける;パミール高原原産の野草をネギ=葱と呼んだ。そこで中国ではパミール高原を葱嶺と云う。
つまりそのくらいパミール高原では葱が繁茂していたのか、もしくは現地人が「ここは禰宜であり葱の自生する国だ」というのを“葱の多い山嶺”という風に解したのかも知れない。また禰宜は聖草(バルソム)として葱を扱っていたと考えられる。
(先述の様に、曽彌琉は日之下であるので、龢族の国は元々日之下だったのである。本邦が「日本」の国号表記をしても和読はヒノモトであるのはその為。元来“日本”は百済から見ての東国を意味した。そこは倭人居住地だった。)
そして曽彌琉族は、どうやら首長も副首長も共に女性だったと考えられる。
クシャトリヤである黄牛族は、正副首長ともに男性だったようだが、龢族の出身の女性神職の一族を擁していた。これを置き龢という。(後世の息長氏の前身である。)
一方、白馬族は首長は男性、副首長(最高神官)が女性だったと思われる。
(丁度琉球の国王と聞得大君の如きものである。琉球では両者は一つ同族から襲位しているが)白馬族の場合、必ずしも首長と神女は兄妹(姉弟)ではなく、神女は龢族系の置き龢から選ばれた。これは白馬族の息長である。
月氏全体では、緩い同族連合を組んでいたと考えられる。統一国家を持つ段階には達していなかった。月氏の三族は、天山山脈の主峰・後世云う処の新疆天山に天帝であるアフラマズダが降臨するという信仰を共有しており、それで私は三族を天山三族とも呼ぶ。天山が万年雪に覆われている事から三族には共通して白色信奉がある。特に天山の真南にある于闐を中心都市に持つ白馬族にこの傾向が強い。→本邦の白山信仰にも繋がる。
こういう小分立状態の時に、東北の草原地帯から匈奴の侵入が始まる。
匈奴の侵入に対して、月氏は分裂する。四分したと思われるが、その詳細は後述する。(大月氏、小月氏、中月氏=蘇毗、俘囚月氏の四つ。)
地図の左右が切れているが、左はバクトリア、
右上は天山南麓とタリム盆地、右下は青藏高原
○月氏の呼称 漢から派遣された張騫が訪れたのは大月氏国である。この時、張騫は既に匈奴の浸出した西域の更に西方に、月氏の治める国である大月氏国なるものがある事を、漢に在った時から知っていたと思われる。だから月氏(ルーシ)を“月氏”と漢字表記し始めたのは張騫では無かったと考えられる。恐らく、月氏一族である白馬族が交易のために漢にも来ていて、彼らがルーシと自称するのを、ルー=肉(月はその異字体)で、彼らが肉食民だからと思い、また月氏白馬族に月辰信仰があるのを見聞して月氏と漢字訳したのであろう。
しかし、白馬族も含めて、月氏三族は、日辰信仰を共有していたので、本来は日氏なのである。中央アジアでは太陽をルーとかラーと呼んでいたのだ。
(琉球の名も琉とは太陽=ウチナーグチでテダーの事。球陽は別名である。テダーは照ルラーの転訛か。)
○月氏三族の信仰形態について
①日神(日辰)
曽彌琉族は専ら太陽神を信仰した。
迦楼羅=金烏→金鵄がトーテムだと思われる。
また動物のトーテムとしてヒマラヤの口白鹿が聖獣視された。→これが本邦には龢族神職の春日氏と多氏から伝来。
※我が国に仏教が伝来した時に、まず釈迦そして特に薬師如来の信仰が龢族系に見られた。(バラモンには本草や薬石の知識があったと思われるので薬師信仰には親和性があったのだろうか?)
これがやがて平安時代には新帰の大日如来信仰になって行くのである。大日如来は秦氏系僧侶によって伝来された。
②星辰 妙見・北辰信仰
黄牛族は、平原で都市国家を構えていた。
また戦士階級である彼らは夜間活動をする事も多く、
その為には方角を知る事は生存の為の必須知識だっ
た。この為、星座の動きについての知識を蓄積し、
不動の極である北極星を信仰した。やがて北極星は
天帝と同一視される。
※仏教渡来後は、北辰信仰は妙見菩薩信仰に転化して
いく。
黄牛族のトーテムはその部族名の由来通り黄牛であ
る。黄牛族にとって牛は聖なるものではあるが、
牛そのものを信奉していたのではない。
牛は、ゾロアスター教では、植物の次に神が創造した
最初の動物であり、だから最も神に近い存在だとされ
たのである。そこで彼らは祭儀に際し牛頭(牛首)を
切り取って供犠にした。
③月辰 月読神
白馬族は先ず農耕民でもあったので、季節を知る事が
肝要だった。
更に交易に従事するようになると、取引の期限を
確定する為に暦の知識が必須となる。この為、月の
満ち欠けを観測し、一ヶ月という単位を確立する。
勿論暦作には太陽の運行によって四節を知る事も重要
であり、曽彌琉族同様に日辰信仰も有していた。
(月読とは暦法の事である。)
白馬族が交易の民であることから馬は必須の移動運搬手段である。だから彼らが馬を、そして天山信仰の延長にある白色崇拝と相まって白馬をトーテムとして重視する事になったのだろう。
中国以外で最初に養蚕を始めたのは于闐だったとされるが、馬の神(後世では馬頭観音など)や月読神はまた養蚕の神ともされる。
(なお、タリム盆地が砂漠化するのはAD4世紀後半からなので、月氏が盆地周辺にいた頃はまだ駱駝は導入されていなかったのだろう。)
また白馬族は庶民階層であり最も人口が多かっただけでなく多数の職種に分かれていたので、サブトーテムを持っていたと思われる。現在四川省奥地に残る白馬族などでは鶏をトーテムとしている部族も見られる。
※ミトラ→弥勒信仰
本邦の仏教信仰は白馬族=秦氏系を中心に推進された。白馬族が仏教を受容したのはいつ頃だったのか?大陸時代か南韓時代か、または宇佐に帰化してからか?初期には弥勒菩薩信仰が盛んになっている。
我が国では、上古にはバラモン上層の脱宗教化が進み、専門の神職は残ったが、仏教伝来後は秦氏系が仏教を推進した。第一次は宇佐仏教であり、その後に飛鳥仏教の隆盛が来る。平安仏教も殆ど秦氏系僧侶が主導している。
○月氏三族のレガリア
曽彌琉族(日之下族)の宝器は鏡である。
クシャトリヤ(戦士)である黄牛族のそれは剣である。
そして玉の生産流通に携わった白馬族の宝器は当然ながら玉である。
鏡と剣と玉、それはまさしく三種の神器に他ならない。
迦楼羅=金烏つまり日辰の遣いである八咫烏が三本脚
なのは、月氏三族を表象しているからだと考える。
そして三族の内、バラモンである曽彌琉族(龢族)が最上位階層になる。
いわゆる十七条の憲法なるものには「龢をもって尊しとなす」とあった筈だが、龢の簡体字が和であるので、「和をもって尊しとなす」と考え、民族の融和と解して来た。これは龢の意味(特定の部族バラモンである事)が分からない為である。
物部氏(出雲系=黄牛族)を秦河勝(秦氏=白馬族)の兵力で倒した厩戸皇子と蘇我馬子(共に天孫族=龢族)が、三族の序列を再確認する為に敢えて宣言をしたのが「龢をもって尊しとなす」の条文なのだ。
○信仰の具体的な場所や道具立て
斎日壇 元はゾロアスター教での拝火壇だった
斎日壇では、出席者の複数の主要人物が載って祭事を
営めるようなある程度の広さが確保された→これを
ルードック(日土)という。
土を版築した小さな土壇である。
後日の日下壇(クサカ)である。
バルソム(聖植物) 葱と、ポプラもしくは胡楊
現在の神道で用いる榊の代わり(というより元)は、
ゾロアスター教では大麻の枝葉だったと想像されて
いる。ところが龢(禰宜)族は、葱の葉茎(特に華穂付きの
茎)を手にしていた、と想像される。
黄牛族の都市では、胡楊の葉付きの小枝を祭祀に用い
た。
また太陽信仰の延長として高い喬木に対する信仰が生じ
た。これは神の降臨する依代と見做されたからだろう。
そういう信仰の聖木(神木)として、ポプラや胡楊。これらは太陽の高度を測る測定儀=圭表にも用いられた。
また何時からか銀杏も神木とされたらしい。
(北九州の銀杏は武内宿禰=日之下武が植えたという伝承がある。)
◯ 曽彌琉(蘇毘盧)から曽冨理(ソホリ/蘇毗)へ
曽彌琉(蘇毘盧)族の呼称は東遷の過程で“曽冨理族”と転訛した。曽冨理は氏族名からその氏族の住う所、しかもその中心の地=首邑を意味する言葉に変容して行く。曽冨理はそも日之下でもあるからその変容は原義からの逸脱とは言えない。天孫降臨の地を“高千穂の添(ソホリ)の嶽”とする添も、また三韓で首邑を曾尸茂梨ソシモリというのも、今日韓国の首府をソフルというのも、皆この曽冨理から派生した概念である。
○何時から曽冨理族では首長が男性優位になったのか?
日本神話でも、高皇産霊神が天照大神より優位に立っているかに見える場面がある。審神者(サニワ)は巫女の神託を解釈する第二の聞身である。姫彦制の彦の役割である。恐らく大東遷〜辰国〜月支国のいずれかの途上で、対戦序列として、男性優位になって行ったのでは無いかと思われる。馬韓の月支国は女王だという記述が無い。三韓諸国の中で女性首長は殆ど無かったのではないか?もしあれば特筆されている筈だ。統一新羅になってから善徳・真徳の両女王がある。そこに月氏の習が潜在していると見たい。但し、和族の原郷・高霊加羅の初期は女性首長が3代続く。
○月氏の首長
長(オサ)とは、訳語(オサ)。
本来の首長ではなく、補佐役である。白馬族は交易を通じて外国語に堪能だった。異人との交渉に当たったのが長であり、本来の族長はマサリ(勝)である。マサリも馬佐から来ているのだろう。
他の2族の首長は中央アジア(ペルシャ)風に佐(シャー)だったと考えられる。
佐(シャー) 牛佐、于佐、大佐(オホシャー)=大君(佐中佐)
大君;君は神の転訛と言われてきたが、実は聞身ではないか。ヒントは琉球王府の聞得大君。神の声を聴く人、先ずは巫女である。だが男性の巫覡もいた筈だ。聞身に敬称がついて大聞身=大君か?とも考えられる。
于佐は于闐王の意味合いだったろうが、本邦に至っては宇佐となっている。
宇も馬の意味なので宇佐は馬佐=勝でもある。
牛佐(ゴサ)は首佐でもある。“首佐の大(巨)”が素戔嗚の語源かとも考えた。
牛頭天王は牛首天王とも書かれる。要は牛の首だからであろう。
大佐は佐中佐だろう。ガンダーラのコインにはシャーハンシャーとの記載がある。シャーの中のシャー、即ち大王の事になる。大月氏では各翕侯の事をシャーと呼んでいたのではないか。蒙古では汗の上位は大汗である。
◯四つの月氏
>>匈奴の侵入に対して、月氏は分裂する。
と述べた。
一般的な理解では(漢書の記載では)、“タリム盆地の北部に広まっていた月氏は天山山脈を越えてイシククル湖方面に逃げた。これがイシククル湖の東岸にいたチュルク系の烏孫にも追われて(その当時;前漢の初期の時代、烏孫は匈奴に扈従していたと考えられる。)更に南遷し、そこで三族が共同して建国したのが大月氏国(それは漢の呼称だが)である。
そしてタリム盆地南部〜崑崙北麓に居た月氏の一部は、崑崙山脈を越えて青海方面に居た羌族の地に入り、そこで羌族と混住した。”
その結果、羌族と混住した月氏=月氏羌を漢は小月氏と呼んだ。
漢書に依れば小月氏は、3つの部族から成っているとしている。それが、葱茈羌・黄牛羌・白馬羌の三族の月氏羌だというのである。
葱茈(ソシ)は本来は葱芘(蘇毗:ソヒ)で、月氏特有のヒ→シ音韻転訛の漢訳による。(多氏の経略した関東の一部で日比谷をシビヤと云い、常陸をシタチ云うのも同様。厳密にはヒの甲音phyが転訛するのである。)
漢書は、上述の如く月氏が大小の呼称の付く2群に分かれたとする。
しかし、実際には、アクサイチン〜チベット高原〜パミールに至る崑崙南麓からヒマラヤ・ヒンズークシ北麓の高度高原地帯(南山高原)に居た曽彌琉族は残っていたが、これについては漢書は論及していない。それが後漢時代に、氐族や羌族と一緒になって後漢の軍兵と戦った蘇毗族であり、後世にはその精強さを謳われた婼羌(ルウチャン)である。婼羌は月氏ルーシだと後漢も認識していた。
私は、この高原地帯中西部に残存した月氏を中月氏と呼ぶ。勿論、大・小の月氏と対照しての命名である。
高原地帯には、匈奴も浸出して来なかった。これは、高原地帯の月氏(小月氏と中月氏)が土塁を築いて防衛に当たったからである。匈奴は遠征の際の糧食の代わりに羊の群れを伴った。従って、羊が通れない様に隘路に土塁を築くと、対象の土地が余程魅力的でない限り匈奴は南進して来ないのである。
小月氏も羌族の一部の如く羌族と連携して対匈奴防衛戦線を構えた。この結果、匈奴は河西回廊にまでは攻め寄せたが、崑崙・祁連山脈を越えて南山高原へは進出しなかったのだ。
一方、タリム盆地の月氏は大小月氏となって皆逃げ出したかの印象があるが実際はそうではない。タリム盆地の都市国家の中には俘囚となって、匈奴の軍門に降り、匈奴に税を納めかつ朝貢し、女達やバイシャを匈奴の奴隷に差し出して、命脈を保った(見方によっては情けない)国々もあった。これを俘囚月氏と呼ぶことにする。
整理すれば、月氏は、大月氏・小月氏・中月氏・俘囚月氏と四分された事になる。
ところで再度、“匈奴の侵出で月氏が分裂”と言ったが、これは専ら漢書の解釈に依るものだ。大月氏の北逃と続く南遷は確かに匈奴の侵入によって引き起こされたものだが、小月氏の羌族への混住は、実際には匈奴の西進よりももっと以前からのものだったのではないか?と、今では考えている。
何故なら前漢の初期に既に月氏羌として羌族と協調し、あたかもその構成部族の如くになっているという事は、幾ら共通の敵匈奴の脅威に対抗する為とはいえ一朝一夕に成るものではない。しかも人口の最も多いバイシャ層である白馬族は白馬羌としてだけでなく、さらにその東に居住する氐族の領域にも混住する事を容認されており、後世にまで白馬氐族として名を残しているのだ。
月氏羌や白馬氐族はすでに秦の時代には存在していた節があり、無論秦も戦国時代の燕や趙も匈奴の侵出に悩まされ、長城を建設して防衛に当たっていた事も事実だから、やがて来そうな匈奴の西進に備えての羌族との協調ではないかとも言えなくもない。しかし、冒頓単于が人質になるまでの月氏と匈奴は友好関係にあったとも言えるので、“「月氏と羌族の混住は、匈奴の西進を契機にしたもの」ではなかった”と、私は考えるのである。
但し、小月氏の中から、蘭州方面を出発点として黄河を下る大東遷の旅に出た人々が出て来たのは、一つには匈奴の西進への脅威と、秦が長城建設に羌族や氐族を労務者として拉致動員しようとした情勢への危惧があったのではないかと想像される。
○大月氏と中月氏のその後
大月氏国 張騫が訪ねた時には、女王が就位していた。曽彌琉(蘇毘盧)族以来の慣習が生きていたと思われる。その後、大月氏国はバクトリアを征服して、中心部を南に移す。この後、部族間の調和が崩れて、五つの土侯国(翕侯国)に分裂した。曽彌琉族と黄牛族の翕侯が各2。白馬族の翕侯が1である。
この内クシャトリヤの翕侯国である貴霜翕侯国が他を圧して統一した。これがクシャナ朝である。クシャナ朝は、過去からクシャトリヤの国だったと考えられるガンダーラを併せて北インドまでに版図を拡大する。
しかし、ペルシャに勃興したササン朝に征服されて滅亡し、月氏の血脈は雲散してしまう。
中月氏 崑崙山脈の南北に残った曽彌琉族を中心とした婼羌(蘇毗)は、南下して来たチュルク系部族の寇掠を避けてチベット高原へ南遷して行く。尤も婼羌というのは、進出したチュルク系からの呼称である。漢字表記は中国人に依るものだが、女偏が付いているのは女性首長国だったからだという。
(若=ニャクというのは龢nyagu の転訛であろう。)
チベット高原で曽彌琉族は、複数の国家を建てる。それらの内で有力だったのは、西端の象雄国と東端の蘇毗(ソンパ)である。この2国は曽彌琉族の習慣に沿う女王国であった。特にソンパは、通好していた唐からは東女国の名称を与えられている。正王も副王も女性という、全く古代の曽彌琉族と同様の国体であったようだ。その首都は昌都チャムドである。
これらチベットの2国は、新興の吐蕃(恐らくインド・ネパール系民族か)によって征服される。吐蕃は、青海路方面に成立した吐谷渾なども滅ぼして、青海〜青藏高原に一大帝国を築いて、一時唐と対峙した。
曽彌琉族の多くは吐蕃に屈して、チベット人になって行くが、一部は中国の四川省方面の山地に逃れ、今もなお少数民族自治区を作って残っている。
恐らく、残存月氏で、本邦の天孫族と血縁が最も近いのはその部族かと思われる。
○小月氏の大東遷
小月氏のどのくらいの人たちが東遷に参加したのは分からない。
メーンは黄河に浮かべた羊皮筏に分乗し、護衛の小舟と共に、蘭州近辺から内蒙古オルドスの黄河南転の(曲がり角)付近のトクトまで降った。黄河南岸を護衛の騎馬隊も複数群が時差併走していたと想像される。
予め東方へ交易キャラバンに出ていた白馬族の報告を受けて、安全なルートを取り、途中複数の停泊地で何泊かしてトクトにたどり着く。しかしそこは匈奴の勢力範囲であるから、早めに出発して今度は陸路を中心に東に向かい最終的に西遼河上流に出て、再び川を下って、恐らく遼陽付近に達した。
そこは匈奴と東胡鮮卑族との緩衝地帯になっていた。ここで小月氏三族は一時的に国家を建てる。「辰」である。これは三族の信奉する日星月の三辰を統合する国だった。
しかし辰は城砦都市国家ではなかったと思われる。環濠はあったかもしれないが、蒙古や遊牧民と同様な天幕を住居としていたのか?石造の遺跡が残されていない為、架空の国だとも思われている。(或いは現存の都市が完全に遺跡を覆ってしまっているか?であるが。)
この遼河界隈に滞留中に西遼河言語連合との言語接触があったと考えられる。
しかしこの辰は、西から進出して来た衛氏朝鮮の勢力に追われて、南韓の地へと再度の移動をする。
こうして南韓の地に、先住民濊族を取り込んで成立したのが三韓である。
馬韓は白馬族の国だったが、ほぼ同時に遼東半島に居た貊残が南下してきて最強勢力となる。百済になる部族だ。馬韓の中には龢族の月支国もあった。
辰韓は主に黄牛族の都邑だった。だが辰韓の王は馬韓にいる月支王だったという。南韓には弁韓の都邑群があった。これは辰韓と同種だったらしく弁辰の名もある。(弁辰は当初は辰韓などの分邦国だったかも知れない。)
南遷しなかった月氏の一族の中には逆に北に行って扶餘に仕えた者も出た。扶餘の大官には黄牛族と思われる氏族がある。
処で、この大東遷した月氏は三族ともそれぞれ独特の帽子を被っていた。
冠帽子の習慣は、長旅の為としてでなく、タリム盆地と南山高原にあった時からのものと思われる。特に龢族王族の帽子は高い円頂帽である。龢族一般は後の烏帽子の頭頂を尖らせていない円頂帽で、中国人の云う胡頭帽か。
一方バイシャの白馬族の物は、後世大黒帽という折れ烏帽子の原型だろう。
黄牛族の日常の帽子は記録にはないが、やはり胡頭帽か、もう少し丈の低いヘルメット状の帽子かと思われる。(古墳の埴輪にそういう形態の帽子が多数見られる。)
※この大陸時代以来の冠帽子習慣が、奈良時代以降鎌倉時代まで、我が国では公家から庶民までが常に烏帽子を被る習俗に繋がったのである。古代貴族の肖像で帽子無しのミズラの髪型は未成年のそれである。
○月氏の南遷と渡海(本邦への渡来)
衛氏の後朝鮮北部を支配していた公孫氏が魏によって滅ぼされ、韓地の支配権を巡る魏韓戦争が起こり龢族の王家である月支国が滅亡すると、龢族は弁韓に南遷し、高霊加羅を拠点にする。この頃、満州に勃興した高句麗に刺激され貊族の百済が馬韓の統一に乗り出す。また辰韓では斯羅国が新羅として東韓統一の動きを見せる。辰韓の黄牛族の内、斯羅による統一に不服な牛頭族や伊西国の部族は、東海を渡って列島の山陰方面〜北九州へ渡来した。率いた将の名が五十猛、奉じた神は素戔嗚である。島根から山陰の海人系弥生人の倭(ヰ)族や先住の縄文族を従えて、次第に勢力を山陽から近江やヤマト盆地方面へ伸張させる。
(五十猛は一人ではなく;つまり個人名ではなく将官名だろう。五十猛は倭襲建で、倭人からの敬称とする説もあるが、恐らく伊西国の伊西=五十で、イソには何らかの神聖性を含むニュアンスがある。石上のイソでもある。)
また辰韓南部の白馬族は次第に狗邪韓国(金官加羅)に集まり、一大産業都市を形成した。また伊西族以外でも新羅に加わらない黄牛族には、弁辰南部の安羅に拠るものもあった。金官加羅、高霊加羅、安羅の三国を中心に反新羅連合を作り、西方の百済や列島に移った加羅系渡来人達の後援を受けて抵抗した。
高霊加羅の龢族の王族の一部は、血脈の存続を図る為に、渡海して列島の北九州地域や山陰の特定地域に移住する。これが天孫族に他ならない。神話の邇邇芸命は後世に孝昭天皇(稚松彦香禰疑:禰疑は聖草・葱韮のことであり、かつバラモンたる龢=禰宜のこと)とされた人物で、その子の孝安天皇(日本足彦国押人)が山幸彦(火遠理命)のモデルである。
北九州北部には、既に旧伊西国勢力の伊都国などがあったので、龢族はその南側に回り込んで、有明海北岸〜筑後川流域に日下国(久我国=中国側で云う狗奴国)を形成する。
先住した黄牛族は、山陰から山陽〜ヤマトに入り、王朝を立てた。これが開化・崇神・垂仁と続く三輪王朝である。三輪王朝は、吉備の勢力や北九州の伊都国などの出雲族系勢力との国家連合を作る。被支配層は弥生時代までの倭人(ヰジン)だった。これが大倭(オオヰ)であり、ヤマトに中心を置いたのでヤマト大倭と呼ぶ。※この段階ではヤマトは大和ではなく山門である。また出雲もヤマトにあった地名である。
三輪王朝と並行して、左日下(佐賀)〜右賀(遠賀)そして豊(宇佐)を版図にして中部九州を平定して行ったのが、(景行天皇と後世目される)武雄心命(忍代別/大帯日子)である。忍代別の息子の双子の兄大碓(大稚足日彦)が右賀の遠賀(岡田)宮を治めていたが父に背いた為、弟の小碓(小稚足日彦)がこれを撃ち、岡田の西方の水巻宮に蟠踞した。小碓はそれ以前に父の命で、球磨川方面の熊襲の討伐に赴いた事があり、熊襲から日之下武と呼ばれた。
実際に忍代別を後継したのは日之下武命であったと考えられる。大王就位の後は、日之下武も左賀の武雄に来て、息子達を四囲の討伐に送り出した。
○列島への渡来の順
最先住していたのは縄文人であり、彼らは北方系、東アジア(ツングース)系も含まれていたがその多くは、中国江南地方に居た倭人(ヰジン)である。従って縄文人の文化は東南アジアや南島系の要素を多分に含む。
次に遅れて半島では濊族と呼ばれた淮河周辺の海人族で稲作を持って渡来して来た。これらが先住民と混淆して弥生人となる。
その後に南韓にいた月氏系の三族が渡来してくる。
最初に列島へ来たのは白馬族の商人。
次に黄牛族が渡来した(=出雲族)。
先住の海人族=倭族と共に連合国家を建てる→これが“ヤマト大倭”。
更に天孫族(龢族)→日下国(久我国=狗奴国)。
残っていた白馬族が新羅に追われて渡来したのは狗奴国東遷後である。
最後に百済と高句麗の亡命人達もやって来る。
○狗奴国の東征→大和国と河内王朝
日下国は、日之下武命の時に北九州を統一。その妻の豊姫(神功皇后)と嫡子の誉田別(応神天皇)と共に東征して、ヤマトの三輪王朝を打倒し新王朝を立てた。応神の後の仁徳からは河内の難波京を首宮としたので河内王朝という。また、この東征後、九州にあった斎日壇(日下)は、河内湖の東岸の草香の地に移し営まれた。斎官を務めていたのは春日氏である。
◯二つの皇統
私説では、孝昭(便宜上、後世に設けられた漢風諡号を用いる)を祖とする九州王朝と、孝霊を祖とする三輪王朝の二つが併立していたと考えた。
神武〜綏靖〜安寧〜懿徳の4代は、両皇統を一つに(一系に)見せかける為の架上であると考える。
春秋暦の問題 上古の天皇の宝算が異常に長い事を説明するために考案されたのが、春秋暦(2倍暦)や4倍暦というアイデアである。
しかし、春秋暦といっても、冬至から夏至までを1年とし、その夏至から次の冬至までを1年とするというのだが、一体そんな暦は実用上役に立つのか?今は春年で夏を過ぎれば秋年だなどという暦法は、農事や漁労にとってはややこしくてしょうがなかろう。所詮机上の学者の戯言としか思えない。
つまりそういう暦法は、上古の天皇の宝算の異常の長さを説明する為以外の用法は考えつかない。単に、両統の迭立を誤魔化すマジックなのだろう。
◯藤原氏の功罪
半島挽回の意図の撤回: 藤原朝時代には、白村江の敗戦後であり、唐への警戒(その唐の太宗と高宗の本邦への領土意欲を削ぐ)必要があった。
継体朝以来、天智の近江朝までは、我が国は半島に潜在的な主権を保有している事を、前王朝(河内王朝の;中国南朝で云う倭の五王)の主張を継続して推進していた。
それを日本書紀という対外的にも発表した国史に於いて、“我が国王家は自国内南九州の日向に発足した一族(日向の高千穂の山嶺に天から降臨した神の子孫)なのだが、列島中心部を征服して倭人達の小国家を併呑して日本という国を建てたものだ”と宣言したのである。
その論法上は、近江朝までは百済王家を支援して来たが、近江朝は本来の皇統からは逸脱したものであり、今飛鳥浄御原に都する大王(天武)こそが正統であって、そのように皇統が正しく復元された事で、日本は今後百済の残党を支援する事もないし、新羅による半島新秩序も容認するというものだった。
この結果、大陸・半島への領土的野心も無い;大倭から変身した日本の国号を唐も容認したのである。以後は遣唐使を送り朝貢を継続して臣従した。
このように、日本書紀を如上のストーリーで纏めさせたのは藤原不比等の功であったと思われる。
(※唐の方は、東国=日昇の方角にあるから日本だと理解したが、実は元々日之下=ヒノモト→日本だったのである。)
しかし、その事は取りも直さず、“天皇家のルーツの隠蔽”に繋がった。
本邦の王家が、神武から4代の架空の神皇を加上せずとも、中央アジアに於いて、少なくとも中国の春秋時代にまでは遡及できる古い歴史を有していた筈で、実に世界中で最も由緒がある王朝という事が霧消してしまう事になった。
我が王家の大陸での歴史は、恐らく持統女帝の頃までは朧げには伝わっていたかに思うのである。しかし日本書紀の記述は、当の皇族も縛って行く。
孝謙女帝の時代には、民族のアイデンティティに関わるような伝承も忘却されてしまっていたと考えられる。
傍証としては、(1)渤海国使が来日して「渤海と日本はかつて辰国から出た兄弟国だ」と言った事に、「兄弟とは無礼だ」と孝謙が異常に怒っている。
(2)重祚した称徳が、法皇の道鏡に肩入れして皇位を譲ろうとした。天皇の位には龢族の血を濃く持つ王族しか付けないという(日嗣の)原則を理解していない。
(3)龢族は元来葱を聖草としていた上に、葱や韮などのクサ(臭草)を常食し、その為ニンニク臭を消すために藤袴の香を焚き染める習慣があったが、孝謙がこの事をよく知らず、高位貴族一般の風習だと思い込み、母光明子の一族である藤原氏の邸宅を訪ねた時に、藤袴を手土産に持参した。藤袴の香は高位の皇族しか用いられない不文律があったのに、この事を孝謙が理解していなかった。
このように、ポスト日本書紀時代には、急速に皇家も“新人類化”していく。称徳の未熟さに懲りて本邦では長く女帝が就位出来なかった。
また日本書紀では、中臣氏の祖先神を天児屋根命として天孫族の随臣に仮冒した。藤原氏下剋上の根拠も同時に捏造されている。結果的に、藤原氏も天孫族にルーツがあるとして、武内宿禰系5氏族にのみ許されていた大臣家に登る事を容認させ、遂には摂関という事実上の副王の地位にまで就いたのである。
これは大月氏国が貴霜国(クシャン朝)に簒奪されて行ったのとほぼ同様のプロセスである。
※ 天児屋根とは海小屋根で、対馬の浦部のシャーマン(卜部)だった卜部(中臣)氏が亀卜をする為の海辺の小屋の事なのだ。
○豊受大神とは何か?
伊勢に於いて天照と並んで下宮の豊受大神が祭祀されて来た。古伝の保食神と同じ神格だとされ、食物神かつ豊穣の女神だとされる。
天孫族が稲作民に本格的に遭遇したのは、列島渡来後の弥生人だったと考えられて来た。しかし、豊穣の女神は、ゾロアスター教系では、日神の母なる神であるアナーヒター女神である。天孫族は大東遷の間もその信仰を潜在的に保持していたのではないか?それが列島渡来後、稲作民の豊作を叶える田の神や、海人族の豊漁の神などと集合して保食神→豊受女神に成ったのかと思われる。
--------以上の事は、これまでの天孫族考とその補遺に論述して来たものを要約再述したものに他ならない。だから分析抜きで、ほぼ結論的な部分を列挙している。断言的と見えるのはその為である。
勿論、上述は私流の仮説に過ぎない。
だが仮説は、それに関わる事実との間に、明白な論理的な矛盾が存在しない場合には真説となる。
私の天孫族考と補遺類で陳述して来た論考は、目下のところ、考古学的な遺跡や遺物、史書類に見られる史伝などとの間に、目立った矛盾は生じていないと思われるのだ。