補遺50続①「タミル語と日本語、語彙の相似」

天孫族考補遺50続①「タミル語と日本語、語彙の相似」

補遺50では、かつて言語学者の大野晋氏が提唱した仮説「日本語の一部はドラヴィダ族の一部が使用するタミル語彙に相似している」について検討した。

これから先は、その時言及した仮説で

1)ドラヴィダ族とは実は遥かの古代にメソポタミアにあった都市国家群を建てたシュメール人の末裔である。

2)インダス文明は、メソポタミアを追われたシュメール人が興したものだ。

3)ドラヴィダ族は、その後北インドに遷住した。

4)アーリア民族によってドラヴィダ族は南インドに追われて現在に至った。

---------という幾つかの前提があったが、それらの項目も含めて、考究を続ける。(但し、最新の考古学的な知見では、この1と2の前提が崩壊しているのだが、それについては後述する。)

◯先ず、シュメールとは何か?

シュメールとは何に因む名称か?

それは;

アッカド→高い丘の土地

スメル→洲辺(低地)

を意味する一般名詞的な地名だという。

後世では高地に起こったのがアッシリア、低地はバビロニアである。

(一般名詞的な地名とは、スコットランドのハイランドとロウランド、フランスのオートhauteとプレネplaineに相当する名称だとされる。)

---------というのが普通の説である。

するとこの“スメル(低地)”に来着するまでのシュメール人の原名は何だったのだろうか?

或いは逆に、スメル人が住み着いたので、そのメソポタミア南部低地をスメルと呼ぶようになったのか?

もし後者だとすると、思いつきだが;スメルとは楚魅琉ではないか?魅とは彌や霊であり、楚魅琉は葱芘琉=と同じで、太陽神の曾祢下つまり日之下かも知れないのである。というならば“月氏とシュメールは同祖”となるのだが、実際の処その可能性は低いだろう。同族としての形質の類似性が乏しいからである。また両者の存在確認されている時代が余りにも離れ過ぎている。

だが、シュメール人の原郷は中央アジアだという説がある。

チュルク族も、ウラル山脈とアルタイ山脈の間の原住地から度々に亘って集団で南下移住を繰り返してきた。

東南に下ったのは突厥や回紇となり、直ぐ南西に行ってキルギスやカザフスタン〜タリム盆地に留まった部族も居れば、延々長征して、イランの地に至ったセルジュック族や更に西に転じてアナトリアに入ったオスマントルコもあり、その中間には恐らくトルクメニスタン〜(カスピ海を回り込んで南進して来た)アゼルバイジャンのように、北進してきた同系統のオスマントルコと遂には接することになったケースもある。またよりウラル山脈沿いに住んでいた近系のブルガル族も、その後カスピ海を回り込んで今のブルガリアを建国している。

またゲルマン民族の東ゴート族のように、ほとんど欧州の東から西まで行った民族もある。

こういう事を考え合わせると、原シュメールが中央アジアで誕生後、アフガニスタン〜メソポタミア〜インダス〜北インド〜南インドと回転した形で移住をしたと仮定してもその事自体は驚くには値しないだろう。

そうすると、その原シュメールが中央アジアにあった時に、月氏の祖族の一部族と接触があった可能性はあるのか?

(日本語と同様に)ドラヴィダ語の文法もアルタイ語的である。また語彙の中に共通なルーツを持つ可能性があるとしたら、必ずしも大野晋氏のような;北インド〜アッサム〜雲南〜長江倭人〜縄文人という流れを考えなくても、タリム盆地周辺での言語接触によると想定できないものだろうか?

もし初期月氏黄牛族と原シュメール人(もしくはそのアフガニスタン辺りの残裔)との言語接触があったとするなら、タミル語との相似の語彙は、倭人〜縄文人経由という大野晋説ではなく、黄牛族〜辰韓〜出雲族〜弥生人という経路の;北方ルートでの流入であったかも知れないのでは?とも考えてみた。

と言い条、月氏の中でもバラモンである龢族の文法は、アルタイ語的ではなく、むしろ印欧語族的だったと推測されているのだ。形容詞も後置修飾であるが、古代に於いてそのほかの文法的な特徴がどうだったかの詳細は明らかになっていない。

小月氏と反対方向に;天山山脈の西北に逃げて建国された大月氏国やその後継であるクシャン朝は印欧語族的な文法の言語民族だったと考えられている。もっとも、大月氏国はギリシャ系(アレキサンダー系の)バクトリアに進出したので、その段階での言語接触で印欧語族系になった可能性も否定はできない。但しそうだとすると、原月氏が印欧語族系だったのが、タリム盆地などに降りた黄牛族や白馬族(秦族)が、一旦アルタイ語系になり、それがヘレニズムの洗礼で再度印欧語族になったという、かなり無理な展開を推測しなければならなくなってしまう。だから、ここは「月氏は元来は印欧語族だったが、(何処かで)アルタイ語民族との濃厚な接触があった部族から、文法はアルタイ語系に変わった」と考えるのが妥当であろう。

だから、月氏のバラモンであり高地部族だった龢族も東遷して我が列島へ来るまでの間に、どこかでアルタイ語族と接触して、文法が変わったのだろう。

①月氏の中でも黄牛族は、早くから西方は罽賓(ケイヒン;後のガンダーラ)に進出し、またタリム盆地の北東部に展開して都市国家を立てていたのだが、そういう黄牛族が、アフガニスタンでの原シュメール族の残裔等と接触してアルタイ語文法を獲得していたのか?

②早くから交易の民であり後にシルクロード貿易の主役になった于闐族(白馬族=後世の秦氏)が、アルタイ系の民族と接触して、月氏社会にアルタイ語文法を持ちこんだのか?

③月氏が匈奴の侵略を察知して四分した時に、東部に居た月氏三族は、崑崙山脈東部から青海方面に居た羌族に混住した。つまりこれが小月氏である。もし羌族がアルタイ語族であれば、そこでの言語接触で小月氏はアルタイ語系文法になったのか。→しかし今残る羌族の言語はシナチベット語族のものであり、恐らく古代から変わらないのではないか?(従ってこの可能性は殆ど無いだろう。)

④小月氏が黄河中流〜西遼河方面への東遷後に、周辺民族のアルタイ語文法を獲得した。(=いわゆる西遼河言語連合)

その後南韓地域に入り三韓を形成する頃になるとすっかりアルタイ語系となった。そしてそのままま、半島から本邦山陰地方〜北九州への渡来後に於いても、その文法はアルタイ語系のままだった。つまり弥生人(縄文人+海人族)との接触では、語彙の一部(もしくは多く)を借用したが文法はそのままだった、というのか?(“文化的に進んでいる側の言語に、劣っている側の言語も同調する”というのが、言語学の“一般的常識”である。)

更に極端な話ではあるが、

⑤月氏三族は列島渡来時までは、文法は必ずしもアルタイ語系であるとは限らなかったが、(大野晋説の様に)弥生人が江南の倭人経由でドラヴィダ語族の文法を採用していた為に、新来の月氏三族(秦族、出雲族、天孫族)も統治の都合上、大多数の民の使っていた言語の文法を採用したものなのか。

(この場合は上述の“一般的常識”に反する例となる。もっともノルマンディー公のイングランド征服では、支配者側が被征服者側の言語に同調している。)

---------これら5つの可能性が考えられる。

私は大野説⑤と異なり、④の可能性が最も高いのではないか?と考える。

というのも、もし⑤の大野晋説のように列島渡来後に、アルタイ語系文法に変わったとするなら、それを持ち込んだのは海人族=倭人だという事になるが、そうなら何故列島より早く海人族の移住した韓半島に(そこでは先住の貊族などと混住して濊族となっていたわけだが、文法こそ同様にアルタイ語系だとしても)語彙にタミル語系の流入痕跡が殆ど発見されないのはどうしてか?という疑問が生じるのである。

確かに朝鮮語と日本語の間では若干の語彙の相似が見られるが、それらは月氏三族が三韓にいた頃の名残だったのではないだろうか?(つまり、辰韓のように黄牛族の都市国家群に、列島渡来後の黄牛族分派=出雲族との間の語彙の相似があってもおかしくないし、その事情は弁韓=加羅や馬韓:百済+慕韓との間でも同様だろう。統一新羅になってもそういう語彙は残っていたかもしれない。だからそれは日本語の朝鮮語からの借用語ではなく、いわば両者共通のルーツを持った語彙だったのだろう。)

ここから推理できるのは、朝鮮半島の濊族は、江南の倭人の渡来だったとしても、かなり早期の渡来部族であって、後から来て南韓沿海から秋津島列島へ広まった海人族こそがタミル語との言語接触の経験を持った部族だったのではないか?と推測できるだろう。古い濊族はアルタイ語系文法では無かった可能性もある。(言い換えればシナチベット語族の文法だったのではないか、ということだ。)

とするなら南韓にアルタイ語系文法を持ち込んだのは、三韓人だということになろう。だから“朝鮮ではアルタイ語文法は日本語と共通なのに、語彙はごく少数しか相似のものがない”という事の説明になる。(日本では、語彙は縄文+海人族系のものが多数だからという事。)また列島渡来の海人族は、長江奥地から出てきた後続倭族であり、かつ南韓を経過してもそこでの滞留期間が比較的に少なかったので、南韓へ残した語彙は僅少だったのではないか。またそこでの南韓倭族も百済の滅亡前後に、殆どが対馬や壱岐、松浦沿岸の島嶼から北九州の何処かへと亡命して来て、列島先住の海人と混在してしまったであろう。

この現象を説明するのに、「朝鮮半島は古代に於いては諸民族の単なる通過経路に過ぎなかった」と言う識者もいるのである。

>>朝鮮半島は、人・道具・動物が西北⇄東南に移動する為の何の変哲もない単なる陸地回廊でしかなく、それ故に半島発祥という独自のモノは少ない。<<

と、ここまで言うのは、いささか言い過ぎであろう。

勿論、漢の四郡設置以来、中国語の三韓への影響は大であったが、中国語は勿論シナチベット語族であり(SVO型)、文法はアルタイ語系ではない。三韓でも漢語語彙は多数借用されたが、それはあくまでも借用語なのである。

◯三星堆文明と原月氏の交流はあったのか?

NHK BSの「謎の文明三星堆」では、“従来孤立していたと思われていた三星堆文化は、その銅の成分は殷の開発した長江中流の盤龍城文化(湖北省武漢)と共通であり、また三星堆の神廟の中心をなす神が太陽神であるらしいが;その太陽神信仰は長江中流域の稲作文明のものだったと思われること;但しあの青銅器造形物の異様なデザインや絹織物は岷江上流の羌族や白馬族と共通モチーフであり、これは北方系の文化の流入を物語る事;更に大量に出土した、恐らく貨幣の代用だったと思われる宝貝がインド方面の海洋の産品だったことからアッサム〜雲南〜四川の南方系交易路からの文化の伝播もあった事、これらから、東西北方の三方からの文明の交叉路に成立したのが三星堆文化と考えられる”としていた。

“三星堆の衰退は、中原の殷周革命の余波とも考えられ、その文化はより長江を下った金紗文化に受け継がれていった”という。

そうすると三星堆はBC15C頃であるから、未だ白馬族は(中国でいう)“民族走廊”の北四川山岳地帯には移住しておらず、タリム盆地にいた筈なので、その白馬族の影響があるというなら、“西域との交易の存在を物語る”ということになるのだろう。民族走廊はまた交易走廊であり、文明走廊でもあったろう。

或いは今の白馬族の住む奥山地帯には、先住の別の民族;後の氐姜などの源族が居たのかもしれない。そしてあの特異な意匠はそれら民族の保持していたものなのかも? さりとて三星堆文化の意匠は余りに特異であり、古代オリエントなどに類例を探すのは難しい。“羌族や白馬族の意匠と共通性がある”というような見解もNHK番組では出されていたが、私には羌族の持つデザインとは、著名な羌刺繍などの造形感覚を見る限り、相似性は乏しいとしか思えない。

また私の知る限り白馬族にも三星堆的な特異な意匠の遺物の言及をする人を見たことがない。

我が国の縄文時代の土偶のデザインなどとの類似性を云う人がいるが、これも図像学的に見て別種のものだとされる。

また中国人学者のように、太陽神信仰を長江流域の稲作民のものとしてしまうのも決めつけである。その長江稲作民はまた倭族となって縄文時代の列島へ移住したものが出て、本邦は弥生時代になって行く。だがその倭人が弥生文化と共に太陽信仰を本邦に持ち込んだ人たちなのかというと、それを明瞭に示す考古学的痕跡は目下の処不在なのである。

(太陽信仰は、世界の諸民族に見られるもので、東アジアでも北東の扶餘などにも存在した。日光感精説話などもその亜流である。)

三輪山は太陽信仰との関係が言われて来たが、実際それは、古墳時代以前からあったものなのか?(しかし出雲族もまた辰韓系なので、同じ辰韓から出た新羅には太陽信仰があったようだから、三輪山の太陽神信仰は、辰韓系黄牛族の一派である出雲族=五十族が持ち込んだものかも知れないのだ。)

だが、やはり“本邦へ明白な太陽神信仰を持ちこんだのは、天孫族ではないか!”と私には思われる。その畿内での拠点が河内湖東岸の日下となり、奈良盆地の(藤原氏に簒奪される前の)春日山になったと考えている。天孫族は日之下族であり、元来は月氏蘇毗族=龢族(マギ・バラモン)だったのだから。

補足

※“アッサム〜雲南〜四川の南方系交易路からの文化の伝播もあった”との言及が上述文書にあったわけだが、これに関係する興味深い事柄を、インド北東部の少数民族ムンダ人の研究者である長田俊樹氏(総合地球環境研究所名誉教授)が論述している。それは、「播磨国風土記」に出てくる;「稲種を鹿の腹を切って取った血に浸して播く」事で稲苗の育成の無事を祈るという呪術的な農耕儀礼に通じる、禽獣の血を以って米の豊作を保証する儀礼が、ムンダ人の農耕儀礼にも見られる(ムンダ人の場合は鶏の血が用いられる)ことの指摘である。そしてムンダ人は、元々中国雲貴地方に居た民族で、アッサムを通って東インドに移住して来たものであり、この禽獣血呪法は中国西部の原住民(これを鳥越憲三郎博士は倭族と呼んだのだが)の習俗だったのだろうと推測している。

この農耕儀礼における禽獣血咒法については、かつて京大の文化人類学派が“照葉樹林帯に於いて猪・豚や牛や鶏の生き血が用いられていた可能性に言及していた”ものである。

この禽獣血咒法が本邦古代に於いても見られるということは倭族という共通項をパイプにして、照葉樹林帯の習俗が伝播して来た事の証左である。だとするなら、北インドに居た頃のドラヴィダ人の部族であるタミル人の(主に稲作関連の)語彙が、照葉樹林の倭族→長江〜淮南の水辺淮民=海人族という経路で伝播して来ていたと考えてもそれ程不自然ではないと思える。

※なお私は従来の使用慣例で「インダス文明」という表記を用いている。しかし昨今の研究の深化に依れば、我々が学校教育で習った「大河の一つであるインダス川沿いの地域に発生した文明」という概念は訂正を迫られているのだ。

ハラッパーとかモヘンジョダーロの遺跡が我が国では有名であり、これらは確かにインダス流域(パキスタン領)であるが、その後の考古学的発掘で、西インド地域で多数の遺跡が続々発見されて、むしろインド側がこの文明の本場であり、その派生がインダス沿いにまで展開したとの学説が提唱されるに至った。この学説は、インド側の国粋主義ともいうべきヒンドゥー至上主義(その政治的な党派が、モディの率いるインド人民党である)によって強力に推進され、インドの教科書ではここ10年ほど前から、インダス文明という用語は使われず「シンドゥー・サラスヴァーティ文明」という言葉に置き換わっている。シンドゥーは概ねインダス流域地方(パキスタンのシンド州の概念より広い?)を意味し、サラスヴァーティとはインド神話に登場する幻の川(現実の幾つかの川に比定されている)の名前である。

とは言え、我々も弥生文化という用語を使う。これはご承知のように東京の文京区弥生町で発見された土器(これを弥生式土器と呼んで、それ以前の縄文式土器と区分した)をもって、その文化の時代の呼称としたわけだが、その弥生町を決して、弥生文化の中心地だとは思っていない。弥生文化の中心地もしくはその創始地域は西日本である事は承知の上で、弥生文化と呼んでいるので、インダス文明も最初に発見された地域の名前を使い続けて行くのも、全く間違ったものとは言えないと思うのだが---------。

補遺50続② 追補へ続く

(そこではトランスユーラシア語仮説と西遼河言語連合について考察する)

※続①は、②を論述する前提部分なので、特に新たな仮説を提案しているわけではない。しかし、②が長文となるので、便宜上分割したものである。

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