補遺50「ドラヴィダ語と日本語」
天孫族考補遺50 「ドラヴィダ語と日本祖語の言語接触について」
かつて言語学者の大野晋氏が「日本語とタミル語の間に密接な関係がある」との有名な論考を発表した。(20世紀末の事だから、最早、なんと四分の半世紀以上前になってしまった。)
その当時、未だ“言語接触”という概念が定着しておらず、大野論文もあたかもタミル人が日本人の祖先であると言っているかの如く短絡的に受け止めた人も多かった。
この時の俗論的な反論では、今ではタミル人が南インドに定住することからして、余りにも唐突だという非難もあった。
これなどは、ドラヴィダ人(タミル人はその代表的な部族)が、かつては北インド〜パキスタン南部に居住し、それこそ超有名なインダス文明を開花させた民族だという歴史に無知な非難だった。
さりとて、ドラヴィダ人は更に古代のシュメール人の末裔ではないか?との有力な学説もあるのだ。
そのドラヴィダ人はインダス川流域からは、アーリア民族の南下によって圧迫されて、デカン高原方面へ逃亡したというのである。
ドラヴィダ族と言えば、本邦では、“スリランカ(セイロン)内戦での反政府密林ゲリラ”としても知られている。スリランカの過半数は仏教徒のシンハリ人だが、タミルゲリラはヒンドゥ教徒である。この為、ヒンドゥ教徒の多いインド中央政府もタミル人の肩を持った。結果紛争が長期化したのである。インド内部では、ドラヴィダ族はロー・カースト扱いなのにである。インドの過半数は、複数の部族が混在するものの、アーリア人系のヒンドゥ教徒なのである。これにジャイナ教徒やモスリムとごく少数の仏教徒が存在する。それらは夫々別の民族であると主張している。多民族国家なのである。従ってインドの連邦公用語はヒンディー語だが、その話者は4割程度。州ごとの公用語はベンガル語など15もある。そこで共通語(準公用語)は旧宗主国の英語である。
(だからインド人という民族は存在しない。言うならばインド国民はいる。)
◯言語接触の生起点と経路は?
このインダス文明人を南に追ったアーリア系民族の中に月氏の(祖先になる民族の)一部も入っていたと考えられるのではないか。月氏の黄牛族はかなり早い時期にパミール高原を降りて西南側の罽賓(ケイヒン:後世のガンダーラ)に分国していたという。
言語接触があったとするならば、この辺りで起こったとも考えられる。(①)
というのも、月氏のバルナ3層(ブラフマン、クシャトリア、バイシャ)の下に置かれた農奴層がシュードラであるが、これはドラヴィダ族の農漁民だったと考えられるからだ。ドラヴィダ族との接触前にはシュードラは層というほどのヴォリュームでは無かっただろう。ブラフマンやクシャトリア上層の家奴婢などは存在したであろう。
またドラヴィダ族が北インドに広く分布していた頃に、②ネパール方面でチベット高原南部にあった月氏龢族との接触も考えられる、また③アッサム渓谷を通して、揚子江源流域の倭人との接触が考えられるし、④ガンジス川下流地域からビルマ人やクメール人などとの接触があり、これを通してベトナム〜広西地域に流れて閩越地方経由で淮民(長江〜淮南の水上民)にボキャベリーを中心にした流入があった---------
など①〜④の幾つかの接触経路は考えられるのだ。
◯言語接触とは
ここで言語接触についての一般的な理解を確認しておこう。Wikipediaが要領よくまとめている。
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言語接触(げんごせっしょく)とは、二種類以上の言語が互いに影響を及ぼしあうことである。
それぞれの言語の使用者が同じ社会の中で棲み分ける場合と、異なった社会に暮らす異なる言語の使用者が接触し、交易などを通じて深い関係を結ぶ場合がある。どちらの場合でも接触する言語間ではお互いに語彙の借用が行われる。接触の度合いが進むにつれ借用語の流入は一時的、表面的なものから恒久的な言語そのものに関わる次元にまで達する。また時には文法、語法の借用も行われる。又交易などを通じ言語接触が起こった場合は、ピジン言語が成立する事例も多い。ピジンが母語話者を獲得し、完成された自然言語となったのがクレオール言語である。
※(鈴木注;ピジンは英語のbusinessの中国語訳から派生した。よく言えばビジネス英語だが、その訛ったもの・ブレたもの。フランス語の同様のものをフレンチピジンという。ピジンをピジョンと解して“伝書鳩言語”・“電報ゲームでの遷化”とするものもある。更に江戸時代の長崎の支那人のおかしな日本語を長崎ピジン、満州での中国人や満人の独特の日本語風話法を満州ピジンなどといった。ピジンも言語接触の結果だと考えて良いが、決してピジンのみが言語接触では無い。)
また、言語接触状況において、威信の高い言語を上層言語、威信の低い言語を基層言語という。
地理的に隣接した言語同士が、接触を通して共通の音韻的・文法的特徴を獲得する場合も見られる。ある地域において、系統にかかわらず一定の類似性を示すようになった言語群は、言語連合と呼ばれる。
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この言語連合は、最近注目されるようになった“西遼河言語連合”の概念で盛んに意識されるようになった。
更にWikipediaには次のような補足もある。
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系統論における言語接触
言語は語族という分類単位が存在するが、生物のように世界中の全言語を系統分類できていない。この原因として言語接触による混合言語化、クレオール化が考えられる。(これは生物学でいう遺伝子の水平伝播に該当する。)言語は拡散と混合を繰り返してきており、祖語自体が混合言語である場合はそれより上位の系統を決定できないためである。
言語接触と言語変化
他言語との接触は、借用語の流入のみならず、音韻論・形態論・統語論・意味論といった広範な領域における変化を誘発する。
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音韻論的にいうなら、有名な“rとlの違い”と混同を巡る流音の単複分布のマターにも拡がる。
※日本語は“rとlの違い”の無い単流音地域である。
要するに、20世紀末に言われたような言語流入があったか無かったか?などという単純な観念では無いというのが現代の言語接触の概念なのである。
◯大野晋氏のタミル語と日本語の類似性説
大野晋氏が、あまりにタミル語語彙と日本語の単語の類似を強調し過ぎたため(しかし今からすればこれは誤解で、取り上げたジャーナリズムがそういう単純理解をしていたため)「単に似てるだけじゃ無いの。語群系統は全く異なるんじゃないか。」と反発を受けたこともある。またこれは悲しい事ながら、当時のJapan As Number One の風潮にあって、“南インドの遅れた文明の民族と共通性があるなどという論への感情的な忌避感があったのではないか”と反省すべき点もあったと思われる。
だが、大野氏は語彙の類似だけでなく、文法上の類似性も指摘していたのに、遺憾ながらこの点は多くの人からは看過されてしまった。
大野氏のタミル語と日本語の類似性について、大野氏自身が要約した以下の文書が、簡にして要を得ている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/gengo1939/2001/120/2001_120_117/_pdf
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タミル語と日本語 大 野 晋
「言語研究(GengoKenkyu)120. 」 (2001年),117~130
私はタミル語と日本語とが非常に密接 な関係を持つと考えている。
この二つの言語は
①文法構造が共通である。つまり両言語は共に膠着語に属する。そして助詞・助動詞 に20個 の対応がある。
② 単語に、音韻対応の法則に支持された約500語 の対応がある。
も少し具体的にいえば、
③ 助詞ゾ・カ・ヤ の係り結びが、古代タミル語にも見出され た。
④ 和歌 の575757…7という長歌の形式、57577という短歌の形式がタミル語の古典にも見出された。
こうした事実は従来の日本語系統論では どこにも見出すことができなかった.
それ を具体的に示すことにしよう。
文法構造の比 較
(1)名詞は変化しない.
(2)文は題目語・述語の順に並ぶ.
Venil poyirru. Katal peritu.
春 去 リヌ. 海 広 シ.
(3)形容詞は名詞の前にくる.
Ven tinkal. Cem malar.
白イ 月. 赤イ 花.
(4)副詞は動詞の前にくる.
Mella nata.
ユックリ 歩ケ.
Enrum arulal ventum.
常ニ 与エル 必要ガアル(ベキデアル).
(5)目的語は動詞の前にくる.
Kallin natpali utti.
石ニ 毎日ノ捧ゲ物ヲ シタ.
(6)関係代名詞が無い.
Avar irunta en nencu.
彼ガ 住ンデイル 私ノ心
(7)助動詞(動詞接辞)は 動詞の後に付き、文末にくる.
Ennatuum pariyal venta.
少シモ 同情 スベカラズ.
(8)助動詞(動詞接辞)の配列に一定の順序がある(順序は日本語とタミル語は同一である).
Nata-tta-ppatt-anru-kollo.
行 カ セ ラ レ ヌ カ.
Nata-tta-ppatt-um-kollo.
行 カ セ ラ レ ム カ.
(9)助詞(小辞)は名詞・動詞の後に付く.
Arulum anpum aranum.
恵ミモ 愛 モ 義務ヲ果ス人モ.
Entai vantu uraittanan.
私 ノ 父 ガ 来 テ 語 ッタ.
(10)疑問文の場合、文末に 疑問の助詞を付ける.
Yatu ceyvan ko1.
何 ヲ スル カ
以上のような 構造的な類似だけなく、助詞・助動詞が音韻法則によって支持されて対応する。
(中略)
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更に大野氏の上記論文のラスト部分には、結論的な論述が記されている。
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縄文時代には、オーストロネシア語の一つの言語(1 ;簡単な子音組織 2;a,i,u,oの4母音 3 ;母音終りという言語)を使っていた。そこヘタミル文明が水田稻作・金属使用・機織 という当時としての驚くべ き新文明をもたらした。それを受け入れるにつれて、タミル語の単語と文法とを旧い音韻体系で受け入れた。つまりそこにCreoleとしての日本語が成立した。8世紀の日本語はその子孫である。
タミル語は音韻の上で日本語と次のような顕著な相違をもっている.
1 、母音 に長短の区別が ある.
2 、 a,i,u,e,oの5母音である.
3 、第2子音に捲舌音を持つ.
また鼻音と複合した子音(nk,nc,ntなど)を持つ.
4 、子音終止の音節が多い.
こうした大きな相違が タミル語 と日本語との間に存在する。従ってこの二つの言語が一つのoriginから発達したとは考えに くい。
言語 はすぐれた文明に追随していくものである。水田稻作・金属使用・機織 という当時としての卓越した文明が到来した時、その文明を保有する言語を、当時の 日本人は 自分たちの四母音、簡単な子音(捲舌音 をもたない)、母音終 りの言語をもって、その文明語を学び取ろうとつとめ、実際にも多くを摂取した。そこに漢字到来以前の日本語が成立したわけである。
そうした大きな「文明開化」に伴って、言語の語彙的、文法的移行が生じた.。それは弥生時代である。
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大野晋氏の言語接触に関わる論点を私なりにまとめれば、
A)A部族言語文明とBのそれとが接触した時には、
A文明がB文明に優越する場合は、低民度のB部族は優越なA部族の言語を摂取する。つまりB部族も言語的にはA言語を大幅に取り入れる。(これはAがBを征服する事ではない)
B)本邦の場合、縄文人に民度の高い弥生人が入ってきて弥生人の言語が縄文人の言語を席巻した。
その弥生人の言語は、稲作とともに、中国江南の稲作民族によってもたらされたものだろう。
C)もしそのもたらされた言語がタミル語だとしたら、ドラヴィダ族が北インドまで支配していた時代に、長江源流地帯など中国南方地域経由で流域の諸部族に伝来したのだろう。
---------つまりこのCについては、タミル語の伝播を南伝と考えている。
それは先述の①〜④までの経路推定の内③と④に該当するものだろう。→しかしこの場合生じる疑点については後述★で。
何故なら①だった場合は、ドラヴィダ族がシュードラという下層カーストにされたことから、アーリア系の方が優越民族なので、上記Aのルールに即せばあり得ないからだ。
また①の言語接触が月氏とであったかと言えば、月氏が成立した頃は既にパキスタン方面からはドラヴィダ族の勢力は(奴隷にされたかなりの人口を残して)逃亡して、主力はインド方面へ移住していたと思われる。
但し、②の場合即ちヒマラヤの渓谷経由で南のドラヴィダ文化がヒマラヤ北麓の月氏龢族に伝播した可能性はなしとは言えない。この場合、果たして農耕民族のドラヴィダ族が牧畜農耕民らしい龢族よりそれ程優越した文明人であったか?の疑問は残る。(ただ龢族は加羅天竺が優越文明の地だという観念を持っていた。そもカリー=辛い食品のカリーはタミル語なのだ。)
★そして③④の疑念は、長江源流地域や広西などの倭人より、ドラヴィダ人が優越と言えるほど文明差があったのか?という件である。倭人が江南〜韓半島〜九州へ移住してくる間には、長江中流文明や淮北=黄河流域の漢民族祖人らの文化の影響も受けて相当程度の高民度に成長していただろう。しかし、長江上流やメコン川流域などに在った頃の倭人はきっと極めて民度が低かっただろうとは想像できる。
今私たちが、東北インドのアリッサ州などに山岳少数民族として残っているドラヴィダ人の末裔であるボンダ族やコンド族などを見ると、その肌色の黒さと生活レベルからほとんどアフリカ奥地の部族と思ってしまう。これよりも中国南西奥地の倭人が劣等文化であったとは容易に想像出来ない。
しかしそれは今から四千年以上も前のことだから、今の基準で考えてはいけないのだろう。
興味深いのは、ボンダ族が女系制社会だという点だろう。ボンダの男は、女性の居る集落へやって来て見合いによって(女性側に選ばれるとその)女性の家へ婿入りする。しかも女性の方がかなり年上だという事である。従って、女性の方が先に亡くなり、夫は子供たちと妻を看取って葬式を営むというのが一般らしい。
また先ほどの言語接触に於いて、優越部族の言語が流布すると大野氏は言っているが、ノルマンジー公のイングランド征服の場合などでは、優越民族はノルマンだったが、非支配者のアングロサクソン人の方が圧倒的に人口が多かったので、フランス語話者のノルマン王族が英語を取得して(フランス語語彙の流入はあったものの)イングランドではそのまま英語が国語として残ったのである。文明的には両者に顕著な優劣は無かったと考えられる。
本邦に於いても、辰韓や加羅から渡来した(私の言う)天山三族:黄牛族と秦族そして龢族=天孫族とは先住の弥生人(縄文人と倭人)に比べて少数(凡そ渡来系が2割と言われる)だったから、若干の渡来語彙は別として、基本的には弥生人の言語が流通し続けることになったと思われる。
そして、だからこれが大野氏の主張する日本語のタミル語との類似性として残ったという主張につながるのだろう。(大野氏も基層言語は南島語系だったと考えていた。そこに上層言語として海人族の言語が流入し、新たな基層言語として弥生言語が成立したという事なのだろうか。)
ローマ帝国に於いては、ローマがギリシャを領土化しても、ローマの言語が通用していたが、ギリシャ語も流通していたらしい。プトレマイオス朝のエジプトなどでは当然ギリシャ語が通用していた。しかしローマ帝国の首都がコンスタンチノープルに移り、やがて東西に分裂してからは、東ローマ帝国(ビザンチン)ではギリシャ語が公用語になった。武力的にはローマ人が優越だが、文明的にはギリシャの方が優秀だったからだ。
アレクサンダーに征服された西アジア地域では、原住民の言語とともにギリシャ語が併用されていた。クシャン朝のコインなどでもギリシャ語が刻印されている。
言語併用の経験の乏しい我が国の人間にとって、なかなか言語接触による母語の変換は理解しにくい。横文字言葉の氾濫といっても単に語彙の流用でしかない。強いて言えば、コンピューター用語やプログラム言語が今は英語一辺倒になってしまい、PCを扱う場面では日本人もバイリンガル化するのが近似例と言えるだろうか?
残念ながら、大野氏の在世当時、多くの人々が彼のドラヴィダ語との言語接触という概念を理解していなかった事である。
また日本史学者の視野が狭く、とても西アジアや南アジアの民族と日本民族との間の文化人類学的共通性に着目出来なかったのである。第一、中央アジアの月氏に三族がある事さえ、漢書西域伝に記載されているのに、全く誰からも気づかれないで来ているのだ。
さて、大野氏説では言語接触ケース③④に該当する南伝で、“タミル語が海人族によって日本列島へもたらされて弥生人の言語を形成した”とされているが、この説への大きな反論点は、その南伝経路を幾つか想定しても、途中の長江流域や広西省方面、また淮河周辺や南韓加羅地方に於いてそういうタミル語的な語彙の痕跡がほとんど残っていない!という点である。
実は痕跡は暫くは在ったが、そういう言語変化をした部族がほとんど原住地を出てしまい(つまり朝鮮半島の濊族や本邦の安曇族などになっていて)その結果元の地には痕跡が残っていないという事なのであろうか?これは全くあり得ぬ事ではない。また呉越の地域も、三国志時代以降言語的には、優越な中国語に席巻されてしまい、少数民族を除いて、殆どタミル語接触の痕跡は喪失してしまったという事も考えられる。
ゲルマン人の一種である東ゴート族などは、今の黒海北岸地域が原住地だったが、現在ではそこにゴート族の言語的な痕跡は殆ど無いのだ。ゴート族はフン族の侵入により、一時その従属下に置かれ東欧地域に西遷した。この間ゴート族の言語はフン族の言語(モンゴル語か?)に多大な影響を受けたであろう。フン族が突如衰微してゴート族が復権すると、更に東へ移動して、分裂して弱体化した西ローマ=イタリア北部を占領して、いわゆる東ゴート王国を建てたのである。
ところで、大野氏は自説の正しさについて触れて、「単語に、音韻対応の法則に支持された約500語 の対応がある。」と言っていた。この500語の対応の例として挙げられた語対応を見ると、私には必ずしも“成程対応しているワイ”とは思えないものも幾つか含まれている。“ちょっとこれらを対応例とするのは無理がある”と思うものがある。
そして大野氏はこの“500語の対応”という分量について、外国でアイスランド語とラテン語・ギリシャ語の対応を350語程度の対応例で両者に強い相関関係があるとしている先例があるので500語も対応していればタミル語と日本語の相関関係の証拠としてはほぼ十分だろう、という趣旨の発言もしている。
しかしその単なる物理的な相似性の数だけでは、二つの言語が強い相関関係にあるとは言えないだろう。
グローバル時代の現代はあまりに特殊だから参考には出来ないが、外来語の数という点から見れば今日では遥かに500語を超える相似(流入)がある。また南蛮貿易の時代(安土桃山期)にはスペイン語やポルトガル語の語彙が多数流入した。
時にアイスランドは1944年に完全独立するまではデンマークの統治下にあったが、言語は(北ゲルマン語系とされているが)欧州各国の何処にも類似しない一種の孤立語である。とは言え、13世紀にノルウェーの統治下に入った後、スカンジナビアの連合王国時代を経て、1523年にデンマーク王国領となったので、当然スカンジナビア諸語との濃厚な言語接触を持っている。だからそのアイスランド語がヨーロッパの共通祖語の一つとも言えるギリシャ語やラテン語と比較する時には、350語程度の相関を見れば良いのだろう。
しかしこのアイスランド語の言語接触とタミル語のケースは一緒には出来にくい。
だからこそ、大野氏は語彙の相似性だけでなく文法の類似性についても論じていたのだ。しかしこちらの方は、大方の当時の言語学者たちからも無視され続けて来たのである。
私は、月氏語の幾つかの例に接する時、どうも月氏語では形容詞後置が通常である事から、今の日本語のように名詞の前に形容詞が前置される別系統の言語との接触があったはずだと考えて来た。(欧州では北方系が形容詞前置なのに、ラテン系は後置が一般的である。もっとも英語においては、名詞を修飾する形容詞に相当する語句が一語である場合は前置修飾を、二語以上なら後置修飾を使う。フランス語では通常後置修飾だが、前置する時は抽象的な概念になる。)
勿論その点だけから言えば、中国語も形容詞前置と言って良いだろう。だから形容詞前置は、中国語の影響だとも言える。しかし中国語は、周知の如くSVO型であり、日本語はSOV型で、目的語は動詞の前に置かれる。漢語からの借用語は数えきれないほど多数あるが、中国語と日本語は濃厚な言語接触はあったが、明白に別言語系統だと感じられる。
中国に於いても、隋唐は北朝時代の北魏と同様に漢民族ではなく鮮卑拓跋族である。北魏時代初期には鮮卑語を使っていただろうが、次第に中国語に変わって行った。唐時代には、南朝の言葉であるはずの漢語が一般的となった。とは言え、濃厚に鮮卑的な言語要素が取り込まれ、特に漢字の読みは三国時代とは相当に変わったと言われている。
この言語はそのまま宋の時代にまで続いていくが、元の征服後は蒙古語が第一公用語となった。中国語は併用された。明になると漢語が復活する。そして再度の異民族支配である清の時代には、第一公用語が中国語で、第二公用語が満州語となる。武力的には満州人が強勢だが、文化的には漢民族が優越していると清国皇帝が認めたからだろう。しかし支配民族がどちらかを明示する為に目に見える習俗(例えば服装や髪型)は満洲族のものを強制した。国教もチベット仏教黄帽派であった。
ところで、大野氏がタミル語・日本語の類似強度の高い例として挙げていたハタという言葉について検討してみる。
大野氏は、日本に於けるハタには3つの意味があるという。(実際は機=ハタや氏族名の秦を入れれば4つ以上なのだが、これは敢えて無視しているかに見える。本邦での機は布を織る為の器械である。古語辞典でも、“機は織機が第一義で、また機で織り上げた布をも意味する”となっている。)
ところが大野氏は、ハタは旗・布地・凧の3つの意味を持つとする。大野氏は日本の古語のハ行をfa----fo で表記するので、ハタはfata であるが、これはタミル語のpatam に相当するという。大野氏の持つタミル語-英語辞典ではpatam は、flag・cloth・kite(即ち旗と布地と凧)となっている。
凧をハタと呼ぶのは、大野氏によれば長崎県の方言だという。調べてみると北西九州(松浦)地域で凧をハタと呼ぶことがあるようだ。しかし北九州地域の一般的な呼称では、タコではなくイカだといい、正しくは烏賊幟と呼ばれる。また平安期の「和名抄」では「紙老鴟(しろうし)」あるいは「紙鳶(しえん)」とある。今でも凧をトンビと呼ぶ地方もある。凧揚げは平安初期ころまでに中国から伝来していたとされる。
でその凧をハタと呼ぶのは、旗に糸を付けて飛ばしているという意味合いなのであろうか?
だからハタ=凧が非一般的な極めて一部地域の方言だとしても、大野氏の言うような;タミル語辞書にある“patam →flag・cloth・kite”を認める事は一応許されるだろう。そして大野氏に依れば、こんなハタを巡って3つもの語義が重なるというのは実に稀な事なので、これぞ日本語がタミル語からの継承要素を持つ証拠だというのである。
但し日本では、機=布は第二義で、第一義は織機であり、その機という器械で織り上げたから布地もハタというのだと解されている。しかも古代史学者の間では、秦氏の一部族である服織部が用いる布を作る器械が、氏族の名からハタと呼ぶようになったというのが常識化している。
つまり秦(氏族名)→服織部の器械=機:ハタ→(機で作った物)布(ハタ)→布でできた幟や差物=旗、という関係だと理解されて来たのである。
だから結果的には、日本語のハタ=旗・布がタミル語のpatam =flag・cloth・kite(旗と布地と凧)と同じであるとしても、必ずしもハタはタミル語と弥生人の言語接触の証拠だとは言えない。
私は、このハタをめぐる類似性は、むしろ秦族が(その原語は和田族)が月氏の白馬(ベイマ)族であり、シルクロード交易の民であることから、白馬族(和田=patan)がタミル語と日本語の両方に影響を与えたのだと考えるのである。
秦族の商人は、天孫族の渡来より以前、弥生時代の中期には列島へ渡来していたと考えられる。水銀の利用などは、秦族の商人が倭人に教えたものであろう。もしかすると縄文時代の土偶の中に冠帽子人像があり、これは加羅からの商人を写したものではないか?との推理は、かつて天孫族考で展開した通りである。
この事から、大野氏が、“タミル人と言語接触した原倭人(の後裔)が海人として列島へ渡来して弥生人の中核となった”としているとしていた事;それはタミル人T→倭人W→弥生人Yのパターンであるが、実際にはハタの場合;秦氏H→T&Yだったのである。そして更にXを未知の接触媒介民族とすれば)T→X→Yもあって、必ずしもXをWに限定する必要もないのではなかろうかと、私は考えるのである。(但し倭=wiでwaではない事を断っておく。)
だから秦氏Hの例の如く、X→T&(W or Y)というパターンも当然あり得るわけである。
さりとても、語彙の移入・借用のみならず文法的な類似性となれば、やはりT→X→Yという言語接触の移転があったと考えざるを得ない。
その場合、秦氏がXかと言えば、それは俄には肯定できにくい。渡来前の秦氏が(主に金官加羅辺りにいたとして)どういう文法を持ちどんな言語を使っていたかは分からないが、恐らく辰韓→新羅系の言語であったろう。
またXは到底中国人ではあり得ない。
但し、百済滅亡後日本に渡来し後世秦氏に同族化していった馬韓南部(慕韓)の民衆Bが、元来白馬族と濊族の混交部族と考えれば、これがXであったかも知れないと、目下は漠然と考えている。この場合、基層言語を持っていたのがどちらであったか?
タミル語との接触痕跡を保持していた上層言語はどちらであったのか?これは未詳である。
Xを辰韓系の(つまり月氏黄牛族系の)出雲族Zと考えられるかといえば、それは無いであろう。というのも黄牛族は、早くから罽賓などに原郷であったパミール高原から降りていたので、先述①のケースであり、ドラヴィダ族を奴隷(シュードラ)化したであろうので、その劣等民族とみなすドラヴィダ族の言語(原タミル語)を大々的に取り入れたとは考えにくいのだ。
ではXをチベット高原〜ヒマラヤ南麓に居た龢族N(これが後世天孫族となって列島へ渡来した)と考えられるか?である。これは先述②の如く、北インドに文明を築いていた頃のドラヴィダ族との言語接触で、一部の龢族がタミル語的な要素を取り入れて変わり、それが偶々小月氏の葱茈族となり、そこから東遷した部族が辰国→馬韓月支国→高霊加羅→北九州日下国となり、更にそれが東征して(出雲王朝を倒して)大和王権となった、と考えられるか?という問題である。
この説の弱点は、東遷後一度は辰国という統一王権を建てているので、その間に北辰族=黄牛族=辰韓人が全く王権であるNの言語を取り入れなかったというのは考えにくい事だ。しかしもし辰韓にもタミル語的な言語要素が入ったとしたら、それが幾らかでも新羅に継承された筈だが、そういう痕跡を指摘した人は今の処いない。
勿論、三韓時代まではその痕跡があったが、高麗〜李朝とツングース系王朝が続き、その間にドラヴィダ語的な要素は払拭されてしまったという可能性もないとは言えない。
このX→Nというケースが成り立つとしたら、今四川省奥地に少数民族として残っているソンパ(蘇毗国=中唐時代の東女国)の末裔ギャロン族に、ドラヴィダ語との接触痕跡が維持されているかを見れば分かるのだが、中共支配下ではそういう調査は不可能であろう。ソンパは龢族の後裔だからである。
そして媒介民族Xを、モンゴル族とかペルシャ民族など第三の民族に想定できるかといえばそれは全くあり得ない。第一、それら(W〜Y、H、Z、N以外の)民族は、北方へのアイヌ民族以外、我が国に流入していないからだ。
だからXはW〜Y、H、Z、Nのどれかしか考えられない。
そう考えると、やはりW〜Y;つまり西南倭人→淮民→海人→弥生人というケースが最も蓋然性が高くなってくるのだ。
◯ドラヴィダ語とアルタイ語との類似性ということについて
大野晋氏の学説が批判というより無視されるもう一つの理由は、大野氏がドラヴィダ語とアルタイ語との間に文法的な共通性があるとした事だ。
先述の日本語との文法構造の共通性についての指摘の多くは、アルタイ語にも通じるものだとして、ドラヴィダ語とアルタイ語が同系の祖語から分離して来たのではないかという意味の主張をしている。
これに対し、ドラヴィダ族は、チュルク系民族などと異なり、ウラル山脈やアルタイ山脈のある中央アジア北部から南下して来た形跡はない。インダス文明以前にはシュメールが祖先だとする説もあるように、メソポタミア起源であると考えられている。そうなると、ドラヴィダ族とその言語がアルタイ語族と接触変容したのだとは、通常は考えにくいのである。
勿論、文化や習俗は人類の所産である限り、全く異なる地域で偶然相似の物が生じる可能性が絶無ではない。但しその共通性の数量が多数に上るなら、一般にはそれら類似両者は同系と見做さざるを得ない。
(常識のメソポタミア起源ではなく、実は中央アジア北部起源だとの考古学的な証拠でもあれば別だが、両者は民族的には同系とは考えられないから、何処かで言語接触があったとする以外は、両者の言語の相似を説明する理論は立てられない。例えば現在のトルコ共和国のトルコ語にはイラン語の影響が見られるが、これは現トルコ共和国の前身のオスマントルコ;更にその前身のセルジュクトルコが、かつてイランにあった事で説明がつく。だからドラヴィダ族がメソポタミアで栄える前に、実はアルタイ語地域に居たことがあるというなら、言語接触の説明はつく。しかし今のところそういう形跡は見られない。ドラヴィダ語とアルタイ語の相似性について言及した専門家は大野氏一人なのである。)
日本付近でのアルタイ語族とは、朝鮮語に他ならない。
今の朝鮮語は新羅語+ツングース語で形成されたものだ。
新羅語は元来辰韓語であり、その民族は辰国を経由して、中央アジアのタリム盆地方面から到来した月氏黄牛族である。だから、黄牛族の言語はアルタイ語との接触変容を経験していた可能性はある。
またツングースの言葉もアルタイ語族である。
そして先述のタミル語と日本語の類似性についての大野氏のレジメの中の文法については、朝鮮語やアルタイ語も同様だという。だから文法について言えば、日本語の場合、それがドラヴィダ系言語からの継承とは限らないのだ。
言語接触が考えられないのに文法の相似性があるというのはあり得るのか?
ノーム・チョムスキーの生成文法に依れば「人類は脳の言語野に文法の原型が収容されていて、それが誕生した地域の母語によって適応して習得される」というのである。
だからアフリカ奥地の少数民族の文法が、南米の少数民族のそれと類似性を有する場合も、両民族が言語接触していないでもそういう現象が生じるのだとされる。
(だが生成文法についての脳科学は、その後脳内の言語原型を多項連立方程式の形で捉えるというような数理科学的な展開を見せており、私のような高校数学に未だ集合論さえ無かった時代の者には、到底理解不能なレベルのものになっている。だから“両民族が言語接触していない場合でも両言語間に相似的な現象が生じる”という事が正しいのかどうかの判断はつきにくい。だから解説者の言うのをそのまま受け売りするしかないのが遺憾である。)
文法はドラヴィダ語系由来かアルタイ語系由来かは決定づけられない。そうなると大野氏のいう「タミル語と日本語の類似性」とは、詰まるところ語彙の類似性のみになってしまう。
その場合、明らかにドラヴィダ語(就中タミル語)から来たと証明ができるのか? 及び、大野氏の指摘した500語の相似性(といっても、その中にはどうも類似しているとは思えないケースもあるし、別由来の一致のケースもあるので)よりもっと多くの相似の語彙の存在を摘出できるのか?という事になる。
実際、大野氏への反論中で、ドラヴィダ語に詳しい学者からは大野氏が類似性ありとして挙げた語彙例には、相当数の独りよがりが含まれているとの批判があった。否むしろ、似ていると思われる様な語彙同士はほんの一握りであり、両者が第三の言語接触から借用した語彙同士だとする学者もいるくらいだ。ハタの例で見た様にX→T&(W or Y)だという事である。)
これらを根拠を持って反論できる(大野氏の)後継者が出てこないと、折角の大野氏の打ち出した独特の学説は埋没して行ってしまうだろう。
大野論文を読んでいると、我々自身がタミルの言語に全く無知であるが故に、大野氏の上げる類似性の例証は極めて説得力を持っているかの如く思えてくる。これが曲者である。
この大野氏の仮説がしっかり検証されることを望むしかない。それでないと、弥生人の持っていた倭語の性格を捉えられないからだ。言い換えれば、日本語の基本になった言語はどういうものだったか?が分からなければ、弥生人の由来も分からなくなってしまうのだ。
◯私個人の見解
私個人の意見としては、タミル語との言語接触説はやはり弱いと思える。
日本語の文法に於ける(大野晋氏が挙げた)特徴は、タミル語からではなくアルタイ語系の言語接触によるものだと考える。最も可能性があるのは、月氏黄牛族である。彼らが東遷し、一時は龢族や和田(秦)族と共に辰国を建てるが、その後南下して、(黄牛族中心に)辰韓諸国が形成された。その中の覇権争いなどから、五十族が北九州から山陰方面へ渡来した;これが吉備の勢力とも連合してヤマトを首邑に樹立したのが大倭(連合国)であり、そのヤマトの三輪山麓に大王の宮処が置かれた。(よって三輪王朝という。)
黄牛族が、タリム盆地〜遼〜韓半島の間にアルタイ系周辺民族と接触していて、彼らの言語の文法はアルタイ系のものとなっていた。弥生人よりも優越した文化を持っていたので、言語接触で黄牛族のアルタイ系文法になった。
(上述の筆法からすればX?→Z→Yである。)
そして遅れてヤマトを征服した龢族は、(既に遼〜韓半島の移動時に黄牛族からアルタイ系文法を習得していたか、もしくは)列島へ来て後、大倭との接触時か或いはヤマトに入ってから、既に弥生人が習得していたアルタイ系の文法を採用した。その方が統治の便宜に叶っていたからである。人民の大多数が黄牛族の言語体系になっていたのか。
(龢族=天孫族の東征後、黄牛族の祭祀した三輪大神は、ヤマト=“元の出雲の名”だったのに換骨奪胎されて、大国主として山陰の“根の国”=後出雲に追放された。)
文法はアルタイ系が継承されたが、語彙については、先住縄文族のものや弥生時代を開いた海人族のものや、龢族や秦族のものや黄牛族のものが交雑した。それらの中には、江南の倭人が、インド東部方面アッサム地峡やガンジス川下流経由でビルマや雲南に持ち込まれたタミル語の語彙なども入っていたのであろう。それは、恐らく倭人=淮民=南朝鮮の濊族=海人族経由で列島へもたらされたものだったのであろう。