補遺50続② 追補「トランス・ユーラシア語仮説」
補遺50続② 追補「トランス・ユーラシア語仮説」
◯シュメール人はドラヴィダ人の先祖では無かった
先の補遺50で、以下のごとく書いた。
>>“ドラヴィダ人は更に古代のシュメール人の末裔では
>>ないか?との有力な学説もあるのだ。”
ところが最新のアジア史研究の深化で、「インダス文明は、オリエントのシュメール文明よりも、もっと古かった」という考古学的証拠が出てきたというのだ。
そうすると、
①中央アジア某所→②アフガニスタン北部→③チグリス・ユーフラテス流域→④インダス川流域→⑤北インド→⑥南インドと移動した民族があって、④まではシュメール民族で、⑤〜がドラビダ民族、(つまり呼称は変わるが本来は同族)という従来の仮説は成立しなくなる。
つまり④インダス文明人は⑤⑥のドラヴィダ民族であるらしいが、①②もまたドラヴィダ族の祖先ではないだろうか?という疑念も生じる。言い換えれば、“②から南下したのはインダス文明人であり、シュメールの祖先では無い”という事になろうか。→この場合、シュメール文明人は、では何処から来たのか?結局由来が不明という;かつての“振り出しに戻る”のである。(逆転の発想として、インダス文明人の分派がシュメールという可能性はあり得なくは無いだろう。昨今、インダス文字の入った遺物がオリエント〜ペルシャ湾岸などでも見つかっているのだ。“単なる交易の結果だったのかも知れない”のではあるが。)
しかしインドの南北を通じてドラヴィダ族は、コーカソイド(白色人種)ではないし、一般的な黄色人種でもなく黒人系と見える事から、「中央アジア系ではあり得ない」という意見もある。その場合は、①②③がシュメール人の方の移動経路だと考えれば、彼らシュメール人はアッシリア〜バビロニア時代にメソポタミアの諸民族の坩堝に溶けて消えてしまったとでも考えるしかない。
そうすると、④インダス文明人は一体どこからやって来たのか?
もしインダス文明がドラヴィダ族のものだったとしてみよう。ドラヴィダ族の形質を考えれば、アフリカ大陸→アラビア半島南部→イラン〜パキスタン海岸地方という経路でインダス川流域に渡来した、とでも考えなければならなくなるであろう。(アラビア半島南部の少数民族にアフリカ系が居た可能性はある。また後世、エリトリア〜イェメン〜インドという沿岸交易があった事も分かっている。)
とは言いながら、“ドラヴィダ族はインダス文明とは無関係で、上述のようなアフリカ由来であり、インダス文明の創始はどの民族によるものなのかは、結局依然として謎のまま”という事は大いにあり得るのだ。
このあたりは、今後の考古学的な発見を待たねばならない。
現在のインドのヒンドゥー原理主義的な潮流では、むしろ北インドの民族がインダス文明の樹立者であり、それがそのままヒンドゥー系(サンスクリット系)文化を創始した民族であり、これがいわゆるアーリア人の原種でもあって、それがヒンズークシを超えて中央アジアに出て印欧語族に
(いわゆるアーリア人に)なったのだという極端な説も出ているようだ。この考え方では、昔のナチスの逆で、北インド人がヨーロッパ人の祖人だったという事になる。
言い換えれば、アーリア人がインドに進入したのではなく、進出したのは北インド人だったという考え方である。
しかし、この説は、考古学的な事実や、比較言語学的な推理とから、世界的学説では否定されている。
インダス文字をサンスクリットの祖型だと考えて読み解く努力は悉く失敗している。むしろドラヴィダ語の祖型の一つと考えて読み解こうとしている言語学者もいるようだが未だ「読み解けた」という成果は聞こえてこない。
ただ、一方で、従来あったアーリア人のインド進入というのも、大挙した侵入などではなく、少数の部族の緩い移住だったのではないか?という説が提出されて、そこに落ち着いて来ているかに見える。(本邦の海人族の渡来も侵入というような征服的なものでなく、先住の縄文人と協調的なものであったと一般には考えられている。)
◯日本語に残るタミル語彙はいつ流入したのか
さてそうなると、日本人の言語の古相に残るタミル語の痕跡は、いついかなる言語接触によって起こったのか?
それについては、ほぼ中央アジアに於いて起こったのではなく(この場合、月氏本貫地在住の時代にではなく、という事にもなるのだが)、
改めて整理すれば
A)西遼河言語連合の時代なのか?
B)三韓時代なのか?
C)秋津島列島へ渡来後の事なのか?
という三つの可能性しか考えられない。
但し、(印欧語系の言語体系であった)小月氏が、アルタイ語的文法体系に変わったのはいつからか?という点だけからいえば、
A)の;言い換えれば「辰国」の時代にか(西遼河言語連合はアルタイ語族でありSOV型である)
世界のアルタイ語系言語分布
だが、問題のタミル語語彙の混入が起きたのはいつか?という点に絞るなら、前掲A〜Cの三つの可能性に限られると推理できよう。
ところが、そうなってくるとタミル語語彙を伝播したのは、北インド〜(アッサム経由もしくはビルマ→ベトナム→広西→雲南というインドシナ半島横断経由で)長江源流地帯の倭族〜長江下流〜淮河南岸(淮南)〜朝鮮半島〜北九州という経路での倭族=淮族=濊族=海人族だという事になってくるので、前掲のAは除外しなければならない。
というのは、西遼河言語連合の地域には、江南の倭族との接触は僅少だろうと思われるからだ。(もっとも一部学者は、山東半島経由で淮南の倭族の一部が北上して来て混住していた可能性を指摘しているようだ=便宜上これを仮に“Z仮説”と呼んでおく。)
こういう推理の結果、タミル語彙の取り入れは、
B)三韓時代なのか?
C)秋津島列島へ渡来後の事なのか?
という二つの可能性に絞られてくる。
(レアなZ仮説の場合を除いてとするならばであるが。レアといっても、Facebook古代史研究会メンバーである森田祐二氏の提示する地図では、Z仮説に相当する倭族の北進を想定されておられるようだ。→次の図)
もしBとするなら、先ず淮南から南韓に渡って来て濊族となって半島南岸〜東岸に先住していた海人族の所へ、北方から衛満朝鮮の成立によって南遷して来た月氏3族と、遼東半島の付け根辺りに蟠踞していた貊族の一部=貊残が、月氏に同伴して(こちらは半島西部での新たに辰王の治所となった月支国の近傍に)移住して来たらしいという事情を考慮しておく必要がある。
その結果、半島南岸地域=弁韓と東岸=辰韓地域とでは先住の濊族と混住した。一方西岸地域=馬韓では濊族との言語接触は少なかった。即ち、濊族=海人族=倭族との言語接触は、辰韓と弁韓地域で主に生じたという事である。
この為、魏志韓伝に伝えられたように、辰韓と弁韓の言語はほぼ同じだが馬韓は違っている!という差が生じた一因では無いだろうか?
そして、辰韓でタミル語彙との接触を受けた五十族=出雲族が、その後遅れて弁韓からの天孫族が、共に秋津島列島へ渡来してタミル語彙を伝来した---------というのがBの経路での説となる。
これに比してCは、“出雲族の渡来以前に、弥生文化を持ち込んだ倭族=海人族自身がタミル語彙を既に持ち込んでいたとする考え”での説となる。
但しこの場合、三韓の言語は等しく南遷前の辰国の言語であったという事にもなりかねず、辰韓・弁韓と馬韓の言語が異なるという史書での記述とは矛盾が生じる。
以前までの私は、後に百済になる伯済が馬韓の最優勢国であると思っていたので、貊族の即ち扶餘系の言語の影響が強かった事で、辰韓・弁韓の月氏系の国と馬韓の言語の違いが生じたのであろうと推理していた。
しかし魏韓戦争までは、月支国と臣智国が優勢でむしろ伯済はそれらの保護下にあったのではないか?との事情が判明した事で、馬韓では貊族の言語が優勢になる事は(魏韓戦争=“岐離営の戦役”以前には)無かったろうと考えるようになった。
つまり三韓の共通語は、月支国と臣智国(〜高霊加羅)の言語ではなかったろうか、という風に考えられる。
恐らく、この事情が、馬韓に倭人が相当進出していて、一部は百済王の臣下にもなっていたらしい事;百済の王子が倭国の人質として在日していた事がある事;百済の滅亡後、その王族貴族官僚が本邦に多数亡命帰化して来た事、
そしてそれらの時に言語的な不便があったという話の記述が少なかったのは、彼らが“共通語”で話していたからではないだろうか?
但し、後世新羅との間では通辞がいたらしいのは、新羅では三韓共通語とは異なる言語実態になっていたという事だろう。(これはそれだけ辰韓や弁韓の一部では濊族の言語との混じり合いが生じていたからかも知れない。また新羅の初期には高句麗の軍兵の駐留などがあったので、北方語の影響があったのだろうか?)
だが、海人族が倭国だけではなく弁韓・辰韓にも居住していた以上、南韓と秋津島の両方で、タミル語彙が流入したという可能性も全くは否定できないだろう。
天孫族の王家とそれを取り巻く近臣集団に、どこまでタミル語彙が入っていたかは、(大野晋氏の逝去後は)研究者が居ないようなので、究明が手付かずのままである。
◯西遼河言語連合とは?
その前に、先ず「言語連合」という用語について確認しておく。Wikipediaの記述が、比較的分かりやすい。
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言語連合(げんごれんごう、独: Sprachbund、英: Sprachbund, linguistic area)は、系統にかかわらず共通の文法的・音韻的特徴を示す言語群をさす用語である。ある言語連合の中で共有された特徴は地域特徴 (areal feature)と呼ばれる。典型的な言語連合の例として、バルカン言語連合がある。(※→下注)
語族が同一の祖語から分かれた言語群であるのに対し、言語連合は、必ずしも系統的に関連のない言語同士が、同一の共通語文化圏に属したり、話者が同一地域に混住したり、また共通の基層言語の特徴を残存したりといった原因により、それぞれの言語の言語学的特徴が顕著な類似をもつにいたった言語群である。
したがって、ある言語が複数の語族に属することはあり得ないのに対し、複数の言語連合に属することがあり得る。また、特定の言語はいくら遡っても1つの語族に属するのに対し、特定の時期以前にはその言語連合に属していなかったり、以前にある言語連合に属していた言語が、その後それらの特徴を失っていったということがあり得る。
言語連合の認定は、複数言語間の地理的な近接性のみを根拠に行われるわけではない。言語連合の内部では一定の音韻的・形態的・統語的特徴および言語変化 (音変化、文法化) が共有されているが、そうした地域特徴は以下の観点により特定される。
●当該地域の大部分の言語がそれを持つ。
●当該地域の隣接地帯の言語はそれを持たない。
●語族は同じでも、当該地域の外部で話されている言語には、それが見られない。
●世界の大部分の言語には、それが見られない。
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※バルカン半島の諸言語、特にアルバニア語、ルーマニア語、ブルガリア・マケドニア語、現代ギリシア語は語族が違うのに地理的に隣接しているため互いに影響しあって言語構造が非常に似通っている。これを「バルカン言語連合現象」と呼ぶ。https://schweigende-ente.blog.jp/archives/46232141.html《一例として、これら4言語では未来形を表すのに、英語でいうwant,willに当たる不変化詞;それぞれの言語でdo,o,šte,θαなどと異なるものだが、それを動詞の前に置く。但しそれは助動詞的だが助動詞ではない。それぞれの元の意味であるwant(欲しい)の退化したものだという。副詞に近いものか?》
もう少し私流に解釈するなら、ある地域に語族を異にする複数の民族が混在もしくは隣接する時、他の民族の言語の用法や語彙に自族のものより便利なものがある時は、その便利な用法や語彙を流用し合うために、あたかも同一起源を持つ言語同士と錯覚されるような現象が起きるという事なのである。
これは、便利な道具や武器などの物理的なもの(形而下のもの)でも起こる現象であり、それが言語という形而上の道具でも起こっているのである。
で、こういう複数の言語の遭遇を言語接触と言い、言語接触の結果、便利な側もしくは民族的に優勢な側の言語を大幅に採用する時は、これを言語転移というのである。
さてそれで問題の西遼河言語連合であるが、この連合の結果ある相似的な特徴を共有する言語群をトランス・ユーラシア語と呼ぶようになった。
これが注目を浴びる契機となったのは、2021年11月のイギリスの学術誌「ネイチャー」に載ったドイツのロベーツ博士ほかの研究成果の論文である。
翌2022年3月20日号のサンデー毎日に「日本人・日本語の起源が判明した!」と題して紹介されて、我が国でも多くの人が知ることになった。
以下、それをライター角山祥道氏の署名記事で参照する。
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2022年3月20日号 サンデー毎日
「日本人・日本語の起源が判明した!
日本はいつ、どこから来たのか。日本語の起源は───。
謎の解明につながる論文が昨年11月、英科学雑誌『ネイチャー』に載った。9000年前、今の中国にある『西遼河』という川の流域に住んだ農耕民が日本人のルーツだという。論文の共著者に聞いた。 (※聞き手は角山氏)
●11ヵ国の考古学・言語学・遺伝学研究者が5年間研究
●起源は9000年前、中国北部『西遼河』流域にいた農耕民
●沖縄の住民・言語の起源も定説とは違う結論
マーク・ハドソン博士(インタビュー相手)
──私が子どもの頃、日本語、朝鮮語、トルコ語、モンゴル語は『アルタイ語族』に属す言語と学んだ覚えがあります、今回の論文ではどう説明したのですか。
マーク・ハドソン 私たちはそれらの言語をアルタイ語ではなく、ユーラシア大陸を横断する形で分布する言語連合『トランスユーラシア語』と捉えています。名付けたのはこの研究の代表研究者、私が所属する独マックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロベーツ博士(言語学)です。
トランスユーラシア語の特徴の一つは、『目的語の次ぎに述語がくる』という点です。私たちの研究所を中心に日本、韓国、ロシア、米国など11ヵ国の研究者で構成する国際研究チームが約5年かけて研究しました。その結果、日本語の起源につながるトランスユーラシア語の話者は9000年前、今の中国内モンゴル自治区にある『西遼河』という川の流域に住んでいた農耕民と突き止めたのです。
──今まで分かっていなかったことをどのように明らかにしたのですか。
ハドソン 今回の研究は考古学・言語学・遺伝学の3分野から探究したことが大きな特徴です。今まではそれぞれの分野でアプローチしていたため、決定打に欠けました。3分野から、〝三角測定〟することで、包括的な結論を導き出すことができたのです。
具体的に言うと、トランスユーラシア語に含まれる現在と過去の98言語を調べたところ、耕作に関する言葉、特に『キビ・アワ(millets )の種子』や『キビ・アワのかゆ』などの語彙(ごい)に共通点があることが分かりました。一方、コメに関する語彙に共通点はありませんでした。食料の生産と保存に関する『発酵』『粉砕』、定住を示唆する『クルミ』『ドングリ』『クリ』、家畜の『豚』『犬』といった語彙にも共通点がありました。
考古学的には、西遼河流域で新石器時代の9000年前、キビ・アワの栽培が始まったことがことが分かっています。キビ・アワ農耕文化とトランスユーラシア語は農耕民の移動と共に徐々に広がり、5500年前の朝鮮半島、5000年前に今の極東ロシア沿海地方に伝わりました。
──定住生活を送っていた農耕民がなぜ移動したのですか。
ハドソン 人が一ヵ所に定住すると、家畜との接触やゴミなどさまざまな要因から移動生活する集団より死亡率が高くなることが分かっています。しかし、出生率が死亡率を上回る集団は人口を増やせます。
トランスユーラシア語に含まれる言語は『キビ・アワのかゆ』を意味する語彙に共通点があると話しました。そこから考えられることは、話者の集団がキビ・アワのかゆを食べ、離乳食にも利用していたことです。赤ん坊が離乳食を食べるようになれば、母親は授乳する必要がなくなり、次の妊娠や出産に備えられます。つまり、キビ・アワのかゆを食べていたことは、農耕民の人口増加と密接に結びついていると考えられるのです。
水稲(すいとう)を育てるには水田を整える必要があり、それを農耕する集団は移動しにくいものです。しかし、キビやアワは農耕が難しくなく、移動しやすい。そうしたことも農耕技術や言語の伝播にプラスに働いたと考えています。
《朝鮮半島に縄文人がいた証拠》
──西遼河流域を出た農耕民は5500年前、朝鮮半島に移動し、その後、日本列島に移動したのですね。
ハドソン 大きな枠組みでいえば、そうです。しかし、非常に面白いことに。農耕民が日本列島に入ってきたのは2900年前です。2600年間も朝鮮半島で足止めされました。なぜかはまだ分かっていません。
実は縄文時代、朝鮮半島と日本列島の間に人の交流があったことが、数多くの研究で明らかになっています。日本は地理的に孤立していたのではありません。
具体的には、韓国にある新石器時代の貝塚、東三洞(トンサムドン)遺跡(釜山広域市影島{ヨンド}区)から日本列島の縄文土器や黒曜石が出土しています。九州から出土したのと同じ漁具も見つかっています。それらのことから、縄文時代に人々の交流があったことがうかがえます。
また、今回の研究では、韓国の欲知島({ヨグジド}慶尚南{キョンサンナム}道統営{トンヨン}市)から出土した古人骨の遺伝子を新たに分析しました。その結果、『欲知島の人骨から得た遺伝子の95%近くは、縄文人の人骨から得た遺伝子と共通する』というものでした。欲知島人に遺伝子をもたらした縄文人は朝鮮半島で暮らしていた人だったのか、それとも日本列島からやって来た人だったのか。欲知島人から得られた遺伝子だけでは分かりません。
しかし、これまで日本にだけ存在したと考えられてきた縄文人が朝鮮半島で暮らし、現地人と混血していた可能性が明らかになったのです。
──縄文時代の日本列島にキビ・アワ農耕文化が入ってもおかしくなかったのに、そうならなかったということですか。
ハドソン 縄文時代の日本列島に暮らした人々は大豆や小豆を栽培していました。農耕文化がないわけではなかったのですが、キビ・アワ農耕文化が入ってきたという証拠はありません。一度は入ったものの、定着しなかったという可能性も考えられます。
──では、2900年前にどのように入ってきたのですか。
ハドソン 農耕文化と言語の伝播が起きたのは、西遼河流域からだけではありません。今の中国の黄河流域では『シナ・チベット語』と呼ばれる言語が生まれ、5900年前ごろから拡散が始まりました。トランスユーラシア語が東西に伝播しながら南に広がらなかったのは、シナ・チベット語圏がすでにあったからでしょう。
新石器時代の後、世界は青銅器時代を迎えます。この時代は〝紀元前のグローバル化時代〟でもありました。中国では元々あった稲作に加え、西方から小麦や大麦が伝わりました。その結果として生まれたコメ・小麦・大麦の農耕文化と、キビ・アワ農耕文化は3500年前、遼東半島(今の中国遼寧省)付近で混じり合い、朝鮮半島に伝わりました。その複合農耕文化が日本に伝わったと考えていいでしょう。
農民にとって、一つの作物に頼ると不作のリスクが高まるものですが、複数あればリスクが減ります。大陸と気候が大きく異なる日本列島だからこそ、農耕文化が伝わるのに時間を要したのかもしれません。
日本で『言語転移』が起きていた
──その時にトランスユーラシア語に含まれる言語が日本列島に入ってきたのですか。
ハドソン それまでなかった作物の農耕が始まったということは、それを栽培した人々が大量に移住したと考えられます。農耕技術だけが伝播したのではなく、人の移動をしめしているのです。その際、『原日本語』ともいうべき言葉も持ち込まれたと考えられます。
──縄文人が話していた言語はどうなったのですか。
ハドソン 縄文人が使っていた言語は、2900年前に外から入ってきたトランスユーラシア語の一つ、原日本語にすっかり置き換わったと考えられます。言語学で『言語転移』と呼ぶ現象です。
縄文時代の人たちが話していた言葉がどんなものだったかは分かりません。おそらくアイヌ語が縄文時代の言語を受け継いでいるのでしょう。現在の日本語には縄文時代の言語に由来する語彙はほぼ残っていないと考えていいでしょう。
19世紀の北海道を想起してください。明治時代になるまで、北海道の大半はアイヌ民族が住む土地でした。今、北海道の地名にはアイヌ語に由来するものが多くありますが、アイヌ語を話せる人は少なく、日常的に使う人がいる言語とは言い難い。日本語への言語転移が起きたのです。
技術水準が高い集団が入ってくると、その集団が使う言葉に置き換わる現象が世界各地で起こっています。2900年前の弥生時代、高度な農耕文化の担い手たちが日本列島に大量に入ってきたことで、言葉の転移が起き、それが今の日本語になったと考えられます。
これは日本語と日本人に限ったことではありません。全ての言語や文化は長い時間をかけて、他の言語や文化との相互作用と混合を経て、今の形になったと考えるべきでしょう。
──今回の研究では沖縄に関しても新たな発見があったそうですね。
ハドソン 私が発掘に立ち会った宮古島の『南嶺(ばいぬみね)の長墓遺跡』(沖縄県宮古島市)から出土した先史時代の人骨のDNA(デオキシリボ核酸)を調べたところ、その100%が縄文人と共通する遺伝子だったのです。
宮古島は沖縄本島と台湾のほぼ中間にあり、従来は南方から人々がやって来たと考えられていました。先島諸島(宮古島列島と八重山列島)から出土する土器は台湾の土器と似ていて、縄文土器は発見されていません。また南方の文化と重なる貝でできた斧(おの)も見つかっています。
つまり、縄文文化の痕跡はありません。それにもかかわらず、宮古島から出土した古人骨の遺伝子は縄文人と同じでした。これまでの南方説を覆す発見です、縄文文化と縄文ゲノム(全遺伝情報)は必ずしも一致していないことが分かったのです。
もう一つの発見は沖縄への人の流れです。沖縄本島で出土した近世(17~19世紀)の人骨を分析したところ、縄文人との共通するのは約20%でした。現代沖縄人とほぼ同じです。今まで『北海道と沖縄にかつて多くの住んでいたのは縄文人、本州、九州、四国は弥生人』という考えがありましたが、そうではないことが分かったのです。中世(グスク時代、11~15世紀)になって、九州から『本土日本人』が琉球列島に移住し、言葉も伝わりました。琉球語はアイヌ語とは異なり、日本語と同系統である理由もはっきりしました。中世になって琉球列島に移住した人たちが言葉を持ち込んだのでしょう。ここでも言語転移が起きています。
──2900年前に原日本語とキビ・アワ・コメなどの農耕文化を持つ集団が日本列島に入り、その集団が1000年前に琉球列島に移住したということですか。
ハドソン 今、判明している情報をつなぎ合わせると、その仮説が最も有力です。しかし、研究は緒に就いたばかりです。これから古人骨のDNA解析が進めば、日本人はもとより、他の民族の移動経路がもっと詳しく分かるはずです。現時点で言えることは、日琉語族(構成する言語は日本語と琉球諸語)、朝鮮語族(朝鮮語や済州{チェジュ}語など)、テュルク語族(トルコ語やウズベク語)、モンゴル語族、ツングース語族(満州語など)にはトランスユーラシア語という共通の祖語があり、その話者だった農耕民が散らばって各地の言葉・文化に発展していった。日本列島では2900年前に朝鮮半島から渡ってきた渡来人=弥生人が原日本語と農耕文化を伝えたということです。研究が進めば、もっと細かい人々の移動が見えてくるでしょう。
構成/ライター・角山祥道
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このインタビュー記事で、ハドソン博士はかなり断定的な物言いをしている。しかし、このトランス・ユーラシア語と西遼河言語連合という考え方も、あくまでも目下は未だ仮説なのであって、確定学説ではない。
>>中国では元々あった稲作に加え、西方から小麦や大麦が伝わりました。その結果として生まれたコメ・小麦・大麦の農耕文化と、キビ・アワ農耕文化は3500年前、遼東半島(今の中国遼寧省)付近で混じり合い、朝鮮半島に伝わりました。その複合農耕文化が日本に伝わったと考えていいでしょう。<<
と言っても、
“結果として生まれたコメ・小麦・大麦の農耕文化” などと一括りに言っているが、コメ耕作地帯と麦耕作地帯は、(例外的な一部地方はあったにしても)気候条件や農耕文化と食文化の観点からはほぼ重ならない別々の地域のものであった(大陸に於いてだが)という実情などは、無視されてしまっているように思える。
つまり「淮南は米作であり、黄河中流域は麦作」という常識は必ずしも誤解では無いのである。
更にハドソン博士とこの研究に参加した日本も含む内外の学者たちが、どれほど稲作についての、或いは米の品種についての知識が深かったのか?ここらも未知数である。
私たち日本人は、稲作というと、水田耕作をイメージし、陸稲の存在は知っていても、それは水稲栽培のできない山勝ちの地域での例外なのだと考える。だから、本来は水辺植物であった稲の陸地へのエスケープで陸稲が誕生したと考えがちである。しかしこれが全くの錯覚なのである。
植物学の最新の研究では、本来畑で栽培されていた稲が湿地帯にエスケープして水稲が誕生したのである。
(もっとも研究者によれば、稲の原種はそも水辺にあったのだが、その自生稲を採取して畑作にしたのが栽培稲の始めだったという説もあるらしい。)
だから水稲と陸稲は別品種だと思いがちだが、植物学的には両者は同一種なのだそうだ。
そして最近の考古学的知見では、我が国でも、縄文時代に先ず陸稲栽培が伝来したと考えられるようになっている。
海人族が伝えて、その普及によって弥生時代となった契機の一つが陸稲伝来だったのか? それとも、陸稲は既に縄文時代に伝来していて、その後に海人族によって水稲栽培が持ち込まれ、それによって弥生時代になったのか?
この二つのシチュエーションでは、どちらが正解なのか?
ハドソン説では2900年前(BC 10〜9C)に、農耕文化を持った渡来人が秋津島列島へやって来たということになっている。この時期は中国の春秋時代に相当する。戦国の終結はBC201年の秦王政=始皇帝による中国統一の時である。燕人の衛満が箕子朝鮮に亡命して来たのはBC 195年というので、これらは凡そ2200年前に相当する。周が洛邑に遷都して東周となったのがBC770年なので、2900年前というのはその100年ほど前の春秋時代になる。
周の東遷は犬戎の跳梁に持ち堪えられなくなったからだという。
但しこの西周の直接の凋落のきっかけは、申侯の乱であるという。
申侯の乱とは、周の幽王時代、王后は申侯の娘の申后であった。しかし、幽王は褒姒という女性を寵愛した。遂には申后と太子の宜臼を廃し、褒姒を王后、その子の伯服を太子とした。このことに申侯は激怒した。紀元前771年、申侯は反乱を起こし、周の王都である鎬京(後の長安)の北西の蛮族である犬戎の参戦を唆した。幽王は驪山で殺された。申侯は魯の孝公や許の文公らと共に申国内で元の太子の宜臼を即位させた。平王である。
犬戎を西戎と同一視し、匈奴や氐姜族だとする説と、彼らが戦車を使っていることから、純粋の氐姜だけでなく、中国民族との混在の部族では無いか?とする説がある。
いずれにせよ、史書によれば、犬戎と周の戦闘は200年ほどの長きに渡っていたらしい。(戦国時代になっても秦は犬戎との戦いに苦しめられたと伝わる。匈奴が進出するのはその後である。)
従って、2900年前頃は、西周と犬戎の騒乱期に相当する。
その頃から、北方民族の勢いが活発化していて、結果的に西遼河方面の農耕民族も、北方遊牧民の南侵に追われて朝鮮半島方面への移住を余儀なくされたのかも知れない。
それまでも西遼河の農耕文化による食糧の安定化で人口の増大を伴い、遼西の人々は緩やかに朝鮮半島に移住していたのであろう。(先住の民族がどちらかは俄には断定できないが、朝鮮半島では、この農耕民族と淮族が混住して同化し濊族となっていた。また殷も西遼河農耕文化民ではないかという意見もあるが、殷は今回話題の西遼河農耕文化に先立つ紅山文化を起こした民であり、また後世の燕と同族であろう。)
その北方民族の跋扈の玉突き的影響で、半島から玄界灘を越えて秋津島列島西部へと、押し出されて渡来した人々があったのだろう。(これがハドソンの仮説による、雑穀農耕民の秋津島列島移住である。彼らは先住の縄文人と、海辺と山地で住み分けながら、次第に同化して行ったのだろう。)
一方その遼河方面の人口減少の穴(東方諸民族勢力の間隙でもある)を埋めるかのように、黄河を下って東遷してきた小月氏により辰国が建てられたのではないか?と私は考える。東胡と匈奴の勢力間隙地帯があったと考える。
そしてその後、衛満が遼西から押し出して来て朝鮮地域を占領すると、それに追い出されて、辰国とその民は南韓地域に移住したと考えるのだ。
この時も南韓にいた濊族は秋津島列島へと渡った。つまりこれが、従来理解されて来たいわゆる海人族の到来である。(南韓の洛東江や蟾津江・栄山江などの三角州や氾濫原では水稲耕作がなされていたと思われ)水稲はこの時伝来したのではないかと私は考えている。
そして南韓には、辰国の亡命人支配層によって三韓が成立したのだ。
小月氏3族(和族・黄牛族・白馬族)は、辰国時代は統合的な王政下にあったかも知れないが、元来のタリム盆地周辺でそうであったように、また大月氏国の分解=4翕侯国になった様に、3族は分住する傾向がある。
三韓では、和族(月支国)と白馬族及び客分貊族(貊残=伯済)が馬韓を構成し、黄牛族は辰韓を、そして3族の分国や支国が弁韓を構成したと考えるのである。
この内、水稲栽培の可能性のあったのは、上述の様に弁韓(加羅)南部の地域の河川氾濫原周辺であった。
水稲栽培は、十分な耕作地域を得られなかった加羅任那地域から列島の筑紫島へと中心地を移したのだろう。それを伝来したのは、淮族=南韓の倭族=海人族だったか、南韓に居住していたらしい縄文人分派の里帰りであったのか?
九州の巨大火山群の噴火で一時的には筑紫島の縄文人の一部は玄界灘を越えて南韓地域に逃げて居着いていたと見られ、南韓でも昨今縄文同系の土器が見つかり出している。恐らく彼ら南韓縄文人は、黄海を渡ってきた淮民と交雑した。これがいわゆる加羅地域に居た倭人なのであろう。彼らは稲作文化をもたらした淮民の文化に同化して、いわば“南韓弥生人”になっていたと思われる。これが遅れて;2200年前に列島へ再帰してきた海人族なのではないか? 勿論その“南韓弥生人”の全部が列島へ渡来したわけではなく、かなりの数の人々が残っていた。三韓時代に本邦の倭国人が再度玄界灘を渡って南韓に進出した時に、受け入れ母体になったのはその“南韓弥生人”だったのであろう。(月支国が消失した後の)百済漢城東部にまで進出し、百済王に臣従して、漢江南岸地域に横穴集団墓を残し、また最近考古学的な発掘で確認されたソウル近郊の円筒埴輪をもたらすまでになったのだ。この内特に安羅などの南韓南海沿岸が、特に濃厚に倭人が住むと百済人が意識した東国=日本に当たるのである。列島の倭国は扶桑として、日本とは区別されて認識されていた。その日本は、九州王朝である久我国=狗奴国が秋津島の出雲王朝を征服して建てた大和王権によって、持統朝以降に、久我国=日下国=日之下国の雅称として国号に使用されたのだろうという経緯は、過去の天孫族考で縷々論述して来た通りである。)