補遺52「高霊加羅出土の“大王”刻印土器片」

補遺52「高霊加羅出土の“大王”刻印土器片」

この7月9日の韓国の新聞「ハンギョレ」が、報じたのは、「高霊加羅の宮跡だと考えられる地区から出土した土器片に“大王”と文字が刻まれた物があった」というニュースである。

(このニュース記事を先ず引用紹介する。韓国の新聞だが、Google Search に「高霊加羅」を登録したところ、どうやら日本語に翻訳して配信してくれたのか、その新聞に日本語版のWEBページがあるのか? どうもURLからは後者のようだ。不勉強ながら、ハングルは表音文字だという位の知識しかないので、韓国の新聞など、私個人は読みようもないのだが、今の時代は実に便利だ。とはいえ、ハングルは15世紀半ばの李朝世宗時代のものだから、古代の三韓史探索にはハングルは必要ないのだが。15世紀までは韓半島でも漢文使用だったのだから。)

--------------------------------------------

https://japan.hani.co.kr/arti/culture/50539.html

hankyorehハンギョレ新聞社

泥岩層から出土した大伽耶初の「大王」の痕跡…1500年の謎を解くか(登録:2024-07-09 07:09 修正:2024-07-09 07:56)

伽耶人が用いた最高指導者の呼称の謎

高霊の宮殿の場所から「大王」と彫られた土器が出土

伽耶が支配者に新羅のように「大王」と呼称したと推定

「大王」と刻まれたと推定される土器のかけらの銘文の細部と土器のかけらの全体像。土器のかけらの下段に「大」の字とその下に一部字形が崩れた「王」または「干」と読める不完全な1文字が連続して浮き彫りになっている=大東文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

 大伽耶は、約1500年前に慶尚道西部と全羅道東部にかけて繁栄し、新羅と競合した強力な小国家だった。大伽耶の人々が最高首長を当時の新羅のように「大王」と呼んだことが推定できる遺物が出土した。

 先月27日に発掘調査が終った高霊(コリョン)の大伽耶邑延詔里(テガヤウプ・ヨンジョリ)555-1番地の「大伽耶推定宮城跡」I-1区域の堀(防御用の池)跡の内部の底の泥岩層から出土した土器のかけらがまさにそれだ。先月21日に発掘機関である大東文化財研究院が、宮城跡と堀跡についての現場説明会を開いた直後に出土した、6世紀初めごろの大伽耶系の土器で、未公開の遺物だ。

 この土器のかけらを調べたところ、下の部分に明確な「大」の字と、一部字形が崩れて「王」または「干」の字と推定できる不完全な形の1文字を垂直の構図で続けて浮き彫り(陽刻)にした模様が確認された。

 「大」の字は全体が明確に表れ、その下の字は上の部分の画だけが残っているが、「王」であることが明らかだとする見解が有力だ。慶北大学のチュ・ボドン名誉教授ら古代金石文を研究する一部の歴史学系の専門家らが事前に鑑識した結果、「王」の字であることがほぼ確実だとする意見を提示したことが分かった。

「大王」と判読する場合、出土場所が明らかな大伽耶の遺物から「大王」という呼称名が確認された初の事例となる。大伽耶が最高首長を「大王」と呼んでいたという実物の資料になるという点で、支配勢力内部の階層構造を把握する具体的な端緒を発見したという意味が大きい。

 「三国史記」や「三国遺事」などの朝鮮半島の歴史書には、高句麗や百済、新羅の首長は「王」と呼ばれ、新羅の場合、6世紀初期に仏教を公認した法興王の時代に「大王」という称号を使用していた記録が伝えられているが、大伽耶の人たちが首長をどのように呼んでいたのかについての歴史的資料はない。

 ただし、朝鮮半島関連の歴史的記述の歪曲が激しいという指摘を受けている7~8世紀の古代日本の歴史書である「日本書紀」には、慶尚南道咸安郡(ハマングン)一帯にあった安羅国(安羅伽耶)と伽耶(大伽耶)では王という称号が使われていたという内容が残されている。このような脈絡から、大伽耶の首長が「大王」という称号を用いていたのは、伽耶帝国の他の伽耶勢力の間で優れた地位を誇示し、新羅や百済とは同格の国であることを示そうとする意味があるものとみられる。

 出土場所が宮城跡と推定される遺跡の下方の堀の底である点も重要だ。土器自体が、学界が実体を追跡してきた高霊の大伽耶の宮城跡であることを立証するもう一つの考古学的根拠になるためだ。

 大伽耶系の遺物で「大王」の銘文が出土した先例としては、1990年代から忠南大学博物館が所蔵している「大王」と刻まれた大伽耶系大型土器の有蓋長頚壷(蓋付きの首の長い壷)がある。しかし、出処不明の盗掘品の性質を持つ購入品であるため、信憑性に劣るという限界がある。

 出土した大伽耶土器のなかでは別の銘文が刻まれた事例も珍しいが、一部報告された事例が知られている。慶尚南道陜川郡苧浦里(ハプチョングン・チョポリ)から出土した「下部思利利」と記名された土器が代表的で、大伽耶が古新羅のように地方行政単位で部体制を整えていたことを示す遺物とされる。

 大邱韓医大学のキム・セギ名誉教授(考古学)は「大伽耶は他の伽耶の小国とは違い、5世紀末に中国南朝の南斉に使節を送り、首長が公式に爵位を得て、その後は新羅のように古代国家級に成長することになる」とし、「大王と刻まれた土器の発見は、古代国家の段階に達した大伽耶の国家体制の実体を示す重要な成果とみられる」と述べた。

  ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ [email protected] )

https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1148167.html

韓国語原文入力:2024-07-08 23:01 訳M.S

--------------------------------------------

この土器が大加羅の何時の頃のものか?は特定されてはいない。

同新聞は「恐らく6世紀前半の物だろう」としている。というのは、その時期に新羅の法興王が「法興太王」と呼ばれたという文献記録があり、百済では5世紀後半になって大王号が出現したとされて来た。(これは、百済が新羅と連合して南下して来ていた高句麗を打ち負かした時代に相当する。)

事典で法興王を検索してみた。

--------------------------------------------

(出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版    執筆者:大井 剛)

 新羅 法興王 (ほうこうおう)

Pǒphǔng-wang

生没年:生年?-540

朝鮮,新羅の王。在位514-540年。諱(いみな)は原宗。〈法興太王〉と称して,新官制を創置し,独自の年号をたてるなど,国家としての体制をととのえた。とくに十七等官位(京位)の形成や衣冠制の制定は〈律令〉の頒示(520)として後代に記憶されることになる。521年中国南朝の梁に百済使に従って遣使し,532年には将軍異斯夫(いしふ)を派遣して金海加羅を併合した。このころ仏教を公認して興輪寺を創建したが,仏法に反対する貴族らとの抗争は異次頓の殉教説話となって伝わる。なお法興は諡号ではない。

補足→ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

同(就位)23年新羅独自の年号「建元」を制定し,対内外的に国家的自覚を高めた。中国 (梁) とは,同8年に国交を開いた。また王の時代から王名の古称「麻立干 (まりかん) 」に代って中国式の王号を採用した。

--------------------------------------------

※仏法を振興したので法興王の名で呼ばれた。金官加羅はその十代目国主だった金仇亥(仇衡王とも。在位521年 〜 532年)が法興王に降伏し、代わりに新羅の高官位である上大等と金の姓を(旧来の本国をそのまま食邑として)下賜された。一族はそのまま新羅の重臣になって行く。

このマターについての研究としては京大の坂元義種氏の論文がある。(もっともこれは半世紀以上前の研究論文なので、その後の三韓に関する識見の深化の影響は及んでいないのは当然である。しかし概ねは、日韓双方の学界の共通認識となっている。)

--------------------------------------------

古代東アジアの日本と朝鮮

――「大王」の成立をめぐって――

                坂元義種

【要約】 五世紀の百済には、「王」・「侯」を従える所謂<百済大王〉が成立していた。ところが、この頃、ほぼ期を同じくして、日本と他の朝鮮諸国にも「大王」が成立していた。高句麗には四世紀末期に、倭国には五世紀前期に、新羅には六世紀中頃に、 それぞれ「大王」が誕生したのである。また、その成立過程を辿るとき、そこにはきわめて類似の現象がみられるのである。すなわち、支配領域の急速な拡大、隣接諸国の臣属━朝貢・入質――、 時には他の君主の冊立等もみられ、また他方、当該国王は、中国王朝に通じて、その封冊をうけ、それによってその国家の独立性を顕示し、また、東アジアの国際社会に、それぞれの地歩を築いたのである。「大王」は、こうした過程に生まれたのである。本稿は、この日本と朝鮮の「大王」の成立過程のうち、とくに国際的な契機に注目しようとしたものである。

          史林五一巻四号 一九六八年七月

--------------------------------------------

坂元氏は、この(倭をも含む)東アジアの大王号は、西暦391年に就位したいわゆる広開土王が、永楽と建元したので「永楽大王」と呼ばれた事に始まるとしている。

一方、倭の五王時代には倭国王も大王を称していただろうと坂元氏は言っている。

だから、この6世紀に、大加羅においても大王の称号があったとしても不思議はないという事になる。

しかし、高句麗は本来別の民族(扶余、ツングース)であり、三韓で言えば、大王呼称は百済・新羅・大伽耶(高霊加羅)の順で成立して行ったというのが一般的な理解とされて来た。

だが、この最後に大王を呼称したという高霊加羅は、確かに加羅諸国の盟主であったが、その弁韓領域に対する全般的王権を有していたわけではない。強勢という点だけから見れば、加羅地域では金官加羅→安羅→高霊加羅という順で実際上の政治的な重心が移ったとされている。高霊加羅も、元は伽耶山麓に存在した幾つかの村邑国家の一つに過ぎない。

しかしその高霊加羅が、百済や新羅を向こうに張って大王を名乗るいわれは何処にあるのだろうか?

私は従来、“高霊加羅は、馬韓の月支国の分国だった”と推測して来た。月支国は辰王の治所である。

補遺51で論究したように、月支国本国は魏韓戦争(崎離営の戦い)で滅亡したとされる。

しかし辰王の王統は、既に後漢末の混乱期に遼東に蟠踞した公孫氏の馬韓辰韓への支配権力が伸びてくる前に、高霊加羅に移されていたと考えた。だから高霊加羅王は、辰王の持っていた馬韓辰韓の各城邑・村邑国家への宗主権を継承していたのだと思う。そして更にその三韓全体への宗主権は、高霊加羅が新羅によって滅亡後は、秋津島九州にあった(高霊加羅の分国)狗奴国(日下国;クガ国)に移譲されたのだ。

辰王(遼河域の辰国の王)→辰王(月支国王)→高霊加羅王→狗奴国王→(東征)→河内王朝の大王→大和王国の天皇

という流れを想定している。

そして過去の天孫族考で繰り返し述べて来たように、辰王とは構成部族3つのトーテム:日辰・星辰・月辰の三辰の王であり、その三辰それぞれを信奉した;タリム盆地周辺の小月氏の3族即ち葱芘族・黄牛族・白馬族が匈奴の西進を前に黄河を下って大東遷して建てたのが、遼河流域圏にあったと推定される辰国だったのだ。

こういう観点からは、高霊加羅王は正に大王と呼ばれる資格があるので、俗論のように、「大王呼称の成立は、百済→新羅→大伽耶の順」ではなく、大伽耶(高霊加羅)が最も早かったのではないかという疑いも持たれる。というのも、確かに極東アジアで大王と最初に呼ばれたのは高句麗の広開土王であったが、それよりかなり以前に、中国の戦国時代には、その七雄と言われた国々ではそれぞれの王は大王という呼称で呼ばれていたからである。

しかし極東アジアでは箕子朝鮮や衛氏朝鮮では朝鮮王の呼称はあったようだが、大王の呼称があったという文献記録は無い。下って遼東に蟠踞した公孫氏は燕王を自称しただけである。

だから一時月支国にあって馬韓辰韓の両地域の盟主だった辰王は大王と呼称されていたかも知れないのである。

もっとも、この辰王が月支国を治所としていた時代は、馬韓の各国の邑君は臣智もしくは邑借であり、辰韓では尼師今といい、王という呼称ではなかったらしい。

※尼師今:爾叱今,寐錦とも書き,ニスクムnis-kum,ニトクムnit-kumなどと読む。恐らく“今”は遊牧民の王者である“干”、尼師は主で、和語の主君に相当するかと考えられる。なお西干と書いた例もあるらしい。新羅時代の高級官僚には“角干”の名称もあった。従ってこの干を称する辰韓と、臣智・邑借を称する馬韓では明確に呼称観念の違いがあったと言われている。臣智・邑借の方は漢語(臣と邑)に韓語の官職名の接尾辞:智や借が合わさった言葉だからである。

智では叱智などという官名が任那にあったという。借は西アジア流のシャーではないかと考える。

また高霊加羅こそ和族の国である狗奴国の本国と目された国であった。高霊加羅は狗奴国から見れば、高天原(高霊;タカマ+加羅→ハラ)であろう。この高霊加羅王が高皇産霊である。そして高霊加羅の初期の王は女王が3代続いたという。この高霊加羅の女王こそが、天照大神のモデルの一つだったのではないか。一つと言ったのは、月氏が崑崙山麓に居た時も、(羌族と混住して)婼羌(ルウチャン)と呼ばれていたが、首長は女系だったという。そこで若羌族だが敢えて女偏を付けた婼の文字を使ったといわれている。

なおそのルウはチュルク語で“強い”という形容語だと中国では説明されて来たようだが、私は月氏の本来の名前である“日(ルウ)氏”の事だと解釈している。

月氏三族が、三辰(日辰・星辰・月辰)をトーテムとしていた事は先述の通りだ(天孫族考でも何度か繰り返し論述して来た)が、他民族の来訪に対し通訳に当たるのは訳語(オサ)役であり、オサは交易旅行で各国語に堪能な白馬族の役目であった。バラモン(龢族)である日辰族=日之下族を補佐する役割だから、訳語は日佐とも表記される。その白馬族のトーテムが月辰なので、中国人は彼ら通訳が「自分たちは月辰氏である」というのを誤解して、月氏(本来は族長の属する日之下族=日氏)全体のトーテムが月辰だと思い込んでしまい、この為彼らは“月氏”と呼ばれる事になってしまったのだ。

沖縄の旧国名である「琉球」の琉も太陽(日辰)の事である。だから別名で「球陽」ともいう。つまり琉=陽なのである。

蘇霊琉(ソフル)=“曽(曽根=脚のこと)+霊琉(太陽神)”:日之下であり、龢族の原郷であるパミール(ペデ・ミトラ;タジク語)の月氏語呼称である。それが、西遼河言語連合での言語接触の結果、「日之下」という和語に変わったのである。月氏語は印欧語系であるので形容語後置だが、西遼河言語群はアルタイ語系なので形容詞前置になったのだ。

このソフルの語音が諸族の記憶に残り、新羅でのソボル、現代韓国でのソウルになり、我が国での神話上の「高千穂の添の嶺」(書紀一書)という語句になっている事は天孫族考で述べて来た通りである。

また馬韓の天安付近にあったという月支国が、魏韓戦争後魏によって滅ぼされた後(もしくはその直前)辰王の一族は、南の秋風嶺と東にある鳥嶺で小白山脈を越えて弁韓に逃げたとの伝承があるようだ。私はこの秋風嶺とは“添嶺”の転訛ではないかと考えている。天孫は添嶺に降臨するからである。

This blog post is actually just a Google Doc! Create your own blog with Google Docs, in less than a minute.