補遺54 「天孫族渡来の地、若松と岡田宮」
天孫族考補遺54 「天孫族渡来の地、若松と岡田宮」
◯邇邇芸命のモデルは孝昭天皇
洞海湾の山立ての当て山は、若松側の高塔山と南岸側の皿倉山である。しかし地元人は皿倉山の古名は帆柱山だという。今ではこの付近の最高峰である皿倉山と、海から見て右の尾根続きの山が帆柱山であるとして区別されている。
皿倉山の地名由来譚は、“神功皇后が西征の折、山に登られて遥かな国々を眺望されて下山したとき、さらに夕暗が深まっていたので、「更に暮れたり」と言われたことから、「更暮山」あるいは「更暗山」と呼ばれ、「皿倉山」に転じたとされています”というのだが、どうも信憑性に欠ける。
また帆柱山というのも、“神功皇后の征韓の際の軍船の帆柱材を切り出した山なので帆柱山となった”とされており、こちらの方が、神功皇后を無視しても、いかにもあり得る由来譚である。
つまり古には、船材を切り出すほど豊かな森を持つ山だったのであろうか。この皿倉山からの洞海湾地域の夜景は、日本三大夜景(長崎・函館・若松?)という。
この帆柱山(もしく対岸の高塔山)こそが、天孫降臨の“ 槵觸岳(クシフルタケ)”では無いだろうか?従来この槵觸などという意味不明の山岳名が挿入されたのか謎だった。
槵は無患子(ムクロジ)の木の事である。(しかし記紀のいう日向には無患子の木はほとんど無いのである。)
実は洞海湾周辺には古来無患子の木が生えていた。伐採されて少なくなったが、若松半島西方の白山神社には今でも神木の無患子がある。
無患子の木は相当に高木となるので、神木となり或いは帆柱にも使われたのであろう。
クシフルは、“奇シ日霊”の意味だともいわれてきた。神木となることから、患子(槵)の木が“奇シ日霊”の樹なのだろうか?
天孫は神話上では大日霊女の孫神である。
それが、患子(槵)の高木を依代にして降臨した、つまりは天孫族の船団が、その高木の生えている山を目印に渡来上陸したという事だ。
その統帥者が私説では観松彦香殖稲=稚(若)松彦禾殖根子=孝昭天皇である。→過去の天孫族考で詳述した。
そして彼が邇邇芸命のモデルであり、その宮処がヤハタ宮(後の名が岡田宮)だった。そして先住者である海人族の女性・木花咲耶媛を娶った。そこの地名は記紀では阿多である。阿多は大隅の阿多ではなく、本当は洞海湾に面したヤハタであろう。そして岡田宮から東征に出発した誉田別をヤハタの神の化身とするのは、実はその地名に因むと考える。
北九州市の八幡区は、宇佐から八幡宮を勧請してからの地名だとされてきた。しかしヤハタの本源は岡田宮(←遠賀宮=右日下宮)の方であろう。そこは、洞海湾南岸の茅原の“野側(ヤバタ)”の意味では無いか?と考えてみた。
今の洞海湾は沿岸が工場用地などに埋め立てられて、海水面積は往時の2割ほどになったという。水深も古代船が航行するくらいの余裕があったと想像される。
更にそこの海人族の媛が木花咲耶媛だとするのは、天孫族の渡来源地である三韓の聖始祖天降神話に共通するのが、天降の時期を三月上旬(後に三月三日の弥生の節句の日になった)としていて、それは春の花々が一斉に開花する時節なのである。従って、海人族に縁りの名前ではなく、その天降神話のベースになる時季である花咲く季節に相応した媛の名になっているのだ。
海人大山祇(伊予大海人津見)の長女(兄媛)である磐長姫と比べて乙姫である木花咲耶媛の名は唐突である。しかしそれは上述の様に天降神話に相応しい名前になっている(されている)という事なのだ。
一方磐長姫の名の方は、航海の目印になる長大な岩盤や岩礁を連想させる海人族に相応しい名である。
だから天降始祖は相方として木花咲耶媛の方を選ぶのだ。
※実際には、磐長姫は伊予阿曇=大山祇系で、一方木花咲耶媛は海人族といっても、豊前秦海人=豊玉彦系(実際は豊前息長氏)だったのかも知れない。秦氏は南韓の白馬族の後裔なので任那や高霊加羅の習俗を知っていたろう。
ところで洞海湾南岸の茅原の“野側(ヤバタ)”つまり茅野の端になる所がヤバタ→ヤハタではないかと考えたのだが、異説がある。
ヤハタは禰疑の事だというのである。禰疑は無論野菜の葱の事であるが、葱は天孫族の聖草(バルソム)であり、その華=葱華が、和族の聖職者の禰宜の被る帽子に似ているので、ネギと呼ばれた。葱というのは中国人の呼称であり、音はソウであり、ネギは訓読みである。で、禰疑はその万葉仮名的な漢字表記だが、それを直に訓読みするとヤ・ウタグとなる。この意味は“禰=禰宜に疑われる(擬される)”で、だから禰疑はヤウタグ→ヤワタとなる。
岡田宮となるヤウタは、天孫族の最初の日下(祭日壇)の設けられた所であるが、日下には必ず聖草である禰疑が植えられた。葱の香臭がするのでこれを草香という。だから日下をクサカと読むのだ。
岡田宮は遠賀の宮が訛ったものだといい、今は江川で連接する遠賀川は洞海湾と相通していた。その遠賀こそ、狗奴国(久我国=日下国=日之下国)の右我賀(右日下)→右賀(ウムガ)である。
ヤマトタケル(日之下武命=武内宿禰)が北九州の統一を果たした頃には、右賀は岡田宮から、水巻三山に囲まれた古賀に移って居たことは「天孫族考」の“誉田別の育成地はその古賀の遠賀川側の河畔にある水巻宮だった”という論述で考究した通りである。
当然水巻三山の内輪にも禰疑が植えられていたに違いない。
(現在の水巻の特産品が大韮である事も以前記した通りである。)
そして、この右日下の祭日壇の祝祭を取り仕切るのは、綿津見の頭領でもあった和邇氏(春日氏)であり、彼こそが大禰宜なのである。
瓊瓊芸もまた瓊禰宜であり瓊禰疑である可能性は過去にも言及した。香殖稲も香殖葱かも知れないとも。
このヤウタの祭日壇に参集した海人族の媛が木花咲耶であったという事なのだろう。そしてそこの歌垣などで邇邇芸=稚松彦と契ったのであろうか。(この一夜の契りで子を孕ったというので邇邇芸に疑われ、火中で出産して身の証をするという神話が生じる。)
記紀神話で、天孫降臨の地を日向としたために、ヤウタを阿多(吾田)と改名して、木花咲耶の出逢いの地と潤色したのだが、本来は八幡の宮の蘇塗だった;祭日壇のあるヤウタ(禰疑)こそ阿多だったのではないだろうか?
この“八幡社を宇佐から勧請したので八幡の地名が生まれた”という通説は違うのではないか?という疑問は次のような見解からも裏付けられる。これは熊鰐物部のペンネームでAmeba ブログに、北九州地域の古代豪族について書いておられる方の考察である。
※熊鰐は仲哀天皇の筑紫入りを三種の神器を木に吊るして出迎えた(服属した)現地豪族の頭領で、その功績から後に岡の県主に任じられたという伝説の人物である。
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現在、熊鰐のご子孫の方は波多野姓になられているようです。
岡田宮の周辺で波多野姓の方が宮司をなさっている神社をネットを使って調べてみました。
岡田宮(※岡田神社か?)、中宿八幡宮、豊山八幡神社、春日神社、一宮神社、高見神社の宮司の方は波多野姓のようです。
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※実際には、この地域に熊鰐そのものの姓を名乗る人たちも4家族おられるようだ。
熊鰐物部氏は“熊鰐は海人族ではないか”と推測されている。鰐が海人族の和邇氏を連想するためだろうか?
そしてこの熊鰐物部氏は、上述の神社は皆洞海湾周辺に集中している事を指摘している。関東などで波多野姓は秦野と同様で秦氏の集住地の地名である。豊前から筑前東部もまた秦氏の勢力圏であった。だから後世、宇佐の秦氏の斎く八幡神が洞海湾周辺にも勧請されたというのが通常の理解である。
だが私は、ここの波多野は禰疑野(ヤウタノ)に由来する名ではないか?と考えている。(後の景行紀には豊後の禰疑野で反乱がありその鎮圧に多氏が当たった事が出てくる。そちらはネギノである。鎮圧したのは多氏。そしてその従軍占い師が卜部氏つまり中臣氏。)
邇邇芸の二人の息子が海幸彦と山幸彦だが、これは孝昭天皇の息子二人をモデルとしたものだ。天足彦国押人命が海人族系和邇氏の祖とされ、弟の日本足彦国押人尊(孝安天皇)が皇位を継いだ。
この皇子二人の生母は孝昭天皇皇后の世襲足媛だとされている。
この女性が実際の木花咲耶媛なのだろうか?。
『古事記』では尾張連の祖・奥津余曾の妹である余曾多本毘売命(よそたもとびめのみこと)、『日本書紀』本文では尾張連の祖・瀛津世襲の妹である世襲足媛と表記される。
(なお孝昭天皇の皇后として『日本書紀』第1の一書では磯城県主葉江の娘である渟名城津媛、第2の一書では倭國豊秋狭太媛の娘である大井媛となっている。私は孝昭天皇は九州の人だと考えているのでこの二つの一書は後世の附会であろうと思う。)
尾張連もまた海人族系氏族だと思われる。
丹後籠神社伝世の文書では丹後の海部氏は尾張氏同族だとしている。尾張の木曽三川流域にも海部郷がある。
海部の地名は豊後沿海や南阿波にも残っていて、これらは同族では無いにしても近縁部族であろう。但し、海人族でありながら、安曇氏とは異系である。姓も安曇は連だが海部は直である。また関東には、後世海上氏となり源平期には千葉氏一族とみなされた下総海人がいたがこれは出雲族系の海人族であったらしい。多氏の常陸進出時にこの海上海人はその配下となり凡海連に組み込まれたものと考えられる。
そして天孫族系綿津見であった和邇氏と多氏。また鴨氏との擬制同族である畿内の三島氏も海人系かと言われる。
このように海人族も一様・一族ではなく、何回かに分かれて、南韓の南岸地域や沿海多島海そして韓半島東岸の濊族地域など複数の本貫地から渡来したのではないかと考えるのである。
記紀では天孫族と西瀬戸内海の伊予安曇系は親和していたかに見える。大山祇の娘姉妹との婚姻譚が、そも記紀日向神話の中核を為している。
記紀では、孝昭天皇はヤマトの葛城掖上宮を宮処にしていたとされるので、その妃が(西瀬戸内の)大山祇の娘では辻褄が合わない為に、尾張海人系の世襲足媛を持ってきたのであろう。
※もし孝昭天皇が邇邇芸のプロトモチーフだとすると、渡来を中止したという天忍穂耳のモデルは何だろうか?そして彼は加羅に戻ったのか?とすると、加羅にあって天孫に倭への渡航を指示した高皇産霊と天照大神の原像に該当するのは誰々なのか?今後、このマターにも考究の探針を伸ばさねばならない。もし高霊加羅がその舞台なら、天照の原像は伽耶山神斎主(伽耶正主)正見母主。忍穂耳の方は、悩窒朱日(内珍朱智・伊珍阿豉)という事になるのであるが?
◯天孫族と猿田彦
ところで話は跳ぶが、天孫降臨を先導しに出向いたという猿田彦であるが、この猿田彦の出身部族は何か?(というか猿田彦はどの部族が信仰した神だったのか?)。
猿田彦の出身部族は、整理すれば以下のどれかとなる。(というより、それらしか有り得ないという事なのだが。)
①縄文族 ②海人族 ③秦族 ④出雲族 ⑤天孫族の先遣部族 ⑥熊襲・隼人(南風曽)
縄文人も山地系と沿海系の大略2流になっていたであろう。
また海人族も先述の如く幾つかの系流があった。秦族も大きく分けて、宇佐系秦・出雲族配下系の二つである。
もし④出雲族系とした場合、(記紀神話の神武東征の際の八咫烏=高鴨氏や物部氏のように)内通者という事になる。
神話上は、猿田彦は天鈿女と夫婦神となっている。天鈿女は宇佐秦氏系の神だとされるが、猿田彦は天鈿女と夫婦になった事で宇佐系秦氏との繋がりも生じたが、秦氏プロパーではない。また最終的に鎮座したのは伊勢内宮の近く宇治山田とされている。
後世、猿田彦は富士吉田浅間神社を拠点とする富士講では“富士山の山神”とされ、駿河側の浅間神社の祭神である木花咲耶媛と対照の関係となっている。富士の北面が猿田彦、南面が木花咲耶媛という何か曰くがありそうな対照である。
もしかすると猿田彦とは、実は大山祇の異名なのだろうか?
後世、海神・大山祇は、山神・大山積と混同されたので、富士北面の祭神である猿田彦は大山積だという文脈での解釈かもしれない。
また猿田彦の別名として、天孫降臨の際天之八衢に立ちはだかったので『書紀』では「衢神(ちまたのかみ)」とも呼ばれている。この事から後世に庚申・道祖神とも習合した。塞の神とも言われた。
また最終鎮座地の伊勢の宇治には宇治土公が斎く猿田彦神社がある。宮司を代々、猿田彦子孫を自称する宇治土公氏が務めて来た。
時に、その猿田彦が天孫を迎えに出たという衢だが、それは何処なのだろうか? 神話上は雲上の衢とされているが、実際的には韓半島〜北九州のいずれかの地点であろう。そう考えると、その候補となる場所は限られてくる。一つは対馬または壱岐という海路上の何れかとなるか?或いはもう一つの可能性が沖ノ島である。
私は、後世沖ノ島の祭祀が重要視されたのは、ここが一つの海路上の重要点であったからであり、それがまた遠賀川に近い宗像氏の祭祀領域であることを考慮するなら、こここそ海の衢と呼ぶに相応しいと考える。もしそうであるなら、猿田彦は宗像氏の祖神ではないだろうか?宗像氏は海人族の一派であるが、独特な地位を保持していた。和邇氏でもなければ純粋の安曇族でもない。姓も君である。
宗像氏といえば、宗像三女神を祭祀する氏族と単純化されて来たが、どうもその限りではないと思える。
猿田彦は宗像氏であるからこそ天孫を、遠賀湾〜洞海湾へとのルートで導いたのではないか?
他方、國學院大の神名データベースでは猿田彦大神について以下の如く記述している。
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この神の性格については、天孫降臨の際、天之八衢に立ちはだかり、『日本書紀』で「衢神(ちまたのかみ)」とも呼ばれているとおり、境界を守護する境界神・防塞神という面がうかがわれる。その赤酸醬のような眼は、相手を威圧する力を持つ邪眼の類と捉えられ、侵入者をにらみつけ阻止する境界神としての職能を表しているとも考えられている。一方、境界神としての性格よりも、先導する神という性格を重視する見解もある。天孫降臨に際して行く手に猿田毘古神が現れ出迎える話は、名告りという行為や「参向」といった表現から、猿田毘古神が天孫に服属したことを示す意味を持った神話であると考察されている。また、そのことは、この神を奉斎する集団が王権に服属し、その本拠地の東伊勢(後の伊勢神宮の鎮座地)を貢上したことを意味しているとする説もある。動物の猿を太陽神の使いとする信仰に基づき、猿が太陽を喜び迎えるという考えが、天孫を出迎えた神話の元になっていると捉える説もある。
記紀は、猿女君の祖神の天宇受売命が邇々芸命の命によって猿田毘古神を送り届け、またその名前を貰い受けてこの神に奉仕したことを、猿女君という氏族名の由来と伝えている。猿女君は、鎮魂祭で歌舞を演じ、大嘗祭で前行(先払い)を奉仕する猿女を出した氏族である。一方、猿田毘古神の後裔とされる氏族には宇治土公がいる。そのため、記紀の猿田毘古神の神話の解釈には、猿女君が猿田毘古神を祭ることになった由来を語った祭祀伝承とする見方と、猿田毘古神を祭った集団ないしは宇治土公が朝廷への服属を語った服属伝承とする見方がある。ただし、宇治土公の祖を猿田毘古神とする文献上の初見は鎌倉時代に降り、記紀には宇治土公の名が見られないことが問題になる。
また、この神は伊勢に縁が深い。『古事記』でこの神が溺れた「阿耶訶」も伊勢の地名である。また、天宇受売命が猿田毘古神を送り届けた場所がどこかは、『古事記』では明示されていないが、『日本書紀』では、猿田毘古神が「伊勢の狭長田の五十鈴の川上」に向かうことを表明し、天宇受売命がそれに従っている。『古語拾遺』には、伊勢神宮が垂仁天皇の治世に初めて五十鈴の川上に鎮座したことを述べた中で、神代に「衢神」(猿田毘古神)が先にこの地に降っていたことをその由緒だと語っているが、これは、猿田毘古神を伊勢神宮鎮座の土地の予言者・開拓者とする認識を示すものと考えられている。阿耶訶を含め、伊勢の地に関わりを持つことは明らかで、元来は伊勢の土着の神、あるいは伊勢の漁民の信仰した神とも考えられている。
伊勢神宮内宮に仕える宇治土公は、猿田毘古神の後裔とされる氏族である。平安時代初期編纂の『皇太神宮儀式帳』に見える伊勢神宮の起源譚に、宇治土公らの祖の太田命が、天照大御神を祭る宮にふさわしい場所として倭姫命に五十鈴川の川上の地を案内し、そこを宮地に定めたとあり、鎌倉時代編纂の『倭姫命世記』では、この太田命を猿田毘古神の後裔としている。ここから、記紀神話に猿田毘古神が登場する理由を宇治土公と王権とのつながりに求め、猿田毘古神の神話の実質を、太田命が土地を献上した伝承が神話に反映されて成立した伊勢神宮起源譚と捉える説もある。
また、猿田毘古神が阿耶訶で溺れたという話も、伊勢の漁民である磯部を掌った宇治土公の服属儀礼を語った神話と捉える説がある。阿耶訶は伊勢国壱志郡の地名で(現・三重県松阪市小阿坂、大阿坂)、この地に「阿射加神社三座」が鎮座することが『延喜式』神名帳に記されている。
阿耶訶での海溺れの神話については、「底度久御魂」の項も参照されたい。
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※というので、その「底度久御魂」を同じデータベースで引くと;
猿田毘古神の別名の一つ。猿田毘古神が阿耶訶(あざか)にいた時、漁をしていて、比良夫(ひらぶ)貝に手を挟まれてしまい、海に沈み溺れた。その際、底に沈んでいた時の名を底度久御魂といい、海水が粒立った時の名を都夫多都御魂といい、泡の弾けた時の名を阿和佐久御魂という。
「底」は水底、「度久」は着くの意で、沈んで水底に着くことを表すとする説がある。
阿耶訶は伊勢国壱志郡の地名である。猿田毘古神が溺れて三つの魂の名を持ったという話は、黄泉国から帰還した伊耶那岐神が禊をして、水底・水中・水上で底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神の三神や、底箇之男命・中箇之男命・上箇之男命の三神を生み出した話と酷似することが指摘されている。そこで、この神話は、伊耶那岐神と同様、水中で儀礼を行って神格を誕生させる偉大な神として猿田毘古神が尊崇されていたことの反映だとする説もある。
この話に基づき、阿耶訶を猿田毘古神の本貫地とする説もあるが、この三魂を元来は猿田毘古神とは別の、阿耶訶で信仰されていた土着の漁撈神とする見解もある。海人が潜る際に身の安全を祈ってエビス神の名などを唱える風習のように、古代伊勢の在地の漁民らに信仰されていた守護霊が、三魂の原型だとする説もある。
猿田毘古神が比良夫貝に手を食われて海に溺れたという話は、動物の猿が貝を好み、しばしば手を挟まれることがあるという習性を反映しているという見方がされている。また、溺れるという動作を一種の舞踊や模倣的動作と解し、漁撈民が釣りや網漁のまねを演じて大漁を祈念する儀礼に基づく神話ととる説もある。なお、手が挟まれた「比良夫貝」については、現在のどの種類の貝に当たるか不詳とされる。
海幸山幸神話で語られる隼人舞の起源譚との共通性も指摘されている。『古事記』では、火遠理命が兄の火照命を塩盈珠・塩乾珠の力で溺れさせて懲らしめた結果、火照命が弟への忠誠を誓うこととなり、以来今日までその溺れた時の様々な態を演じて奉仕するようになったとある。『日本書紀』第十段一書四には、弟への「俳優」の奉仕を誓って、溺れ苦しむさまの物真似をしたとあり、その挙動の詳細な描写が記述されている。これが、火照命を祖とする隼人族の王権への服従を意味することになぞらえて、猿田毘古神の海溺れも、この神を奉斎した宇治土公やその配下の伊勢の漁民の磯部らが服従したことを語る神話と解する説がある。一方、火照命の神話が飽くまで歌舞の奉仕の起源を語っているのとは違って、海溺れの神話は海人の贄の献上の起源を語るものであり、飽くまで漁撈そのものの、水中に潜って浮き上がるまでの動作を神話的に表現したものと解する説もある。また、猿女君を、伊勢の漁民らの祭祀を司った一族とみて、彼らがおこなった猿田毘古神復活の神事を神話化したものと捉える説もある。
『古事記』では、猿田毘古神が溺れた話の後には次のような神話が続いている。猿田毘古神を送って帰還した天宇受売命が、あらゆる大小の魚を集めて、天孫に仕えるかと問うた。魚らは皆、仕えますと返答したが、海鼠(「こ」。ナマコのこと)だけ返答しなかったため、天宇受売命がその口を小刀で切り裂いた。現在、ナマコの口が裂けているのはこのためである、といい、また、代々「島の速贄」が献上される際に猿女君らにそれを下賜するのは、これが由来である、と述べている。「島の速贄」は、志摩から献上される初物の海産物を指すとされる。『万葉集』に「御食つ国 志摩の海人」(6・1033)、「御食つ国 神風の 伊勢の国」(13・3234)と、「御食つ国」(みけつくに=天皇の食物を献上する国)と呼ばれているように、古来、伊勢や志摩から海産物が天皇に貢納されていた。この一連の神話の解釈には、海の世界の天皇支配を猿田毘古神が先導し、天宇受売命が海産物の服従を確認することによって、伊勢の海の海産物が天皇の支配を受け、それが代々天皇の食膳に供される贄として捧げられるようになることの端緒を語っているとする説がある。また、島の速贄の神話は、元は天宇受売命でなく猿田毘古神が主人公の神話であったと推定する説もある。
この三魂を祭ったと考えられる神社として、『延喜式』神名帳・伊勢国壱志郡の「阿射加神社三座」がある。『続日本後紀』以下の国史にも度々神階が進められていることが見え、伊勢国の有力な神社であったことが知られる。これに当たる現在の神社の候補には、三重県松阪市の大阿坂と小阿坂にそれぞれ鎮座する同名の両社が挙げられるが、どちらが本来の社であるかは確定しがたく、両社をともに三座のうちの二座に当てる説もある。
平安時代初期編纂の『皇太神宮儀式帳』の神宮鎮座伝承には、垂仁天皇の治世、倭姫命が天照大御神を奉戴して各地を巡行する中で、「阿佐鹿の悪神」を平定した阿倍大稲彦命という人物が見える。鎌倉時代編纂の『倭姫命世記』では、同じ神宮鎮座伝承を載せているが、垂仁天皇十八年に、阿佐加の峰で荒ぶる神が道行く人を殺していたので、阿佐加の山の峰に社を作って鎮めたと記す。これらは、阿佐加の峰が南伊勢の難関であったことを反映した伝承と言われている。『倭姫命世記』の内容については『皇太神宮儀式帳』の内容に基づく後世の作為も疑われているが、これらの伝承に基づいて、この悪神・荒ぶる神を阿射加神社の本来の祭神とする説もある。また、その上で、行く手に立ちはだかる境界神という性格の類似性などから、この神を猿田毘古神と同一視する説もある。
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(長文の引用で恐縮だが)
これらの各説を吟味するなら;
1)猿田彦は本来は伊勢神宮に関わる伊勢ローカルの神だったが、伊勢の宇治土公や伊勢神宮の贄人たる漁労民らが大和王権に服属した儀礼や過程を反映した神話のシンボル的なものだった、
のか
2)本来は、北九州玄界灘沿海の海人族が渡来してくる天孫族を迎えた故事を神話的にまとめた結果、その行為の擬人化が猿田彦なのか
このいずれかであろう。
(景行紀にも景行九州親征を迎える五十迹手の話がある。)
しかし、2は神武東征伝承の八咫烏の如く、“天孫族を歓迎する国津神がいる”という一つのパターンとして考案されたものであり、そのアイデアの元になった一つが1であったという事なのかも知れない。この場合は、記紀編纂の過程で、天孫族の箔付け(格好つけ)に導入された殆ど事実無根の神だったという事になってしまう。
しかし、猿田彦を天孫渡来の先導者と考えた中世の人はいたと見え、もっとも韓国(カラクニ)の直近に祭られた猿田彦は福岡市早良区藤崎の猿田彦神社である。勿論猿田彦大神を祀り、庚申信仰に基づく庚申祭が催される。この神社は災難を祓い、幸福をもたらすとされている。このようなご利益神と庚申信仰があるからには、中世の筑前修験の設置した神社であろう。(とはいえ、記紀が貴族や高位僧侶以外に公開されるようになったのは中世中期以降だと言われるので、この福岡藤崎の猿田彦神社もそういう時代になってからのものであろうかと推理される。)
※日枝社信仰では、猿は日枝神の御使いとされている。日枝が日辰の隠喩だとして、猿を太陽神の遣いと見る観念があるが、それは秦氏系の日枝社信仰での比叡山神の化身とする天台修験のものだ。これは必ずしも猿田彦とは習合していないが、太陽神と猿というモチーフには共通性がある。しかし記紀に載る神ながら、中世に於いて猿田彦大神を奉斎していたのは、天台修験ではなく、真言修験(の恐らく当山派か?)ではなかったかと思われる。但し福岡藤崎の猿田彦神社は近隣の紅葉八幡宮の境外摂社であり、既に江戸期には別当寺が真宗本願寺派の西光寺になっていた。→この件は改めてもう少し考究し直してみる必要がありそうだ。
またヒンドゥー教の猿神ハヌマーンは、太陽と対立して雷電で戒められるので、やはり猿田彦的な要素は無い。だから猿田彦的な猿神の淵源は道教辺りにあるのではないかと想像される。(道教の猿神では孫悟空が有名である。)これも研究を要する。