補遺54追補続付加②「もう一人の観松彦」
天孫族考補遺54追補続付加②「もう一人の観松彦」
私説では、後称「孝昭天皇」(諱・観松彦香殖稲)が“稚松彦香禰宜”で天孫邇邇芸のモデルではないかとした。
だが歴史(?)上にはもう一人の観松彦の名が残る。
「御間都比古神社(徳島県名東郡佐那河内村)」の祭神である“観松彦伊呂止命”である。記紀にはその名が見えないが、『先代旧事本紀』「国造本紀」には観松彦伊呂止命の名で登場し、意岐国造・長国造の祖とある。別名が天八現津彦命というらしい。
「億岐氏(隠岐島) - 応神天皇朝に5世孫の十挨彦命が国造となる」とあり、
私説的には、
観松彦(孝昭天皇)〜孝安天皇〜景行天皇〜(成務天皇/ヤマトタケル)〜応神
という系譜を考えているので、応神朝に5世の孫である十挨彦命が隠岐の国造になったというのなら、(応神が孝昭5世の孫に相当するので)観松彦伊呂止命は観松彦香殖稲と同一人物なのか?だが伊呂止というからには、同母弟(イロド)の事になるので、「旧事本紀」では、孝昭天皇の弟である人と暗示しているのか?
しかるに「旧事本紀」自体が、今では平安時代に物部氏系が創作した偽書であるとの解釈が定着しているので、この観松彦伊呂止命とは、何らかの目的で考案された架空の人物であろうかと思われる。
そして長国造(阿波国那賀郡)と隠岐国造の祖であるとされているので、海人系でもあろうかとの示唆も含む。
また、何よりも事代主命の子孫であるともされているので、本来は出雲族である物部氏が、孝昭天皇の観松彦と同母弟であるとして、物部氏を天孫族に結びつけようとする意図で考案されたのかと考えられる。事代主に関わる事であの三島溝咋命の別名だとする説もあるようだ。
平安期には、観松彦はミマツヒコと読む慣習が出来上がっており、元の名と推定される稚松彦(ワカマツヒコ→ミマツヒコ)の謂れは伝世していなかった。これは記紀が、天孫降臨の地を南九州に設定しようとした意図が貫徹された結果である。
だから若松彦では、洞海湾の若松が即連想されて、出自の地がバレてしまうので、敢えてミマツヒコと読ませて観松彦の字を当てたのである。
そこで、観松彦=ミマツヒコの表記が定着し、御間都比古という万葉仮名風の表記も登場するのである。これはまたミマキイリヒコの御間城も連想させて、もっともらしくなる。
しかし、御間城が御巻(巻向の巻)という三輪山山麓の名に関わる地名なのに対して、御間都などという地名は存在しない。
ミマツの発音では三松とか美松などがあるが、御間都比古神社の付近にはそういう地名も存在しない。
因みに神社のある徳島県名東郡佐那河内村は、吉野川水系の園瀬川を遡った山間部である。神社は、戦国時代に焼き討ちにあったのを地元民が再建したという粗末な社である。ここが阿南など阿波国南部に蟠踞した長(那賀)国造の本貫地だとはとても想像できない。
◯長国造と凡粟国造
ところで、長国造は阿波南部の国造だが、北部には凡粟国造がいたとされる。粟国造とは阿波国造の事であるが、これに凡(オホシ)の修飾語が冠されているので、凡粟国造は阿波全体の国造(凡国造・大国造)であり、長国造はその配下にあったと解されている。
但し、粟国造の姓は直であるので、天孫族の直臣ではない。また一説では
>>国造氏族は粟凡直(あわのおおしのあたい)と言われ、
>>新編姓氏録で粟国造・粟凡直は粟忌部の宗家と書かれて
>>いる
という事なので、恐らくは元来は出雲族系海人族であったのだろう。(もっとも、阿波の忌部は元は粟国造氏の部民だった白馬族=秦氏と同系;の農・職工民であったろうと私は考えている。即ち中央の忌部とは本来は別の出自だろう。それが奈良時代に中央の忌部によって組織されて、阿波の忌部となったのであろう。)
国造は律令制下では無論令外の官であるが、かなり遅く奈良朝時代末にまでも存続していた。無論その頃は令制の国司が任じられているので、国造は名誉職か、或いは地方の祭祀を主宰する役目になっていたと考えられる。典型的なのは、出雲国造である。
だから凡国造は、令制以前のものであったと考えられる。それが氏族名として残ったのが凡河内氏である。
一方、凡国造に似た職名に大国造がある。「続日本紀」に
「神護景雲元(767)年10月、(陸奥国の)山道地方の栗原に伊治城が完成し、11月に栗原郡が置かれた。伊治城造営に功あったとして、同年12月、道嶋宿禰嶋足(みちしまのすくねしまたり)が陸奥国大国造(おおくにのみやつこ)に、道嶋三山(みやま)が国造に任じられた」という。
また、宝亀元(770)年8月、蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇(うかんめのきみうくつはう)が1・2の同族を率いて必ず城柵を侵すといって徒族を率いて賊地に逃げ帰ったので、事実関係を調査するため正四位上近衛中将兼相模守(かみ)勲二等道嶋宿禰嶋足を陸奥に派遣したという。この職務は近衛中将や相模守と無関係なので、陸奥国大国造として派遣されたものであろうとされる。
つまり道嶋嶋足は公卿の地位にまで上り詰めている。文字通りの大国造である。(史書の中に“大国造”は嶋足以外が任じられたという記録はないようだ。)
また道嶋賜姓の以前の氏名は丸子であり、研究者によれば陸奥俘囚の出だというので蝦夷か、対蝦夷戦争で相手側の捕虜になった朝廷軍の子孫だったのかも知れない。
更に牡鹿連の姓も与えられている。
一方、丸子の地名が相模や武蔵に多い事から、この関東南部に土着した農民の出ではないかとの説もある。
嶋足は橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱などの反乱時に於いて一貫して孝謙天皇側に付いて戦った事で評価されて、異例の出世をした。若くして平城京にいた事から、既に嶋足の代には公民の扱いになっていたと考えられる。つまり俘囚の経験は無いようだ。