補遺54追補続「霧島神社と神楽について」

補遺54追補続「霧島神社について、また神楽について」

◯霧島修験と“霧島神社”

以下は、数年前宮崎に移住して、宮崎各地の日向神楽の記録映像取材を行なっていたテレビ業界の後輩K氏に送ったメールである。当時、取材を進める内に、彼は「一体日向神楽は何処から来たのか?またどういう系統があるか?」などに悩んでいたので、いくつかの私の知っている点を書き送った。

※今読み返してみると、これが私の(今もって)保持している霧島修験についての知識の概略である。

それら一連の複数メールを纏めたのが、下記文章である。

※書き改めるのも面倒なので、複数メールをジョイント(マージ)しただけで公開する。実はこの熱心な後輩も先年、コロナ禍で俄に逝ってしまった。残念な事だ。日向神楽が世界遺産になることを夢見ていたのだが。

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《送信メール内容》

---------ところで、貴君が薩摩訪問の帰路、霧島に立ち寄られたというので一言。(※貴君とはK氏のことである。以下同様。)

下記は、宮崎のパワースポット解説というWEBページ

に所載された霧島東神社の紹介文です。

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霧島東神社【縁起】 創建は第十代崇神天皇の御代と

伝えられる。 天暦年間(947〜957)、天台宗の僧、

性空上人が4年間霧島山に入峰修行。 高千穂峰の周囲

6ヶ所に鎮座する其々の神社の傍らに寺院(別当寺)

を建立し、後に霧嶋六社権現、霧嶋修験と呼ばれる

神仏習合の霊場として開山する。 以来、当神社は

東御在所之宮と称えられ、別当寺として千手観世音

菩薩を本尊とする東光坊華林寺錫杖院を有し、最盛期

には360名を越す山伏行者が、山内に宿坊を営みつつ

社寺の護持に勤めたとされる。 度重なる霧島山の噴火

に社寺造営を重ねるが、文明18年(1486)の造営の

際、天台宗より(島津家の宗旨)真言宗へと改められ

る。 以来、24世の別当職が続き、南九州最大の修験道

根本道場として尊崇を極める。

明治5年の修験道廃止令により錫杖院は廃され、神社

名も霧島東神社と改称されたが、今日に至りても尚、

神意佛心を崇める修行の霊場として、龍神信仰、天狗

信仰、権現信仰を守り継ぐ。

社殿は享保12年(1722)の造営より、幾度かの改修

を経て現在に至る。 殿内奥に雌雄一対の龍柱が祀ら

れ、向拝には寛文6年(1666)、島津家19代当主、

薩摩藩2代藩主島津光久寄進の「東霧島坐(霧島の東に

坐す)」の扁額が懸かる。 高千穂峰の山頂を飛地境内

とし、山頂に聳える天之逆鉾は当神社の社宝として

祀られている。

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で一方今の「霧島神宮」は、明治の国家神道の思想に

沿って整備されたもの。元来は、霧島六社権現の一つで

ある霧島神社であった。霧島修験の盛んだった 江戸

期までは、東御在所之宮即ち今の霧島東神社が信仰の

中心だった。

貴君がが訪れた古宮趾とは、この霧島神社がかつて

在った場所の事で、更にこの古宮はその昔はもっと

尾根筋に近い場所にあったといい、火山活動の被害を

受けて、結局“霧島神宮”は今の位置まで移動して来たと

言うことのようです。

ところで、この霧島神社の移動の話はともかく、上記

の東神社の紹介文を見て注目されるのは、どうやら

霧島六社は霧島修験が祭祀に当たっており、神仏分離

前までつまり江戸時代末迄には、神職は居なかった!

ようだという点です。

で、六所権現の三社には華林寺◯◯院を名乗る寺院が

あり、残る三社にもそれぞれを祀る寺院があって、

神職が居ないので、神祀りも寺院の衆徒(即ち山伏)

が、恐らくそれぞれの権現の本地仏の真言を唱えて

いたと思われます。(ところで今の神社で神職が上げて

いる"祝詞"なる願文は、古く神社ごとに伝来していた

願文・祈祷文類等を基に、明治政府の教部省が、仏教の

唱導・祭文などを参考にして;いわば"創作したもの"

なのだといわれています。)

そして、上記の霧島東神社の紹介文中に登場する

「別当寺」ですが、これは"神宮寺"というものと

"別当寺"というものを厳密には区別して考えなければ

なりません。

神宮寺というのは神社・神宮に隣接もしくは同じ境内

にある寺院で、そこには社僧という神社を管理し祭祀

の指揮をする僧侶が駐在しています。この社僧の下で

神社の祭祀の為にのみ奉仕するのが神職です。大きな

神社ではその神職の内、筆頭の職分を宮司、その下で

事務方を務めるのが禰宜、さらにその下で雑務に当たる

のが祝(ハフリ、ホウリ)という職分です。

ですが、伊勢神宮とか阿蘇神社や出雲大社、京都で

いうなら賀茂社などのような大神社でなければ宮司の

職は置かれませんので、神社を公式に代表するのは

僧侶である社僧という事になります。

また中規模の神社は、禰宜と祝の職分にも分かれて

居らず、双方の業務を雑多に務める宮仕(え)坊という

(僧籍の)衆徒が複数の坊宇に住んでいて、その配下に

雑務を担当する社人とか神人という神職が複数人居る

という構成になっていました。この宮仕という衆徒が

住む複数の坊宇を神宮寺と言った所もあり、大規模な

修験道場では、それらの堂宇の内、支配的な(高位の、

執行職といいますが)寺院のみを神宮寺と呼んで、その

他の社僧の坊宇は単に"宮仕坊"などという場合もあり

ます。京都の北野天神社の様に神宮寺に当たる三寺院

を祠官家といい(そこは、道真に所縁の菅原氏の子孫が

代々世襲していましたが)、その三寺院の配下に宮仕の

衆徒僧の寺院が三十二坊も存立していたという例も

ありました。そして神宮寺の中で最も高位の僧が神社

と全関係寺社の支配者=即ち別当職に就いて居る時、

その神宮寺を別当寺と呼びます。しかし、別当は

必ずしも神社に隣接する神宮寺の中の僧侶から任じ

られるとは限らず、その宗派の本山によって別の寺院の

高位の僧が任じられる場合があり、この場合はその別の

高位の寺院が別当寺になります。北野社でも別当寺は、

離れたところにある有名門跡寺院の曼珠院で、

そこが神宮寺の執行職の業務を最終的に認可する形に

なっていました。

(また神社に隣接する神宮寺が存在せず、離れて所在

する寺院が別当寺になっているケースも多数ありました。)

さて、ここで認識して置かねばならないのは、明治の

神仏分離・廃仏毀釈前までの、日本の伝統宗教は、

仏教と神道が一体化した神仏混淆の形態をとっていた事

です。そして鎌倉・室町・安土桃山・江戸の各時代

を通して、神社は原則的に別当寺を持たねばならない

と公儀・幕府によって定められていたのです。

しかもその原則は、本地垂迹説に基づき、主仏従神と

なっていたのです。別当寺・神宮寺の無いのは、朝廷

の神祇伯の職を中世以降代行して、全国の神官の補任

権を一手に握っていた京都の吉田神社と、宮廷に特別な

影響力のあった賀茂社の二つだけでした。

(但し、賀茂社の場合は、特殊的に神職の社家が有力で

神前読経の必要性から社僧も置いていた形です。)

伊勢神宮や阿蘇神社や出雲大社(近世までは杵築大社)

でさえ神宮寺がありました。

春日大社などは、北野社同様に、別当寺は興福寺で

あり、神社の祭礼にも興福寺の多数の堂宇の衆徒が

関与していたのです。今は八坂神社と改称している

京都東山の祇園社も仏寺である感神院という神宮寺と

社僧によって運営されていたのです。

つまり吉田神社と賀茂社を例外として、神社の管理は

僧侶の仕事であり、神職は社僧の配下で事務や神前の

供花やお供え物の世話や掃除などの雑務をする存在で

あったのです。

有名な石清水や鎌倉の鶴岡八幡宮などは、それぞれ

石清水神宮寺・鶴岡八幡宮寺というれっきとした寺院

そのものであったのです。

従って多くの神社の中には、神職は全く存在せず、

社僧のみが存在して、祭祀に当たったのです。江戸の

赤坂にあった氷川社なども社僧のみが祭祀に携わって

いたようです。秋葉山寺もそうでした。

地方の村社(俗に鎮守や氏神と言った)などでは、当然

専従の神主は居らず、必要に応じて別当寺から、社僧

や神職や修験が派遣されて来ました。(現在、神主無住

の神社には神社本庁の配置によって、地域の複数神社

を掛け持ちする神職が決められていますが、江戸期

までもこれと似ています。但し派遣元は別当寺です。)

だから高千穂の諸神社も、別当寺はどこかは存じはし

ませんが、日常の祭祀は在地の里修験が担っていたと

推定されます。

この様に、多くの神社は別当寺や神宮寺の僧侶に支配

されていたのですが、各分国の一宮や二宮クラスの、

延喜式に載る様な古社では、あるヴォリュームの神職

が古来存続していた所もあり、これが江戸中期になり

国学を学び、取り分け平田派の神国思想に共鳴すると

従来からの僧侶による神社支配への抵抗心を抱く様に

なります。平田神道の盛んになった遠州の大小の古社

の神職にこの傾向が強くなり、この人達が遠州報国隊

を組織して、戊辰の倒幕戦争にまで従軍したのです。

その残党が、九段の招魂社=靖国神社の神職となり、

そしてこの流れの中で廃仏毀釈→国家神道が起こる

わけです。この分かれが明治神宮や伊勢神宮の新たな

神職群であり、それが戦後の神社本庁へと繋がり、

また日本会議の主流になって行くのです。

明治の神仏分離で、社僧の人達の多くは、滅びると

思われた仏教を捨て落飾し、神官に転職するのです。

中小の神社では、祭祀に携わっていた修験が神主に

衣替えしました。しかも、この元山伏という身分は

明治期においては、以前触れた様に、隠さなければ

ならぬものだったので、神社と僧侶の関係は意図的に

意識から消されたのです。

ですから神楽の原型となった山伏舞についての知識も

全く散逸してしまいました。

この様に、(以前述べた様に、伝統芸能の基底に存在

する宗教的要素を無視すると、その芸能の意味は不明

となるのですが、)  我が国の場合は、この明治前半に

於いて消された仏教や修験道に関わる知識を、闇から

復元してやらねばならないという大問題が横たわって

いる事を、しかと悟っておかねばなりません。

霧島東神社の祓川神楽;正しくは「高原の神舞」

ですよね。これが、高千穂など日向北部の出雲系の

神楽とは大きく異なっているというのは、前に引用

しましたように、霧島修験が領主の島津侯の庇護を

受ける為に、それまでの天台宗(本山派)から真言宗

(当山派)へ鞍替えした事と関係があるのかと想像し

ます。丁度その頃が、九州各地に里神楽が伝来した

と言われているからです。

出雲系の本流(出雲神楽・石見神楽・安芸の国の芸北

神楽は基本的には、出雲の佐陀神社系統であり、

従って天台宗系の神楽です。彦山付近は、江戸の前半

期に彦山から英彦山と改名し、天台宗の本山派から、

江戸寛永寺派に変わりますが、根は同じ天台系です。)

劔を用いる舞が際立つ所から、私などは白山修験の

劔の舞との関係があるのでは?と想像していますが

検証はしていません。

そうすると、日向神楽は出雲系と真言宗系に、海から

伝来した海山伏系(それも真言宗豊山派か?)の3系統

があるのかもしれません。貴君が神楽の取材を継続

される内に、このあたりの系統樹も分かって来るなら

是非お教え願いたく存じます。

ところで前回までのメールで述べましたように

○神国教育で喪失した知識

1)江戸時代末までの神社は、ごく一部の例外を除き

  別当寺や神宮寺の社僧や衆徒僧によって運営祭祀が

  行われていたこと

2) 江戸期までは、神職・神主という職掌にある人は、

  ごく少なく、相当程度歴史のある神社以外には

  勤めていなかったこと

3)明治の廃仏毀釈期に、社僧や山伏が神職に転職し、

    全国的に俄か神主が多数誕生し、神仏分離の原則で

    神社には僧侶は関与出来なくなったこと

などをお伝えして来た訳です。

平田神道を国家の宗教として採用した明治政府と、

それを継承拡大した神国教育(官軍教育という人も)の

帝国政府文部省の方針で、江戸時代までの神仏混淆の

実態は、意図的に隠蔽されて来たことにも言及して

来ました。

この文部省の方針は何と太平洋戦争後の新憲法下でも

継続され、私達は学校教育で、近世までの我が国の

宗教・信教の事情はほとんど知らされる事が無かった

のです。事ある事に信教の自由を叫んでいた"左翼"も

自分達に直接は無関係な宗教政策には無関心です。

ですから貴君にも、少なからず驚かれる"真相"が含まれ

ていたのかもしれません。

国学の学習→平田派国学・平田神道→国家神道という

流れを追求した[江戸期にも存在した(僧侶の下風に

置かされて来た)]神職達の抵抗運動が、行き過ぎた

結末が、暴力的な廃仏毀釈であったのです。

また、明治新政府の中核となった西南諸藩の下級武士

達にとっては、不気味な存在であった修験という

まさしく神仏混淆的な宗教勢力を、潜在的な脅威と

みなして、禁制とし弾圧した訳です。

ですが、この脅威は彼ら薩長政府の誤解であって、

山伏はなんら反政府勢力ではなかったのです。

幕末には、国学を学んでいた山伏は多く、また元来が

尊仏崇神・勤皇を旨としていたからです。

元々日本の古代・中世仏教は鎮護国家を標榜として

いました。元寇の時には、全寺社が国土防衛の祈祷を

行い、九州の修験は僧兵として参軍しています。

更に建武の中興とそれに続く南北朝時代にも、後醍醐

天皇と皇子達を支援したのは、南都北嶺や吉野熊野の

山伏でありました。秋葉山寺もそうでした。

ですから幕末に反幕運動が広まると、山伏もこれに

連動し、各地に伊勢皇大神宮のお札を降らせて、

お蔭参り・"えーじゃ無いか"の騒乱を醸成したのも

檀家や氏子を掌握していた修験たちだったと言われて

います。

江戸中期には秋葉講が盛行し、日本各地から秋葉山

詣での巡礼者が多数登山しました。そのような時、

秋葉宗徒は伊勢御師と連携して、秋葉伊勢二所参詣の

旅を提供しています。この頃は、伊勢神宮が皇祖神・

本邦根元神社という性格は、庶民にまで知れ渡って

居ましたが、この思想は全国に展開して居た山伏や

里修験が広めたものです。

それが、平田神道によって、にわかに仏教や修験は、

新たな皇国には不適当な存在とされてしまったの

です。(この事は、孝明天皇の信頼厚く、京都守護職を

無理して務めた会津侯・松平容保が、戊辰の役では

賊徒とされた事ともあい通うものがあります。)

こういう過程で、中世以来、修験者が伝えた(宗教的

なもの以外の)衣食住の文化や農業技術などの伝播に

関わる功績も、一挙に見えなくなってしまいました。

◯里神楽は山伏舞が起源

これらの一例が、山伏の伝えた宗教芸能である山伏舞

即ち神楽だったのです。以下の小文をお読み下さい。

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○山伏が神楽を伝来したというのはどういう経緯か?

(山伏と宗教芸能の関わり、「山伏舞」の起源)

南都七大寺(興福寺、東大寺、法隆寺等)や四天王寺、

平安京の密教根本道場である比叡山延暦寺・園城寺

(三井寺)や東寺等は、仏教は鎮護国家の法である事を

標榜していた。

その宗教儀礼の頂点が「法会」である。

法会は、声明(読経)→説法→延年と三つの催事の流れ

になっていた。

声明は梵唄(元来は梵語での詠唱、読経)である。

説法は、もしその法会が僧侶のみ参加のものなら、

学僧同士の法論が行われ、その会が俗人(檀越である

貴族や有力武士・大商人や長者など)も参加する様な

大法会であった場合は、仏教の教えを、経典の紹介を

しながら説く即ち説教が行われた。

そして最後の「延年」とは、僧徒や寺院関係者による

いわば余興である。時には(いや多くは)酒宴だった。

そこでは数々の舞や狂言(これは当初、仏教説話の

パロディであった)が演じられた。

演者は僧侶のほか芸達者な衆徒や、付属する諸神社の

神職やそこに奉仕する稚児、そして寺院の私領域である

"散所"に住まう白拍子や芸能民なども動員された。

ところでこの「衆徒」こそは、寺外に出て山岳修行を

する者、山伏そのものなのである。

つまり山伏舞とは、法会の延年に於いて芸能を披露し

た芸達者な衆徒=山伏が、それを法会以外の場で演じ

たものである。

山伏舞や神楽の多くは延年から派生したものなのだ。

また能や狂言も、延年から特殊な芸能民によって発展

したものが中心をなしている。

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私の偏った見解では無いことの証明に、以下の記述を

ご参照下さい。

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参考)「延年」についてのWikipediaの記述。

延年(えんねん)は、寺院において大法会の後に僧侶

や稚児によって演じられた日本の芸能。単独の芸能で

はなく、舞楽や散楽、台詞のやりとりのある風流、

郷土色の強い歌舞音曲や、猿楽、白拍子、小歌など、

貴族的芸能と庶民的芸能が雑多に混じり合ったものの

総称である。

正確な起源は不明だが、平安時代中頃より行われたと

言われている。能の原型である猿楽との関連は深く、

互いに影響を与えあったのは間違いないが、起源的に

どちらが先かについては諸説ある。初期には下級僧侶

や稚児らにより、法会や貴族来訪の際の余興として

行われたと思われる。やがてこの寺院で行われる催し

に人気が出始めていくにつれ、観衆をより楽しませる

ために上記のような様々な芸能を取り入れていった。

演じ手も、芸に熟達した僧達を中心に行われるように

なっていった。これら延年を専門的に演じる僧は

「遊僧」「狂僧」と呼ばれた。

延年の語は、室町時代の書『庭訓往来』(ていきん

おうらい、玄恵作と言われているが不明)中の「詩歌

管弦者遐齢延年方也」の文による。このように、延年

は長寿を祈念する意味合いが根元にあるとされる。

延年は、鎌倉時代・室町時代には盛んに行われた。

一部の寺院における祭礼の際の延年は規模も大きく

なっていった。延年風流と呼ばれる演劇的な出し物

では、二階建ての装置や移動可能な山車のようなもの

など、大がかりな舞台装置も使われる場合もあった。

こういったけれん味のある舞台装置を使う発想は、

後に歌舞伎に取り込まれていったとする説もある。

またブログ日本辞典には

http://www.nihonjiten.com/monogatari/data_1.html

"延年の語源は 「遐齢 (かれい/長生きすること、

長寿) 延年」 という延命長寿の意味を持つ語から派生

したもので、芸能により心を和らげることが寿福増長

に通じることから、長寿を祈願し、福を求める芸能と

される。

室町時代初期に成立した初等教育用の教科書 「庭訓

往来 (ていきんおうらい)」 の二月の条に 「詩歌

管弦者遐齢延年方也」 とあり、ここから遐齢延年の

語が採られ、後に遊宴芸能を指す言葉となった。

とある。"

更に「壺齋閑話」http://blog.hix05.com/blog/ には、

有名な「瘤取り爺さん」:

(鬼と山伏と延年の舞:宇治拾遺物語)につき、以下の

様に述べている。

『この話に描かれた鬼の宴会について、宗教民俗学者

の五来重は山伏の延年の舞を描写しているのではない

かと推測している。

延年の舞というのは、山伏たちが正月の修正会、三月

の法華会、六月の蓮華会などの行事において、酒盛り

をして宴会をし、舞を踊るというものである。古代

末期から中世にかけて、延年の舞は寺院の中で催され

ることが多かった。それは山伏が寺院に従属するよう

になったことの現れであって、もともとは山伏の間に

伝わった伝統的な行事であったらしい。

この舞の中で、山伏たちは鬼や天狗の面をつけて

舞ったらしい。また舞の途中で、見物人の即興的な

参加を許すこともあったらしい。

瘤とり爺さんに描かれている鬼の宴会は、この山伏

たちの延年の踊りが昔話として伝えられたのでは

ないか、… 』

http://blog.hix05.com/blog/2008/03/post_569.html#

http://blog.hix05.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/663

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つまり五来は、元来山伏が保持していた神楽的な芸能

があり、山伏が密教系の宗教団に取り込まれ大寺院の

宗徒となった時に、法会の余興で山伏舞として披露した

のだと推測している、という事なのである。

これは宮中に伝来する隼人舞が、隼人が朝廷に服属してから習得したものではなく、本来隼人が本貫の地である日向や薩摩に原住していた頃に伝習していた民俗舞踊があって、それを集大成して宮中における隼人舞ができたという関係と相似であろうか。

しかし、この"延年→山伏舞→里修験の里神楽"という

民俗芸能のつながりの知識の糸は、歴史教育の中で

全く無視されてしまった。崇神廃仏→修験道禁制と

いう明治薩長政府の宗教政策の結果である。

今やそのつながりについては、民俗芸能や日舞等に

携わっている人達にさえ理解されていないのである。

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