補遺54追補「神武東征の岡田宮滞在の虚構」
天孫族考補遺54追補「神武東征の岡田宮滞在の虚構について」
◯岡田宮について
五瀬命や狭野命(神武天皇)が、東征の途中1年間も岡田宮に滞在したという伝承がある。
古事記に以下の如く載っている。
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神倭伊波禮毘古命與其伊呂兄五瀬命二柱、坐高千穗宮而議云「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣二人、作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於竺紫之岡田宮一年坐。
亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。
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これは書紀でもほぼ同じ記述になっている。
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行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也、此云宇佐。時有菟狹國造祖、號曰菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。一柱騰宮、此云阿斯毗苔徒鞅餓離能宮。是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。
十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。
十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮。
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※ここでわざわざ中臣の遠祖という天種子命という名が挿入されているのが、笑ってしまう。余りにあざとい!(記紀編纂の裏にいた藤原不比等へのおもねりとしか思えないのである。)
しかし、では何故岡田宮に東征軍は途中滞在したとされたのか?
常識的に考えれば、その先の瀬戸内海方面の情勢情報を得ようとした為であろうか?
しかし彼らはその前に宇佐にも立ち寄った事になっている。
すると、瀬戸内方面へ出撃するには、宇佐から若しくは今の苅田港あたりからの方が都合が良かったと思われる。これはなんと言っても関門海峡の難所の海流の影響を受けないからである。
にも関わらず、洞海湾に入った岡田宮にわざわざ滞在しているのである。
で、これについての現岡田神社(称「岡田宮旧跡」)の説明では、
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当宮は古代、崗地方(旧遠賀郡)を治めていた熊族が洞海・菊竹浜(貞元)に祖先神を奉斎した地主神にて、岡田の宮と称し、この地を熊手と号す。神武天皇日向国より東征の途次、当宮に詣り天神地祇の八神(八所神)を奉斎し、この地に留まり給う由「古事記」にあり。
注)貞元は大字熊手の字名。今は熊西という。
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無論、“天神地祇の八神(八所神)を奉斎し”などという話は古事記には出て来ない。神社側の想像である。
しかも八所神とか五所神とかは、令制時代に国司が、当該支配地の複数の主だった神社を合祭して、祭祀の便宜に役立てた事に始まるとされている。従って、神武の超上代に合所神社が存在したとは思えない。
そして岡地方を治めていた熊族という部族があり、それが祖先神を奉斎したのが元々の岡田宮だというのである。
この地域に熊族などという部族がいたなどというのは、書紀に載る当地の豪族の;後世の頭領に熊鰐がいたというので、その類推から、この岡の地は、熊鰐氏(もしくは熊氏)の蟠踞する地だという事にされたのだろう。(記紀編纂の時=後世にである。)
日本書紀によると、14代仲哀天皇8年春1月4日(西暦360年頃)、仲哀天皇と神功皇后が穴門豊浦宮(下関市長府宮の内、忌宮神社)から筑紫に行幸した時、岡県主の祖・熊鰐が大きな賢木を根こそぎにして船の舳に立て、上枝には白銅鏡をかけ、中枝には十握剣をかけ、下枝には八尺瓊をかけて、周芳(すわ)の沙麼(さば)の浦にお迎えした。熊鰐は御料の魚や塩をとる区域を天皇に献上した。
六連島(むつれじま、山口県下関市)、藍島(あいのしま、北九州市小倉北区)などを献上したので、熊鰐は岡県主となる。
熊鰐が仲哀天皇に献上した六連島と藍島は関門海峡の西に位置しているが、熊鰐の勢力地は周防灘周辺から響灘周辺に及んでいた。
また熊鰐は海路の案内もした。干潮のため神功皇后の船が洞海湾を進めなくなったとき、多くの魚と鳥を集めて皇后の怒りをしずめたという。
※三種の神器を掲げる行為は服属儀礼だという。
熊鰐は後に岡県主となるが、「岡」とは遠賀川の「遠賀」のこと。現在でも福岡県遠賀郡岡垣町三吉に熊鰐の子孫であるという「熊鰐」姓の家が3世帯ある。熊鰐の93代目の方が当地の西円寺の住職をしておられる熊鰐薫修氏であるとされる。また、洞海湾南岸に居住する波多野氏も熊鰐の子孫であるとされている様だ、という事は補遺54で既述の通りである。
熊鰐の始祖が何にせよ、未だにその子孫を称する人が存在しているというのには驚かされる。
熊鰐というと、熊襲の一族かと思われがちだがそうではない。熊襲の方は“球磨曽”だという。(隼人は“南風曽”。つまり曽族。)
日本では熊(クマ)は神(クム)と同源の言葉とされ、よって熊鰐は「神聖なワニ」という意味ではないかとの一説もある。ただ「熊」を獰猛なという意味に取る説もある。(ヤマトタケルの武と同様。)
東アジアには「熊」を水神とする観念もあり、「熊鰐」という言葉はこれに関係しているのかもしれないという意見もある。
よしんば、熊鰐の祖先である熊鰐(もしくは熊)氏が洞海湾南岸にいたとしても、神武たちが、そのローカルな部族の奉斎する地主神祠である岡田宮にわざわざ立ち寄る謂れにはならない。
しかし私は、この神武の立ち寄りの伝承は、神功皇后(武内宿禰)時代の熊鰐伝説から遡って虚構されたものでしかないと考えている。
また熊鰐の鰐は、一部の人たちが認めている様に、海人の和邇氏だと考える。和邇氏は、岡田宮に降臨した稚松彦(孝昭天皇)の長子である天足日彦国押人の子孫であるとされるので、次子である日本足日彦国押人尊(孝安天皇)〜大足日彦忍代別(景行天皇)〜小稚足日彦(小碓命=ヤマトタケル=武内宿禰)と降った神功皇后の世代には、九州和族の重臣になっていたと私は考えている。即ち、大神官である春日氏として、また綿津見水軍の提督である和邇氏としてである。神功皇后の東征軍にあっても、春日=和邇氏は日本海東進水軍を構成したと考えている。そして丹後にまで至り、そこから“氷上の水界”(氷上回廊)を通って、出雲王朝忍熊軍を背後から襲って勝利に貢献している。
だから記紀編纂時=奈良時代のヤマト政権内にあっても、九州からの天孫族東征軍は岡田宮を起点にして東上を開始したという記憶が残っており、神武東征の虚構にあっても、岡田宮の存在を無視できなかったのではないだろうか?
その記紀での天孫降臨の地は、周知の如く日向国だとされているのだが、ところがこの降臨の地いわゆる高千穂は、日向国内で2ヶ所が本家争いをしている。これは一体何によるのだろうか?
一応、この二つの高千穂について言及しておく事にする。
◯天孫降臨地の通説 二つの高千穂の争い
天孫降臨の地としての高千穂に、二ヶ所の比定地があり、両者が本家争いをして来たのは有名である。
(私説では既述の様に、天孫が降臨したのは、洞海湾岸であるとしているのだが)では何故、天孫降臨の地が北日向と西日向の二ヶ所での争論を引き起こす事になったのだろうか?
天孫族考で考察したように、日本書紀(とそのネタ本になった古事記)では、白村江の敗戦後唐の侵略を恐れて、“白村江に派兵したのは大倭の一部勢力が百済の救援を企図した為であり、大倭の王家には大陸進出の意図などない、第一大倭の王家は国内筑紫島の日向に起源を持つので、大陸には何のゆかりも無い”として、日向神話を創作したのであった。
ところが、世代が降ると、この記紀の天孫族日向起源説が一人歩きして、恰も真説であるかの様になって行った。
奈良朝から平安朝初期には記紀を閲覧できたのは朝廷の一部高位官僚だけだったのだが、平安中期になると、書紀の複製が僧侶にも公開される様になり、これが当初は高僧のみにだったが、次第に中級以下の僧侶にも閲覧される様になると、仏教の修験との習合が盛んになっていた時期だけに、修験の間にも流布して、その結果として書紀に載る聖蹟を、実際に確認する運動が起こる。そして、書紀に載る地域に、それを遺す旧跡が無い時は、想定される場所に遺跡を復活するまでになった。これが中世後期の聖蹟復興運動である。
この動きの一環として、日向では天孫降臨の旧跡と、そこで生育されたという神武などの活躍聖蹟を設定する活動を生じる。
これらはほとんど、仏教各宗派の本宗の寺僧によるのでなく、天台・真言両宗系の修験によって競う様に行われた。
こうして、同じ日向国のなかに、天台修験の主張する高千穂神社と、後に真言修験の主張する霧島神祠とが、共に天孫降臨の地の本家争いをする事になったのである。
これが、近世になると、両地を領国とする大名家によって支援され、本家争いは本格化して行く。
一方は幕府の譜代大名である延岡藩、他方は外様の雄藩である鹿児島藩(薩摩藩)でこの両者の争論になった。
図式化して比較すれば、
①北日向の高千穂町 延岡藩
(譜代の三浦家・牧野家〜内藤家)
---------寺社は天台修験本山派
高千穂神社別当寺は一王山神宮寺。
下野八幡神社は別当寺が八幡山無量寿院鶏足寺。
共に天台宗である。
②西日向霧島の高千穂 薩摩藩(外様の雄藩島津家)
---------元来は霧島修験の霊場
天台宗→真言宗当山派系
→薩摩藩〜明治政府によって「霧島神宮」となる
①は高天原・天の岩戸と天孫降臨の地と想定
②は天孫降臨と狭野命(神武)成育の地を主張
この両者の対立は譜代大名と外様大名の対立を背景に激化した。実際、延岡藩は、薩摩が東上を企てた時の阻止の尖兵の役割を与えられていた。江戸中期から幕末までは磐城から転封された内藤家であり、その衆風は全く西南日本と事なっていた。
飲む酒も、都城・薩摩は芋焼酎であり、延岡は清酒か麦焼酎であった。麦焼酎の本場は大分(豊後)である。豊後にも譜代大名が配されていた。このため、薩摩は、延岡藩と豊後の者を“麦呑み”と呼んで差別した。(現代まで続いている)
維新の戦役でも延岡藩は佐幕派だった為に、明治になって薩長政府によって、延岡藩支配地は徹底的な差別を受けた。
薩摩藩が天下を制した結果、天孫降臨の地は霧島の高千穂岳説が優勢となり、霧島には霧島神宮が、そして関連して宮崎には宮崎神宮が造営されたのである。
そして明治〜昭和前期の皇国教育で、恰も天孫族発祥の地は日向である事が、一般大衆にも浸透して行ったのだった。
しかし元を辿れば、①②の両地とも、中世の修験者の聖蹟復興運動の所産にほかならないのである。
またもう一つ特筆すべきは、②の霧島であるが、元来の信仰の中心は霧島東社とその別当寺(天台宗)であったが、何と室町期に薩摩島津家の干渉を受けて(島津家の菩提寺の宗派だった)真言宗に改宗させられてしまう。僧侶や修験者が、抵抗もなくこれを受け入れてしまったのは驚きだが、更に幕末には、(国学の影響下で)薩摩藩を吹き荒れた廃仏毀釈の嵐によって、神社=霧島神社となり、修験者は落飾して神職に転身するのである。これは明治になって、全国的に進められた神仏分離と廃仏毀釈の先駆けをなすものだった。しかも藩主島津家の菩提寺も廃仏毀釈に遭い、墓地は寺院から切り離された程である。
※霧島にはもう一つ、霧島神宮とは本来別系統の聖蹟として、“神代聖蹟高千穂宮跡”を称する石體神社(祭神は彦火火出見尊)がある。神社の前にはかつて霊鷲山寺弥勒院という寺もあった。これは大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の別当寺である。これは、宇佐から締め出された辛島氏系の秦氏が、正統な八幡神社はこちらとの主張をした経緯によるのだが、幕末になると薩摩藩の主張に妥協して、八幡神=応神天皇さえ薩摩にゆかりがあるとの曲説を生むことになる。石體神社は現在の鹿児島神宮の移転前の旧跡だという。
少なくとも江戸期までは、正八幡社は宇佐八幡を八幡本宮とは認めない態度を取っていた。(その後両者の関係はどうなっているのか?最近の情報を持ち合わせないので分からない。神社本庁の下で妥協しているのだろうか?)
※上述の、②霧島については、もう少し別稿で言及するつもりである。