補遺55「階級の発生と天孫族」
天孫族考補遺55「階級の発生と天孫族」
◯階級の発生について
①階級はどのようにして発生したのか?
②就中、その頂点に立つ王権はどういうプロセスで成立するのか?
③階級・王権の発生の一般論は本邦(日本)にも当てはまるのか?
④何故、本邦の王権=天皇家は世界最長の王権たり得ているのか?
今回はこのような諸点に考察を加えてみたいと思う。
そもこのテーマを再考しようと思ったきっかけは、新聞広告で、岩波書店の“シリーズ 古代史をひらくⅡ”の中の「古代王権──王はどうして生まれたか (吉村 武彦, 吉川 真司 ほか)」の書名を見た事だった。
歴史学者吉村氏は、東大卒で、私は私学だが、全く同齢の人であり、彼が編者となっていた岩波の“シリーズ 古代史をひらく(I)”の幾つかを興味深く読んだ経験がある。そのシリーズの新刊が出ていたようで、早速注文をしておいたが、未だ手元には届いていない。
代わりに同じ吉村氏が、2010年に出された岩波新書の「ヤマト王権」が書棚にあったので即購入した。こちらも“シリーズ古代史②”とあるので、もしかすると、この新書版を拡充する形で単行本版が編纂されたものかも知れないと当初は考えた。
そこで、この新書版を開いてみると、最初に中国史書に現れた「倭国王」から書き始められているが、「王権とは何か?」は既知のものである事を前提にして書き進められている。
倭国王→女王卑弥呼→大王→天皇という風に呼称が発展していくのをフォローしている点では、われわれ「古代史研究会」の学徒には全くお馴染みの内容である。
だが、“私が「古代王権」という語彙を契機に、考えてみようとしていた;先述①〜④の諸点には、どうやら解答は得られそうもない。”
と書いている最中に、先述「古代王権」の書籍が届いた。
そこでは、複数編者の討論があったとみえて、流石に「王権」の概念規定から始められている。→この書の「王権」の定義については後述する。但し,その王権の定義から演繹的に叙述するかと思いきや、やはり次には本邦での王は漢書の倭奴国王であるとしている。しかも“金印に倭奴国とあるからには、既に本邦でも「王」と呼ばれる君主が成立していたであろう”としている。それは頂けない。本邦からの;朝貢に来漢した国の首長を中国側の概念に則って「王」と呼称しただけで、それはあちらでの呼び名であって本邦では王などと呼んでおらず、キミとかクニヌシなどと呼んでいたかも知れないのである。
そこで、改めて、自分の愚頭を以って考察を加えてみることにした。
◯階級発生論
私の学生時代はもはや半世紀も前だから、このテーマは今や大きく発展変化しているのかも知れない。
私が、社会経済学で学んだ当該テーマでは、「原始的蓄積格差」論とも言うべきものがあった。
即ち、古代に於いて農業技術が進歩し耕作面積が拡大すると、その技術やそも農耕している土地の地味や天候などによって、穀類の収量が変化する。元々穀類は、種・収量比が大きく、余剰食糧が蓄積に回し易い。それが経年的にみると、農耕者の場所による収量及び蓄積格差がどんどん開いていく。
結果的に、古代的な意味での富裕層と貧困層が生じ、次第に後者は前者の小作従事者に転落していく。(階層分化である。)
この収量格差の蓄積を原始的蓄積と呼び、それが階級の発生をもたらす、と言うのが、「原始的蓄積格差」論である。
元来、産業革命直前の金融資本が、産業革命の進行によって産業資本家となり、従事する労役提供者がいわゆる労働者になっていったわけなのだが、私の学んだ近代経済学(近経)では、このプロセス進行後の“現代経済についての理論考究”が中心になっていた。
私の大学には、マル経(マルクス主義経済学)の一般講座は開設されていなかったが、並行して、他大学のマル経では、やはりこの資本家と労働者の在り方とその拮抗関係をテーマにしていたので、その点では近経とも類似している。
但しマル経では、生じた資本家と労働者の関係に於いて、前者が後者の労働成果を搾取しているという論理が、全ての基本の原理になっていたのだと思われる。
近経では、搾取という概念は無く、労働力の対価も、労働市場の市場原理(つまり需給関係)に因って決まるものと解された。
従って近経では、近代遥か以前の古代に於いて階級がどう発生するのか?などはテーマになり得ない。
ところがマル経では、搾取というものは、階級の存在では必然的に付随するとして、古代から階級がそして搾取関係がどのように変遷して来て、今日の資本家対労働者の関係になったのか?が十分考究のテーマになるのである。
だからマルクスとかエンゲルス自身にその様な古代に於ける搾取関係即ち階級がどのように発生するのかをテーマにした論説があるのか?は知らないが、「原始的蓄積格差が階級を発生させる」というモチーフは、恐らくマル経の延長下にある学者のモチーフではなかろうかと想像する。
ところが、“原始的蓄積格差が階級を発生させる”という言説は、中国やインダス文明やオリエントなどでは妥当かも知れぬが、農耕地帯ではない所にも(遊牧民族や半農半牧の牧農民族にも)階級が発生するので、全世界的に妥当な理論とは言えない!と考えられる。
つまり遊牧民族や半農半牧の牧農民族では、穀類の農産は殆ど無くて農耕民族との交易によって入手したり、自給自足的であっても原始的蓄積など生じ得ないような過酷な地理環境に置かれているからだ。
また原料対収穫比の点でも、そういう民族の場合、農耕民の様に大きく無いのである。
しかしその様な過酷な社会でも階級が発生し、更に王権も成立するのだ。
◯階級とは何か
ここで先ず「階級とは何か」を考察してみる。
この論説でいう階級とは、単なる人間社会での段階的な差違一般を表す概念ではない。将棋や囲碁の段位も階級であるが、そういうものとは違うのだ。
“身分階級”の語がある様に、社会的な格差の固定された状態つまり身分差が存在する;血縁的社会集団の上下関係が“階級”になる。
私が階級を問題にするのは、支配階級が支える構造が無ければ王権は成立し得ないからだ。
単にその部族集団の頭目というだけなら、恐らく縄文時代〜弥生時代にも存在しただろう。しかしそこから、ほぼ世襲の首長が誕生するには、その首長の属する支配階級の母体構造が無ければならない筈である。
この事「階級」は、事典的にはどう表現されるのか?
次のデジタル大辞泉が最も要を得た解説になっている。
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小学館デジタル大辞泉 「階級」の意味・読み・例文・類語
階級(読み)カイキュウ(英語表記)class 英語
かい‐きゅう【階級】
1 身分・地位などの上下の段階。軍隊などでの位。「二階級特進」
2 同一の政治的、経済的利害やイデオロギーを共有することによって、他と区別され、あるいは対立する社会集団。生産手段の所有の有無によって区別される資本主義社会の資本家階級と労働者階級など。
3 統計上、一定の基準によって分類される階層。
4 ものごとの段階。相互の位置を示す段階。
5 ボクシング・柔道・レスリングなどで、体重によって区分した段階。また、そうした規定。「複数階級を制覇する」
[類語](1)位(くらい)・地位・身分・格(かく)・位置・ポスト・ポジション・椅子・肩書き・役職・役付き・席・等級・序列・職階・官位・官等・グレード・ランク/(2)階層・層・クラス・ヒエラルヒー
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※上述の1と2が私が考察したい「階級」概念になるのだが、どうもこの2の解釈はマル経的になっている。
これが日本国語大辞典になると、それぞれの用例の初出の文献が紹介されているのが興味深い。
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精選版 日本国語大辞典 「階級」の意味・読み・例文・類語
かい‐きゅう【階級】
〘 名詞 〙 ( 古く「かいぎゅう」とも )
① 階段。きざはし。
[初出の実例]「殿の両方に階級が二つあるぞ。東をば阼階と云、主人が升るぞ」(出典:史記抄(1477)八)
[その他の文献]〔邵憲祖‐明堂賦〕
② 物事の順序。進歩、発展などの段階。また、守られるべき順序。
[初出の実例]「かれらが所集は、ただ還源返本の様子なり、いたづらに息慮凝寂の経営なり、観練薫修の階級におよばず」(出典:正法眼蔵(1231‐53)坐禅箴)
③ 地位や身分などの等級。
[初出の実例]「誠是階級有レ卑、人情不レ勧」(出典:続日本紀‐天平神護二年(766)六月丙甲)
[その他の文献]〔後漢書‐文苑伝・辺譲〕
④ 一定の社会で身分、職業、財産などを同じくする者によって形成されている集団。また、身分、職業、財産などを基準にして考えられる階層。
[初出の実例]「東洋の社界組織に附帯せし階級の縄を切りたる者」(出典:日本文学史骨(1893)〈北村透谷〉二)
⑤ ボクシング・レスリング・柔道などで、体重によって区分する等級。
[初出の実例]「拳闘は体重によつて八階級(カイキフ)に区分され」(出典:モダン語漫画辞典(1931)〈中山由五郎〉尖端人心得帳)
⑥ 数学で、度数分布表を作るとき、測定値が分類される小区間をいう。測定値の最大値、最小値の間を適当な等間隔に分けて得られる。
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※東アジア社会での階級の用例は、どうやら前漢の史記あたりが初めになるのかと思われる。しかし、前漢どころか、春秋時代には既に中国では周王朝があり、さらに前には殷(商)の王権が存在したわけだから、階級の語彙としての登場は後になってからだとしても、階級の語の意味する処の身分差の発生は、中国に於いては相当に古い時代だったと考えられる。
これは正に原始的蓄積格差による階級の誕生の実例になるのだろう。
次なる;よく学生の使っている山川出版の世界史小辞典では、かなりというよりほとんどマル経の解説を踏襲している。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「階級」の解説
階級(かいきゅう)class
マルクス主義によれば,人が生産関係においてどのような地位を占めるかによって,すなわち生産手段を所有するか否かによって,彼の所属する階級が決定される。階級とは基本的にはこのように区別される社会集団をいう。
たとえば西洋史上では,古代社会には自由民と奴隷,封建社会には領主と農奴,親方と職人,資本主義社会には資本家と労働者という階級対立がある。この考えは日本の歴史研究に強い影響を与えてきた。この他に職業,財産,収入など社会の種々の基準による階層を階級という説も広く行われている。
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※とは言え、古代社会に於ける階級を自由民と奴隷の二つにしているのは、余りにイデオロギーに偏った見解である。
だが、次なるマイペディアでもマルクス主義の立場からの見方が、ほぼ中心をなしている。と言う事は、マルクス主義以外では階級を真面目に取り上げて考察して来なかったのだろうか?
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百科事典マイペディア 「階級」の意味・わかりやすい解説
階級【かいきゅう】
広義には,カースト,位階,身分などによる社会階層を含むが,狭義にはマルクス主義の立場から,生産手段の所有・非所有(生産関係)によって区別される対立的な社会集団をさす。階級は原始共産制社会にはみられないが,生産手段の私有をもとにした社会では,奴隷制社会における奴隷所有者と奴隷,封建社会における封建領主と農奴,資本主義社会における資本家と労働者という基本的階級と,自由農民,手工業者などの副次的階級が存在する。→階級闘争 →関連項目階層|身分
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※マルクス主義ではない学説としてM・ウェーバーの見解を紹介しているのが
世界大百科である。
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改訂新版 世界大百科事典 「階級」の意味・わかりやすい解説
階級 (かいきゅう) social class
多元的階級論
M.ウェーバーは,サン・シモンやマルクスのような19世紀の諸学説の一元的指標による階級区分に代えて,複合的指標による多元的階級区分を提起した。彼はその大著《経済と社会》(1921-22)の中で,社会の不平等状態に関する区分として階級と身分の二つをあげ,さらに階級に関する区分を二つに分けて(1)財産の相違による区分(財産階級),(2)市場利用の機会による区分(営利階級),とし,また身分に関する区分を三つに分けて(1)生活様式による区分,(2)教育による区分,(3)職業の威信による区分,とした。ウェーバーのこの多元的階級論において〈身分〉といわれているものは封建的な身分のことではなく,階級が経済的な指標であるのに対して,社会的な指標による不平等区分をあらわしたものである。このような多元的階級論は,今日〈階級social class〉論とはややちがった視角から〈階層social stratification〉論として展開されている諸学説につらなっている。
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※これが、日本大百科全書(ニッポニカ) になると、執筆者名が記されている。濱嶋朗氏である。東大卒の社会学者、東京学芸大学名誉教授。
かなり詳細に「階級」概念を考察している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「階級」の意味・わかりやすい解説
階級 かいきゅう class 英語 Klasse ドイツ語
一般に、全体社会の内部において社会的資源または勢力(富力、権力、威信など)の不平等な配分に基づいて成立する上下・優劣、貧富、支配・被支配、搾取・被搾取などといった非対称的な関係にたち、ほぼ同等の勢力量を享有する人々の集群をいう。広い意味での階級は、閉鎖的階級としてのカースト(種姓)や身分と、開放的階級としての近代階級を含む上位概念であるが、狭い意味での階級は近代階級をさすことが多い。その点で、階級は階層一般とは区別される。階級は社会秩序の根底にあって社会構造の性格を決め、社会変動を規定する重要な要因であるばかりか、人間生活の全局面に浸透して人々の生活機会を決定し、人間の幸・不幸、人生の喜怒哀楽を左右し、思想、感情、行動に烙印(らくいん)を押し付ける働きをする。
[濱嶋 朗]
階級概念の形成
このような事情から、階級現象は早くから人々の関心をひき、考察の対象となってきた。古代ギリシアの国家哲学では、政治闘争を身分層間の闘争と認め、これらの層の勢力関係の調整問題を論じていたし、アリストテレスは、社会の階級別編成を人々の個人的素質の違いに基づく自然的秩序だと考えた。中世のスコラ哲学では、階級は経済的分業に由来する自然的秩序だとみなされていた。しかし、階級を自然的秩序とみなす考えはまだ科学的認識の名に値しない。
下って18世紀イギリスの経験的社会論では、階級は労働による富の獲得の結果であり、権力の差を伴うものとされた。階級は財産の種類と量の違いから生まれるもので、財産関係は経済体制のあり方に規定されていると考えられた。ファーガソンやA・スミスらは、階級間の支配従属関係をもっぱら財産の分配の不平等に由来するとみたのである。他方、マラーはフランス革命の経験から、革命のなかに階級闘争を認め、政治変革を階級間の闘争として現実的に把握していた。しかし、当時はなお産業が未発達であったため、階級についての真に科学的な考察は生まれなかった。たとえば、サン・シモンの場合、旧制度を代表する貴族・聖職者に対する新興階級の利害対立は自明のこととされたが、資本家と労働者の利害は本来連帯的なものだと考えたため、両者はともに産業階級のもとに一括されることになった。ただ、土地所有貴族による封建体制から企業家による産業体制への移行を展望した点では、サン・シモンの見解は一歩の前進を示していた。また、フランスにおける階級闘争を社会運動とみなして研究したシュタインは、財の分配と労働の組織によって規定され、有産者による無産者の支配を引き起こす社会の原理が国家のなかに貫徹する結果、国家は支配階級のための階級国家と化して自由を抑圧するようになるので、自由の運動としての社会運動が発生するものとみた。しかし、シュタインは、下からの社会運動よりも上からの社会政策に自由の実現を期待したため、階級闘争を科学的に解明するまでには至らなかった。階級現象の真の意味を資本主義体制の構造・運動法則から解明し、科学的階級理論を打ち立てたのは、ほかならぬマルクスの功績であった。
[濱嶋 朗]
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※ここまで来ると、青木書店版のマルクス主義解説本の趣があるが、これに続く同じニッポニカの部分は、ますますそちらの傾向を帯びていく。古代史に関係するものは僅かであるが、「階級」概念の確立の一助にはなるか?
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マルクス主義の階級理論
マルクス主義は、イギリスの経験的社会論(A・スミスら)、フランスの空想的社会主義(フーリエ、サン・シモンら)、ドイツの観念論哲学(とくにヘーゲル弁証法)を受け継ぎ、これをさらに発展させたものである。その階級理論の究極の目的は、階級および階級闘争を通じて近代資本主義社会の運動法則を明らかにし、革命の必然性を論証するところにあった。マルクス自身が表明しているように、近代社会における諸階級の存在や階級相互間の闘争を発見したのはマルクスの功績ではなく、むしろ、階級の存在を生産の特定の歴史的発展段階に結び付け、階級闘争が必然的にプロレタリアートの独裁をもたらすこと、しかもこの独裁が階級を廃絶して無階級社会に到達する過渡的段階にすぎないことを論じた点にその特徴が認められる。
このような意図と観点から提出されたのが、資本と賃労働という互いに対立し抗争する階級を軸に展開される説明図式(二大階級モデル)にほかならない。この二大階級モデルによれば、階級の発生は、私的生産力の発展(分業の展開)に伴う生産手段の私的所有の成立や、その結果である労働と所有の分裂による他人労働の領有に基づいている。古代における奴隷所有者と奴隷、中世における領主と農奴、近代における資本家と労働者との階級関係、前者による後者の支配と搾取という関係がそれである。この場合に決定的に重要なのは、生産手段を所有するか否かであり、それに由来する生産関係における地位の違いである。生産手段の所有・非所有の別こそは、経済的勢力の享有量を左右し、生産関係における支配的および従属的な地位と役割を決定する。そこから、搾取・被搾取(富の分配の不平等)および支配・被支配(権力の分配の不平等)の関係にたつ異質的、敵対的な階級が形成される。生産関係における不平等は分配関係における不平等を引き起こし、ひいては生活全般にわたる権利、権益、機会の著しい差別状態をもたらし、この差別状態は固定化される。
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※この後のくだりは、古代史研究会のテーマから外れるので、割愛した。レーニンによる階級についての認識の紹介である。浜島朗氏が「階級」の概念にどういう視座を据えているかを認識するのには必要なパートであり、昨今ではかかる論文を読む機会も少ないので、私には面白かったが、いずれにせよ資本主義社会成立以後の話なので、飛ばすことにした。
これまで延々濱嶋朗氏の見解を紹介したのは、階級の考察では、どうしても現代に繋がる階級闘争に結び付けられて語られる事が多いという事だ。
また濱嶋氏は、戦争直後に東大で学んでいるので、どうしてもマルクス主義の影響を免れないのだろう。無論、それを悪いと言っているわけではない。
さてこうして各種の事典を見ても、“階級の発生についての考察”は出て来ない。原始的蓄積格差論以外の学説の紹介は無い。という事は、ほとんどの学者が、その学説を肯定しているのであろうか。
但し注意しなければならないのは、マルクス主義系の学者は、マルクス主義の理論に合う社会事象を探してきて、結果その理論が正しいと主張する事が多い。従って、理論に合わない事象は例外的なものとして捨象してしまう。
いわば(良く言えばだが)演繹的な思考法である。だから大学などの学習でも先にマルクス主義の理論体系を学ばせられて、次に実践的な考察に入る。だが酷いのは、先に理論体系概要を教える為に、その理論体系に合った学説を教科書として与えられ、そこで何か疑問を感じても、それは後からわかる事だからと飛ばされてしまうのだ。
文化人類学では、社会事象の数々を積み上げて、そこから先ず仮説を、そして仮説を実際の事象と照合してブラッシュアップして理論を導き出す。
つまり帰納法的な研究法である。
◯階級の発生と格差拡大
「王権誕生」(講談社学術文庫2008年;原本は2000年の同社叢書「日本の歴史」第2巻)の中で、著者の寺沢薫氏(同志社大卒の考古学者・桜井市纒向学研究センター長)は、本邦の階級形成のスピードが著しく早かった事を指摘する。
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東アジア海東の一列島が王権誕生に向けて揺れ動いたのは、水稲農業が北部九州に本格的に定着した前四世紀から数えて約六百年間の弥生時代のことだった。倭人はこの島の各地で しだいに部族的な国家を形成し、ついには倭国と呼ばれる王国を誕生させることで、東アジアの政治的秩序へと参入していったのである。この間、世界ではすでに帝国形成の段階に突入していたが、倭国誕生への道程自体、東アジアに強大な勢力を繰り広げた漢帝国との政治的関係なしには考えがたいことなのである。
ところで、世界の各地では、農耕が始まってから王権が誕生するまでの間に大きな時間の隔たりがあるのに、日本列島ではきわめて短時間に王権を形成させた。このことの理由を、稲作のもつ生産力や弥生農業の生産性の高さに求める議論がある。人類史がある意味では科学技術の進歩と生産力発展の歴史であったことは認めるが、本書ではあえて、日本列島の国家や主権形成の早さは生産力論や経済基盤の観点からは説明できないことをみてきた。 それは、成熟した水稲農耕文化が選択的に一気にもたらされたこと、可耕地の狭さからく る農業技術の環境適応性と労働力編成の集約性、 そのことによる共同体の紐帯や意識の強さ、戦争勃発の早さと共同体の重層的な階級関係の達成、そして日本的農耕儀礼の確立と王権支配観念への転化というソフト面での整備の早さである。加えて、帝国(※中国)からの恒常的な国際化の刺激は、この国の帝国のミニチュア版としての創造を強く加速することになった。
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として、日本列島での王権形成の異例の速さについて着目しているが、その理由として幾つかの理由を挙げている。
ところがそれは、“日本列島の国家や主権形成の早さは生産力論や経済基盤の観点からは説明できない”としていた事と矛盾していると私には見える。
しかし寺沢氏は桜井市纒向学研究センター長らしく、応神からの王権交替は認めていない。彼は、崇神〜垂仁王朝が景行を通して応神・仁徳へと、ヤマトの王権として継続したという説である。
だから、王権形成の異例の速さは認めながら、それはなぜかというソリューションとしては、主に内国的な複数の理由を挙げるしかないのである。
寺沢氏には、出雲族や天孫族という部族の出自が列島外にあった事は容認できないものだからである。
◯我が国に於ける階級の発生過程
私見では、本邦の階級は、
①原始的蓄積が不十分な内に(=蓄積格差が身分差を生じるまでに)
②既に階級を持った部族が渡来し、その身分秩序が基本となって成立した、と考えている。
従来の考え方では、“稲作の伝来によって弥生時代が開始された”とされていたが、“実際の稲作の伝来は(少数の渡来人=海人族系によって)既に縄文晩期のことだった”と推定される様になっている。だが、それでも稲作の普及期に、原始的蓄積が身分格差を生じせしめる程に大きくは無かったと推測されている。(墓制や住居趾、装飾品などの考古学的遺物からの推測である。)
ところが、弥生の後期に北九州やヤマトなどの遺跡から急なる階級差を推測できる遺物が発見・出土しており、しかもそれらは伊都国やヤマト三輪山麓(つまりこちらが本来の出雲であるが)という地域に顕著に見られる。これは取りも直さず、いうところの五十族=出雲族の侵出した地域に他ならない。
つまり、本邦に於ける階級格差は、元々階級というシステムを保持していた出雲族が渡来と共に持ち込んだものなのだ。
出雲族は、辰韓伊西国や牛頭方などの(後の斯羅による新羅建国に加わらなかった)国々の王族と臣民が、北九州と山陰地域に渡来したことで生じた部族に由来する。これらの辰韓民は、月氏黄牛族というクシャトリアに因っている。従って渡来時から、クシャトリア王族・士族とその配下のバイシャ(秦族)という階級差を持っていた。
そして、弥生末期に渡来した天孫族=龢バラモンもまた階級差を含むものであった。先行した出雲族は天孫族の東遷で征服されて、古代のヤマト王権が成立したのである。
従って、出来上がった階級差は、天孫族のバラモン→天孫族のクシャトリア&出雲族(クシャトリア)物部氏→天孫族と出雲族のバイシャ(秦氏)と先住の海人族及び縄文族のバイシャ相当→天孫族の捕虜=シュードラ→出雲族の捕虜=チャンダラ、という5階層になった。
中国南朝の史書である梁書には、倭国には富貴の身分差があり、高位の者は胡公(胡人の貴族)の頭に載るような帽子を被っていると記されている。
この辺りの時代(南北朝時代の宋かその前の魏晋時代)には、倭国にも階級差があったことを示している。
◯ムラ→クニ→国→一国(統一国家)
---------王権はどの段階で自立的になったか?
ムラの指導者はムラオサである。複数のムラの集合がクニとなる。複数のクニを束ねて国が成立する。令制時代の村がクニであり、郡(評=コホリ)に相当するのが古代の“国”になる。これが北九州では、伊都国とか奴国になる。
国の統率者として、古代王朝が成立後、王権が任じたのが国造である。令制時代の郡司に当たる。
国の連合体として、邪馬臺國や狗奴国、継体朝期の筑紫國が想起される。
あたかも国には古来から国造が存在していたかの如く思われているようだが、そうではない。“国”内に自立・蟠踞していた地域の首長が、後に王権によって追認されて国造になるのである。
◯弥生後期の戦闘死者の増大という考古学的な知見
前出の「王権誕生」(講談社学術文庫2008年)で、寺沢薫氏は、“弥生時代後期になると各地に成立したクニとクニの間に戦争が起こった事を、残された墓制遺跡から出土する成人男性の骨の中に明らかに戦死である事を推測させる負傷の痕が見られるようになった”ことをもって指摘している。この戦争痕跡が顕著なのが、西日本地域;特に北九州地域であるとのことだ。
しかも目立つようになったのは大陸や朝鮮製の武器(剣や盾や鏃)が副葬されている事で、その戦争の一方が、渡来系の部族ではないかと推理されるようだ。
思うに渡来人と先住民との争闘があったのではないだろうか?海人族の渡来までは、渡来者と先住民との関係はかなり友好裡になされていたらしいが、その後、金属器を伝来した部族の渡来には、いわば侵出征服のニュアンスが感じられる事例があるらしい。この時代の副葬物が、後世「三種の神器」とされる鏡・剣と勾玉と、ヤマトを中心に見られる銅鐸である。
寺沢氏の見解では、必ずしも弥生の戦争は渡来人とのものではなく、基本的には各地に自生して来たクニとクニの争闘だと考えているようだ。原因は水争いとか、稲作の適地を巡る所有争いなどからとか。この戦争の結果、クニより大きな“国”の首長が生まれ、そこから王権が成長して行ったと、寺沢氏は想定している。
◯王権の象徴物やレガリア
鏡剣と勾玉が記紀にも登場する宝器である。
しかし、私が過去に天孫族考で指摘して来たように、葱華→宝珠もまた本邦の王権を象徴するものである。
日本書紀は、我が国の王権が南九州日向に発祥した事にして、大陸発祥の説に繋がる事を隠蔽する為、王権の聖草(バルソム)が葱である事を敢えて無視したと考えられる。
天皇の輿に葱華蓮があり、また神職の被る烏帽子が禰宜帽子(葱宝珠)である事や、応神にクサ摘みの習俗があったことなど、葱が天孫族のバルソムであった事を暗示する根拠は複数存在する。
◯王権とは何か
岩波の“シリーズ古代史を考えるⅡ 「古代王権」”では、以下の如く問題提起している。
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考察において難しいのは、「王権とは何か」ということである。これまでの研究では、「王権」の語には多様な意味があり、しかも便宜的に使われてきたきらいがある。
こうしたなかで荒木敏夫は、王権の定義として(1)王の権力、(2)王を王た
らしめている構造制度、(3)時代を支配する者・集団の権力、という三方向で考察することを提言している[荒木、二〇〇六]。
この説に対して、池享は王権の意味を(1)に限定し、(2)は王権存立のための装置/システム(イデオロギー・儀礼・象徴物など)であり、(3)に対しては王権以外の権力を論ずる場合は「政権」などの言葉を使用すべきだと指摘する[池、二〇〇六]。妥当な見解ということができる。
こうした研究史を踏まえていえば、王権とは一定の地域あるいは集団・社会において、政治的権力・権威をもつ王としての権力システムで、権力を維持する軍事・儀礼・レガリア・イデオロギー・神話などの制度・文化を内包して、継続的に支配体制を維持する政治権力であり、その政治体制もあらわす、ということになろうか。
また、王権と同じような意味で「政権」が使用される場合がある。
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しかし、この言説では、階級の誕生から、それがどう変化して王権となって行くのかは分からない。
◯階級の発生
本邦に於ける階級の発生は未だ文献資料の無い=有史以前の頃である。
従って、ある程度文献的資料の残る時代のエッジ&エリアでの類例から推測するほかない。
それは、本土より歴史発展段階の数世紀遅れていた琉球の例が参考になろう。
沖縄では、女性シャーマン:ノロが古代から存在しており、それらは自然に同一血族内から選ばれる事が多く、また親から子へと世襲される事が多かった。この為、このシャーマンを輩出する家系は次第に神聖血族となって行く。これが琉球のいわば波羅門である。
一方、各部落(ウラ)の長は、実力の勢威によって地域(間切)の支配権を持つ按司(親方=ウヤカタ)の配下となっていく。按司同士の争闘によって大按司が生じ、更に大地域クニの王が推戴される。これが三山時代の北山王・中山王・南山王である。それが中山王の尚氏によって征服されて統一琉球王国が誕生したのだ。
従って琉球王は元々はクシャトリア(武士族階級)の長であるが、琉球波羅門であるノロを組織化して取り込み、その頂点に琉球王の血族の女子を据えて聞得大神という最高級神女の位を置いた。聞得大神は太陽神(テダー神)の神妻であり、内地の天照大神に匹敵する。
按司は地域のノロの支持と祭祀権を無視する事はできない。
沖縄では、内地ほど穀類の収量が安定的では無く、従って原始的蓄積の格差の開きは大きくはなかったであろう。だから海産に依存する事が大だったと思われるが、これが地域を沿海部ごと=間切によって領域化する事に繋がったのであろうかと考えた。
(但し、沖縄の地域ボスである按司の祖先は、本土から渡り住んだ武士の末裔だという伝承もある事は留意しておきたい。この場合は階級差が島外から持ち込まれたものであり、現地発生では無かった事になる。さりとてこれは自らの出自を貴種に結びつけたい心情から発した、架空の伝承なのかも知れないのだが。)
この琉球と同様の階層発生過程が古代の中央アジアの月氏によっても生起したと考えられるのである。階級の元はシャーマンの一族にあるというパターンである。月氏の発祥の地でも原始的蓄積の条件は厳しく、階層格差が生じにくい。
そも波羅門龢族=日之下族のシャーマンは女性であり、婼羌=蘇毗羌族やその後裔である象雄国やトンパ国(東女国)は皆女王国なのである。
即ち、月氏に於ける龢バラモンは、女性シャーマンの神聖家族の成立が先行したと考えられる。一方で,周辺の異民族との闘争の中から必然的に男性原理に従うクシャトリア階層が生じた。女系バラモンの支配に従属したくない一部のクシャトリアは、発祥地のパミール高原から南西の罽賓(ガンダーラ)や北東部低地のタリム盆地へ降りて行き、そこに都市国家を組織する。
だが、この低地クシャトリアも女性バラモンの血族の神聖性を無視はできない。その為クシャトリア王権の妻妃の供給の為の特別な女系氏族を近傍に置いていた。これを“置き龢”という。我が国の息長氏はこれである。
また龢族と黄牛族(クシャトリア)の下層の農職人階層(バイシャ)は、次第に産品の余剰を蓄積することによって、商人となりタリム盆地を起点に東西の交易に乗り出していく。これが于闐(ホータン)を中核地として活動するホータン
(秦)族=白馬族である。
このような階級構造を持っていた月氏の部族が東遷して、辰国や三韓を建て、更にそこから日本列島へ渡来人として移住して来た。
渡来の時には既に階級格差が存在していたであろう。だから先住の前期弥生人までが階級差を持っていなかったとしても、そこに渡来した出雲族や天孫族が既に階級を持つ部族であり,その後来の部族が恐らく武力をもって列島各地を征服したのだから、結果的に本邦の各地で階級格差が定着することになったのだ。
先に引用した寺沢薫氏のいうように“日本列島の国家や主権形成の早さは生産力論や経済基盤の観点からは説明できない”のに、無理やり階級の自然的発生の説明を加えようとしてもやはり無理がある。説く学者が真面目であるほどこの矛盾へ回答しようとするのは混迷の極みとなる。
だから本邦の階級の発生を自立したものであり、大陸とは何の関係も無いとするより、階級を既に持っていた部族が渡来して混住したとすれば、幾多の疑問が自ずと氷解するのである。
◯王権と宗廟制の問題
先に論及した岩波の叢書中の「古代王権」の中で、本邦の皇室では、中国の王朝に必須の宗廟制が見られない事が指摘されている。それは宗廟制として皇帝の祖先崇拝の廟を設けるのは、結局中国の王朝が易姓革命に従っており王朝が代われば前王朝の宗廟は破壊されるものであるが、本邦は万世一系の思想によっているから“宗廟の代わりに伊勢神宮が皇祖神の社としてあるのだろう”という見解も示されている。そして宗廟は社稷と共に皇都の近傍に置かれるが、伊勢神宮は遠隔地に置かれたままだった、という言及もあった。
さりながら平城京での実際は分からないのだが、平安京では賢所が皇祖神を祀り、皇霊殿が皇祖皇宗を祀っており、日本的にはそこへ宗廟が勧請されているのだから、必ずしも伊勢神宮が離隔しているとしても不可思議ではない。
だが、元来の祖廟の代わりが日下壇であって、三輪王朝の三輪山に変わって、河内湖東岸に設けられた日下(クサカ:草香)が王家の祖神である太陽神を祀っていたのである。これを司祭していたのは春日氏と考えられるが、そこに神妻である斎宮がいたのかは究明されて来なかった。天武持統朝に於いて、壬申の乱にあって伊勢神宮の支援(実際は神頼みだが)や神風があった事で、俄に伊勢神宮が王家の祖廟と見做されるようになったのは周知の事である。
そこへは皇家の娘が斎宮として派遣されるようになって行く。斎宮はいわば神妻である天照大神の写身である。
この伊勢崇拝の進行によって、次第に日下の崇拝が薄れて行ったと考えられる。日下は応神王朝が九州王朝日下国(クガ国=狗奴国;日之下国)だった名残であり、それがヤマトの王権となったからは、九州色を薄める心理的必要もあったのだろうか?
とは言え、桓武の長岡京遷都では、山城の日下だった久我神社の位置が、長岡京の宮殿位置選定に影響を与えているのは明白である。
また自らを天照大神の申し子に擬した持統天皇は、幼時に河内の日下に隣接する鵜野の地で育成され、皇太子であった草壁皇子は明らかに河内の日下を意識した命名(日下部)であった。草壁亡き後、文武が立太子されるのは、天照の神孫(天孫)である邇邇芸が豊葦原瑞穂国を統治すべき正統である事の主張を下敷きにしたものだ。(というより逆にその為にこそ天“孫”なのだ。)
こういう経緯もあり、持統朝までは日下祭祀は持続していたと思える。
ところが、元明〜元正の間に、記紀の編纂もあり、天照大神〜天孫降臨の神話にフォーカスがシフトし、日下は春日社と同様なレベルになって行ったのだろうかと推量される。
そして記紀神話では、大和民族の発祥地は日向:ヒムカであるとされて、日下の存在は日下=曽冨理は高千穂の“曽の添の嶽”という書紀の一書の中の記述に僅かに痕跡を留めるに至った。
これは書紀が、日本民族には大陸のルーツが無いと宣言して、唐からの侵略の口実を防ぐためと、一方で月氏三族(天孫族=龢族と黄牛族=出雲族物部氏、白馬族=秦氏)に関わりのない藤原(中臣=卜部)氏:彼らは対馬の海人浦部の出自である)は、日下=曽霊琉という天孫族のルーツと無関係である為、意図的に日下祭祀の事をネグレクトしたのだと思量される。
※曽霊琉:ソフィル(月氏語)=パミール(タジク語)。
しかも仏教が皇室に取り入られて、孝謙=称徳朝に於いては、日下の事は全く天皇の意識の内からも排出されてしまった。
天皇家の男子=親王はクサ食い(天孫族の聖草である葱韮類の摂食)での臭気を消す為、藤袴の香料を衣に焚きしめる習慣があるのだが、それすら孝謙には最早知識の外であって、あってはならぬことなのだが、従兄弟の藤原家に行幸の際の手土産に藤袴を持参したりするのである。
更にヤマトの日下壇だったと考えられる春日神社を、藤原氏は自らの氏神として接収してしまったのである。そこでは春日神を鹿島の神に換骨奪胎してしまう。
なお、同じ「古代王権」では、日本の王権である天皇の即位に際しての大嘗祭の特質について、様々な論究がなされているようだ。これはかつて折口信夫が、天皇霊の賦与とかいう夙に有名な概念を提示したのである。しかし、
私に言わせれば大嘗祭は、天孫族が豊葦原瑞穂国たる日本列島へ渡来して、稲作の盛んな習俗をソフィスケイトして成立したものだから、天孫族の本質に由来するものかどうかは不分明なのである。天孫族が本貫地の中央アジアにいた頃は、無論収穫祭として食物神に感謝する祭礼はあったであろう。それが果たして天孫族の王権の必須不可欠な条件であったのかどうかも俄には断じ得ない。しかし龢バラモンの首長としての天孫族の族長は一面で神職であった筈だから、収穫祭のような大事な祭礼の主宰は行ったことだろう。
だから保食神→豊受大神に繋がる祭祀が在った可能性はあるだろう。
明治以降に永らく途絶えていた大嘗祭が復活された事で、大嘗祭は天皇即位の絶対条件のように思われ出したが、平安中期から江戸末期まで、大嘗祭は必ずしも行われなかった。代わって行われていたのが“即位の灌頂”だった。
この仏教的な祭儀は、法華経に基づくものだが、無論真言密教の大日如来によって天皇の日嗣礼が承認を得るという、いわば王権仏授説である。とはいえ、大日如来がミトラ神(太陽神)の仏教的な存在であることからすれば、即位灌頂は、天孫族の本来に戻っていたと言えるかもしれない。
だが注意すべきは、この即位の灌頂は、ある時期から、真言密教の高僧の手で行われず、五摂家(藤原氏)の氏長者によって執り行われるようになったが、という事は、天皇家の外戚である藤原氏があたかも大日如来の化身か代理人として、天皇即位に灌頂を施すという具合であり、ここにも藤原氏の下剋上;副王化が見て取れるのである。(即位灌頂の秘儀は、後には五摂家の内の二条家の当主によって引き継がれて来たのである。)
◯何故、本邦の王権=天皇家は世界最長の王権たり得ているのか?
これは、天孫族考で縷々論考して来たテーマだが、
・パミール高原時代の月氏(発祥時代)
・青海〜チベット高原やタリム盆地への伸張
・4分裂:大月氏、中月氏、小月氏、俘囚月氏
・小月氏の一部の大東遷
・遼河流域での辰国
・三韓時代の月支国〜高霊加羅
・九州渡来後の日下国
・北九州統一〜中国地方西部の征服
・神功皇后:武内宿禰(日之下武命):誉田別(応神天皇)の東征
・応神王朝〜継体大王(第二応神王朝)
というプロセスで維持されて来たのが、月氏龢族の東遷組の族長であった天皇家であり、そのバラモンとしての神聖性こそが永続の理由であったと考えられるのである。