補遺56姜吉云氏の著述「倭の正体」

天孫族考補遺56“姜吉云(カン・ギルウン)氏の著述「倭の正体」について”

姜氏は韓国の比較言語学者だそうだ。しかしその著書の奥付の紹介文によると、1923年生まれというからご存命としても最早百寿を迎えておられよう。

実は、この(2024年)11/22に明治学院大の名誉教授・武光誠氏の「渡来人とは何者か」という新刊があったという記事を見て、これをAmazonで検索した処、武光氏の同名著書の加筆改訂版であることが分かった。旧著はかつて読んだことがあったので、購読するか?迷っていた処、“この本を読んだ人は次の本も読んでいます”という関連図書の紹介にこの姜氏の著書が掲載されていたのだ。姜氏の著述には過去接したことがないので興味を持ち、武光氏の新刊の方ではなく、姜氏の著述を先に読んでみようと思ったのである。

この書「倭の正体」は2010年刊行なので、今から14年前のことで、姜氏87歳頃の著述であることが推理される。その高齢での活躍に感心もしたのである。(と言っても、韓国での原著はもう少し早く2003年の事であるらしい。本邦の刊行書はその和訳本だとのこと。それでも傘寿を過ぎた歳の著作だ。)

さてその「倭の正体」であるが、概略以下の内容が著されている。

①倭とは、日韓の一般的な常識とは異なり、元々は中国の江南から越にかけて居住していた稲作民であった。

②その中国倭族が、韓半島に移住してきて南韓に定住した。

③南韓の倭族はやがて対馬海峡を越えて、日本列島の九州にも移住した。だから(弥生時代相当期には)日韓両岸に倭族が展開していた。

※ここまでは、概ね私にも首肯出来る内容になっていた。

しかし、ここから姜氏の論考は相当に独自色を帯びてくる。

④倭族はドラビダ語族なので、南韓の倭族にも九州の倭族にもドラビダ語とりわけタミール語の語彙(の転訛形)の影響が残っている。(こういう言説から、姜氏は“韓国の大野晋”と呼ばれるらしい。しかし姜氏に依れば、後世に残るタミール系語彙は、大野氏のいうような日本語の数百語程度どころか、韓語には1800語もの共通もしくは転形語彙が残存するのだという。)

⑤南韓の任那加羅の小国群(姜氏のいう加羅族)はドラビダ語族である。そうではない新羅や百済が“韓族”であり、南韓のドラビダ語からの語彙流用はあるものの、民族的には異系統であろう。

※加羅族がドラビダ語族に属するとの論述は、姜氏の“比較言語学的共通性”という以外無証明であり、また姜氏の挙げる転訛・変化形の想定にはかなり無理があると、私には見える。但し;

⑥加羅族は黄海を横断して中国の倭族が直接渡海移住して来た者もあろうが、主に一旦江南から黄海を北上して渤海湾に至り、湾岸に移住していた。これを中国では真番(蕃)と呼んだ。この真番族が、北方系民族の圧迫を受けて南韓に移住した。これを南真番という。この南真番の城邑国家が加羅諸国である。

加羅諸国は、やがて西北から百済に、また東方から新羅に侵食されて、最終的に韓族の統一新羅に吸収された。

⑦加羅族の小国家群の盟主は当初は金官伽耶(これは別名が狗邪韓国)であったが、金官伽耶が新羅に併合されるに及び、大伽耶(高霊加羅)が盟主となった。大伽耶もが滅亡した時が任那滅亡の時と認識される。加羅族の多くは、日本列島に移った。(それが筑紫や大和の倭族となった。)

※この⑥については、先の国際学者連合の提示した西遼河言語連合の影響下に韓語や日本語があるとの指摘に一部重なる。

⑦は歴史的な文献でもその様に著されているので、これは突飛ではない。

⑧時に、この倭という語や、金官や狗邪という語などは、タミール語の亀を意味するabe の転訛したwe などの変形や同義語である。金海(金官伽耶)の発展した都市である釜山の釜も亀の転訛したものである。

つまり(姜氏に依れば)倭族というのは亀のように水辺を這い回り水上に浮かぶ民族であり、亀は倭族や加羅族のトーテムである。加羅の建国神話に出てくる亀旨峰(日本神話でのクシフルミネ)に敢えて亀の文字を用いているのは、加羅族が亀を意識していたからである。

※この倭族=亀族という推理には、いささか姜氏の論述がトンデモ説と言われてしまう一つの理由にもなっているのかと思われる。しかも、釜山(カマヤマ)=亀山(カメヤマ)などという推論はビックリ!果たして成立する立論なのか?タミール語の権威?であった大野晋氏も物故者となってしまわれたので確認不能。

更に亀続き:

⑨九州の倭族の国である奴国の訓はカシハラであり、このカシも亀の事である。狗邪韓国の狗邪や九州の狗奴国の狗奴も亀の意味である。そして日本の神武建国神話に関わる橿原も亀原なのだ。

また仁徳以降の河内王朝の河内もまた亀の転訛だという。

※ここまで来ると、エー!?と思えてくる。倭族のトーテムが亀だという考えには、今まで他で接したことが無かった。

だが、浦島伝説では亀が重要な存在となっている。“海人族=倭族のトーテムの一つが亀だ”言うならば、反論はしにくい。

ただ奴国を訓でカシハラ(国がハラなので、カシ=亀之か?)というのも、新体験である。姜氏の推論は更に飛躍して行く。

⑩A  倭の五王なる者が、中国南朝に官爵の冊封を要請しているが、百済を含めた“六国諸軍事安東大将軍”の名号の要請は(既に百済王には賜爵しているので)百済を外し代わりに加羅を含めた六国諸軍事安東将軍の爵位を与えた。だがこの官爵は、百済王への賜爵の鎮東大将軍よりも劣位である。倭王の方を百済王よりも身分が低い者と南朝が見ていたからだ。というのはこの倭の五王とは、列島内の(大和の)倭国王ではなく、南韓の倭族の王、即ち加羅族の王の事であろう。

⑩B  その加羅の語源は、カル(卵)+ラ(羅:場所を表す接尾語?)という事である。(姜氏が明確にそう述べている箇所は一箇所。加羅諸国の王家の始祖伝承が卵生説話にある事に依るものか)

※“倭の五王とは、南韓の倭族(加羅)の王の事績であり、だから兄弟相続と父子相続の様態が日本の皇統譜のそれらとは不一致なのだ”という見解は、姜氏以外の研究者からも出されていたが、その理由はこれなのだ、とする。で、姜氏は対馬と日本列島には加羅や百済・新羅・高句麗の分国が出来ていたと見ている。

⑪A 対馬にはその三国のそれぞれの分邑があった。後世神功皇后の三韓征伐というフィクションに纏められた列島内の倭国が侵攻したのは、この対馬の三国の分邑のことであり、半島内の三国の本体の事ではない。

但し、広開土王碑にある倭族の侵攻とは列島内の倭国(姜氏は、筑紫倭と《“新羅の分国である吉備”を挟んで》大和倭の二大勢力があったとする)ではなく、南韓の倭族=倭賊つまり加羅族の事であろう。この時期、列島内の倭国には対馬海峡を越えて兵力を派遣する様な造船能力は無かった筈だから。

⑪B 応神天皇の淡路行幸やその後の吉備上道臣・下道臣等の任命記事は、実際は新羅の分国であった吉備勢力の反抗を、応神が妥協して吉備の支配権を容認した過程の話を反映したものであろう。朝鮮の(遙か後世のだが)史書では、「新羅が山陽地方にまで侵攻して有利な戦いをして、明石の浦まで進出したが、休戦後吉備地域までの支配権を、列島内の倭国王に容認させた」との記事があるという。

※姜氏は吉備は新羅の分国であると考えたようだが、出雲〜吉備はいわゆる出雲族の国であり、出雲族は新羅と同様に辰韓の出自であるが、私は斯羅国と統一を争ったクシャトリアの別部族(五十族や牛頭方族)だったと考えている。クシャトリアは昭武族(戦士族)なので、戦闘的であり、覇権を求める性向がある。つまりクシャトリア同士でも部族が違えば攻め合って凌駕しようとするのである。大月氏国でも5つに分かれた翕侯国間で、クシャトリアの貴霜翕侯が同等の雙靡翕侯国を滅ぼしてクシャン朝となった。(雙靡翕侯の雙靡は、唐の与力をして中央アジアでその勢威を称えられた昭武九姓の昭武と音訳されたものと同じだろう。)

だが待てよ?姜氏は倭の五王は、駕洛国の歴代の王の事だとするが、さすれば応神も駕洛国の王の一人となろう。それなのに”吉備(これは列島内の地域名である)を阻止する為に淡路まで行った”とするのは自家撞着ではないのか?

⑪C 列島内の倭国の王(筑紫倭や大和倭の王)は半島内の倭族(即ち加羅族の王)の係累であり、本国(任那)は、当然半島南部の加羅であった。それが、百済や新羅の蚕食で衰亡し、加羅族の一部城邑国の宗族は列島に移住し、欽明朝頃には完全に加羅族の本国は列島内の大和倭へと逆転したのだ。

※と、ここまで来ると、些かならず“韓国国粋主義”の恣意的な解釈だとしか思えないレベルに達して来る。

⑪D 列島内の倭国の王とされた者の内、元来の加羅の王が記紀に倭国の大王とされた者がある。そもミマキイリヒコ(崇神)は駕洛国(金官加羅) の初代王である金首露王のことである。崇神の別名であるハツクニシラスというのは、初めて駕洛国(ミマキ)を治めた、という意味なのだ、とする。崇神(とされた王)は日本列島へは渡来していないとするのだ。

また、記紀では一見列島へ渡来しているかに見える他の大王でも、渡来以前の南韓の倭:即ち駕洛国(金官国)の王である。応神天皇は、駕洛国第5代の伊尸品(イルフン)王である。そしてまた、仁徳は同第6代坐知王であり、允恭天皇は同8代の銍知王(ジチ王もしくはチツチ王)、雄略天皇は同7代の吹希王(金喜王)なのである、というのが姜氏の推理である。記紀の古代部分は、“加羅史”を、ほぼそっくり大和倭のものとして写し替えたのである(とする)。

※だが、そうすると、允恭は雄略の子(或いはその子と同世代)という事になり、本邦の皇統譜とは逆になっている?

⑪E 更に渡来した王族も、単に加羅族の子孫というのでなく、同時代の加羅族の王族が、倭国に渡来して倭国の支配者=王や大王に成ったという形があるのだと。そして欽明こそは、事実上駕洛国最後の王である仇衡王が(駕洛国滅亡時に)渡来して大和倭国の王に成り代わったものだとするのである。

⑪F ところが継体以降には、百済王族やその血脈も入っていたとする。そして加羅が大和倭の本国(任那)だった如く、その頃には大和倭や筑紫倭の本国は、(書紀に書かれているのと真逆で)百済になっていた。加羅も百済も地方統治のために王族を派遣していたが、これを檐魯制という。檐魯(タンロ)というのは分国・侯国という意味合いである。つまり列島内の倭国の宗主国が百済になっていたという事なのだ。(耽羅=済州島が百済に降って檐魯になっていた、というようなニュアンスだろう。)

※姜氏に依れば、書紀の編纂時には、最早百済は滅亡しており、結果的に大和倭が滅亡百済の官民を吸収して(旧宗主国が無い以上、書紀を記した百済系史官にとって大和倭が本国になっていたので)大和倭を百済の檐魯などと云う意味が無いので、むしろ半島内の加羅や百済が大和倭の系列国だったかのように表現したのだという。そこで⑪Bの応神の淡路行幸というのは、淡路とは檐魯の読み替えなので、加羅の応神(相当の王)が、檐魯防衛上、今淡路島と云っている島まで赴いたのだ!?と姜氏の弟子筋では主張しているかに聞く。

⑫A その継体は男弟王というように、百済の蓋鹵王の弟である;倭国の人質として長年大和に住んでいた昆支(書紀では、雄略朝に来日し武烈紀に載る斯我君の事だとする)が、一旦百済に帰って王位に就き東城王となった;その東城王が、蓋鹵王の子である武寧王に王位を譲って武烈亡き後の大和倭に再来したのが継体であるとするのである。東城王の名前は牟大(オホタ)だが、男大迹(オホト、意富富等)はその転訛だという。

※ここでも、加羅倭と大和倭の混同の誤りが露呈する。即ち、姜氏は河内王朝は加羅の事だとしていたので、昆支が質となっていたのは加羅だった筈で、東城王が継体だとすれば加羅ではなく大和へは初めて来た事になる。すると、武烈とは加羅王なのか?大和倭王なのか?もっとも姜氏は大和倭は百済の檐魯なので、その統治のための来日だという。また武烈の頃の駐在も百済の檐魯への(間接統治のための)赴任だったという意味の記述もしている。

※継体を半島系の人;とりわけ武寧王(百済25代)の弟とする見方は、我が国の研究者にもあったが、姜氏に依れば武寧王より継体の年齢が十歳くらい上になるから、武寧王の弟ということはなく、その前代相当の34代の東城王だろうとするのである。

いずれにせよ、継体を渡来人とする見方は従来も存在したが、その後の欽明も実は(加羅からの)渡来だ人とするのは姜氏独特のものである。

更に、

⑫B この様な、(姜氏の云う)韓国王族の倭国王族への“成り代わり”というのは、天武まで継続したとするのである。

先ず、舒明天皇(田村皇子)は推古の後継を、厩戸皇子(聖徳太子)の遺児山背大兄王と争い、蘇我氏の支援で皇位に就いた事になっている。しかし姜氏に依れば、田村皇子とは、欽明の孫=敏達の子である押坂彦人大兄王の子ではなく、百済27代の威徳王の世子である阿佐太子の成り代わりで、推古5年に来日して滞在している間に父王が死に帰国せぬ内に叔父の恵王が28代目百済王となってしまったので、止むを得ず大和に留まっていた人で、蘇我氏と組んだ政変で倭王の地位に就いたのだという。

⑫C そして、その舒明の后の皇極とは、百済30代の武王の次女である宝公主だと云うのである。和の皇統譜では、皇極は舒明の弟である茅渟王の王女(つまり舒明の姪)である宝皇女(タカラのヒメミコ)という事にされている。しかし、実際は(姜氏に依れば)武王の次女の宝公主が、同じ百済系の倭王である舒明の后になったのだという。宝公主は武王の息女だったが、母が新羅の善花公主だったため、その頃諍いの増した百済・新羅間の戦闘の影響を避けて、母と共に倭国に亡命していたのだと云う。

それが、武王亡き後を継いだ義慈王によって、舒明の後継天皇を、舒明の皇子であるが宝公主の所生ではない古人大兄皇子を差し置いて、異母姉の宝公主に皇位を継がせるように工作が行われたのだとする。

※宝皇女が百済武王の次女だというのは、姜氏が持つ朝鮮の史書に、子女が41人も居たという武王の息女に同じ?宝の名を持つ公主がいたことと、異母弟である百済31代の義慈王が皇極に送った使いに(自らを)弟王と呼ばせているからだと姜氏はいう。

しかし立場を変えて見れば、単に義慈王が倭王である皇極に形式上兄事していただけかもしれないのだ。時に宝皇女(皇極)の生母は、書紀では吉備姫王となっている。姜氏に依れば、亡命して来た善花公主と宝公主は初め吉備に住んだのだという。これは⑪Bに言及したように、吉備は元新羅の分国だったからだそうだ。そこで倭国で薨去した母・善花公主の和名を吉備姫王としたのだと云うのだ。この辺り辻褄合わせをしているのか。

日本側史料では、吉備姫王は欽明天皇の皇子の一人である桜川皇子の王女である。但し生母は不明なのだが、吉備に関わりのある女性だったのか?吉備島皇祖母命と尊称された。皇極2年に薨去し、大和明日香村に丁重に葬られている。

⑫D 皇極の退位した跡は、同母弟である軽皇子=孝徳が継いだのだが、皇極=宝公主の実弟に同じ武王の王子である智積がおり、その智積こそ孝徳にほかならないと姜氏はいう。

⑫E そして天智天皇;中大兄であるが、そもその皇極の子ではなく甥であり、実体は百済の義慈王の王子・翹岐だとする。

また中大兄(天智天皇)は、大海人とは兄弟ではないのだとも。

大海人は、姜氏の考えでは、孝徳となった百済の智積王子が皇極元年に来日した時に連れてきた二人の息子がおり、その長子が達率長福で、彼こそ、孝徳が皇極からの譲位の条件として;東宮は甥の翹岐とし、その翹岐=中大兄皇子に(従兄の長福が)協力して行くことを容認させたのだが、天智となった翹岐により長福が一旦後継を仄めかせられながら、最終的には天智天皇にその実子である大友皇子の即位を迫られて、遂にこの不満の結果で壬申の乱が生じたのだとする。

※姜氏の言説では、天武までもが百済王族による成り代わりなので、やっと持統以降が、日本プロパーの大王だという事になろうか? もっとも、中大兄・大海人非兄弟説は、本邦学者内でも、過去に盛んに言われて来た。また大海人は宝皇女(後の皇極=斉明)と、渡来系の高向玄理との子であるとの説も唱えられたのであった。

また姜氏は“元来大和倭は加羅の檐魯だったのだが、百済に於いてその王統がある時、従来の余氏(扶餘系)から姻族(外戚)である真(=金)氏に変わることがあった。この真氏とは加羅の王族だったので、百済王が加羅族ともなって大和倭の檐魯も百済の檐魯ともなり、百済の王族が大和倭の支配者として来日する理由が生じた”と解釈するようだ。(この辺りは欧州中世のハプスブルク家の事例を連想する。)

とは言え、皇極=宝公主が新羅系の母善花公主と共に亡命してきたと云うのに、弟の;男子である智積(孝徳)が危険を感ずることなく百済に留まっていて、大佐平の高官に成れていたと云うのも不思議である。彼の来邦は皇極元年というのだから。

---------という様に、応神~天武までが、加羅や百済の王族の兼名・背乗であると姜氏は考えているようだ。(南韓での出来事までも、百済滅亡後に帰化した百済系史官が“あたかも日本列島内での出来事であったかのように記した”のだ!という。)

そして比較言語学者を自称する姜氏は、加羅族もその末裔の倭国の大王もドラビダ語族であるというのだが、一体、ネグロイド=黒色人種と思えるドラビダ族がそのまま倭族である筈はないので、いつ頃・何処でどの様に言語接触して、結果、加羅・倭族はドラビダ語族になったのか?この点の詳説は上記書には登場しない。だが、どうも姜氏は倭族はインドの阿踰陀国も同族だというので、周辺の東南アジア系民族と混淆して皮膚のカラーも薄まったとでも考えていたのだろうか?

また彼の挙げるドラビダ語との相似という語例には(上述もしたが)どう見ても飛躍と考えられるものが多く、私には“無理筋の強引な推論”と思えるのである。

もっとも、本邦の大野晋氏に於いても、タミール語と日本語の語彙共通性を指摘していながらも、そのタミール語との共通語はどのようにして日本民族に流入したのか?民族流入によるのか、それとも言語接触によるものなのか、こういう事の文化人類学的な説明は、必ずしも確かには為されていない。姜氏の著述を読んでから、再度大野晋氏の著述を読み返したが、ここの所はやはり明確には為されていないと改めて感じられた。

周縁の韓族(百済や新羅)は、(高句麗とも)扶餘系だとされ、それらの言語は加羅や倭国とは異なり“モンゴル系”だと姜氏はいう。だが、魏志東夷伝には、辰韓と弁辰(即ち加羅)は、馬韓(百済)と異なり、言語はほぼ共通だとしているので、魏志との認識の相違が生じる。

そして姜氏は「倭国の神武〜開化天皇までは、ツングース系王統だった」とする。そこにドラビダ語族である加羅族の王が渡来して置き換わったという事なのか?(もっとも、倭の五王は加羅の王の事だとするので、垂仁・景行・成務などが加羅の分国である大和倭の王と考えているのか?)

一方で「神武建国神話に繋がる橿原も亀原なのだ」と言っているのに、神武はツングース系だというのでは、橿原=亀原という解釈とは矛盾してしまうのではないか。これについては、姜氏に言わせれば、だからこそ神武の橿原即位説が架空である事の証左なのだそうだ。崇神が加羅初代王なので、それ以前の神武〜開化は韓地の先住民(今日流に言えば、濊貊の貊族とか東沃沮とか)の神話だという事になろうか?

和風諡号のドラビダ語流解釈はともかく、遙か後世の奈良時代の孝謙女帝時代に淡海三船が撰進した漢風諡号まで、ドラビダ語源での解釈を姜氏が云いたてるのは、全く言い過ぎ=誤りであろう。これは頂けない。

また倭の五王の一人武王は、通例は雄略天皇だと考えられて来た。“ワカタケル”の表示のある金石文が複数出て、これが雄略だというのは、今日では通説になって来ている。その結果、(無論雄略が倭王武だとの直接証拠はないものの)倭の五王は(列島内近畿の)河内王朝の大王に比定されるのが適切だと考えられるようにもなっている。

(もっとも、姜氏は河内=亀で河内とは洛東江下流域の事だと考えていたようだが。)

また、和讃と珍の兄弟相続は、応神〜仁徳の父子相続とは不一致だとするのも、私の様に、仁徳は応神の同母弟(父・日之下建=武内宿禰、母・神功皇后=宇佐の息長豊姫)だとすれば、宋書の記述と矛盾しない。

更に、誉田別→讃と大鷦鷯→珍というのは、誉=賛、大・太=珍(ウズ)なので、二人は列島内の倭王である可能性が高い。

姜氏は、ソウル大学卒との事だが、恐らく戦後の混乱期に大学での受講をされておられたであろうから、言語学専攻だったとしても、歴史学の現代的成果については独習だったであろう。

また、新羅支配者がクシャトリアに属するなどという中央アジア〜ユーラシア史の知識(ジョルジュ・デュメジルの三機能説)の延長下の言説等にも接していたかどうか分からない。

それでも、上記⑪のBやD・Eとか⑫B〜Eはともかく、それ以外の指摘において、ほぼ現在の古代史研究者と同等レベルに達していると見えるのは、それなりに大したものだと思える。

姜氏の言説をトンデモ説と頭ごなしに否定せず、その言われる事の当非を、冷静に検討して、取捨して行くべきであろう。

また大野晋氏のタミール語と倭語との共通語彙という主張の中で、“特に稲作や耕作などの農事用語に共通性が見られる”という指摘がある。大野氏に依れば、こういう古代に於いて極めて重要な生活文化に関わる語彙の共通性は、文化的に優位な民族から劣位の(遅れた)民族へと伝播するのだと云う。文明的には確かにドラビダ族が(雲南など中国長江上流域の)倭族よりも相対的には優位だったかも知れない。しかしながら稲作文化を発達させたのは、北インド時代のドラビダ族よりもむしろ長江流域(江南)の倭族の方であったと思われる節もあるので、そうならば倭族の農事用語がドラビダ族へと伝播した逆ケースもあったのではないだろうか?ドラビダ族と倭族が言語接触したとして、前者から後者へと語彙が一方通行で伝播したとしなければならぬ根拠は無いと私は考える。

和人とアイヌ人との言語接触でも、和人の方がアイヌ語の語彙を取り入れた例も少なくない。

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