補遺57続「三韓の勾玉について」
天孫族考補遺57続「三韓の勾玉について」ほか
先に、補遺57に於いて南韓で出土した硬玉翡翠製の勾玉について、
①原材料の硬玉はほとんど全て日本の糸魚川産翡翠と推定される
②但し、それは製品として日本から輸入されたものか、
或いは原材の翡翠だけが輸入され三韓現地の玉作工人によって製作されたものか、
は分からない---------としたのであるが、
これは硬玉製勾玉についての記述としては間違いないのだが、実は南韓には硬玉が日本から輸入される以前に、韓国現地産と言われる天河石(アマゾナイト)を原材料にした勾玉が作られていたのである。
この事は、古代歴史文化協議会が2018年に刊行した「玉〜古代を彩る至宝」という本で知った。この協議会は埼玉〜宮崎までの古代史にゆかりの深い14県によって結成されたものである。
日本の勾玉の初源は、縄文時代中期と言われているのだが、この三韓の天河石製勾玉もまた無文土器時代のものとされて、本邦の縄文時代中期に重なる時代だとされる。
※ アマゾナイト(Amazonite, 天河石)は正式な鉱物名ではなく、微斜長石のうち青緑色を呈している鉱物の流通名。 微斜長石はカリウムを主成分とする3種類あるカリ長石のひとつで、花崗岩や片麻岩の主要構成鉱物である。
本邦の勾玉の形状の起源については、ほぼ獣牙起源説が優勢である事を補遺57本文で考証してきたのだが、問題の三韓の天河石製勾玉は、(同時代の本邦の勾玉が肉厚で紐孔部分が珠状になっていて、いかにも獣牙を連想させるのに対し、この天河石製勾玉は)板状で巴の頭の部分(紐孔部分)もほぼ尾部と変わらぬ厚みなのである。
その形状を見ると、不定形とも言えるようなラフな形状の物もあるようなのだが、完整品と見えるものは、(故水野祐博士流に言えば)三日月形なのである。
従って、三日月形の勾玉は三韓で作られて我が国に入った(単に製品が輸入されたというのでなく、玉作工人も一緒に渡来した)可能性もあるようなのだ。そして、その影響で、従来の我が国の獣牙模倣勾玉も巴形に変わって行ったのかもしれない。
但し、三韓の古い時代の勾玉には、我が国の獣牙形に近いとも思えるものがあるようなので、日本から三韓へ移住した縄文人や南韓倭人が日本起源の勾玉を南韓に持ち込み、それが三韓時代にまで物も製法も伝世していた…そしてこれが三韓の玉作工人によって継承され、(スマッシュアップされて;三日月を連想させる形状の)天河石製の板状(薄型)勾玉の製作に至った、という事であるかも知れぬと考えられる。
ところが、古墳時代に我が国の硬玉翡翠が三韓に入って来ると、(恐らくその圧倒的な美しさによって)王墓などに副葬されるような勾玉の高級品はほぼ硬玉製に一本化されて行ったと見られる。無論、他の原石製の管玉などの装身玉器類も併存していた。
そして天河石製の勾玉は三韓でも主に伽耶地方に見られるという。(この三韓南部が南韓倭人の居住域であるので、そこから勾玉の日本起源説が出てくるのである。)更に三韓の勾玉は、硬玉の輸入される前には本邦の古墳時代と同様に碧玉などの他の原石製のものも作られていたらしい。
一方、天河石製の玉器類は、我が国でも九州地域に入っていた。これは弥生時代から古墳時代にまで亘っている。そしてこれは製品輸入が中心で原石のみの輸入は少ないと考えられている。
ところで勾玉の獣牙起源説についてであるが、それも本邦縄文人居住地が唯一の起源地かどうかは断定できない。
というのは、獣牙を紐に通した頸飾については、東アジアの他地方にも存在が指摘されているからだ。
これは獣牙実物を連ねて用いたものだが、それが玉器によって代用されるに至る過程については、今一つ確定的な解釈は得られていない。
強いて言えば、レガリアとしての王杖とその元になった聖草バルソムのアブストラクトの例である。
例えば、初期のゾロアスター教では、バラモンは聖草として(恐らく)大麻の生の枝葉を祈祷時の手草としていた。それが次第に王杖に発展して行ったのである。ここのところは、天孫族考補遺「聖草とは何か」で詳説した。
本邦の天岩戸神話で、鏡と勾玉の吊るされた賢木が登場するが、この(天香久山で採ったという)賢木が聖草なのである。
歴史時代では、神職がこれに和幣を結んで手に持った。この延長がいわゆる玉串である。(賢木は土地により榊や真樹や梛となる。)
従ってこの“祭祀用のバルソムに付ける呪的な意味を持った飾りとしては獣牙よりも(ソフィスケートされた)玉器が相応しい”という事で、翡翠製の勾玉が考案されたのかも知れない。
一方、三韓で独自に通用された三日月形勾玉は、水野博士の言われたように月読信仰の標識としての意味を持っていたのか?
確かに月辰の勢威復元のスタート点としての朔月は、三韓風の薄い板状で三日月形の形状が、ずんぐりとした獣牙のイメージの残る形状よりも相応しいのである。
三韓の工人もまた、私説では月氏白馬族(=秦氏)の玉造人であって、その白馬族は商工民であるから月読信仰を持っていた。
白馬族の本貫地であるタリム盆地西部の于闐(和田=秦)から見れば、日が西に沈む頃、新月が昇って来るのは崑崙山地であり、そこは和田玉という軟玉の産地である。
新月は青い光をイメージさせるので、青緑色の天河石の勾玉は正しく月読の標識なのである。
朝鮮半島には硬玉は産出しないので、硬玉翡翠を見た南韓の玉作は、それがより勾玉に相応しい月読の権化であろうと感じた事だろう。
月読はやがて黄泉の国の支配者とも意識されたので、古墳に飾る人物埴輪は勾玉を帯びているとも想像される。
このように整理すると、勾玉の起源は獣牙起源と三日月起源の二つが別個に発生したとも考えられる。そして本邦においては、元来は獣牙呪術だったのが、三日月=月讀信仰に置き換わった後、天孫族のレガリアの一つになることによって、神々の呪的な護符という風な共通理解になって行ったのだろうと思う。
◯出雲の勾玉
月讀の象徴が勾玉だと意識されるとともに、やがて出雲のシンボルともなった。
その過程で、根の国は出雲だとされて行ったのである。
根の国とは、本来は樹木神とも目された五十猛が木の国(後の紀伊)に進出する本=木の根の意味だったと思われるが、根の国が大国主の鎮まる国と解されるようになると、黄泉の国となり、素戔嗚をも通り越して伊奘冉の墳墓とも
なる。
元々、出雲とは天孫族考で陳述してきたように、ヤマトの三輪山麓の地名だった。それが三輪大神たる大物主を、国譲りした大国主の名前で、斐伊川の北岸である杵築に封じ込めて、そこが新たに(令制の)出雲とされた。
かつて、根の島の南に、斐伊川の沼沢〜宍道湖〜中の海を貫通する水道=江があった。これが“宍道の江”である。そして東の江端:ゑづまが今の松江に当たる。そして西の江端は後世神門と言われた斐伊川の上古の河口でもあった。(今は斐伊川は宍道湖に流入している。)
その“江端”が大国主を祀る杵築大社が出来るとともに“出雲”とされたのだ。(元の畿内の出雲はヤマトの名称の下に統一された。)
そして根島(後世の島根半島)が神話上で根の国=黄泉の国とされた。それは、大国主の国譲りの後、“汝は黄泉を支配せよ”との天照の神勅があったとされて、その結果として大国主は月読と習合したのである。
その為月讀の標識だった勾玉は大国主の標識にもなった。
出雲大社の忌部として、玉造部が存在して勾玉を貢進するのはこれ故である。
◯勾玉の例外的な存在
●北朝鮮地域の唯一の例外的な勾玉
南韓以外の朝鮮半島には勾玉は発見されていないが、唯一の例外が北朝鮮地域の咸鏡北道に属する雄基邑というところで出土した勾玉である。しかしこれは、古代の東濊族の地なので、同じ海人族系の南韓の濊族との交易で入手したものではないか?東濊も海人族として月神信仰を共有していたかもしれないので、月神の標識としての勾玉をそのような呪的な意味を解しながら入手したのかもしれない。
北朝鮮の古文化研究文献(書名はハングルが読めないので未詳)では
>> 解放前に日人學者たちに依って雄基松坪洞貝塚で人骨が発見されたことがあるが、この遺跡に関する詳細な報告書が発表されなかったので、それがいつの時代のものか分明しない。その遺跡から人骨とともに出土された遺物の中には、彩文土器、石斧、石鏃、勾玉、丸玉、管玉、骨針、貝釧などがあるが、特に彩文土器は明らかに韓国では新石器時代のものではなく、靑銅器時代のものである。<<
(Google翻訳による機械的翻訳なので正確かどうかは分からない。)
※さりながら、日本人学者の発掘のようなので、玉器類の中に勾玉があったというのはその通りであろう。(但し故意の混入ででも無い限りだが。)
●東アジア以外の勾玉
正確には勾玉かどうか分からないが、勾玉の様に“くの字”形(もしくはC形)になっている玉器が、エジプトと北欧(ノルウェー?)で見つかっているとのことである。
しかし、これらの玉器は、我が国同様に呪術的な意味を持っていたのであろうか。それぞれ現地で製作されたものではなく搬入品であろうか? エジプトの物は或いはシルクロードの交易品であったかもしれない、と想像した。しかしその場合、その搬入元・起点(原生産地)がどこであったのか? 勾玉は中国や蒙古高原では見つかっていない。だとすると、南韓から飛んでシルクロードの何処かにもたらされたと考えるしかない。そう考えて行くと、やはり中央アジアの和田玉の本場である和田(于闐)周辺でも、和田族=白馬族の工人によって月読の標識として三日月形の玉器が作られてでもいたのだろうか?目下のところ、それを証明するような出土品の情報はないのであるが---------。
或いは全くのオリエント産で、形状が偶然勾玉風になっていたのか?
という疑問を抱いていたのだが、次のような記述に出会った。
“エジプトの勾玉は実は神像の眼にはめ込む為の石で、それが「全てを見通す力を持つもの」と考えられ、そのマナコ状(三日月形)の石に紐を通す孔を開けて、身につけられるようにし、身を守る護符としたのだ”と。この説に立って、そのエジプトの勾玉の模造品を売るという商売人がいるようだ。この伝承の真偽は分からない。
そしてその商店の広告ページに依ればだが、このエジプトの勾玉風の石の原石はヘマタイトであるという。ヘマタイトとは赤鉄鉱であるが、酸化作用の影響で表層は全く黒色になっている。その黒い部分?を削り取って勾玉状に加工し磨き上げたものだそうである。(ヘマタイトの奥層部分は、鉄分の化合物らしく赤いので、エジプト人はこれを血液の表象だと考えたというのである。ヘマタイトのヘマはヘモグロビンのヘモと同様に鉄分を表す接頭語だろう。)
このエジプトの勾玉なる物が全てヘマタイト製なのかどうかは未詳である。
もしこの商人の記述が正しいなら、やはり別個の起源で、偶然の形状類似であろうという事になる。勿論、現地産という事だ。
その模造の商品なる物は見かけは全く日本の勾玉である。
(これが邦人向けに敢えて本邦の勾玉酷似に作ったのでなければの話だが。)
北欧の物は、ノルウェーがバイキングの国であることを考えれば、バイキングはノボゴロドから黒海にまで足を伸ばしていた。従ってこの場合は、バイキングがシルクロードの交易品を、通商によってか略奪によってかは分からないが黒海周辺で入手して、はるばる持ち帰ったものか?などと想像される。ノルウェーの場合は、その原石が何か、の情報が無いので、残念ながらどこの原産かも判明しない。
◯シルクロードについての衝撃
先述の“古代歴史文化協議会刊行の「玉〜古代を彩る至宝」”を読んでいて、私が衝撃を受けたのは、勾玉ではなく別の玉類である“重層ガラス玉”という玉についてのコメントだった。
重層ガラス玉というのは、英訳がgold sandwich glass、韓国では金箔瑠璃玉;つまり金箔挟み込みガラス玉のことである。もう少し丁寧に説明すれば、“重層ガラス玉とは、装飾効果を高めるため、ガラスとガラスの間に金属箔を挟み込むという高度な技術で製作された特殊なガラス玉”と、某学術論文にある。
これには単珠もあれば連珠になっているものもあった。
このようなガラス玉は三韓や本邦の古墳時代の副葬品の中に見ることができる。極めて希少な物というわけではないのだが、そのガラスの成分分析をすると、東アジアでみつかる重層ガラス玉製作の元になったガラスには、何と“古代ローマで作られた物もあるらしい”という事だ。(勿論ペルシャやオリエント製造のガラスを原材料にしたものもあるようなのだが。)
これは、古墳時代には既にシルクロードを通じた東西交易が盛んに行われていたという事になるのだ。こういった事情を鑑みれば、ガラスの原材は、各地のガラス製品の原材料として、はるばる運ばれて来たのだが、それは多くの民族をリレーして来たというのではなく、私の指摘してきた通り“月氏白馬族が交易の民として、隊商を組んで西はローマから、また東は三韓まで(或いは倭国にまで)商圏を広げていた”という事の結果なのだろう。大黒帽子の埴輪は、古墳時代に来訪した秦氏の商人の姿ではないかと、以前にも述べたことがある。
最近の美術家の時評にも以下の言及があった。
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時評 帝政ローマの重層ガラス玉、 京都の古墳で国内初発見」(秋丸知貴)2024年11月4日
2012年6月21日に奈良文化財研究所と長岡京市埋蔵文化財センターは、京都府長岡京市にある5世紀中頃の宇津久志古墳で発見された国内最古級の重層ガラス玉が、ローマンガラスである可能性が極めて高いと発表した。ローマンガラスは、一般に帝政開始から東西分裂までの紀元前1世紀から4世紀にかけて、ローマ帝国領内で製造されたガラス製品を指す。今回の発表は、ローマ帝国の影響がほぼ同時代に古墳時代中期中頃の京都周辺にまで及んでいたことを具体的に示す点で非常に興味深い。--------------------------------------------
上述は、重層ガラス玉の原材料についての議論であったが、ガラス玉と総称されるガラスを溶融して整形した玉類は、ガラス小玉・ガラス管玉・ガラス勾玉など様々な物が、弥生中期〜古墳時代までの甕棺墓や古墳などの副葬品の中に多数見られる。しかし我が国で、その原材たるガラス素材は飛鳥時代まで製造されていた形跡がない様なのだ。しかしその様な豊富なガラス玉類は、大陸側からの渡来品のほか、原材料としてガラスの不定形の塊やガラス板を輸入して、我が国で溶融整形を(弥生時代後期あたりからは九州や畿内周辺などで)していたらしい。
極めて初期のものが京都府京丹後市の奈具岡遺跡でも見つかっている。あの硬玉翡翠の加工地の一つと目される遺跡だ。玉作工房の存在が推定されている。
これらのガラス整形の原材料のガラスは大陸側(中国や西域、三韓)の生産である。これもまた我が国がシルクロードの東端であることを示すものだ。
◯勾玉と古墳副葬
さて、勾玉は威信材として、さぞ古代豪族の多くの墳墓に副葬されたと考えがちである。しかし、初期のヤマトの王権である三輪王朝時代の副葬品は、鏡と剣であって、ほとんど勾玉は発見されていないらしい。つまり三輪王朝では“二種の神器”だというのである。一方この頃の、九州北部の墳墓からは勾玉の副葬が見られる。それだけでなく、舶載のガラス素材を使ってガラス勾玉まで作られていた。そして勾玉が畿内の古墳でも副葬されるようになったのは、古墳時代中期;即ち河内王朝の時代になってからの事だという。河内王朝の副葬品は三種の神器が揃っている。
つまり三種の神器をレガリアとするのは、天孫族の王朝である河内王朝以降であり、出雲族の三輪王朝では勾玉尊重が無かったのだ。
という事は、大国主と古志の奴奈川姫との婚姻譚も、従来は翡翠の勾玉に関わるものであり、出雲勢力が古志(越)の勢力と連衡した事を暗示していると説明されて来た。またそれは四隅突出型方墳が石見〜越中にまで分布しているという考古学的な事実にも符合していると解釈されて来たりもした。だがその古古出雲の神話も、実は出雲族のものではなく、日本海の海人族系の伝承であったのかもしれないのだ。言い換えれば、古志の勢力と連衡したのは、後に大国主に名寄せされた葦原色許男に関わるものであったのか?つまり葦原醜男は出雲族の神ではなく、元は日本海海人安曇族の神で、安曇族の古志への進出を反映したのが奴奈川姫伝承であり、大国主が今出雲に祀られて葦原醜男と習合した時に、奴奈川姫伝説も大国主に帰属することになったのかもしれない。そう考えると(葦原醜男=実は安曇族としたら)海人族系の宗像氏の三女神の田心姫との婚姻譚も納得が行くというものだ。そうなると石見とその東隣に渡来して、やがて畿内に進出して古出雲=ヤマトに三輪王朝を建てた五十族の祖先である五十猛は、日本海の安曇を征服して一旦江ノ川〜斐伊川流域に根拠地を持ったのであり、彼こそが葦原醜男に取って代わった八千矛神であったのかもしれないのだ。
三輪大神=大物主が新たに出雲とされた斐伊川流域に大国主の名で換骨奪胎して祀られ(八千矛神や葦原醜男の名も吸収し)、同時に玉造に“出雲大社”の神戸としての玉造部が置かれて大社に勾玉を貢進するようになったのだ。そして俗解に於いては勾玉は大国主の標識とされている。しかし出雲臣となった(“ヤマトの出雲”=古出雲地域に居て初瀬屯倉の田を管理していたという)宮向臣にしても、また勾玉が非出雲族のレガリアであることを考え合わせると、宮向臣を出雲国造に任じて大国主を管理(封印)させたのだから、勾玉は大国主が社の“封じ籠め”から抜け出さないようにするための呪符だったのではないかとも推理される。
天孫族考で考究してきたように、クシャトリアである黄牛族(牛頭族=辰韓族・出雲族)も北辰のみならず日辰祭祀も行っていた。(辰韓族の新羅にも迎日湾がある。)だから、出雲族の神器が剣と鏡であることには不思議はない。
※上で“三輪王朝時代には古墳副葬品に勾玉がほとんど見られない”とした。ところが、昨今の考古学的知見では、古墳時代初期(三輪王朝時代の初期)には見られないものの、前期前葉には勾玉の副葬が見られるというのだ。この古墳時代前期前葉というのが、三輪王朝時代の後期を含むものなのか?それとも応神朝以降(河内王朝時代:それは通常古墳時代中期と理解される)になっての事なのか?ここのところはもう少し究明してみないと、私には判断できない。
一方、第二応神朝つまり継体朝以降(古墳時代後期)には、引き続き古墳への勾玉の副葬が続いていたようだが、これが急速に先細りになって行き、古墳時代終末期(皇極〜天智〜天武持統朝)になるとほとんど勾玉は副葬されていないのだ。一つには、推古朝以来隋の服装令などが入って来て、それで玉類の装身具を着装しなくなった事も影響しているとの説もある。しかし、記紀で三種の神器が強調されながら、天孫族の優越性が確立された時代には、逆に勾玉は殆ど重要視されなくなったというのが、そこに矛盾を感じる。という事は、八尺瓊の勾玉というのも、別の意図で措定されたもので、“実際には天孫族固有の神器では無かった”という事にはなるのではないか?
本来玉類は、天山三族の内の白馬族(月辰族・本邦では秦氏)の祭器であった。このため、三族に冠たる天孫族は、三族共和を現すために鏡と剣と玉の三種の神器をレガリアとしたのであろう。
補遺57付◆レガリアと威信財
レガリアとは王権を表象する宝器のことである。
一方“威信財”とは、王権に限定されず、地方の首長や豪族(もう少し後世になると長者と呼ばれた地方の有力者・富農大商人・高位僧侶なども含めた富裕者)がその身分に相応しい財物を身近に蒐集したものを威信財と呼ぶ。従ってレガリアは一種特別な威信財ではあるが、単なる威信財が必ずしも伝世を前提にするものではないのに対し、レガリアは後継王者に伝世される;むしろその財物の伝承保有が即位の条件になってくる。
本邦の三種の神器はそういうレガリアの最たるものであろう。
とはいえ、記紀に於ける三種の神器にまつわる伝承とも神話とも考えられる幾つかの例と、他方地方首長の王権への服属儀礼を象徴する話題(神夏磯姫や五十迹手が大王親征譚で、賢木に鏡剣玉を吊るして服属の意思を示す場面)とがあり、後者はよくよく考えれば実話ではなく、三種の神器の概念が固まってから考案架上されたものである可能性が大なのである。
また前者の方も、“かかる神話や伝承に基づいて三種の神器が定まった”というのが自然に見えるのだが、これもまた“何らかの理由で”三種の神器がレガリアとして定まった後に、その理由づけとして作為された神話や伝承であるのかもしれない。
そう考えると、その「“何らかの理由で”三種の神器がレガリアとして定まった」というのはどういう事になるのか?
言い換えれば、三種の神器のそれぞれを王権のレガリアと概念づける理由があった筈だという事なのである。
それを私説では、既述の如く;日本の支配層を形成している月氏系三族;即ち天孫族(龢族)・牛頭族・于闐族(秦族)の首長それぞれのレガリアが鏡・剣・玉だったからだろうとして来た。太陽神崇拝の日之下族である龢バラモンのシンボルが鏡であり、クシャトリアである牛頭族のそれは刀剣、月読神祭祀の民であり于闐玉産地を持っていた白馬族での月形の勾玉という三つである。
但し、日本神話では、月読と素戔嗚(首佐王)が錯同を起こしているので、同じ出雲族系の素戔嗚の剣(天叢雲)と大国主の勾玉という混線が生じているのである。
だが松尾神社摂社のような秦氏が祀る月読は依然残っている。松尾神社の祭神は大山咋神と市杵島媛である。前者は日吉神社の祭神と同じであり、秦氏が山城盆地に入って比叡山への山岳信仰を持ち込んだ結果である。市杵島媛は宗像三女神の一体であり、水運や商いの神であると同時に兄媛の田心媛は玉器の神である。日吉社の信仰は秦氏のものだというのは、その後の日本天台宗の開祖最澄が秦氏出身である事からも理解できる。また日吉(山王)社の神使は猿だが、猿は白馬族のサブトーテムであり、猿は馬頭観音の使いとされる。馬頭観音は勢至菩薩の化体の一つである。“厩猿”の言葉があるように、厩舎には猿神を祀る。もっとも、この“馬猿の仲”は、道教から来ているともいう。
馬と猿が相性が良いというのは、孫悟空が天界で与えられた弼馬温という仕事も、厩舎に猿がいると馬が落ち着くという、中国の言い伝えからだとされる。日光東照宮の神厩舎の壁に三猿が描かれているのもこういう謂れに基づく。左甚五郎の属した飛騨の匠は秦氏系木工集団員弁族でもある。
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※傘寿を迎えて、昨年末癌の手術をした私には最早余命は僅かであろう。若い考究者の方が、これらの疑問に興味を持って研究を深めて下さることを望むものである。