補遺57「勾玉とは」

天孫族考補遺57「勾玉について」

八尺瓊勾玉は、天皇家のレガリアである三種の神器の一つとして周知だが、実はあの特異な形状が何を模した(もしくはシンボライズした)ものか?そしてそれはいかなる理由で神器と見なされるに至ったか?については定説がない。今回は、これを掘り下げてみたい。

◯勾玉の形状について

装身具の首輪などの先端に吊り下げるのが目的だと解されて来た(場合により複数の勾玉を数珠状に結び合わせた頸飾=ネックレスもある)。

その実際の形状は複数あり、人魂型(巴形)というコンマ状の勾玉は日本民族独特の形象だという。

しかしこの人魂型の形状は、元来は月形であって三日月の図像化だという説もある。

ほかに代表的な形状としては、丁字型(J字型)などがある。

三日月型の玉は、月読神のシンボルだとし、月読神を祭祀した月氏白馬族の宝器だという。白馬(ベイマ)族とはホータン(于闐=和田)を首邑としていた月氏のバイシャ階層(庶民層)ホータン族であり、本邦では秦氏という。

古来、中国では玉は和田玉が最上とされて、西域からシルクロードを通って輸入された。この中国への玄関口が玉門関にほかならない。

秦氏の工人には南韓の馬韓や弁韓加羅に居た時にも玉の製作に従事していた人が居たと思われる。南韓で発見される勾玉は、原料が糸魚川産の翡翠であっても、南韓の玉造衆によって加工されたものが含まれていたと考えられる。

もっとも秦氏には古帰と今帰の2種があり、通常は今帰の人たちを帰化人としている。玉造は、ホータン族がタリム盆地に居た時からの生業の一つであった。出雲の玉造部等が勾玉を作っていたとは考えられているが、秦氏の元来作っていた勾玉が①渡来以前から巴形だったのか?②渡来以前は三日月形で、渡来後に本邦の玉の形状=巴形に倣って(今残る)勾玉の形状になったのかーーーこれは定かではない。

※出雲の玉造部は忌部の一族だとする説もある。しかし天孫族考の別の論稿で述べたように、都の忌部氏以外は、元は秦氏であり、忌部となる事で、バイシャの身分から下級ながらバラモンの仲間入りできるというので、忌部氏の呼びかけに応じて忌部に氏族換えしたのだと考えられる。但し出雲の忌部は、大社の神戸であり、中央の伴造である斎部氏の支配からは独立していた。

しかし、考えるに②の可能性が高いと私には思える。

というのも、古代に於いて唯一の硬玉翡翠の産地だった糸魚川の翡翠で、縄文時代に(即ち、秦氏の渡来以前に)既に巴形状の勾玉が造られていたというからである。

このため、勾玉は日本固有の宝器であり、それをレガリアにしているのだから天皇家もまた縄文時代から我が列島に居住していた人(つまり縄文人)の子孫だと主張する人達までいる。

一方で、(入口紀男氏のように)銅剣と鏡の二種の神器が古代江南の地(つまりは倭人の原郷であるが)に見られるので、二種は縄文後期に稲作とともに列島に伝わった;それは取りも直さず、稲作と剣と鏡をセットで携えた倭族:即ち海人族が渡来して持ち込んだ文化であると考える人もいる。この場合天皇家の祖先も(縄文族ではなく)弥生時代をもたらすことになった倭族海人の王家であるということになる。

ただ入口氏も、もう一つの神器である勾玉は、元々日本列島にあった糸魚川翡翠の文化の継承であるとしている。

※太平洋戦争直後に、本邦の学者中、極めて早い時期に、その名も「勾玉」という学術論文を書いた故・水野祐博士(生前は早大名誉教授)なども、“勾玉は縄文人の祭器だった”としておられる。水野博士の見解については後述する。

江南に鏡が出土するというのは、稲作が太陽の運行に依存するものであり、江南の稲作民に日神崇拝があった事は、考古学的な証拠もあるらしい。三星堆の青銅器文化にも明白に太陽神崇拝の痕跡があるというからだ。中国の学者達の推測では、三星堆文化の太陽神崇拝は、長江のもっと下流に当たる江南地域に源流があって、稲作の遡上と共に日神崇拝も四川盆地へ入ったとしている。但し、中国の考古学的見識では、三星堆には銅鏡は出土しないので、青銅鏡は黄河〜河南系の文化的遺物とされる。つまり江南には北から流入したのではないか?という事になる。

他方でいわゆる後世の茶馬古道の如く、チベット高原〜四川・雲南経由で、西域の文化の一部で長江源流域にもたらされたものがあるという。

だとすれば祭器としての鏡(青銅鏡)崇拝もまた、同じ経路で西域から伝来した可能性も否定はできない。鏡崇拝は無論太陽神崇拝になる。西域には月氏龢族(日之下族)の日神崇拝やその延長下のミトラ神崇拝があるからだ。(その場合やはり三星堆に銅鏡の痕跡がないというのは、三星堆文化の異質性の現れと言えるだろう。このルートを想定した時は、三星堆は飛ばされて?江南に伝来したという事になる。)

月氏の交易民である白馬族の文化である玉も同じ経路で四川や雲貴地域に入っていた可能性はあるだろう。

但し列島への玉文化の伝来ということからすれば、勾玉は純倭国産であり、南韓を経由したものではないという。何故なら南韓で出土する勾玉はほとんど全て糸魚川産の翡翠を用いたものだから!というのである。

しかしそれでも、糸魚川産翡翠を原材料に使っているからと言って、南韓に玉造りの技術が無かったとは言えないし、むしろそういう技術があったからこそ;言い換えれば玉を愛づる性向があったればこそ,当時は最も美しかった糸魚川翡翠が、他の軟玉=擬似翡翠(ネフライト)を圧倒して珍重されたとも考えられるからだ。つまり加工技術は南韓にもあったかも知れないという事だ。白馬族は南韓では馬韓のほか辰韓や弁辰にも多数居住していた。金官伽耶でも王族(=後の金氏)と一部の貴族以外は白馬族の商工民だった筈だ。実際、糸魚川産翡翠を加工していた山陰の玉作遺跡の出土物の中に、半島系の道具と考えられる物があるからだ。

◯勾玉と道教

時に、勾玉の形を俗に人魂型などというのだが、元来“人魂”というのは、神道や仏教の概念ではなく、道教のものである。本邦に道教が入って来たのは明確には天武朝以降だと言われている。従って上古の、ましてや縄文時代の糸魚川翡翠の勾玉は人魂の表象ではあり得ない。では何の観念だったのか?

韓国の国旗である太極旗にも中央に巴の合わさった形状が見られる。これが太極である。正確に言えば、丸が太極でありそこから陰陽の気が生じるという原理を表すものである。

太極とは中国固有の宇宙観で、究極の根元となるものの称。 無とも、陰陽変化の理とも解されるが、天地陰陽がまだ分かれない前の宇宙万物の本体である。

改訂新版 世界大百科事典 「太極」の意味・わかりやすい解説では、

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太極 (たいきょく)tài jí

今は太極拳になごりをとどめるだけだが,もとは中国哲学の最も重要な術語であった。その出典は《易教》繫辞伝(けいじでん)の〈易に太極あり,これ両儀を生じ,両儀 四象を生じ,四象 八卦(はつか)を生ず〉である。

北宋の周敦頤(しゆうとんい)はこれにもとづいて《太極図説》を著し,〇で象徴される太極から万物が生み出される過程を図式化した。太極はそこでは原初の混沌たる一気を意味したが,南宋の朱熹(しゆき)はこれを〈気〉とは別の範疇(はんちゆう)である〈理〉と解釈しなおし,しかも万物に内在する個別的な理(各具太極)を統(す)べる窮極的存在(統体太極)とみなした。いわゆる朱子学はこの太極説を核にして完成されるのである。

太極がこのように哲学的に深化されるまでには長い歴史があり,その前身は北極星の信仰にまでさかのぼる。古代において〈太一〉(または大一,泰一,太乙)と呼ばれたものがそれである。太一神は漢代以降,皇帝によって祀(まつ)られる一方,道教の教義のなかにも摂取され,上述したように宋代の新儒教において哲学概念として再生するのである。なお,韓国の国旗(太極旗)などに見られるのは,太極から陰陽が生まれる様子をあらわしている。  (執筆者:三浦 国雄)

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この太極の観念は、古くは春秋時代にまで遡る。

従って、この道教での巴形や人魂(遊離霊魂)の観念が入ってから、勾玉の形状も人魂型と思われるようになったのであり、それまでは(縄文時代及び弥生時代には)恐らく勾玉の形状は、巴形ではなかったのかもしれない。

もしくは巴形だったとしても何か別の表象イメージだったのか?

というのは、応神天皇(誉田別命)のシンボルが巴状の弓具(鞆)だったという伝承があるので、巴形そのものは、人魂や陰陽の気の概念とは全く別個に、本邦でも早くから成立していた可能性があるかも知れないからだ。

◯応神天皇と鞆絵

応神天皇誕生の地という伝承は、筑前の宇美八幡宮にある。

「筑前国の神功皇后めぐり⑨ ~宇美八幡宮・奥宮~」というネット上の記事には、以下の記載がある。

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応神天皇とは後年につけられた名で、生まれた当時は誉田別尊(ほむたわけ)とよんでいたそうです。

これは生まれつき腕の筋肉が盛り上がっていて、弓の防具である鞆(とも・ほむた)をしているようだったからとか、

鞆をたずさえて生まれてきたという伝説もあるようです。

八幡大神(はちまんおおかみ)の神紋にも使われる三つ巴紋ですが、この巴も、もとは鞆だといいます。

しかしながら、この形で思い起こされるのは、勾玉(まがたま)であり、神璽(しんじ)としての八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を彷彿とさせますから、生まれたときから天皇となるべき存在だったということでしょうか?

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この応神にまつわる伝承が、後世の附会であることは天孫族考で考証したので、ここでは飛ばす。

要は巴とは何か?という事である。

◯「巴」とは?

漢字ペディアでは、巴について次のように記す。

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ともえ。うずまき。うずまき形の模様。

とぐろを巻いたヘビの形を描いた字。

出典『角川新字源 改訂新版』(KADOKAWA)

象形。へびが口を開けているさまにかたどり、へびの意を表す。ひいて「うずまき」の意に用いる。

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そもトモエとは、鞆絵であって、立体の鞆を平面に(二次元の面に)投射した形状なので,そう呼ばれるのだと説明されて来た。しかし、本当にそうなのか?私は長らく疑問に思って来た。

しかし蛇がとぐろを巻いている様、もしくは水の渦巻きの様のどちらかと考えれば、本邦の古代に於ける巴が意味するものも類推できる。

吉野裕子女史のように、日本人の深層意識というか祭祀の基底には殆ど蛇神信仰があるとする向きには、巴=とぐろ説が馴染むかもしれない。

しかし巴の漢字の説文が渦巻きに由来するというのは、当然ながら漢字伝来以降の観念なので、漢字伝来の公に認識されている応神朝以前の、縄文時代〜弥生時代〜古墳時代前期には、そのような認識は成立し得ない。

実際に出雲族の玉造部が造ったという出雲型勾玉は尾部まで太く、とても蛇を連想できない。八岐大蛇伝説の出雲の巴が蛇形とは異なるというのは皮肉である。

かつて天孫族考で、応神天皇の成育地は、北九州遠賀川右岸の水巻宮伝承地ではなかったかと推理した。

水巻宮という理由は、遠賀川の南北の流路の更に東側にある河川が、洞海湾から流れ出る江川の途中から分岐する川で、これが保牟田祭祀地を取り巻いている形状が巴形になっており、この形状が水巻の名称の由縁であったろうと述べたことがある。丁度巴の字の巳の字の囲みの中の縦線の部分が保牟田に当たるのだ。そしてその水巻の宮の東側に水巻三山という山に囲まれた小盆地の古賀という地名の土地がある。この古賀は久我=日下つまり日之下なのである。この古賀は九州王朝の三久我の一つである右賀であり、この右賀が遠賀そして岡田(宮)の語源だと天孫族考で考証した。

だから水巻宮で成育された応神が後世“巴”に結び付けられる可能性はあったであろうと考えている。(応神の巴はこの水巻宮を取り巻く水流に由来するのではないだろうか?)

三輪王朝時代の大物主の正体を蛇身とする観念も、縄文時代の意識の延長下にあるのか? 或いは弥生時代の契機となった海人族=倭族がまた蛇信仰を持っていて、それが縄文人の蛇神観念に重なって、各地の蛇信仰にもなって残っているのか?これは何とも言えない。(後述のように、大和神社の御神体が八尺瓊勾玉であるとし、その祭神が大国主で、これは三輪大神:大物主のアラタマであるから、大物主が蛇体であるので、勾玉も蛇形に起源があるとする人もいる。)

しかし彦火火出見尊(山幸彦)が竜宮の媛である豊玉姫と婚姻する神話の中で、豊玉姫がお産の際に龍女の正体を現したとされているが、これを除くと、蛇と天孫族とは余り関係が深そうには見えない。

この神話でも、蛇神は海人族系の祭祀対象であると認識されていたという事ではないだろうか。

そうすると、勾玉の表象するものは、蛇でも人魂でもなく、もっと違うものではなかったかと推理される。

◯では勾玉は何の表象か?

縄文研究者の中には、勾玉は胎児の表象だとする人がいる。私個人は、胎児が勾玉に似ているかどうかの判定はできない。

だが、もし勾玉が胎児の表象だとするなら、それを装身具に付けたりする意味は何なのか? 多産や豊穣祈念の表象なのか?

もっとも、これは後知恵でしかないと思うのだ。

縄文のビーナスと言われる女身像土偶が身重を連想させ、かつ勾玉の付いた装身具(首輪とか腕輪など)を着けて発見されたというならともかく、勾玉=胎児説には飛躍があると、私には思える。また胎児を抱えた女性の土偶も見かけない。唯一、“胎児ではないか”という土偶があるのだが、それも私には胎児にはみえない。“叫ぶ嬰児”というのなら肯定できるが。

そのほか勾玉は雫をデザインしたものだとか、腎臓を乾した?形状だという説などがある。

ある識者は、次のように整理している。

邪馬台国の会 第241回 謎の四世紀 成務天皇の時代  勾玉の起源

https://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku241.htm

そこに、勾玉の形の起源諸説を整理した記述がある。

これを基にして補足加筆してみた。

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勾玉のユニークなかたちはなにをかたどったものであろうか。次のようにさまざまに想像されている。

勾玉のかたち

* 獣の牙をまねた→(獣牙起源説)

* 人間の胎児の形→(胎児模倣説)

* 動物の腎臓の形→(腎臓模倣説)

* 昆虫さなぎ、蚕や繭の形→(蚕繭等蛹起源説)

* 魚の形→(魚形起源説)

* 釣針の形→(釣針模倣説)

* 月の形(鏡は太陽、勾玉は月)→(朔月起源説)

※なお( )内の“●●起源説”の呼称は、概ね「勾玉」著作者の水野祐博士の呼称を、私が若干修整したものである。

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さりとて、図像学的に決定的な解釈は確立されてはいない。

國學院大博物館の記事には;

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勾玉の貴重さを生んだのは古代の人々が愛した「翡翠」

現代の人々がアクセサリを好むように、古代の人々もまた、装身具として工芸品を用いた。その代表格が「勾玉」である。中国流に言えば(総称として)佩玉である。但し勾玉は単なる装身具ではなく、ある種の祈念を込めた呪具でもあった。

アルファベットのCの鏡像反転:逆Cに似た形(その鏡像反転C形もある)をし、先端に穴を開けて紐を通す。ペンダントのように使われたと考えられる。勾玉の中には、今のダイヤモンドや金のアクセサリと同様、非常に貴重なものもあった。皇位の象徴として知られる「三種の神器」にも、剣・鏡とともに「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」がある。

では、どんな勾玉が高い価値とされたのか。國學院大學博物館の深澤太郎准教授は「原料が価値を大きく左右した」と言う。

(※原石には硬玉翡翠のほか碧玉などの軟玉、またガラス製と思わしき物もあったのである。)

「当時、特に貴重だったのは翡翠の勾玉です。産地が限られて希少な上、硬度が高く整形が難しい。だからこそ貴重であり、祭祀の捧げ物や死者の副葬品に用いられたのです。[魏志倭人伝]にも、倭国(日本)の献上品の一つに翡翠の勾玉があったと推測できる記述があります」

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※倭人伝に載る“勾玉”については後述する。

それにしても、なぜ勾玉はあの形になったのか。上述の如くルーツは諸説あり、はっきりとは分かっていない。

ただし、深澤氏は「縄文後期には勾玉に近い牙の形をした翡翠の加工品が作製され、やはり穴を開けてペンダントのように使った形跡がある」とのこと。そうして、弥生時代には勾玉が出てきたという。(しかし糸魚川産の翡翠は、当時の採鉱技術では次第に枯渇したらしい。)

古墳時代の前期になると、緑の碧玉を使った勾玉が増えてきた。翡翠の代用品と考えられる。さらに軟質の滑石で勾玉の形を模した祭具も現れたという。

なるほど、“元は動物の牙の形を模したもの”だという説は、蓋然性の高いものだと思える。

何処の博物館であったかは記憶が定かではないが、首飾りに獣(猪?)の牙に紐を通した物があった。縄文人は狩猟漁撈の民であったから、いわば収穫実績の記念(自慢)に、或いは豊猟祈念にそういう獲物の一部を身に付けるという事があったのは自然の成り行きと思われる。獣の牙だけでなく海獣の骨なども使われたであろう。

それが美麗な翡翠などの貴石をそのような牙の形に削り出して、いうなれば象徴的なデザイン(工芸)として、勾玉になって行ったのではないだろうか?

(これを「勾玉」の著作のある故・水野祐博士の用語を借りれば、「獣牙起源論」という。但し水野博士はその説には否定的であるが。)

もし動物の牙を模したのだとしたら、同様な造形が東アジアの狩猟民族の中にあったとしてもおかしくない。(私は未見であるが。)

勾玉の収集で有名な平山郁夫氏がお亡くなりになってしまったので、「ユーラシアの何処かに(本邦以外で)勾玉ないしJ字型や丁字型の勾玉があったかもしれないが是非ご教示願いたい」とお尋ねできなくなってしまった。平山郁夫ユーラシア展のカタログに勾玉があったので、かつて私はユーラシアの何処かにも勾玉があったのかと錯覚したが、注釈をよく読んでみるとその時に展示された勾玉はどうやら全部日本列島産であったらしい。

韓国の勾玉の原料の多くが糸魚川産翡翠だったというのは、古代に於いて硬玉翡翠はそこでしか産出しなかったので、卓越した価値を有していたのだろう。ユーラシアの各地に流布した翡翠は、古代に於いては、ホータン玉に代表される軟玉だけだったからだ。

中国で硬玉翡翠が入手できるようになったのは、中世以降(南宋か元の時代)だったと言われる。これはミャンマー北部のカチン州で採れた本翡翠が輸入されるようになったからだという。しかも当初はごく少量だったといい、ある程度の取引量になったのは、実に18世紀以降(明代)だともいうのである。

いかに糸魚川翡翠に価値があったか!

北朝鮮地域や北東アジアには硬玉翡翠や勾玉は見つかっていない。(例外は咸鏡北道雄基に出土の勾玉2顆一例のみ)

北東アジアでは中国由来の軟玉しか流通していないようだ。→この事も後ほど確かめることにする。

◯中国の勾玉を連想させる玉器:玉蚕

勾玉の形状起源論に、蚕や繭を挙げる説があることは先述した。実際に、(本邦出土品にはそれは見られないのだが)、養蚕の起源地である中国には蚕の幼虫の形態をそのまま模した玉蚕という玉器がある。

全体の輪郭は、勾玉に近似しているが、玉蚕は写実的で、蚕の体節が模造されている。

中国に次いで養蚕を始めたのは、シルクロード都市の于闐(和闐=和田)である。于闐は月氏白馬族本拠の交易都市であり、その白馬族の一部族こそ交易民の和田(ホータン)氏=秦氏である。

しかし、于闐には絹織物の織機はあり、またそこは崑崙山地から産出する和田玉の加工都市でもあったが、和田では玉蚕は出土していないらしい。

◯秦氏の月讀崇拝と玉璜

月氏白馬族すなわち秦氏には月讀神信仰があった。これは天孫族考で繰り返し陳述して来たが、彼らはシルクロードの交易民だったから、取引の基礎になる暦は必須の観念であった。太陰暦を用いたが、これは月の満ち欠け(盈虧:エイキ=満月と新月)を以ってひと月を定めた。“満月何回を経た時に支払いの徴収に来る”などという事で、口頭の契約が成立したのであろう。この暦の基になる月を司るのが月神である。月神は暦の神なので月讀神ともいう。月讀とは暦の異称である。(渡来後、山城盆地に集住した秦氏が祀ったのは松尾神社で、その祭神は月讀尊だとされる。松尾神社が養蚕の神でもあるのは、祭祀したのが秦氏だからである。養蚕に於いても、蚕の脱皮と繭作りの時期を知るために暦の知識は必須である。コヨミとは“蚕読み”である。また馬頭観音が養蚕の護持仏なのも、秦氏の本性が白馬族であり、馬をトーテムとしているからだ。)

和田(秦)氏や中国には、佩玉の形状として、半月や朔月・三日月と見なされる玉器の頸飾(垂玉)である「玉璜」がある。

玉璜は、月讀の祭器でもあろう。玉璜は和田玉で造られた。その加工をしていたのが、和田族の工人である玉造民である。

その秦氏(の玉造民)が本邦渡来後、先住民たる縄文人の玉作り仕事を見て巴型を継承したというのが、私の推論である。

秦氏玉造民には、縄文人の獣牙呪具であるらしき勾玉は、朔月の形に見えたのだと思うのである。つまり玉璜では、玉の両端に穴を開けて紐を通すのだが、勾玉は巴の頭部1ヶ所だけである。この形態が朔月を縦に吊るした態(體)だと観念したのではないか?

◯水野祐博士の見解 天岩戸では二種の神器

水野氏は、“勾玉は最初から月(月神)を意識したものだ。縄文人の暦感覚が、月の満ち欠けに依拠していたので、自ずと後世いう太陰暦の観念を有していたのだろう”と推理している。(水野氏は縄文人も航海民族の性格もあり、潮の干満と月の間に相関関係があることに気づいていたと推理しているようだ。)従って、「稲作民が日神と共に伝来した銅鏡よりも、祭器としての歴史は勾玉の方が古い」と考えていた。だから皇家の神器も、原初的には鏡と勾玉の二神器だったのが、後から剣が加わって三種の神器と成ったと推論している。だから古事記の天岩戸神話では、賢木に鏡と玉の二品が吊るされていたのだともいう。

だが、天岩戸神話は天照が素戔嗚の乱暴狼藉に怒って岩戸に隠れたのだから、素戔嗚の象徴である剣が登場しないという事であるのかもしれない、と私は考えている。

もっとも、菊華が中世に皇家の御標に加わるまでは、天皇を表す図標は日月紋であった。明治への王政復古の際に、岩倉具視が作らせて薩長軍に与えた錦旗の紋章も菊華紋の物と日月紋の物の両方があった。後世日月紋の事実が没却されて、菊華紋錦旗のみが“錦の御旗”として記憶に残ったのだが、これには何か明治政府の誰かの意図が隠されているようにも思える。(今はこの推理には立ち入らないでおく。)

菊の原種は大陸にあり、本邦には改良した栽培種が遣唐使でもたらされた。我が国で菊がもてはやされ仏花ともなったのは、それ以降である。

思うに、日月紋が最初の皇家の紋章だったのは、当然ながら皇家の崇拝対象の基本が太陽神と月(太陰)神だとの意識があったからであろう。

それに剣が加わって三種の神器の概念が生じたのは、奈良時代に藤原氏によって春日神社の祭神が東国の鹿島神宮の神に背乗りされたのだが、その鹿島の神は(本来は多氏水軍の祭祀する海神である威甕槌だったのが)大国主に国譲りを迫った武甕雷もしくは建布都という雷神もしくは剣神とされて春日に持ち込まれ、それが藤原氏の氏神ともされて、剣神への畏敬が認識されたからだと思う。春日神社の御神体は剣になったのである。本来、剣は素戔嗚の表象であり、従って出雲族だった物部氏の(古くは辰韓黄牛族;クシャトリア)の祭器だった筈だ。それが日之下建の草薙剣に変身する濾過過程を通じて、剣も皇家の神器に加わる資格が整えられたのであろう。(神器の剣には、藤原氏による二重のトロンプイユ=騙し絵構造が隠れている。)

それなのに、日と月の二辰のみが原初の大和王権の標識だと意識されたのは、東征してきた九州軍(幼児の応神を擁していた)は、天孫族(日下族)と“月神を奉じた宇佐や筑前の秦族”との合同軍であり、星辰や剣を標識とする出雲族の寝返り組である(黄牛族の裔の)物部氏は、実は被征服側であったからだと思える。

水野博士の推論の延長上になってしまうが、氏が若き日に、出雲玉造の地で、現に玉造工房を営んでいた店の実見で、原石から勾玉の形に切り分けて行く途中に、一旦原石を半月状に切り出す工程を紹介している。その半月はあくまでも途中工程の未製品であるが、もしそれを磨きあげるなら、中国の玉器でいう玉璜に成るだろう。

だから、秦氏の玉造民が渡来して、先住民の攻玉(玉器を作る工程を総称して攻玉というらしい;セメタマか?)の手順に於いて、半月形を通るのを目にし、“自分達はそこから玉璜に製品化するのだが、先住の玉作人がそれを更に加工して勾玉に造り上げて行くのにインスピレーションを感じた”というのではなかったか?

そして勾玉の頭部が尾部より厚く玉状になっているのは、そうしないと小さくした玉器に紐穴を開けるのが困難になるからだが、渡来した和田系玉造民にはそれが朔月に仕上げているように見えたのかもしれない。半月より朔月の方が、復元霊力が強いと考えられたから、玉璜ではなく勾玉への加工攻玉に、今帰の玉造民たちも一斉に傾斜して行ったのではないだろうか?

水野博士は古墳時代後期〜奈良時代〜中世前期まで、玉造民の中心地だったのは、出雲の玉作川中流域(今の玉造温泉の郊外)で、そこには玉の原材である碧玉や瑪瑙の産する花仙山があったからだという。そしてここの玉造部は、他の地の玉造部とは異なり、忌部の玉造人だとする。しかしこの出雲の忌部とは、中央の斎部氏を伴造と仰いで臣従する部民ではなく、出雲大社の国造家の神戸として、大社の祭器や国造が「出雲神賀詞」を奏上する際に皇家に貢進する勾玉や玉器を作ることを専業とした特殊工人集団だったとも指摘している。

つまり出雲忌部の忌部とは、(神戸とは主には伊勢神宮の神領民を言ったが、他にも鴨社とか鹿島神宮とかの大神社にはやはりそこの必要料を調進する神領民が居て、それらは全て一般語として神戸と呼んでいるのと同じで)、出雲忌部は(阿波や安房などの忌部と異なり)大社の用に専従している部民であるというのである。因みに出雲玉造の作る玉のことを「御祈玉(ミホトギタマ)」というらしい。祈ぐ(ホトグ)とは祝ぐや寿ぐと同義である。出雲には忌部のほかにも、大社の賄い神戸があった。

※処で、私説では玉造人は秦氏の一部族だと考えているわけだが、この出雲の玉造部は、必ずしも出雲族に付随した(辰韓系の)秦氏だったとは考えない。何故なら(天孫族考で何度も指摘してきたように)出雲国造家の出雲臣は、元来は三輪山麓に居住していた天孫族系の(言い換えればヤマトから派遣された)氏族・宮向臣だったのであり、決して出雲地方の意宇郡に土着していた出雲族ではないからだ。だから大社の忌部である玉造部も、杵築大社の建築を機にした出雲臣の赴任に際して、ヤマトや山城・近江・河内などに居た秦氏の工人集団が、連行されて来た可能性も無しとはしないからである。

更に水野博士は、弥生中期から以降に流行した子持勾玉(信州の玉依姫神社では児玉石と呼ぶ)を考察して、これは朔月が生み出される原理の物象化であるとして、ますます縄文以来の勾玉朔月起源説を補強している。子持勾玉とは、櫛状に;櫛歯の代わりに複数の勾玉が柄から生えている形状のもので、ほかに柄の背の部分にもまた柄の横(周囲)にも瘤の如く勾玉が生えている形状の物などがある。

その生え出した勾玉には、勾玉である事を明示するために、ご丁寧に頭部に紐を通す孔を穿っているものがあるのだそうだ。(これらは殆ど両面穿孔によるらしい。)佐賀唐津の宇木汲田遺跡の甕棺〜奈良三輪山周辺・千葉県熊野神社遺跡・群馬栃木茨城などの北関東〜福島・出羽(山形秋田)などほぼ全国的に出土している。

これはいわば扶桑樹に太陽の児が十個成り、そこからもげて東の水平線から宙空に上がっていくという太陽樹の観念の月辰版“神樹=若木”とも言えるだろうか。

呪術的な意味としては多産豊穣の祈念であろうという。

水野博士は、獣牙起源論に難点があるのは、縄文時代末期に於いて既に獣牙とは異なる形態の物が並行してあること。その頃は狩猟生活時代であり獣牙の類は比較的容易く入手できた筈であり、わざわざ硬玉翡翠のような入手し難い希少材で獣牙の模倣品を作る意味があったのだろうか?という疑問から、獣牙起源論ではない別の意図からの起源があったのではないか?として、月光の青い光をイメージさせる勾玉は月の精の形象化だったとするのである。

実際、勾玉が登場する前に、糸魚川硬玉製の玉器として、三日月形の大珠頸飾(中国の玉璜によく似ている)や鰹節形(紡錘形)の大珠が作られていた。前者が月神信仰に関わるもので、後者はその未製品もしくは不完全調整品ではないかとも思われる。そして糸魚川産の原石の大きい物が枯渇する頃から、その大珠を再分割して(小分けして)勾玉などの小玉器が作られるようになったのであり、勾玉は三日月形の呪的な性格を継承した(つまり月神崇拝を保持した)物ではないか?と水野博士は推理されている。

◯水野博士の勾玉論からの示唆

水野祐博士はまた、出雲の玉文化は、筑前宗像と関係があったと推測している。即ち大国主と宗像三女神の長女である田心姫(タギリヒメ)との婚姻伝承があり、出雲大社の妃神三摂社中では、伝説上の嫡妻?である須勢理毘売の社よりも位置と遷宮の造営修復順に於いて優遇されている事から、宗像と出雲の両者には深い関係があったとしている。そしてその理由として、宗像の田心姫は沖津島に置く勾玉:青蕤(アオニ・セイズイ)の玉を御神体とするので、出雲の玉造文化と繋がるのだというのである。

とすれば、宗像(水野博士はこの語源を“身の形”=ご神体だという)の第二女神である湍津姫もまた紫瓊玉の精であり、宗像氏は単に海人族系ではなく、鐘崎海民を支配下に置く綿津見らしきものの、実は宇佐と同様に本来は玉をトーテムとする秦氏の一族ではないかとも着想されるのである。とすれば、宇佐の海人系だと考えられて来た豊玉姫とその弟姫である玉依姫もまた玉を身の形にしていると思われる名であり、宇佐は安曇族の頭領・大山祇との連携下にあったと考えられるものの、純海人の安曇族ではない、ということになる。

◯勾玉の渦巻起源説

大きな甕や池の水底が抜けた時に渦巻が生じることは、縄文時代から知られていた。渦巻はほかに植物の蔓やシダ類のゼンマイの芽などにも認められるので、これの不思議感が渦巻紋に呪的な意味を持たせたのか;土偶などにも渦巻が造形されたものがある。その特徴的なものが、有名な遮光土偶である。そして遮光土偶の多くが、頸飾と思わしき紐状の物を首に巻いている。そしてその頸飾には明らかに玉と思われる塊が描写されている。しかし、遮光土偶の付けている玉は勾玉ではないように見えるのだ。

縄文後期層から勾玉が出土しているというので、確認はしていないが同じ遺跡から土偶も出ている可能性はある。しかし土偶と勾玉が別個に存在していたというのは、両者ともに呪術的な意味が認められるにしても、それぞれの呪術的な意味が異なっていたという事ではないだろうか?土偶自体の起源が確定していないが(昨今では、一部土偶は人間ではなく、食用植物や根菜などの形態を象徴化した物ではないか?という説もあり、その典型に遮光土偶が挙げられているのだが)、いずれにせよ多産や豊穣の祈念の呪的な意味のある事が、学者間の共通認識であるかのようだ。

土偶に勾玉を飾るものが無かったのに対して、古墳時代の埴輪には、明確に勾玉を佩用していると認識できる人物埴輪が多数出土している。だがこの頃には、むしろ装飾品としての意味合いが強くなっていたのではないだろうか?(とは言え、依然として、呪的な意味合いや護符的な意味も継続されていたではあろうが。段々宗教的な意義の強度が弱まったのかも知れぬと思える。)

但し、この人物埴輪が佩用している勾玉は、むしろ尾部を前方に立てて(頭部を身体側に寄せて)いるように見える。

そうなら、勾玉はその尾部を立てて結界を成しているようにも思える。それは外側から見れば結界で異物を隔離しているのであり、内側からは何かを保護するためのゾーンの外殻とも思える。これが“出雲大社に大国主を封じ込める為の注連縄代わりに、玉造部の存在理由があった”というのは飛躍だろうか?

時に、勾玉は、時代が下がると意匠上左右対象にデザインされるようになって行ったが、本来は逆C(〜J)になっている(またそういう風に装着する)のが正しいという認識が、古来玉器制作の工人(玉造部の末裔)たちの伝承になっているらしい。北半球の渦巻は右巻(C形)であるが、だとすれば、勾玉の渦巻起源説は崩れることになる。

※もっとも、頭の旋毛(つむじ)は、北半球の人間でも左右2様の巻き方があるらしいのだが、縄文人や弥生人につむじに対する認識があったのかどうかは分からない。→研究すればイグノーベル賞か?

縄文時代〜古墳時代前期までの勾玉の原材は、主に硬玉翡翠だった。

(縄文後期になると硬玉が払底し、出雲の花仙山の碧玉や瑪瑙などが用いられた。)

◯勾玉の原材料・翡翠について

硬玉勾玉の硬玉とは本翡翠のことである。翡翠は地殻変動の巨大な圧力と比較的低温地層の作用によって自然生成されたものである。即ち、プレート沈み込み地帯(高圧低温変成帯)に産出する物だ。

今知られている翡翠の産地について見てみる。新大陸のグアテマラ産が(旧大陸人側に)発見されるまでは、①糸魚川②ミャンマー奥地カチン州のの二ヶ所だけだったのである。如何に珍しいものかが理解できるだろう。

①糸魚川 北米プレートとユーラシアプレートに南からフィリピンプレートの三重会合域である。いわゆる糸静線(糸魚川静岡断層線)の最北に当たる。

②ミャンマー・カチン州 ユーラシアプレートとインド・オーストラリアプレートにスンダプレート+アンダマン海溝の延長上のビルマ小プレートの裂け目になる地域から産出する。

③グアテマラ 北米プレートとカリブ海プレートに、西側からココスプレートが押している。

凡そ50年前のグアテマラ大地震を起こしたカリブ海側の断層の存在。

この地震に台湾の人たちが義援金を送った事で、両国の友好関係が生じて今中南米各国が中国マネーを当てにして、次々と台湾と断交する中で、グアテマラは友好関係を維持している。しかしその背景には、新大陸で唯一の硬玉翡翠の産地であり、その主要な買い手が、台湾の富裕層及び在米台湾系華僑だという事情が隠れている。両国友好周年行事の写真を見れば、記念会場装飾のシンボルに巨大な翡翠が飾られていることが目を引くのである。

④19世紀〜20世紀に発見されたウラル山脈東側(アジアンロシア)のジェイダイト→現在三ヶ所が確認されている。

●カザフスタン バルハシ湖東南(天山山脈西北側)イトムルンスキー鉱山。地質構造は未詳。

●ロシア(極東ロシア)西サヤン山脈(延長上にアルタイ山脈がある)カーカシア鉱山。アムールプレートとユーラシアプレート、南から揚子江プレートの会合する地質構造。

●極ウラル地方(ウラル山脈の北部で北極圏に入る地域)→プスエルカ鉱山、そこの地質構造は未確認。

これらは、一応硬玉であるとされるものの、極ウラルの物以外は品質的には既知の三箇所の物より劣るという意見もあるようだ。

一方極ウラルのプスエルカ Pusyerka 鉱山の物はミャンマー産に匹敵する高品質だという。

そこで、以下に資料として、軟玉(ネフライト)と硬玉(ジェダイト:本翡翠)の違いを参照する。両者を合わせて翡翠類貴石jade:ジェイドという。

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資料 ネット上の翡翠に関する情報

●ネフライトと翡翠の違いは何ですか?

ジェダイトとネフライトは、どちらも緑色の宝石として翡翠と呼ばれていますが、実は全く別の鉱物です。 ジェダイトは「翡翠輝石」という鉱物で、ナトリウムやアルミニウムを含む珪酸塩鉱物です。 一方、ネフライトは「透閃石-緑閃石系角閃石」という鉱物で、カルシウムやマグネシウムを含む珪酸塩鉱物です。  ジェダイトとネフライトの違いは、以下のようにまとめられます。

項目        ジェダイト(硬玉)

化学組成        ナトリウム・アルミニウム・ケイ酸塩        カルシウム

硬度        6.5~7        

色          緑色が多いが、白色や紫色などもある        

産地        ミャンマー、ロシアなど        

価値        透明感や光沢が高く、希少性が高いため高価        

項目        ネフライト(軟玉)

化学組成        カルシウム・マグネシウム・鉄・ケイ酸塩

硬度        5.5~6.5

色          緑色が多いが、黄色や茶色などもある

産地        中国、ニュージーランド、カナダなど

価値        不透明であり、品質の高低が大きい

ジェダイトとネフライトはそれぞれに異なる意味を持っています。

ジェダイト:ジェダイトは古代から神聖な石として崇められており、中国では「天下の至宝」と称され、王族や貴族が愛用してきました。また、マヤ文明やアステカ文明でも神々の象徴として重視されていました。

清浄さ;ジェダイトは純粋で透明な石として清浄さを象徴します。邪気や汚れを払い除けて心身を浄化する力があると言われています。

平和;ジェダイトは穏やかで優しい石として、争いやトラブルを避けて和解や調和を促す力があると言われています。

知恵;ジェダイトは叡智や洞察力を高める石として、物事の本質や真実を見抜く力があると言われています 。

幸運;ジェダイトは豊かさや繁栄をもたらす石として幸運を象徴します。金運や仕事運、恋愛運などを引き寄せる力があると言われています 。

健康;ジェダイトは生命力や活力を強化する石として健康を象徴し、免疫力や代謝、循環などの身体機能を改善する力があると言われています 。

産地;糸魚川* ミャンマー : カチン高原(カチン州)* グアテマラ : モタグア渓谷* 米国 : カリフォルニア州ニューイドリア地区* ロシア : 西サヤン山脈* カザフスタン

ネフライト:ネフライトは古代から実用的な石として利用されており、中国では玉器や武器、器具などに加工されてきました。ネフライトには以下のような意味があります。

保護;ネフライトは安定感や安心感を与える石として、危険や災難から身を守る力や家族や友人との絆を深める力があると言われています。

癒し;ネフライトは心身のバランスを整える石として癒しを象徴します。ストレスや不安、怒りなどの負の感情を和らげる力や傷ついた心を癒す力があると言われています。

成長;ネフライトは自己実現や夢の実現に導く石として成長を象徴し、自信や意志、才能などの潜在能力を引き出す力や新しいチャンスや可能性に気づく力があると言われています。

調和;ネフライトは自然との一体感や調和感を高める石として調和を象徴します。自然界のエネルギーやリズムに同調する力や周囲の人々との共感や協調する力があると言われています。

ジェダイトとネフライト 買取額の違い

翡翠の買取額は、石の種類、色、透明度、質感、状態などによって大きく変わります。 一般的には、ジェダイトの方がネフライトよりも高価で希少な宝石として扱われ、ジェダイトの最も有名な産出国はミャンマーです。ミャンマー産の天然未処理のものが最も価値が高いといわれております。

ジェード(ヒスイ)はその歴史的背景から、ジェダイト(硬玉)とネフライト(軟玉)の2種類が現在の市場に流通しています。 世界中をみてもジェダイトは限られた場所でしか産出されません。代表的な産出場所は、ミャンマーのカチン州・中南米のグアテマラ。そして、日本の糸魚川です。 一方ネフライトはジェダイトが形成される半分の低圧力で、400℃~500℃程度の高温度帯で形成される角閃石です。角閃石は世界中で形成が可能な岩石で、産出量も豊富にあります。代表的な産出場所は、ロシアのシベリア地方・ニュージーランド・中国・台湾、そのほか中東やアフリカ大陸など、たくさんの場所で産出されます。

(日本の翡翠産地)日本のヒスイの産地はどこですか?

※注 硬玉は糸魚川のみ、後は軟玉である。

糸魚川および糸魚川周辺地域(朝日町・小谷村・白馬村)が最大の産地です。 このほか、鳥取県若桜(わかさ)町、兵庫県養父市大屋(おおや)、岡山県新見市大佐(おおさ)、長崎県長崎市(三重・琴海)、北海道旭川市・幌加内町、群馬県下仁田町、埼玉県寄居町、静岡県浜松市引佐、高知県高知市、熊本県八代市からヒスイが発見されます。

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※一部内容は先述と重複するが、以下の記述も参考になる。

https://lapisps.sakura.ne.jp/gallery13/913jadeite.html

黒海・カスピ海地域には新石器時代にネフライト・ジェード石器を使用した形跡があり、古くは BC2,000年頃に遡るという。

コーカサス山地やシベリア・バイカル湖西部の東サヤン山地に鉱床がある。

ジェーダイト(ひすい輝石)では極ウラル地方、カザフスタン、シベリアの西サヤン山地に鉱床がある。いずれも 20世紀に(再?)発見された。極ウラルのジェーダイトはボイカル-シンインスク帯と呼ばれるオフィオライト層の蛇紋岩メランジェ帯に含まれるものである。1979年に行われた地質調査でジェーダイトの生成に適した土地として注目されたが、最初のジェーダイト塊が発見されたのは1989年夏のことで、10年間に及ぶ調査を要した。この塊はミャンマー産のインペリアル・ジェードに匹敵する鮮やかな翠色が一面に広がる宝石質のもので、中華圏のひすい商に高額で買い取られた。そして彼らの出資を受けて採掘が始まった。プスエルカ Pusyerka (Pus'erka)鉱山という。高品質のジェーダイトを産するが、極寒僻遠の地での採掘は困難で(夏季の3ケ月間のみ操業可)、運営は滞りがちのようである。(※キーエフレンコの「宝石地質学」(2003)には 1937年発見で、80-90年代に開発された、とある。)

カザフスタン東南部、バルハシ湖の南方にはイトムルンスキー鉱山があり、ジェーダイトやネフライトを産する。しかし品質は今ひとつといい、市場性に乏しいようだ。1932年の発見。超塩基性岩起源の接触変成鉱床で、蛇紋岩メランジェに含まれる。

※バルハシ湖 地溝湖(ちこうこ、英語: rift lake)または断層湖(だんそうこ)とは、大陸地殻の延長線上にあるリフト帯(地溝帯)内の断層の動きに伴う沈下によって形成された湖である。

モンゴルとの国境に近いサヤン山地は東部地域が 19世紀以来ネフライトの産地として知られてきたが、西部のボールス・オフィオライト帯の蛇紋岩メランジェではジェーダイトが得られる。1959年に発見され、60年代に大規模な調査が行われた。76-86年にかけて宝石質の石が採集された、とキーエフレンコは述べている。 今日、エニセイ川の畔、アバカン北方のカーカシア Khakassia に鉱山が稼働されている。ミャンマーや極ウラン地方の最上品には及ばないが、カザフスタン産ほど悪くなく、まずまず良質のヒスイが得られるという。操業も年7ケ月間可能。現在流通しているロシア産のジェーダイト・ヒスイは一般にこの産地のもののようだ。

※ 西サヤン山脈は東サヤン山脈の西部から南西に連なり、アルタイ山脈につながる。地方区分としてはハカス共和国とトゥヴァ共和国の境に位置する。エニセイ川上流部が西サヤン山脈を貫き、サヤノシュシェンスカヤダムがある。

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さてここからは、目下評判のAI検索エンジンであるDeepSeekを使って玉器の本場である中国の事情などを、もう少し参照してみたい。

DeepSeekは、以前私も、この天孫族考番外で指摘したように、反中国・反中国共産党的というような質問や、或いは中華民族への批判のニュアンスを含む検索には、応答拒否やハグラカシの答えしか返して来ない。また文化の起源論などについても、中国とそれ以外の国とで説が分かれるような場合は、異説があることには言及されず、中国オリジンであるとの回答を返す。しかし、これらの状況を回避すれば、中国や東アジアでの事情については、かなりの程度参考になる回答を返す。隘路を回避しつつ、上手にDeepSeekを使って、情報を引き出して行こう。何せ「◯◯と鋏は使い様」と諺にもいうのである。

おお

DeepSeek によるAI検索の実際

  以下※(コメント)は私による注釈。

Q)勾玉の始原は?

A)勾玉(まがたま)の起源については諸説ありますが、主に以下の地域が起源とされています。

1. **日本**  

   勾玉は日本の縄文時代から存在し、古墳時代に特に広まったとされています。日本独自の文化として発展し、祭祀や装飾品として用いられました。三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」も日本神話に登場します。

2. **朝鮮半島**  

   朝鮮半島でも勾玉に似た形の装飾品が発見されており、日本との文化交流の中で伝わった可能性があります。

   

  →※ここまではかなり正確である。

3. **中国**  

   中国の新石器時代の遺跡からも勾玉に似た形状の玉器が出土しており、東アジア全体で広く用いられていた可能性があります。

   

   →※ここは中国贔屓の性向が出ている。

最も有力な説は、勾玉が日本で独自に発展した文化であり、他の地域との交流の中で形や用途が変化したとされています。

Q)中国で勾玉に似た玉器とはどんな形の物か

A)中国で発見された勾玉に似た玉器は、主に新石器時代から青銅器時代にかけて作られたもので、以下のような特徴があります。

### 1. **形状**

   - **C字形や半月形**:日本の勾玉に似た曲線的な形状を持つ玉器があります。特に「玉璜(ぎょくこう)」と呼ばれる半円形やアーチ形の装飾品が代表的です。

   - **龍形や動物形**:中国の玉器は動物や神話的な生物(龍など)をモチーフにしたものも多く、複雑な形状をしています。

### 2. **用途**

   - **祭祀や儀礼**:日本の勾玉と同様に、祭祀や宗教的な儀式で使用されました。

   - **権威の象徴**:古代中国では玉器は権力や地位の象徴としても用いられ、特に支配者や貴族が身につけました。

### 3. **材質**

   - **翡翠(ひすい)や軟玉**:中国の玉器は翡翠や軟玉(ネフライト)で作られることが多く、高い技術で加工されています。

### 4. **文様**

   - **幾何学模様や象徴的な文様**:日本の勾玉とは異なり、中国の玉器には複雑な文様や彫刻が施されていることが多いです。

中国の玉器は日本の勾玉と形状や用途が一部似ているものの、文化的・宗教的な背景やデザインには大きな違いがあります。日本の勾玉はよりシンプルで独特な形状を持ち、中国の玉器はより多様で複雑なデザインが特徴です。

→※この分析は、間違っていない。

※時に中国の動物形象には螭首という物がある。

cf:螭首(ちしゅ、拼音:chīshou チショウ)は、螭(チ)(英語版)という竜の一種をかたどった、石碑などの装飾。装身具ではないようだ。後漢の時代のとぐろを巻いた螭の石輪が螭首。

●石碑の碑首の螭首

亀をかたどる台座とあわせてこれらを螭首亀趺(ちしゅきふ)(拼音:chīshou guīfū)と呼称する。

螭は、中国の伝説上の龍生九子の中の一つの霊獣である。口が大きく、おなかに沢山の水を溜めることができたという。

→これと勾玉には関係は薄いと考えられる。しかし、勾玉の蛇形起源説に繋がるかも知れないものに、縄文中期の勝坂式土器がある。口縁部に蛇を模した把手などがつけられた土器が特徴的である。しかも勝坂式土器の分布圏(中部〜関東地方)は、勾玉に先行する硬玉製大珠(鰹節形)の分布圏に重なるのである。土器が勝坂式から加曽利式に移行する縄文末期に、硬玉製の勾玉が糸魚川海岸部の長者ヶ原玉作遺跡などで作られるようになったのである。

勾玉と蚕の形状についてもDeepSeekに訊ねてみる。

Q)中国もしくは日本の勾玉などの装身具の玉器に蚕の形をデザイン化したものがあると言っている人がいるようですが、実際にそういう形状の玉器があるのでしょうか?あるとすれば何処の博物館収集物でしょうか?

A)蚕をモチーフにした玉器は、中国と日本において実際に存在しますが、その形状やデザインは文化的背景によって異なります。以下に具体的な情報を整理します。

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### **中国の蚕をモチーフにした玉器**

中国では、蚕は古代から絹の生産と深く結びついており、重要なシンボルとされていました。蚕をデザイン化した玉器は以下のような特徴があります。

1. **形状**

   - 蚕そのものを写実的に表現したものや、抽象化されたデザインのものがあります。

   - 特に「玉蚕(ぎょくさん)」と呼ばれる小さな玉器が、中国の新石器時代や商周時代の遺跡から出土しています。

2. **博物館収蔵例**

   - **中国国家博物館(北京)**:古代中国の玉器コレクションの中に、蚕をモチーフにした玉器が展示されています。

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※ 玉蚕佩

西周 长3.2厘米,最宽1厘米,最厚0.4厘米 1956-1957年河南省三门峡市上村岭虢国墓地1704号墓出土

玉は純白で、器は弧状に曲がっていて、上は太くて下は細い。頭は比較的丸く、上に外側に突き出た両目がある。頭の下に爪紋が彫られ、爪の前後に穴が通った小さな丸い穴がある。頭から下へ、体は徐々に細くなり、尾まで尖った形になり、体には七本の陰線紋が彫られ、尾部に行けば行くほど陰線紋が濃くなり、体を表しています。頭の中央の両側に丸い穴を開けて、結ぶことができます。造形は生き生きとしていてリアルで、玉質は白く、純粋で潤いがあり、羊脂白玉である。彫刻技法は純熟です。

中国は世界最古の養蚕と絹を織る国であり、長い間世界で唯一絹を生産する国であった。養蚕と絹織文化は非常に長い歴史がある。早くも新石器時代に、先住民はすでに蚕の飼育と蚕糸の利用を知っていた。商代の蚕糸業は発達しており、商代の墓葬から玉彫蚕が出土した。西周、春秋と戦国時代、養蚕業はすでに普及しており、東西南北の広大な地域に広がっていた。多くの墓葬から大量の玉彫蚕が出土し、形はまっすぐな形、曲がった形、ファンの形などがある。ある墓は絹の残片も出土した。これらの実物資料は、この時期に絹産業がずっと発展していたことを十分に示している。

→棒状の形の例

商 商后期 约公元前14-前11世纪 长3.1厘米 1953年河南省安阳市大司空村出土

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   - **上海博物館**:商周時代の玉器コレクションに、蚕の形をした装飾品が含まれています。

   - **河南省博物院(鄭州)**:中国古代の絹文化に関連する展示の中で、蚕の形をした玉器が見られます。

### **日本の蚕をモチーフにした玉器**

日本では、蚕は絹産業と結びついた重要な存在でしたが、玉器(勾玉など)に蚕を直接モチーフにした例は少ないです。ただし、以下のような関連性が指摘されています。

1. **形状**

   - 日本の勾玉は「胎児」や「月」を象徴するとも言われますが、一部の研究者はその曲線的な形状が蚕の形に似ていると指摘しています。

   - ただし、明確に蚕をデザイン化した玉器はほとんど確認されていません。

2. **博物館収蔵例**

   - **東京国立博物館**:日本の古代玉器コレクションがありますが、蚕を直接モチーフにしたものは少ないです。

   - **奈良国立博物館**:飛鳥時代や古墳時代の装身具を展示していますが、蚕の形をした玉器は確認されていません。

### **結論**

- **中国**では、蚕をモチーフにした玉器が実際に存在し、特に中国国家博物館や上海博物館などで見ることができます。

- **日本**では、蚕を直接デザイン化した玉器はほとんど確認されていませんが、勾玉の形状が蚕に似ているとする説があります。

もし具体的な作品を探している場合は、中国の博物館の古代玉器コレクションを調査することをおすすめします。

※ここまでのところ、かなり正確な情報を返して来ている。別個に中国版のGoogleである検索エンジンである「百度」で調べたものとも、ほぼ相違は無い。DeepSeekも中国のAI検索エンジンだが、百度を参照することは無いし、百度を参照してという指示があったとしても、それは出来ないという答えを返してくる。独自のアルゴリズムで、原資料を直接(?)調べているのだという。

曰く;「DeepSeekの検索機能は、独自のデータベースとアルゴリズムに基づいており、特定の外部検索エンジンに依存していません。したがって、リクエストによって百度の検索結果を参照することはありません。ただし、DeepSeekは、ユーザーの検索クエリに基づいて、インターネット上の公開されている情報を収集し、その結果を提供することがあります。このプロセスにおいても、百度を含む他の検索エンジンのデータを利用することはありません。」

◯そこで更に、動物の牙起源説についてもDeepSeekに訊ねてみた。

Q)勾玉の起源として動物の牙に紐を通して首飾りにしたものが想定されるという説がありますが、実際に猪などの牙を使った首飾りがあるのですか?

A)はい、勾玉の起源として動物の牙(特に猪の牙)を使用した首飾りが想定される説は、考古学的な発見によって裏付けられています。以下に具体的な情報を整理します。

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### **動物の牙を使った首飾りの考古学的証拠**

1. **縄文時代の遺跡からの発見**

   - 日本の縄文時代の遺跡からは、猪や鹿などの動物の牙を使った装飾品が数多く出土しています。

   - これらの牙には穴が開けられており、紐を通して首飾りやペンダントとして使用されていたと考えられています。

2. **猪の牙の使用例**

   - 猪の牙は硬くて丈夫であり、加工が比較的容易だったため、装飾品としてよく利用されました。

   - 特に猪の牙を磨いて形を整え、首飾りにした例が北海道や東北地方の縄文遺跡から見つかっています。

3. **鹿の角や骨の使用例**

   - 鹿の角や骨も装飾品として利用され、牙と同様に穴を開けて紐を通した例が確認されています。

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### **勾玉の起源との関連**

1. **形状の類似性**

   - 動物の牙は自然に曲がった形状をしており、これが勾玉の独特な曲線に発展したとする説があります。

   - 特に猪の牙は、先端が鋭く曲がっている点が勾玉の形状に似ています。

2. **祭祀的な意味**

   - 動物の牙は、狩猟文化の中で力や生命力の象徴として重要な意味を持っていました。

   - 勾玉も同様に、祭祀や呪術的な道具として用いられたことから、牙との連続性が指摘されています。

3. **材質の変化**

   - 縄文時代から弥生時代にかけて、動物の牙に代わって石や玉(翡翠など)を使った装飾品が作られるようになりました。

   - これが勾玉の原型となったと考えられています。

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### **博物館での展示例**

- **東京国立博物館**:縄文時代の装飾品コレクションに、猪の牙を使った首飾りが展示されています。

- **北海道立埋蔵文化財センター**:縄文時代の遺跡から出土した猪の牙の装飾品が見られます。

- **三内丸山遺跡(青森県)**:縄文時代の大規模集落遺跡で、動物の牙を使った装飾品が多数発見されています。

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### **結論**

動物の牙(特に猪の牙)を使った首飾りは、日本の縄文時代の遺跡から実際に発見されており、これが勾玉の起源の一つと考えられています。勾玉の形状や祭祀的な意味は、こうした動物の牙の装飾品から発展した可能性が高いです。博物館で実際の出土品を見ることで、その歴史的な連続性を感じることができます。

→※これは、質問が多分に誘導尋問的であったためにこういう結果が返ってきたのかと思われる。実際、獣牙起源説が我が国で一時優勢だったのも事実だからだ。また一方で、水野祐博士の様な月辰(朔月)起源説は一般的にはなっていないからであろう。しかし本邦の博物館情報も収集されている。

◯ 続いて玉蚕起源説を追究してみる。

Q)シルクロード都市で、中国以外で初めて養蚕を始めたのは和田でしょうが、和田はまた和田玉の産地としても有名です。和田や付近の西域南道地域の遺跡で玉蚕は出土していないのでしょうか?もしなければ類似の頸飾のトップに佩げる玉器はありませんか?

A)和田(ホータン)は、シルクロードの重要な都市として、養蚕と玉器の生産で有名です。しかし、和田や西域南道地域の遺跡からは、明確に「玉蚕」とされる出土品は確認されていません。ただし、この地域では玉器を使った装飾品が多数出土しており、その中には首飾りやペンダントのトップとして使用されたと考えられる玉器があります。

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### **和田と西域南道地域の玉器の特徴**

1. **和田玉(ホータン玉)**

   - 和田は軟玉(ネフライト)の産地として世界的に知られ、古代から高品質の玉器が作られていました。

   - 玉器の形状は、円形、楕円形、動物形など多様で、特に祭祀や装飾用として使用されました。

2. **動物をモチーフにした玉器**

   - 西域南道地域の遺跡からは、龍や鳥、馬などの動物をモチーフにした玉器が出土しています。

   - これらの玉器は、首飾りや衣服に付ける装飾品として使用されたと考えられます。

3. **幾何学模様の玉器**

   - 円形や半月形の玉器も多く、これらは首飾りのトップとして用いられた可能性があります。

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### **玉蚕の出土状況**

- 和田や西域南道地域では、蚕を直接モチーフにした「玉蚕」は確認されていません。

- ただし、中国本土(特に黄河文明や長江文明の遺跡)では、蚕をかたどった玉器が出土しています。これらは絹の生産と深く結びついた文化的な背景を反映しています。

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### **類似の首飾り用玉器**

和田や西域南道地域の遺跡からは、以下のような首飾り用の玉器が出土しています。

1. **円形や楕円形の玉器**

   - 首飾りのトップとして使用されたと考えられる滑らかな形状の玉器です。

   - これらはシンプルなデザインですが、高い技術で加工されています。

2. **動物形玉器**

   - 龍や鳥、馬などの動物をかたどった玉器は、権威や富の象徴として首飾りに用いられた可能性があります。

3. **装飾的な玉器**

   - 幾何学模様や象徴的な文様が刻まれた玉器も、装飾品として使用されました。

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### **博物館での展示例**

- **新疆ウイグル自治区博物館(ウルムチ)**:和田や西域南道地域の遺跡から出土した玉器が展示されています。

- **中国国家博物館(北京)**:西域の玉器コレクションがあり、和田玉を使った装飾品が見られます。

- **ホータン博物館**:地元の遺跡から出土した玉器や装飾品が展示されています。

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### **結論**

和田や西域南道地域では、蚕を直接モチーフにした「玉蚕」は出土していませんが、動物形や幾何学模様の玉器が多数見つかっています。これらの玉器は、首飾りや装飾品として使用されたと考えられ、和田の玉器文化の豊かさを示しています。もし具体的な作品を探している場合は、新疆ウイグル自治区博物館やホータン博物館を訪れることをおすすめします。

→※つまり玉蚕はあくまでも中国本土の遺物だという事なのである。しかしこれは本当なのか?ウイグル自治区の事を矮小化しているのか?それは分からない。しかし新疆の博物館を参照せよというのだから、恐らく玉蚕は西域では出土していないのであろう。???

◯Facebook「古代史研究会」でも、“阿波翡翠”という四国産の翡翠があり、それは硬玉翡翠だと主張している業者がいる。そこでついでに、こういう主張について、DeepSeekはどう解釈するか?を参考までに訊いてみた。

Q)日本では勾玉などの玉器には糸魚川産の翡翠(硬玉)が使われましたが、中国では中世以降にミャンマー産の硬玉が入るまでは和田玉などの軟玉(ネフライト)が用いられていました。現在でも硬玉は新大陸のグァテマラや、未確認ながらロシアとかカザフスタンでしか産出しません。しかし日本の一部の業者が、日本の四国の剣山周辺の吉野川上流で硬玉が取れると宣伝しています。それが軟玉ではなく硬玉である可能性はあるのでしょうか?

A)日本の四国地方、特に剣山周辺の吉野川上流で硬玉(ジェダイト、翡翠)が産出する可能性について、科学的な観点から考察します。

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### **硬玉(ジェダイト)と軟玉(ネフライト)の違い**

1. **硬玉(ジェダイト)**

   - 化学組成:NaAlSi₂O₆(ナトリウム、アルミニウム、ケイ酸塩)

   - 硬度:6.5~7(モース硬度)

   - 特徴:透明度が高く、鮮やかな緑色が特徴。日本では糸魚川産が有名。

2. **軟玉(ネフライト)**

   - 化学組成:Ca₂(Mg,Fe)₅Si₈O₂₂(OH)₂(カルシウム、マグネシウム、鉄、ケイ酸塩)

   - 硬度:6~6.5(モース硬度)

   - 特徴:硬玉よりも不透明で、色は白や緑、灰色など多様。

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### **四国地方での硬玉産出の可能性**

1. **地質学的背景**

   - 硬玉は、高圧低温の変成岩中で形成されることが多いです。特にプレートの沈み込み帯(例:日本の糸魚川地域)で見られます。

   - 四国地方の地質は、主に付加体(プレートの沈み込みによって形成された堆積物)で構成されていますが、硬玉が形成されるための特定の条件(高圧低温変成帯)が確認されていません。

2. **過去の研究**

   - これまでの地質学的調査では、四国地方から硬玉が産出したという確かな報告はありません。

   - 軟玉(ネフライト)や他の鉱物が誤認された可能性があります。

3. **業者の主張**

   - 一部の業者が硬玉を産出すると主張している場合、科学的な分析(X線回折や化学組成分析)が必要です。

   - もし硬玉であると確認されれば、地質学的に非常に珍しい事例となります。

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### **硬玉産出の可能性を検証する方法**

1. **科学的分析**

   - X線回折(XRD)や蛍光X線分析(XRF)を用いて、鉱物の化学組成を確認します。

   - 硬玉(ジェダイト)と軟玉(ネフライト)は化学組成が異なるため、明確に区別できます。

2. **地質学的調査**

   - 産出地の地質環境を詳細に調査し、硬玉が形成される条件(高圧低温変成帯)が存在するかどうかを確認します。

3. **専門家の意見**

   - 地質学者や鉱物学者の意見を仰ぐことで、客観的な評価が得られます。

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### **結論**

現時点では、四国地方の剣山周辺で硬玉が産出する可能性は低いと考えられます。ただし、科学的な分析を行わない限り、確定的な結論は出せません。もし硬玉であると確認されれば、地質学的に非常に重要な発見となりますが、現状では軟玉(ネフライト)や他の鉱物が誤認されている可能性が高いです。

硬玉の産出を主張する業者に対しては、科学的なデータを求めることが重要です。

→※この指摘通り、もし阿波翡翠が硬玉であるとすれば、歴史学的にも地質学的にも大発見であるという事だ。Facebookの古代史研究会の研究者にも阿波翡翠硬玉説を支持する人がいるようだ。もし阿波で翡翠が採れるなら、四国を通る中央構造線にも糸静線のような三重プレート会合が潜んでいる可能性があり、その場合は南海トラフ地震の予知判断にも影響を与える可能性もあろうかと考えられるのである。

◯勾玉は三種の神器の一つ

一時、DeepSeekとの対話を離れて、考察を元の線に戻すことにする。

勾玉といえば、三種の神器の一つである八尺瓊勾玉が超有名だが、三種の神器自体についても、改めてここで整理しておこう。

三種の神器

三種の神器は、崇神天皇以前には宮中に置いてあったが、崇神天皇の時代にレプリカを宮中に置き、本物は下記の神社に納めた。このとき勾玉も宮殿から外に移された。

* 鏡:伊勢神宮

* 剣:熱田神宮

* 勾玉:大和(おおやまと)神社

大和神社の勾玉は大国主命の霊代(たましろ)であるといわれ、大国主命の荒御魂(あらみたま)は大和神社に祭り、柔御魂(にぎみたま)は大神(おおみわ)神社に祭ったとされる。

でその大和神社の由来は以下の通りである。

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大和神社御由緒

日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている。(2000余年前)奈良時代、朝廷の命により、唐の国へ渡って学ぶ遣唐使、その他使臣は、出発に際して、当社へ参詣し、交通安全を祈願された。  また、世界最大最強を誇る「戦艦大和」の守護神とされた。同艦も、昭和20年4月7日、鹿児島県坊ノ岬沖にて轟沈した。その英霊、第二艦隊司令長官伊藤整一命外、2736柱と護衛艦の方々が境内の祖霊社に合祀されている。

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即ち、勾玉は大国主の荒魂だというのである。しかし、この勾玉を大国主=出雲大社の祭神に結びつける観念は、出雲大社の忌部の玉造部が、大社と出雲国造を通して皇室に勾玉を献納していた事を基にしており、大社創建時以降に後付けされたものであると考えられる。

「勾玉」の著作者である水野祐博士は、神器の内の鏡と勾玉が最初に神器となり、後から剣が加わったと見る。そして、鏡が太陽神の天照大神のシンボルであり、勾玉は朔月の;即ち月読命のシンボルだとする。そして剣が素戔嗚のシンボルだとし、むしろ剣こそが出雲系の祭器であると示唆されている。

考古学的にも勾玉が剣に先行していた。

水野博士は、全国に残る玉造(or玉作)の地名や玉作神社(玉作湯神社なども含めて)の存在を数えて、16カ所をリストアップした表を掲げている。(但しその中には、駿河国駿河郡玉造郷と伊豆国田方郡玉作水神社の様に、同じ沼津にある香貫山の両側に相当する;実は両方で一箇所ではないかと思われるものもある。またその表には、越中の糸魚川河口近傍の長者ヶ原遺跡や、佐渡の新穂遺跡や京丹後の奈具谷遺跡や函石浜遺跡などは掲載されていない。一方で興味深いのは、陸奥国玉造郡;宮城県岩出山町という北辺の地名が挙げられている事だ。)

玉器の種類(形状)

勾玉も含めて、玉器と称される貴石・鉱石類で作られる造形物一般を形状で分類・整理しておく。

☆水野博士の分類

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形からみた玉の種類

いわゆる玉といえば、丸く磨かれたものを総称しているのであるが、しか し玉の名称については一定の標準がなく、かならずしも丸いものでなく ても玉とよばれるものもある。本書の表題である勾玉とか、あるいは管玉などは、かならずしも 丸い球状を呈していない。

玉を物質の種類によって分けてよぶこともある。 琥珀玉であるとか、水晶玉であるとかいう類。 あるいは色調によって瑠璃玉といい、玉の模様から蜻蛉玉とか雁木玉とかいう類。 みんな玉について、それぞれの観点から命名され、 よびならわされている。

そこでこのような玉の分類について、学問的に、統一した分類を決めておくことも大切である。 それにはまず、昔から玉とよばれてきたものを、その形状から区別するのがいちばん適当であろ うとおもう。すなわち、玉の形からみると、およそ次の十種に分類される。

①丸玉 球状を呈するいわゆる玉

②平玉 丸玉の両側面をおしつぶしてやや扁平にした玉

③小玉 丸くてきわめて小さな玉

④管玉(くだたま) 円筒状を呈し、竹を短かく切ったような形の玉

⑤臼玉  管玉をきわめて短かく切った玉で、長さが直径以下のもの

⑥棗玉 長い切子玉の稜角をとりさった形の玉で、棗の実に似ている玉

⑦蜜柑玉  丸玉の側面に縦状に凹線をきざみ、蜜柑や南瓜に似た形の玉

⑧ 山梔玉 (くちなしだま)平らな面を共有し、円錐体の側面に縦状の凹線をきざみ、山梔の実に似た形状の玉

⑨切子玉 平らな底面を共有し、断頂は多角錐状か円錐状を呈し、一見してガラスの切籠に似た玉

⑩勾玉 長く彎曲した玉で、多少扁平になる傾向を示すものが多い玉

このように、玉の形状によって十種に分類をしたが、これらの形状にはおのずから系統がたてられる。すなわち、玉の形をした丸玉に長くのばす力を加えると棗玉になり、その棗玉の稜を立てると切子玉になる。 その側面を圧して円筒状にいっそうのばすと管玉になる。そして丸玉の上 下両面を圧迫して平らにして底面をつけると平玉になり、さらにそれを小さくすれば小玉、 小玉の角をとりさると臼玉になり、その臼玉を長くのばせば管玉になる (ここでいう玉の長短・高低 とは、勾玉を別として、すべて玉の孔と同一方向をもって長さ、高さという。直径とは、孔と直 角に交わる方向に測った玉の長さのことである)。---------水野祐著「勾玉」より引用

図は水野博士の上述の説明を、博士自身が図解したものである。

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ところで、水野祐博士は、西北甍学舎の大先輩であり、戦後本格的に“王朝交替説”を提唱された方である。

(面倒なので)Wikipediaの解説を引用させていただく。

「昭和29年(1954年)、水野祐が『増訂日本古代王朝史論序説』を発表。この著書で水野は、古事記の記載(天皇の没した年の干支や天皇の和風諡号など)を分析した結果、崇神から推古に至る天皇がそれぞれ血統の異なる古・中・新の3王朝が交替していたのではないかとする説を立てたが、これは皇統の万世一系という概念を覆す可能性のある繊細かつ大胆な仮説であった。」

崇神を開祖とするのが古王朝、応神のそれが中王朝、継体からが新王朝。(私は三輪王朝、応神以下武烈までの通称河内王朝を第一応神朝、継体以降を第二応神朝と呼んでいる。継体が応神五世の孫ということになっているし、またよしんば継体が単に息長系の越前の豪族であったとしても、仁賢の血を受け継ぐ手白香皇女を皇后としその腹からの欽明が皇統を継いでいるからである。)

さりながら、水野博士の勾玉論には、この交替した王朝のいずれかとの関係が深いのか?というような観点からの考察が乏しい。

それは、著書「勾玉」は昭和43年(1968年)の刊行だったが、元になった学術論文が、兵役後復学した後の昭和22年に書かれたものだったために、後年の王朝交替説を反映していないためだろうと思われる。

博士は、銅鏡は天津神系(皇別・神別)、勾玉は国津神系(神別)、剣は新羅系帰化人(蕃別)に由来する祭器だとしている。勾玉が月読祭祀に関わるとしながら、出雲族系大国主に関連付けているのは、大和神社の御神体が勾玉とされることに影響されたのか?(また彼は、汎アジア的な視点からの、“シルクロードの交易民である和田族=月氏のバイシャである白馬族が極東アジアへ渡来した姿が秦氏であった”というような概念は有していなかったのであろう。)

また新羅は半島統一の勝者であるから、ほとんど亡命者や帰化人は出なかった筈だ。従来、新羅系と言っていたのは、新羅(旧斯羅)より広域の辰韓系や金官伽耶を含む後世に統一後の新羅と総称された地域の、反斯羅部族や新羅の統一を嫌って日本に亡命した人々のことなのである。五十族や出雲族は、反斯羅系の伊西国や牛頭方からの渡来人である。弓月君などは金官伽耶から新羅による併合を逃れて亡命した部族の頭領と考えられる。

もっとも水野博士も、出雲系と月読祭祀系には、後世の錯同があったらしい事は認めていた。しかしそれは神話解釈の錯同によるものではないか?と考えておられたかに思える。

実際は、私が「天孫族考」で分析して来たように、(海人族以降の)渡来系民の祭器は、元は遼の地にあったという辰国(三辰)の日星月の祭器に由来するのであり、天孫族のレガリアが銅鏡・出雲族(黄牛族)のが剣・秦族(白馬族)のが玉器であったと(私は)考えるのである。

そして、偶々秦族の信奉する月読神のシンボルの三日月に代わって、縄文人以来の倭国の従来の宝具だった勾玉を朔月の形と観じて珍重するようになったのだと推理する。

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◯中国と周辺の玉器

もう一度DeepSeekを利用して、本場である中国の玉器について、更に調べを進めてみる。

Q)古代中国の玉器に玉璜という半月状の頸飾があるそうですが、これは中国の何処の遺跡から出土しているのでしょうか?

A) 玉璜は、中国の新石器時代から青銅器時代にかけて広く見られる玉器で、特に以下の遺跡から出土しています:

1. **良渚文化遺跡(浙江省)**  

   - 紀元前3300年~前2200年頃の遺跡で、玉璜を含む多くの玉器が発見されています。良渚文化は玉器製作で特に有名です。

2. **紅山文化遺跡(遼寧省・内モンゴル自治区)**  

   - 紀元前4700年~前2900年頃の遺跡で、玉璜や他の玉器が出土しています。紅山文化も玉器製作が盛んでした。

3. **三星堆遺跡(四川省)**  

   - 紀元前2000年~前1000年頃の遺跡で、玉璜を含む多様な玉器が発見されています。三星堆は青銅器と玉器の両方で知られています。

4. **殷墟(河南省)**  

   - 紀元前1600年~前1046年頃の殷王朝の都で、玉璜を含む多くの玉器が出土しています。殷墟は青銅器と玉器の重要な遺跡です。

これらの遺跡から、玉璜が中国の広い地域で使用されていたことがわかります。特に長江流域や黄河流域で多く見つかっています。

Q)玉璜以外に、分類するなら、どんな形状の古代玉器があるのでしょうか?

A) 古代中国の玉器は、形状や用途によって多様に分類されます。主な形状と種類は以下の通りです:

1. **璧(へき)**  

   - 円形で中央に穴が開いた玉器。祭祀や儀礼に使用され、天や権威を象徴しました。

2. **琮(そう)**  

   - 四角形の外側と円形の内側を持つ筒状の玉器。祭祀や儀礼に用いられ、地や宇宙を象徴しました。

3. **圭(けい)**  

   - 長方形で先端が尖った玉器。儀礼や権力の象徴として使用されました。

4. **璋(しょう)**  

   - 先端が斜めに切られた長方形の玉器。祭祀や儀礼に用いられました。

5. **璜(こう)**  

   - 半月形の玉器で、装飾品や祭祀に使用されました。

6. **琥(こ)**  

   - 虎の形を模した玉器。装飾品や護符として用いられました。

7. **瑗(えん)**  

   - 大きな穴を持つ円形の玉器。装飾品や儀礼に使用されました。

8. **環(かん)**  

   - 円形で中央に穴が開いた玉器。装飾品や儀礼に用いられました。

9. **玦(けつ)**  

   - 円形で一部が切り取られた玉器。装飾品や護符として使用されました。

10. **佩(はい)**  

    - 装飾用の玉器で、様々な形状があります。身に着けるための装飾品として用いられました。

11. **玉人(ぎょくじん)**  

    - 人形を模した玉器。祭祀や儀礼に使用されました。

12. **玉動物(ぎょくどうぶつ)**  

    - 動物の形を模した玉器。装飾品や護符として用いられました。

これらの玉器は、祭祀、儀礼、装飾、護符など、様々な用途で使用され、古代中国の文化や信仰を反映しています。

→※流石に詳細な情報が返ってきます。この様な分類は、中国の専門書にでも当たらねば、私には知り得なかったものです。

Q)中国民族以外の古代周辺少数民族で、チベット族や氐姜などの西方民族でも玉器は用いられていたのでしょうか?またその原石は和田玉が多かったのでしょうか?

A) 古代中国の周辺少数民族、特にチベット族や氐羌(ていきょう)などの西方民族も玉器を使用していました。これらの民族は、玉器を祭祀、装飾、護符などに用い、文化的・宗教的な意味を持たせていました。

### 玉器の使用

1. **チベット族**  

   - チベット族は古くから玉器を使用しており、特に装飾品や護符として用いられました。チベットの玉器は、宗教的な意味合いが強く、仏教やボン教の儀礼にも使用されました。

2. **氐羌族**  

   - 氐羌族は古代中国の西方に居住していた民族で、玉器を祭祀や装飾に用いていました。彼らの玉器は、中国本土の玉器と類似した形状や用途を持つものが多く見られます。

### 原石

これらの民族が使用した玉器の原石は、**和田玉**が主要なものでした。和田玉は、中国新疆ウイグル自治区のホータン(和田)地区で産出される高品質の軟玉で、古代から広く利用されていました。

- **和田玉**  

  - 和田玉はその美しさと硬度から、古代中国や周辺民族にとって貴重な素材でした。特に西方民族は、地理的に近いため、和田玉を容易に入手できたと考えられます。

- **その他の原石**  

  - 和田玉以外にも、地元で産出される他の種類の玉石も使用されていました。例えば、チベットでは地元産の玉石が使用されることもありました。

### 文化的交流

古代中国と周辺少数民族の間では、玉器を通じた文化的交流が盛んでした。特にシルクロードを通じて、玉器やその製作技術が西方に伝播し、西方民族の玉器文化にも影響を与えました。

### まとめ

- **チベット族**や**氐羌族**などの西方民族も玉器を使用していました。

- 主な原石は**和田玉**でしたが、地元産の玉石も使用されました。

- 玉器を通じた文化的交流が盛んで、古代中国と周辺民族の間で技術や文化が共有されました。

これらの点から、西方民族も玉器文化を有し、和田玉を主要な原石として利用していたことがわかります。

→※概ね肯定できる分析内容だと思える。ここまでのところ顕著な少数民族蔑視=西戎観などは見られない。

Q)中国の北方周辺民族で、いわゆる漠北の匈奴や鮮卑とか鉄勒・突厥などでも玉器は流通し珍重されたのでしょうか?また西北部のアルタイ山脈方面の遺跡でも玉器は出土しているのでしょうか?

A) 中国の北方周辺民族、特に漠北の匈奴や鮮卑、鉄勒・突厥などの遊牧民族においても、玉器は珍重され、流通していました。これらの民族は、中国との交易や戦争を通じて玉器を入手し、権力や富の象徴として用いていたと考えられます。

匈奴や鮮卑などの遊牧民族は、中国との接触が深く、特に漢代以降、中国からの贈り物や戦利品として玉器を手に入れる機会が多かったとされています。玉器は彼らの社会においても高い価値を持ち、装飾品や儀礼的な道具として使用されていたようです。

また、西北部のアルタイ山脈方面の遺跡からも玉器が出土しています。アルタイ山脈は古代から多くの文化が交差する地域であり、遊牧民族や他の文化との交流が盛んでした。この地域の遺跡からは、玉器だけでなく、金製品や青銅器なども多く発見されており、これらの文物が当時の交易ネットワークを通じて広く流通していたことが示されています。

特に、アルタイ山脈のパジリク古墳群などからは、玉器を含む多くの貴重な遺物が出土しており、これらの発見は、古代のユーラシア草原地帯における文化交流や物質文化の広がりを理解する上で重要な手がかりとなっています。

したがって、中国の北方周辺民族やアルタイ山脈方面の遺跡においても、玉器は重要な文化的・経済的価値を持ち、広く流通し珍重されていたことが確認できます。

Q)東北部の古代少数民族である扶餘とか高句麗或いは女真族などのツングース系民族の遺跡からも玉器は出土していますか?またそれらの出土玉器は中国製だったのでしょうか?それとも、それら少数民族にも玉器作りの職人が独自に存在したのでしょうか?

A) 中国東北部の古代少数民族、特に扶餘、高句麗、女真族などのツングース系民族の遺跡からも玉器が出土しています。これらの玉器は、中国製のものと地元で製作されたものの両方が存在し、当時の文化交流や技術伝播を示す重要な証拠となっています。

### 1. **扶餘・高句麗・女真族の遺跡からの玉器出土**

- **扶餘**:扶餘は紀元前2世紀から紀元後5世紀にかけて中国東北部に存在した国家で、高句麗の前身ともされる。扶餘の遺跡からは、玉器を含む多くの遺物が出土しており、これらの玉器は装飾品や儀礼的な道具として使用されていたと考えられます。

- **高句麗**:高句麗(紀元前37年 - 668年)は、中国東北部から朝鮮半島北部にかけて広がった強力な国家で、その遺跡からも玉器が多く出土しています。高句麗の玉器は、中国からの影響を受けたものと、独自の文化を反映したものが混在しています。

- **女真族**:女真族(後の満州族)は、12世紀に金朝を建国し、17世紀には清朝を立てた民族です。女真族の遺跡からも玉器が出土しており、これらの玉器は中国からの輸入品と地元で製作されたものが混在しています。

### 2. **玉器の起源と製作技術**

- **中国製の玉器**:中国は古代から玉器製作の中心地であり、高度な技術を持っていました。中国製の玉器は、交易や贈り物として周辺民族に広く流通し、扶餘、高句麗、女真族の遺跡からも中国製の玉器が出土しています。

- **地元製の玉器**:一方で、これらの少数民族にも玉器作りの職人が存在し、独自のスタイルや技術で玉器を製作していました。地元製の玉器は、中国の影響を受けつつも、独自の文化的特徴を反映しています。例えば、高句麗の玉器には、中国のものとは異なるデザインや技法が見られることがあります。

### 3. **文化交流と技術伝播**

- **文化交流**:中国とこれらの少数民族との間には、交易や戦争、外交を通じた活発な文化交流がありました。これにより、中国の玉器製作技術が周辺民族に伝播し、地元での玉器製作が発展しました。

- **技術伝播**:中国からの技術伝播により、扶餘、高句麗、女真族などの少数民族も玉器製作の技術を習得し、独自の玉器文化を発展させました。これらの地元製玉器は、中国のものとは異なる特徴を持ち、当時の民族独自の美意識や文化を反映しています。

### 結論

東北部の古代少数民族の遺跡からは、中国製の玉器と地元製の玉器の両方が出土しています。これらの玉器は、中国との文化交流や技術伝播を示す重要な証拠であり、また、これらの民族が独自の玉器文化を発展させていたことも明らかです。したがって、扶餘、高句麗、女真族などのツングース系民族にも玉器作りの職人が存在し、独自の玉器文化を持っていたと考えられます。

Q) 扶餘や高句麗とか女真族の独自の玉器というのは、中国の物と形状的にもしくは原石的にどんな違いがあるのですか?

A) 扶餘、高句麗、女真族などのツングース系民族の独自の玉器と中国の玉器との違いは、形状や原石の選択、製作技術、文様などに現れます。以下に具体的な違いを説明します。

### 1. **形状の違い**

- **中国の玉器**:中国の玉器は、主に儀礼的な用途や装飾品として使用され、その形状は非常に多様です。璧(へき、円盤状の玉器)、琮(そう、筒状の玉器)、圭(けい、長方形の玉器)など、特定の形状が儀礼的な意味を持っていました。また、動物や植物を模した彫刻も多く見られます。

- **扶餘・高句麗・女真族の玉器**:これらの民族の玉器は、中国の影響を受けつつも、独自の形状を持っています。例えば、高句麗の玉器には、中国のものとは異なるデザインの装飾品や、特定の動物やシンボルを模した彫刻が見られます。女真族の玉器には、狩猟や戦闘に関連するデザインが多く見られることが特徴です。

### 2. **原石の選択**

- **中国の玉器**:中国の玉器は、主に軟玉(ネフライト)や硬玉(ジェダイト)を使用しています。特に、新疆ウイグル自治区のホータン産の軟玉が高品質とされ、広く使用されました。

- **扶餘・高句麗・女真族の玉器**:これらの民族の玉器も軟玉や硬玉を使用していますが、地元で採掘された原石を使用することが多かったと考えられます。例えば、高句麗の玉器には、朝鮮半島北部や中国東北部で採掘された原石が使用されていた可能性があります。原石の色や質感にも地域的な特徴が見られることがあります。

### 3. **製作技術と文様**

- **中国の玉器**:中国の玉器製作技術は非常に高度で、精密な彫刻や研磨技術が発展していました。文様も、龍や鳳凰、雲雷文(うんらいもん)など、中国独自の象徴的なデザインが多く見られます。

- **扶餘・高句麗・女真族の玉器**:これらの民族の玉器製作技術も中国の影響を受けていますが、独自の文様やデザインが特徴的です。例えば、高句麗の玉器には、韓半島独自の動物や幾何学文様が多く見られます。女真族の玉器には、狩猟や戦闘に関連するデザインや、自然をモチーフにした文様が多く見られます。

### 4. **文化的背景の反映**

- **中国の玉器**:中国の玉器は、儒教や道教などの思想や、王権の象徴としての役割が強く反映されています。儀礼的な用途が多く、社会的な地位や権力を示すための重要なアイテムでした。

- **扶餘・高句麗・女真族の玉器**:これらの民族の玉器は、遊牧や狩猟を中心とした生活様式や、自然崇拝、シャーマニズムなどの文化的背景が反映されています。特に、高句麗や女真族の玉器には、戦士や狩人の象徴としての役割が強く見られます。

### 結論

扶餘、高句麗、女真族の独自の玉器は、中国の玉器と比較して、形状、原石の選択、製作技術、文様などに独自の特徴を持っています。これらの違いは、それぞれの民族の文化的背景や生活様式、技術的な発展を反映しており、中国との文化交流や影響を受けつつも、独自の玉器文化を発展させていたことを示しています。

→※ほぼ公平な(少数民族蔑視的な考え方ではない)分析であるものの、原石に硬玉もあるというのは、18世紀以降のものなので、こと古代の話では、弁別しておく必要があるだろう。

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◯魏志倭人伝での勾玉

京都府埋蔵文化研究所のHPに以下の如き記述がある。

>> 「魏志倭人伝』によると魏·呉·蜀の三国を統一した普に、倭国女王壱與が大夫掖邪狗等を遣わし、男女生口30人を献じるとともに白珠5千孔、青大句珠2枚などの貢物を届けたのは、正始8 (247)年か9年のことでした。当時、倭国は古墳時代に入った頃で、白珠は真珠、青大句珠は翡翠の大きな勾玉と考えられています。原文の「句」は「勾」のまちがいとされることが多いのですが、「句」は「勾」の本字であり「かぎ」を意味します。勾玉のあの不思議な形は、体から飛び出てしまう魂をひっかけてそれを引き留める鉤と思われます。逆に外部から侵入する邪霊を防ぐ鉤でもあります。<< (筆者は小山雅人氏)

この「青大句珠」ですが、勾玉の事だろうとは複数の研究者の見解が一致しているようですが、青い石が翡翠かどうかについては異論があるようです。例えば、阿波の蛇紋岩ではないかなどの説が出ているようですね。

また翡翠なら、朝鮮半島では取れないので貴重品扱いだったから、魏への貢進物にした理由がありそうです。なお、南韓(新羅と加羅)で翡翠の勾玉が出土していますが、これらは現地では取れない以上、倭国からの輸出品であったろうと推測されているようです。<<

因みに、臺與の青大句珠が古墳時代初期の物だとすれば、京丹後市にあった奈具岡・奈具谷遺跡にあった当時最大規模の玉造工房製だろうと言われているようだ。もし翡翠の勾玉なら糸魚川あたりの原産品を京丹後に運んで加工したと考えられるとの事である。

→よって古墳時代初期までは糸魚川産の硬玉が採取されていたようだ。これが産出量の急激な減少で、古墳時代中期以降には、軟玉の使用が主に変わって行った。

※もし臺與の青大句珠が硬玉翡翠だとすると、九州には大珠翡翠が入っていなかった時代のものなので、この事から臺與の統治していた邪馬臺国は九州にはなく、山陰以東(但馬丹波〜大和・北陸)で硬玉産地の糸魚川を支配下に置いていた位置にあった筈だという推理から、邪馬臺国近畿説を導く人もあるようだ。

出雲の玉造部の遺跡からは、硬玉は出土せず、原石の殆どが地域内の花仙山産出の碧玉や瑪瑙製の玉器である。という事は、出雲の玉造部は、縄文時代以来の勾玉作りの工人ではなく、杵築に大社が造営されて以降、別の土地から移住させられた工人達であった可能性が高い。

同じ山陰の京丹後の奈具谷遺跡の辺りの玉造人であったら、産出が枯渇に向かっていたとしても必ず硬玉を加工した少数の痕跡が残っている筈だと思う。それが無いのなら、別系統の玉造人であろう。

両面穿孔と片面穿孔 勾玉の紐孔の開け方

上代の勾玉では、紐孔を開ける方法に、両面穿孔と片面穿孔の2様があるが、古い時代の硬玉の勾玉や管玉などはみな両面穿孔で、先ず一方から途中までは舞錐と称する錐を回転させて孔を穿って行き、また反対側からも同様に穿孔して中程で後からの孔が貫通するという方法だった。従ってこの方法で穿孔すると、微妙に裏表の孔の方向性が違っていたりするし、また錐の回転による旋条痕が残るのである。

他方、片面穿孔では矢と称する道具(恐らく最初には鉄鏃が用いられたのであろうか?或いは単に矢頭に類似した形状だっただけか?)を手加減して回しながら穿孔して行き、そのまま貫通させる手法である。孔は一方からずっと同方向へ穿たれて行くので、孔を覗けば真っ直ぐだと判定される。

さてそこで出雲の玉造部だが、これは例外なく片面穿孔である。河内や大和の玉造は皆両面穿孔なので、出雲だけが別の技術集団だったと考えられる。もっとも今の出雲の玉造工人は、その技術が中世後期に途絶した後、幕末に若狭から“せんぞう(千蔵?)”という工人が移住して来て、花仙山の原石を用いた玉器作りを再開したというので、必ずしも今の出雲の工人の技法と、大社創設時の出雲忌部の玉造部の工人のそれとは同一では無いかもしれない。しかし、今もそうだが、出雲国造の神戸だった頃の古代玉造の技法も、共に片面穿孔法なのである。という事は、出雲の玉造部はやはり河内や大和からではなく、若狭などの地域から移住させられた者達か、もしくはその頃新たに帰化した(今帰の)加羅や馬韓の秦氏の(古来からの玉造技法を持つ)工人集団だったかもしれない。

◯加賀や佐渡の玉作遺跡

碧玉自体は、出雲玉造だけでなく、加賀国府台付近や佐渡島(小佐渡山地南部の旧岩首村)でも産出したらしい。加賀の場合、手取川水系の南岸域支流に原石が流れ出し、それが片山津海岸に打ち上げられ、これを原材にして片山津玉造人の集落が形成されていた。

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日本歴史地名大系 「片山津玉造遺跡」の解説

* 石川県:加賀市片山津町片山津玉造遺跡

片山津温泉南方約一キロの台地上(標高二〇―三〇メートル)、通称ウワノにある古墳時代前期の玉類製作工人の集落遺跡。昭和三五年(一九六〇)開田工事に際して発掘され、竪穴住居跡四棟などを検出している。その後の調査で総数約三〇棟の住居跡を確認しているが、多くは未発掘のまま消滅している。発掘した住居跡には、工作用の特殊なピットを備えるものがあった。当遺跡で製作された碧玉(緑色凝灰岩)製の玉類や石製品などの未成品があり、ほかに砥石・たがね・錐形鉄製品など工作具とみられるものが多数の古式土師器とともに出土している。

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片山津玉作遺跡での出土品(古墳時代前期)について;

ここでは勾玉はあまり作っていなかったのか? 勾玉は極く僅かしか出土していない。

主に地元10キロほど先で採石したの碧玉を原材料にしていたらしい。

出土品からは管玉・勾玉・鍬形石・石釧・亀甲形・円盤形・鏃形・笠形・斧形・円筒形などの形態が確認されている。

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※この片山津玉造人は両面穿孔で勾玉や管玉を作っていたのだろう。

出土した鉄製の錐形とは恐らく舞錐の先端であったかと思われる。

そこで、今や死語になってしまった「舞錐」を確認しておこう。

※ 精選版 日本国語大辞典

まい‐ぎり、まひ‥【  舞錐】

〘 名詞 〙

① 三つまたで、矛(ほこ)の形をした錐。酒樽の呑口などの穴をあけるのに用いる。まわしぎり。ろくろぎり。

[初出の実例]「白玉じゃ玉じゃと露をあらそひて 蝸牛の角の先やまひきり〈悦春〉」(出典:俳諧・大坂独吟集(1675)下)

② 軸の上部に穴をあけて紐を通し、その紐の両端を横木に結び、横木を上下することによりひもがねじれたりほどけたりして軸を回転させる錐。針のめどや数珠の穴などをあけるのに用いる。

→この②が古代の舞錐で、横木を上下して紐によって回転させるのが舞子に見えるという優雅な比喩である。①はむしろ②からの連想で命名された物であろう。現用が①なので先に解説されているが、歴史的には②→①であったと思われる。

図は舞錐〈和漢三才図会〉

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弥生時代の火起こし法は舞錐を用いたという。なお、金属製の錐が出来る前は硬い木の先端を尖らせた物を使って、摩擦で火を起こしていたと思われ、舞錐の起源は縄文時代にまで遡るという説もある。

縄文の勾玉は、舞錐の先端には未だ金属が無かったので、硬い鉱石を用いていたのではないか?というのだが、硬玉より硬い岩石があったのだろうか?→実は石英や水晶がモース硬度計に依れば翡翠より極く少し硬い場合7+があるとされている(つまり硬玉翡翠は必ずしも硬度7ではなく鉱石によりいわば7ーもある)ので、縄文の舞錐にはそれらが用いられたのか?という説があるようだ。

私はむしろ柘榴石(ガーネット)=硬度7.5か?と考えている。実はガーネットは、我が国では柘榴石として知られ、比較的多くの土地で産出されていたのである。柘榴石を破砕した磨き砂を金剛砂という。(ダイヤモンドの事ではないのである。)勾玉の仕上げの研磨にも金剛砂が使われた。

ところが佐渡の玉作りについて、以下の記載がWikipediaにある。

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新穂玉作遺跡(にいぼたまつくりいせき)は、新潟県佐渡市にある弥生時代後期の遺跡。正確には旧新穂村地域にある竹ノ花・桂林・平田・城ノ畠の4つの遺跡の総称。いずれも玉の製作施設の跡と推定されている。・新潟県指定史跡。

1960年(昭和35年)に桂林遺跡の調査が開始されて以来、発掘調査が実施されている。具体的な工房を示す遺構は発見されていないものの、製作途中の管玉やその製品、加工道具が大量に出土したことから、管玉製作に専従した遺跡群と推測されている。

原料として赤い鉄石英・緑の碧玉などが知られ、砥石・石鋸・石針などの加工道具によって、原石から打割材を作る→石鋸で溝を掘って細分化する→細分化した原料を砥石で研磨する→研磨した材料を石針などで穿孔して完成させるという製造工程があったと推測されている。なお、穿孔が最後に行われるのは、同遺跡独自の製法とする見方があり、「新穂技法」と命名する研究家もいる。

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穿孔を荒割りの段階で行い、その後勾玉や管玉などに細かく調整していくのは、先に細分化すると孔を穿つ最後の段階で石を砕いてしまう失敗が多いからである。(この為の対策が両面穿孔なのである。)

だから今も工人の残る出雲の玉造でも、当初は最終段階で穿孔していたが、工夫として途中での孔開けに変わって来たという。

さりながら、古代の玉造が片面穿孔で矢と称する道具を使っていたのに対し、佐渡新穂では石針なる道具を使っていたという事らしい。

石針とは具体的にはどういうものか?

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安山岩(サヌカイト)や瑪瑙を用いて石針が作られたといい、実際に再現実験した人もいるようだ。

https://tamatsukuri.yayoiken.jp/t-gakusyuu4.html

→ 草津市の烏丸崎遺跡からメノウの石針が多数見つかっています。太さは1mmから3mmに分布しています。 断面は多くが四角形で三角形のものもあります。いわゆる打製石器で、弥生時代中期初頭に特徴的な石針です。

サヌカイトの石針は、烏丸崎遺跡からは見つかっていません。しかし、穿孔時に使ったと思われる石英の細粉が見つかっています。

佐渡の石針は安山岩製で、角を研磨した磨製石器となります。これは弥生時代中期中頃の石針で、極細管玉を作るためには、管玉の側壁に余計な力を加えないため滑らかに磨く工夫だと考えられます。

佐渡でも細かく粉砕されたメノウの細粉が見つかっており、穿孔時に使ったと思われます。

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小松市の資料館のHPによれば、片山津玉造でも石針は用いられていたようで、黒色安山岩を材料にしていたらしい。

実際には、サヌカイトの原石を爪楊枝程度の細さの棒状に断ち割って先端を尖らせた;本当に針とも言えるような代物である。

(これと同様な形状のものに、今も漢方の鍼灸師が使う石鍼がある。)

※古墳時代になると原石の枯渇で、硬玉製勾玉から次第に碧玉製に変わって行ったのだが、それでも越中新川郡(朝日町)宮崎の浜山玉作遺跡では、姫川・青海川産のいわゆる糸魚川系硬玉を用いた勾玉製作が維持されていたという。硬玉勾玉の需要が根強かった事が推測される。

◯小括

さて延々と勾玉やその原石である硬玉や軟玉・碧玉について考察してきたが、勾玉の起源についての確証は得られていない。

本邦人類学の泰斗である坪井正五郎博士が獣牙起源論を唱えたのに対し、早大の水野祐博士が朔月起源論を主張したのだが、俄に両者のどちらかに軍配はあげられない。

しかし、私の天孫族考の立場からは、古墳時代に玉器を作っていた玉造部は秦氏系の玉作工人であり、彼らは西域時代以来シルクロードの和田の商工民であった(月氏白馬族の一部族民だった)と考えるので、白馬族の月讀信仰を持ち込んだとすれば、いずれの起源にせよ本邦へ渡来後に勾玉を見た時に朔月の表象だと観じ、先住民の文化的遺物を継承したのであったと思う。(縄文人の習俗が古墳時代人に受け継がれた。)

そして、月氏の龢(=和)族の日辰崇拝を反映した鏡の崇拝、クシャトリアである黄牛族(五十猛族=出雲族)の剣鉾崇拝と相まって、三種の神器の観念が成立したのだと考えるのである。

補遺57補足

◯古代の硬玉の産地について

三韓にまで硬玉性勾玉が流布したことから、我が国の分まで含めて、このような多量の勾玉の原石がどこの地の産なのか?が疑問だった。

これに対し、「勾玉」著者の水野祐博士は、目下は未知の海洋ルートで、ミャンマー産の硬玉原石が南韓や我が国に輸入されていたのではないか?と言っていたが、この南方産説は現在では否定されている。

即ち、南韓の勾玉も(加工地が南韓なのか倭地なのかは別にして)全て糸魚川硬玉だと判明している。

◯ノロ玉について

琉球では、ノロ(地域担当の巫女)が就任する時に、王府から神扇(カミオウギ)等とともに勾玉を交付された、とされている。

沖縄県立博物館展示の神扇には以下のキャプションがある。

「ノロの就任に際し、勾玉・神衣装・銀の簪(かんざし)などとともに首里王府から与えられた扇。別名、鳳凰扇・大扇・大唐扇。ノロは正装の場合、その霊力(セジ)象徴と威厳のために必ずこの神扇をたずさえた。」

また他のWEBには、

勾玉はノロ玉といい、ガーラ玉などともいって、ノロが身を飾った玉である。勾玉単独ではなく頸飾りのように水晶などと組み合わせて用いる。ノロが用いる勾玉は聞得大君(きこえおおきみ)周辺から下賜されたものであろう。勾玉は中世まで琉球版図だった奄美大島のノロも用いた、とある。

このノロの勾玉にはハビル玉とも言われるネクタイ状の頸飾もあった。

以上の記述からは、勾玉は王府からの下賜が一般だったかのように見えるが、これは地域統括の大ノロ級の場合で、地方の御嶽などの司祭であるノロなどは、ある特定の家系の女性が世襲する事が多く、新任の若いノロは母親から譲られたものだという。従って新たに王府からの下賜品と両方を持つ者もいたという事か?

このノロ玉の習俗は琉球の中世時代(13世紀頃か?)から始まったという。そして、ノロ玉の材質については、世界遺産登録記念実行委員会の記録で言及されている。

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今帰仁“阿応理屋恵”は沖縄本島の北部全域の最高神女として、今帰仁城を中心とした祭祀を司っていました。この首飾りは代々引き継がれ、一族から寄託を受けました。一番大きな勾玉は黒曜石でできています。この黒曜石は、日本の主要四島のうち一番北にある北海道の十勝から来たものとされており、当時の貿易経路の広範さを示しています。首飾りについている他の勾玉と楕円形の玉は、蛇紋岩、玉髄、流紋岩、石英、蝋石、碧玉、緑色片岩などの石で作られていますが、その起源についてはほとんど分かっていません。一番大きな勾玉が中心にあり、他の石は正面から最も魅力的な形と色が見えるように配置されています。

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ノロ玉については、一部の琉球地元製があるものの、多くは伝世品であり、本土産の移入品だという。

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