補遺57続々「エジプトの勾玉〜眼形護符〜蘇毗国〜神功皇后」
補遺57続々「エジプトの眼形の護符と勾玉」そして「蘇毗国」、更に「神功皇后伝説」まで
◯再度、勾玉の起源論
以前、天孫族考補遺57続「三韓の勾玉ほかについて」で、古代エジプトに勾玉に酷似した黒色眼形の石製の護符があることに論及したが、この“エジプトの眼形と勾玉は形状こそよく似ているが由来や起源は別系統だろう”としていた。エジプトの場合、悪魔の邪視を祓う「神の眼」という考え方があり、これを「ホルス神の眼」と言ったようだ。
簡易にWikipediaで調べれば、「古代エジプトでは非常に古くから、太陽と月は、ハヤブサの姿あるいは頭部を持つ天空神ホルスの両目(「ホルスの目」)だと考えられてきた。やがて二つの目は区別され、左目(「ウアジェト(ウジャト)の目」)は月の象徴、右目(「ラーの目」)は太陽の象徴とされた。」
この内、ウアジェトの眼は、月の象徴なので欠けてもまた満ちることから再生や豊穣の象徴ともされ、ミイラの柩や金製の装束に付けられる護符ともなった。ツタンカーメンの眼形の護符が有名である。
ところが、天孫族(小月氏)と同系の東チベットの蘇毗(ソンパ)国(中月氏と私が呼称する月氏の分派)には、“鳥卜”という卜占術があったらしい。
ある特定の鳥(鷲だとする説やガルーダの象徴である烏だとする説などがある)の天空の飛翔の動線や、時には鳴き声、そして特定の神樹(神木)の留まる位置などによって、吉凶を占ったのだという。
それがやがて、王城(神殿)の門前の禾標(この場合は、左右双方の門番の戈標)から発展して、両側に立てた木柱の先に横棒を渡しておきその左右どちら側に鳥が留まるかで占いを行ったという。
二本の柱に横棒を渡してそこに鳥が居るというのは、トリモ直サズ、鳥居の原型に他ならないだろう。
更に、その蘇毗国(唐の通称「東女国」)の都城のあった昌都(メコン川上流の河岸都市「康延川」の名で文献に出てくる)で発掘された如カロック遺跡(Rukhakhol 遺跡)からは、“石製の「眼」モチーフ”が出土しているのだ。東女国(蘇毗)の宗教文化や社会構造を理解する上で非常に興味深い遺物とされる。
“カロック遺跡の石製の眼形は、材質が、主に滑石(緑泥石)や蛇紋岩といった軟質の石材で作られている。研磨されて光沢があり、意図的に「目」の形に加工されている様だ。その形状は、円形または楕円形の平たい石に、中央に穿孔(穴)が開けられたものになっているようだ。
大きさは直径2~5cm程度で、「瞳孔」を表現したようなデザインが特徴的との事。なお一部には複数の穴即ち二つつ並んだ「目」を持つものもあり、護符的な意味合いが推測されるのである。”
(というのが、ネットサーチの結果だが、残念ながらこの実物画像☆が百度画像なども含めて、どう探しても見つからず、今ひとつ具体的なイメージが得られない。)
護符(お守り)としての機能を掘り下げれば、蘇毗国の宗教だったボン教やチベットの民間信仰では、「邪視(悪い目)」を防ぐために「眼」のモチーフが用いられたと考えられている。
蘇毗国は8世紀には、ネパール国境方面から興った吐蕃に征服され、国教はチベット仏教に変更された。
だが現代のチベットでも、「ドルジ(金剛杵)」や「アムレット(護符)」に「目」の意匠が使われているらしい。
一方で、邪視祓いの眼形の護符という考え方と並んで、シャーマニズムとの関連も指摘されている。つまり、東女国では「鳥卜(鳥占い)」が行われたことから、“石眼も鳥の目を象徴した”との可能性である。
鳥瞰するというのは、人間の運命の予知が連想されるので、眼形は運命予知の眼だとするのである。
このように、眼形は運命予知の象徴であり、また凶運を祓う護符にもなっているわけだ。
このような眼形の意匠は、必ずしもエジプトやチベットという一部地域だけでなく、広くオリエント一般にあったものなのだという。
オリエント出土と伝わる灯火石盤には、油壺の周囲に眼形が描かれたものがある。
そうすると、以前私は、“勾玉が縄文時代に既に本邦では作られていたらしいので、縄文人の狩猟生活を受けて勾玉は獣牙起源論が最有力だ”と推測したのだが、渡来以前の月氏に、眼形護符の習俗があったというのなら、天孫族は、縄文族とは別系統の、眼形護符の一種としての勾玉の意匠を持ち込んだという可能性があるのではないか?との仮説を着想した。
その形状が三日月に似ている事から、月読神を信奉し玉造部を身内に持つ于闐族(秦族)の持ち込んだ意匠が、偶然縄文人の獣牙意匠と重なって、本邦の勾玉珍重が永続したのではないか?と以前は論考したのだが、勾玉が眼形護符の変形だと考えれば、天孫族が八尺瓊勾玉を神器とする由来にも親和するのではないだろうか。
この為にも昌都郊外のカロ(卡若)遺跡出土の石製眼形を確認したかった。しかしこの石製眼形と一緒に出土した物に「眼を強調した土製品(素朴な焼き物か?)」があるらしいので、この地域では眼形のモチーフがやはり護符としての役割を果たしていたのだろうと見当がつく。
もっとも、蘇毗国では仏教の異端であるボン教が国教だったので、いわゆる“ブッダ・アイ”のバリエーションなのかも知れないのだが。
いずれにせよ、勾玉に酷似しているエジプトの眼形護符の系統の意匠や観念は、西伝して欧州にも存在するようだ。一例として“碧眼は邪視に繋がる”というような観念である。“青い目で見つめられると魂を吸い出される”なんていう迷信もあったらしい。
だから日本の勾玉も、こういうグローバルな観点から再検討してみる必要があるのではないだろうか?
◯「蘇毗国」について
上述の如く、蘇毗(sompa,sunpa ,supi とも)国は、武則天が女帝となり唐を周と一時改称していた時代に朝貢して来たので、唐の史書・文献によってかなり詳細に、国情が伝わっている。
そこで、ここでもう一度、天孫族考で言及して来た内容も含めて、蘇毗についてレビューしておこう。
ヒンズークシ山脈〜ヒマラヤ山脈の北麓高原(即ちパミール高原:月氏語でソフィル=日之下からチベット高原=高マガカラ)及び西南低地の罽賓=ガンダーラ及び崑崙山脈北麓〜天山山脈南麓までのタリム盆地にまで広まっていた月氏は、一応の歴史的知識では、匈奴の西征に追われて大小二つの集団に分裂したとされる。いわゆる大月氏と小月氏である。大月氏は天山山脈を越えて北西方面に移動した。小月氏は、崑崙山脈北麓東方で、先住の羌族と混住した。匈奴は食糧の羊が越えられない為に崑崙山脈北麓へ侵攻しなかったからである。これを月氏羌ともいう。(この内、小月氏の一部が黄河を下り、中国東側の遼の地に東遷し、その後更に南下して三韓を起こし、その一部が日本列島へ渡来したのである。)
だが実際は、大小月氏のほかに、タリム盆地に留まり匈奴の非支配民になって、実際上は都市国家として存続したいくつかの部族があり、私はこれを俘囚月氏と呼ぶ。
更に、崑崙北麓には、元からの月氏龢族(葱芘族;羌族の呼称では、葱茈羌)も相当数が、匈奴の侵攻を強力に阻みつつ存続していた。これを私は中月氏と呼ぶ。
羌族もそこに混成した月氏羌族も、また葱芘族も、漢に連携して匈奴に抵抗した。ところが、前漢を簒奪した王莽の時代になると、少数民族政策が転換されて、苛斂に徴税を要求されるようになる。この政策は後漢になっても継続されたので、羌族や葱芘族は、王莽の新や後漢に頑強に反抗した。
この頃の葱芘族を、後漢側では婼羌とも呼んだ。若羌でも良いのに女偏が付いているのは、葱芘が女王国であったからである。
若羌=ルウチャンというのは、その頃匈奴の衰勢に乗じてタリム盆地に南下してきたチュルク系ウィグル族が、この葱茈と月氏羌族が相当に強力な部族と認識していて強い(ルウ)羌族と呼んだことに由来するようだ。
後漢側でも、この葱芘族も羌族の一部も、ともに元は月氏だったという認識は持っていたらしい。月氏羌族というのは、後漢側の呼称でもあったからだ。
一方で、後漢には、バクトリア方面に広がって五つの土侯国に分かれていた大月氏が朝貢していた。
後漢が滅んで魏となり三国時代となると、タリム盆地にはますますチュルク系民族が侵攻して来た。主に突厥である。
この頃になると中月氏の葱芘族は蘇毗族と呼ばれるようになり、元来の原住地であるチベット高原に複数の小国家を形成する。中国で隋が南北朝統一をした頃に当たる。
それらの内、比較的広大な版図を有したのが、西チベットの象雄国と東チベットのスンパ(蘇毗)国だった。
この二つの中月氏国はともに女王国だったので、その頃南北朝を統一した隋は、象雄国を西女国と呼び、蘇毗国を東女国と呼んだのである。(但し唐の時代になると象雄国は吐蕃に征服されてしまったので、唐では西女国は、もっと遠方のインド沿海の何処かの島国やアラビアにある国だという伝説が生まれた。)
※ここまでは、従来の天孫族考で論及して来た通りである。
◆蘇毗国の実態
蘇毗国(蘇波)は、現在のチベット東部の昌都地域から青海省・四川省西部にかけて存在した;女性優位の王国である。都城は“康延川”といい、これが今の昌都付近であった。ここは瀾滄江(メコン川の上流)沿いに位置していた。昌都付近を都とした蘇毗国は6世紀末〜8世紀初頭である。これは丁度隋から初唐にかけての時期である。吐蕃は7世紀からチベット統一に乗り出していて、先ず拉薩などの中央部〜西チベットが征服された。蘇毗国の併合が遅れたのは、蘇毗族系諸国の中で最も強力な兵部を有していたのと、吐蕃が北方の吐谷渾などを征服するのに手間取っていたからであろう。
※蘇毗とは蘇霊日即ち“日神の足下”=和訳すれば“日之下”。
蘇毗国が、武周(則天武后の就位した唐の一時代)に朝貢したのは、共に女性首長の国同士だったからだという事で、唐の力を借りて背後の吐蕃に圧力を感じさせようとしたからである。蘇毗国朝貢の模様は「資治通鑑」に載る。
蘇毗国の東女国たる所以は、新旧の「唐書」や「通典」などの文献に記載されている女性優位ぶりによる。
その蘇毗国は女王が統治し、官僚として「高官」や「酋帥」などの名が文献上にあるが、政治を行うのは全てこれら女性であった。また新唐書によれば、国内に80余の分城を持っていたが、そこの行政長官もまた女性だったという。
女王の夫は「金聚」と呼ばれ、王の内々の補佐役でもあったが、政治の表向には出て来なかった。しかし金聚は兵権を握っており、戦時に働くほか外交にも従事した。従って即天武后に朝貢した時には、男女の遣唐使が就役したとみられる。(この場合は正使が女性で、副使が男性だったのだろうと想像される。)
そして金聚の金は金属器即ち武器を意味し、聚は兵部集団を意味したらしい。つまり金聚とは本邦流にいえば兵部卿の意味合いにでもなろうか?
更に史書の記す東女国の政治・社会事情を見てみよう。
女性の高官たちが、それぞれの官職種を分掌していたらしい。だがその詳細や職種分掌の実態については記述が残されていないようだ。
東女国では、西女国(象雄国)同様にボン教が布教されていた。但し、ボン教は仏教の一派とはいえ、多分に土着的なシャーマニズム的信仰と混淆していた。それは、山や河川などの神格化など自然崇拝の要素が大きかった。特に山神崇拝が特徴的で、象雄国でもそうだったが、聖山信仰を持っていた。(→これが本邦まで続く龢族の聖山降臨神話の源泉になっている。)
更に蘇毗国で特徴的なのが、鳥卜なのである。先述したように、①鳴き声②飛翔パターン③神木への留まる位置、などで吉凶を占ったと、「通典」が記録している。
但し「通典」には、鳥占いに使われる鳥は、鷹や烏など特定の鳥なのか?それとも、直近に飛んできた鳥でよかったのか?などの詳細は記録されていないようだ。
吐蕃に征服された後は、吐蕃が国教化した拉薩の司教座を中心にしたチベット仏教が広宣されて、ボン教は東チベットから後退した。(だが、後述のように、蘇毗国から四川省奥地に亡命した丹巴族(ガンゼ蔵族自治区)には、ボン教が残っている。また聖山信仰も依然残されている。
社会体制の特徴は、母系社会であったという点である。これは支配層のみならず、蘇毗国の全階層で共通であった。
もっとも支配階級は女王とその宗族;つまり龢族上層であった。
相続も、男系にはその資格が無く、母系で行われた。
女性が家庭や社会・政治・経済の表を仕切っていたのだが、男性は軍役や狩猟に従事した。(新唐書)
◆碉楼
もう一つ、蘇毗国の特徴に石造建築がある。これが碉楼(チョウロウ;石造りの塔状建築)で、現在も昌都地域に残る遺構と関連づけられている。 なお、碉楼は先述の四川蔵族自治区ガンゼ丹巴県にも多数残っている。この碉楼は、望楼兼籠城施設で、元(蒙古)の侵攻時やまた近くは清朝の軍隊との戦争の時にまで用いられ続けて来た。丹巴の人たちは、今は母系制ではないが、かつて自分達は女王の支配する国から逃げて来たという伝承を共有する。ここがまた有名な美人谷という地域である。
「碉楼は、かつては蘇毗国の分城であった」という説を唱える人もいるようだが、碉楼は城というほどの規模のものは少ない。多くは十人内外が閉じこもり抵抗する設備でしかない。しかし、東チベットには、小規模な城閣ともいえる石造建築があり、これをも碉楼と言っていたという説もあるようなので、この城閣が、蘇毗国の八十四分城の一つである可能性は否定できない。
◆宗教的遺物と信仰
特徴的な出土物がある。
①動物骨(羊・ヤク): 祭祀行為(供犠)の痕跡。ボン教の犠牲祭(動物供犠)と類似している。
②石製の「眼」モチーフ: 護符として使用された可能性のある物(後のチベット仏教の「アムレット」に通じる)。
③土偶(女性像): 豊穣の神や女王神を表現したのだとする説が出ている。
●眼のモチーフについて
カロック遺跡(昌都郊外)の「眼」モチーフの特徴を調べてみる。
①形状と材質
●形状
円形または楕円形の平たい石に、中央部に穿孔(穴)が開けられている。大きさは直径2~5cm程度で、穴は「瞳孔」を表現したようなデザインであるらしい。
また一部には複数の穴(2つ並んだ「目」と思われる)を持つものもあり、守護的な意味合いが推測される。
●材質
主に滑石(緑泥石)や蛇紋岩といった軟質の石材である。研磨されて光沢があり、意図的に「目」の形に加工されている。
②用途と象徴性
●護符(お守り)としての機能;ボン教やチベットの民間信仰では、「邪視(悪い目)」を防ぐために「眼」のモチーフが用いられたと言われる。現代のチベットでも、「ドルジ(金剛杵)」や「アムレット(護符)」に「目」の意匠が使われている。
●シャーマニズムとの関連;東女国では「鳥卜(鳥占い)」が行われていたことから、“鳥の目”を象徴している可能性も指摘される。
◆墓制・副葬品と社会構造の関連
墓制は石棺墓で、複数人埋葬が確認され、これは母系家族の存在を推理させる。
副葬品の偏りからの推理出来るのは、女性墓からは装飾品や祭祀具、男性墓からは武器が主体なので、性別役割の分化を反映したものだろうという事である。
『新唐書』の「女王が統治し、金聚(男性)は補佐した」という記述と、女性墓の副葬品の豊富さが整合している。
「鳥卜」に関係しているものと考えられる鳥形青銅器が出土している。
なお出土品に今のところ、文字は確認されず、東女国が独自の文字を持ったかも不明である(吐蕃文字以前の文字が存在する可能性を言う学者もあるのだが。)
月氏に普及したカロシュテー文字が使われていた可能性も全く無しとはしない。しかし出土品にはその痕跡は無い。或いは、吐蕃征服後には吐蕃文字が使われたので、以前の文字の使用は禁止され削除されたという可能性もあるだろう。
この方面については、国際的な研究として、チベット考古学の権威であるジョン・ベレッツア(John V. Bellezza)ヴァージニア大学教授の調査が一時進展していたのだが、チベット東部は政治的に敏感な地域であり、発掘調査が制限された場合もあって、研究の停滞が言われていた。だが最早教授も高齢となりその後の結果は聞こえてこない。
◆動物供犠
ボン教における動物供犠(牲祭)の対象としては、羊(ヤギを含む)とヤクが最も一般的だが、牛や鹿も儀礼的に用いられた一部の証拠があるようだ。但し、その役割や頻度には違いがあり、地域や時代によっても変化が見られるという。以下に簡単に纏めてみる。
ボン教の供犠の基本:羊とヤクが中心。
ボン教の儀礼では、羊(ルー:lug)とヤク(ドリ:g.yag)が最も神聖視され、それぞれ次の理由で優先された。
●羊
穢れを清める力があると信じられ、「ルーサル」(羊の供犠による浄化儀礼)が最も重要視された。
--------『ズィド』(ボン教の儀軌書)には、白い羊が神々への捧げ物として頻繁に登場するとされる。
●ヤク
力と富の象徴と見做され、王室や大規模な祭祀に於いて用いられた。
後世の吐蕃時代の碑文(ラサの『ティソン・デツェン王碑』)などにも、ヤクの供犠が記録されている、との事。
供犠動物の選定理由;
ボン教で羊とヤクが重視された事情には、以下の要因が挙げられる。
1、遊牧文化の影響
チベット社会では羊とヤクが家畜の中心であり、これら経済的価値が高い動物を神に捧げることで、儀礼の効力を高める事ができると考えられたらしい。
2、色の象徴性
“白い羊”は「清浄」、一方黒いヤクは「力」を表し、儀礼の目的によって供犠が使い分けられた。
3、神話的根拠
ボン教の創世神話では、最初の人間とニ動物(羊・ヤク)は同一の卵から生まれたとされ、神との結びつきが強いと信じられていた。
以上の供犠に関わる考古学的・文献的な証拠は次の通り。
●カロック遺跡(昌都)からは、羊とヤクの骨が祭祀跡から出土(6~8世紀)。鹿の骨も出ているがごく少量。
●『敦煌吐蕃文献』に、「ルーサル(羊供犠)の儀式」の詳細な記述があるという。
●『旧唐書』吐蕃伝 には、「吐蕃人は白い羊を神に誓う」との記述があり、ボン教の影響が指摘されている。
◆供犠動物に牛と鹿は含まれるのか?
特に、ゾロアスター教の影響下にあった黄牛族では、牛の供犠が一般的だった。また龢族は鹿を聖獣視していたとの説があるので、このニ動物について、蘇毗国の事情を考察した。
中国の事情に詳しい、データサーチのDeepSeekに尋ねてみた。
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Q)東女国には、牛(普通の牛)の供犠はあったか?
→A)牦牛(ヤク)と牛との区別
- チベット高原ではヤク(野生種はドゥン/g.yag dong)が主流で、普通の牛(バ/lang)はむしろ稀lな存在でした。
- 農耕地域(タリム盆地〜四川・雲南周辺)では、牛(黄牛)の供犠が行われたが、ボン教の中心地(チベット西部)ではほぼ確認されていない。
- **文献上の記録**
- ボン教の古典『シェルキング』(金翅鳥神話)では、**牛の頭部を捧げる記述**がありますが、実際の考古学的証拠は乏しいです。
-
→※これは蘇毗国が黄牛族の国では無かった間接的な証左である。
Q)東女国で鹿(シカ)の供犠の可能性はあるか?
→A)鹿は、**羊やヤクに比べると供犠としての役割は限定的**ですが、以下の点で注目されます。
- **シャーマニズムとの関連**
- ボン教以前のチベット原始信仰では、**鹿は精霊(サダク/sa bdag)の乗り物**とされ、狩猟儀礼で捧げられた可能性があります。 例えば、**カン・ティセ(聖山カイラス)周辺**の岩絵には、鹿を射る狩人の描写があり、儀式的な狩猟を示唆します。
- **王権儀礼での使用**
- 吐蕃初期の王墓(例:**プルギェル墓群**)からは、**鹿の角や骨**が副葬品として出土しており、王の霊魂を守護する役割があったと推測されます。
→※吐蕃は月氏ではなかったという間接的な証拠ではないか?
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◯月氏三族の王権
ところで、東女国と言われた蘇毗国(ソンパ)では、上述のような女性中心の政治体制になっていたらしいが、蘇毗が蘇毗羌と言われて、崑崙山脈北麓(後世アムドと言われた地域を含む高原地帯に居た頃に、蘇毗(龢)族は、既に女性優位であった。そこでは女王(正王)がいて、もう一人居地を異にする副王がいたらしい。副王も無論女性である。副王が、正王直下の女性高官と違うのは、女王が崩御すると、直ちに副王が新たな女王に就位するという事である。正副の女王は、宗族ではあったが、必ずしも直系親族では無かったのである。ある副王が正女王に即位すると、龢族の一族の高位者(全て女性であった)が集まって、副王を選んだ。こうしておく事で、女王崩御後の政治的混乱を回避するような仕組みであったらしい。言い換えれば、副王は直系親族では無い“王太子”の如き地位であったということになる。
では女王が崩御して副王が即位した時に、金聚の兵権はどうなったのか?
副王に夫がいなかったりした場合と、既に夫がいた場合では異なるだろう。通例は、既婚者が副王になったので、一応夫がいるのが通常の場合となる。この場合、副王が正王になると、その夫が新たな金聚となって、旧金聚の兵権を引き継いだものらしい。
しかし、この正副王併立は、蘇毗族が、東チベットの昌都を都にするソンパ国(東女国)となった時にも引き継がれていたのかどうか?これは究明されていない。唐書に記載がない事から、東女国では、女王崩御後は、予め予定されていた後継女性が女王位を継いだとしか分からないのである。
時に、月氏には高原地帯の龢バラモンのほか、平原に降りたクシャトリアの黄牛族や、バイシャ階層の白馬族がいたのだが、このニ部族の王権構造については、詳細が伝わらない。
黄牛族は戦士階級であり、いわば龢族の金聚が王権を奪取して成立した体制と考えられ、この為正副王とも男性であった。
但し、正副王とも、后妃は、龢族から降嫁を受けるか、黄牛族側に取り込んだ龢族血脈の保持者(置き龢=息長)の女性と婚姻して、支配の根拠である“血統の神聖性”を獲得したのである。
ところが白馬族の王の正副は、他の二族とは異なっていた。つまり正王はほぼ男性になっていたらしいが、副王は女性だった。だが副王は中継ぎであり、一族内で予め選ばれていた男子が成長後は、その男子に譲位したと見られる。また白馬族の場合、副王は正王と全く独立した存在というのではなく、実は副王は王后だったのかもしれない。
この場合は、我が国古代でも見られたように皇后の中継ぎ執政という形態であったとも考えられる。また白馬族の場合、王位継承には龢族女王の承認が必要であったという。一方、独立性の高い黄牛族では王位継承について龢族女王の承認は不要だった。通告だけでよかった。
(この辺りの伝承について書いた本があった筈だが、既に2年ほど前に終活で廃棄してしまったので、何で読んだのか?は、記憶が無いのである。従ってこれ以上は目下は未詳である。)
◆雲南の少数民族・摩梭(モソ)族について
文化人類学学習者の間では、雲南省の少数民族で、未だに母系制社会を維持している摩梭(モソ)族が有名である。
この摩梭(モソ)族と、女性優位の社会構造を持っていた初唐期のチベットに存在した蘇毗国について、比較検討してみよう。
摩梭族(モソ人)と蘇毗国(東女国)の関係については、「母系社会」「女性優位の社会構造」などの類似点から往々にして比較されることがある。だが、直接的な民族的同系性を証明する証拠は現段階では不十分だとされる。以下に、ネット検索で得られた摩梭族(モソ人)の情報を整理してみる。
①居住地:中国雲南省・四川省の境にある「瀘沽湖(ルグ湖)」周辺。
②民族分類:中国政府の公式分類ではナシ族」の一支系とされるが、ナシ族とは異なる独自の言語(モソ語)と文化を持つ。
③社会構造:母系制社会(「走婚制」と呼ばれる非婚の母系家族制度)。走婚とは本邦で言う妻訪い婚である。
家長は女性(「祖母」または「母親」)が務め、財産は母系で継承される。
男性は「舅舅(母の兄弟)」が家族の世話役となる(父系の「父親」の役割が薄い)。但し子供は明瞭に自分の父親を知っていて誰の子か分からないと言う事はまず無い。
④ 宗教 :ダバ教(チベット仏教と土着信仰の融合)を信仰する。祭祀を司るのは、「ダバ」と呼ばれるシャーマンである。
今では、摩梭族(モソ人)はナシ族やイ族ではなく羌族系(古羌人)と言われる。ガンゼ蔵族は今は父系制だが、摩梭族の方は今も母系制の部族として知られている。
しかし、四川省の蔵族自治区から、更に500キロ以上南方に離れているので、相互の直接的な関係性は薄い。
蘇毗族も蘇毗羌とも呼ばれて、羌族と共生していた。しかし摩梭族は、どうやら、チベット経由で(左回りで)雲南に南下して来たのではないようだ。
羌族の原郷である、青海省〜甘粛省の山間部から、山伝いに四川省を抜けて、はるばる雲南にたどり着いた。
しかし古代羌族自体には、母系制もしくは女性首長の伝統は無かったと考えられるので、この部族はやはり古代の小月氏の一族であり、蘇毗羌に合併してチベット高原に退避したのでも、東遷して三韓に行ったのでもない、第三の道を選んだ部族ではないかと考えられる。実際、ガンゼ蔵族自治区の近くには、四川白馬族の自治区もあり、ここの白馬族は古代の小月氏の一部族でもあった白馬羌族だったと考えられ、それが南遷して来たと想定されているからだ。従ってその頃、(漢書の表現を使えば)葱茈羌族の一部が白馬族とともに南下して、白馬族は四川省北西の山地(いわゆる大峡谷地帯の一部)に留まったのに、葱茈羌族の分派らしき摩梭族の祖先たちは更に南下して、遂に雲南省にまで至ったのではないだろうか?
伝承によれば、摩梭族の南下の契機は秦の中国統一で、その帝国支配に屈したくなかったからだという。
そうすると、小月氏の中から黄河を下り東遷した部族が出たのに少し遅れて(残っていた葱茈羌の一部が)南遷して行ったのではないかと推理される。
周囲の少数民族には彝族が多いが、摩梭族は彝族ではないようだ。
※彝族(旧族名: 夷族、倭族), 拼音: Yízú)は、中国南西部の少数民族。チベット・ビルマ語族。
シルクロードの様な東西交易路については、メーンのタリム盆地経由のルートのほか、南西シルクロードと言われる茶馬古道の様に、雲貴〜東チベットの経路などが考究されて来た。
しかし文化の伝播ルートには、青海地域〜四川奥地の長江源流地帯〜メコン川上流という縦(南北)のルートがあったことが指摘されている。これが、「蔵羌彝族文化産業回廊」である。
古代このルートを通って、東の中華帝国や西の吐蕃帝国などの圧政を嫌って、少数民族が逃避し隠棲したのである。
ガンゼ蔵族自治区丹巴県やその近くの白馬族自治区には、日本の早稲田大学など複数の大学の文化人類学や古代史学の研究探検隊が入って、フィールドワークを重ねているようだ。
早大研究班などは、丹巴の古民家の構造を調べてその家族構成の特徴などの探求も行っている。そんな細かいテーマに着手しているのに、肝心の“丹巴族が蘇毗国の末裔であり、つまるところ大和民族とルーツを一つにしている”という事が知られていないので、“珍しい古習俗を遺す辺境少数民族”という観点からしか、彼ら(その少数民族)を捉えることができないのである。
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◆ガンゼ蔵族自治区の丹巴県の丹巴の地名考
蘇毗thumpa→tampaの転訛だったと考えられる。
太陽神phithoRu→mitraミトラ神と転音しているのが参考になる。
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◯天照は男神か?
このように、蘇毗国の事情をクドクドと述べて来たのは、この国が、我が国の天孫族皇室と同系の龢族の国だったからである。
昨今、“天照は女神だったから最高神ではなく、男神(らしい)高皇産霊が実は最高神だった筈だ”とか、“天照は女神では無く、元々は男神で、記紀編纂時に持統女帝に敬意を表して女神に変えたのだ”とかいう議論がある。
しかし、龢族が高天原たるヒマラヤ北麓高原に蟠踞していた時には、全くの女系社会だった筈なのだから、天照が女神である事には、なんの矛盾も無いのである。
従って、我が国と関連の深い大伽耶(高霊加羅)の建国神話にも、女性の王祖が登場するのである。
また本邦最初の女帝は推古天皇であるが、推古即位の事情には、河内王朝時代や、継体〜欽明に至る時代のような王子らによる強烈な皇位継承争いの話は伝わらない。つまり天孫族皇家内に於いて、女性大王の就位は驚天動地的な奇異なものではなく、諸卿諸官に大きな異議なく受容されたものと考えられる。これは、上古の歴史的記憶として、天孫族祖先は女性首長を戴いていた事があるという共通認識が存在したからではないだろうか?と、私には思えるのだ。
○神功皇后伝承は天孫族の古代に女系優位の時代があったことを示唆したものだったのかも知れない。
昨今、神功皇后は架空の存在であり、天孫族は古代に女性優位の時代があったことを示唆するために創作されたものだという説がある。それは実は、持統や元明女帝の存在理由を補強する論理でもある。
一方で、応神天皇の超然性・神格化を強調するために、生母の息長帯日媛を、それに相応しく神格化したのだろうという意見もある。この場合は架空というのでなく、実在する応神の生母を潤色しスーパーウーマン伝説を“盛り込んだ”のだ!というのである。
しかし神功皇后と武内宿禰の関係は、あたかも蘇毗国の女王と金聚の関係を彷彿とさせる。
奈良時代の初頭までは、古代龢族の知識が、細々とは伝わっていたのだろうか?
◯誰が神功皇后を歴代天皇から外したのか?
日本書紀では、神功皇后紀を、大王と同様に一書独立させている。仲哀と応神の間の、いわば天皇の扱いである。
江戸時代までは,神功皇后は女帝の扱いであり、皇統譜の歴代の一人:第15代天皇だった。
それが歴代から外されたのはいつの事だったのか?
私は、“これを大正15年の、当時摂政の宮だった裕仁親王(後の昭和天皇)の指示によるものだ”とする説があり、そうだと理解している。
同年に、南朝の長慶天皇の歴代への繰入という事態があった。これは長慶天皇は即位していない幻の天皇とする説があったのだが、その大正年間に新たな史料が出て来て、長慶天皇の即位の事実が確認されたのである。この認定を承認したのは、裕仁摂政であった。
でその時に、崩御したばかりの大正天皇(裕仁は即位前)に敬意を表して、従来の123代である大正天皇の代位数を変えないようにする為、神功皇后を歴代から外して大正天皇の代数を変えないようにしたとの都市伝説が生じたのである。
※実際には、大正時代の複数の文献には、今上天皇(大正天皇)は第122代とする記述がある。そして長慶天皇を歴代に加えた結果、大正天皇は123代という事になったので、上述の話は虚偽であると判る。
だが、神功皇后は、明治時代までは一部史書(『常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』)で第15代天皇、最初の女帝とされていた。だが、大正15(1926)年の皇統譜令(大正15年10月21日 皇室令第6号/10月21日官報号外1頁)に基づき、皇統譜に於いて正式に歴代天皇から外されたのである。この皇統譜を承認したのは、摂政である裕仁太子だった。
※であるなら、歴代が一代減るのだから、大正天皇は122代のままで良いはずなのに、123代になったというのは、長慶天皇だけでなく、この時もう一人歴代に加えられた天皇がいた筈だ。これは誰だったのか?(近江朝の大友皇子は明治3年に既に歴代天皇に加えられ、弘文天皇と追諡されているので、それではない。)
これは、大正15年以前の皇統譜が閲覧できないので、目下不明である。
しかるに先の伝説発生の裏の理由として、摂政裕仁太子が、大正天皇皇后(貞明皇后)が、皇位継承に嘴を挟む危惧を感じた(皇太后の摂政位奪取の企みを抑止しようとする意図があった)為という流説もあったのである。
大正15年、大正天皇崩御直後、摂政の宮たる皇太子裕仁を飛ばして秩父宮を即位させ、皇太后が摂政するという垂簾の政の企図があったというのだ。それは皇太后節子の、“秩父宮への三種の神器譲渡の指示”という「事変ともいうべき事態」の出来である。元老重臣・宮内省幹部が気づいて密かに阻止したらしい。
これは、長く続く“昭和天皇と貞明皇太后の確執の噂”の始点であった。
昭和天皇が皇太后を恐れていたのは周知である。
裕仁親王が皇太后節子の実子では無いとの流説があった。大正天皇には愛妾ともいう元女官のB女がいた。皇太子となった長男裕仁は節子の実子ではなく、B女の産んだ子であるという風説が流れたのである。つまり節子の実子親王は、秩父宮・高松宮・三笠宮の三人だというのである。だがこれは、デマゴギーであり、多くの人が裕仁の実母はやはり節子であると認めている。
しかし、節子は自分の気が最も合うというので秩父宮を偏愛したのである。
秩父宮が病気になった時にも、皇太后は成田山新勝寺に平癒祈願に行啓している。これは、明治以降(実際は大正期からだが)天皇家は神道の始祖だとして、崇神抑仏が天皇家のモットーにされていたから、この皇太后の崇仏行為は昭和天皇の激怒を買った。
これに先立ち、昭和天皇が未だ大正天皇の皇太子の時の事。皇太子妃に東久邇宮家の良子女王(後の香淳皇后)と婚約させるという宮内省の方針に、皇后節子が反対したというのである。これは、宮家から妃を迎えると、そこに生まれる親王(実際は後の平成元号の天皇である明仁)が異議も出ない皇太子候補になってしまい秩父宮を皇太弟にして皇統を継がせたいと願う皇后節子の野望を砕くからである。
節子は元摂関家の九条家の姫だったが、九条家は江戸時代に継嗣が途絶えた時に皇別摂家である鷹司家から養子に入って継いでいた。つまり九条家も皇別摂家に準じる天皇家の男系に繋がる家柄であった。五摂家筆頭格でもある。
従って、節子は大正天皇が脳病で執務不能になった時の摂政には自分がなることを画策したというのである。これは神功皇后の故事を下敷きにして、裕仁を廃太子して、未だ若き秩父宮を大正天皇の後の天皇に就け皇太后が後見するという意図だったらしい。これは流石に成就されず、大正10年に皇太子裕仁が摂政となった。
遡って皇太子裕仁の妃選定の時に生起したのが、いわゆる“宮中某重大事件”である。良子女王には目の色覚異常があった。(これは後に昭和天皇自身が肯定している。)この事を理由にして、良子女王の皇太子妃入内を阻止するという意向を、元老の山縣有朋らが唱えたのがこの事件である。(しかし、こんな禁中に属する話が、どうして臣下に漏れ出したのか?これは裏で紐引いていたのが、皇后節子だったからだと思われる。)
それは、先述の如く、“皇太子+宮家の姫”では、将来生まれる皇子が、藤原家系の節子が産んだ秩父宮を血筋的に凌駕してしまうからである。これは正しく、奈良時代の長屋王と首皇子(聖武天皇)との確執に酷似してくる。長屋王は父母共に皇族であり、首皇子は生母が藤原不比等の娘だからであった。
また昭和天皇の御代になってからも、2・26事件の時に、クーデターを起こした青年将校に呼応した如く、東北旅行中の秩父宮が急遽羽越線〜上越線経由で帰京するという事件があり、この帰路途中の車内に右翼の東大教授が途中乗車して何事か進講したともいう。秩父宮を呼び戻したのは反乱派の黒幕・皇道派の真崎甚三郎大将であったとされる。反乱派は昭和天皇を退位させて、秩父宮に譲位させようと図ったのである。だが真崎に指示を出したのは、皇太后であるとのまことしやかな噂があった。
また終戦直後にも、敗戦の責任を取らせて昭和天皇を退位させ、秩父宮に譲位させる事を皇太后が公然と主張した。
この後昭和51年、貞明皇太后は崩御したが、そこで遺書が発見される。そこには依然として神器を秩父宮に渡すという遺志が書かれていた。これは、暗に皇太子明仁(平成元号時の天皇:今の上皇)を廃して、皇統を秩父宮に譲らせたいという希望の表明だったと想像される。これは勿論、昭和天皇が却下し、政府も同調しなかったので、神器は動座しなかった。
だが、この話は尾を引いて、皇太后の筆頭?女官だったI女が、そのまま皇后宮職に移ったのだが、彼女こそ美智子現上皇后を平民出身だからといびって精神不安定状態に追い込んだ張本人である。彼女は、宮内庁の侍従たちからは、宮廷の魔女とさえ呼ばれた。
この辺りのことは、明治学院大学の原武史名誉教授の近著『象徴天皇の実像〜「昭和天皇拝謁記」を読む』(岩波新書)に依る。
神功皇后は、正式に即位しておらず、従って若き時の応神天皇の摂政だったとして、歴代から外したのは、やはり昭和天皇であったと考えられる。皇后の摂政が事実上の女帝の様になってしまうというのを忌避したからなのであろう。
大正15年の皇統譜の系図は、戦後の新皇統譜令に引き継がれている。
☆古代史の知識は、必ずしも古代に関わらず、このように現代史にまで影響があるのだ。だから面白い。