補遺58「龢族意識の希薄化」

天孫族考補遺58「龢族意識の希薄化について」

天皇家;言い換えれば本邦の王族;その内に於いて、自分達が龢族に属するという意識は、奈良朝に希薄化した事を、過去の天孫族考などで述べて来た。

これが最も顕著になったのは孝謙(称徳)女帝の時代だったと思われる。(※龢族の何たるかは文末に再説する)

孝謙に先立つ元明天皇(草壁皇子嫡妃、文武・元正の母、聖武の祖母、孝謙の曽祖母)の即位の詔に出てくる有名な“天智天皇の定めた「不改常典」”については、その内容について様々な解釈説が提案されて来た。

私は、これを「天皇位を嗣ぐのは龢族直系に限定する」という掟だったのではないかと考えている。

厩戸皇子の時代に制定された十七条の憲法の冒頭に「以龢爲貴 无忤爲宗」として、支配層に於ける龢族=天孫族の優越を宣言した。しかしこの段階では、龢族を代表するのは大王家と武内宿禰系統五大臣家(蘇我氏も含まれる)とであるという認識だった。

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※以下は、古代史研究会の某氏へのコメントである。

“十七条の憲法の冒頭句は、「一曰 以和爲貴 无忤爲宗」と書かれている書物が多いのですが、原文は、「以龢爲貴 无忤爲宗」であったのです。が、奈良時代になってこの“龢”は“和”の正字だったので、推古朝の上古の事だから、古書体が使われたのだろうとの推理の下で、ほとんどの書物が“和”の字を用いています。この為、その後に出てくる「上和下睦」の熟語の和睦の意味にとって、俗に「和を以て貴しとなす」と読まれて来ました。

ところがこの“龢”は龢族つまり天孫族のことなのです。列島の支配層は、先住の弥生人(縄文人+海人族=倭人)ではなく、渡来した龢族・牛族・宇族(即ち天照を信奉する日之下族、素戔嗚:牛頭天皇を信奉する牛佐族=出雲族=物部氏、月読神を信奉する宇佐族=秦氏)の月氏3部族です。その内の龢族(天孫族)=皇族厩戸王と皇別の蘇我氏馬子が、秦氏の大馬佐である河勝の協力で、物部氏の宗家である守屋を討滅したわけです。そこで憲法の第一条には、三族の内で最も尊貴なのは龢族であると確認させ、続く章句で「忤うことなきを宗とせよ」と諭しているのです。第一句が龢でなければ、第二句の“叛逆はならない”という説諭の意味がチグハグになってしまいます。叛逆の対象は勿論龢族である大王家の事です。つまり下級の牛族と宇族は龢族に反抗してはならないという意味なのです。

しかし奈良時代になると天皇家が龢族であることは忘却されてしまいました。”

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ところが、天智が乙巳の変で蘇我氏を滅ぼし、その時点で改めて“皇位に就けるのは龢族直系一族=皇族に限られる”としたのである。

元明天皇は勿論天智の皇女である。従って、年少の軽皇子(文武)に代わって母元明が皇位を中継ぎする事の正当性を即位の宣命で主張したのである。

従ってこの時点までは、皇位は天皇族(龢族)が嗣ぐものだという理解が為されていたのだと考えられる。

だが、皇位が藤原宮子所生の首皇子(聖武)そしてそれと藤原光明子との間の皇女(阿倍内親王)にわたる間に、龢族直系意識が急速に希薄化した、と思われる。そも龢族出身ではない藤原氏にとっては、本来はこの不改常典は双刃の刃になり得るものだった。だからこそ、不比等は自らが天智の落胤であるとの噂を広めたのであろう。

従って、光明子と聖武の婚姻には問題は生じさせなかった。しかし、文武の嬪である宮子を母にする聖武は生涯コンプレックスに悩まされていたという伝承がある。

というのも、そも宮子は不比等の娘だとされているが、実際は腹心の粟田真人が”紀州の海人で海中から観音像を拾い上げた奇瑞の持ち主である娘“を見つけ出して不比等の養女にし、文武の後宮に送り込んだものだからである。

もっとも、藤原氏=中臣氏は元来対馬の浦部→卜部出身なので、海人族には親近性があるのだ。(粟田氏も春日=和邇氏系なので、海人族の情報を得やすかった。)

しかし聖武には、天智亡き後に身分が低い采女の所生であるとして結局天武・持統によって滅ぼされた大友皇子の先例が常に念頭にあったのだろう。

この場合、聖武の対抗馬は、夫婦共に皇族出身の長屋王家である。だからこそ、長屋王が藤原兄弟によって攻められるのを聖武が黙認したのだと考えられる。

天智(母方)と天武(父方)との孫であり皇家の嫡流に近い長屋王の亡き後、聖武ー孝謙の王統も絶えて、傍流の白壁王(光仁天皇)によって新たな王統が始まるのである。

孝謙(称徳)が龢族の事を知らなかったと考えられる理由を幾つか挙げてみる。

①なんと言っても皇位を一時的にせよ弓削道鏡に譲ろうとした事。

→弓削氏は聖徳太子の滅ぼした物部氏に繋がるという。物部氏は牛頭族であり、つまり出雲族なので、龢波羅門ではなく、刹帝利(クシャトリア)である。

②龢族の男子は藤袴の香を焚き染めており、それは皇族の証なのだが、孝謙がその事をよくは理解していなかったらしい事。これは光明子も同じである。光明子は龢族ではないからしょうがないのだが。孝謙が光明皇太后とともに、母の実家である藤原家邸宅を訪問した時に、手土産に藤袴を持参したことが万葉集に載っている。孝謙は藤袴の香は高位の男子一般の風習と解していたようだが、それは皇族男子のみに許されるものなのだ。

逆に、聖武と藤原兄弟によって非業の死を遂げた長屋王はまさしく“匂宮”だった事を大伴旅人が太宰府の梅の宴で言及している。源氏物語に薫大将や匂宮が登場することから、この風習は平安前期まで続いていたと分かる。

応神以来、龢族が聖草である葱韮類を摘んで(=クサ摘み)食することで生じるいわゆる禰疑臭を消すためなのである。応神の育った水巻宮周辺には、(今の小倉南区に)貫山の地名があり、これは古名を禰疑山と言った。禰疑山の北東が岡田宮のあった八幡である。ここを八幡というのは、八幡神社が勧請されているからだというが、それは逆で、そも禰疑=ヤウタグ→八幡であり、だからこそ応神は“八幡大神”と祀られたのである。これが応神の母(神功皇后に擬せられているが)実は宇佐の息長大媛即ち日之下武命の妃・橘媛=水巻の伝承では砧媛;それは橘の字を分解して[木+矛+冏](キムケイ)→キムタ→キヌタとした虚構である。もっとも、橘媛には妹がいて(弟橘媛)、これは武内宿禰の妃である豊媛(淀媛)であるが、乙媛→ヨドヒメ→トヨヒメの転訛であろうか?ヤマトタケル伝承では正妃が弟橘姫にされている。

また息長氏とは、実は“置き龢”氏で、龢族の女系の血統を保持する氏族である。置龢氏には、三輪王朝(出雲族)系と宇佐秦氏系の二系統があった。龢族(天孫族)はそも龢族本系なので置龢の機能は必要ないのだ。龢族は本来女系だったので、牛頭族(物部氏)や宇佐族(于闐族=秦氏)の王は、神聖性血統の保持の為息長氏女性を娶る必要があった。

③渤海使が来日して国書を奉呈した際に、“渤海の旧名である「大震」は、龢族が大陸に建てた辰国にあやかった命名であり、渤海には辰国旧民が含まれているので、日本とは兄弟國である”と発言したのを、孝謙が無礼だと憤慨した事。孝謙は、書紀の記載する天孫族日向起源説を全く信じきっていたのだろう。だから中国が東夷とする渤海は蕃国であり、神国・日本とは格が違うという“小中華” 意識があったのであろう。神国こそ実は辰国だったのだが、孝謙には龢族の君臨した辰国の知識が無かったのである。

※辰国とは、渡来三族がそれぞれ日辰・星辰・月辰の三辰崇拝をしていた事からの国名である。無論龢族が日辰、牛頭族が星辰、そして秦族が月辰を崇信していた。

光仁ー桓武の王統もまた桓武の生母が、百済王氏の一族である高野新笠であることによってか、桓武は龢族の思想とは似て非なる昊天祭祀を営むのである。

何故なら龢族は、日之下族であり、本来は彼ら独自の日下祭祀(久我神社)を営む民族だからである。

昊天祭祀はつまるところ天帝=北辰信仰であり、本来的には牛頭天王族の祭祀なのである。

(とは言え、持統朝以来は、伊勢神宮の祭祀が進行し、皇祖神化していく事で、急速に日下祭祀が衰微?したと思える。これは、奈良時代に藤原氏の政権掌握が進むとともに、非龢族である藤原氏にとっては、龢族の日下祭祀は邪魔だったからだ。奈良盆地の日下であった春日神社も藤原氏の氏寺の名目に書き換えられてしまったのだ。)

ところで、上述の粟田真人が節刀遣唐執節使に任じられて入唐(正確には、この時は即天武周になっていた)した際に、(本邦が国号を大倭から日本に変えた事の承認を求めたのだが)、後の渤海は震(もしくは振)の国号で承認を求めていた。この時丁度、唐から東女国と呼ばれた東チベットの蘇毗(ソンパ)国が使者を送っていた。長安の客館・鴻臚館で同宿した日本使である粟田と東女国蘇毗使とが情報交換をしたことは想像に難くない。(この頃は、武則天は高句麗の跡地である遼地を征服しようと考えていたようなので、「震」は承認されなかった。)

恐らくこの時に蘇毗使は粟田に、自国の来歴を聞かせた。そして、震はかつて龢族の支配した辰国の故地に建国し、その辰国の名に因んで震の国号を用いたことを話した可能性がある。それは辰国が、西域を脱出した小月氏によって建てられた国であり、小月氏の葱茈族こそ、蘇毗国と同根の月氏龢族だという事や、蘇毗が後漢時代には崑崙南麓にいて王莽以来の圧政に抵抗した事があった話などにも及んでいたのではないか。月氏の于闐族(白馬族)はシルクロードの交易隊商民であり、大陸の情勢に通じていたであろうから、蘇毗国もそこから東アジア各地の情報を得ていたであろう。

中国語に堪能でありまた大陸の歴史に詳しかった事を武則天に感心されたという粟田真人のことであるから、もし蘇毗使からそういう意味の遼寧にあった辰国の歴史解釈を聞かされたら、(日本書紀に記されるように日本民族の日向起源説を真実だと真人が考えていたのなら)それを言下に否定していたと思われる。しかし粟田真人はそうしなかったと考えられる。(むしろその蘇毗使の説を肯定していたのではないか)。

※遼寧→伊犂への西行路は清朝時代に満州鮮卑族が、西部国境防衛のために移住させられた行路(距離の参考の為)

その後、中宗の時代に渤海と国号変更が認められた後、今度は渤海使と蘇毗使が、唐の客館で邂逅した可能性が否定できない。唐の蕃客館・鴻臚館は朱雀門近くにあり、五百人も収容する巨大施設なので、複数国の朝貢使を一緒に滞在させたのである。その時、渤海使は、蘇毗使から昔の日本使の粟田の評判を伝え聞いたであろう。粟田が震国の歴史認識を肯定していたとの話が渤海側に受け継がれて、むしろ親近感の発露として、孝謙への国書奉呈時の言動に繋がったのだろうかと、私は想像するのである。あくまでも想像にしか過ぎないのだが。

(粟田訪中は、文武の時代の事であった。孝謙は文武の孫である。粟田真人は元正朝に正二位中納言で没したが、晩年は何故か太宰帥に左遷されていた。藤原不比等の盟友だった筈なのだ。どこかの時点で粟田真人は、龢族のルーツを知ったのだろう。元来粟田氏は、春日粟田臣であり、皇別つまり龢族の分流なのである。帰朝後、文武の崩御を受けて元明が即位したのだが、粟田真人は元明には大陸の噂を告げていたかも知れない。)

◯龢族について

※ここで改めて龢族について天孫族考で述べた事をレビューしておこう。

龢とは、奈義(ナギ)と読む。本邦では、那岐山とか奈義山の名や風が凪ぐなどの言葉で残っている。巫覡を神龢(カンナギ)と読むのは神を和ぐ行為をするからである。

この為の賢木に用いる聖草を梛と呼ぶのは同根。

カンナギ→カンナビと転訛したのと同様に、神奈備山という呼称も生じた。あたかも神が降臨しそうな山容をいうのだが、具体的には三角錐形の山の事である。

実は巫覡が神祭する時に結ぶ手の印相が、宝珠印である。宝珠印とは宝珠の形象をした手組である。仏教では未開蓮印といい、蓮の蕾の状態の形状をいう。しかし龢族では宝珠とは葱華(つまり葱坊主)の形状をいい、簡単に言えば米飯のオニギリの形;手を結んだ形状から単にオムスビともいうのである。だから戻って神奈備山とはオニギリ形の山容をしたものの事になる。

そこで龢とは、凪で平和な状態をいうのだが、ナギとは和らげること鎮めることであり、波羅門が“あれ荒ぶる”神を鎮めて饒魂=和魂にする祭儀である。

龢の漢字は本来は、旁だけではなく偏にも禾が付いて、禾の間に龠が挟まれるのが本字である。左右の禾を両禾といい、王者の居所の両側に立てられた旗印の付いた矛が原意だが、中国の雅表現では「華表」という。宮廷の正門の両側に建つ石造の柱が華表で、王権を象徴する龍や獅子などが乗っている。で両禾の間の龠は籥とも書き、宮廷の雅楽団の事である。つまり、「禾+籥+禾」で和というのは、パックスロワイヤルで、朝廷に於ける王権の武力を背景にした平和の状態即ち凪いだ状態をいう。そこには雅楽が流れてくる。

龢(ナギ)・ナグ(奈具)は、月氏の言葉であるが、ペルシャ語ではマギという。漢訳は魔儀である。ササン朝の皇帝を出したバラモン階層を、中東史ではマギー神官団と呼んでいる。このペルシャのマギー神官団を月氏では龢族というのである。

龢族の聖草は葱(禰疑)である。龢族の神官が禰宜なのだが、禰宜の被る帽子が葱華に似ているので、葱(ソウ)の訓をネギと呼ぶのである。葱は葉を摘んでも下部の黄身(オミ)が残っていれば、葉を生やす。この同じ株の黄身から分かれた一族がオミ(臣)である。葱は根(根子)でも種子でも殖えるのだが、同じ株根から殖える支族と別の畝(群れ地)に種子を蒔いて殖やすのとの二つの方法がある。「株根」が氏族の来歴:王家龢族との関係を表す理念である姓(カバネ)の語源である。だから連には、同じ株根の根っ子から分かれた連と、種子で殖えた同系である連がある。連とは群れ地の事だ。同じ根子の連は大伴氏であり、物部氏は同根ではなく種子を同じくする氏族の扱いである。また連の配下の氏族(大伴氏に付随する佐伯氏など、後世的な表現で言えば陪臣)は連や首とか直の姓となる。中臣氏も(元来は卜部氏だが)王家とは異なる株根であり多氏の陪臣であるからやっと連の姓になれた。

外の連(江戸幕府でいう外様)には王家の正妃を出すことが出来ない。龢族同士ではないからだ。

秦氏は今帰の扱いなので、首や直だが、彼らには独自の階層名である勝があった。小勝→国勝→大勝→太秦などという階層と、川勝・山勝・石勝・矩勝・鍛勝・木勝などという専門職種ごとの統括者(真佐利)がいた。勝は他に秀でている者の意だが、元は于闐族の將=馬佐に由来する。

◯龢族の古習俗

龢族は月氏時代の宗教は(仏教の北伝以前のことだから)古ゾロアスター教の分派だった。これはゾロアスターが整理して一神教にする前の多神教時代のものであり、至上神アフラマズダの孫である太陽神ルー(ミスルー;これが西伝したのがミトラ)を祭祀したのが月氏葱茈族(曽冨理族)である。曽冨理とは日本語の日之下である。

月氏の古俗は、末裔である蘇毗国(=東女国)や象雄国(西チベット)が仏教の異端であるボン教を国教にしたために、ボン教の思想が上書きされてしまい、想像が難しい。象雄国もまた蘇毗族の建てた国で女王国であった。

この象雄国の跡地をナチ党親衛隊のヒムラーの派遣した民族文化研究所の探検隊が訪れ、象雄国文化財の収納された洞窟から、トラック数台分の遺物類をユーロッパに持ち帰った。しかし何故かドイツに持ち込まず、当時の同盟国フランコ将軍独裁下のスペインのピレネー山脈の古城に運び込まれた。一説によれば、その中の古美術類を、ドイツ帝国内では美術品略奪者で有名なゲーリング元帥を懸念して彼の力の及ばぬスペインに持ち込んだのだという。ヒムラーはアーリア民族の優越性を証明する古書を発見する意図に基づいていた。象雄国のボン教のシンボルはナチの鉤十字と酷似する逆卍だったからだ。その古記録類に日本民族の源流を示唆するものがあり、これがヒムラーがヒトラー総統に、日本民族を名誉アーリア人種と認めて、日独伊三国同盟の締約を勧めたのだという“都市伝説”がある。それはどんな根拠だったか?象雄国古記録類は、ドイツ敗北後にフランコ将軍によって徹底的に破却されてしまい確かめることができない。

但し、象雄国も蘇毗国も、チベット中部渓谷に興った吐蕃に征服されてしまったので、今は遺物類も無いのである。蘇毗国は現中国西蔵自治区の東端地域の昌都を都にしていた。しかし吐蕃の侵略後、一部の氏族が四川省の奥地に逃亡し、今は四川蔵族自治区の一部の少数民族居住地の一つとなっている。有名な美人谷のある地域であり、そこではかつて自分達は女王の君臨する土地から逃れてきたという伝承が受け継がれている。チベットには、蘇毗族時代の遺物は無いが、その頃太陽祭祀壇(本邦でいう日下壇)のあったらしい日土区(ルードック)の地名が残る。日土区は、中世にそこ西チベット〜カシミール地域に蟠踞したラダック国の語源説の一つである。

天孫族考補遺58付「本邦の深層意識に潜在するカースト」

本邦の階級形成が異常に速い事について、諸学者がいろいろな説を出している事を、過去の天孫族考で言及して来た。

諸外国では数世紀(数百年)以上かかって王制が成立するのに、本邦ではその半分以下の三〜四百年くらいの間で、古代王権が成立した。

この原因を、マルクス系学説での原始的蓄積格差論によって説明しようとして、“我が国の古代に於ける稲作の普及速度が速く、食糧備蓄が場所によりまた農業技術の差によって相当な格差が出てこれが階級差を作ったのだろう”という立論があった。しかし古代のクニの発生地(それは墳丘墓の発達地でもあるのだが)は、必ずしも豊作予想地と一致しない。更に、天災や気候変動の影響などで、古代の稲作は階級差を発生するほどの、十分な蓄積格差を生んでいない事などが、考古学的な事実によって判明して来たのである。

そこで、にも関わらずどうして本邦ではそんなに速い時間経過で階級が生まれ、クニが国にまで規模拡大し大王が誕生したのか?これが相変わらずの謎とされている。

しかし私は、この理由は簡単で、そも階級差を持った部族が渡来した為だと考えている。初期に来た出雲族と後世言われた部族は辰韓五十族(と牛頭族)である。五十族は月氏黄牛族の後裔だからクシャトリアであり、その下にバイシャとシュードラという階層(カースト)を持っていた。この後に来た天孫族は月氏龢族でこれはバラモン階層である。従ってその内部にバラモン/クシャトリア/バイシャ/シュードラという4階層を持っていたのである。このカースト(この用語は本来はインドなどでのバラマン教以降に於ける階級差についての概念だが)が古代の日本に持ち込まれ、その潜在的な影響は、実は江戸時代や明治期にまで及んでいるのだ。

この事を理解しておかないと、日本の古代史を正確には理解できないと、いうのが私説である。

インドに於ける階級差(ヴァルナ)

我が国の古代では、最初の先住者は縄文族である。これに稲作を持参しながら海人族(倭人)が加わって弥生人が形成された。

そこに白馬族商人と黄牛族=牛頭族が渡来した。白馬族は月氏のバイシャ階層秦族であり、黄牛族はクシャトリア階層である。渡来した牛頭族の中心は、五十族である。五十族は山陰〜備後〜瀬戸内を東進して木の国に至り、そこから紀の川沿いに奈良盆地に入り、三輪山麓(巻)に支配拠点を置いた。この三輪山麓の広域名が元々の出雲であり、その出雲の南東部・初瀬川の流域がヤマト(ヤマ=熊野への戸口)である。巻には先住民が居て、これを征服して王朝を建てた。崇神による出雲王朝=三輪王朝である。

そこに、九州の日之下国=日下・久我(古賀)国の勢力が東征して来て、応神朝が成立する。日之下国は龢族バラモンが建てた国である。

一方、九州に龢族が天孫族として渡来するのを支援したのは豊の宇佐に先住していた白馬族=秦氏である。遠賀川河口の左方にあった宗像氏は、海人族であるが、豊の宇佐(馬佐)族と提携していた。

豊の宇佐族は“置き龢”である女系氏族・息長氏を擁していた。

(ヤマトの牛頭族もまた置き龢を近江に抱えていた。)

置き龢の役割は、クシャトリアやバイシャの王族に、神聖視された龢族の血統を注入するためのものである。クシャトリアやバイシャの王は龢族女系の血統と婚姻する事によって、正式な族長に就くことが出来るのである。

クシャトリアの王がクシャトリアの女を娶った場合、生まれた子は龢族の女性と結婚することでしか王に就けない。クシャトリアの王がバイシャの女を妃にしても、生まれた子はクシャトリアではなくバイシャになってしまう。わざわざ龢族王女を娶らなくても良いように生まれたのが置き龢なのである。

バイシャの王=太馬佐(ウズマサ)もまた置き龢の女性と契らねば、正式な王にはならない。置き龢の女性は、バイシャの女王になる事もできる。

これらは、原始ゾロアスター教のカースト思想から派生したものだ。

またバイシャ庶民はクシャトリアと契ってもクシャトリアにはなれないし、また生まれた子はやはりバイシャである。バイシャは一度しか転生出来ない。二度しか生を持てないのだ。但し、現世が既に二度目の生であったなら、死ねば永遠の闇;アーリマンユの支配する根の国に閉じ込められる。

だがバイシャがバラモンと契りを結ぶと、本人はもう一度転生を約束される。生まれた子は下級バラモンになる。(☆)

(バラモンも王族とそれに従う直系のクシャトリア、そしてバラモンに奉仕するバイシャやシュードラを擁している。この部族全体で龢族集団である。しかしその内、純龢族は王族のみである。)

シュードラには転生は無い。だがシュードラの女性の場合は、クシャトリアと契ると、生まれた子はバイシャになれる。シュードラの男性の場合、クシャトリアの女性と結ばれると、生まれた子はバイシャになる。(★)

バラモンとクシャトリアは罪を犯さない限り、永遠の転生が約束されている。

このような甚だ、バラモンとクシャトリアとに都合の良い転生律が原始ゾロアスター教にはあるのだ。(もっとも、中央アジアの多神教の拝火教をゾロアスターが宗教改革して一神教;実際はアフラマズダとアーリーマンユの二元教ともいうべきものなのだ;になる以前のものをいうのだが、ゾロアスター以前の前のものを原始ゾロアスター教と便宜的に呼んでいる。但し、アーリーマンユは悪魔であって神では無いので一神教と呼ぶのである。

キリスト教の場合、原始キリスト教は、キリストの12使徒が伝道活動を行い原始教会が成立後〜新約聖書の福音書がまとめられるまでの間を指すので、当然キリスト誕生以前を指す言葉ではない。もっともキリスト教の場合、原始教会成立までは、原始キリスト教に含ませず、ユダヤ教イエズス派の時代だとする学説もある。)

話を本邦古代に戻そう。

元来は対馬の浦部の卜占師である卜部氏はシュードラであるのだが、(★のプロセスで)中級バラモンである多氏に陪従し多氏の娘を降嫁してもらう事によって生まれた子はとりあえずバイシャになる。

バイシャとしての卜部氏が更にバラモンの娘を降嫁されれば、(☆のプロセスを経て)生まれた子は下級バラモンになる。こうして卜部氏は中臣氏と改名する。仲ツ臣である多氏の役職を代行するのである。下級バラモンを続けるうちに、姓は直から連に格上げされる。これは佐伯連と同様である。(佐伯氏も元はシュードラである。)

そして下級バラモンになった中臣氏鎌足が、乙巳の変の功績で藤原氏となり朝臣の姓を賜り中級バラモン格に出世する。

だが、藤原氏を悩ませるのは、本来は自分達はシュードラであり、バラモンの仲間入りさせて貰ってはいるが、実はバイシャ同様に一度限りの転生しか約束されていないのではないか?そして今の生が既に二回目の生であるかも知れない!もっと突き詰めれば、シュードラなのだからそのままではあの世に転生は出来ないのでは無いか?という疑念であり恐怖である。

そこに仏教が伝来する。当初は、中臣として物部氏と組み、崇神派であった筈だが、いつの間にか崇仏派の龢族バラモン最上級の中大兄の味方として、上級バラモンである蘇我氏討滅に助力する。

(物部氏はクシャトリアで永遠の転生が約束されており、仏教に依存するメリットは何も無いのである。だがここが元来シュードラの中臣氏と異なる。中臣は、多氏の鹿島神宮の祭祀権を、更に春日氏の春日神社も簒奪して、何とかバラモンたろうとする。)

仏教では、入信者はカーストに関係なく(一時バラモンとなり)転生が約束される。クシャトリアである物部と組んでいたら、その妨げになる。

藤原不比等は天智の落胤説を流布させ、バラモンの血統であると思わせようとした。

更に平安前期になると浄土教が導入され、阿弥陀による極楽浄土への転生の可能性が見えて来る。

こうして藤原氏の多くが、阿弥陀信仰に取り憑かれ、浄土昇天の確実なる方法として、得度剃髪し、仏教の解釈により“バラモンと容認される入道”となるのである。

この熱意は、元来身分の低かった藤原氏(元は卜部氏)にとって一種の強迫観念になっていた。

子孫を確実にバラモンにする為には、女はバラモンの王族と契れば、生まれた子もバラモンになるので、娘をバラモン大王の妃として入内させて皇子を産ませて、外戚として実権を握っていくのである。

我が国では、源平藤橘を本姓として、そのいずれからかの血統の末裔を主張し或いは自らも信じて、バラモンの末流であり、来世への転生を希求したのである。

だが、源平橘は皇別氏族だが、藤原は実際はバラモンでは無いので、転生は約束されていない。中世後期になると、藤原も高貴な血筋かと錯覚されて、この源平藤橘の観念が成立する。歴史的に無知な秀吉は、藤原の猶子にしてもらって関白の高位に就く。さりながら、藤原には転生は約束されていないので、一代限りで豊臣は滅びてしまう。

これは漢の帝位を簒奪した王莽の場合と同じなのである。しかし、中国はゾロアスター教的原理で社会構造ができておらず、従って易姓革命によって、庶民出身者でも帝位に就けるのである。(漢の高祖や、明の太祖洪武帝は庶民出身である。王莽は皇妃の外戚だから、秀吉の様な庶民出身では無いのだが。)

我が国では、バラモン龢族の血筋しか皇位に就けないのである。

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