補遺58補足「蘇毗国人と大和民族のDNA」
補遺58補足「蘇毗国人と大和民族のDNA」
◯蘇毗国末裔の四川蔵族自治区丹巴の少数民族のDNAについて
過去の天孫族考及びその補遺に於いて、以下の論考をした。
①隋〜初唐時代に今の東チベットの昌都(チャムド)を首都にした蘇毗国という国があった
②蘇毗国は女王国だったので、中国側は“東女国”と呼んだ
③蘇毗国は、前漢時代は崑崙山脈南麓の青海高原西部にいた月氏の葱芘族が、漠北民族の南下に備えて(五胡十六国時代に)ヒマラヤ北麓に移って来て建国した複数の国の一つである
④その葱芘族は、そも中国が未だ春秋戦国時代の昔、匈奴の西侵から一部が退避して青海省東部〜甘粛省方面にいた羌族と共同戦線を張る為に混住し、混住した部族は葱茈羌と呼ばれた。前漢時代には羌族は漢の朝貢国であった
⑤王莽の建てた“新”とその後の後漢の少数民族政策の苛斂誅求に対して、葱茈羌は羌族と共に強力に抵抗した
⑥三国時代にタリム盆地にはチュルク族が南下して来る;チュルク族は葱芘族(蘇毗)の強さを讃えて彼らを婼羌と呼んだ;婼羌(ルウチャン)は月氏葱芘“琉”族(曽冨理族=日之下族)である
⑦東女国は初唐時代には、唐へ朝貢した
⑧盛唐時代にチベット南部から吐蕃が起こり、全チベット〜青海地方〜タリム盆地までを征服した
⑨吐蕃の支配を嫌った蘇毗族の一部は、東遷して四川省奥地に亡命し、長江源流の山岳地帯で細々と生き残った
⑩四川省に逃れた蘇毗族の末裔が四川省ガンゼ蔵族自治区丹巴県に居住する少数民族丹巴族である
一方で、葱芘羌は、同様に羌族に混住していた同じ月氏系の黄牛族や白馬族と(三部族纏めて月氏羌と呼ばれたが)それぞれの一部と語らって(匈奴の脅威から逃れて)黄河を下り、内蒙古のトクトから西遼河地域に東遷;そこで建てた国が辰国である。辰国は燕族の東進と扶餘・高句麗の伸張との、東西からの圧迫を避けて南韓地域に移り、そこ“馬韓・辰韓・弁韓の三韓”地域に、複数の都市国家を営んだ。その後、辰韓の伊西族と弁韓の伽耶族が日本列島へ移住して来る。その第一次が伊西(五十)族であり(山陰に渡来した後に最終的にはヤマト盆地に進出して)出雲国(=ヤマト国)を建てる。第二次が大伽耶から北九州地域へ渡来した天孫族である。天孫族は北九州〜中九州に日下国を建てた。やがてヤマトの出雲国(三輪王朝)を、天孫族の九州王朝が東征して来て河内王朝が創成された。
蘇毗国(東女国)のみならず、その元になった葱茈羌も女系制部族だった。婼羌の若の字にわざわざ女偏が付いているのは女系制だからだという。この為小月氏である葱茈羌の一部が東遷して形成されたと思われる大倭国の三輪王権に於いても(出雲族はクシャトリアの黄牛族なので、女性優位では無くなっているが) 巫女的な皇女は記紀に載るほど働きが顕著だった。それが河内王朝〜継体王朝になると、女権はかなり強く、また皇子女の育成は、后妃の実家もしくはその同族が担ったこと、平安時代になっても妻問婚が一般的だった事など、かつて女系制社会であった事を示唆する要素は多数存在する。
このように、大和民族も蘇毗族も共にルーツは月氏である。
それを客観的に裏付けるものがあるとすれば、両者のDNAの一致なのである。
といっても、蘇毗国は今はもう無いので、その末裔である四川蔵族自治区の丹巴族が比較の対象となる。但し“丹巴が月氏の末裔だ”とは我が国では認識されていないので、従来のDNA情報では、昌都付近などの東チベットの民衆のものとの比較になる。
今迄判明している範囲では、DNAのハプロタイプが、東チベットと我が国近畿とでD1b1a型が共通に在る事が特筆される。
D1b1からD1b2がどこで変異したのかについては異説がある。またアルタイ方面及びアンダマン諸島方向への分離はチベットからだという説もある。私はビルマ〜雲南四川大河川源流山峡回廊経由ではないかとの仮説を立てている。
縄文人のハプロタイプは、縄文人はD1b2aなので、本邦の古代支配層とは、タイプが異なる。大陸でD1b族が分化して、図らずも日本列島で再会したという事だ。
以前の天孫族考で触れたように、「中国では少数民族の犯罪捜査の都合上(被害者・加害者の双方の特定のために)DNAデータベースの整備を進めている。これを医療上の利用の為にも、医学研究者にも公開している。」という情報がかつてあり、その当時(最早数年以上前のことなのだが)「日本の医学関係者にも利用させる」と言われていた。但し、このデータにアクセスするには日本人の場合、医師免許保持者でなければならなかった。そこで私は過去、このFacebook「古代史研究会」で、医師免許を持ちかつ古代史に関心のある人がいれば、是非アクセスしてほしいとして、ネットで入手したその血液DBのURLも付記したのだった。
ところが、それから1年ほど後にも同様の呼びかけを繰り返したのだが、一向にそのURLにアクセスして、四川蔵族自治区の丹巴族と日本人のDNAの詳細比較をしてみたという人は現れなかったのだ。
そこで、今回、件の中国製検索エンジンであるDeepSeekが話題を賑わしている現況に鑑み、このマターについて尋ねてみた。
打ち込んだ質問は;「中国では少数民族の犯罪者摘発の目的で、公機関が詳細なDNA分析データベースを作成していて、最早完成段階に達したと聞きました。日本からも医師免許を有する人は研究目的でそのデータベースへのアクセスが可能になっていると大学関係者から聞きました。DeepSeekでは、このデータベースを参照することはできないのでしょうか?」であった。
ところが、当初、途中まで以下の如き情報を返して来た後、突如後続の説明表示が打ち切られてしまった。
途中までの情報表示;
中国の少数民族DNAデータベースを学術研究に活用することは、**理論的には可能ですが、実際には極めて困難**です。その理由と現状について詳しく説明します。
### 1. **中国の少数民族DNAデータベースの実態**
- **公安系データベース**:
- 2017年から「全国公安DNAデータベース」が構築され、特に新疆ウイグル自治区やチベットなどで大規模な収集が行われた。
- 目的は**犯罪捜査・治安維持**で、学術利用は想定されていない。
- **研究機関のデータ**:
- 中国科学院や民族大学も遺伝子研究を行っているが、**国家機密扱い**のケースが多い。
### 2. **データアクセスの障壁**
- **法的制約**:
- 『中国国家情報法』(2017年)により、DNAデータは「国家安全関連情報」に分類される。
- 外国研究者のアクセスは原則禁止。
- **倫理的問題**:
- 収集過程で「同意なし採取」が報告されており、国際学術誌で利用すると倫理審査に抵触するリスク。
### 3. **代替手段として可能なアプローチ**
→ここで突如画面がドロップアウトしてしまい、
“你好,这个问题我暂时无法回答,让我们换个话题再聊聊吧。
(こんにちは。今のところこの質問には答えられませんので、話題を変えましょう。)”
と回答内容の継続が表示拒否されたのだ。
DeepSeekで調べようとすると拒否されてしまう、というのは、『中国国家情報法』に抵触する可能性があり、DeepSeekの安全装置(電気回路のブレーカーの如きもの)が作動する為であろうと思われる。
---------という事で、丹巴族と日本人のDNAの異同については、目下中国側の検索エンジン経由での情報調査は出来ていない。
◯NHKドキュメンタリー「タクラマカン循環鉄道」
5月3日、NHKBSで、「疾走!タクラマカン砂漠鉄道 ~冬のシルクロードをゆく~ 」が放送された。
HKの番組紹介では、“中国・タクラマカン砂漠を一周する世界初の砂漠環状鉄道が2020年開通した。特に注目されるのが、砂嵐から鉄道を守る高さ24メートルの橋梁だ。鉄道の開通はシルクロードの民の生活を大きく変貌させた。楼蘭王国の末裔や砂漠の最深部で暮らすケリヤ人も新たなビジネスを始めた。崑崙玉で知られるホータンにはバイヤーが殺到している。番組では4Kカメラで砂漠の雪景色を初取材。歴史と今が交錯する冬のシルクロード鉄道の旅。”。
旧知の制作会社テムジンの、中国人プロデューサー謝鉄泉氏の取材した番組である。
これを見ての感慨としては、タリム盆地は最早殆ど(いわゆる)漢族が席巻してしまい、少数民族についてはその漢族に珍しい民俗を観光資源とする原住民としてや、和田玉のような特産品の供給者としてしか認知されていないかに思えてしまったことだ。奥地の少数民族を数多く取材して来た謝プロデューサーの作品とは信じられないほど、漢族的な視点に立ったものだった。
和田の玉の収拾に当たる和田族らしき現地人も、かつての白馬族の末裔だった事などオクビにも出てこなかった。
まして、新疆ウイグル自治区と言いながら、ウイグル族の現状も全く推測できないものだった。
しかしこれが、習近平主席のいう「中華民族」体制の実態であろう。
だから、上述の如く;
2017年から「全国公安DNAデータベース」が構築され、特に新疆ウイグル自治区やチベットなどで大規模な収集が行われた。
- 目的は**犯罪捜査・治安維持**で、学術利用は想定されていない。
- 『中国国家情報法』(2017年)により、DNAデータは「国家安全関連情報」に分類される。
---------という事なので、少数民族のDNA情報は、目下の体制が続く限り、我々日本人には、たとえ(民族解放運動に連動などしていないとしても)学術目的であっても開示されないだろう。
◯縄文人のDNAについて
天孫族考で従来論考して来たのは、弥生時代以降の渡来人の事であったので、先住民である縄文人については、突っ込んだ検討はして来なかった。
昨今、ネットを賑わしている古代史に関わる話題の中に、「縄文人の由来」についての情報がある。
福島県北部にある三貫地貝塚から出土した縄文人のDNAに関わるニュースである。
従来の見解では、縄文人の祖先は、ポリネシアなどの太平洋島民と共通の(人によっては、先史時代のインドネシア近海にあったという伝説のズンダ大陸の系統とも言うのだが)南島系民族の流入を中心に、アジア大陸の中国近辺及び北東アジアの民族などが、日本列島内で混血したものだろう、とされて来た。
それが、神澤秀明氏(国立科学博物館の人類学研究者)ほかの三貫地縄文人の抽出DNA研究の成果として、ほぼ裏付けられたほか、一方で縄文人は、直接的祖先はどこの民族かが分からないほど、相当な古代に於いて分離して来たので;いわば孤立進化集団だったと解されるに至っている。
その神澤氏ほかの三貫地貝塚縄文人についてのWEB上での記事を次に掲げる。(いささか長文になる。)
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国立科学博物館には、膨大な人骨のコレクションがあり、縄文時代のものも含まれる。神澤秀明さんは、博士号を取得するまでの2年間、国立遺伝学研究所がある静岡県三島市から国立科学博物館の研究施設がある茨城県つくば市まで、片道4時間かけて「通勤」する生活を送ることになった。さすがに日帰りするのは効率的ではないので、一度、つくば市に行くと、数日間はぶっ続けで実験をして、三島市に戻るというハードなスケジュールだったという。※神澤秀明氏は、国立科学博物館人類研究部員(鈴木注)
「縄文人骨の核ゲノムを最初に解読して論文に出来たのは、福島県北部の三貫地(さんがんじ)貝塚のものでした。東京大学総合研究博物館が管理している3000年前の人の下顎骨から試料を得て、ゲノムのおよそ4パーセントを決定できたんです。たった4パーセントかと思われるかもしれませんが、32億塩基(対)の4パーセントですから、優に1億塩基(対)は超えています。様々な分析が可能で、2016年に、論文にすることができました」
では、三貫地縄文人のゲノムは、この説からみたときに、どのような意味を持つのだろうか。
→※挿入図
「二重構造モデルに従えば、現在の日本列島の3集団は、縄文人と現代の大陸集団との間に挟まれる形になるはずです。実際に私たちが得た結果では、大陸、本土日本人、琉球列島人、縄文人の各集団は、おおむね並んだのですが、アイヌ集団は縄文人と最も近接しつつ、間に挟まれる形ではなかったんです」
主成分分析の図をよくよく検討すると、縄文人と大陸集団との間に一番距離があり、日本列島3集団は、大陸集団よりは、縄文人に近くプロットされていることは間違いない。大陸・本土日本・琉球の3集団は、一つながりになっているので、さらにその先、縄文人との間にアイヌ集団がプロットされれば、わかりやすい結果となったのだろう。しかし、実際にはアイヌ集団だけ、少し離れた方向に描かれた。
「以前から、日本列島の集団には、北のオホーツク文化人からの遺伝的影響があったことも指摘されていました。オホーツク文化人は、7〜13世紀にオホーツク海沿岸に広く分布した漁労民です。現代のアイヌ集団には、そのオホーツク文化人からの遺伝要素があるのだと考えられています。従来考えられていたよりも、日本列島人の成立過程は、単純ではなかったということなのです」
縄文人の系譜---------初めて抽出された核DNA
縄文時代は16,000年前ごろに始まり、3000年前ごろまで日本列島中に展開していた。縄文人については、明治期以来、全国から発掘収集された古人骨標本により、多くの論考がなされてきた。その発端は、1877年のモースの大森貝塚調査に始まるが、計測可能な頭骨や全身骨が発見されたのは、1900年代に入ってからである。その後、大量発見の時代に入り、現在に至っている。本館の人類先史部門には、日本の人類学の曙期収集の人骨はじめ、数1000体分の縄文人骨が収蔵されている。大きなコレクションとしては、千葉県の姥山貝塚、愛知県の保美貝塚、それと福島県の三貫地貝塚の人骨がある。
縄文人の頭骨形態は特徴的である。専門的表現を使うと「上顎骨の前頭突起が矢状方向を向く」のであるが、鼻根部の横断面が「かまぼこ型」に隆起していると表現されることもある。さらに、典型的には眉間部が良く発達しその下縁がくぼみ、眉間から鼻根部が縦横の両方向に立体的である。一方、顔面幅が広く、眼窩と顔全体の高さが低いため「寸が詰まった」顔を持つ。計測学的には、顔の高さと幅の比が小さい「低顔」と呼ばれる。脳頭蓋は大きいが、現代日本人と比べると高さよりも幅が広く、しかも最大幅がやや下方に位置する傾向がある。
これらの特徴の一部、特に主要計測値は、アジアの南方部の古人骨と共通するため、縄文人の南方アジア起源説が提唱されてきた。逆に、近年のより包括的な数量形態比較では、縄文人と東アジア中央部集団との類似性が指摘されている。その独自性のため、アジアの人種集団の中における縄文人の位置づけは、難しい課題であり続けている。山口敏、百々幸雄ら形態学の大家たちは、縄文人は既存の「4大人種」のいずれにも属さないといった「人種の孤島」説を唱えている。
近年になり、縄文人骨を用いたミトコンドリアゲノム情報の解読が進んできた。その結果、縄文人が複数の系統から由来することが提唱されている。本館所蔵の三貫地貝塚の縄文人標本では、展示の下顎骨標本を含めた4個体からミトコンドリアDNAが抽出され、縄文人に特徴的な二つのハプロタイプ、N9bとM7aが2個体ずつ特定された。ただし、より厳密なサブハプロタイプでは、関東地方の縄文人と異なる可能性も指摘された。これらの結果は、形態的に一見均質傾向の強い縄文人の遺伝的系譜が、実際には複雑であったことを示唆している。さらに、展示の下顎骨標本を含む2個体から、縄文人の核DNAが初めて抽出された。予報では、「人種の孤島」説と整合する解析結果が発表されている。
一方、旧石器考古学の膨大な成果からは、38,000年前ごろ以後に少なくとも3つの経路からサピエンス集団が日本列島に移入しただろうと推定されている。これらの集団が、いずれもがアジアの基層集団から出現して間もなかったならば、彼らが混交しながら縄文人へ移行したとすると、形態とDNA情報の双方と整合する。 (諏訪 元)
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この基になったと思われる論文もネット上にあったが,こちらの諏訪氏の要約の方が遥かに分かりやすかったので、これを紹介させて頂いた。
但しここで注意しなければならないのは、三貫地貝塚縄文人が果たして縄文人の汎的な種族だったのか?それとも多数あった縄文人類の;ある一つの地方偏差であったのか?という点である。
つまり、我々の従来の常識では、縄文人の旧跡と言えば、信州〜両毛地域の縄文人のもの、そしてもっと北の東北地方のもの(三内丸山遺跡をメルクマールとする)、それに九州南部のいわゆる熊襲隼人の旧跡といったところになるだろうか? そして、寡聞にして、これら各所の縄文人相互の異同についての詳細は知らない。上述の諏訪氏の要約引用からすれば、縄文人と言っても一様ではないのだろう。さりながら、どうやら世界の諸民族の中で、縄文人は人種の孤島と渾名される程、相当に孤立した特異な民族だったという事らしい。
実際、神澤氏らは「縄文人に特徴的な二つのハプロタイプ、N9bとM7a」が検出された、としているが、従来縄文人のDNAハプロタイプはD1b2aだとされて来た。だから、N系(北部ユーラシア系?)M系(オセアニア/南島系?)があったとしても、それは混淆の複数系統の一種だったと考えるべきだろう。更に元来の先住民である旧石器人(ハプロタイプC系統)の末裔もいたに違いない。
しかし、そこ縄文人の数千年続いた列島に、先ず中国淮南〜長江流域にルーツを持つ倭人(ハプロタイプO系統)が渡来して稲作を伝えた。そして彼らは当初は海岸地帯に海人族として縄文人と棲み分けていたが、次第に混交し弥生人を形成した、という事であろう。
ここへ韓半島南東部から五十族が山陰〜九州北岸に入って来た。これが、ヤマトへ入って三輪王朝を建てた。三輪王朝の所在したのは無論三輪山南麓〜西麓であるが、この南麓がヤマト(山門)であろう。“山”というのは、熊野のことである。その熊野(ユヤ)の山岳地帯に入る鳥羽口だから山ノ門(戸)なのだ(というと、戸の上古音の甲乙が問題にされるのだが)。
その門から出て来た所が“出る門”=イズモなのではないか?実際には三輪山の南麓〜西麓一帯がかつて出雲と呼ばれた地域である。(出雲族の頭領が五十猛だからそれが蟠踞した辺りがイズモだという説があるが、どうも納得し難い。尤も“雲出る”と書くのは雅字表現だろう。雲をモと読ませるのだが類例を知らない。)
第三の説は、倭端(ヰヅマ)つまり大倭(ヤマト・オオヰ)の端(ハシ=ツマ)に当たる地域だからだという。
(対照的に大倭地域のほぼ反対側;南西側に朝妻がある。アサは葛城の朝村を意味する。その朝の西の山際地区が朝妻である。アサは厚狭と同源だろうか?)
倭端(ヰヅマ)であるからこそ、後に天孫族がヤマト入りして三輪の大神を大国主の名で山陰に移す先に、江端(ヱヅマ;松江と神門口の宍道の江の両端)の西方の地つまり杵築が選ばれたのだと考えられる。
神武のヤマト入りについて熊野経由だったという伝承がある。神武の東征は、応神を擁した武内宿禰(=日之下武命)の東征が、三輪王朝との万世一系を装うために、神武を架上したのであろう。
また五十猛(?孝霊天皇)は紀州に樹種をもたらしたという伝承があり、かつ出雲族は古代豪族尾張氏と縁戚関係にあったようだから(:三輪王朝へ皇妃を出しているので)伊勢湾〜熊野灘〜熊野川〜熊野→ヤマトという出雲族別働隊があったのかも知れない。
三輪王朝はヤマトに建てられて、“大倭”を自称した。
また出雲族の渡来に先立ち、弥生時代の末頃から、馬韓や弁韓の白馬族=秦氏の商人や工人らが商売のために渡来するようになっていた。袋を担ぐ大黒天の姿はそのイメージなのだろう。
そして三輪王朝と並行して九州にあった日之下国(日下=久我=陸=狗奴国)が、ヤマトへ入って統一政権を作った。天孫族=龢族=和族の王朝である。大倭はやがて(倭族の国ではなく龢族の国だからとして)大和と表記されるようになった。和は龢の簡体でもあるからだ。だが元来、ヤマトの大倭は“オオヰ”なのである。
こうして最終的に日本民族が成立したのであるが、縄文族の後裔ファクターが20〜40%ほども含まれる上に、島国で隣国との混血が少なかったから、日本民族自体がかなり特異な人種になっていると言えるだろう。
辰韓の斯羅を中心にして建てられたのが新羅である。辰韓の反新羅派(五十族)は弥生後期に、伽耶や馬韓(百済と慕韓)人は百済滅亡時に、ほとんど日本列島に移住したので、残る(日本人と共通のDNAを持っていた可能性のある)新羅人も、新羅を倒した女真系の高麗とそれに続く後世の李王朝(こちらも女真系)によって、男系新羅人はほとんど消滅したと考えられる。女系は高麗人の愛人やその後半期は蒙古(元)人の貢女となり、更に李朝時代には、旧新羅系や旧百済遺民系女性はキーセン (妓生) とされてしまい、女系子孫も残されなかった。結果的に、男系女系とも、朝鮮人は日本人と、相当に離れた民族になって行ったと考えられる。つまり、女真系の割合が強くなっているのが現韓国人なのだろうと考えられる。