番外「日本人に漢民族の血が入っているか」

天孫族考番外「理研の日本人の祖先3系統論について」

〜日本人に漢民族の血が入っているって?〜

漢族は渡来して来たのか?

“理化学研究所(理研)生命医科学研究センター ゲノム解析応用研究チームによる大規模な日本人の全ゲノムシークエンス(WGS)情報分析の結果、日本人集団の遺伝的構造、ネアンデルタール人およびデニソワ人由来のDNAと病気の関連性などなどが解明された”とのニュースがあった。

それによれば、“以前の研究により、日本人が縄文人および東アジア(EA、主に漢民族)の祖先を持つことが示唆されています。最近の古代ゲノムの分析からは、北東アジア(NEA)の祖先の影響も指摘されています。この背景のもと、共同研究グループは、縄文、EA、NEAの現代及び古代の遺伝データを今回のデータと共に分析しました。”

として、日本人の祖先3系統論を提示したという。これは従来の日本人の祖先構成の二重構造乃至三重構造論とは趣旨を異にするものだと云う。

Facebookの「古代史研究会」フォーラムに入口先生(入口紀男氏)が、縄文時代・弥生時代・古墳時代の各時代に民族系統がどう変化したかの棒グラフを掲げている。

先生の掲げた棒グラフの説明には「東アジア人(漢族)」とあるのだが、これは、恐らく、先に理研の出した「ゲノム分析による日本人の祖先3系統論」から導き出されたものであろうかと想像する。

しかしこの「東アジア人(漢族)」という表現は、誤解を呼び易い。実際、入口論文もしくは理研の発表を受けてか、「古墳時代をもたらした渡来人は、主に漢人だ」という短絡的な議論がFacebookに出されている。

そこで漢人(漢族)の定義であるが;

①中国の中原地域に起源を有する中国人民の一つの種族

②江南の一部も含めて中国の中央部に出自する中国人

③沿岸地域人民や四川・甘粛などの内陸部や遼寧など東北部に居住する①と②の子孫

④現在の中国政府が少数民族とは認定していない一般中国人(中華民族)

---------という風に、概念が拡大していくのである。

しかし日本人が一般的に理解しているのは、①と“②の一部”であろう。

①は厳密には戦国七雄(秦斉楚趙燕魏韓)の中でも、中原にあった魏韓の二國が(後世いう)漢族の国である。秦は西戎の国だし、楚は南蛮、斉は東夷ではないにせよ山東人は中原人とは見なされない。燕は無論北狄の子孫と見做されていた。趙は難しい存在なのだが、三晋と言われながら、王族は秦と同様に西戎系(嬴氏)と思われている。そこで秦が統一王朝を開いたのだが、短期に瓦解。秦末戦争の結果、劉邦の漢が成立し、ようやくこの漢帝国の中心部に居住する民族が漢人となったわけだ。それが基礎になって②になって行く。湖北省や安徽省人の一部などは、②の範疇であろう。

だから③のうちに含まれる上海や浙江の民は、金に追われた宋が南宋となってから北部から移って来た漢族の子孫と旧呉・楚人の混淆なのである。(南宋以降、呉楚人も漢人のように振る舞った。)

であるが、福建や広東の民は、③にも含まれない。それはようやく④になっての“中華民族”なのである。

それで、入口先生の引用されたグラフの説明で「東アジア人(漢族)」というのは余りに曖昧過ぎると思われる。東アジア人ではあるが、③④に含まれる楚・呉越の民は通常漢族とは理解されていないのだ。

しかし東アジア人となれば、④や少数民族まで含めて、「中国大陸に居住するすべての民族」(習近平の言う“中華民族”)という事になるだろう。古代の呉越に居住した倭人も東アジア人だが、彼ら(の残裔は)今でも意識的には漢人とは言われない。(もっとも中国戸籍上は漢族らしいが。)

習近平は何故“中華民族”と云うのか?これは漢族の定義が実は中国人にとっても曖昧だからだ。

また“北東アジア人”に弥生人と付注されているのであるが、これも不明瞭。一般に北東アジア人とは、契丹族・満洲族(女真人)+エベンキ族などの北アジア系少数民族であろう。古代では高句麗族や扶餘族、そして渤海人も含むだろう。するとそれが縄文人が先住していた日本列島へ流入した弥生人かと言えば、これは違うだろうと思う。弥生時代をもたらした流入民はやはり海人族系だったろうと考えられるからである。

朝鮮半島に渡った海人系淮民は濊族となり、恐らく先住の貊族とも混淆していたと思われる。濊貊と総称するのはその為だろう。

貊族は扶餘系と考えられているので、濊貊全体は北東アジア系と言えなくもなかろう。しかし列島へ渡来した貊族は稀で(※)、恐らく海人の濊族だったであろう。この濊族は淮民同様に、江北淮南の民であり、広義の倭人である。従って言うならばこれも“東アジア系”となる。

※但し、百済滅亡後我が国に百済王族(百済王氏)が亡命して来ているので、その後和族と混交して今の日本人の血にその形跡が残っている場合もあるだろう。しかしその濃度は著しく低い。ほとんど無視できるレベルだと思われる。

東アジア人には、中国人と江南・四川雲貴の少数民族以外に、漠北系とも云うべき蒙古人や回族ウイグル族などのチュルク系民族と、中央アジア系のキルギスやタジク系や吐蕃やチベット人及び旧吐谷渾人なども含まれるだろう。古代の月氏なども当然そうである。彼らは西アジア系との中間的な地理環境にあった種族である。サカ族やトハラ人・ソグド人;総称すると西域人とか胡族になる民族も、広義の東アジア人である。

これらの内、人口比的には漢人が圧倒的に多いので、歴史に疎い(自然科学系)学徒は「東アジア人ほぼ漢人」と誤解してしまうが、これは上述の如く大きな誤解なのだ。

理研の今回の研究グループは、全員が自然科学者であり、彼らに厳密な東アジア人と中国人と漢人の違いが理解されていたとは(申し訳ないが)思えぬのだ。

我が国の過去の教育では、唐の文明を中国文明の精華視しているので、多くの人々は唐文明は漢族の文明だと誤解している。しかし唐は、北魏〜隋までの北朝系の国家である。いわゆる鮮卑拓跋族の建てた国である。(これは北東アジア人の範疇に入る。)唐の朝廷では、漢人官僚は三流以下の地位にしか就けなかった。多分に漢族の血脈の入っていたと思われる武則天によって漢人官僚が登用されるようになったのだ。南朝が滅亡後、漢族の国は宋の建国まで待たねばならなかった。(宋の太祖趙匡胤は山西省晋陽;後世の太原に出自を持つ軍人の家に生まれたので、一応は漢族と思われる。晋陽は戦国の趙の古都。)とはいえ、宋は女真族の建てた金によって淮北を奪われ、淮南に後退して南宋となる。その後元の寇掠を受けて、明が漢族国家を再興するが、再び女真族の清によって近代に至るまで漢人の国家は再建されなかった。従って、南宋以降では、中国はむしろ漢族の国家の時代の方が短い位である。(更に明の太祖洪武帝=朱元璋は元々安徽省濠州の貧農の生まれであり、元との戦いの都合上、滅蒙復漢を唱えたが、純粋の漢族かどうかは疑わしい。楚人であろう。)

純粋な漢族といえば、晋末〜北朝〜隋唐時代初期の黄河流域から、異民族支配を嫌って江南〜広東の山地に逃げ込んで、一族のみの集落を営んだいわゆる客家がいる。客家は近世以降に華僑の一大勢力となって東南アジアなどに流飛したが、これが古代に日本列島へ渡来した記録はない。

だから、自然科学系の学者達が、現在の民族人口比を念頭に、「東アジア人ほぼ漢人」などと言うのは無理からぬことなのだ。何せ中国戸籍でも呉越人も漢族なのだから。

だが、古墳時代までに大陸から(主に半島経由で)渡来したのは、東アジア人ではあっても、漢人ではないのだ。確かに高句麗によって帯方郡が滅ぼされた時に、若干数の在地中国人が百済に亡命し、また南朝の王朝交代時にやはり百済に亡命した南朝漢人が相当数いた事は確実視されている。(とは言え、その南朝も漢族と江南人の混血の官民が多かった。皇族を除けば、比率的にはほとんど江南人=呉越の民か旧倭族系であろう。)

そして、百済の滅亡によって多くが我が国に亡命して来た。これらの大多数は、漢人(アヤヒト)として百済系渡来人に分類されている。

新羅の半島統一から逃れて来た辰韓人、金官加羅人、伽耶人などは無論東アジア人だがその大多数は、いわゆる韓族であっても漢族ではないのだ。

出雲族や天孫族も、このケースに該当し、東アジア人ではあるが漢人ではない。

弥生時代の契機は北東アジア人の渡来によるのか?

先述の如く入口先生の棒グラフには、“北東アジア人”に弥生人と付注されている。これを普通に取れば、弥生人は、先住の縄文人に北東アジア人が移入したことによって、両者の混交で成立したと解されてしまう。

さりながら、弥生文化には三韓との連関性は指摘されているものの、更に北部のいわゆる北東アジア文化とは、そんなに多数の共通性は指摘されていない。

ところで、かなり以前には、弥生時代は稲作が開始された(つまり稲作を行う民族が流入した)事で始まったかのように言われていた。

しかし今日では稲作は、既に縄文末期に伝来していた事が周知となっている。

そこで、弥生時代とは何か?をここで整理してみる。(つまり縄文時代との決定的な差異ということにもなる。)

1)弥生式土器の使用

2)水稲栽培の農耕技法の飛躍的普及

3)金属器(青銅器〜鉄器)使用の開始

1の弥生式土器とは、無論東京文京区弥生町で発見された土器を嚆矢として命名されたものだが、発見された場所によって様々な名称が付されている。(加曾利B式,遠賀川式、板付式、須玖式、庄内式など。) 一般に無文土器と云われるものである。

南韓で製作され始め、陶工が列島へ移住して来て、製陶村落を営んで普及していく。(もっともこの南韓の弥生式土器を創作したのは韓族の陶工ではなく、南韓倭族のそれによるのだ!という説もあるのだが。)

2の稲作の水耕農法は、かなり急速に東北地方にまで普及したことが知られている。恐らく縄文時代の稲作は陸稲が中心だったと考えられる。これによって食糧の備蓄が可能となり、また米の比較収量の大きさから、人口増加の大きな一因となった。(陸稲は連作障害が出るので、休耕を余儀なくされ、それだけでも収穫量が少なくなる。)

3は、先ず青銅器が伝来。舶載鏡や銅剣・銅矛・銅戈などの武具、そして銅鐸である。そしてその後直ぐ、同じ弥生時代の途中から鉄が伝来した。

さてこれらの文化の内で、もしかして北東アジアの影響ありと考えられるのは3の青銅器の使用である。とはいえ、四川省の三星堆文化などは圧倒的な青銅器文化であり、北東アジア系ではなく東アジア系と考えられている。しかも三星堆文化は漢族のものではない。

弥生時代に本邦に伝来した金属器文化は、南韓経由のものである。金属器は、恐らく金官加羅あたりに集住する鉱石精錬と金属器鋳造&鍛造の技術者集団から出た行商・加羅金売り・鍛冶部によって列島へもたらされたと考えられる。

だが、更にそのルーツは何処にあるのか?

高句麗など北東アジア由縁なのか、中国〜南韓〜九州や山陰という東アジア由縁なのか?

今のところ確定はしていない。

しかし、北東アジアへも中国へと同様に、草原の道やシルクロード経由で、西アジアから伝来したと考えられる。

今のところ、私説では、金官加羅は王家は別にして、月氏白馬族の商工人集団の国であり、加羅(弁辰)は辰韓と同様に旧“辰国”ゆかりの国である。辰国は遼河流域にあったと思われるが、これは西域から東遷した小月氏三族が、それぞれの崇拝対象である日星月の三辰を共祭した事で建てられた国である。遼河流域にあったが、これは扶餘系や契丹系のような北東アジア人の国家ではない。

だから“北東アジア人(弥生人)”という表現も、全く当を得ていない、と私は考えるのだ。

結論「日本へ来た東アジア人の中で漢族は少なかった」

弥生時代以来、東アジア系の渡来人は多数あったが、

それらは、先ずは倭族=江南出自の海人族(これがほぼ南韓経由で渡来して、日本の海人族の基礎=阿曇族となった)

、次いで弥生時代終期〜古墳時代前期に、辰韓(の非新羅系)の人民(これらは元来、小月氏の黄牛族であった)が山陰〜九州北部に渡来した。出雲族になった人々である。

この時も、半島東岸系の海人族(濊族)を伴っていた。海部と呼ばれる人々だ。

更にいわゆる天孫族が北九州に渡来した。この時の航海は後世いう綿津見族と言われた海人族が担った。しかし彼らを組織していたのは天孫族の臣であった和邇氏(春日氏及び多氏)であった。

それまでの渡来人は、ほとんど漢人は皆無である。

古墳時代後期以降に、韓半島に来ていた旧帯方郡在住の、次いで南朝から百済に亡命してきた漢人が、百済の滅亡と共に、百済の王族や臣民とともに渡来した。百済王族は扶餘系だが、大多数の臣民は旧辰国の白馬族である。だから馬韓の名が付いていたと考えられる。

扶餘系は北東アジア人であるが、白馬族は月氏系である。

また同時に、金官加羅や弁辰各国から上古の列島へ渡来があったが、これらも月氏系韓族であった。

こうして整理してみると、東アジア人は渡来してきたが、その内漢人は、(血脈構成比から見て)ごく少数であったとしか言いようがない。

理研のゲノム分析の対象となった漢族は、実は漢族の血脈の薄少化している現代の(一応中国での戸籍民族種別上、“漢族”と記載されている)一般中国人でしかない。つまり習近平の呼称する中華民族なのである。これらは古代史では漢族・漢人とは呼ばない(呼ぶべきではない)人たちであろう。だから“東アジア人(漢族)”という認識は誤解なのである。

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