補遺59「改めて息長氏について」
天孫族考補遺59「置龢(=息長)氏について〜〜再度、息長氏の存在意義を考える」
◯息長氏とは何か
置龢とは熾龢でもある。熾火とは現代生活では喪失してしまったが、都度火を起さなくても良いようにするための保持用の火元の事である。昭和前期まで、農村では囲炉裏に、都市では火鉢に於いて火種とした。
熾火は置き火とも書かれた。
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参考》精選版 日本国語大辞典 「熾火」の意味
おき‐び【熾火・燠火】
〘 名詞 〙 ( 「おきひ」とも )
① =おこしび(熾火)
[初出の実例]「手の於(うへ)に(オキビ)を置き、香を焼きて行道し〈真福寺本訓釈 於支比〉」(出典:日本霊異記(810‐824)下)
② 薪の、燃えつきて赤くなったもの。おき。
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天孫族は月氏龢族(波羅門)なので、拝火教(ゾロアスター教)徒であり、熾(オキ)という観念は馴染む。
ここから派生して、龢族の神聖血統を保持するために維持継続された周辺王族血統を「置龢」という。
恐らくこの特殊な氏族は、月氏三族が大陸〜三韓にあった頃から維持されて来たものだろう。
むしろ月氏がヒマラヤ北麓高原〜タリム盆地の原郷にあった時は、少々ならぬ相互距離があっても、実際にはチベット高原〜アクサイチン(崑崙南麓高原)に集住していた龢族から、王族の姫を降嫁して貰ってもよかった。しかし、三韓に移ってからは、辰韓のクシャトリア(黄牛族)も、馬韓などのバイシャ(白馬族=秦族)も、龢族の根拠地となった月支国からその都度王女の降嫁を受けなくても済むように、自前?で熾龢を置くようになったと思われる。
月氏三氏が日本列島に渡来して後には、出雲族も宇佐の秦族にも、置龢が併存していたと考えられる。
やがて置龢の役割は、
①龢族の女系の血統を保持し提供する(王族の妃妻候補)---------神聖血統の保持、濃縮化
②女性は巫女としての機能や祭祀の補助者機能
③ 置龢男性は、司祭及び女性王族の配偶者候補
になっていたと想像される。
しかし、この役割の特殊氏族に「息長」氏の氏族名を与えたのは、実際には応神朝以降ではなかったかと、私は考えた。
宇佐にも出雲(この頃はヤマトの事)にも息長氏がいたように、記紀や風土記などの文献史料には見られるが、それは奈良時代初期に、息長氏の役割の再確認が行われて後に書かれた史料であり、それまでは息長の名は不確かなものだったのではないか。
名が不確かだったのに反して、その役割は明確なものであり、後世息長氏の名に改名する前の一部の氏族集団が置龢の一族として認識されていたものと考えられる。但し、その置龢は、ある氏族丸々がその役割を担っていたのではなく、それを保護生育する母集団の氏族があり、そこの中のある特定の複数の家系が、置龢の一族だったのではないかと想定される。
丁度、平安時代に猿女氏が、京都の春日氏やその一族の小野氏などの保護下で命脈を保っていたのと類似しているのではないか。
息長氏の名がつけられて、後世の姓氏録での整理がなされるまでは、息長ではなく別の母集団の氏族名等に含まれていた可能性がある。
そう考えた時に、それぞれの置龢の家系は何であったのかを考えてみた。
そうすると宇佐の置龢は穂積(鈴器)氏だったかも?という疑問が生じた。→理由は後述する。
また一方、近江の息長の前身は坂田酒人の一部だったのではなかったか?
酒人部は、ヤマトの三輪神社が酒の神とされるのにも関わっていたのではないか?出雲族の奉斎する三輪神社の御神酒醸造に従事していた酒人の伴造が坂田酒人公なのであろう。
姓氏録では息長と坂田は同族とされていて、姓は共に公である。
◆息長氏と鈴器氏(穂積氏)との関係
宇佐神宮の祭神の一人の息長大媛とは?
宇佐に応神天皇と母・太后気長足姫が共祭されているので、息長大媛とは息長帯日媛の祖先神であろうかとされて来た。一説には宗像三女神の一柱だとも。
宇佐神宮に先立つ宇佐の秦氏が祭祀した香春神社の祭神は、辛国息長大媛大自という。(大自とは大刀自か)
以前から天孫族考とその補遺で見て来たように、息長帯日媛は、記紀では仲哀天皇の后妃とされるが、実際は武内宿禰(実は日之下武命)の妃で、その弟媛は豊媛といい、やはり武内宿禰と武雄で婚姻している。この妹は豊の国(即ち宇佐の地)から来たので豊媛で、異名が淀媛だとも言われて来た。
豊の国から筑後川流域にかけて、豊媛もしくは淀媛に関わるとされる神社が散見される。(神社の由緒書などは後世の修験による聖蹟復興運動で、仮構されたものが多いので当てにはならないが。)妹が豊の国の出身ならその姉も同じ処の出身でなければならないが、神功皇后は近江の息長氏の出身とされ、熊襲征伐に向かう仲哀天皇とは別経路で九州にまで行った事になっている。しかし、皇后が蛮夷の征伐戦争に同行した話は、この息長帯日媛の事例以外は伝わらない。唯一の例外は、遥か後世の飛鳥時代の斉明女帝が、新羅が南韓統一戦争で百済や加羅を滅ぼした際に、九州の行宮にまで出張った事例である。
しかし斉明の場合は事実上の最高指揮官たる中大兄皇子に同行しただけであり、それには大海人皇子や額田王なども同行していたのだが、別航路を取ったなどという伝承はないのである。
こういう事例からしても、息長帯日媛が近江経由で出征したというのは、後世仲哀といい、神功皇后といい、共に畿内の垂仁朝の後継者として、応神天皇を一系に見せかけるための作為の一環なのであろう。
私は息長帯日媛は宇佐に祀られる息長大媛という名の祭神に名寄せされた女神を斎く一族の出身であろうと考えた。
そして北九州水巻の地の伝承としての砧媛こそが、宇佐の息長姉妹の兄媛なのだろうと考えたのである。
記紀神話では日本武尊の妻は弟橘媛という事になっている。弟橘媛には兄媛が二人いて、大橘媛がやはり日本武尊の妃となり、もう一人は弟財郎女(オトタカラノイラツメ)で成務の妃になったとされている。“大橘媛と弟財郎女は同一人の兄橘媛ではないだろうか。成務の妃になったのは実は大橘媛の方だったのだろう。また財の名は逆に豊の名のイメージにも通じる”と以前は考えていた。
武内宿禰の妻は神功皇后の妹の豊媛だとされるが、異伝では淀媛だとされる。豊と淀は音が似ているので錯同だとして来たのだが、もしかすると橘媛三姉妹と同じく砧媛・淀媛・豊媛の三姉妹だったのか?
だとするとこれは宗像三女神のモデルにもなったのかも知れない。
また武内宿禰が、応神の妃候補探しに九州に行き、諸県の牛諸井の娘である髪長媛を連れ帰ったところ、迎えに出た大鷦鷯尊(仁徳)が見初めて、応神に対して自分にくれと要望したという伝承がある。
(仁徳と髪長媛との間には子女が三人おり、そのうち二人に草香の名が付いている。これは河内の日下の事だと考えられて来たが、遠賀の日下(久我)である可能性も否定できない。)
この頃未だ日向の諸県は隼人の領域であり、また牛の畜養も未着手だった筈だから、天孫降臨を日向にした結果の応用での諸県設定だろう。実際は諸県は宗像だったのではないか?と考えて来た。
この応仁朝の頃、宗像にいたという媛は、実は武内宿禰が宗像氏に成育を任せていた自らの末娘で、それを異母兄の応神の妃にしようとしたということではなかったろうか?
この頃、天孫族は一族の血の濃度を高める為に近親婚が一般的だったのである。
砧媛(大橘媛)・淀媛(弟財郎女#)・豊媛(弟橘姫♭)(#と♭とは逆かも)の三姉妹のいずれかが神功皇后のモデルである。砧媛は武内宿禰系五大臣家の母であり、淀媛こそが神功皇后か?
砧媛が本来の息長大姫であり、淀媛が気長足姫であり、仁徳妃の髪長媛の母が豊媛なのかも。
豊媛には九州で夭折したとの伝承があるからだ。その墓所が吉野ヶ里か?
そして大橘媛・弟財郎女・弟橘姫の三姉妹の父親は、書紀では穂積忍山宿禰であるとされる。
この上代には、穂積氏は宇佐にいて、百済から献上された鷹匠の腕前の見分役をしたとの伝承がある。
三姉妹の内、大橘媛・弟橘姫は共にヤマト武命の妃となり、弟財郎女は成務天皇の妃であるとされる。
しかし成務天皇は武内宿禰と双子であり、その弟に大碓・小碓の双子の兄弟がいて、小碓はヤマト武命の事である。そして、小碓は父の景行天皇(大帯日子忍代別)の妃に献上された女性を大碓が横取りしたので、大碓を誅殺したとされる。この女性が実は弟財郎女であり、つまり大碓とは実は成務(大稚帯日子)であり、双子の弟の小碓は小稚帯日子であって、即ち武内宿禰かつ日本武命(私は日之下武命だったと考えてきた)なのである。
※ 弟橘比売命
『日本書紀』によれば、穂積氏忍山宿禰の娘。日本武尊との間に稚武彦王を儲けた。
そして大橘媛・弟財郎女・弟橘姫の三姉妹が実は砧媛・淀媛・豊媛の三姉妹だとすると、彼女たちは宇佐の辛国息長大媛に相当するので、宇佐の置龢は穂積氏ということになっていたのかも知れないと考えた。
天孫族考及びその補遺で縷々述べて来たように、穂積氏の氏名は豊葦原瑞穂国という稲作地帯に渡来後のものであって、天孫族が三韓にあった時には、穂積ではなく王宮内で除災の振り鈴(鈴器)を掌る巫女を輩出した鈴器氏ではないかと考えて来た。
即ちその実態は辛国巫女の鈴器氏であり、同時に彼女たちは、宇佐の白馬族(秦氏)の頭領つまり宇豆勝(太秦)の妻女となって、宇豆勝の身分を確固とする役割をも有していたのだと考える。
穂積氏が辛国鈴器氏であるからこそ、成務朝の松浦ノ国造、そして継体朝の南韓駐在官になって四県割譲劇の配役の一人となったのだろう。(要するに穂積氏は九州北部及び三韓地域に土地鑑があるのだ。)
宇佐の巫女は、仏教導入後は、用命朝期の宇佐の豊国ノ(女)法師ともなった。
この鈴器氏も、畿内に出た同族同様に;穂積氏の名をもって呼ぶことにされたのである。
実際、宇佐に於いては、祭神の名以外に息長の名は確認されない。従ってその祭神名も、畿内で息長氏の名が創氏された後に付けられたものではないかと考えられる。即ち、宇佐の息長とは、近江の置龢に息長の名が与えられてから、同じ機能の置龢について息長の呼称が付けられたのではないか?宇佐の辛国氏は、加羅からの渡来部族の子孫だろうと考えられている。
一般には新羅からの渡来とされているが、奈良東大寺の良弁僧正の出自は河内藤井寺の辛国氏だが、こちらは百済系と言われている。
役小角の弟子である韓国広足は新羅系の家系だというが、三韓からの渡来人は、新羅からでなくても(というよりむしろ新羅からの渡来はごく僅かだったが)後世の統一新羅の版図から渡来しているので、後世の(既に奈良時代くらいからの)感覚では新羅からの渡来だと思ってしまったのだろう。新羅が唐と反目しあってからは、むしろ日本と友好関係を結ぶべく、日本の天皇に従属するような外交姿勢を示していたので、日本側は新羅の宗主国であるかの如き態度をとって行く。
◆息長氏の設置
置龢が息長の氏名(ウジナ)を与えられたのは、実際には応神朝以降ではなかったか?
近江の息長氏は応神の皇子が入って後に息長の名になったとされている。
仮説 息長氏は、
①置龢の仕組みを明示的に残すために、応神の孫の一人を近江に封じたのを契機に創設された。
※ 『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王が中興の祖とされる
(元来の置龢は、この場合は→坂田公か?)
②継体が皇位を継いだ事について、その正当性を保証するために、“応神末裔➕オキナギ”の構図を構想し、それを実際上に架構する為、息長氏を創案した
③上記の①②のいずれかの目的で創設された息長氏を更に実在性を高めようと、応神母を近江の息長氏の出身と仮構した
(或いはその逆で、応神母を近江の皇親氏族の出身に見せかけるために、息長氏を創設したのかも知れない。)
②と③の併せ技的な架構だったのかも。
つまり息長氏は書紀の編纂時に誕生した観念上の氏族だったのではないだろうか?
→姓氏録では?。《新撰姓氏録》では左京皇別氏族の筆頭に息長真人を収めている
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改訂新版 世界大百科事典 「息長氏」
息長氏 (おきながうじ)
近江国坂田郡息長(現,滋賀県米原市南部)を本拠とした古代の氏族。同郡天野川流域には5世紀末~6世紀後半の息長古墳群がある。この地は古代東山道、北陸道の要衝であり、琵琶湖に朝妻港をもつ交通の拠点であった。
応神天皇の皇子若野毛二俣(わかぬけふたまた)王の子意富富杼(おおおど)王を氏祖と伝える(《古事記》応神記)。《古事記》などの系譜・伝承の中において,息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)や息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)(応神天皇妃)など息長の氏名を冠する皇妃を輩出し,大王家との姻戚関係を伝える。
また近江・越前を基盤として大王位についた継体天皇の擁立にあずかったとする説が有力であり、このころから中央氏族としても進出していった。舒明天皇の和風諡号(しごう)も息長足日広額天皇であり,642年その喪のときに息長山田公が日嗣(ひつぎ)の誄(しのびごと)を奉った。しかし,外戚氏族として政治に参画するというよりは,皇親氏族としての性格にとどまった。
684年(天武13)の八色の姓への改姓時には,息長公は第一の真人姓に改められた。8世紀には,初頭に従四位上まで昇った息長老が出たのち,中央で四位以上クラスの有力な者はみられない。一方在地においては,ひきつづき坂田郡の郡司や筑摩御厨長として勢力を保っていた。《新撰姓氏録》では左京皇別氏族の筆頭に息長真人を収めている。また同族の中には8世紀に画師として活躍した息長丹生真人氏がある。
---------執筆者:佐藤 信
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典
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神功皇后と息長氏の系図は、“邪馬台国の会(2014.10.26 開催)第333回 神功皇后の時代”のものを引用させて頂いた。
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Wikipediaで要約を見ておく。
『古事記』における「息長」の文字の初出は、息長水依比賣である。父は天之御影神の六世孫・国忍富命、夫は日子坐王(第9代開化天皇の子)とされる。次は、開化天皇皇子の日子坐王の子である迦邇米雷王を父とする息長宿禰王(『紀』では気長宿禰王)であり、神功皇后の父とされる。第三は、息長宿禰王の娘で第14代仲哀天皇の皇后・神功皇后(じんぐうこうごう)であり、諱(実名)は『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、『日本書紀』では気長足姫尊とされる。第四は、神功皇后の弟の息長日子王、第五は、倭建命の子である息長田別王、第六は、倭建命の子・杙俣長日子王の娘である息長真若中比売。その他、香春神社の祭神である辛国息長大姫刀自命や、『続日本紀』に見える額田部連息長、吉備津彦後裔の吉備上道臣息長借鎌、『播磨国風土記』に見える天穂日命の後裔で山直の祖・息長命、『新撰姓氏録』で茨田連の祖と見える景行天皇皇子の息長彦人大兄瑞城命などがいる。
『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王が中興の祖とされる。皇室との関わりを語る説話が多く、姓(かばね)は公(きみ)であり、同族に三国公(後の三国真人)・坂田公(後の坂田真人)・酒人公(後の酒人真人)・波多君(後の八多真人)など、準皇族のニュアンスのある公や真人の姓(かばね)である。
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息長氏は奈良・平安時代には坂田郡司を歴任。ほかに京都府南部の綴喜(つづき)郡あたりにも居住していた。
※息長水依比賣の祖は天之御影神とされるが、実在性が薄い。天之御影神は、近江の野洲の三上山に坐す神で、それに斎くのは御上祝の名を持つ在地の氏族三上氏である。
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御上祝の三上氏は近江国三上郷を本拠地とする一族とされる。 この三上氏は、古代より近江国野洲郡三上郷に住む、近江国三宮 元・官幣中社、御上神社の神職家系、御上祝(=三上祝)である。 三上氏は天照大神の三男、天津彦根命の嫡流氏族と称し、天津彦根命の御子神・天之御影命が、三上郷にある三上山に天孫降臨したことに始まると伝える。 『御上神社沿革考』によると、三上山は天照大神の父母神、伊弉諾命と伊邪那美命の墳墓である。
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と、これは御上神社の由緒書をWikipediaが掲載したものらしい。架構された系図である。(実在性のある三上氏に結びつけて水依比賣に息長の名を冠したのは、息長帯日媛以前に息長氏がいた様に見せかける作意が感じられる。)
また近江の息長氏については、
“その居住した坂田郡の地域に黄牛谷の名があり、そこには牛を供犠にした祭祀跡がある”というのは、出羽 弘明氏の著書「新羅神と日本古代史」(同成社刊行)で見た。この著述には、日本に多い新羅神社について書かれていた。
このほか坂田郡の息長宿禰王の墓所という伝承のある古墳の近くには黄牛塚古墳もあり、坂田郡の氏族(坂田氏か、息長氏か)が、黄牛族(出雲族)の祭祀に参画していた可能性を示唆する。
しかし出羽氏は、後世新羅によって統一された南韓の各部族のほかに、斯羅国の統一構想に服さない多数の国があったのだが、これらの地域からの渡来人も全て新羅からの渡来としている。
辰韓から渡来した五十族や金官伽耶(後に新羅に併合された)から亡命した秦氏なども、後世の日本人から見れば新羅人とされるが、彼らは無論新羅人ではない。
斯羅国が周辺を征服して新羅となっていく過程で抵抗した部族の多くは加羅南部を経由して日本列島に移住した。
三韓は最終的には新羅によって統一されてしまい、新羅人自体は亡命や脱出の必要性が無いので、特殊な事情を抱えた一部の人たちを除き、新羅人は日本に渡来してこなかった。(但し平安時代前期には、新羅人商人は貿易のため博多に渡航して来て居宅も有していた。)
神功皇后伝説には、草壁ついで文武を皇位継承者に推した持統や、文武の母で聖武への継承を望んだ元明の二人の女帝像が反映していると考えるべきだろう。
日本列島で、天孫族が出雲族を圧倒して、統一大倭を建てると、宇佐も最早独立地方政権たることはできず、結果的に出雲族・宇佐族のための置龢の役割は不要となった。天孫族は龢族そのものなので、置龢を必要としない。奈良時代中期以降は、息長氏は単に皇別氏族の一つとしてしか認識されないようになった。結果的に息長老以降には四位以上の貴族になった者も出なくなる。