補遺60「天孫族と火打石」
天孫族考補遺60「発火法から見た天孫族の出自」
今回の考察の元は、今年の初春に出版された一冊の研究書を見たことであった。書名は、「火打石と火打金の文化史(考古学から見た火起こしの研究)」(藤木 聡著、吉川弘文館)。藤木博士は、現在は宮崎県埋蔵文化財センターに勤めておられる。
何故、この発火法の研究書に興味を持ったかといえば、以前に勾玉について考究した際に、その“穿孔法として、金属針の伝来以前に、石針を棒の先に装着して、発火法に用いる弓錐の仕掛けを援用した”という記事を読んだことがあったからである。
そも勾玉は縄文時代からあり、無論火の使用も縄文時代には十分普及していたのであり、弓錐という錐を先端に装着した火起こし棒を弓の弦に巻き付けて回転させて、火臼に圧着して摩擦熱を発生させて火を起こす方法が弓錐発火法であるが、その方法で勾玉に孔を穿ったというものであった。
それで、縄文時代以降歴史時代までの発火法の変遷を見てみることによって、それら発火法の変更に伴って、何らかの民族移動があったのではないか?と思い付いたのである。
◯発火法の色々---------発火法の発展史
歴史的発火法(中国では「取火法」という。自然採火も考えての用語法である)には二つの種類がある。
もっとも、北京原人などは火を使っていたが、発火法は知らず、山火事の火(自然火)を採取してそれをキープしていたものと考えられている。これがホモサピエンスの時代になっても、山火事や落雷の引火などからの自然採火が主であったらしい。
新石器時代になると、摩擦式発火法が考案された。摩擦式発火法は二つのやり方がある。
①一番原始的なのは、火鑽杵という先端を尖らせた棒を、火溝とか火臼とかいう板に圧着して往復させ、その摩擦熱で、火口《ホグチ》になる物(麻の繊維をバラけた綿状の塊など)に着火しようとするものである。これを往復式摩擦法という。
②もう一つは火錐式といい、錐を板の端部で圧着し手で揉んで回転させて、やはり燃え易い火口に着火させる方法(回転錐式)である。
---------これらの二つは、今でも山岳部のサバイバル法などとして、アウトドア雑誌などによく取り上げられている。
しかし前者①などは、容易に着火しない。よほど長時間やってもなかなか着火温度の300度Cには達しない。
太平洋戦争後ガム島に潜伏していた横井庄一さんが、この棒式摩擦法を何度か試みたが、疲れただけで一度も着火しなかったと言っている。
(結局彼は、割れた瓶のガラスの破片をレンズにして、太陽光を集めて採火したらしい。凸レンズ式採火法や、凹形鏡を使って集光する《こちらは今でもオリンピックでのギリシャのオリンパス神殿跡での採火に使われている》方法は、洋式採火法だが、古代の東洋では実用化されなかった。)
回転錐式発火法は、目下のところ発掘された縄文時代の遺跡からもよく見つかっており、普及していたと、一応は言われている。
しかし、やってみると分かるが、手揉みで錐を回転させるというのも相当に疲れるもので、これまたなかなか着火しない。
だが最近まで台湾の少数原住民のシャーマンなどが、儀式用の採火にこの弓錐式で火を起こしていた。
※挿入画像は台湾原住民の鄒(ツォゥ)族の火起こしを(モノクロ画面は)前掲藤木聡氏の著書で紹介している写真であるが、比較のカラー写真は、現今の阿里山鄒族の民俗の観光用実演のものである。後者の場合、やはり彼らでも回転錐による発火法は相当に骨の折れるものと見えて、火口の支援用に、油容器らしき物が側に置かれている。発火し易いライターオイル辺りだろうか?これには笑えてしまう。
手揉み錐はなかなか発火しない。そこで、③弓錐式発火法が考案された。先述のように、“錐を先端に装着した火起こし棒を弓の弦に巻き付けて回転させて、火臼に圧着して摩擦熱を発生させて火を起こす方法”である。手で回すのと違い、かなりの回転速度を稼げるので、着火し易くなる。
この変形で④舞子式弓錐法というものも考案された。
弓の回転装置部があたかも舞子の様に見える(私にはむしろ案山子式という法がふさわしく思えるが。ま案山子の旋舞か。)
これらの摩擦式発火法が、縄文時代〜弥生時代までの、我が国の発火法である。
そして古墳時代になると、打撃式発火法が伝来する。先ず⑤火打石式発火法である。これは二つの火打石を打ちつけて、衝撃の火花をホグチに着火する方法である。
それが更に進化したのが⑥鉄火式という、一方が火打金になったものである。
このほかに我が国には伝来しなかった発火法として、東南アジア〜中国雲南・広西で使用されていたという⑦筒式圧縮発火法というものがある。→後述。
ところでこの⑤と⑥がいつの時代に伝来したのかは、それを伝来した部族の渡来とリンクしたものだから、火打石及び火打金の有無によって、対象になる遺跡に居住した部族が推理できるのでは無いか?というのが今回の論旨なのである。
※最古の確実な火起こし道具の証拠は、ドイツ・シュラインツィング出土の新石器時代(紀元前4000年頃)の火鑽板。中国では殷墟(紀元前13世紀)の甲骨文字に「火」を鑽る行為を表す文字が確認されるが、具体的な方式は不明とされる。
日本列島では縄文時代早期(紀元前5000年頃)の焦痕付き木板が出土しており、往復式と推定されている。
◆火打金発火法の発祥→鉄の帝国ヒッタイトだとの推定
鉄火打石(火打金打撃発火法)はおそらく西アジア・中央アジアで考案され、中国に伝来したと考えられている。
西アジア(メソポタミア・アナトリア)では、紀元前3000年頃から鉄器と火打石の使用が確認されている。
中国では、確実な火打石の使用は前漢(紀元前2世紀以降)からで、“匈奴などの遊牧民を通じて伝わった可能性が高い ”と(一部の中国人学者が)いうのだが、漢と匈奴は敵対関係にあり、戦略的な技術である発火法を、匈奴が漢に教えるだろうか?一方で、西域の羌族は前漢と同盟して、匈奴に当たっていたので、火打石の擬術を漢に教示した可能性が高い。
考古学的に、東アジア最古の火打石は北方(内蒙古・遼寧)で多く出土し、西域(新疆方面)との関連が指摘されている。
※考古学的に最古と推定される火打石はどこだろうか?
世界最古の鉄火式火打石の証拠は、トルコ(アナトリア)のヒッタイト遺跡(紀元前2000~1500年頃)で、鉄と火打石のセットが確認されている。
また中央アジア(アルタイ地域)の遊牧民遺跡(紀元前1000年頃)でも、鉄製の火打金(Fire striker)が出土した。
◯海人族の渡来による弥生時代の開始と発火法
海人族の源流は一般に中国江南〜長江流域に住んでいた倭人(ヰジン)である。この南方系の民族は、相当長期的に摩擦式発火法を使っていた。木材の入手が豊富だったことで、発火具(火錐や火錐板)の調達が容易だったからだ。
南朝時代の大都市では火打石があったというが、地方には普及していなかった。中国南部地域に火打石が普及するのは、中世;宋や元の時代になってからだという。
従って日本へ渡来したいわゆる海人族には火打石を使用する文化は無かったのである。
だから、彼らが日本へ渡来した縄文後期〜弥生時代前期までは、我が国には火打石は使われず、縄文時代以来の摩擦熱式発火法が使われていた。
但し、弥生時代には、単なる手揉み火錐法ではなく、弓錐式や舞子式の様な高度の技術を駆使した発火法が考案されて普及していたと言われる。これは、実際の弥生時代の遺跡出土品でも確認できるという。
もっとも、一口に海人族といっても、水人・海人にはいくつかの系統があった。
一般的に安曇族というのが、もっとも早期に日本列島にやって来た海人族である。これが、中国での長江及び淮河水系の水辺民族であり、元来の倭人である。それが朝鮮半島に進出したのが濊族である。それが、南韓沿岸多島海〜対馬・壱岐を経由して、九州北部〜瀬戸内海西部及び日本海沿いに北陸にまで渡来した。この人たちが先ず水稲を伝来したのである。
安曇海人には火打石の文化は無かった。
次に渡来した海人は、海部となった人々で、出雲族系海人である。かれらは、辰韓の(非新羅系の)黄牛族(即ち日本列島に五十族として渡来後、最終的にヤマト出雲に入って三輪王朝を建てたのだが)それが南韓の濊族を組織して配下にしたもので、渡来後は安曇族と平和理に棲み分けていたと考えられる。
彼らは出雲族の統制下にあったので、恐らく火打石を伝来したと考えられる。
海部の祖神は火明命である。火打石で摩擦式より容易に火が得られる様になったことを暗示させる。
これと同期して秦氏系の水人が渡来した。豊の国周辺〜河川の河口域〜中流域に生息地を見つけた。これが川部となって行き、最終的に秦氏の川勝によって統括される。
最後に渡来した海人は綿津見と呼称される人々である。彼らは、天孫族の渡来を支援するために南韓の海人族が組織されたもので、天孫族の水軍を統制する春日氏や多氏によって率いられたものだ。天孫族とともに渡来したので火打金を使った。
天孫族の火打金は、発火を格段に容易にするものであった。天孫族の子神は彦火火出見命である。私はこの神名の火火は、肥国の二つ(肥前・肥後)の阿蘇と雲仙の二つの火山を指すものと考えて来たのだが、火打石と火打金の二つの出火具を暗示しているのかも知れないと、今回の考究で着想した。
また秦氏系川人はタリム盆地時代には、多氏の統制下にあったので、渡来後も、多氏の東国進出に同調して、木曽三川〜大井川流域〜相模川や利根川流域などへ進出した。以前天孫族考で論及したように、輪中という水制工法は[秦氏+多氏]の提携地に特有のものである。
◯渡来人のもたらした火打石(打撃式発火法)
海人族には火打石が無かった。従って弥生時代までの遺跡からは火打石が出土していないのも当然である。
◆中国における海人族の原郷での発火法
殷周時代の江南・倭人・淮族では、鉄の普及が遅かったため回転式摩擦発火が主流であり続けた。
春秋戦国時代以降、楚や中原からの鉄器も伝来し火打石も紹介されたのだが、湿潤環境かつ木材の入手が容易なため、火打石方式よりも摩擦式が残り、むしろ竹筒式(圧縮発火法)が併用された。
実際、中国東海岸(山東・浙江)の遺跡で、火打石の出土は稀だとのこと。
特に倭人(海洋系民族)では、回転錐摩擦発火法を長く保持したと推測される。 これが、彼ら海人族が渡来した日本列島でも維持され、弥生時代の発火法も摩擦熱式だった。
→※東南アジアでは水牛の角などの筒や竹筒・木筒を用いた筒状空気圧縮発火法がある。後世には金属の筒を使ったファイヤーピストン式発火法となり、これがディーゼルエンジン発明のヒントになったと言われる。
淮南地域では、南北朝期には火打石が普及した。しかし鉄が入って来ても、それは鉄器具用であり、火打金として使われるのは、はるか後代の宋元の時代からである。
つまり、日本列島の海人族では、弥生時代までは火打石が使われていなかったのである。
◆火打石は古墳時代から
ところが日本列島では、古墳時代になると、翩翻として火打石が発火法の主流となった。
だから火打石はその頃の渡来人が伝来したものであろう。
この頃の火打石は、北九州やヤマト周縁で出土するので、出雲族が火打石を使っていたと考えられる。
出雲族による三輪王朝では、ヤマト地域で火打石が使われるようになったのだ。この時期、中国でも漢〜後漢・魏の時代には発火法としては打撃式即ち火打石の使用が一般人の間にも普及していた。
漢の文化圏の周辺では日本列島へ、いわば“文明の利器”として火打石が伝来した。もっともこの頃は、倭と中国王朝(漢・魏)との朝貢関係が頻繁に行われていたわけでは無い。
よって推定されるのは、三輪王朝を建てた出雲族が日本列島へ渡来した時に火打石を持参したと考えられるのだが、それは、彼らが中国から学習したものでは無かったという事である。
一方、記紀のいうところの日向地域には火打石は普及していない。火打石が南九州に普及したのは7世紀末〜8世紀以降である。従って、こういう点からも、ヤマト王権の南九州発祥説は成立しないことが分かる。
記紀流にいうなら、長髄彦&饒速日連衡政権を倒してヤマト入りしたこととされた神武政権は、火打石も持たない未開の部族であり、畿内ヤマトには、それより優秀な;文明的に優れた部族が先住していたとしなければならくなる。野蛮な部族が文化的に先進部族を倒すことは無いとは言えないが、これは稀である。
ましてや、神武の時代には、天孫族に特有の火打金は存在しない。
◯鉄火式発火法は何時ごろ日本列島へ伝来したか?
中国の中原地域に火打金(鉄火打ち)が登場するのは、早くとも唐末以降であり普及したのは、恐らく五代〜宋の時代以後だったと考えられる。
もっとも中国の学者の中には、李京華氏(古代冶金学研究家)のように、火打金は初唐から使われ始めていたとの説を唱える人もいる。これは元々火打金の使用は、西南アジア〜中央アジアで始まっており、それが草原の道を通って漠北の民族に伝来していたので、鮮卑拓跋族の建国した北魏の後裔である隋唐の支配層には早くから火打金が知られていた可能性があるからだという。しかしそれが一般の民衆の間にまで普及したのは唐末〜五代の時代だったと考えられている。(一方で、鮮卑は東北辺境部族なので、いわば先端技術品である火打金は伝わっておらず、隋の統一後;多分には唐になってから西域支配を強化した時代に、ソグド人商人などから入手したのが最初だろうという説を唱える;反論もあるようだ。)
※中国では火打金(燧鉄)を火鎌(カレン)という。但し農具の鎌と区別するために旁の兼を旧字の廉にする。日本でも燧鉄の別名として江戸期には火鎌(ヒガマ)と呼ぶことがあった。
だが、我が国の考古学的な遺物の中には、推定で7世紀末〜8世紀(中国では武則天時代、我が国の奈良時代前半)には、火打金が各地でかなりの数出土しているという。
初唐以前の隋や更にその前の南北朝時代には、少なくとも中国南朝地域には火打金は普及していなかったらしい。
という事は、いわゆる“倭の五王”そして継体王朝期には、五王の朝貢時の(南朝からの)土産品や遣隋使の(隋側からの)返礼品として火打金が含まれる事は無かったと考えられる。つまり火打金は中国からの渡来品ではないのだ。
だから第一次応神朝(河内王朝)か、第二次応神朝(継体王朝)時代に火打金があったとすれば、この時代の中国王朝経由では無く、別のチャンネルでのImportを想定しなければならないだろう。
即ち、それが可能になる方途としては、三韓経由しか考えられない。
遼寧省の戦国時代遺跡(前4世紀)で鉄と火打石の組み合わせらしき遺物が発見されており、中国でも地域的に先行例が存在した可能性が指摘される。(そこは西遼河言語連合の地域である。)
つまり、これを考慮するなら、少なくとも火打金の使用(つまり鉄火式発火法)は、我が国の方が隋唐よりもかなり先行していたと考えられるのだ。
実際に、延喜式の中の「賜蕃客例条」には、遣唐使が持参した唐皇帝への朝貢品リストが載っている。その中に“出火水精(水晶)十顆・出火瑪瑙十顆・出火鉄十具”の記載がある。
火打石に用いるのは、黄鉄鉱や石英などモース硬度6.5〜7.5の範囲の硬い岩石であり、水晶や瑪瑙などもこれに該当する。従ってこの水晶と瑪瑙と出火鉄とは、火起こしのための火打石と火打金の事であると考えて間違いがない。延喜式は10世紀初頭の文書だが、概略9世紀までの遣唐使で、日本側からの土産品として鉄火石式の発火具を進貢するくらいだから、中唐時代までは唐では火打金は珍重されたということになる。
※但し、水晶や石英とか瑪瑙は見て呉れは良いのだが、黄鉄鉱やチャートなどに比べて、硬すぎて火打石に使うのはいささか大変!との意見もあり、出火水精と瑪瑙は、実用よりも外見を重視した進貢品だったのだろうとも推理される。
恐らく、火打石は、三辰=三韓の母体となった“辰国”には、東遷してきた小月氏がそれを旅中の必須品として携行して来ていたと想像されるのだ。(前漢以前のタリム盆地の月氏社会やチベット高原では既に火打石が使われていたという。)
しかし、その段階の火打石は、まだ岩石塊同士を打ちつけあって発火させる物であったろう。というのは、出雲族が日本列島に渡来した時でも、未だ火打金を用いていなかったと考えられるからだ。実際、出雲族(といっても、山陰〜出雲=ヤマトの五十族)の遺跡からは火打金が出土していない。出雲族の渡来は、青銅器時代であり、未だ鉄が普及する前だった。
この後、鉄と火打金とが、西域から三韓に伝来された。いつの時代にも、西域商人が東アジア〜朝鮮半島にまで足を伸ばしていたとされるからだ。事実、後世の元の時代になっても、ソグド人や白馬族(于闐人)の隊商が、東西交易路を通行するのが容認されており、前者は遼陽行省あたりまで、後者は羊皮筏を利用して黄河中流オビドス地域にまで商圏を広げていた。(もっとも、戦国時代の遼西の地に既に火打金があるというので、その場合は三辰の龢族か白馬族がオリエント方面から火打金を入手していたのかも知れない。)
だから、中国の後漢末〜魏晋南北朝時代あたりまでには、西域から三韓にまで火打金が伝来していた可能性が高い。私は、出雲族から遅れて日本列島に渡来した天孫族は、既に火打金を持っていたのではないか?と推理している。
私説では、天孫族は南韓の加羅から渡来したとして来た。加羅は周知の如く鉄の産地である。“そこ加羅で火打石と火打金の二つが揃った”というのは考えられる推測であろう。(とは言え、この発火法についての研究は、韓国では従来あまり重視されて来なかったらしく、古代三韓時代の遺跡出土品では、未確認なのである。)
但し、考古学的には、火打石の出土の発見には困難が伴う。火打石は、伝世品として子孫三代くらいまで使い続けられ、使うほどに発火させる鋭角縁が摩耗したり欠けていくので、タガネなどで断ち割って再使用される。そして実用に適さなくなると捨てられる。それが、なんと明治にマッチが入って来るまで、延々使い続けられてきた。この間廃物となった使い古しの火打石は、古墳や旧貝塚などの普段は使用されていない土地に捨てられたのである。従って、その火打石が、ある遺跡や古墳からの新たな出土か、もしくは出土品を並べて置いた地面に廃棄された石があって混入したのかの弁別が難しい。ましてや、大正以降の発掘従事者(雇人や今日ならボランティア、史学科学生などのアルバイト)は実際に火打石を使った経験どころか見たこともないので、転がっている石塊が火打石なのかどうかの判別が先ず出来ない。また火打金は鉄製だから、摩耗したら鋳直して使い回されたので、石と金がセットで出土するような場合を除きなかなか発見されにくい。
◯“火打石は出雲族が、火打金は天孫族が伝来した”
これは以上までの考究を踏まえて私が立てた仮説である。
整理すれば、
1)縄文時代〜弥生時代前半迄の我が国の発火法は摩擦熱式。
2)縄文時代後半期に海人族が渡来したが彼らのも摩擦式発火法。そして弥生時代前期まではそれが続く。
3)出雲族が渡来してその時に火打石を伝来した。その為古墳時代の前期までは火打石発火法だった(但し岩石同士の打撃式)
4)天孫族が九州に渡来する時に火打金を携行した。ここから鉄火式発火法の時代が始まる。
◯卑弥呼の下女はどういう火起こし方法を取っていたのか?
これは卑弥呼が何族の出自かを判定する手がかりとなる。
邪馬台国で卑弥呼の指揮下の九州の一大率には伊都国王が就いていたことが、魏志倭人条に言及されている。
伊都国は五十族の国であり、従って出雲族の同族である。出雲族;この時居たのは、三輪山麓=出雲=その一部がヤマトであるが、この出雲ヤマトが邪馬臺国であるのか?もしくは邪馬臺国の一部なのか(というか邪馬臺国を盟主とした国家連合に参加していたのか)?或いは邪馬臺国とは別個に存在していたのか?は分からない。これは邪馬臺国がどこにどういう形態で存在していたのか?を研究している学者・識者によって異なるからだ。
(言い換えれば、邪馬臺国を九州の何処かにあった国なのか、畿内にあったのか、或いは阿波とか越・吉備などのその他の地方にあった国なのか?の解釈によって異なる、という事である。)
しかし、出雲族はクシャトリアである黄牛族が中心の国である。
そうするとゾロアスター教系の教義上では、仮に卑弥呼を盟主としていたのなら、卑弥呼は同じクシャトリア出身か、或いはその上位の龢族バラモンの出自であるか(その中には、龢族自体の国;つまり天孫族の国の出身である場合と置龢であるいわゆる息長氏の出身である場合もあるだろう)のいずれかであるに違いない。※私説では、置龢は出雲族と秦族とに成育されていた。
言い換えるなら、卑弥呼は一説による海人族や、ましてや先住民である縄文族の出身である事はあり得ない。海人族のシャーマンである卜部などであっても、それはバイシャかシュードラなのでクシャトリア国家である伊都国を臣従させることは出来ないのである。
伊都国は、辰韓伊西国からの亡命渡来民が中心となって建てた国であり、ヤマト王権に服した後(応神朝)に、葛城襲津彦の三韓派遣軍に参加して奮戦し、一時は宿敵の新羅の王城・金城(今の慶州)を落とす勢いだったという伝承がある。恐らく伊都国の国人だけでなく、辰韓に残留していた伊西国の遺民も参軍していたのだろう。そのくらい武力に秀でた国が伊都国だった。だから魏志に書かれたように、周辺国は一大率の検察に恐れを抱いたのだ。それが卑弥呼の邪馬臺国に臣従したのは、伊都国王より卑弥呼の方のカーストが高かったからではないだろうか?
さてそこで発火法との関係であるが、伊都国は、魏志に記載はないが、辰韓にいたクシャトリアの国であるから既に火打石を使って火起こししていたであろう。現実に、九州北部ではかなり早い時代と思われる遺跡から火打石が出土しているようだ。
そうすると、卑弥呼の治下の邪馬臺国でも既に火打石を用いていたと考えねばならない。邪馬臺国が何処かは確定されないが、そこの跡地では火打石が発見されなければならないことになる。
ヤマト出雲は出雲族の国だから火打石を使用していた。しかしその他の候補地ではどうなのだろうか? 阿波などではどうだろうか? (但し阿波の忌部は、元来はバイシャであるので、卑弥呼が忌部であることはあり得ない。)
※注意すべきは、火打石はその後の火打金と一緒に使われて、明治初年まで継続使用された。従って、火打石は本当にその遺跡出土なのか、それともそこに捨てられた物が混入しただけなのか?これを弁別しなければならないという事であるのは、既に述べた通りである。
時に、江戸期には、火打石といえば、“阿波角石”というくらいに阿波の今の阿南地方産、特に大田井という場所で産出するチャートが有名だった。角石とは燧石とも表記され、要するに火打石である。徳島藩の特産品として、阿波藍と阿波角石が挙げられる。徳島藩では、火打石は専業の役人を置いて統制した。何せ藍と違い、火打石は掘り出せばいいのだから原価が圧倒的に安い。抜荷をした者は重罪人となった。チャートは放散虫の化石であり、日本では中央構造線に沿って産出するのだが、この大田井産火打石は、発火が良好ということでブランドとなり、江戸時代には九州一円〜瀬戸内地方そして京大阪〜中京〜江戸までの広い範囲で普及した。阿南は海部の原郷の一つである。この阿波角石が何時ごろから流通し始めたかは、あまり古くからなので分かっていない。海部が使うことからも、海部は出雲系海人だったと推理できよう。
◯明治以降の発火法
文明開花後に、西洋からマッチ(燐寸棒)式発火法が伝わると、かなりのスピードでこれが普及して、火打石に取って代わった。(実はこれは本邦だけでなく、清国でもそうだったらしい。)
これを敢えて洋式発火法という人もいる。その後タバコ用のライターが輸入され、その簡便形である百円ライターが普及すると、着火具の代表は急速にマッチにとって代わる。今では電池式ライターもあり、これは最早、煙草専用のライターではなくなった。
この過程で、一般家庭のどこにでもあった火打石は、太平洋戦争直後にはマッチ入手不足で一時的に復活したらしいが、その後は一挙に不用物となって棄て去られ、忘却された。