補遺60続々追補「日本へ火打金を伝えた氏族は」

天孫族考補遺60続々 追補「火打金はどの氏族が列島へ伝来したのか」

南韓では火打金は火鎌と呼ばれ、上図はその形状の一例

膳臣と阿倍臣 内膳司の長官が膳臣

阿倍氏は膳(カシワデ)臣から分枝したという伝承を持つ。

膳臣は、令制以前は膳職・令制では内膳司の長官である奉膳(ブゼン)を安曇連と二人司で共役した。安曇は桓武朝に失脚し、その後平安時代以降は内膳司とそこから分岐した大膳職を含めて、膳臣(途中天武朝で改姓して高橋朝臣となっていた) =高橋氏が宮廷の料理を事実上支配した。

膳臣と阿倍氏(平安時代以降は安倍氏)は共に大彦命を祖とする同族だという。しかし、そのどちらかが分流だとされる。後世、阿倍氏の勢威が盛んになり公卿を輩出するようになると、高橋氏は自ら阿倍氏の傍流だと主張した。

だが、一部の識者に依れば、阿倍とはアへ(饗)に由来する氏名であり、膳臣が元来の本宗だとされる。

大規模な饗(宮廷の宴会)の食材の調達には、場合により旧縄文族の支配地(祀ろわぬ者:土蜘蛛や蝦夷の地)や、豪族の田荘にも入り込まねばならないから、軍隊の食料の強制調達と同様に、武装して臨まねばならない。また武器の使い勝手にも熟達する必要がある。この為、饗の調達部隊(阿倍)は武力集団になって行ったのだろうと想像される。

阿倍氏の分流には、引田臣があり、そこから阿倍比羅夫が出た事で、海人系だという説もあり、多氏同族の阿蘇氏に仕えた阿蘇部に由来するともいう。

これは膳臣も元来の統括者は、宮廷の壬生であり仲津臣(内廷の宰領)だった多氏であり、多氏が上古に天孫族の水軍を率いていた事と関わるという解釈もある。

膳氏の中で、多氏に従って武力の才によって取り立てられたのが阿倍氏だったのではないだろうか。

(いわば、多氏水軍の海兵隊の役割を阿倍氏が担っていたのかもしれない。大伴氏が恐らく陸戦隊であろう。)

これと類似していたのは、仲津臣の内廷祭祀の下働きに従事していた中臣連であり、その元来は亀卜の職務を担う卜部氏であった。占部は次第に単なる卜占だけでなく、その勝負運を卜占で判じるに留まらず、結果を出すための武力奉仕にも従事した。鹿島の中臣氏は那珂国造である多氏の先兵隊として、磐城方面の蝦夷戦に従事して頭角を現したという。近江朝の中臣金などは、軍事貴族化していた。

亀卜や、多氏の元来従事していた鹿卜に於いても骨を炙るためには火を起こさねばならない。その火起こしは宮廷の台所を仕切る膳氏の職掌なのである。

大炊寮や、衛門府の松明の火なども内膳司の熾火を“貰い火”して点火したのである。(熾火の竈が三種あった。

←《『延喜式』の「内膳司式(ないぜんじしき)」によれば、天皇の食を饗する御竈には「平野・庭火・忌火」の三竈があり、庭火御竈(にわびのみかまど)は平時の食膳、忌火御竈(いみびのみかまど)は祭事の食膳を饗し、平野御竈(ひらののみかまど)は健康・吉祥を司る御竈であるとされた 》)

※卜占の火を切り出す事から、火打石と金は魔除けの呪具としても意識されるようになった。(阿倍氏の後裔が、平安朝になって安倍晴明という陰陽師を出したのは、火を司ったことの延長下にあったとはいえないだろうか。)

◯古代宮廷で火打は膳氏の職掌

さて改めてここで論じようとする主点は、“古代の宮廷では、火打石と火打金は専ら膳臣の用具だった”という事である。

そしてこの役割だが、天孫族が崑崙南麓高原(高天原=タカマガ・カルラ)にSophiRu:蘇日霊族(漢訳は葱茈族、和訳では日之下族)として在った頃、王族の食事を賄う職務を果たす際には、恐らく火打石のみ(正確には二種の火打石の打撃法)を使って火起こししていたと想像される。これは、火打金は蘇日霊族の建てた東チベットの蘇毗国ではなく、その後の吐蕃の時代になって普及した道具だと

想定されるからである。

その葱茈族(小月氏三族の一つ;他は黄牛族と白馬族)が黄河を下って大東遷し、遼河流域に建てた辰国(三辰)の時代に、周辺の匈奴や鮮卑などに(北方草原ルートで)伝来していた火打金を取得したと考えられる。

そしてそれは葱茈族の王族の内膳職として従臣していた“原・膳氏”の職掌である火起こしの用具だったのである。

膳(カシワデ)の語源は柏手;つまり柏(檞)の葉を食膳の皿代わりに使っていたことに由来するという。

※ カシワという名前は、①「炊葉(かしきは)」あるいは「食敷葉(かしわ)に由来し、食物を包んだり、食物の下に敷いたことに因む、②葉が堅いことから「堅し葉」に由来する、といった説がある。漢字表記は檞あるいは槲が正しく、誤用されがちな柏は本来、全く別物のコノテガシワを表す。(uekitopia より)

→ カシワ(槲、学名:Quercus dentata)とは、北米原産で、ブナ科コナラ属の耐寒性・落葉性広葉高木。

ベーリング海峡がアジア大陸と繋がっていた頃に、北ユーラシアの高冷地に広がったという。

しかし上古の食敷葉つまり皿代わりの木の葉は槲だけでなく、知られているだけでも大小十数種の木の葉が用いられたという。考えてみれば、大きな芭蕉の葉なども大皿代わりに、つい最近まで用いられていた。だから膳=食敷葉手とは必ずしも槲(カシワ)の葉のみを意味したものではない。柏手(カシワデ)という祭祀行為に由来するという解釈は成り立たないものだろうか?(むしろ柏手を打つ時の掌の形が槲の葉に似ているからだとされているのだが)

葱茈族が、三辰から月支国〜高霊加羅〜北九州の日下国(久我=狗奴国)〜大倭磐余の応神王朝と変遷する過程にも膳氏は継続して従属していたと思われる。つまり日本列島へ火打金を伝来したのは、天孫族の扈従氏族である膳氏だったのだろう。だから膳氏の姓(カバネ)は天孫族の直臣である「臣」なのである。これが、天孫族が列島へ渡来する前から海人族として先住していた安曇氏の姓が連であることとの違いである。安曇氏は宮廷の贄を調進することで内膳職の地位を得たのである。

◯膳氏=高橋氏

“7世紀末に高橋朝臣に改姓した膳朝臣であったが、後に公卿に昇った人物を確認することはできない。しかし令制以前の伝統を背景として、天皇の食膳に奉仕する内膳司の長官や、御食国である志摩国・若狭国の国守に任じられることで勢力を保ったようである。とくに志摩国守の地位は原則として高橋朝臣による世襲であったらしく、平安時代には除目の対象とならず、氏人の推挙で新任の国司が選ばれていた。志摩国には多数の「大伴部」の分布が確認できるが、これらは磐鹿六鴈が賜ったとの伝承をもつ「膳大伴部」である可能性が指摘されており、高橋朝臣と志摩国の強固な結びつきが確認できる。”(國學院大学氏族データベースの膳臣の項より引用)

※ 磐鹿六鴈(イワカムツカリ)は孝元天皇皇子の大彦命の子である比古伊那許志別命の子、つまり大彦の孫。

この際推理できるのは、五十族(出雲族)が日本渡来した頃は、恐らく先住の安曇族が五十族王家の内膳奉仕職に就いたのでは無いかということである。海人族には火打金の使用が確認されないので、出雲族王朝(三輪王朝)の時代には、ヤマトには火打金は伝来していなかったであろう。火打金を用具とした膳氏は、天孫族の従臣だったからだ。言い換えれば、日本に火打金が伝来したのは、天孫族に従属した膳氏が渡来した時であったろうということなのである。

天孫族渡来の直後から、神話での;大山祇と天孫との関係が生じており、その結果天孫族王家への贄の調進も(出雲族王家時代=三輪王朝に)引き続き安曇氏が担ったのではないだろうか。

しかし所詮海人族の安曇連は天孫族の直臣ではないので、延暦年間、違勅の罪で安曇氏は内膳司の奉膳職を外され、以降は高橋氏(膳臣)がその職を独占して明治維新にまで及んだのである。

磐鹿六鴈は、景行紀に東国巡行の際に蛤の料理を調進した事でその子孫の膳氏が内膳職に就く事になったとの伝承が書紀に載る。

磐鹿六鴈が火打金を使ったかどうかは書紀では解らない。

神今食での火打金

膳臣=高橋氏が火打を行うということを、「神今食」という、宮中内廷の神饌祭儀の次第からも見てとれる。

神今食は、カムイマケ、カミアゲ、カムイマスケ・カムイマスクなどと訓まれ、語義は「稲を粉のまま貯へ置きたるを今磨イマスリとして御食とする故」、

「新規な奉り物 (すけ) 新規なおあがりもの(すき)」

などと説明されている。

天皇が神嘉殿に出御し、御浴の後、坂枕・御寝具を供えた室内で、亥の刻の夕ノ神饌供進儀・丑の刻の暁ノ神饌供進儀を行うという次第は新嘗祭とほぼ同じだが、供される米が新米ではない点が異なっている。

江家次第』『儀式』巻第一には、神今食は

次のように記されている。

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膳伴造鑽ゝ鎹、即炊三御飯、安曇宿禰吹火、内膳司率諸氏伴部及采女等、各供二其職、料理御膳雜物(中略)次内膳司高橋朝臣一人〔執鰒汁漬〕 次安曇宿禰一人〔執海藻汁漬〕 次膳部六人  [並供神并供御雜物等〕 次酒部四〔執御酒案〕

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夕膳・暁膳の準備の段階での炊飯の補助と、神饌供進の場での海藻汁漬の献饌が安曇宿禰の職掌である。天皇が主体となって、 神饌を皇祖神アマテラスに奉る祭儀なのであるが、「膳伴造鑽ゝ鎹」とあるのは、

膳伴造は高橋氏の頭人のことであり、その人が鑽鎹というのは、火打金を切って火を起こすという事である。鎹の字は日本の国字だとされ、一般にはカスガイと読まれる。しかし鎹はカスガイの形状即ちコの字型の鉄片をも意味したという。火打の行為は“燧”と書くが、“鎹”はコの字型の火打金のことである。

既述の火打の研究者である藤木聡の「火打石と火打金の文化史」所載の火打金分類でも、15番に鎹状のコの字型の火打金が見られる。恐らく最初は本当の(大工の使う)鎹を流用したのかとも考えられる。

※ 鎹は古墳時代中期(5世紀)から徐々に採用され、広がっていくが、兵庫県内には全国的にみても突出して古い例が知られている(弥生時代末の立石墳墓群の鎹。 50㎝程度の木箱の固定具として使用された可能性がある)。 5世紀以前の例は全国で31遺跡が確認されている(亀田2004年)。---------考古資料集成23.“初期の釘・鎹(かすがい)”:兵庫県立 考古博物館

https://www.hyogo-koukohaku.jp

上古に鎹を常用していたのは木工寮に所属する宮大工であったが、彼らが元来北伊勢を根拠地とした員弁族だったことは、過去の天孫族考補遺で詳述した通りである。

膳臣は木工寮の大工から鎹を入手したのであろう。

奈良の高橋神社

※高橋朝臣となったのは、ヤマトでの拠点の;添上郡高橋邑(今は奈良市八条町)に因むという説が一般的である。だが、この高橋邑は物部氏流の高橋神社の神官の高橋氏の本貫地であり、膳臣の高橋氏とは異なるという説もある。これは、崇神朝に三輪大物主の祟りを鎮める為、大田田根子をして祭祀させた時に、この高橋邑の活人なる者を酒人にしつらえ、お神酒を捧げさせたという記述が書紀にあり、この事から、この高橋神社の神官は大物主の祭祀に関わるので物部系だとされたのではないだろうか。

そも高橋(髙橋)=「たかはし」とは神聖な場所で神を奉る柱や、掛けられた梯子のことをいう。その神職が「高橋」を名乗ったり、その場所を「高橋」と呼んだ。従って全国に高橋の地名も神職の高橋氏もまた数多い。

膳臣が高橋朝臣となったのも、宮中の神饌祭儀によって、神と天皇を繋ぐ務めに拠るのではないか。

奈良の高橋神社の祭神は今は磐鹿六鴈命であり、膳臣の祖とされる。

※ なお「江家次第(ごうけしだい)」は、平安時代後期(12世紀)の有職故実書。著者は中納言大江匡房。全21巻(現存は19巻)。大嘗会や四方拝に関する記述を含め、この時代の朝儀の集大成。

で、この平安後期になっても、延暦年間に失脚した筈の安曇氏が“神今食”に参画しているというのは、内膳司の長官(奉膳)には就けなかったものの、安曇部は依然として宮中調理の下職には起用されていた事が分かる。

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