補遺60続々追補番外「平野という竈」

天孫族考補遺60続々追補 番外「平野という内膳司の竈の名は?」

上図は三連の竈であるが、内膳司の竈は独立した竈が三つ並んでいたのだろうと想像される

高橋氏の管理する内膳司の御竈三つの名が、忌火と庭火及び平野だったことを、補遺60続々追補で言及しておいた。三つの名の内、忌火と庭火の名は理解できるが、平野という竈の名の由来が不明である。---------として、補遺追補の自己レスに以下のごとく述べた。

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延喜式は平安時代のものであるが、平野という摂津国住吉郡平野庄の名は、坂上田村麻呂の子の坂上広野が営んだ事に因むものであり、どうしてその地名が付いた竈が宮中にあるのかが分からないのである。また平野の地名は平安時代のものであり、では平城京時代までの内膳司でも平野の名だったりしたら、この平野は摂津国住吉郡平野庄の名に因むものではない事になる。なおも分からなくなる。

よもや、実は逆に平野に住んだので坂上広野の名になったのではあるまいか?(広野の兄は大野という。また一族に浄野の名もいる。しかしこの摂津国住吉郡平野庄に最初入ったのは、坂上大野であり、それが若くして死んだために、次男の広野が坂上氏の家督を継いだのだという。だが弟の入る前には大野と言ったかと言えば、そうは伝わっていない。だから私は、大野が営んだ荘園名が元々平野であり、その兄の後を継いだ弟が地名を取って広野を名乗ったのかも知れないと考えた。

そうするとこの摂津の平野は広義の阿倍野の東部に当たる。だから平野は阿倍野であり、“饗”の料理に使う火を燃やす竈の意味合いでは無かったろうか?

という推理も成り立つだろう。

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としたのだが、どうもその推理は見当違いだった。

この「平野」の語にまつわる全く別の話があったのだ。

それは京都北野の平野神社の祭神に関わる話である。

平野神社は桜花祭で有名

平野神社は何故“平野”の名を冠しているのか?

これは宮中内膳司にある御竈三つの内の一つである平野と呼称される竈の神である久度大神が、平野神社の祭神四座の内に入っているからなのだ、と説明される。

昔古民家などにあった竈を“お久度さん”(お曲突さん)と親しみを込めて呼んだ。語源は火処(ホド)→カド→クドという転訛だという説がある。

同時に、竈のある;いわゆる台所全体を“おくどさん”と呼ぶ場合もあり、また竈に宿る竈神をそう呼んだという。

しかし、語源説の当否はともかく、京都発祥の呼称であるから、“平野神社に祀られる竈神が久度大神というので、久度神→おくどさんと呼ばれるようになった”という解釈が妥当であろう。

でここからが不思議なのだが、内膳司の三竈の内、忌火と庭火については、それぞれに宿る竈神を、斎火神と庭火神として宮中に祀っていて、それを祭る斎火庭火祭という行事もあるらしい。ところが、第三の竈の神については、宮中に祀らず;それは平野神社に久度大神として祀られているのだ。従って平野神社の久度神が宿る竈(クド)なので、その竈の名を平野と言うようになったのかと考えられる。

では何故、二つの竈神は宮中に在って、平野神だけが宮外に祀られたかと言えば、平野の久度神は、元々は宮外にあった竈の神で特別な謂れがあったからではないかと推理する。

9月14日が平野神社の御鎮座祭で、これは平城京から祭神が遷座したことを記念する祭礼で、特に夕刻の奉燈祭は、約600張の提灯の灯りが揺らめく中、参拝者の献灯のろうそくの灯火が揺れる幽玄な祭礼である。拝殿では地元北野上七軒の遊妓の舞踊や山城舞楽・剣舞などが奉納される。この祭礼で、提灯や献灯の蝋燭に灯す火は、その朝神職が火打石で切り出した火である。

実は平野神社には祭神が四座あって、久度大神のほかは、今木大神と古開(フルアキ)大神と比賣大神の三座である。

平野の神々は平城京から遷座

それらの内今木大神は、元々は平城宮に付属していた田村後宮と称される宮殿に祀られていた神だという。この田村後宮とは、元は藤原仲麻呂(恵美押勝)が孝謙女帝の後継者として(自らの傀儡にする為に)皇太子に立てた大炊王の宮を、自分の住まいである田村第の敷地内に設けたものであり、それで田村宮と呼ばれた。ところが、恵美押勝の乱で仲麻呂が失脚して後は、暫く田村第は空き家だったようだが、桓武朝には右大臣藤原是公の古京別邸となった。大炊王は一旦皇位に就くも孝謙上皇によって廃されて淡路に流され、上皇が重祚して称徳女帝となった。その間、田村宮の方は田村旧宮と呼ばれていたが、(称徳天皇の後を承けて)光仁天皇となる白壁王の住まいとなり、その後光仁の世に妃妻の住う後宮とされた。これが田村後宮である。そして実際には白壁王時代からそこに住んでいたのは、桓武天皇となる山部王の生母である高野新笠だったらしい。そこでこの田村後宮に祀られていたのが、百済系諸蕃氏族の和(ヤマト)氏の出身である新笠の祖神(つまり百済王家の祖神である)今木大神なのである。これが平安遷都後、平安京の北西の平野神社に勧請されたのである。百済神なので、正式な神名は分からない。

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『続日本紀』延暦九年一月十五日条

皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女〔むすめ〕なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。……其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり」

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これは、桓武朝の記述であるから、新笠は皇太后の称で表されている。乙継とは和乙継。倭氏をいつの頃から和氏と書くようになったかは判然としないが、恐らく「続日本紀」からで、大倭神社を大和神社と書くようになったのと同様かと思われる。一見、和人と見紛う表記になっている。しかし、桓武を産んだ功績?で、乙継と新笠の親娘だけが高野朝臣の姓を賜与された。

それで平野神社の祭神の一柱である比賣大神(実際は他の三神に遅れて848年:承和年間に合祀となったのだが);その比賣神とは桓武天皇の生母であった高野新笠その人を祀ったものではないだろうか?

そして久度神と古開神とは一対で祀られているので、これは共に竈神ではないか?との説がある。だが、竈神は三とか五の奇数が吉祥数なので、二神で祀るというのはおかしい。(もっとも明治以降の農家などでは呪事が埋没して二連のへっつい=竈が作られたりもしたらしい。)

私は久度神は竈神であるが、古開とは井戸神ではないかと考えた。そしてこれが桓武天皇の命で平野神社に勧請されたというのは、田村後宮にあった竈と井戸であり、それは桓武が生まれた時に(当然生母の新笠の手元に居ただろうから)そこの井戸で汲んだ水を温めて産湯に浸かったと思う。だから、平安遷都後、今木大神とともに、平安京の北の平野神社に祀らせたのであろう。

そしてこの桓武の浸かった産湯の竈は、父白壁王が皇位を継ぎ、格の低い王族として生まれ一度は臣籍降下同様であったが、兄他戸皇子の死で皇太子となり、遂に登極した桓武に関わる縁起の良い竈なのである。恐らく遷都の際に、竈その物も平安京の内膳司に移動されていたのかと考えられる。だからこそ、その竈は出世良運の竈とされ、かつその竈神は平野神社で田村後宮関係四座として祀られているので、その移された竈もまた平野と呼ばれたのではないだろうか?

これはあくまでも私の推理でしかない。

※但し、平野神社があるから平野の地名ができたのではない。山城国葛野郡上林郷、後の北野と呼ばれた地域の北部がそも平野という地名であったらしい。そこに開かれた神社なので平野神社と言ったのであろう。後世その一帯は伴氏(大伴氏)の領となり、菅原道真の生母が伴氏だったので、天神・道真が北野に祀られたのである。

田村第と坂上氏

更にもうひとつ田村第と田村宮についてだが、これには坂上氏との関わりがあったと思われるのである。

恵美押勝の乱の時に、田村第を攻めたのは、東漢氏の一員である坂上忌寸の苅田麻呂であった。この功績を賞でられて、苅田麻呂は以後出世を重ねて遂には公卿にまで登った。その田村第攻略戦の後、田村旧宮はどうやら坂上氏が接収してそのまま警護役を務めていたと考えられる。

その苅田麻呂の息子が田村麻呂であるが、この田村麻呂という名は、元服名であろうが、苅田麻呂が自らの務めであった田村宮警護役に因んで付けたのかと考えられる。苅田麻呂が警衛した田村後宮で、新笠と山部王の母子が暮らしていたので、苅田麻呂と桓武天皇の関係も良好だっただろう。それがあったから坂上田村麻呂は桓武天皇から度々の蝦夷攻略戦に起用され、二度も征夷大将軍に任じられた功で、公卿にまで昇級したのである。だから坂上氏にとっても、田村後宮の竈神は好運の守り神であり、それ故に田村麻呂の長男の坂上大野が賜った摂津の荘園に、平野神の名にあやかって平野の地名を付けたのを、弟の広野!が相続したという事情が、摂津住吉郡平野庄の地名成立の真相だったのではないだろうか?

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