補遺60追補-続「火打金の歴史」

天孫族考補遺60追補-続「火打金の日本伝来の時期推定/発火法は文明進化の指標である-------火打金の東アジア伝来は、中国へよりも三韓の方が早かった

◯人類にとって火はどんな意味を持つのか?

私が、火打にこだわるというのは、そも火が単に火神(ゾロアスター教ならアフラマズダ)の神秘の象徴というのでなく、実生活に於いては文明の指標ツールだからである。

火の効用を考えてみよう。

①勿論それは調理に使い、調味だけでなく解毒の作用もあった--------火によって食生活に多様な楽しみが生まれた(加熱や焼きの無い食事は考えられない!)

②火は暖を取るために必須だった

着衣や毛皮などの入手や縫製が不自由だった古代に於いては暖房は命にも関わったのである

③道具類を加工するのに役立った

木や竹の焼成、岩石材の焼破砕そして金属鉱石の精錬、漆などの接着剤の製法にも

そして何よりも

④土器の焼成→水の加熱や調理への展開

⑤照明光源を提供した

火が自由でない時代は、夜になれば何の作業も出来なかったが、火明かりで夜作業が可能になり、事実上労働時間を拡張した。

また文字の導入後は、油灯りや提灯や行燈で読書する事が可能になり、人間の情報量は格段に豊富になった→これこそが漢字世界の“文明”の語源である。

そして原始的な摩擦熱式発火法(最初は手揉み錐=英語でいうFire Drill →そしてより回転数を稼げる弓錐式=Fire making by Arrow-drill with bow)から人工的な火の獲得が開始された。しかしこれは極めて効率が悪く、熟練者でなくては火は起きない。

この困難を克服したのが、火打石の登場での打撃式発火法である。しかしこの石同士の衝突での火起こし法でも、打ち合う石の発見・選択が難しい。石英・瑪瑙などの高硬度の石と黄鉄鉱か褐鉄鉱のような鉄を含む岩石もしくは鉄石英とチャートのような組み合わせで火花が飛ぶらしい。しかしこの双石打撃法でも乾燥した火口(ホグチ)材をうまく添えないとなかなか着火しないという。物の本によれば失敗すれば何と1時間もかかってやっと火起こしできたという。よって双石打撃法までは男の仕事だったのである。

ところが、これが火打石と火打金(火鉄、火鋼ともいう)の組み合わせでは、上手でなくとも30分以内で着火できるようになったという。これで火起こしも女性が参加できるようになり、家庭生活の質は明らかに向上した。

まさしく文明の進歩なのである。

◯火打金はヒッタイト発祥か

アナトリア(トルコ)のヒッタイト遺跡(紀元前17世紀~前13世紀頃)に於いて、鉄と火打石のセットが確認されている。  

実は、従来の常識は改められ、鉄の使用は、印欧語族であるヒッタイト人が、カフカス南麓あたりからアナトリアに南下してくる以前(紀元前21世紀頃)から、アナトリアで開始されたと考えられている。しかし、鋼の製法は、ヒッタイトになってからだといい、また火打金は、鋳鉄ではなく鋼鉄の方が効率が良いことを考えれば、こと火打金の発祥地はほぼヒッタイトであったと思われる。

中央アジア(アルタイ地域)の遊牧民遺跡(紀元前11世紀頃)でも、鉄製の火打金(Fire striker)が出土しているという。

ということは、伝播の時間経過を考えれば、紀元前14世紀頃、ヒッタイトで使われ出し、ヒッタイトが滅亡した後(紀元前13世紀頃)、その保有鉄製品の製造情報が急速に周囲の地域に拡散したものと思われる。

ヒッタイトからどういう経路で、ユーラシアの各地に拡散したのか? 西伝・東伝・南伝の3経路が考えられるだろう。

a)西伝 ⅰ  北方ルート

途中までは次のb東伝と同じで、一旦黒海とカスピ海北方地域まで北伝し、そこから北西のスラブ人・ゲルマン人世界さらに北欧やフランスなどへと拡散したというルートである。

例えば、ポーランドでも後2世紀頃には火打金が使われていたという痕跡があるとの事だ。北欧では2〜4世紀の物と推定されるデンマーク出土の撥状火打金(縦長)がある。

これが5世紀以降には、横型火打金が主流となり、ラインランドで出土が見られる。更に6世紀になると南ドイツのバイエルンの古墳墓からも鳥頭飾付きの火打金が出ている。同じ頃フランスやスイスの遺跡から出土した火打金と推理される鉄製品の存在が知られているようだ。

※この項目は主に林俊雄氏の論文「ユーラシアの火打金(一):西ユーラシア」に依る。

またユーラシアの極西であるケルト世界については鉄器時代の遺跡から火打石と鋼が出土している。だがケルトでも宗教儀礼に於いては「火鑽り」が重要視され、ベルタン祭(Beltane)の聖火は摩擦式で起こされたという。

後述の「Bryant and May火起こし博物館」の記述には「ブリテン島での火打の歴史は3000年にも上る」とあり、それだとケルトの火打石使用は前7世紀にまで遡ることになるので,北方ルート経由でなく、次の地中海ルート経由だったのかもしれない。(私はブリテン島の紀元前は、チャートと黄鉄鉱による双石打撃法だったと考えるのだが、ケルトの火打金使用は紀元前からあり、ローマの侵略以前からだとする説もあるようだ。)

a)西伝 ⅱ 地中海ルート

一方で、ギリシャ・ローマやカルタゴなどの地中海世界ではどうだったのか? 西伝 ⅰ のルートから西南方へ;バルカン半島経由で分岐したのか?或いはアナトリアからそのまま西の対岸のギリシャに伝来したのか?もしくは南伝でオリエントに伝来した後、フェニキア〜エーゲ海やカルタゴなどの海上交易のルートなどで拡散したのか?これは目下定説は得られていない。またはアレクサンダー大王の西アジア遠征の地でその従兵が火打金に出会ったのかも知れない。

地中海世界(ギリシャ・ローマ)での火起こし法の古代史を概観してみる。

ギリシャでは、ホメロスの『オデュッセイア』(前8世紀)に「火のない家」という表現があり、保存火の維持継続が基本だったらしいが、緊急時には摩擦式発火法が使われたという。古代には火打石としてチャートと黄鉄鉱の組み合わせが用いられた可能性が高いという。

※という事はトロヤ戦役の頃には未だ火打金はギリシャにはもたらされていなかったと推理される。

 だがテオフラストス(紀元前4世紀のアテネ人)の著述には、火打石と鋼の組み合わせ(鉄火式発火法)の記録があるらしい。彼はアリストテレスの弟分に当たる学者なので、アレクサンダー直後の時代であるから、やはり丁度この頃からギリシャでの火打金使用が開始されたのであろう。

 

ローマ帝国では、大プリニウスの『博物誌』(1世紀)で、火打石と硫黄を含む鉱石(恐らく黄鉄鉱)の使用が言及されている。またローマの軍団では携帯用の火打石セットが普及していたという。袋に入れるセット程の小ぶりな物と考えればやはりこのセットは石と金の組み合わせだったのだろう。

一方で「舞錐式(fire plough)は植民地(ゲルマニアなど)の『未開』技術だ」と(「博物誌」に)記述されている。自国の鉄火式の使用を文化水準の高いものと認識していたということである。

この東欧〜ゲルマン世界〜北欧の伝播と比較すれば、やはりギリシャ・ローマ世界の方が、火打金の使用については早かったと考えられる。アナトリアとの物理的近さの利があったのだろう。

※かつてロンドンには「ブライアント・アンド・メイ火起こし道具博物館 The Bryant and May Museum of Fire-making Appliances」という発火道具の歴史博物館があったというので(今の存否は不詳)その収蔵品カタログでも入手できれば、もう少し詳しい火打金伝播の模様がわかるに違いない、と考えていた。

→後述するが収蔵品リストがミシガン大学のデジタルアーカイブにあった。全部を読んだわけではないが、(当該博物館は、旧世界の各地からの収集品多数を擁しているのだが、中世〜近世〜近代の収蔵品が大多数で、) 残念ながら、古代のものは少ないようであり、目下のところでは、私の考究にはあまり参考にはならないものの様であった。

(※中国での火打金の普及が宋〜元の時代だったことを思えば、中国との比較では、欧州世界の方が火打金の登場はかなり早いといえるようだ。)

b)東伝 アナトリア〜草原の道を通って、ウラル〜天山北麓〜アルタイ山脈南方地域(前11世紀)〜蒙古高原〜内蒙古(前4〜3世紀)→遼河方面(前2〜1世紀)→三韓(3〜4世紀)→日本列島(4〜5世紀)

※少なくとも中国を除く東アジアへの伝播はかなり早かった。

中央アジアにはかなり早く前11世紀には到達していたらしい。ゾロアスター教の火神アータルが、石と鉄の衝突で火を生む場面が『アヴェスター』に記載されている。火神が未だ主神アフラマズダに吸収される以前の多神教時代である。

とはいえ、アヴェスター自体はササン朝ペルシャで6世紀半ばに編纂されたので、ゾロアスター(神官ザラシュトラ)による前7世紀頃の宗教改革以前に果たして本当に火鉄が使われていたかどうかを証明はできない。まして神話であるからだ。

c)南伝(西南アジアルート) アナトリア→アッシリア(オリエント)→ペルシャと来て、ここからは南北に二分岐する;

北は、パミール高原〜西チベット高原〜タリム盆地(前1世紀)、

南は、西インド〜北インドというインド亜大陸へのルートだが、

火打金のインド主要部への普及はそれ程早くは無かったのではないかと考えられる。バラモン教での火起こし法が摩擦式が主流だった為だろうか。

チベットの吐蕃(7~9世紀)では、(西チベット経由でかインド経由でか?は分からないが) 鉄火式発火法であった。唐代の文献(『新唐書』吐蕃伝)に「吐蕃人は鉄剣と火石を用いる」との記述がある。  

※火打金の代わりに剣の刀身に当てて火花を出す方法が世界の各地であった様だ。

ところで中国西部辺境の羌族は、かなり早く(前2世紀頃)から鉄器や火打金の使用の痕跡が認められる。

羌族への伝播は、bの分岐でタリム盆地経由〜西域という経路だったのか、或いはcのルートの延長だったのか?

他方、西域の月氏の内の白馬族が古くから東西交易路(後のシルクロード)の隊商の業を担ってきたので、その白馬族交易商経由で入った可能性も考えられる。(羌族と混住した小月氏白馬族は白馬羌と呼ばれていたと漢書にある。)

中国への伝来ルートであるが、bの分岐として、五胡十六国時代の北朝諸国へ匈奴経由で伝わったという説があるのだが、前漢以来中国人や鮮卑と匈奴は相性が良くなかったので、一種の戦略物資だった火打金を匈奴が自主的に伝えたというのは考えにくい。むしろルートc の延長で、月氏→羌族経由で、唐に伝来したのが早い例であり、それが江南にまで普及するのは宋の時代以降だったということであろう。(代わりに江南では竹筒式圧縮発火法の様な独自の発火法がが用いられた。)

だが、中国周縁での最古の火打方式はといえば、戦国時代~前漢時代(紀元前4~1世紀)の遼寧省や内蒙古の遺跡で、鉄器と火打石の組み合わせが発見されている。  

三韓では、加羅地域が鉄の産地であり、その精錬法も、金官加羅や大加羅(高霊加羅)地域で発展した。しかしその時期、いわゆる三国〜西晋の時代には、未だ中国の中原や江南では火打金は存在しなかったのだ。

だから、火打金は中国北縁にまで伝来しながら、中国本土には入らず、通り越して西遼地域(辰国)〜三韓に行ってしまったのである。

火打金の伝播が北方ルート経由であったことを推理させる一つの状況証拠は、ユーラシア西部で発見されている火打金と、東アジアのそれとが、形状的にかなり似通っていることだ。しかも複数のデザインが共通であり、幾ら使い勝手上の形状だとしても、それらが別個に独立して発展したとは考えにくい。やはり原型がユーラシア中央部辺りに出現し、それが東西に伝播したと想像される。

※林俊雄氏の論文「ユーラシアの火打金(一):西ユーラシア」所収の図版と、藤木聡氏の「火打石と火打金の文化史」での日本及び東アジアの火打金の形状分類図版を比較してみた

◯日本列島での火打金使用の開始時期

我が国での火打金の普及は、一般には古墳時代後期だとされて来た。

“古墳時代前期(3世紀)にも既に石と鉄の組み合わせでの(いわゆる鉄火式での)発火法の痕跡がある”と言っている研究者がいるというが、それはどこの何という古墳で発見されたかの具体的な情報は無い。

私は火打金の伝来は天孫族と一緒だという仮説を立てているが、もしその仮説通りなら、出雲族の根拠地だったヤマト(出雲は三輪山麓の南麓=ヤマトと西麓=巻向等を含む広域名;未だ奈良盆地北部の佐紀や西部の厚狭妻などを含む汎国名「大和」は成立していない)ではなく、天孫族の進出地だった日之下(日下=久我・古賀;遠賀川流域《右賀》〜筑後川流域《中賀》〜有明海沿岸《左賀》のいわゆる肥ノ国)であった筈だが、もし奈良盆地にあったというなら天孫族の先遣隊(だったかもしれない);饒速日一族関連の墳墓だった可能性も全くは否定できない。

奈良盆地での確実な火打金出土は、6世紀の(古墳時代後期の)古墳だったという奈良県三宅町の石見遺跡だとされる。(←既述の補遺60追補2)

※この石見遺跡説に対して、大阪府南部の和泉黄金塚古墳(古墳時代前期末)出土の鉄製品の中に火打金らしい物があったと発掘に参加した森浩一氏が触れているという情報がある。この森発言は私は未確認である。もし本当に和泉黄金塚出土品の中に火打金があるとすれば、これは4世紀末だとされるので、こちらが本邦最古の例になってくる。

しかしこれは結構悩ましい。というのは、ここで景初3年(AD239)銘のある三角縁神獣鏡が出ていて、それが伝世して100年も後に、ここの古墳に副葬されたことにされているからだ。しかもこの景初3年銘だとすると、いわゆる魏から卑弥呼に下賜された銅鏡百枚の一つであった可能性が出てくるのである。

※もっとも“地方に分散されている三角縁神獣鏡は、ヤマト政権が、邪馬臺国から取り上げて全国の豪族に服属の報酬品として分与したものだ”という学説もある。

更に言えば、三角縁神獣鏡は全国で300枚も出土しているので、(例え卑弥呼が貰った銅鏡百枚は恐らく邪馬臺国の有力構成国の王たちに分与されていたかもしれないのだが)、“その模造品(仿製鏡)を、新ヤマト政権が多数作らせて地方豪族に下賜することで、邪馬臺国時代よりも豪勢な政権であることを誇示したかった”のだという意見もあるようだ。

しかも、この古墳:和泉黄金塚からは鉄製品が多数出土しているので、鉄使用開始後の時代の古墳であり、かつ巴型銅器が3個出ているので、九州の天孫族の祭祀と共通の要素もあったと考えられるのである。九州の日神祭祀壇である日下(陸:久我→古賀)遺跡では巴型銅器が出土している所が多いのである。

◯神話に於ける;火を神名に含む神々について

火遠理命(別名が、彦火火出見尊)=山幸彦であり、またその兄の火照命(海幸彦)とともに火中から産まれ出たというのが記紀神話である。

また兄弟の父神であり、降臨した天孫の邇邇芸尊も長い修飾名では、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命(あめにきし くににきし あまつひたかひこ ほのににぎのみこと)だが、この短縮形として天津彦火瓊瓊杵尊(九段一書二)/天津彦国光彦火瓊瓊杵尊(九段一書四)があるので、番能邇々芸命の番(ホ)とは、火の意味であることが分かる。

更に海部氏の伝承では丹波に来臨する神は、火明命の名である。

記紀神話の神名には「火」の要素があるが、火打石や火打金など具体的な発火法についての記述はない。

これらが皆、火にゆかりの神名を持つのは、勿論潜在意識下で、ゾロアスター教(拝火教)のアフラマズダの神聖なる火のイメージが継承されていたのかも知れないが、私はこれは共に、新しい発火法の伝道を暗示しているように思えるのである。

火明命は出雲族系海人族の祖であり、海部氏や尾張氏の祖であるとされてきた。

勿論、火邇邇芸尊〜彦火火出見尊は天孫族の直系祖神である。

前者が火打石を携えて日本海側に来着したのに対し、後者は火打金を持って列島西部に降臨したのである。

夜間照明などの無かった古代に於いて、容易く火を起こせる様にするツールである火打石や火打金は、神賦の物であり、それこそ“文明の灯火(トモシビ)”の基だと認識されたのではないだろうか。

※一方で、饒速日であって饒速火ではない。饒は龢の転訛であろうから、速日の用語も含めて日神祭祀部族であることを示している神名と考えられる。だが日は甲音ヒであり、火は乙音ヒなので、古代人には全く別物と認識されていた筈である。日とは火とは異なる概念なのだ。

◯ロンドン「ブライアント・アンド・メイ火起こし道具博物館 The Bryant and May Museum of Fire-making Appliances」(発火道具の歴史博物館)

Bryant and Mayは1861年設立の英国のマッチ製造会社。途中でブリティッシュマッチなどという社名となるも1987年の破産。この時点で、ブライアント・アンド・メイはスウェディッシュ・マッチの子会社となった。この状態は、2009年にブライアント・アンド・メイがリパブリック・テクノロジーズ・インターナショナルの傘下となるまで続いた。恐らくこの会社の全盛期に「発火道具博物館」が設けけられたのであろう。こういう商売と趣味の程よい混淆が存在するのが実にイギリスらしさだと思える。

以下は同博物館の収蔵品カタログ記載の文の例

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《ミシガン大学のデジタルアーカイブより引用》

※そして、そのアーカイブの一部のGoogle和訳

火打石と黄鉄鉱を使った火起こし方法は、すでに廃れて久しいものの、エスキモー族やフエゴ島民など、世界で最も辺鄙で原始的な民族の間では現代まで使われ続けています。

◆火打石と鋼鉄法

人類が 鉄の製錬技術を獲得してすぐに、つまり英国で約3000年前に、比較的原始的で不完全な火打石と黄鉄鉱法は廃止され、それに代わって、はるかに効果的な火打石と鋼鉄法がすべての文明国で採用されました。この方法は、かつてはおなじみ の「火口箱」に 関連して近年までよく知られており、南ヨーロッパの 農民やその他の人々がパイプに火をつけたり、戸外で火を起こしたりするために、また多くの半文明国の人々によって、ある程度現在でも使用されています。

火起こしの 「フリント・アンド・スチール」法では、鋭い刃先を持つフリント(又はチャート、カルセドニー、ジャスパー、アゲートなどの非常に硬いフリント質の石)を 、適切に焼き入れされた鉄または鋼の端に鋭く斜めに打ち付け、金属の小さな破片を削り取ります。この金属片は衝撃で白熱し、空中を落下する際に赤熱します。そして、敏感な火口に落ちると、すぐに発火し、硫黄マッチを使って実際に火を起こすことができます。

※[注]硫黄マッチというのは、今の棒マッチのことではなく、紙に硫黄分を含ませて燃え易くしたもので、一種の火口(ホグチ)=着火材である。

火打石と火打金による火起こし法については、人類が初めて鉄の加工法を習得して以来、あらゆる文明人が 日常的に用いてきた方法です。当博物館には、 世界中でこの火起こしに用いられてきた様々な器具(火口、火打石、火打金、硫黄マッチ、火口箱(家庭用、個人用、機械式)、火口袋など)を示す膨大な数の標本が収蔵されています。

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このような前書きの後に、収蔵品を整理番号順に記載しているのが、そのカタログなのである。

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