補遺60追補「日本武尊の火打金伝説」
補遺60「天孫族と発火法」追補「日本武尊の火打金伝説」
「我が国に発火法としての火打金を伝来したのは、天孫族の渡来時ではなかったか」という仮説を立てた。
但し冷静に考えれば、邇邇芸命(に相当する天孫族天皇家の始祖)の従者が火打金を伝来したという事ではなく、次の幾つかの可能性が考えられる。
①葛城襲津彦の南韓出征伝承の際、加羅の何処からか、もしくはその一連の戦の後に連れ帰った弓月君(秦氏)の一族郎党の韓鍛冶が持って来た
②河内王朝時代の仁徳〜雄略〜武烈の時代に(金官加羅)辺りから伝来した(この時代に帰化したという都怒我阿羅斯等などが伝来した可能性はないのだろうか?→伝承には残されていない)
③継体以降の;後応神朝の時代の南韓干渉の時代に伝来した
といっても、今のところ、これらを確実に証拠立てる考古学的な出土品があるとの情報には接していない。
目下確認されている北九州最古の火打金は何処の物か?福岡市西部元岡・桑原遺跡には、4世紀末〜の古墳(円墳や前方後円墳)があり、その周辺の池状遺構から火打金と思しき鉄片が出ている。鑑定では7世紀後半の物と推定されている。他例では、那珂川町の観音山古墳群(6世紀後半)の中原Ⅱ群5号墳墓道埋土中の遺物である火打金があるのだが、これを最古例とし得ないのは、後世古墳に侵入する際に松明等に点火した時の遺失物かも知れないとの疑惑があるからだ。
いずれにせよ終末期古墳などでは副葬品に火打金がある事から、これが古墳時代後半のいずれの時代から始まったのかが究明されなければ、仮説は証明できない。しかし、承知のように、肝心の応神〜河内王朝期の古墳は陵墓参考地が多く調査が出来ないのである。そこでこの火打金の渡来期の確定はまだまだ先にならざるを得ないだろう。
但し伝説・神話中には景行天皇期の話題がある。
◯日本武尊の火難伝説における火打金
ほぼ戦前期の学者ではあるが、本邦人類学の泰斗と目された鳥居龍造博士は、次のように言っていたという。
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我が上代に於いて火打金 ・ 火打石を入れた袋を所持した例は、彼の日本武尊が焼津で賊に襲はれた時、倭姫命から渡された袋の中から火打金を取り出し火を打つて難を免れたといふ事から知る事が出来る。 斯くの如く火打金を袋に入れて魔除けに用ゐた事は、古くから我が国に行はれて居たのである」 (鳥居1935)
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この話は、記紀に、それぞれ多少内容を異にして収載されている物語である。
元々鳥居博士の指摘しておられるように、火打金を入れた袋は、実用上の火起こしのためだけでなく、魔除けの呪具でもあり旅の携行品として腰に提げられていたのである。時代劇などでも、家の門を出る時に、内儀が亭主の後ろ髪(もしくは右肩?)に火打金に石を打ちかけるという場面がある。無論、髪に火を付けているのではなく、魔がささないように火打ちするのである。これを“切り火(鑽火)”とか“門打ち”というらしい。
※何故右肩に打つかというと、“運勢が右肩上がりになるように”との祈念だというまことに駄洒落のような解釈もあるようだ。
日本武尊の東征譚はほぼ虚構であるということは、学者間でほぼコンセンサスになっている。さりながら、東征の旅に出たヤマト王権の将軍が、火打石袋を魔除けの為に持参したという習俗があったから、かかる焼津の火難逃れの伝説ができたのだろう。
(もっとも、鳥居博士は戦前の人なので記紀に載る日本武尊の東征譚を、純に信じていたのかも知れない。)
ところで、この焼津の火難の話は記紀ではどうなっているか。
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(景行記)
故(かれ)爾(しか)くして、 相武国に到りし時に、其の国造、詐りて曰ししく、「此の野の中に大沼有り。是の沼の中に住める神は、甚だ道速(ちはや)振る神ぞ」とまをしき。是に、 其の神を看行(みそこなは)さむとして、其の野に入り坐しき。 爾くして、其の国造、火を其の野に著けき。 故、 欺かえぬと知りて、 其の姨倭比売命の給へる嚢の口を解き開けて見れば、 火打、 其の裏に有り。是に先づ其の御刀を以て草を撥ひ、 其の火打を以て火を打ち出して、 向ひ火を著けて焼き退け、 還り出でて、 皆其の国造等を切り滅して、 即ち火を著つけてて焼きき。 故、 今に焼遺(やきいつ)と謂ふ。
(景行紀四十年)
是蔵、日本武尊、初めて駿河に至る。其の処の賊、 陽(いつわ)り従ひて、欺きて日さく、 「是の野に、 麋鹿(おほじか)甚だ多し。 気(いき)は朝霧の如く、足は茂林(しもとはら)の如し。 臨(いでま)して狩りたまへ」 とまをす。 日本武尊、其の言を信(う)けたまひて、 野の中に入りて覓獣(かり)したまふ。 賊、王(みこ)を殺さむといふ情(こころ)有りて、其の野に放火焼(ひつけす)。 王とは、日本武尊を謂ぞ。王、 欺かれぬと知しめして、則ち燧を以て火を出(うちいだ)して、 向焼(むかいひつ)けて免るること得たまふ。一に云はく、王の所佩せる剣叢雲、自ら抽(ぬ)きて、王の傍の草を薙ぎ攘ふ。是に因りて免るること得たまふ。 故其の剣を号(なず)けて草薙と日ふといふ。叢雲、此には茂羅玖毛と云ふ。 王の日はく、「殆(ほとほど)に欺かれぬ」 とのたまふ。則ち悉(ふつく)に其の賊衆(あたども)を焚きて滅しつ。 故、 其の処を号けて焼津といふ。
(書き下し文は、goo blogのKato Ryouhei 氏の「古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)『ヤマトタケルの野火の難』」
https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7e6875cfa711328a15daa6dd1bd77acb
から引用させて頂いた。)
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記紀の違いは、この火難遭遇の地が、古事記では相武(相模)の国、書紀では駿河になっており、前者の地名は焼遺、後者は焼津とされている。今では、焼津神社のある駿河の焼津こそがこの火難の地であるというのが一応の“統一”見解になったようだ。
※何故、焼津を相模の話にしたのかについては、天孫族王権の東国進出の経路を巡る思惑があったという解釈があり、それを追究していけば、それなりに面白いのだが、今回は火打金の話題が主であるので、そこには立ち入らない。
しかし、この日本武尊の東征譚に基づく、場所の比定と結果的に焼津神社の祭神を日本武尊とするという解釈は、中世以来近世にまで何度か行われた、記紀の記載を事実として定着したかった修験者たちのいわゆる聖蹟復元運動の結果であることは、天孫族考で何度か言及して来た通りである。焼津神社の本来の祭神は、今は一の摂社になっている市杵島比売命あたりではなかったろうか?それこそ現地の入江明神という旧称にも相応しい。焼き津というのは、この入江=小川湾で製塩をしていた事を推理させる。また小川は中世には熊野や伊勢との水上往来の地であり、熊野の道者という長谷川家があって、この長谷川氏は家康に仕えて、初代の島田代官になっている。
更に地名としての「ヤキツ」の由来は、一説にはこの地域が天然ガスの埋蔵地であることから、これがいつの時か引火して燃え続けたことによるとされる。この連想で野火の難の伝説が生じたのかも知れないとする人もいるようだ。確かに焼津から吉田の地は旧大井川河口の土地柄で、泥炭地だったのでガス生成の可能性はあり、昔ここらの農家で天然ガスを燃料にしていたという言い伝えもあったようだ。
処で古事記には、鳥居博士のいう;叔母の倭姫命から貰った袋に入っていたのは、単に「火打」とだけあり、火打石と火打金の二つが入っていたとは書かれていない。もしかすると、二つの火打石であったかも知れないのだ。それを鳥居博士が火打金で着火したとしたのは、彼の推理でしかないのである。
しかし、上古以来、旅中の魔除けに袋に入れて火打石と火打鉄を持ち歩くのは、良く知られた習俗なので、鳥居博士も“てっきり石と鉄のセットが袋中にあった”と考えたのであろう。
また鳥居博士は、江戸時代から日本全国を席捲した火打石である“阿波角”の産地である徳島の出身なので、火打石や火打金には身近感があったのだろう。
また斎宮としての倭姫の実在性も疑わしいのだが、斎宮では火打金を使っていると、太安萬侶の時代には考えられていたのだろうか。宗教儀式では弓錐式のような古式の摩擦発火法が行われた筈なのだが。
チベットのボン教などでも、火打金の普及していたと考えられる宋や元の時代になっても、儀式では摩擦式火起こしで“忌火”を取っていたという。
だが、日本武尊は紛れもなく天孫族であり、応神天皇の(記紀では祖父だが、実際は)父であり、別名は武内宿禰だったので、それが火打金を持っていたとしたら、天孫族が火打金を伝来した証左になるのだが、残念ながらこの伝説はあくまでも創作虚構だから、それを根拠にして私の設定した仮説を確定することはできないのである。
とは言いながら、よくよく分析すれば、太安萬侶が古事記を書いた頃には、本邦の少なくとも貴族の家庭では既に火打金の使用が導入されていたらしいから、安萬侶の頭では、“日本武尊の携行した火打袋には当然火打金が入っている筈だろう”と考えたに違いない。(前掲の補遺60本文で述べたように、遣唐使の唐の皇帝への献上品に火打金が入っていたことから、この発火具に於いては、本邦の方が進んでいた事が分かる。)
◯火打金の形状
火打金とはどんな形状をしていたのか? 藤木聡氏の前掲著書での分類を引用させて貰う。
基本は山型という、藤木分類のIa 〜Id に相当する形だが、Ⅱ類の様な頭部に蕨手状の曲金を持つ形も、古くからあったようだ。中世朝鮮半島出土品にもこのⅡ類が見られる。
( Ⅰ ・Ⅱ はローマ数字)
江戸時代には小判型の火打金もあったようだ。(藤木分類ではⅧ類に該当しようか?)また江戸期の火打金には手持ち部分に木で作った持ち手=“握り手”(一端を木部に差し込んだもの)が設えられていた物(Ⅶ類とX類)が多いようだ。
そういえば、池上正太郎筆の「鬼平犯科帳」は、火付盗賊改役の長谷川平蔵を主人公にした話で、中村吉右衛門の当たり役として永らくTV映画の世界に存在感を発揮したのであるが、そのドラマ内の情景として当然放火のシーンも出て来たのである。しかしどういう発火道具を使っていたのかが分かるシーンを見た記憶がない。私はテレビ局に就職した時に研修でドラマ班の時代劇制作に従事したが、この時にへっつい(竈門)に火を付ける場面には遭遇しなかった。いつも火がついていないシーンの次には、薪が燃えているシーンに飛んでおり、火打石を使うシーンは無かった。面倒だから飛ばしていたのだろう。但し、小道具としての火打石と金は存在した。だが実際に使用したのは、“切り火”即ち“門打ち”するシーンだけだった。(門打ちというのは、火打石を角とも言うのに掛けた言い回しだろうか?)
但し、大変面白いのは、通常火起こしをする場合は、左手に石を持ち、そこに右手に持った金を打ち下ろして火花を出してそれを左手に石と共に持った火口の焼布やほぐした麻紐などに着火したのであるが、魔除けの切り火の場合は、逆に右手に持った石に左手に持った火打金をぶつけて空中に(相手の右肩に)火花を散らしたのである。用途によって持ち手が逆になっていたのである。(これは実際に浮世絵などで確認されている。)
渓斎英泉「木曽街道 薮原」旅人が煙草に火を付ける為に
右手に火打金を持ち左手に石を持つが火口材は分からない
江戸期には、切り火は人に対してだけでなく、新年に空中で切り火してその年の除難を祈念したり、道に切り火して道中の無事を祈ったりする習俗があった。この習俗の起源は相当に古いと思われる。魔除けのお守りの袋にいれる火打はこの流れに属すると考えられる。
月岡芳年筆「新柳二十四時の内、午後七時」
新年の無事祈念の切り火する芸妓
※但し手持ちの火口に着火するのではなく、着火材を入れた箱(火打箱)に火花を落として火をつける場合は、切り火と同じで火打金を左手に持ったというのでややこしい。
この図は現代の概念図だが、火打箱へ火花を散らすのは
切り火と同様だから左に金を持ち右手の石へ打ち当てる
藤木聡博士によれば、中世に来日した宣教師ルイス・フロイスは“ヨーロッパ人は左手に火打石・右手に火打金を持って打つが、日本人は持つ手が逆である”と書いていたらしい。
ところで、これまで火打石と火打金の大きさについては言及してこなかった。今の人達からすれば、打撃式発火法などという印象から、それぞれ結構な大きさの物だろうと想像してしまう。しかしそれらは想像より相当に小さいものだ。
火打金は長径(打ち付け部の幅)で、大きい物でもせいぜい10cm弱(昔の寸法で言えば3寸以内;握り手でカバーされた物ではもう少し幅広になる=Ⅶ B類 )、火打石は大概は縦長だがその縦がほぼ1寸内外(3.5cm程度)で横はせいぜい5分(1.5〜2cm)程度の物が多いのである。勿論、石の場合はもう少し大ぶりの物を使っていて、角縁が摩耗したところで断ち割って再使用したりしたのであるが、この場合再生品はもっと小振りになる。
だから、火打石は思いの外小さいので、遺跡の発掘などで現場にある自然石と混ざり合ってしまい見過ごされることはめずらしくないのである。そうならない為には、発掘地点とは全く異なる場所から算出された石であることを、地質学(鉱石学)の知識によって科学的に鑑定することが必須になる。
追補1
1)火打金が古墳の副葬品に見られることには言及した。しかし火打石だけの時代;即ち三輪王朝(出雲族)の時代;古墳時代前期に相当するが、その墳墓内に火打石が副葬品にされていたかどうかについての研究論文を寡聞にして知らない。火打石は、追補の中で触れたように、自然石と紛れやすいので、従来注目されずに来たのである。また火打金登場以前に、火打石が単独で(と言っても一対で)追補の文中に論及したような魔除けの呪具として意識されていたかどうかはなんとも言えない。
一方、鉄製品である火打金はそれとも知らずに、“不定形鉄製品”などとして古墳発掘の報告書に記されていた。しかし、私の仮説の如く、火打金が天孫族のヤマト侵攻後の伝来物だとしたら、火鉄(火打金)が副葬された古墳は、古墳時代後期のものであり、①天孫族王族・重臣の墳墓であるか、
もしくは②物部氏のように元来は出雲族だが天孫族に従臣した有力氏族の墳墓であるか、そのいずれかであることになろう。(古墳に火鉄が発見されたとしても、それだけではその墳墓が天孫族のものなのかどうかは判定できないのである。)
2)江戸時代まで唯一の手軽な火起こし手段だった火打石と火打金だが、それだけに必需品でありながらも大変高価だったらしい。特に火のつけやすい“高級品”だと、今から見れば法外とも思えるほど高価だった。豊後国の豊前宇佐との国境にある山香郷の立石地区の旧称六太郎村の山から産出した「六太郎角」という火打石は、4寸X3寸(15X 10cm)大の“原石の核部分”だが、これが10両(=数十万円)だったという。恐らくこれを細分して15個くらいの火打石として商品にしたのだろうが、現在価格で4万円近くしたことになる。もっとも六太郎角はいくら使っても石が減らないので一生物だったというので、それで納得できるものなのか?いずれにせよ、そんな値段の火打石は一般庶民では買うことができないので、武士か大きな商家や豪農辺りが購入したのであろう。1両=1貫文=銭1000文。街道の宿屋で2食付き1泊200文。蕎麦1杯が俗に16文という時代である。
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大分県埋蔵文化財センターの問い合わせ窓口に次の様に質問メールを送ったところ、回答を頂戴した。
(前略)
豊後の国山香郷立石地区の産品であるという優秀な火打石の「六太郎角」に興味を持ちました。
しかし諸処の著述では、この火打石が、近世後半に東九州地域で高い評価を得ていたことと、概ね黄色がかった岩石であったことまでは分かりました。だが鉱石学的に言っての岩石名が分かりません。
中央構造線沿いでもあることから、珪酸鉄分を含むチャートではないかと見当をつけました。
貴所では、過去に所有岩石のX線蛍光分析を行ったことが、ネット上に出ていました。その結果、六太郎角の鉱石学的な名称は判明しているのでしょうか?
もし判明しているのであれば、是非お教え下さい。
→これに対しての大分県埋蔵文化財センターの回答は以下の通りである。
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お問い合わせの件ですが
①《鉱石学的な岩石名が分かりません。
中央構造線沿いでもあることから、珪酸鉄分を含むチャートではないかと見当をつけました。》
については、地質学岩石鉱物学的に記載する論文等は当センターでも確認はできませんでした。ただし、『豊後國山香郷の調査』という報告書(以下、文献とする※文献情報は下記参照)で参考となる記載がありますので、紹介させていただきます。
文献では
「~六太郎角に関わって、地学事典の角岩の項をひいてみると「(1)石灰岩中に層状ないし団塊状をなす珪質岩。ヒウチ石とほとんど同義語。生物起源、桂化、交代作用などのいずれかによるか不詳。(2)泥質~珪質泥岩が熔岩や小脈岩の近くで焼成されかたくなったもの。(3)チャートの同義語。特に日本では、古くはチャートの代わりに広く使われた。(1)」とあり、石材としてはチャートに分類されるがその成因については今ひとつ判然としない。石材は茶色を呈し、珪酸質に富み、構造は緻密である。」と記載があり、参考・引用文献を
(1)地学団体研究会:増補改訂地学事典 一九七頁 一九八一 平凡社
としています。
②《貴所では、過去に所有岩石のX線蛍光分析を行ったことが、ネット上に出ていました。その結果、六太郎角の鉱石学的な名称は判明しているのでしょうか?》
当センターでなく、大分県立歴史博物館において、蛍光X線分析を行っております。文献記載によれば、六太郎角採取試料の茶色について分析したところ、試料からは石英と水酸化鉄が同定でき、茶色の呈色は水酸化鉄によるもので、珪酸質部分が結晶化し石英となっていると判断されるとしています。
分析について記載した資料はないものの、文献中においても、材質はチャートに分類されると記載があり、鈴木様がお考えのとおりで良いかと思います。
文献情報:2016 山田拓伸「第5章 「六太郎角」の蛍光X線分析(予報)」『豊後國山香郷の調査 本編』大分県立歴史博物館報告書第17集
(以下略)
大分県立埋蔵文化財センター調査第一課副主幹 佐藤 信
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※なお、六太郎角の写真(モノクロ)が、既掲の藤木聡氏の著書「火打石と火打金の文化史」に載せられていた。
追補2「最古の火打金出土遺跡」火打金は貴重品なので使われ続けて伝世される可能性があるから、各地の出土品中、どれが最古になるのか?特定され難いのだが、目下のところで最古だと推測されるのは、奈良県三宅町の石見遺跡出土の火打金であるらしい。らしいというのは、私自身が、出土品目録(複数大学などでその記録の出版物を保有しているらしいが、デジタル化されたものに行き当たらないので)実見しておらず、ネット上の情報でしかないからだ。
この三宅町は、近鉄橿原線の田原本町よりやや奈良に寄った地域で、後世太子道という聖徳太子ゆかりの道が通る、奈良県の中央部にある町だ。古墳が20ほど見つかっているが、問題の石見遺跡というのは、造成工事で今や全く墳丘は失われてしまったので、石見古墳と言わず石見遺跡と言っている。この古墳は古墳時代後期6世紀のものと推定され、出土品の中に有名な「椅子に座る男」の埴輪が出たことで知られる。形象埴輪(家形等)も出ているが馬の埴輪が出ていることから、(応神朝以降の)馬が渡来して後の古墳(跡形はないが全長35mの前方後円墳と)推定される。三宅町の地名は景行紀の倭屯倉(ヤマトのミヤケ)のあったことに因むという。
しかしこの石見遺跡出土品にもし確かに火打金と確認されたものがあったのなら、恐らく目下は最古の物と推定される。出土品から見て王族の墓とは思えないが、有力豪族の墳墓だったのだろう。これは明白に天孫族の従臣のものと考えていいだろう。椅子に座る男が被葬者のモデルだとしたら比較的若年で死亡したのではないか?着帽していないのでそう推測した。