補遺61「月氏三族は血縁民族ではなかった」
天孫族考補遺61「月氏三族は血縁民族ではなかった」
……天孫族(龢族)のDNAは新羅や百済の王族とは異なる
(もっとも百済は月氏系ではないのだが)
◯月氏の三族
古代にパミール高原〜チベット高原〜タリム盆地へと広がった月氏(もっともこれは中国人がそう誤解して呼んだのが一般化してしまったのだが、元来は日[ru]氏)の部族である三族;即ち葱芘族・黄牛族・白馬族、は天山を主神アフラマズダの坐す聖山とし、太陽神信仰を共有する民族である。従来それは、“パミール高原で発祥した同一血族の、民族内の機能・役割による分枝”だと思われて来た。
しかしながら、昨今の遺伝子学の発達で、それら部族の居留故地から出土した古人骨のDNAの分析によって、“月氏は地縁を同じくしかつ通婚によって擬制的な同民族となっていたものの、元来は発祥を異にした部族集合だったとした方が妥当と考えるべきであろう”となって来た。
そも葱芘族・黄牛族・白馬族は、古代中央アジアの原ゾロアスター教での宗教的思想によって、それぞれ“バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ”(祭司・戦士・生産)の3機能を持つ部族になっていたと想定される。(このような概念を構想したのが比較神話学者のジョルジョ・デュメジルだった。デュメジルは当初この三機能体系は印欧語族とそれに隣接した民族に見られるものとした。月氏は印欧語族ではないが、隣接民族だったし、また三機能は印欧語族特有というより、原ゾロアスター教の思想から来るものだと考えられるので、三機能体系を持っていたのであろう。)
DNA分析によって推理されるのは、原初的には、パミール高原〜チベット高原に逃げ込んでいた複数の民族が隣接して同一民族化していたのではないか、という事である。だから従来、月氏は何処の民族の派生かについて説が分かれていて、未だに決着をみていないのである。
その理由は、彼らを単一血縁集団だと考えてしまったからだ。(“部族段階にあった複数の民族集団が疑似親族原理で統合されていた”と表現する学者もいる。)
葱芘族はイラン系の要素が濃く、黄牛族はアルタイ系であり、白馬族は(後世ソグド人に混じって行ったと思われる)中央アジア西部系の部族であろう。それら三族が、周囲の強力な他民族からの潜在的もしくは実際的な圧迫からパミールの高地に逃れて、連携してあたかも擬制的に血縁民族同士であるかのようになっていたのだと思われる。
葱芘族(中国では葱茈族)は和訳すれば日之下族つまり日神崇拝の部族であり、かつバラモン階層であった。
バラモン階層の呼称は、イランではマギー・ブラーフマン、葱芘族ではナギ・バラモンである。
この部族のDNAのハプログループはD-M系である。
※マギーとナギは類音であり、この事からも習俗的に類系であると推測される。ナギは漢訳されて龢となった。
ナギ族の帽子はいわゆるオニオン型であり、葱韮類の花穂=葱華に似ていた。それで葱韮類をネギと呼び、花穂を葱坊主といい、葱坊主の冠帽子をする神官を禰宜というのである。(禰宜は龢の転訛。葱は葱芘族の聖草である。)
ところでに日本では仏教での僧侶を婆羅門と言ったので、インドのバラモン教〜ヒンドゥー教でのブラフミン即ち祭司階級を意味するものと理解されてきた。それは間違いとは言えないのだが、元来のブラーフマンとは印欧語族の“創造神ブラーフマーの教理もしくはその教理を説く者”の意味合いである。ペルシャのマギー・ブラーフマンのマギとは西伝してマジックの語源となった。東伝では労わす(ねぎらわす、いたわらす)という言葉の元になった。この意味は“神ブラーフマーを慰労する”というニュアンスである。一方、ナギ・バラモンの龢は和と同じであり、これも“荒ぶる神の魂を和らげる“という意味合いなのでマギーとほぼ同意である。龢は正しく巫覡(カンナギ=神和ギ)なのである。
創造神ブラーフマーの手に持つのが聖草(バルソム)である
ヴェーダの短冊を持ち聖鳥ガルーダに乗っている
次に黄牛族であるが、ゾロアスター教では神が最も最初に創造した動物が黄牛である。黄牛族は天神の宿る星を北辰(北極星)だと考えた。黄牛(アメウシ)はトーテムであり、かつ天神に捧げる生贄=供犠は黄牛(天牛)の首(牛首=牛頭[ゴズ])であった。そのため黄牛族は牛頭族ともいう。
黄牛族は月氏の中ではクシャトリア(戦士階層)である。
※そも牡牛は月氏語でウクシュ→(ウ)クシュトリア。
補遺48で以下のように書いた。
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クシャトリア(戦士階級)の語源にも関わるのだが、サンスクリット語では牡牛をukshan という。月氏語ではuksyuとかukshi 辺りだったろうといわれる。
牛はゾロアスター教では、神が最初に造った獣(ケモノ)。また神への供物に用いる牛がmoti =物(→大物主→物部。物の字は牛偏に勿の旁;勿は“刎ねる”なので、牛の首を刎ねて供犠にしたものを物というのである。だから大己貴も実は大名物とか大穴物なのかも知れない。)
クシャトリアKshatriyaは、ukshan-triya だろう。
このukshanが、西伝して行き英語ではoxになっている。一方東伝した語では、和語のushi(牛)となった。この変形が、kshi=“櫛”とか“奇し”である。
※クシャトリアの語源について、前出デュメジルは、
「kshatraは“力”なので、クシャトリアは力を行使するもの」だろうと言っているようだが。その力はukashan という神聖性から来るものだろうか。
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クシャトリアである黄牛族は他民族との戦闘境界に配置されるので、先ず最初はパミール南西の罽賓(ガンダーラ)に、そして更にはタリム盆地の天山南麓に展開した。星辰信仰は黄牛族の精神文化である。発生的にはアルタイ系であり、DNA的には、モンゴルや鮮卑同様に
ハプログループ黄河系(O2)・モンゴル系(C2)が中心である。
白馬族は、(今でも四川省の白馬族自治区に相当数残っている;中国呼称はベイマ族である)、三族の中の庶民階層であり(つまりゾロアスター教三階層でのバイシャ)、農工〜商業に従事した。当初的には上位2階層に従属していたが、やがて独立して白馬族として自立して行った。商業民であり東西交易の隊商として活動域を拡げた。
白馬族の拠点都市が于闐である。于闐という名前自体が馬(于馬)の充満している町という意味である。
于闐を中心に西域南道(崑崙北麓)に展開していた。トーテム動物は白馬であり、彼らは交易民として暦を重視したので月讀信仰を持った。月辰祭祀の諸習俗は白馬族起源のものが多い。西域で最初に養蚕をしたのは于闐だが、この、為蚕の守神は馬だとの伝承が生じた。
※従属→自立としたが、逆に上位階層が周辺民族を従属下に置いたのがそもそもの始めなのか?これは、はっきりしない。彼らの下には元は蛮族だった者や戦役での他民族の捕囚だった者達の階層であるシュードラがあったが、その一部をヴァイシャ白馬族が取り込んで人口を増やして最多階層となった。また交易によって他民族との混淆したので、DNA的には複雑である。西アジア系のグループRか?但し、白馬族技術者が多かったと推理される金官加羅(金海)では、O2系である。
このように、元来は別民族だったのが、自衛上の都合で合従連衡したのが月氏だったので、外部からの脅威の度合いが薄れると分裂するベクトルを潜在していた。人口増加で高原地帯から罽賓地域やタリム盆地に降りていく過程で、先ず黄牛族の第一次の分裂があった。ところが、匈奴の西方浸出の傾向が出ると俄かに再結束して、最多数派はタリム盆地を西北へ(天山山脈の北側へ)出て大月氏国となり、一部は崑崙南東側に纏まって小月氏となった。比較的安全だった崑崙南西側(今のアクサイチン)では、葱芘族が残り蘇毗(中月氏)と称されるようになった。小月氏は更に青海東部から甘粛地方に蟠踞していた羌族と連衡して羌族の一部族のようになった。これを漢書で葱茈羌・黄牛羌・白馬羌といったのである。この小月氏三羌族は、匈奴と敵対していた前漢には恭順していたが、王莽の建てた新とそれに続く後漢の苛斂な周辺民族政策に反抗した羌族の反乱に加わって大いに後漢の軍兵を悩ませた。この後漢への反抗には蘇毗も加わった。この為中国側では蘇毗も羌族と見做して蘇毗羌とも月氏羌とも言った。
ところが、匈奴の脅威が弱まると大月氏は再度部族ごとに分裂する。葱芘族と白馬族の分国と黄牛族の分国二つの四つの侯国(翕侯、ヤブグ)に分裂し、結局そのうちの貴霜国が他の三つを併合して統一国家を建てた。これが最終的にガンダーラを首域としたクシャン朝である。
一方小月氏の一部は三族纏まって黄河を下り、中国東北部の遼河流域にまで東遷し、そこに辰国(三辰)を建てた。日辰・星辰・月辰のそれぞれの信仰を有した部族連合の国であった。それが北方民族や燕人の圧力を逃れて更に南韓地方へ移動した。葱芘族王家は月支国となり、黄牛族は辰韓に移住した。葱芘族は遼地にあった時に連衡した“”貊族の亡命部族=百残を交えて、白馬族とともに馬韓を成した。馬韓と辰韓の分国が混在したのが慕韓と弁韓である。これら三韓は当初、漢の四郡やそれを継承した公孫氏の楽浪・帯方両郡に対して纏まって対応していたが、次第に独立傾向となった。また黄牛族内部でも、伊西国を中心とした都邑の氏族は東岸の斯盧国(後の新羅)と争って東海(日本海)を渡って北九州〜山陰地方へ移住した。出雲族となった部族である。
葱芘族も弁韓の高霊加羅を経由して最終的には対馬海峡を渡って日本列島へ渡る。これが天孫族である。(この時、補遺60で論述したように、火打金を伝来したのである。)
このように月氏三部族は、より強大な脅威に立ち向かう時は合従し、脅威が薄れると分裂する。
新羅による三韓の統合戦争後にも、唐の圧力が高まると、(それまで倭国は百済や伽耶を支援して新羅と争っていたが)俄かに新羅と大倭国は結束するのである。
◯月氏三族が非血縁民族だと推理した理由
古人骨のDNA分析技術の進歩で、
①日本の縄文系ハプログループD-M55の一部が南韓に見られること→縄文人の渡海〜南韓倭人の存在
②一方、天孫族系と思われるD-M125は、南韓の一部には見られるが、新羅や百済の王陵出土人骨には全くみられないこと
などが分かってきた。
※ D-M125は、弥生時代以降に北九州〜畿内で見られるようになったD系Y遺伝子である。
一方で、
③(☆遺伝子学者には理解不能とされているものの)四川蔵族自治区の甘孜(ガンゼ)蔵族自治州丹巴県にD-M125が見られる事
※丹巴は、葱芘族=蘇毗(ソンパ)の転訛であろう
④D-M125は、青海省や四川省〜雲貴地区に残る少数民族のプミ(普米)族や彝(イ)族にも見られる事
他方、
⑤ D-M125は南九州(日向大隈薩摩地域)では、ほとんど発見されないこと→従って天孫族の日向発祥説には科学的根拠が無いこと
……なども判明したのである。
③に於いて“☆ 遺伝子学者には理解不能とされている”というのは、D-M125とD-M55の発生前後関係では、前者は後者より後発だと理解されているので、歴史学の知識の乏しい理系の遺伝子学者は、“縄文族D-M55から日本国内やその周辺(南韓など)でD-M125の古墳時代人が分岐した、そして何らかの経路で長江源流地帯やチベット東部へ行った”としか考えられないからなのである。
◯ハプログループD系の来た道
では縄文族D-M55の元になった人類はどういう経路で日本列島へ到達したのか?
これについては縄文時代の語彙の推定などから、南島系要素が多々あることが指摘されて来て、北回りではなく、スンダランド経由だろうと言われる。
※ スンダランド:1.5万年前までに海底に沈んでしまったのだが、インドシナ半島、カリマンタン島(ボルネオ)、スマトラ島、ジャワ島、それら東南アジア一帯に広がる舌ベラ状の広大な陸地、のことである。 ムー大陸とは、このスンダランドのことだと言う人もいる。
フィリピン海プレートとインドプレートの境界域で、両プレートからの圧迫でバラバラになった。その南側に、ニューギニア、オーストラリア、タスマニア島など今のオセアニアを形成している国々をカバーする大陸である“サフル大陸”があったが、これもばらばらになったのである。
この推定経路を裏付ける痕跡がタイ・マレー半島の内陸部に孤立して残る少数民族のマニ族の存在である。
これについては、先年NHKのドキュメンタリー「フロンティア」が現地取材をして注目された。
NHKの当該番組紹介ページを引用する。
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「日本人とは何者なのか」
初回放送日:2023年12月6日
今、日本人のルーツに関する常識が覆ろうとしている。カギを握るのは、「古代DNA解析」。数万年前の骨から大量の情報を読み出す驚きの技術だ。浮かび上がってきたのは“最初の日本人”の意外な姿。アフリカから最初に東アジアにやってきた人類との密接なつながり。世界にも類を見ない文化の誕生。そして今の日本人のDNAを決定づける “謎の集団”との混血の証拠。最先端の科学技術によって、私たち日本人の祖先観が覆る。
従来では考えることもできなかった様々な事実がこの10年で次々と明らかになってきているのです。
その1つが2018年に東京大学の太田博樹教授らのチームが発表した研究結果です。
きっかけになったのは、ラオスにあるファファエン遺跡で見つかった8000年前の人骨のDNA解析に成功したことでした。
タイやラオス周辺には2万数千年前から4000年前にかけて「ホアビニアン」と呼ばれる狩猟採集民が広く暮らしており、DNA解析に成功したのはこの「ホアビニアン」の骨でした。
ラオスのファファエン遺跡で見つかった8000年前の「ホアビニアン」の骨
太田教授らは、ホアビニアンのDNAと、世界各地の古代人や現代人など計80集団以上のDNAを比較し、どのくらい似ているかを示す近縁性を調べました。
すると、東南アジアの古代人に混ざって、日本人にとって歴史の教科書でおなじみの「縄文人」が、ホアビニアンとのDNAの近縁性、どのくらい似ているかの指標で4位にランクインしたのです。
「縄文人」は今からおよそ1万6000年前から3000年前の「縄文時代」に日本列島に住んでいた人々で、いわば“最初の日本人”です。
(※鈴木注;今では旧石器人がいたことが明らかになっており、縄文人は最初の日本人ではない。)
青森県の三内丸山遺跡や、火焔土器、土偶などで知られていますが、実は、人類学的には「縄文人」はきわめて謎の多い人々で、一体どこから日本列島にやってきたのか、どんな人々だったのか、専門家の間でも長らく意見が分かれていました。
このため、太田教授らの発表は、“最初の日本人”である縄文人のルーツが、タイやラオスなど東南アジアにあったという直接的な証拠を示すもので、専門家ですら驚く衝撃的なものでした。
東京大学 太田博樹 教授 「現代から過去におよんでランキングで並べたときに、上から4番目。ホアビニアンと縄文人は、ダイレクトにつながっている人たちだということが示されたのです。非常に驚きました」
そして私たちがタイで会ったマニ族は、このホアビニアンのDNAを現代まで色濃く受け継ぐ人々だと考えられており、ここから現代を生きるマニ族が、“最初の日本人”と親戚と言えるということが分かったのです。
そして2019年、国立科学博物館などのチームの研究から現代の日本人に関しても、ある特徴が判明しました。
下の図は、研究チームが調べた現代の日本人やほかの東アジア人のDNAの近縁性を示したものです。
現代の中国人やベトナム人などはDNAの特徴が似ており、図の中心部分に一直線に並んでいますが、現代の日本人は左上に外れています。そしてそのさらに左上に「縄文人」が位置しています。
現代の日本人が、縄文人のDNAに影響されて、ほかの現代の東アジア人とは異なる遺伝的特徴を持っていることが示されているのです。
最新の研究から見えてきた“日本人の成り立ち”
20~30万年前にアフリカで誕生した人類は、6~7万年前にアフリカを出ました。
ヨーロッパ方面へと向かったグループや、ユーラシア大陸を北まわりで移動したグループもいましたが、”最初の日本人”のルーツになったのは東南アジアへと向かった「南まわり」のグループでした。
4~5万年前に東南アジアにたどりついたグループは、そこでホアビニアンになった集団と、さらに海岸沿いを北上した集団に分かれました。
そして、北上した集団が、今から3万年以上前に日本列島にたどりついたと考えられるのです。
東南アジアではその後、北から農耕民族が流入しホアビニアンのDNAは失われていきました。
そんな中、マニ族は外部との接触を絶ち続けたため、奇跡的にホアビニアンのDNAを色濃く受け継いでいると考えられています。
一方、日本では海で囲まれていたこともあり、アフリカから大陸を経てやってきた古いDNAの形質が「縄文人」として、残っていきました。
アフリカから日本へ、太田教授が考える、壮大な旅路の全容です。
マニ族の暮らしぶりや、古代DNA研究をとりまく第一線の研究者たちの熱気をおさめた映像は、新番組「フロンティア」の第1回放送で詳しくお届けします。是非ご覧ください。
【新番組】 フロンティア その先に見える世界 #1「日本人とは何者なのか」 BS 2023年12月6日(水)午後9時~
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※この番組は、その後複数回再放送された。
つまり、ハプログループDの人類は、最初東アフリカで発生。その後、当時ごく狭かった紅海とペルシャ湾を越えて、イラン南部(つまりペルシャ地方)に至り、そこからヒマラヤの南側(インド亜大陸北部)を横断して、ビルマ〜スンダランド〜東回りで中国沿海部〜(朝鮮半島南部)〜日本列島へと到達したと考えられるわけだ。
※もしこの過程でドラビダ族との接触があったとするなら、それが“タミール語語彙の一部の和語への伝播”の淵源だったとも考えられるだろう。
これら南回りルートでのハプログループDの原初形は、D-M174だったと考えられていて、目下の遺伝子学ではその分岐ツリーは次の図のように想定されている。
しかし、この分岐ツリーをそのまま鵜呑みににしてしまうと、先述の
③(☆遺伝子学者には理解不能とされているものの)四川蔵族自治区の甘孜(ガンゼ)蔵族自治州丹巴県にD-M125が見られる事
④D-M125は、青海省や四川省〜雲貴地区に残る少数民族のプミ(普米)族や彝(イ)族にも見られる事
……それらは、全くの謎になってしまう。
そして遺伝子学者の推論では、“極東アジアで分岐したD-M125は、その後縄文族の活発であることのわかった航海能力によって、少数の冒険者が南韓〜山東半島〜長江を遡上〜大源流地帯〜東チベットにまで辿り着いたのではないか”というのであるが、これは余りに飛躍が大きすぎる。
歴史時代しかも近代になってチベットへ仏教の源流を訪ねた河口慧海(1866~1945)の探検行を見ても、容易に至れる地域ではなかったのだ。
山東半島にD-M125が残るのは、古代に三韓人の居留地があり、そこに南韓倭人なども訪れていた可能性があるので、その南韓倭人のD-M125が残ったとも考えられるのである。(実際、これは唐代になってのことだが、入唐した天台宗の円仁は山東半島の新羅人居留地に立ち寄っている。)
だがいくら縄文海人が冒険者であっても、長江を延々遡上して、大源流域にまで行こうとしただろうか?好奇心のためなどというのは、余りに現代的な解釈である。
(つまり日本列島の豊富な狩猟採集獲得食物を考えるとそんな冒険をしにいく動機はまず考えられない。)
一見の常識的には、大源流地帯にもいたD-M125人が長江を下って(例えば倭族=水系生活民の舟に同乗して)黄海に達したというのなら、まだあり得るというものだ。しかしこの考え方の欠点は、長江の中流下流域では、全くD-M125の痕跡が無いことである。従って、これはやはり長江を下るコースは取られなかった事になろう。
※時にこのD-M55とかD-M125などというDNAグループの名称についてだが、2020年の国際遺伝子学会で、それまでのD1b1とかC1a1 いう表記を変えて、当該遺伝子の塩基のアミノ酸の一部が変異した(SNP の)場合、その位置に即してD-M55とかD-M125などという風に呼ぶ様になった。この為、Mの後に付く数値は、そのSNPの位置に基づくので、発現の順番ではない。だからD-M55とかD-M125などの原初的な変異形がD-M174だという事であっても不思議ではないのだ。
因みに、SNPとは;
SNP 《Single Nucleotide Polymorphismの略。》
SNP(スニップ)とはDNAの塩基配列における一塩基多型の事。遺伝情報を保つDNA配列を構成する1つの塩基(ヌクレオチド)が置き換わる現象。DNAはアデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)という4種類の塩基から成り立っているが、SNPは例えば、CがTに1か所だけ置き換わっているというようなもの。SNPは遺伝子多型の一種であり、ヒトゲノムの遺伝情報において、およそ500から1000の塩基に1個、個数にして約300万個以上と、多種ある遺伝子多型の中では最も多く存在していると考えられている。DNA上に複数存在していることから、複数形でSNPsと表記されることが多い。---------という具合に、文科系の人間には、なかなか理解し難い。
◯私の仮説 共通祖先D-x
西アジア〜カシミール辺りでD-M55とD-M125の共通祖先D-x (D-M55の祖先集団はD-Z27276か?、というが)から先ずD-M55が分岐し、更にD-M125が分岐した。D-M55人はそのまま南〜東回りで日本列島へ東遷した。一方でD-M125人はチベット高原へ〜一部は大源流地帯地帯の原チャン族に混住し、大部分は月氏葱芘族となり、更に小月氏葱茈羌→それが黄河を下り遼東の辰国〜馬韓月支国〜南韓伽耶〜(天孫族として)日本列島へ:日下(狗奴)国〜大和王権……という経過を辿ったと考えるのである。
最初に列島へ渡来した西遼河言語接触人は
出雲族であったろうと考えられる
だから小月氏の黄牛羌族として共存し、一時は共に辰国を建てていたものの、クシャトリアの独立指向性から新羅が成立したのだが、新羅人と和人(天孫族)との間には血縁的近似性は元々ほとんど無かったのである。
また一緒に遼西から南下して馬韓の一国を形成した貊残(→百済)も、天孫族と友好的だったが、彼らは元々扶餘系であったから、これもまたD-M125人ではなかった。
馬韓の内、「臣××国」の名は、天孫族に臣従した部族だったと思われるが、これらは魏韓戦争の結果凋落し、代わって親魏的な?貊残が百済として建国し、馬韓〜慕韓を統合していったのである。
仏教を取り入れてバラモンの下層という精神支配の軛から脱却した新羅は、クシャトリアの本領を発揮して、韓半島統一へ乗り出していく。途中、バイシャの国である金官加羅は真っ先に支配されるべき存在だった。
新羅から見れば、百済はまたシュードラの国家である。当然支配下にならねばならない存在だった。
↓トップ階層がバラモンである
%は現代のインドでのカースト別の人口比
百済は貊残として、扶餘から亡命した(伝説上は百人ほどの)集団が、遼東半島の付け根辺りに蟠踞していたのを、辰国の王(龢族)が保護下に置き、辰国が南韓に移遷した時も、それを随伴させたのが馬韓での百済の元になった。この関係が、龢族が天孫族として日本列島へ渡った後も持続し、大倭と百済は友好国として、ヤマト王権は百済の滅亡までその後援を続けたのである。
百済は民族的系統は異なるのだが、一貫して新羅より和には親しみの対象だった。結果的に、百済滅亡時には百済王族や貴族・官吏・人民の大量亡命の受け皿になった。
※ 百済プロパーの人々だけでなく、亡命した百済系人には、高句麗によって滅ぼされた帯方郡や、帝権交代で逃れて来た南朝の人々;即ち漢人が含まれていた。これら在百済漢人は、日本列島渡来後は西漢氏や東漢氏の核になったのだと思われる。
龢族が日本列島へ渡来後は、南韓にはごく一部の南韓倭人に、倭国本土出身者が混住しており、これが南韓に残るD-M125の痕跡であろう。
百済遺民はほとんどが新羅によって征服されてしまい、更にはその新羅がツングース系の高麗にとって変わるに及んで、朝鮮半島人と日本列島の支配層との遺伝子的な共通性は喪失したと考えられる。
※西遼河言語接触は辰国が遼地に存在した時に生じたのであろう。最初に日本列島へ来た月氏系部族は、伊西族=
五十族即ち出雲族である。それが日琉祖語をもたらしたのであろう。だが、これが琉球にまで波及したのは、相当後になってのことかと想像される。但し五十族はD-M125人ではなかった。
なお、伊西面は清道郡にあった。
補遺32で次のように述べた。
「伊西国のあった辰韓の(現在の慶尚北道)清道郡の清道であるが、この言葉は、なんらかの聖廟の参道である事を意味していると思える。」
この近くの聖山といえば、今はツツジの名所として韓国南部では有名な;仏教の聖地となった琵瑟山(大邱広域市:1,083メートル)や、雲門山(1,195m)などがある。
琵瑟山も神奈備山である。この山岳信仰への参道が清道であろうか?すると清道郡は三韓版のヤマト(山門)という事になりそうだ。