前章) はじめに

前章)はじめに

日本古代の歴史は、今の処、以下の様に纏められる。

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我が国の王家(皇室)は、「天照という名の太陽女神の

孫神・邇邇芸に率いられた一族(天孫族)が高天原から

降臨し、先に葦原中国を支配していた出雲族の大国主

から"国譲り"を受け、また邇邇芸の子孫が、高天原から

先に降臨したが先住民と婚姻して土着していた"饒速日"

の後裔である物部氏などの帰順を得て、最後まで抵抗

を続けていた先住民らしき長髄彦一党等を討伐し後世

の畿内地方を平定して」最終的には大和に朝廷を開く

事になった。

これが記紀に記された神話の概容である。

この邇邇芸の王統が、時に傍系による継承や分立は

あった模様だが、今日にまで繋がっている。この王家

とそれを支えた従臣群の一族が天孫族と呼ばれる。

このような想定の中で、先に渡来していたのが、

一つは出雲族(須佐男の子孫、大国主も含まれる)で

あり、またもう一つは饒速日の子孫だという物部氏

らで、後者は畿内に先に到達していた天孫族の同族

(先遣隊?)であるとされた。

"先住民"とは、出雲族や天孫族の進出まで日本列島に

広がっていたいわゆる縄文人である。この縄文人の

中心になったのは、DNAの研究から、南島ルートで

(といっても、東南アジア〜台湾〜琉球・奄美〜九州

ではなく、最新の考古学的な研究も加味すれば、

東シナ海時計回りルートで、即ち)東南アジア〜台湾

〜中国呉越地方〜南朝鮮〜北九州と伝わり、それが

九州で二手に分かれて、一つは九州〜日本全土〜

北海道〜更に、樺太・沿海州と北進した。もう一方

では九州〜奄美〜沖縄〜八重山に南下した、と

考えられる様になって来た。(だが直近、福島県の

縄文遺跡から出土した人骨にかなり完全な歯髄の

DNAが残っており、その分析から、南島人系に

やはり朝鮮半島系と樺太・北海道系も含まれていた事

が確認されたようで、いわゆる3ルート混血説が再度

脚光を浴びているようだ。)

一方、縄文人の世界に稲作をもたらした人々について

は、ほぼ朝鮮半島ルートで渡来した。いわゆる弥生人

である。(但し稲作自体は縄文晩期に渡来していたのも

確実視されるに至り、弥生人は稲作だけでなく青銅器

文化を持った人々とすべきかと言われ始めた。)

弥生人とほぼ前後して、北九州と山陰地方に、南朝鮮

沿岸から渡来したのが海人族である。海人族は(中国の

南部のいわゆる呉越の揚子江以南の沿岸地域から、

黄海を渡った)朝鮮半島の沿岸部と、その対岸の北九州

から瀬戸内など、西日本の沿海部に広がっていった。

このような先期弥生人とも言うべき人々は各地縄文人

と混交した。

これが中国の史書で言う「倭人」である。

この倭人の世界に、新たに渡来したのが、出雲族や

饒速日族(天孫族先遣民)や天孫族(本流)である。

また饒速日族に前後して、九州東岸に渡来定住して

いた天孫族の従属部族もあり、これが後に秦氏と

呼ばれた民で、豊の国〜宇佐に移住していた。

天孫族が大和に統一王家を開いてからも、朝鮮半島

からの渡来は続き、これらは帰化人と呼ばれる事に

なった。恐らく秦氏の一部は、天孫族の九州への渡来

よりも早かった可能性が大だが、畿内への移住は後に

なったので、百済の亡命人の漢人(アヤヒト)や高句麗

の亡命人である狛(高麗)人らと共に帰化人と呼ばれた

のである。

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ここまでは最大公約数的な叙述である。

しかし天孫族の九州に渡来する前の居住地"高天原"に

ついては、未だに諸説が乱立したままである。

右翼的な意見には、日朝同祖論などに傾くことを嫌い

縄文人が独自に日向地域で進化し、これが天孫族に

成ったなどという荒唐無稽なものすらある。

しかしDNA研究や考古学的な成果からすれば、天孫族

は(後に任那とも呼ばれた)南朝鮮の加羅地域から渡来

したと、かなりの確度で推定されるようになった。

この内、比較的早く九州へ移住したのが金官加羅(今の

金海)からの民で、後に秦氏と呼ばれる事になった部族

である。これより以前の加羅地方は、弁韓と称される

都市国家群だった。その中魏志東夷伝に載る狗邪韓國

が、この金官加羅だと想定されている。

一方、天孫族はその隣国である高霊加羅(大加羅)が

渡来の起源地であろうと推定される。

弁韓十二国は弁辰とも呼ばれ、日本海に面する朝鮮

半島東南岸地域の辰韓と黄海側の馬韓と共に三韓と

総称される。弁韓が弁辰といわれるのは、その地域

南韓が、辰韓とほぼ同族で言語が同一であるからだ。

一方馬韓の一国である百済は、後に北朝鮮に成立した

高句麗と王家が同族であると称した。また辰韓と馬韓

とでは言語が多少異なっていたという。(もっとも、

その百済は時代が下ると、倭の王家は同族である様な

主張もするので、時々に都合の良い様に言っていたの

であろうか?或いは民族内の伝承が何かあったのか。)

そして、これら三韓は、元は北方にあった辰国という

古代国家の末裔だというが、これは伝説上である。

辰国人は、中国の戦国時代以来の動乱で逃れて来た漢族

の王が建てた箕子朝鮮やその後の衛氏朝鮮によって南

に亡命を余儀なくされた民で、それが朝鮮半島南部の

三韓の源流だという。箕子朝鮮や衛氏朝鮮は王家のみ

が漢人であったが、秦の滅亡後、漢が建国されて朝鮮

半島北部は漢の属領四郡となる。いわゆる楽浪郡や

帯方郡等である。この頃の、三韓の内、辰韓の人々は

自らの居住域を秦韓と言ったという。これは秦の亡命

移民が来て建てた都市国家群だというのである。

しかし、中国の史書では、この秦の末裔説は認められ

ず、秦韓は自称だとし、専ら辰韓と表記された。

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