補遺63「史書の中の月氏三族」

天孫族考補遺63「月氏三族は史書ではどう記載されているか? また月氏の各部はその後どうなったか?」

(史書での月氏三族と、各部月氏の消息)

◯月氏の三族

これまで私は、

月氏には、古代の原ゾロアスター教(マズダー教:拝火教)での三機能三階層(バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ)に合致する葱芘族・黄牛族・白馬族の三族があったこと。この内“葱芘族“というのは、月氏の発音癖でのヒシ音韻転訛の結果、漢訳の際に”葱茈族“となってしまったこと。つまり中国の文献上は、(羌族と混住した小月氏=月氏羌の)葱茈羌族という形で現れること。

----などを論述して来た。

※なお、月氏三族の日本列島への渡来は、先ず白馬族=秦氏の一部が、水銀や金属を扱う商人として加羅から弥生時代に来島(その中で列島へ定住したのが豊の宇佐族である);次に黄牛族=出雲族が日本海側から来島(その後ヤマトの三輪山麓に初期の王朝を建てた)。次いで九州遠賀川付近に渡海して来たのが葱茈族=天孫族である。(彼らが来た所は後に右賀と呼ばれ、当面の蟠踞地となったのが、日下=久我である左賀=佐賀の地である。そこには原郷をイメージした天山もある。)最後に加羅に残っていた白馬族が弓月の君に率いられて来島した。

今回、この月氏三族について、もう少し詳しく見て行きたい。特に、中国の史書にどんなふうに登場しているのかを探索する。

また、中国の春秋戦国時代の匈奴の伸長の脅威を前にして四分した事も考究して来た。

四分とは、具体的には、大月氏と小月氏、そして小月氏とも連携しつつも、西蔵高原〜アクサイチンの崑崙山脈南麓領域に籠った蘇毗族(わたしはこれを中月氏と呼ぶ)、更にタリム盆地に残存して匈奴の軍門に降り、朝貢属国となった複数の都邑;いわゆる俘囚月氏の4種類である。

◯葱茈族

中国版のWikipediaである維基百科で葱茈羌族を引くと、次のように表示される。

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蔥茈羌,古族名。西羌的一支。

蔥茈羌原在祁連山區游牧,其中多有小月氏人,所以被人稱其為「月氏余種」。東漢末年蔥茈羌與黃牛羌、白馬羌遷居到婼羌以西至蔥嶺(今帕米爾高原)間西域南山(崑崙山)的數千里山谷中。各有酋豪。與西域南道諸國相鄰,游牧於今崑崙山和喀喇崑崙山內外。

[以下は和訳]

コンジ・チャン 古代民族である蔥茈羌族は西羌族の支族である。

蔥茈羌族はもともと祁連山脈を遊牧しており、その多くが小月氏族であって「月氏の残党」と呼ばれていました。後漢末期、蔥茈羌族は黄牛羌族や白馬羌族とともに、婼羌の西方数千里、パミール高原までの間に広がる西域南道山脈(崑崙山脈)の谷間に移住しました。それぞれに首長がおり、西域南道諸国に隣接し、現在の崑崙山脈やカラコルム山脈周辺を遊牧していました。

參考文獻

《中國歷史大辭典》

《西北民族詞典》

 《三國志·卷三十·魏書·東夷傳》裴松之注引

《魏略·西戎傳》

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※前漢代まで葱茈だったが、後漢以降に蔥茈と書かれる

これは、あくまでも「維基百科」執筆者の見解であり、必ずしも実際の通りではないと、私は考える。

(維基百科の条文はAIの回答ではなく、あくまでもボランティアの執筆者が記入したものである。)

先ず、”婼羌(ルウチャン:これは蘇毗羌の異称なのだが)の西方のパミール高原から南山高原方面へと(月氏三族とも)移住した“というのは、正確ではなく、元々の月氏の原郷が、この南山高原〜葱嶺だったのであり、”一旦タリム盆地にまで降りて展開していたのが、蘇毗族として再度南遷した“というのが正しい認識なのである。

葱茈羌族が何故婼羌と呼ばれるかと言えば、(これまで何度か天孫族考で論及したように)葱茈族は元来が蘇霊日(tsophyRu)族であり、蘇=曽=脛なので、蘇霊日(tsophyRu)とは太陽神Ru(琉)の足下すなわち和訳すれば「日之下」;従って日(=琉)羌RuChanなのである。また後世タリム盆地に南侵してきたチュルク族の言語で、Ruは”強力な”というニュアンスの形容詞であるらしく、月氏羌族が後漢の軍兵と戦って、強力に反撃していた事を想起して、そういう呼称となったともいう。

南山高原に退避した蘇毗族は、チベット高原に複数の領域国家を作った。最も西側が象雄国であり、最も東側にあったのが蘇毗(ソンパ)国である。→これらは、やがて全部、ラサの南の谷間に興った(ネパール系?の)吐蕃によって併合されてしまう。象雄国人は後に、より西側の;今のカシミール地方までのラダック(日土国)を建てる。

吐蕃に服従しなかった蘇毗族の一部は、中国四川省のいわゆる大河川源流地帯に逃げ込んで生存し続けた。これが現在の四川蔵族自治区のガンゼ蔵族自治州丹巴県の民である。

上掲の維基百科での記述を見ると、小月氏で羌族と混住した部族が、葱茈族・黄牛族・白馬族の三族であることは認識されているようだ。(この維基百科での記述に特に異議が出ていないようなので、中国での歴史学者や識者の間では、この記述は常識化しているのだろう。)

これをまとめた記述が中国のWEB上にあるとのこと。Google自動翻訳文で引用する。

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月氏系羌各部族の具体的特徴(史料の総合)

①白馬羌; 居住地:四川高原~甘肅隴南  

   習俗文化:山岳狩猟民で「白馬」をトーテムとした(現在の「白馬蔵族」との関連が推定される)。  

   後漢末には益州牧劉璋と抗争(『華陽国志』巻五)。

②黄牛羌;  居住地:甘粛武都~青海東部  

   習俗文化:牛を神聖視(チベット系の「ヤク信仰」に類似)。『後漢書』「西南夷伝」にも「牛を祀る羌」の記述あり。→後述の盧水胡に繋がるのか?

③葱茈羌;居住地:四川涼山州~雲南北部  

   習俗文化:葱(ネギ)の栽培で知られ、裴松之注では「葱茈の地に因む名」と解釈。白鹿をトーテムとする。

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※注意しなければならないのは、白馬族を“山岳狩猟民”としている事で、これは後世山岳に逃げ込んで白馬蔵族になった事が、遡及的に認識に影響を与えている。古代の白馬族は、シルクロードの交易民でもあって、ユーラシア東西に足跡を残したのだが、それは後世のソグド人やその前身のサカ人の事だと、誤解されてしまったようだ。

ところで古代の史書類に、実際にその三族の名が常に同在しているわけではないのである。言い換えれば、複数の史書類の記載を総合した結果が先述の維基百科での記述なのだという事である。

そこで、如何なる史書で、どう三族が扱われているかを考究してみる。

(なお、羌族には東羌と西羌の二区分があったようだ。羌族十数種と書いている史書があるとのことだが、これは東西の羌族を合わせた部族数で、このうち西羌は七種族だったらしい。東羌は十種弱だったのか?)

◯史書と月氏三族

史書で最初に月氏の名が出てくるのは、『史記』での武帝が匈奴を挟撃する目的で大月氏国に張騫を派遣した記事である。その関連で月氏の一部が南部の山岳地帯に逃散して羌族との融合したのは、前漢初期(紀元前2世紀)の匈奴の圧迫によるものだと、『史記』「大宛列伝」に記される。

だがその後の『漢書』西域伝などにも、その月氏に三族があるというような記述は見当たらない。

『後漢書』西羌伝には、月氏が匈奴に脅かされて南山高原地帯に退避した事が言及されている。

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『後漢書』巻八十七「西羌伝」:

「湟中月氏胡、其先大月氏之别也、旧在張掖、酒泉地。月氏王爲匈奴冒頓所殺、餘種分散、西踰葱嶺。其羸弱者南入山阻、依諸羌居止、遂與共婚姻。及驃騎將軍霍去病破匈奴、取西河地、開湟中、於是月氏來降、與漢人錯居。……其大種有七、勝兵合九千餘人、分在湟中及令居。又數百戸在張掖、號曰義従胡。中平元年、與北宮伯玉等反、殺護羌校尉泠徴、金城太守陳懿、遂寇亂隴右焉。」

(訳:湟中の月氏胡は、もともと大月氏の分派である。以前は張掖・酒泉の地にいたが、月氏王が匈奴の冒頓単于に殺され、残った部族は分散し、西は葱嶺を越え、弱い者は南の山岳地帯に入り、羌族たちとともに住み、ついに婚姻関係を結んだ。驃騎将軍霍去病が匈奴を破り、西河の地を取って湟中を開くと、月氏は降伏して漢人と雑居した。……その大いなる種族は七つあり、兵は合わせて九千人余りで、湟中や令居に分かれて住んだ。また、数百戸が張掖におり、義従胡と号した。中平元年、北宮伯玉らとともに反乱を起こし、護羌校尉泠徴や金城太守陳懿を殺し、隴右を寇乱した。)

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※月氏の一部月氏胡(世にいう小月氏)が南遷した理由は、匈奴の冒頓単于の征服による為としているが、これはこの時代の(後漢書編纂者・范曄の南朝宋の時代)の認識であり、実際に月氏の一部が羌族と混住し始めたのは、確かに匈奴の脅威を感じて、(匈奴の兵が食料として軍役に同行する羊の群が越えにくい祁連〜崑崙山脈=南山の)南方高原へ退避したのだが、それは冒頓単于の時ではなく、その父の頭曼単于かそれよりも以前からの事だと考えられる。→後述。

またこの後漢書の記述では、月氏胡には七種族あったとなっているが、これも誤解で、小月氏が三種族と純?羌族が四種族の合わせて七種族だったのではないか、と考えられる。

※湟中というのは、青海湖周辺の事である。ここに湟水という名の黄河の支流が流れており、その流域を包摂する広域地域名が湟中である。

しかし、この史料ではその月氏胡の三種族の具体的な名称は出てこない。

史書に三族の名が一緒に出てくるのは唯一以下の記述である。

『三国志』魏書「烏丸鮮卑東夷伝」☆注引『魏略』

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「河西(甘粛省西部)の羌族には黄牛羌・白馬羌・葱茈羌の三部あり、それぞれ西戎(西方の異民族)の別種なり」

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☆“注引『魏略』”とは、『三国志』裴松之注(南朝宋の裴松之→後記※)の記述をいう。

『三国志』本文には羌族の詳細についての記述が少ないが、裴松之が注釈で補足しているのだ。

※ 裴松之(西暦372年〜西暦451年)山西省運城が本貫。

東晋末・南朝宋初の政治家・歴史家。陳寿の『三国志』の「注」を付した人物として知られる。自身の伝は『宋書』・『南史』二史にある。またその子の裴駰は『史記集解』の撰者である。

この裴松之注には、以下の記述もある。

『三国志』蜀書「諸葛亮伝」注引『漢晋春秋』

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「諸葛亮が南征した時、越巂(現在の四川涼山州)の葱茈羌が降伏を拒み、(夷族首長の)高定元と結んで抵抗した。亮はこれを討ち、その酋長を斬った」

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更に通常言う史書ではないが『華陽国志』(東晋・常璩撰)の記述には、黄牛羌と白馬羌の記述がある。

『華陽国志』は中国西南地域(益州・梁州)の歴史を述べた地誌だが、羌族の分派について以下の如く記す。

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巻一「巴志」

「涪陵郡(今の重慶市彭水県)には、獽(じょう)・蜑(たん)・夷(い)・彞(い)の四種の蛮がおり、その内の夷はすなわち白馬羌である。朴直で勇猛、土地を耕すことを好まず、山に住んで狩猟を業とする」

 《 「白馬羌」は四川北部(広元市)から甘粛南部(武都)にかけて分布し、農耕を避け狩猟を主としたとしている。しかし、この記述からは、白馬羌というより黄牛羌の性格のような気もする。→下記参照》

 

巻二「漢中志」

「武都郡(甘粛省隴南市)の地は、黄牛羌・白馬羌が雑居し、その俗は勇猛で、山稜を越えて略奪を働く」

《黄牛羌と白馬羌が混住し、山岳地帯で機動的な襲撃略奪を行っていたと記される。》

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これらから、『華陽国志』では、黄牛羌・白馬羌の存在が指摘され、『三国志』注に於いて四川奥部の葱茈羌の存在が確認されるのである。

つまり、前掲の維基百科の記述は、これらの文献類を総合的に参照しての結果に基づくものだろうと推測できるのだ。

とはいえ、月氏三族がジョルジョ・デュメジルの印欧語族の三機能説(祭司・戦士・生産)に即したバラモン・クシャトリア・ヴァイシャに相当するというのは、20世紀前半にデュメジルがこの学説を唱えてから認識されるようになったのであり、古代〜近世の中国歴史学者に弁別の基準が無いのは致し方ない。デュメジルはこの三機能は印欧語族に特有のものとしたが、今ではこれは原ゾロアスター教の教理からくるものであって、非印欧語族であっても、ユーラシア中央の拝火教信奉民族にも存在したと考えられている。この三機能→三階層が肥大して行った延長にインドのカースト(の現存)があるのだ。

※因みに『華陽国志』についてはWikipediaで「中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。」

として以下の記述を紹介している。と言われても、今回の主題である月氏三族に関わるものではないのだが、古代史探求者には興味深い記事を含むので、これも引用しておく。

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『華陽國志』(かようこくし)は、中国東晋の永和11年(355年)に常璩によって編纂された地誌。「華陽」とは巴・蜀・漢中を意味する。

古代から晋への歴史が断片的に書かれており、さらに地理の沿革・物産の状況を伝えている。字数約九万、全十二巻だが原本が現存しないため異説もある。

概要

古代の巴と蜀の地方についての詳しい記述は、黄河文明中心史観の時代にあっては、突飛な記述から、これらの文献は想像の産物だと思われていた。例えば、“初代の古蜀王の蚕叢は縦目だ”とする記述などである。それが、三星堆遺跡から青銅縦目仮面と名付けられた巨大な縦目の仮面が出土するなど、記述と完全に合致する遺物が発見されると一躍現実味を帯びたものとなった。黄河文明に平行して古蜀文化(長江文明)が存在していた事が明らかになった。

洪亮吉は、『越絶書』と共に中国に現存する最も古い地方誌であるとしている。記録に残る最古の刊本は宋の元豊元年(1078年)のもので原本は現存しないが、『後漢書』の章懐注や正史『三国志』の裴注で頻繁に引かれている。現行の校訂本としては任乃強『華陽国志校補図注』(上海古籍出版社 1987)が注釈も充実しており、広く流通している。

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※なお日本語訳としては谷口房男が全訳を論文発表している。また中林史朗の抄訳・完訳が刊行されている。

◯小月氏の南山高原退避の時期について

先述のように、『史記』「大宛列伝」に記されるのは、

“月氏の一部が南部の山岳地帯に逃散して羌族との融合したのは、前漢初期(紀元前2世紀)の匈奴の圧迫によるものだ”という事である。

でこの匈奴による圧迫とは、具体的には、いつ頃で、また当時の匈奴の強勢度合いはどんな具合だったのか?

多くの歴史解説書では、匈奴の最盛期である冒頓単于(ボクトツゼンウ)の時代からその子である老上単于の時代の事としており、これが通説化している。

古代に於いて、月氏のタリム盆地からの逃散は、匈奴の冒頓単于によって攻められて以降からだとされて来たのだ。しかし、この匈奴が月氏に圧力をかける状況は、既に冒頓の父の頭曼単于の時代か、もしくはそれ以前に始まっており、だからこそ頭曼単于は謀略で冒頓を月氏に預けた上で、冒頓の生命の危険を承知の上で月氏を攻めたわけである。→この事情は知る人ぞ知るのだが、以下に略述して再確認する。

『史記』匈奴列伝によれば、匈奴が月氏に対して優位に立ったのは冒頓単于の時代(紀元前209年)以降とされている。しかるに、冒頓の父・頭曼単于の時代(紀元前3世紀末)には、匈奴は月氏に対して以下の行動を取っている。  

⚫︎頭曼は冒頓を後継者としていたが、後妻の閼氏(単于の妃の尊称)に男子が生まれると、にわかにその子を後継者にしようと考えた。しかし既に一族に後継者宣言をしていた冒頓を自ら殺すと、自分が批判されるのを恐れたのか、一計を案じた。

対抗関係にあった月氏に冒頓を人質として送り、その後わざと月氏を攻撃して、怒った月氏に冒頓を殺害させようと企図したのである(冒頓は月氏の駿馬を盗んで脱出に成功した)。  

この背景事情としては、匈奴が月氏に対して一定の優位性を持ちつつも、未だ完全な支配下に置いてはいない段階での緊張関係があったと推測されている。

敵の駿馬を奪って帰還した冒頓の勇気は全匈奴中で称えられ、頭曼も結局これを認めて、冒頓を後継者(中国でいう太子)である”左賢王“の地位に就かせた。そして冒頓の親衛軍として一万人を預けたという。

冒頓はその一万の騎兵からさらに自分の命令に忠実な者だけを選出し、頭曼と狩猟に出かけた際、冒頓の指示で一斉に頭曼を射殺させた。自分を殺そうとした父への恨みを忘れてはいなかったのだ。これにより冒頓が単于となり、その後近隣諸国を併合して、匈奴の大帝国を築くこととなる。そして冒頓の時代に漢が建国されるが、匈奴は漢の高祖劉邦の軍を破り、漢から年租を取り、時に公主を妃に貰うまでの強力な存在となり、それは武帝の反攻まで続くことになるのである。

頭曼以前の匈奴と月氏の関係について『史記』は明確に記していない。だが匈奴が月氏に圧力をかけ始めたのは、頭曼単于の治世(紀元前220年頃~)からだったと解釈するのが通説になっている。というのは、中国側で確認されている単于の称号は頭曼が最初だからだ。

頭曼 単于(とうまん ぜんう、拼音:Tóumàn Chányú/ ? - 紀元前209年)は、中国秦代の匈奴の単于。史書に初めて名前が出た単于であり、冒頓単于の父。単于という呼称は、「万人長」を意味し、テュルクの言語やモンゴルの言語のトゥメン(tümen)という単語に相当するという。(だが、このトゥメンと頭曼の音が余りに近いので、頭曼がトゥメンから来た名だという人もいる。)彼は攣鞮(レンテイ)氏という氏族の出身であるが、攣鞮氏は匈奴を構成する種族の一つである屠各種の中で最上位に位置する氏族であり、頭曼以降の単于の多くは攣鞮氏から出ている。(匈奴の攣鞮部ともいう。匈奴にも大小幾つかの部族があった。後世北周の丞相になった独鈷信の独鈷部などである。独鈷信の娘は北周の皇后や隋の文帝の皇后となった。また娘の一人は唐の高祖李淵の母である。)

この地図は後世の作なので、「朝鮮」がいわゆる朝鮮半島の位置になっているが、当時は図の江西郡が朝鮮だった

しかし、頭曼は、始皇帝が蒙恬に30万の大軍で北伐を命じると、北方へ退避していく。この間に始皇帝は、燕や趙そして秦の長城を連結した大長城を築くのである。

この頃の匈奴は黄河屈曲部の北側に連なる陰山山脈辺りに蟠踞していて、秦の統一までの間にはしばしばオルドス高原を侵略していた。更にバイカル湖辺りからの北方にはチュルク系の丁零が存在。また東方には東胡(後の鮮卑族)がかなり強力な勢力を有していたので、匈奴の拡張の余地は西方の天山山脈北部と同南部の月氏支配下のタリム盆地方向にしかなかったのである。

という事は、この匈奴が月氏に圧力をかけて、事実上の服属をさせようとしたのは、頭曼単于よりも以前からでは無かったろうかとの推測が働く。としてもどのくらい前から西方戦略が開始されたのか?これを記した史書は無いらしい。

だが頭曼の時代に、既に匈奴では、左賢王・右賢王ほか各階級の臣下(左右谷蠡王、左右大将、左右大都尉、左右大当戸、左右骨都侯など)の地位と呼称が成立しているので、単于の称号も(史書の記録が無いのだが)必ずしも頭曼の時代になって俄かに名乗られたとは考えにくい。一代で考案された階層構造ではないだろう。

※もっとも、頭曼Tóumànから単于tümenの呼称が生じたのだとすれば、その以前には大汗の如き称号があったのかも知れない。シーザー(カエサル)から皇帝をカエサルと呼ぶようになったのに相似している。。

中国の学者の通説とは違って、日本の中央アジア史やシルクロードの歴史研究者などの中には、”頭曼単于以前から月氏や羌族などの西域民族を支配下に置こうとする意向があったのだろう“と考える人が複数存在する。

この匈奴の西侵の時期は、実は月氏の中で、匈奴の侵掠を予感して南山高原から青海路に退避して羌族と混住する(小月氏と呼ばれる存在の)開始時期がいつからか?に関わるのである。即ち、中国歴史学者の通説のように小月氏の成立を冒頓単于時代とせずに、既に頭曼単于か、もう少し以前の戦国末期あたりだと考える学者も存在するのである。

※中国の通説は、『後漢書』西羌伝での記述に依り、

“小月氏(月氏の一部が青海方面に逃れた集団)が羌族と混住し始めた時期については、月氏の一部が匈奴に敗れた後(冒頓時代)、祁連山南部(現在の甘粛・青海省)に逃れて、羌族と融合した”としている。

この「小月氏の形成=羌族との混住は、冒頓やその前の頭曼の治世以前から開始されていた」とする日本の学者に松田壽男氏(故人、元早大名誉教授、東洋史)がいた。

松田氏は、 「月氏の西方移動(大月氏)以前からタリム盆地と甘粛・青海方面での分散が進んでいた」とし、小月氏の羌族との混住をより早期(戦国時代)に想定している。(『古代天山の歴史地理学的研究』)  

というのも、月氏はそもそも中央集権的な統一帝国ではなく、各地の部族連合であったからだとするのである。

一方、日本の学者でも内田吟風氏は、中国学者説と松田説の中間である。

内田吟風『匈奴史研究』(1975年)は、日本に於ける匈奴史研究の古典的な著作。匈奴の社会構造や他民族(月氏・東胡・漢など)との関係を詳細に分析している。月氏と匈奴の対抗関係について、内田氏は、匈奴が月氏に対して本格的な優位に立ったのは冒頓単于(紀元前209~174年頃)の時代としながらも、その前段階として頭曼単于の時代(紀元前3世紀後半)から、匈奴の月氏に対する攻勢が始まっていたと指摘した。

ただし、頭曼以前(紀元前4世紀~3世紀初頭)の匈奴はまだ弱小で、月氏や東胡との拮抗関係にあったと考えていたようだ。

このように、私が小月氏の形成時期に関わるとして、匈奴と月氏の力関係の変化に注目するのは、私の仮説ではその小月氏の葱茈族=龢バラモン族=(龢即ち)和族が、何時西域を離れたかの時期に影響してくるからだ。

ところが、中国の学者にとって、匈奴が何時月氏に対して優位に立ったか?などについての、百年くらいのオーダーの違いは何の問題にもならないのである。

◯小月氏の東遷

秦が中国統一を果たして、一時的に匈奴が黄河北岸以北へ退避した頃、更に到来しそうな匈奴の脅威を予感して、小月氏の一部の三族の中から、黄河を下って、黄河再南流の屈曲部左岸のトクトから大同の北方を迂回して、西遼河方面へ東遷したグループがあった。

実はこのルートは月氏羌族にとっての処女地ではない。

東西交易の民である白馬族がこのルートを通って遼西にまで商線を伸ばしていたからである。(羌族の遼西通交については後で触れる。)だから遼西には、白馬羌の隊商宿ともいうべき居留地が出来ていたのではないか?と私は推測している。居留地といっても、遊牧民的な天幕(パオ)群の類であろう。

このグループに後続して、始皇帝が大長城を築き始めるに当たって、西戎の捕虜を建設作業者として強制労働に徴用したので、西戎(氐や羌族)の中から逃散して、小月氏の東遷グループの後を追った者たちも多数出たと考えられる。

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 『史記』「秦始皇本紀」

「(始皇帝)三十三年(紀元前214年)、西北の匈奴を斥け、河南地(黄河河套地域)を略取し、陽山から楡中に至るまで、城壁を築き、河を塞ぐ。また、徒隷(罪人や奴隷)・亡命者・贅婿(婿養子)・商人を発して、陸梁地(嶺南)を実辺させた。」

解釈:

  · 長城建設には主に罪人・商人・亡命者が動員されたと記されるが、「西戎の氐・羌」の具体的記述はない。

 ただし、「徒隷」には征服された異民族(戎狄)が含まれる可能性があり、後世の注釈書(『史記正義』)では「羌族も動員された」と推測する説も出されている。

※ 中国学者の一般的な見解

(1) 王明珂(歴史人類学者)

『羌在漢藏之間』(2003年)で、古代羌族の移動パターンを分析。 「秦漢期の圧政により、羌族は分散し、北方や西方へ逃亡した」と指摘。だが東方への逃亡や具体的に遼西を挙げる記述はしていない。

(2) 林幹(匈奴史専門家)

 『匈奴史』(1984年)で、「欧脱地」(東胡と匈奴の緩衝地帯)について言及。「この地域には小規模な遊牧集団(逃亡民など)がいた可能性がある」と推測するが、氐羌族の移住については不記載。

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東遷した人々が、小月氏三族を核にして遼地に建てたのが「辰」である。辰が成立した頃、匈奴は冒頓以前であったので、東胡との間には、いわば緩衝地帯である“欧脱地”が広く存在していた。この欧脱地に先住していた人々や新来の月氏羌族は西遼河言語連合の一部を為していたと考えられる。

※この欧脱地という用語は、匈奴と漢や東胡との間の緩衝地帯を指す。東胡も匈奴も遊牧民なので、両者間の欧脱地は遊牧の入会地・共益地であったという説もある。

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百度百科では、「欧脱」とは、

本来の意味は、匈奴が国境沿いに築いた駐屯地の土楼を指し、軍事監視所や国境標識として機能した。これらの建物は漢と匈奴の間の緩衝地帯に点在していた。

(中略)

『史記 匈奴伝』には、「漢と匈奴の間には千里以上の隔たりがあり、それぞれがその地の端に居住し、これを欧脱と称する」と記されている。と、こちらは漢と匈奴の国境にある緩衝地帯を描写している。

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→この流用で、漢との間だけでなく東胡との間にも使ったものである。因みにこの「欧」の字は、欧州の意味では無い。嘔吐の嘔の字と同義で、“吐く”“出す”の意。

⚫︎西遼河方面での羌族の影響について

羌族の居住地は甘粛省西部から青海省方面なので、黄河の屈曲部の遥か西方であり、西遼河との間には3,000キロ以上の距離がある。そんな遠くに羌族の足が伸びていたのか?との疑問もあるだろう。しかし、第二次大戦直後までは、甘粛省の蘭州から、黄河を羊皮筏で下って来た行商が山西省方面にも訪れていたという話もあるので、白馬羌の隊商が、遼の地に設けた居留地に遥々通って来ていたのだとしても不思議では無い。

先述の、小月氏の東遷以前にも、西遼河言語連合文化に先行する夏家店上層文化(紀元前1000年~紀元前300年)の遺跡から、羌族系の青銅器(短剣・飾板)が出土している。もっともこれが秦代の逃亡氐羌の先駆的な通交の証拠の考古学的遺物であるとする根拠は薄弱で、中国の学界では「東胡・山戎の民族間交易の文物」と解釈されることが多い。

ところが、先述の松田壽男氏や佐藤長氏らは、言語学的推論(西遼河言語連合と羌語の類似性)から「氐・羌の遼西移住」仮説を提唱している。

即ち、松田壽男説では、遼西の言語に羌族の影響(例:「遼」は羌語で「川」を意味する)が残ると主張している。だが羌語とツングース語の系統的隔絶が大きいので

中国学界の主流説では西遼河言語は東胡(モンゴル系祖語)・濊貊(わいはく、ツングース系)が主体であり、シナ・チベット語族の氐羌語の関与を否定している。

しかし、影響は羌族→西遼河言語ではなく、西遼河言語→辰国人(=月氏羌=小月氏三族)の方向であったと考えるべきだろう。

また火打金の歴史を考究した時に、中原での普及は隋唐時代以降なのに、遼河地域では少なくとも漢の時代以前に火打金使用の痕跡がある(火打金と思われる鉄片が出土している)事に言及した。しかし、この火打金は祭祀行動の一環として着火する為で、龢族バラモンが用いたものではないかと考える。というのも、辰国の一角を形成していた黄牛族が南遷した出雲族や初期新羅には火打金の使用が無かったと思われるからだ。本邦で火打金が出土するのは、古墳時代中期の和族(天孫族) の墳墓からである。恐らく辰国でも、西域に在った時と同様に、三族はそれぞれ部族ごとで纏まって住んでいて、混住状態では無かったのだろうと考えるのである。ここのところは天孫族考補遺60の火打金に関する考察の中で検討した。

◯月氏の各部の消長

再確認すると、月氏は匈奴の脅威もしくは直接の侵寇によって、四分した。即ち西に逃げた大月氏、南に退避した中月氏、羌族の居地である青海省〜甘粛省方面に逃げて羌族と混住した小月氏、そしてタリム盆地に残って匈奴の軍門に下り服属国家となった俘囚月氏の都邑群である。

その内大月氏は最も有名で、タリム盆地を出てカザフスタン方面で三族が協力して大月氏国を建てた。この段階は、匈奴の冒頓単于の時代に始まり、漢の武帝の時代になり張騫が訪問したわけである。その後大月氏国は、バクトリアを征服して南遷する。そして四つ(後に五つ)の土侯国(翕侯国)に分国される。そしてその内の各翕侯国の複数が後漢に定期的に朝貢している。やがてその中の貴霜翕侯国が他を圧倒して併合しクシャン朝となった。

クシャン朝は古代末期にササン朝朝ペルシャによって征服された。その後、クシャン朝の王都のあったガンダーラには、モスリムが侵攻し回教国の領域となって、結果的にこの北西インド方面の月氏はほぼ消滅した。但しゾロアスター教徒は一部がインド亜大陸に少数民族パールシーとして残存している。

中月氏はタリム盆地から匈奴の放牧羊の群れが越えられない崑崙山脈の北麓である(今のアクサイチン)を中心に蘇毗羌族となった。蘇毗羌族はほぼ婼羌と重なっている。蘇毗族は、タリム盆地の匈奴に代わってチュルク族が南下してくると、それと戦いつつ、チベット高原にまで退避する。そしてヒマラヤ北麓に四つの国を建てる。

一番西に成立したのが象雄国。(どうもここはクシャトリアの勢力も強かったのかも知れない。)ここは、仏教の影響を受けて、その異端であるボン教を興隆させた。

そして最も東側に、メコン川上流の昌都を首都にした蘇毗(ソンパ;蘇波/蘇巴)である。ソンパ国もまたボン教を国教にした。ソンパは青海西方に建てられた吐谷渾と西蔵ラサ南方の谷の宝髻国(吐蕃)が北進してチベット中部を征服し始めたのに対抗するため、唐を後ろ盾にしようとして朝貢する。丁度武則天が天下を掌握した頃である。武則天はソンパがやはり女性首長国であるのを喜んでこれを歓待した。唐はソンパを東女国と呼んだ。(象雄国もまた女王国で、これが西女国。隋代まではこの二つの女国が混同されていた。)しかし象雄国もソンパも共に吐蕃に征服され、全チベットは吐蕃によって統一される。

吐蕃の支配を嫌ったソンパ(蘇毗族) の民の一部は、東遷して四川省奥地に亡命し、長江源流の山岳地帯で細々と生き残った。四川省に逃れた蘇毗族の末裔が四川省ガンゼ蔵族自治区丹巴県に居住する少数民族丹巴族である。→この丹巴族が、天孫族(和族)と同じDNAハプログループのY遺伝子D-M125を持つことは以前の天孫族考で論証した通りである。

俘囚月氏からは、于闐王国(後漢〜宋初)が一時祁連山脈北麓地帯まで支配したことがある。またフェルガナ盆地方面で、唐の西域支配に協力して南下して来るチュルク系(突厥など)に抵抗した昭武九姓の都市国家群もまた俘囚月氏の出であろうとされる。

しかしこの俘囚月氏は、11世紀までに全てモスリムの北進によって征服されて、月氏種族はチュルク系民族に溶解してしまった。

但し、唐の時代に活躍した胡人であるソグド人には、于闐の白馬族の血を受けた人たちが混じっている、と説く学者もいるようだ。商業民としての才覚に優れている共通性からそういう風に見られるのか、実際にそうなのかははっきりしない。両方ともハプログループU系のDNAを持つ。

この辺りまでは過去の天孫族考で何度か言及して来た。

さて小月氏だが、これも幾つかのグループに分散した。

一つは、私の仮説のように、三族有志がまとまって黄河を下って東遷した。これが最終的に日本列島へ到来したグループである。

二つ目は、氐姜に混住した主に白馬族で、中世にまで残っていたが、中国の動乱(主に元の征服)を避けて、四川奥部に逃げ込んだ。これが今も残る白馬氐族と白馬羌族である。葱茈羌族は蘇毗族に連合してチベット高原に退避した。黄牛族は現存情報が確とは伝わらないので、恐らくは後述の小月氏残裔になって行ったか、もしくは俘囚月氏の昭武九姓などに同調してタリム盆地周縁を離脱したのであろうか。

そして、小月氏の後裔との伝承を持つ複数の部族が西域に存在した。

盧水胡とユグル族などの小月氏残裔である。

この内、古くから“匈奴の支族なのか?それとも小月氏(月氏羌)の一部なのか?、はっきりしないが月氏系かも知れない“と言われて来たのが、西域(というよりその手前の河西回廊の)張掖もしくは祁連山脈を跨いだ青海路の湟中付近に居たと思われる「盧水胡」である。

▽盧水胡とは?

盧水胡は、その一部から五胡十六国時代の北涼を建国した沮渠蒙遜が出たので知られる。そして北涼は匈奴系の国だというのが通説(晋書記載)だが、沮渠蒙遜は匈奴ではなく月氏系だという説もあるのだ。それによれば、沮渠蒙遜の出身の盧水胡がそも月氏系だというのである。

※ 沮渠蒙遜(そきょ もうそん)(368-433)

因みに明史地理志:甘州衞東南有盧水,亦曰沮渠川。

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又有張掖河,流合弱水,其支流曰黑水河,仍合於張掖河。又東南有盧水,亦曰沮渠川。

……とあるので、沮渠は盧水の別名で河川の名かつ流域の地方名であるので、沮渠蒙遜とは沮渠地域に生まれた蒙遜という人だと解される。

※盧水とは何か?①盧は水辺植物の芦に同じ(徳富蘆花の蘆も同類。)つまり蘆類の多く見られる川の意。

②黒水河の意だとも。黒い泥土が流れに入り込んだ川。

③湟水の支流をいうとする。(だが“張掖河をいう”ともされるので、①や②の川の一般名であろう。)

この盧水胡については、WEB上で綿密な検討をされている方がいる。→https://q-bird.hatenablog.com/entry/2023/10/05/233858

その導きに沿って引用(孫引き)させて頂きながら、考究してみる。盧水胡が頻出するのは三国志である。

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三国志の該当箇所は下記である。

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[一] 文帝紀:延康元年:注(王沈の魏書):

初,鄭甘、王照及盧水胡率其屬來降,

王得降書以示朝曰:「前欲有令吾討鮮卑者,吾不從而降;又有欲使吾及今秋討盧水胡者,吾不聽,今又降。(後略)

[二] 文帝紀:黃初二年:注(王沈の魏書):

十一月辛未,鎮西將軍曹真命眾將及州郡兵討破叛胡治元多、盧水、封賞等,斬首五萬餘級,(後略)

[三] 梁習伝:注(魏略):

至二十二年,太祖拔漢中,諸軍還到長安,因留騎督太原烏丸王魯昔,使屯池陽,以備盧水

[四] 張既伝:

涼州盧水胡伊健妓妾、治元多等反,河西大擾。

[五] 張郃伝:

詔郃與曹真討安定盧水胡及東羌,(後略)

[六] 郭淮伝:

又行征羌護軍,護左將軍張郃、冠軍將軍楊秋討山賊鄭甘、盧水叛胡,皆破平之。

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このうちの[二]、[四] については河西地帯の”涼州盧水胡”を指していると思われる。

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一方で[一]、[五]、[六]については"安定盧水胡"を指しているようだ。

[三]は後者に混ぜてもいいだろうか。(後略)

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※つまり、盧水胡には、住地によって、”涼州盧水胡”と"安定盧水胡"の二種があった(三種とする説:蘇則伝の「武威三種胡」もある )らしい。

後漢書竇固伝:

固與忠率酒泉敦煌張掖甲卒及盧水羌胡萬二千騎出酒泉塞

(涼州に駐屯していた竇固、耿忠が、酒泉、敦煌、張掖の軍兵および盧水羌胡を率いて、トルファンにいた匈奴を討伐した話である。ここでは盧水胡ではなく盧水羌胡と書かれるが、その種族が酒泉、敦煌、張掖ないし、その周縁に居住していたのではないかと推測できる。)

※従って盧水胡は盧水地方(河西回廊周辺)に住む羌族という認識のようだ。だとすれば月氏残裔であろう。

hatenablogの筆者q-bird 氏?は次のように結論付けている。

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盧水胡は盧水に居住した民族と思われる

・西平郡に盧水(=盧溪水)がある。

・張掖東南部の臨松にも盧水がある。

・安定郡の陰盤県に盧水がある。

・各地の盧水胡は同一民族かどうか等は不明

※代表的な盧水胡は涼州盧水胡と安定盧水胡

・魏初に反乱した涼州盧水胡は張掖が拠点と考える

・それは北涼(匈奴系)の沮渠蒙遜の祖先であろう

・安定以東の盧水胡も定期的に史書に登場している

・三国志集解は安定盧水胡をスルーしているので要注意

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沮渠蒙遜には通説に従えば匈奴の血が流れているということであろう。しかしその出身地の民の多くは月氏系の盧水胡だった可能性があると考えるのが適当だろう。特に涼州盧水胡はクシャトリア=黄牛族と想像される。

一方安定盧水胡は、漢の安定郡に居た盧水胡だという。

※ 安定郡は、中国にかつて存在した郡。 現在の寧夏回族自治区中南部及び甘粛省平涼市・白銀市及び鎮原県一帯に相当する。

つまり河西回廊から見て、少し東になる。そこまで月氏胡が広まっていたかどうかは何とも言えない。

思うに盧水胡は湟中月氏胡(後代に青海土族の称あり)などのような部族から、羌族や匈奴の後裔まで含む混血集団であったということなのだろう。

五胡十六国時代の途中、北涼は北魏に降り、以後この地は北周〜隋〜唐の支配の時代に移るが、その一部は北周時代から漠北を席巻した突厥の勢力下にも入った。

盧水胡の多くも突厥に呑み込まれて溶解して、独自部族としての存在感を示すものが稀少化した。

そういう中で、現在にまで盧水胡の血脈を細々ながらつないでいると思われるのが、ユグル族である。

▽ユグル族(裕固族)とは?

今でも、甘粛省張掖市南部の「粛南ユグル族自治県」(中国表記:肃南裕固族自治県、1954年成立)にほぼ集中している。←祁連山脈北麓地域である。

  - 自治県の面積:約2.4万km²(九州の半分程度)  

  - 人口:県全体で約1.5万人(2020年統計)、

  内、裕固族は約1.4万人で90%以上を占める。  

- その他の分布:  近隣の酒泉市黄泥堡ユグル族郷(自治郷)にも少数が居住している。

ユグル族の言語は、東西の2種あり、共にチュルク語族(突厥系)に属するが、西部ユグル語は古代の突厥に近いといわれ、東部ユグル語は約50%モンゴル語との共通語彙を持つという。元の征服時代の影響が東部の方が強かったという事か?なお、チュルク系といっても、新疆のウィグル族との間で、約30%の単語の共用があるとはいえ、相互に意思疎通が不能であり、ウィグル族はユグルを同一民族とは思っていない。

一説によれば、ユグル族は張掖の古代涼州盧水胡が突厥の支配下に入り、その一部族化しながらも、民族の独自性の一部を保持し続けている……という事らしい。

裕固族の伝承や学術研究で指摘される「月氏系」要素は以下の通り。

(1) 歴史的伝承;①「黄頭回紇」との関連

  『宋史』で、甘粛の「黄頭回紇」が裕固族の祖先とされ、この集団はウイグル可汗国崩壊後に南下した集団とされるが、地元の口承では「もともとこの地にいた月氏の子孫」と自称する家系がある。

②白い鹿伝説:  裕固族の創世神話に「白い鹿に導かれて祁連山に移住した」する話があり、月氏のトーテム(鹿信仰)との類似が指摘される(月氏の金製鹿像が匈奴の遺跡から出土している)。

(2) 遺伝子研究;Y染色体ハプログループR1a

  裕固族男性の約15%から、中央アジアの印欧系民族(月氏・サカなど)に特徴的なR1aが検出。

    (Han et al., 2019)

ミトコンドリアDNA:  欧州系(U4)が5%混在し、河西回廊の古代月氏人骨の分析結果と部分的に一致。

(3) 文化・風習 ;「ホーム(祭壇)祭祀」

  チベット仏教と並び、火を神聖視するゾロアスター教風の儀礼が残り、これは印欧系遊牧民(月氏・ソグド)の影響と解釈される。

しかし、これらを以てしても、もはやユグル族は小月氏の直接の末裔とは結論付けられない。

現在の裕固族は突厥・モンゴル・チベットの混合文化が主流で、月氏の影響は限定的であるからだ。

裕固族は「月氏の末裔」というより、月氏・突厥・モンゴルの層累的な融合集団と理解するのが妥当だろうと、中国では考えられているようだ。

※なおユグル族が、唐代に西域にあったという弓月城と音が近い?と言って、弓月城という都市はユグルが築いたなどという妄説があるようだが、これには全く根拠がないので注意しなければならない。

こうして俯瞰してみると、明白に古代の月氏の末裔と考えられるのは、四川省のガンゼ蔵族自治区の丹巴族、そしてその近傍の(北からやって来たという伝承を持つ)白馬蔵族(これは古代の白馬氐族らしい)と、日本の月氏三族の末裔(といっても多くは旧縄文族や弥生時代の海人族と混交してしまったが)即ち秦族(白馬族)・出雲族(黄牛族)・天孫族(和族:龢バラモン=葱芘族)の子孫だということになる。就中、その内比較的に血脈を保って来たのは天孫族の王家(天皇族)や直臣である多氏や春日系の諸氏(小野氏など)・阿倍氏・穂積氏などであろうか?

※秦氏は秦の王家の末裔を僭称したが、これは偽であり、実際は于闐(現在名は和田)を首邑とする白馬族であったことは、過去の天孫族考で繰り返し述べて来た通りである。

于闐は、ホータン・サカ語文献にはhvatana,hvaṃna,hvanなどとして見え,イスラム文献にはkhotanとして見える。

秦ハタは、このサカ語のhvatanaフバタナに最も近い響きである。秦族とはホータン族であり、月氏白馬族である。

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