補遺66「古代タリム盆地の農業ほか」
天孫族考補遺66 「天孫族の聖草ネギとタリム盆地付近の農耕について」
この補遺66を記述しておくべきとの思いは、後ほど触れるような、この天孫族考の連載をアップしているFacebookの“古代史研究会”フォーラムで、漢代のタリム盆地;そこは私が論述のテーマとしている古代民族の月氏の故郷であったわけだが、その盆地と周辺を含む(後世いうところの東トルキスタン)地方;の農作物事情について、若干のやりとりがあり(具体的にはFacebookでご意見を頂戴しそれらにレスを付けたのだが)この件に関し、もう少し内容を掘り下げておくべきだったと考えたからである。
だがそういう東トルキスタンの広域での農業事情を論ずる前に、先ず、月氏の原郷と思われるパミール高原の植生について再論しておこう。
◯パミール高原の植生
パミールという言葉はタジク語であり、月氏語ではソフィル(曽霊日=日神の脚下=日之下)であることは、繰り返し論じてきた。
そしてそのパミール高原は、中国では「葱嶺」と呼ばれていた事も。
勿論、そこは葱韮類の原産地であり、野生の葱が繁茂していたからであろう。
以下はGoogleのAI検索結果の表示である。
--------------------------------------------
パミール高原の植生は、厳しい高地環境のため、草や低木、高山植物が中心です。具体的には、風衝草原、雪田草原、ハイマツなどの低木林が見られます。また、ロゼット状の葉を持つキク科の植物のように、乾燥や強風、厳しい寒さに適応した植物も生育しています。
◆主な植生の特徴
風衝草原・雪田草原:風衝草原は、強風に耐えるように背の低い草が生えています。雪田草原は、雪が融ける時期に花畑を形成する、お花畑と呼ばれる植物群落です。
低木林:ハイマツのような低木がみられます。
高山植物:寒さや乾燥に耐えるための多様な高山植物があります。
イヌラ・リゾケファラのように、葉をロゼット状に広げて風や寒さを避け、太陽光と地面からの熱を吸収する植物も存在します。
乾燥地帯の植物:雨量の少ない内陸部では、草原や高山草原、砂漠地帯の植生も見られます。
乾燥に強い草や、山から供給される水のある場所では、低木や高木も生えています。
▽生育を支える要因
高山環境: 平均標高3500~4500mという標高と、それに伴う低温、強風、積雪といった厳しい自然環境が、特徴的な植生を形成しています。
乾燥への適応:乾燥に耐えるために、ロゼット状の葉や、地表を這うように生育する植物などが特徴的です。
地熱の利用:日中の日射と地熱を効果的に利用するため、ロゼット状の葉を持つ植物が適応しています。
--------------------------------------------
パミール高原と地続きのチベット高原やタリム盆地と崑崙山脈で仕切られた青海路のアクサイチンなどは、パミールの標高3千メートル級の高原よりもう少し海抜高度の低い地域もあるが、それら崑崙南麓高原(南山高原)も、パミールに近い植生であったろうと推測されるのだ。
ただ別稿では、パミールにはほぼ低木しか生えないのに対し、南山高原には喬木としてポプラが見られたことにも言及したのである。ポプラとはpombRua(讃霊日=“日神を讃えよ”)で、後世の回教の“アラー・アクバル”などと同様な讃美唱に起源する。(但し、現代のタリム盆地周辺のポプラは、当地原産種ではなく、中共政府機関が北米種の木を植林したものである。なお古来タリム盆地の水辺に多かった胡楊も、ポプラと同じ楊柳科の喬木である。
◯ネギの原産地
アクサイチンなどの沼沢はほとんど塩湖である。また塩湖の干上がった土地などでは岩塩が取れる。アクサイチンの湖沼では陸封のサケ・マス類の生息もあり、古代に於いても青海路の湖沼の沿岸に魚を売る棚店(“卡”=カ)が出ていたともいう。いずれにせよ、その土地の地質は塩分を多く含んでいる。
「ネギは塩地でも成育した。だから葱嶺や南山高原でも繁茂した。」とも書いた。
ヒマラヤ山脈北麓高原及びタリム盆地は、造山運動で陸化した太古のテーチス海の海底。テーチス海はローラシア大陸とゴンドワナ大陸及びインド亜大陸の間に存在していた。カスピ海やアラル海、黒海などはその残跡。(ローラシアとは聞きなれないが、北米大陸とユーラシアとアフリカ大陸などが分裂漂移する前の原大陸の一つ)
だからタリム盆地と南山高原は太古の海塩が沈澱して濃塩土質となっている。
◯葱という漢字について
蔥=葱(ソウ)の別字体である。
葱嶺への青海湖岸から西進した通行路を「葱路」と言ったが「蔥路」とも書いた
葱=艹(草冠 )+ 怱(ソウ/聡い、急ぐ、疾い、慌ただしい) が字解。
蔥の草冠の無い字形は、やはり「怱」の異字体。
では「慌ただしい草:葱」とは、どういう会意文字なのか?
これは、ネギが生命力が強く、塊茎から怱(早)く茎葉が再生する事からそういうのだとされているようだ。
だが、別の解釈は無いのか:
総は糸偏に忩で総=all だが、フサ=房の意味もある總とも書かれる。こちらが正字か。また惣も總の別字体だという。
だから蔥とは總を付ける草。よって總とは葱帽子の事では無いだろうか、とも思える。
天皇の常の移動の輿は葱華蓮。また伊勢の斎宮の輿も葱華蓮であった。輿の天頂に葱宝珠が飾られている。
何故、ここで葱を取り上げたかと云えば、それが天孫族の聖草(バルソム)であるからに他ならない。
過去の天孫族考で何度も触れて来たように、月氏龢族(バラモン)の神官が禰宜(根子)であり、その禰宜の被る帽子の宝珠形にそっくりの蕾(葱華)を付けるので、この草を(龢族は)“禰疑”と呼んだのである。葱(ソウ)はその禰疑の中国名なのである。禰宜の帽子が葱帽子(後に葱坊主の呼称も)になる。植物ながら禰宜の帽子を冠るので、葱は龢族の聖草となった。そして、牛馬羊が葱を他の草と一緒に食べてしまうのに、ヒマラヤ北麓に棲む口白鹿は聖草・葱を嗅ぎ分けて食い残す。この為鹿は龢族の聖獣(トーテム)となった。
また龢族が天孫族として北九州に渡来定住後、誉田別大王=応神天皇は、北九州の洞海湾南岸にある禰疑山の麓にあった岡田宮と遠賀湾沿いの水巻宮で成育された。岡田(遠賀←右賀)宮のある辺りは今は北九州“八幡”区であるが、古代には禰疑(ヤウタ)原と呼ばれる地だった。
八幡はだからこそ、禰疑(ヤウタ)→ヤハタ→ヤワタである。応神天皇は“八幡”大神に擬せられたという仮説も以前言及した。応神天皇が“草摘”に熱心だったのは、記紀に現れている。草とは葱韮類のようなアリニンの香りの強い草本の事である。
天孫族が日神を祀る土壇を日下(日之下)壇というのだが、そこには常に聖草として葱が植えられるか供えられるかしており、この為日下をしてクサカ(臭香)と読むのである。
◆龢→禰宜 & 葱
本来の漢字「龢」の字義も考証して来た。
文字の成立過程は「禾籥禾」で、両禾即ち禾標(華表)の間から籥つまり雅楽が聞こえる状態;王城が平穏な状態=和(平和)である様をいう。=パックス・ルウチェーナ=「月氏の平和」。(※パックス・ロマーナとかパックス・アメリカーナと同様の云い方。)
この和の状況をもたらすシャーマンを龢(神巫)と言ったのである。
(「和」の正字が元は「禾籥」つまり「龢」そのものなのであるが。)
また風のおさまった状態を凪と呼ぶのは、その派生的な語彙である。
◯補遺65に付けられたレスについて
前回ポストした補遺65は、「天孫族仮説の真説化過程について」と題して、これまでの天孫族考と補遺を集約して、その仮説のパーツがどういう風に証明されたら“真説”と言えるのかを論じたものだった。
これに対して、複数の意見が付けられた。
--------------------------------------------
先ず、
①ichiro honda氏からは;
日本人が砂漠の民、とは思えません。少しは混じったかも知れませんが、、、、。顔や歴史書、DNAを見ると歴然ですね。
--------------------------------------------
これに対して私は次のようにレスしたのである。
①A
ichiro honda様
過去の天孫族考で詳述しましたが、タリム盆地(と今言う“天山南部盆地”)が砂漠化したのは4世紀後半からで、その前は、天山・崑崙両山脈からの河水に恵まれた緑豊かな草原だったと考えられています。
識者によれば、我が国の猪苗代盆地の大規模なもののような場所だったとか。だからそこは遊牧地ではなく、十分に農耕の適地だったと言うのです。一説によれば、長江源流地域から稲作も伝わっていたともいいます。匈奴の拡疆以前には月氏は河西回廊にまで広まっていたようです。決して砂漠の民ではありません。
“匈奴の老上単于が完全に月氏を征服した後、タリム盆地に残って匈奴に服属した月氏の残存人達を管理するために、匈奴は「僮僕都尉」という官を天山南麓に駐在させた。この官の職掌は、俘囚月氏に課した税や貢納物を管理するだけでなく、月氏がソルディアナ方面と行っていた交易に課税する事や、タリム盆地残存の月氏に農耕させて農産物を収納する事も担務にしていたという。この農産物の中には穀類も大量に含まれていたということから、未だその頃(紀元前1世紀)までは、タリム盆地では農耕が行われていた事が分かるのである。砂漠ではないから、匈奴が侵寇したのである。”
因みに“僮僕”とは奴隷のことである。匈奴が俘囚月氏をどう考えていたかが分かる官名である。
※月氏は砂漠の民だとか、また酪農していたのだが、全くの遊牧民なのだ(定住地を持たぬ“行國の民”だ)という誤認識も生じて来た。
江川波夫氏のいわゆる“騎馬民族渡来説”などもあって、一時は月氏は騎馬民族だという誤解も生じたのである。→これらについては過去の天孫族考と補遺で反論を重ねて来た。
一方、上述のレスに対して更に次の質問がなされた。
--------------------------------------------
②Masaki Satonaka
鈴木 宏義 さん
>タリム盆地(と今言う“天山南部盆地”)が砂漠化したのは4世紀後半
>からでその前は、天山・崑崙両山脈からの河水に恵まれた緑豊かな
>草原だったと考えられています。
これの出典を教えていただけませんか?
たしかにタクラマカン砂漠は湖だったはずですが、すでに漢の時代には乾燥していたと思います。そう思う理由として、シルクロードが南路と北路に分かれており、タリム盆地の中ほどには遺跡がなかったと思います。
あと、農耕はあったとは思いますが、わたしはオアシス周辺だけだったと思います。
--------------------------------------------
この質問への回答は、残念ながら不十分なものにならざるを得なかった。
②A
Masaki Satonaka 様 遺憾ながら、私の記憶は最早半世紀前の季刊誌「東アジアの古代文化」(大和書房刊)でのある識者の見解に依るものであり、今出典をと言われても明示できません。その頃書き残した私のメモでは、“「隋書」や「北史」に楼蘭王国(漢では鄯善と呼称)が、その湖畔にあったというロプノール湖の水が減少した結果、大都市の水利を確保できなくなり、4 世紀の後半から急速に衰退し、8世紀以降には完全に砂漠化して砂にうずまれた”という記述を見て、タリム盆地が砂漠化したのは4世紀以降だろうという風に理解した、というものです。当時はいわゆる「さまよえる湖」が大きな話題になった時期でした。しかし、その頃の「隋書」などには、楼蘭王国(当時は西域南道西部の于闐王国と国境を接していた広域国家だったようです)の農業の実態がどうだったのか?などは出てこないようです。しかし少なくとも前漢の時代には、“「漢書」西域伝に、楼蘭は「戸千五百七十、口万四千一百、勝兵二千九百十二人」などとあり、これは、当時の楼蘭が一定の人口を養えるだけの農業生産力を有していた”ことを示します。
また、同書には西域各国の特徴として「田作」や「寄田仰穀」「寄田糴穀」といった農業活動が頻繁に記述されていることから、前漢時代や匈奴が僮僕都尉を置いて西域管理をしていた頃には、後世のオアシス周囲農業を超えたイメージの農業生産があったと想像されるのです。なお、タリム盆地の砂漠化については、中央アジア全体の砂漠化の一環というより、南北の山脈の降雪量の減少と、その結果パミール・崑崙・天山の3源流からの水量の変化でそれらを集めたタリム河の流路が変わり、途中の湖沼や到達地だったロプノール湖の水量と場所の遷移などが総合的に相まって、タリム盆地の砂漠化が進行した、と今では考えられているようです。
--------------------------------------------
※ところで「寄田糴穀(テキコク)」とは何か?
糴は穀類を買うこと。魏志倭人伝の対馬について「南北に市糴す」と出てくる糴である。糴は元来米穀を買入れる(イリヨネする)意味。市糴で市場で米穀を購うこと→“交易する”という意味になった。
一方、寄田仰穀は他領に(寄田)借地して、そちらに穀類を頼る(仰ぐ)という意味である。糴穀の方は小作では足りない場合、物品と引き換えで購入したということなのだ。(この時代には未だ金銭は無かった。)
タリム盆地の俘囚月氏は36 国ともその後50国ともいった。
小さな都市クニで1500人ほど。大きな国では1万人ほどの人口があった。
だから盆地全体では数万〜十万人以上の総人口だったと推理される。
この人口の食糧確保は結構大変であったろう。
ロプノール湖周辺つまりタリム河の終端では塩分濃度が相当高かった。その付近は“沙鹵”の地だったといい、砂塩が多い土地柄だったと漢書に出てくる。塩分に強い草本が主に繁茂していた。
実際、鄯善では、僅かの農地しか得られないと書かれている。
飲用の淡水は井戸で確保したのだろう。
タリム河ではなく、祁連山脈から下ってくる小河川の沿岸が井戸水と耕地が獲得できる場所だったろう。
ロプノール湖=漢の時代の「蒲昌海」(現在のLop Nur)
塩湖ながら海浜植物(耐塩性)の蒲は繁昌していたのだと思われる。
今のロプノール湖跡は干上がって単に砂漠に窪みが残るのみ。
ロプノール湖跡の衛星写真
蒲昌海は鹽澤者とも呼ばれていた。この湖は玉門関(ぎょくもんかん)と陽関(ようかん)の300里はど先にあり、300里(74.8km)ほどもある広大な湖だっという。
へディンの「さまよえる湖として有名になった。
1600年で再帰するという。
中国では、この湖水が浸み込んで流出するのが、祁連山脈の南麓、積石山地域の黄河源流だと思われていた(伝説)。
「実際、鄯善では、僅かの農地しか得られないと書かれている。」
だから、鄯善でも寄田糴穀した。鄯善の場合、西域南道の西に旦未という比較的耕地に恵まれて、穀類の稔る土地を持つ国があった。
旦未などの支配地に小作地を借りて(寄田して)そこへ出作りに出掛けた。
この寄田の記述を見ていくと、何点かのタリム盆地内の俘囚月氏の都市国家相互の関係が想像される。
寄田仰穀についての漢書などの記述を見ると面白いことに気づく。
①結構遠隔地に寄田(小作借地)を持ち、往路に2日以上もかかるようなケースも珍しくない。つまり泊まりがけで小作地に通っていたらしい。具体的な記載はないものの、恐らく寄田現地には出作り小屋のような宿泊場所を確保していたのだろう。しかも小作地には家族の複数人で行っているから、この現地住居は掘立小屋のようなものでなく、播種から収穫まで(一旦は帰郷もするのだろうが)相当期間をそこで過ごせるようないわば簡易の別屋であったと推理される。
②その小作地(寄田)は、必ずしも隣接している都市領ではなく、かなり離れた都市近郊に寄田しているようだ。中には片道1週間もかかりそうな遠隔地に寄田していたという事例もあるようだ。
これは、[▼1]隣接都市に、他者に貸すほどの余裕のある農地が見つからない、というケースもあるが、どうもそうではなく、[▼2]遠隔地でも友好関係のあると想定される都市領に出かけているとしか考えられないケースがしばしばある。
---------漢代の寄田仰穀については、これが珍しい表現に見えることから内外(日中)の研究者によって多数の論文が出されて来た。それらの論文中で、この①②については、何人かが指摘して来たところである。しかし以下の③の様な分析は見出せない。というのは、月氏の部族構成がゾロアスター教の3種族(神兵民)に依るという認識が中日の研究者の頭にないからだ。これはアーリア人にのみ特有のものだと考えているからである。もっとも龢族はイラン系アーリア人由来であろうと思える節がある。
③農地の貸借関係を基に想像すると、タリム盆地の(俘囚月氏の)複数が、幾つかの友好関係(もしくは従属関係)の集団化していたのではないかと想像される。私の見たところ、鄯善・焉耆・亀茲・于闐・疏勒などがそれらの中心都市である。これらは、月氏三族のそれぞれタリム盆地地域の盟主的な都市だったのではないか? 言い換えれば、当該都市国家の領主(王)の出身部族階層の違い(つまりバラモン龢族・クシャトリア黄牛族・バイシャ白馬族のいずれに属したか)によって、小作先の農地の貸借が規制されていたのではないかと思われる。
特に疏勒(カシュガル)などは、そこ自体で「王治(首都)は疏勒城、その都城方5里、国内に大城12、小城数十あり。疏勒侯・撃胡侯・輔国侯・都尉・左右将・左右騎君・左右譯長が各一人いる(Wikipedia)」という規模であったらしい。この為、莎車(ヤルカンド)なども疏勒の統属下にあった様に思える。疏勒は西域北道と南道の会合する都市であり、また葱嶺道の東の入り口という要衝だった。疏勒の領域に小作する農民の所属都市は複数に亘っている。これは疏勒の領有農耕地が広かったというだけでない理由によるものと考えられるのだ。
更に考察すれば、漢書に記載されている寄田仰穀は5都市についてである。これは、寄田仰穀しているのがその5国のみなのか?それとも記載はその5つだが実際はもっと多くの都市国家が系列都市領で小作しているが、それらは記載されていないのか? 私は後者だと思うのだが。そも50国の都市名のみは記載されているが、それ以外の情報がほとんど無い国は多数あるからだ。仮にもう5国くらいが寄田していたとしてみよう。それではリム盆地諸国の1割程度という事になる。それを逆にいうなら、9割の都市は穀類を自給できたということにならないか。という事なら、盆地内の農耕は相当に盛んであったという事であり、決して砂漠の不毛地の広がりでは無かったというものだろう。
さて、先記②Masaki Satonaka氏の
>>たしかにタクラマカン砂漠は湖だったはずです>>が、すでに漢の時代には乾燥していたと思いま>>す。そう思う理由として、シルクロードが南路>>と北路に分かれておりタリム盆地の中ほどには
>>遺跡がなかったと思います。
についてであるが、先ず
“タクラマカン砂漠は湖だった”というのは誤解で先述したように;
「ヒマラヤ山脈北麓高原及びタリム盆地は、造山運動で陸化した太古のテーチス海の海底」ではあるが、これははるか地質年代の昔のことであり、人類がタリム盆地周辺に住み始めるより、年時ケールの違う太古のことである。もっとも、葱嶺が今のように盛り上がる前には、タリム盆地から西に流出してアラル海に注ぐ、後世のアムダリア河の原形の大河川もあったろうと言われている。
だから現生人類がタリム盆地周辺に到達したときには、未だその辺りは水と緑の豊富な土地だったと想定されるのだ。
※②“>>シルクロードが南路と北路に分かれており”
というのは、正確に云えば、タリム盆地の東西の交易路は、北山(天山山脈)南麓を行く西域北道と、南山(祁連〜崑崙山脈)北麓を行く西域南道の二つが、主要な通行路だったという事なのである。この西域北道の別名が天山南路であり、もう一つの、実はより主要な交易路が、天山山脈の北に回り込んでイシククル湖方面に通じていた天山北路だったのである。
で、タリム盆地の月氏の城砦国家は(無論、匈奴の西侵後は、俘囚月氏の匈奴従属都市群になっていたのだが)、基本的には東西交易の中継点・交換市場という商業都市として栄えていたので、この西域南道と北道の間(つまりタリム盆地の中程)には、大きな都市の成立する余地が無かったのだ。しかしそれは、後世のタクラマカン砂漠となった状態での盆地の中程とは異なり、無人の地ではなかった。東西に流れるタリム河の南北には、村落が点在していた。(実際このような村落の民の末裔は、現在でも砂漠の中のオアシスに残っている。)
タリム河を渡って、漢代〜唐代頃には、西域北道と南道の南北の都市をむすぶ交通路が、少なくとも二つはあったと考えられており、一つは盆地南部の旦未と北部の焉耆を結ぶ道であり、もう一つは、北部の亀茲から南部の于闐に通じた道である。
その路側には胡楊の林も茂っていたと思われる。但し塩地であるため大規模な農地にはなり得なかった。恐らく葱類と耐塩性のアブラナ類などを植えたいわば家庭菜園程度であったろう。
◯タリム盆地の砂漠化
では、いつ頃から、タリム盆地の砂漠化は始まったのか?またその砂漠化は盆地のどこの辺りから開始されたのか?
ヒントになりそうだったのは、「漢西域諸国図」という一種の絵地図である。これは漢書の西域に関わる記述を元に、タリム盆地とその周域の、城砦都市間の大まかな通行図・歴史地図となっている。
但しこの絵図ではタリム河より北側にある筈の
山国や焉耆・亀茲・姑墨などの都市が川南に
描かれているという明らかな間違いがある
私はこの地図上で、玉門と陽関の両関のそれぞれ南北に「流沙」と書かれているのに注目した。つまりロプノール湖に近い、天山北路と西域南道の通域に砂漠化が始まっている事を示唆している。
別の歴史地理情報では、前漢時代に既に、蒙古に近いゴビ砂漠とジュンガル盆地の一部が砂漠化していたという。実際、漢と匈奴の戦闘においても、漠北の文字表現が見られる。この事から、タリム盆地は北東のジュンガリア方向から砂漠化が始まったのではないかと推測されるのだ。
とすると、「流沙」とあるからには、前漢時代後期には、タリム盆地東端部では砂漠化が始まっていたのだろうか?
だがこれは必ずしも正解ではないのだ。
当該図が、「漢の時代の」と断りながら、実際にはこれが漢の同時代の資料ではないからだ。
では、この図面自体はいつ頃描かれたものか?これが問題になる。
もっとも史書である「漢書」自体が書かれたのは、無論後漢になってからである。従ってその漢書を読んで描かれたと考えられる当該の図面は、漢書の記述に沿っているかに見えて、実際は後漢になってからの地理的な情報知識が入っているろうと考えられる。
漢書は、周知のように後漢の史官である班固の著述である。だから、漢書は紀元後1世紀半ば以降のものである。また後漢時代中期の西域都護であった班超は班固の実弟である。従って漢書西域伝には、班固からの情報も反映されているだろうとの想像に難く無い。漢書を完成させたのは、班固・班超兄弟の妹である班昭だという。従って、漢書は前漢時代を記した史書であるが、実際上の地理的情報などは後漢時代のそれらを踏まえていると十分考えられる。
端的には、図の左方に海が描かれ「西海」と表示され、その上方に「大秦」という国名が見られる。これはローマ帝国の事だが、漢がローマ帝国と通交したのは、西域都護だった班超が部下の甘英を派遣したこと(もっとも甘英はシリアの地中海岸で、この先の海の航海は時間と資金が多くかかると言われて中止したのであるが。)で、中国側の知識となったものだからだ。つまり班超以後の情報である。
更にこの「漢西域諸国図」なる絵図は、漢書に記述された地名や土地感覚を下敷きに描出されたものであるが、どうも前漢〜後漢だけのものとするには異和感がある記述も存在する。だからこれが描かれたのは、早くとも後漢末から三国時代以降の事であろうと推測した。
と考えて画像検索してみると、当該地図は、北京の「首都図書館(通称)=北京市立中央図書館」所蔵の、何と南宋時代の絵図だと判明したのだ。
とすれば、当該図面は12〜13世紀の描出であろうかと推理される。つまり、後漢から(三国時代・六朝時代・隋唐時代を含む)900年も経過したはるか後世のものである。
そうすると、21世紀の現代の感覚からすれば、日本でならいわば源平時代の地理知識を云々するのと同様になってくる。
更に、西域経営に大きな進展があった唐時代の情報知識が、大いに反映されていると考えなければならない。
だから両関を出た所の流沙というのは、後世の砂漠化した後での知識により、ロプノール湖周辺から砂漠化が始まったらしいという知識によって後付けで挿入された可能性も指摘できるのである。
ある識者が「縄文海進のあった温暖化時代には、いわば猪苗代高原のような緑豊かな土地柄であったろう」と言ったのは、いささか極端な表現では無かったかと、私にも思えてくるところではある。
しかし猪苗代湖とその周囲の磐梯山の火山灰地の関係などは、タリム河とロプノール湖の水脈と周辺の塩地の関係に似ていなくもない。
会津に於いて大彦命父子が合流した伝説の時代は四道将軍派遣の三輪王朝時代であり、タリム盆地の砂漠化の開始とほぼ同時期の事である。
つまり、もし私説のように小月氏の三族が日本への渡来人となったとすれば、彼らが西域を離れる頃は未だタリム盆地の砂漠化が始まる前だったろうと推理される。
※「漢西域諸国図」には、以前の天孫族考補遺で述べたように、極めて注目すべき記載がある。それは崑崙山脈北側の今いうアクサイチン方面〜チベット高原と思わしい南方地域には、どこを行っても全て「婼羌」の表記が並んでいる事だ。この婼羌=葱茈羌族=蘇毗と象雄などの月氏龢族が、南山高原方面には広く蟠踞していることだ。これは盆地から逃げ出した大月氏や小月氏、そして匈奴に従属した俘囚月氏の3種族ではなく、私が中月氏と命名したものである。
そしてこの中月氏が、唐代に「東女国」と呼ばれた蘇毗(蘇巴、唐発、丹巴;thompa)国や「西女国」(象雄国)のことなのである。
ともに女王国であり、だからこそ“婼羌”の表記も、「若羌」の用字の若が婼と女偏の付いた文字になっているのである。
※留意しておくべきなのは、ロプノール地区というのが、具体的にはどの辺りを言うのかは中国の国家機密で定かでないが、核実験場となった為、中国政府は「このタリム盆地は、有史以前からの不毛の砂漠の地であり、よってそこに核実験場を設けても、何の問題も起こらない土地がらだ」として、有史以来タクラマカン砂漠が広がっていたかのように情報宣伝している事だ。むしろ、「盆地西部に植林や引水して緑地や耕作地に変えているのは、中国政府の政策の成果だ」と強調している。従って、かつてそこが水と緑の土地だったなどという説は肯定しない。それでは楼蘭=鄯善という有名な都市国家があったというのは、有史以前から全くの不毛の土地だったというストーリーとは矛盾しているとは思わないのだろうか?中国人なら政府の言う通りを信じるのだろうが、我々はそうは行かない。この中国政府の見解を、結局DeepSeekなどの中国版AIも支持した形で論理展開がなされる。そも放射能汚染に曝された筈の楼蘭遺跡に多数の観光客を入れているのが不可解とされる。人によっては、この観光用楼蘭遺跡は、廃墟から予め運んでおいた資材を使って別の場所に作られたいわばオープンセットなのだと言っている。成程、彼の国では何でもありだろうから。先住のウィグル族をジェノサイドしている国なのだ。
☆私の若い頃の事であるが、東洋史学界の泰斗・松田寿男博士(個人、当時早大名誉教授)の論文で、一般に遊牧民は農耕とは無縁だとされていたのに対し、“穀類を食するのは、北極地帯など余程特殊な環境下にある民だけが例外であって、匈奴やそれより遅れるがアルタイ山脈西方地帯に蟠踞していたキルギス人なども農耕をしていた”事を論文で指摘されていた。
司馬遷が「史記」に於いて、匈奴などの漠北の遊牧民は「水草を逐って」移動し常住をしないと書き、またある史家は「匈奴は農耕を死ぬほど嫌っている」などと言ったという事で、遊牧と農耕は全く相反する営為だと考えられて来た。
(水草を逐ってとは、無論人や牧畜の飲用水源と牧草の繁茂地を辿って移住を繰り返すという意味である。)
しかし松田博士の指摘では、確かに匈奴人は自らは農耕しないものの、亡命して来た秦人(秦末楚漢戦争を逃れて漠北に来た者達)や、この戦乱のドサクサの間に拉致掠略して来た中国人や西域人を奴隷化して農耕に従事させたという。これはかなり大規模のものであり、前漢の武帝の時代に、対匈奴戦争に活躍した将軍・衛青と霍去病が、破った匈奴を追って漠北に入ったところ、収穫した穀類を蓄積していた趙信城を見つけて入り、泊まり込み、配下の兵に腹一杯食わした後、残った穀類を残らず焼き尽くして漠南に引き上げたという故事が漢書に出てくる。趙信は、元来は匈奴だったが、若い頃に中国へ入って育ち(だから趙信などという中国名を持っている)その後対匈奴戦で漢が敗れた時に匈奴に帰り、匈奴の単于に中国の情報を伝えて重臣となった人物である。その趙信が、築城し、その城の周囲か、近辺の川沿いの土地かを耕作させて、穀類(雑穀)を収穫し、耕作民と収穫物をその城に保持していたという事なのである。
だから匈奴が月氏に勝ってタリム盆地を支配した時に、僮僕都尉を置いて俘囚月氏の農作物を収税したというのは何ら奇異な話では無いと、松田博士も言っておられた。