「天孫族考」補遺5 その2-2

「天孫族考」補遺5 その2-2 月氏の末裔

☆東女国

 東女国は、蘇伐刺肇盟咀羅 (スヴァルナゴトラ)ともいい、

これも羌族の別種であるとされる。

西海 (インド洋)上にも、女国(女の王を戴く国 )があるので、

それと区別するため に 「東 」を 付けたとされる。

“東は吐蕃、党項(西夏)、茂州 (四川省) に接し、西は三波詞国

に属し、北には于闐、東南は雅州の羅女蛮、白狼夷に属していた。

この国の面積は、東西に九日、南北に二十日行程の広さであった。

 八十の城を有し、女を君主に戴 いている。康延川 に住み、険しい

土地 が四方を取り囲んでいた。弱水が南に流れ ている。人々は

革を縫 いあわ せて船を造った。 戸数は 四万戸で、勝兵は 一万人

であ った。

王のことを「賓就」といい、官のことを「高覇(黎)」といったが、

これは宰相に相当した 。外廷にいる役人は、男子をこれ にあてた。

 およそ号令 は女官が内廷から伝え、男の役人がこれを受け取って

実行に移した。王の侍女は数百人おり、王は五日に 一度、政務を

とり行った 。”

(『隋書』巻八三西域 ・女国伝)

→ http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/1813/1/0070_009_004.pdf

北は于闐(和田)に接するという事は、正しく今のアクサイチン

に重なっている。しかも女王国だという事は、およそ婼羌国

の後裔としか思えない。更に高覇も最高位の女官だそうだ。

これは月氏龢族が正副王共に女王だったというのと相似で

ある。

都のあったと示唆している”康延川 “とは今の昌都チャムド

だという。チャムドはチベットでもほとんど東南隅にあり、

もしここが首都で、アクサイチンも含む崑崙山脈南麓高原まで

支配していたとするなら、上述の隋書に載る如く極めて広大な

地域を占めていたことになる。この後の唐書にも度々登場して

いるようで、北からの突厥の圧力をはね返しながら、唐の都・

長安に度々朝貢使節を送っている。太宗の代や高宗の皇后で

あった武則天が女帝に即位してからも、東女国の王や使節の

大官は冊封叙位されてもいる。王族は湯氏とか董氏を名乗って

いるようだ。正副の王があったというので、両氏がそれら二つ

の王統なのだろうか?(湯も董も音はトオであるが。)

或いは東女国というのは、湯女国の様なTou氏の国という事は

無いだろうか?

場所的な関係から見ても、この東女国は婼羌族の主力が、

チュルク系民族の南下を前にして、より安全な南の山峡地帯へ

移住して建てた国かと思える。隋書及び唐書では、共にこの

東女国は羌族の国だとしているのだが、婼羌が実際は月氏だ

とするなら、東女国もまた本来は月氏だったと考えられる。

(大月氏国もチュルクに押されて南遷し、その中からクシャン朝

ガンダーラ王国が生まれたのであった。)

コトバンクでは女国については、以下の様に記述されている。

>> 『旧唐書』『新唐書』に伝えられる東女国は中国四川省の

金川方面に位置し,古くからゲルモロン (女王の谷) として

知られ,清代にもダン sBrang氏を母方とし,ラン rLangs氏

を父方として複合氏名を名のる女土司がその地に君臨して

いた。

ラン氏 (スムパ族) の伝承によれば祖先は西チベットにいたと

され,『西域記』の東女国との関連が認められる。彼らは父系

に吐蕃王家と共通の祖をもち,ソンツェンガンポが王国を統一

する際にスムパ族として最初に提携協力している。いずれの

女国も女子が選ばれて王となり,その夫は軍務に服した。西の

女国は黄金を産し,塩をインドに売ったとされ,そのため

スバルナ (黄金) 族と呼ばれ,女王の夫も「金の王 (聚tshe'u) 」

と称した。四川の東女国のダンの氏名はスバルナの転訛と解さ

れ,金川の名もその関係を反映している。<<

つまりこの解釈でも、東女国はチベット西部から来たとされて

いるのである。

この様な言説の延長下で、“東女国は西にあったシャンシュン

(象雄)王国”の東遷したものだ“という見解も出された。

(隋書が“東は吐蕃“としているのも、スンパというより、象雄の

方が、位置関係が当てはまる。)

しかし、唐の時代東女国とは別にシャンシュンが在ったという

認識があり、それぞれ朝貢しているようであり、またチベット

の主要部・拉薩方面には吐蕃が拡張しており、私は東女国と

シャンシュンは別の国(もしくは分国)だと思う。

一方で、東女国は西女国に対するものだというが、では西女国

とは、どう認識されていたのか?

百度では、

”西女国,在葱岭之西。就是西游记里面所说的女儿国。其俗与东女

略同,种皆女子。多珍货,附拂君长,岁遣男子配焉。俗产男子不举。

唐贞观八年,朝贡使至。“

とあり、これは恐らくシャンシュンの事であろう。

ところが、Wikibandでは、

“西女国,古代女国名,位于印度西南印度洋中,约存于中国南北朝

至唐代,《大唐西域记》载:“西南海岛有西女国,皆是女人无男子,

多珍货,附属拂懊,拂懊王岁遭丈夫配焉,其俗产男例皆不举。

”亦是《西游记》中女儿国的原型。”

となっていて、インド洋上の国だったという伝説を紹介していながら、

内容は先述のシャンシュンらしい国の記述となっていて、混同されて

いる。

そこでシャンシュン国について更に考察してみる。

京都大学の佐藤長氏の「古代チベットの若干の地名について」

という論文では、

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238516/1/shirin_062_5_722.pdf

(敦煌文書に記載されているという古代チベットにあった12の

小王国の位置関係に関して)

“十二小王国表はチベット西端のシャンシュン地方から東へ

順次に王国名を列挙しており、

シャンシュン[一]・ニャンロチェカル[二]・ヌプ国[三]・

ニャン ロシャンポ 〔四〕と進む (DTH, p. 83)。当然その順序

からすれば、ニャンロチェカルは小羊同国、ニャンロシャンポ

は大羊同国とならざるを得ず、東がシャンボ、西がチェカル

に入れ代るのである”云々とあり、

シャンシュン王国はやはりチベット地域西端だとされている。

これは後世のシャンシュンの宗教であるポン教の研究者達にも

共通の見解となっている。

隋書の先述の東女国の地理的な認識についての記述;

“東は吐蕃、党項(西夏)、茂州 (四川省) に接し、西は三波詞国

に属し、北には于闐”にある三波詞国 とは何処か?については

百度などにも記載が見つからない。だが、勿論チベット東端に

東女国があるのだから、三波詞国 は西端のシャンシュンでは

なく、敦煌文書の十二小王国の一つであろうかと思われる。

恐らく三鼻関ではないだろうか。西というより西南なのだが。

但し東は吐蕃というのは不正確である。吐蕃はラサの南側の

谷合地が本拠地であり、吐蕃の北方や西北、東南は半円状に

蘇毗族の国が分布していたはずだからである。明らかに隋書は

シャンシュンを東女国と錯覚している。東女国は吐蕃に併合

されるまで四川省に近い昌都チャムドを都にしていたのだから

チベットの最東端になければおかしいのである。

それで、何故東女国がシャンシュンと誤解されたかと言えば、

実はシャンシュン王国もまた女王国らしいからなのである。

だから、これがまたシャンシュンが西女国とも思われてしまう

理由でもある。

私は東女国は婼羌の南遷したものだと考えたが、実際には

シャンシュンもまた婼羌が南遷して建てた国の一つなので

あろう。何故なら、東女国もシャンシュンも共に最盛期には

北で于闐に接していると主張しているからである。漢代の

概念図をみると、タリム盆地の南の街からはすべて婼羌に至る

との表記がなされている。また南山の南即ちパミール高原東部

もまた婼羌であるかの表示になっている。つまりパミール

からアクサイチンまでの西域南部高地は全て婼羌だという

のである。

この婼羌はチベットの小国家を記述した敦煌文書や精絶

(ニヤ)遺跡出土木簡に拠れば、「蘇毗国という西羌だ」と

記されている。

勿論、婼羌が南遷して先ずシャンシュンができ、その後

一族が東遷して東女国を建てたという見解も出てこよう。

しかしシャンシュンは唐代まで存続しており、その頃東女國と

の間拉薩地方は吐蕃が征略していたのだから、シャンシュンが

東遷したものが東女国ではなく、両者共に婼羌から分かれた

と考えるのが合理的だと思うのである。

(吐蕃が東女国を征略した後にも、青海省の黄河の南岸地域の

蘇毗族は一つの部族集団として残存したように見える。)

もう一つの可能性は、大蘇毗国が分かれたのかも知れない。

というのも、スンパもまたボン教徒だったらしいからだ。

改めて、それら両国は婼羌に由来する女王国であり、

よって月氏の末裔の一流だと考えるのである。

大月氏国もまた張騫が訪れたときに女王国だったといい、また

小月氏の葱茈羌も女酋が族長だったというのだ。

(蘇毗羌と書けばほとんど葱芘羌となるのだ。)

こうして考えるに、蘇毗羌は(羌と同調していた事は事実だが)

果たして小月氏という羌族に混住して三部族と化した人群では

なく、アクサイチンに残った月氏葱芘族を中心にした、残存

月氏の一群であったのではないか?と思える。

そうならば、戦闘を避けてキルギスに逃れた大月氏と比較して

最後まで月氏の矜持?を維持し続け、蘇毗となり、吐蕃に服従

するまで、チュルク族の南下に抵抗し続けたこの部族群こそが

地味ながら、本来の月氏ではなかったろうか。

そういう定義が成立する程は統合国家にはならなかったが、

この蘇毗の流れこそいわば「中月氏」とも言えるのではと

思える。無論大中小の中ではなく、東(小月氏)西(大月氏)の中間

に位置するという意味合いであるが。

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