追補②「吉野ヶ里石棺の被葬者は豊姫か」

天孫族考追補②「吉野ヶ里の石棺の被葬者は豊姫ではないか?」

石棺は内郭の幅が36センチしか無いので、余程肩幅の小さい;子供か女性ではないかと推定されている。しかし、遺骨は無く、副葬品も皆無だった。

この為、遺骨が改葬されて、新たな墓地に移された可能性が考えられる。

そこで一つの可能性は、この女性は武内宿禰の妻であったとされた豊姫ではないかという問題である。

武内宿禰は、いわゆる神功皇后の”三韓征伐“に同行し、武雄に滞在中に、皇后の妹であるとされる豊姫(淀姫ではないかとの異論もある)を妃にしたという事になっている。

しかしこの豊姫は、豊の国から来たので豊姫と呼ばれたとされている。

もしそうなら、その姉であるという息長足媛(神功皇后)も、一般的な伝承のような近江の息長氏の出身ではなく、豊前の息長氏の出身だという事にならざるを得ない。

私は「天孫族考」で、武内宿禰とは実際は日之下武命(後世“日本武尊”と呼ばれた人)ではないか?との推理を述べて来た。内宿禰(後世の内大臣)は職名なので、“武”がその名か呼称だと思われる。

日之下武というのは、実名?小碓命が、熊襲征伐に際して敵の川上梟帥(カワカミタケル)を、稚児の女装をして討った時に、何者かと聞かれて「我は日本(本当は日下)童男(オグナ)」と名乗ったところ、「いや武は貴方だ。日之下武だ」と称賛したという故事に依っている。日之下はクニの名でそこの武(武威の誉)というので、これもまた武は美称である。

そしてこの後、兄の大碓命が父大王へ嫁ぐ筈の女性を奪ったので、父王の命令で、それを咎めに赴き、そのまま大碓を討ち取ってしまったという事になっている。大碓と小碓は双子の兄弟だとされている。

一方、大碓小碓兄弟の長兄は稚帯日彦(漢風には成務天皇)だが、彼の宰相は、皇族でもある武内宿禰で、しかも彼は稚帯日彦と同じ歳だとされている。

私は、大碓小碓の兄弟とは実は成務と武内宿禰の事であり、二人の名は元来は大稚帯日彦と小稚帯日彦であったと見る。大体、碓の字は稚の字と似ているので、記紀では敢えて錯綜させたのだと考えたのである。

    識者の考証している二つの系図を引用する

天孫族考で論及した様に、遠賀川右岸に面する水巻宮は、日本武尊が熊襲征伐の際に、一時滞在した所だというが、現地の伝承では、その水巻宮には都から来た砧姫の名の美女が居り、日本武尊との間に5人の子を成したというのである。

5人も子ができたというのなら、少なくとも4年以上砧姫と睦んでいなければならないので、とても一時滞在どころではない。また童男の時代では無い筈で熊襲征伐の途次というのも虚構であろう。

私は、この砧の名から、豊の国の秦氏に関わりがある媛であり、都から来たというのは、豊前の京都郡から来た息長氏の姫であろうと考えた。(宇佐社の祭神に息長大媛の名があり、また宇佐は秦王国との異名がある。)

そして彼女こそ実は、岡田宮に居た大碓が、父王に仕えるべきなのを横取りした姫で、それを大碓を討った小碓=日本武尊が兄から奪って自らの妻女にしてしまった。そして二人の間に生まれた5人の子とは、後世葛城氏ほか5大臣家になる家柄の家祖であり、記紀では武内宿禰系5氏族(葛城・巨勢・平群・紀・石川=蘇我)ほかだとされているのである。

更にこの砧姫こそが神功皇后その人であり、一時的に大碓=成務の后になったのであり、水巻宮でのその5氏祖の末弟こそが誉田別=応神天皇だと考えたのである。

神功皇后の東征は、水巻宮と江川で繋がる岡田宮付近の陣原に征討軍が九州の各地から集結して開始された。

一方、武内宿禰は武雄に駐軍中に、神功皇后の妹姫を娶ったとされ、その名を豊姫というのだとされるから、実際は兄媛が砧姫で弟媛が豊姫だという事にもなる。ところがこの豊姫の事は、(現地の筑後川周辺にそれを祭神とする幾つかの神社があるのだが)神功皇后の東征譚や、その後の大和や河内の武内宿禰関連の話には、登場してこない。

だから一時私は、実際は砧姫と豊姫は同一人で、兄嫁を略奪したのを憚って妹姫を娶った事にしたのか?と考えたのだ。神功皇后が豊姫であるならそれが東征して、“倭国が内乱から鎮まったのが䑓与という卑弥呼の宗女による”と書かれた魏志倭人伝の記述にも合致する感じもするからだ。

しかし日本武尊の妻は、その東国征略神話では弟橘媛だとされていて、彼女は旅中に嵐を鎮める為に(三浦半島の走水で)海中に身を投じて死んだ事になっている。しかしわざわざ東征に妻を伴うというのが不自然だと思っていた。

だが弟橘媛がいるなら兄橘媛もいた筈である。

この弟橘媛とは豊姫の事では無かったろうか。そして兄橘媛は砧姫であり神功皇后であろうと推理する。

弟橘媛が若くして死んだというのなら、実は豊姫が若くして死んだのではないだろうか?だから本来はあり得ない日本武尊の東征に同行して死ぬという伝説の悲劇の主人公になって名が残ったのだが、実際は武内宿禰が佐賀の滞在中に逝去し、そこで吉野ヶ里に埋葬したのではないかと想像するのだ。そして、武内宿禰が南海軍を率いて、幼い応神を腕に抱いて東征に参加した時に(或いは東征後に)吉野ヶ里の豊姫の亡骸は、畿内へと改葬されたのではないだろうか。

そういえば、東征の後、応神朝になってから、武内宿禰は九州に行っている。

これは半島情勢につき、北九州で現地の一族葛城襲津彦や宗像氏と協議の為とされているが、この時に豊姫の改葬の意図もあったのかもと想像できよう。

また弟橘媛には兄媛が二人いて、大橘媛がやはり日本武尊の妃となり、もう一人は弟財郎女で成務の妃になったとされている。これは大橘媛と弟財郎女は実は同一人の砧姫=兄橘媛なのだろう。

そして二人の橘媛の父親は、穂積建忍山宿禰だとされている。この建忍山宿禰は穂積氏の祖だとされるのである。しかし、こんな初期に穂積氏が皇妃を出せる高位の臣になっているというのは信じられない。穂積臣は、豊の国にも親族があったかの伝承はあるのだが、兄・弟橘媛を息長氏から離隔させておくべき何らかの理由があったのだろうか?

(また穂積建忍山の名は継体朝の穂積押山の名を変形流用したとしか思えない。記紀では神功皇后と妹媛の父は息長宿禰王という事になっている。)

天孫族考の穂積氏の分析の章で触れたように、穂積氏が認知されるのは、日下国が背振山脈を越えて、伊都国や末盧国を制圧してから、矢田稲吉(稲置)が末盧国造に任じられて後の事(一応、成務朝の事とされる)である。一応、忍山は矢田の兄という事になってはいる。そして忍山の男子の大木別垂根の子息・真津が穂積を名乗った始めとされる。

だが真津とは末盧の末なので、私は真津は末盧国造・矢田の方の系統だと考える。(大木別は鈴木と同じく穂を乾燥させる木組みの意味であり、後世の虚構だろう。)

但し、もし豊姫が弟橘媛であるなら、建忍山宿禰は宿禰でなく垂根だという説があり、実は建忍山垂根で、この忍山とは忍野=吉野で、建忍野垂根とは吉野ヶ里を守備していた和族の一員だったのかも知れない。それで若死した弟橘は父に縁故の吉野ヶ里に葬られたのではないだろうか。

一方、先代旧事本紀には弟橘媛について以下の記述があるという。

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『先代旧事本紀』7巻天皇本紀、景行天皇の項で穂積氏忍山宿禰の娘の弟橘媛が稚武彦王を生むとある。また成務天皇の項に弟橘媛が9男(稚武彦王命・稲入別命・武養鷲命・葦敢竈見別命・息長田別命・五十目彦王命・伊賀彦王・武田王・佐伯命)を生むとある。

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この稚武彦王は、小稚帯日彦(日本武尊)の子らしい名である。

従ってこの稚武彦王を応神の名であると見るか、もしくは弟!の大鷦鷯命(=仁徳)の異名と見るか?(稚武彦大鷦鷯の様な和風諡号だったのかも)

また9男を産んだというのは、弟橘媛ではなく、大橘媛の子との錯綜が生じているのではないだろうか。いずれにせよ薄幸の弟橘媛の水死伝説とはイメージ的に整合しない。多産の事象は砧姫に合致する。もし砧姫=大橘媛が神功皇后であるなら相当丈夫な女性だったに違いない。ただ美しいだけでは無かったという事だ。何せ東征の一軍を率いて瀬戸内海を進軍したほどだからである。これらの属性は神功皇后のイメージと整合する。

仲哀は日之下武=武内宿禰が兄嫁の神功皇后を娶って応神を産ませた事を隠蔽する為に考え出された架空の人格で、武内宿禰と息長足媛とによって弑されたのは仲哀ではなく成務=大碓(大稚帯日彦)だったのだ。だから仲哀は帯日仲彦などという名になっているのであろう。だがこの名からの類推で、応神は諱の誉田別しか伝わっていないが、実際は帯日稚彦誉田別のような諡号だったのだろうと想像する。すると仁徳も帯日稚武彦大鷦鷯あたりなのかも知れない。(誉田別と大鷦鷯だけには諡号が無いのである。)

九州王朝の皇族は大和や河内に改葬された可能性がある

幼い応神を連れて神功皇后と武内宿禰が東征し、新たに河内王朝を建てたというのが、私の天孫族考での試論である。その結果、景行天皇(A)=武雄心命は、九州の佐賀辺りに葬られていたのが、畿内に改葬をされたのではないか?と考えた。

先述の様に武内宿禰の妻である豊姫(=日本武尊の妻の弟橘媛)も畿内に改葬されたのではないだろうか?

既に畿内には景行天皇(B)に相当する三輪王朝の大王墓があった可能性があるが、それは別人の物とされ(当然ではあるが)新たに景行天皇(A)の陵墓が古墳の威容で造成されたに違いない。

河内王朝の大王陵は神功皇后の物が最初になる。九州王朝(天孫族)側は、畿内入りして三輪王朝の王陵の規模に感心して、そのまま大古墳を造る事を踏襲したのだろう。

そう考えると、先ず応神のそして続く仁徳の陵墓が、以前の三輪王朝側の陵墓と比較しても巨大な事の説明も付く。それまでの出雲族系の墓制を引き継いだが、規模を大きくする事で、新王朝の大王の威勢を見せつけようとしたのであろう。

この時に、武内宿禰が弑した大碓=成務の墓は畿内には改葬されていないと思われる。彼の墓は恐らく岡田宮周辺に旧来の方形周溝墓の形式で造成されたのだろう。

一方、畿内には私の言うところの成務天皇(B)の陵墓があり、彼は畿内にいた景行天皇(B)の跡を継いで、畿内と周辺に行政実績を残しているので、これをそのまま成務天皇陵としたのであろう。《成務(B)が志賀高嶋宮治天下の王である。》

しかし景行以前の、孝昭(A)・孝安(A)の2代の墓もまた、畿内に造成されたと思われる。

こういう両王朝併在の時代のあった事が、古代の王陵の選定を困難にしているのだ。

また三輪王朝側で言えば、景行(B)成務(B)以降に、仲哀(B)や香坂・忍熊などの陵墓もあった可能性があるが、これらの存在は河内王朝では否認されたと思われる。実際に香坂・忍熊の兄弟は大王位に就いていたと考えられるのにである。第一この二人は神功皇后に反乱を起こした逆賊の扱いにされたからだ。

一方で、日之下武命も私論では小稚帯日彦だろうとしたのだが、諱が伝わらない。武は美称であって実名ではない。まして童男というのも幼名としてはあり得ようが、成人の諱では考えられない。だが、童男が成人する時にそのまま武男などという諱を貰う可能性はあったかも知れない。私は一時、(父の武雄心命忍代別の名もある様に、また武雄に駐留していた事がある様なので)小稚帯日彦武雄別あたりではないかと推理した。(実際に伝承する忍代別の称号は大帯日子であるが。)

しかし、弟橘媛=豊姫が吉野ヶ里に一時葬られたとするなら、小稚帯日彦忍野別だったりはしないだろうか?

そうすると、吉野ヶ里は日之下武命が九州をほぼ統一して東征をするまでの拠点であり、この為かなりの規模の宮処になった!とも想像が膨らむのである。

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