天孫族考番外「天満宮寺について」

天孫族考番外「神仏習合時代を隠蔽・天満宮寺について」

4月4日放送のNHK BSP「新日本風土記、天神さま」を期待して見た。

というのも、江戸時代までは、天満宮は神社ではなく寺院だった事に今度こそ触れるかと思ったからだ。しかし今度も期待は裏切られた。

北陸特有の天神講などを紹介していたので一般にはよく出来ていたと考えた視聴者もいたかもしれない。だが、私はそろそろ指摘するかと思って見たのだが、何処にも「天満宮はかつて寺院だった」事の言及は無かった。

「信仰という意味では、天神=菅原道真を祭祀対象として仰ぐものだから、それが神社であろうと寺院であろうと、一般人には関係は無い!」と言ってしまって良いものだろうか?

まして、北野天満宮の祭事に奉仕している七保会の人たちを、“単なる熱心な氏子”の如くに扱っているなど、これでは廃仏毀釈を肯定する神道右派の考えに沿っているのか?との疑惑さえ生じる番組の作りだった。

何せ制作会社が「かわうそ商会」というのだから。

しかし、よくよく注意して見れば、これはそのカワウソ達制作人がただ無知なだけだったのだろうと思うに至った。(「カワイソウナ」会)

明治の“王政復古”から最早155年。薩長政府の神仏分離政策から150年。

その丁度半分の生を送った;かの折口信夫さえ、神社の大部分が仏僧の支配の下にあった事を忘れているとしか思えない言動があるくらいなのだ。

(流石にここらは柳田國男は違っていたようだ。折口の1887年生まれに対し、柳田は1875年生まれ。)

太宰府天満宮は安楽寺天満宮であり、西京も北野天満宮寺である。また大阪天満宮(いわゆる天満天神だが)も、大阪の安楽寺だった。

北野天満宮寺では社僧が居て全てを取り仕切り、無論神前も読経であり、専門の神職はおらず、ただ神殿の雑用に奉仕する宮仕という雑掌が居た。で祭事に祝詞をあげる(通例の神職に相当する)のは、西京神人という身分の民が居て(これが氏子にも相当するのだが)その頭領が神主装束で行ったのである。七保というのは、その神人の属する町内(保)が七つあったからなのだ。明治維新後、社僧の一部が還俗して専門神職になって、祝詞をあげる立場になったので、七保の人々は、祭事に奉仕するだけの市民になったのである。(ただし、彼等はあくまでも神人なので、明治維新後の身分は士族とされた。神人は、江戸期にも名字帯刀を許されていたのだ。

普通、士族といえば、いずれかの藩士だった武家だが、彼等七保の戸籍上の所属する藩の名には、北野天満宮と記されている。実際上、彼等は応仁の乱に於いては、室町幕府政所執事であり後に山城守護にもなった伊勢氏の又者=又被官として過激な戦闘に参加もしている。しかし元は西京神人は、その身分により独占的な商圏を保持した麹座の生産者兼販売者=商人でもあった。)

その七保会の人たちが、天満宮の祭事を“法事”と言っていたのが面白かった。かつて天満宮寺だった時には、道真の年忌だったのだから正しく法事だったのだ。

大阪天満を訪ねてルポをネットに上げている“しばやん”なる人物のブログ「大阪逍遥しばやんの日記」には、以下のように書き込まれている。長くなるが引用させて頂く。

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https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-18.html

半日歩いて途中から私が気になったのは、大阪天満宮は昔から純然たる神社なのかという点である。

「天満宮」という神社は、京都に「北野天満宮」という有名な神社があるが、この神社は江戸時代の「都名所図会」では多宝塔や経所等明らかな仏教施設が多数描かれており、明治の廃仏毀釈以前は神仏習合の施設であった。

「太宰府天満宮」も以前は「安楽寺天満宮」という、寺院を中心とする施設であったのだが、廃仏毀釈により仏教施設がことごとく破壊されている。

大阪天満宮もどこかに仏教施設の形跡があったのではないかと、家に帰ってから調べることにした。

いろいろネットで調べても大阪天満宮に関してはあまり詳しく書いたものが見つからなかったが、大阪天満宮に神宮寺があったことはいろんな人が書いているので間違いがないようだ。やはりここも神仏習合の施設だったのだ。(神宮寺とは、神仏習合思想に基づき神社に建てられた仏教寺院や仏堂のこと。) ---------(中略)---------

さらに調べると、大阪天満宮の神宮寺にあった鎌倉時代の仏像が今でも残されていることが分かった。

大阪天満宮から北に300m程度行くと「宝殊院」(天満寺)というお寺がある。この場所へは大阪冬の陣、夏の陣の後の復興時に神宮寺が移ったらしく、移転後も相当大きな寺だったらしいのだが、詳しいことはわからない。

その堂宇も太平洋戦争で焼失し、今の建物は昭和42年に再建されたモダンな建物である。

http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-1/newpage115.htm

大阪市のホームページには、大阪天満宮の神宮寺の時代からの鎌倉時代の仏像の写真が紹介されている。

http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008915.html

阪天満宮だけではない。八坂神社も金刀比羅宮もそうだが、大きな神社のホームページをいくら読んでも、神仏習合時代のことや廃仏毀釈のことがほとんど欠落してしまっている。これでは、歴史の真実が歪められて伝承されるだけだ。

我々の祖先が何代にもわたって大変な苦労をして文化財を守ってきたことや、時の為政者の軽薄な施策で多くの文化財を失ってきた事実をしっかり脳裏に刻んでこそ、文化財を守ることの重要さと意義を次の世代に伝えることができるのだと思う。

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全く、“しばやん”氏のいう通りである。

もう20年も前の出来事なので忘れた人もいるかも知れないのだが、当時アフガニスタン内戦で、西部を掌握したイスラム原理主義者のタリバンが、バーミヤンにあった石造の巨大な大仏(弥勒菩薩)を破壊し、野蛮行為として世界中に衝撃を与えた事件があった。

しかし、明治初頭に本邦において、そのタリバンを上回る程の破壊行為の廃仏毀釈が全国的に吹き荒れた事を忘れてはならない。と言っても、薩長の政府とその神道教育〜皇国史観によって、廃仏毀釈は教育現場ではネグられて来たので、若い人たちにはこの過激な事件を認識していない人が多い。

江戸時代までの太宰府の安楽寺天満宮の図面を見ると、多数の仏教的伽藍が配されているのが分かる。

また西京の北野天満宮寺は、複数の社僧や学僧の坊宇=寺院が立ち並んでいた。この天満宮寺は、天台宗比叡山派(山門派)の曼殊院門跡が別当職であり、その別当の任じた社僧が管理運営に当たっていた純寺院である。

全国各地にあった天満宮も又大概は天台宗の寺院の境内社だった。

それが、神仏分離と廃仏毀釈によって、天満宮寺の仏教的な伽藍や施設は破却され、その中に安置されていた仏像や経文・什物は破却されたり焼却されたりしたのである。まさしく民族の文化遺産の破壊そのものだった。

一部の有徳者の志で、それらの遺物は近隣の寺院などに移されて保存されたのである。だがそれは存在した文物のごく一部だったという。

特に奈良桜井の内山永久寺は大和四大寺の一つに数えられた大寺だったが、徹底的に破壊を受けたのである。

ここの伽藍の荘厳さと大池に映える桜の美しさは有名で、松尾芭蕉も

 うち山や  とざましらずの  花ざかり    宗房

と詠んでいる。(宗房は芭蕉がまだ伊賀上野在住の若き日の俳号)  “外様知らず”とは、「他所者ではここまでとは想像もできない」という意味で、内山の在地の民人や僧侶を羨む心持ちでの吟詠なのである。

跡形も無くなった廃寺跡に、ただ池と畔の桜だけが往時を偲ばせる。

しかし永久寺から散逸して他寺で保存した仏像の殆どが今日国宝や重文に指定されている事を考慮すれば、この寺の破壊は如何に計り知れない損害を日本文化に与えたのか分からない。

このような仏教美術の衰微を救ったのは、有名なフェノロサと岡倉天心にほかならない。この事はかなり周知なのでこれ以上はやめておく。

ただここにフェノロサの奈良での講演を掲げておく。

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アジアの仏教美術は、この奈良において、完全なるものに仕上がったのだと、わたくしは信じて疑わないのであります。奈良は、宗教や美術のみならず、ほかにも多くのことで大陸と関係をもってきました。しかし、多くの国は滅亡し、あるいは戦乱を経て、もはや昔の面目を残していないのであります。当時の文物は、日本に存在するのみであります。それらを見たいと思う人は、この奈良に来なければ見ることができないのであります。 奈良は、じつにじつに中央アジアの博物館と称してよいのであります。

奈良のみなさま。奈良の学者たちだけの古代調査場となっていることに甘んじていてよいのでしょうか。

奈良のみなさまこそ、美術復古の指針となり、将来進歩の基本となり、もってしてその益を世上におよぼさなければならないのであります。

 この奈良の古物は、ひとり奈良という一地方の宝であるのみならず、じつに日本の宝でもあります。いや、世界においても、もはや得ることのできない貴重な宝なのであります。ゆえにわたくしは、この古物の保護保存の大任は、すなわち奈良のみなさんが尽くすべき義務であり、その義務はみなさまの大いなる栄誉でもあると思うのであります。この古物の保護保存を考えずして、いたずらに目の前の小利に惑わされてしまっていては、まことにまことに惜しいことであり、それではこの奈良の価値をまったく理解していないのと同じになってしまうのではないかと、わたくしはそう考えるのであります。

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まことに謹聴すべき主張であった。

話を戻すが、神道中道派や神道左派という人達まで神仏習合の歴史を正しく認識しようというのが今やムーブメントになりつつある。伊勢の皇学館大学や國學院などの神官養成課程を持つ教育機関までもこのような動きになっている。

だからこそ、私は「そろそろ天満宮も往時は寺院として成立していた事をテレビ番組も提示する頃合いだろうか」と考えたのである。

そしてもう一点。道真の天神化祭祀の動機の問題もある。

道真が太宰府で客死した後、政敵の藤原時平の死や内裏の清凉殿の落雷事件、生起した天変地異や旱害(日照り水不足・渇水による凶作)などを、道真の怨霊による祟りだとして、それを鎮撫する為に北野天満宮が創祀されたというカルト的な解釈=つまり伝説が一般化している。

この時代確かに渇水などの天災による不作で農民崩壊が進行した。これは古代の律令農民の保護された身分から荘園化によって農民分解が促進された結果である。こういう地方の混乱に、承平・天慶の乱の勃発などもあって社会不安も極に達しようとしていた時代背景がある。

そして筑前から発したのが、西国筋の没落農民が自在天神と書かれた道真の霊の神輿を先頭に三基の神輿を担いで、山陽道を都へ上ってくるという大騒動だったのである。世にいう志多羅神上洛運動(天慶8年:945年)である。

※志多羅神の志多羅は設楽に同じで、手拍子をとって舞楽する事(設楽)であり、群衆は藺笠を被り覆面でシダラ、シダラと囃し声をかけて乱舞した。「世直しだァ」と叫んでいた者もあったという。

この乱民が都に到達する前に、先手を打って北野に道真を祀る事にしたという側面を指摘する学者がある。(これはごく一部の学者の説であるとして、従来は無視されて来た。)実際には、都の手前山崎から対岸の石清水八幡宮に入って止まったという。(誰かが都にではなく石清水に群衆を誘導したものと思われる。)

この騒動、歴史の流れを長期俯瞰的に眺めると、幕末のええじゃないか乱舞騒動に似ている。

歴史の転換点の前に何故か生起する民衆の騒擾事件である。近世から近代への転換期に起こったのがええじゃないか乱舞だとしたら、古代から中世への転換期に起こったのが;この志多羅神上洛騒動だったと言えるだろう。

(中世から近世へは、戦乱の中に民衆運動が呑み込まれていて見えにくいとはいえ、一向一揆などが各地に勃発したのをそういう文脈で捉える事が出来ようか。)

この天慶の頃、西の京に一旦道真天神の祭祠が設けられ、その後道真の後裔菅原氏の僧侶などによって天満宮が次第に形成されて行き、遂には何と藤原師輔が959年殿舎を造営して藤原氏の守り神!とし、翌年960年に北野天満宮寺が成立するのである。

菅原道真の左遷は、よく言われるように藤原氏が摂関家としての地位を確保する為に、先ず古代貴族の最後の生き残りである(旧大伴氏)伴大納言に無実の罪を着せて粛清し、また古代出雲族系の菅原氏を追い落として行った政治闘争過程である。この頃は、天孫族王家たる天皇親政の最後の輝きの時代だった。

この後、天孫族ではない(海人族の浦部=卜部の出である新興クシャトリヤの)藤原氏の下剋上によって、摂関といういわば副王家が出来るのである。

だから私は、摂関政治の開始によって(王家支配の)古代は終わって、下剋上の時代・中世に突入したと考えるのだ。

北野天満宮寺成立もこういう歴史のダイナミズムの中で捉えてこそ意味がある。民衆の“天神さま”とはそういうものとして理解すべきであろう。決して「素朴な信仰心」などというレベルに留めてはならないのだ。

以降、天神社は“文の神”に特化して行き、民衆のエネルギーを無力化する装置となってしまった。一方代わって、新興武士階級の崇敬を集めて、八幡社が“武の神”となって行くのである。

さて天神といえばもう一つ寺子屋との関係である。近世天台宗系の里修験が副業に始めた読み書き教育が、修験の家は一応「寺」であるから“寺子屋”という。そこでは、神棚に文の神である天神と、天台の本尊である薬師如来の垂迹とされた少彦名神が祀られていた。(大阪では薬種問屋の集まる道修町にも少彦名神が祀られていたので周知の神であった。)

この寺子屋と天神の神棚をヒントにしたのが、竹田出雲ほかの作である人形浄瑠璃の「菅原伝授手習鑑」なのだ。

江戸も中期に入る頃には、取り潰しになった外様藩の食い詰めた浪人が江戸や大阪などの大都市に集まっていた。彼等は、里修験の弟子になって寺子屋を開いて生活費を稼いだ。だから「菅原伝授手習鑑」の武部源蔵も菅原家の浪人として寺子屋をやっている設定になっているのだ。

因みに奥州では羽黒系の修験の開いた寺子屋が多い。そこで一関藩が全国で最も寺子屋の密度が高い地域であった。そこは世界に有名な関流和算の生まれた所でもある。

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