「天孫族考」補遺5 その4 月氏の後裔について(続き)

「天孫族考」補遺5 その4 月氏の後裔について(続き)

☆唐代の昭武九姓 7世紀後半

昭武九姓は月氏葱菲族の末裔ではないか?

サマルカンド、ブハラ、タシュケント、マーイムルグ、キシュ

など、ウズベキスタン方面・ソグディアナ9オアシス都市は、

王の国姓を一様に昭武としている。

彼らの祖先は月氏で、元々は祁連山昭武城(現在の中国甘粛省

張掖市臨沢県板橋鎮)に住んでいたとの伝承を持つ。

紀元前2世紀に匈奴に追われた月氏は、いったん塞族を駆逐し

イシク湖周辺に拠った(大月氏国である)が、まもなく烏孫に

追い出されてソグディアナに移った。康国(サマルカンド)を

はじめ、小さな国々に分かれたが、その王はいずれも故地を

忘れないよう「昭武」の姓を名乗ったのだという。

昭武九国は南北朝時代の頃には嚈噠(エフタル)の支配下と

なり、その後隋の時には西突厥に服した。唐代には唐に属し、

永徽年間(650年 - 655年)に康居都督府が設けられ、安西

都護の管轄下となった。

その後も国人のソグド人を使役して、シルクロードの交易都市

として、イスラム化後も栄えた。

これが所謂、昭武九国についての概説である。

この説明は、

①九国の王は元は月氏であった。

②大月氏国の分解で南遷した。

③唐の時代には、唐の安西都護府に服属していた。

というのが骨子である。

しかし、昭武九姓の王族は、祁連山昭武城が原郷で、現在の

甘粛省張掖市臨沢県がそれに相当するという。

だが、張掖市は河西回廊の中程にある都市で、近くを流れる

(祁連山脈の雪解け水が北流する)“黑河”沿の張掖よりいささか

タリム盆地内側へ行った場所である。

この辺りの月氏は、匈奴の侵略を恐れて逃げたというのは、

確からしいが、その逃亡の方向が、遙か天山北路を西に行った

イシク湖南岸の大月氏国への合流だったとは、いささか考え

にくい。

多くの史書では、この河西回廊辺りの月氏は、青海省〜甘粛省

方面の羌族の蟠踞地に混住し小月氏と呼ばれる事になったと

されているからだ。

但し、この小月氏の内の一氏族に葱茈族があり、漢代には、

アクサイチンから崑崙山脈北麓の一部までも支配した“婼羌”

と呼ばれる戦士の精強な事で知られた月氏の一族と同族だと

推定される。この婼羌は、三国〜南北朝時代には、南下

して来る漠北民族を避けて、やがて幾つかの方面別に分裂して

行くのだが、チベット南東に行ったのがスンパ族で、漢字では

蘇毗族と書かれる。だから分裂前の婼羌も別名は葱芘→蘇毗

であると推理される。蘇毗は当初はSuipi と呼ばれたと中国の

書籍は解説する。

チベットの南西に分かれたのがシャンシェン(象雄)国で、これ

が遥か後世、チベット族によるラダック王国の版図の東部に

なったらしい。

そして、崑崙山脈沿いに西域南道の西外に逃れた一族があり、

それが昭武九国の王族になったのではないだろうか。

(その頃には、大月氏国も分解南下して来たので、同じ月氏語

の民同士で新たな都市国家を樹立したという可能性もある。)

昭武と象雄とはほぼ同義である。武雄の熟語があり、昭和の昭

は顕すの意味で象と同等だからだ。

昭武というのは隋唐代の雅字表現であるが、元来は葱芘→蘇毗

ではなかったかと考えるのである。

一見“葱芘”と漢字書きすると、弱々しい印象があるが、月氏語

のSoui-pi(?bi)は、数百年もの間、月氏の末裔が延々と使い

続けるべき大事な意味合いを含む言葉ソホリ=日の神の坐所

だったのだ。←これは「天孫族考」本文で詳説した。

中央アジアの月氏は、中世以降、周辺の民族に蹂躙され、月氏

の言語はほとんど雲散してしまっている。

蘇毗族の本拠地だった東チベット地方や、氐姜に混住した白馬

族の末裔などから、古代月氏の「葱茈」が意味するものは何で

あったのかが復元される可能性も、絶無ではないだろう。

四川省の羌族系の少数民族の居住地には丹巴などという地名も

残っている。以下はその事について。

☆ ギャロン・チベット族

(まずネット上では、次の様に解説されている。)

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チベット高原の東、四川省西部の海抜2000メートルを超える

山岳地帯は、江・大渡河・雅江・金沙江などの大河が南北に

流れ、鋭いV字型峡谷が形成された寒冷な土地である。

そこは、かつてさまざまな民族が北から南へと移動を続けた

「道」でもあった。数千年前、故地を追われた北方の古代民族

「羌」は、峡谷に沿った険しい「道」を南下して新たな土地に

移住していった。

現在、これらの大河流域には、江流域に約20万人のチャン族

が、大渡河流域に約10万人のギャロン・チベット族、雅江流域

にミニヤック、アールゴン、ナムイなどのチベット族諸集団が

居住する。

彼らは古代民族「羌」の末裔と目される集団である。山の神を

信仰し、チンクー麦や小麦、トウモロコシを栽培しながらヤク

やヤギを飼って自給し、貝母や虫草などの漢方薬材を採集して

暮らしてきた。しかし唐代になってチベットに勃興した吐蕃は、

中国本土への進出を企てて度々四川省西部を襲い当地域を征服

した。吐蕃の支配下におかれた住民は、やがてチベット仏教を

受け入れて「チベット化」し、中華人民共和国成立後には

“チベット族”とされた。

古代民族「羌」が移動した大河の「道」には、現在も処処に

高さ20~50メートルの巨大な「石碉(チョウ)」(塔)が聳えて

いる。石碉は、敵の侵入に備えて、眺望のきく小高い丘や村の

中心部に建てられた。18世紀半ば、金川のギャロン人

は清王朝の支配を拒んで反旗を翻し、これに籠って20数年

に及ぶ戦いに耐え、約5万人の死傷者をだして敗北した。

清朝側も数万人の死傷者を出したものの、続々と漢族農民を

入植させた。ギャロンチベット族では、石碉の故事は、

民族の独立のシンボルとして現在も語り伝えられている。

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ギャロン族の聖木はコノテガシワ(側柏、学名:Platycladus

orientalis)。ヒノキ科の植物である。聖木があるのは、日本

と同様である。我が国では梛木やマサキが聖木。月氏は葱。

また、この地域への旅行者の手記には、次の様な記述がある。

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梭坡村(スオポ Suo po)は、大小84もの古代の碉楼が河岸の

急斜面に築かれています。碉楼の数は丹巴でもっとも集中

しており、村全体が博物館ともいわれています。この碉楼

のある景観は丹巴のシンボルにもなっています。

 「中国でもっとも美しい村」:梭坡村

      提供元:gill_penney via flickr

          https://flic.kr/p/4nFCvj (地図を見る)

碉楼とは、敵の侵入を監視するための見張り台のこと。

そのかたちは四角形がもっとも多く、そのほか五角形、

八角形、十二角形、十三角形も存在します。高さは10数m

から巨大なもので30m以上にもなり、その独特の姿は実に

壮観。秋には一面紅葉に染まり、まるで一枚の絵画のような

美しさです。

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※チョウとは石偏に周と旁る。(碉)

この辺りの県名が丹巴(ダンパ)で村名が梭坡(スオポ)。共に

東チベットにあった蘇毗(ソンパ)国を連想させる。

蘇毗(ソンパ)国はまた蘇毗羌の後裔である。

隣接するベイマ(白馬)族も白馬羌の末裔。

またかつての広域名は康巴(カンパ)である。

位置するのがカンゼ・チベット族自治州。中華人民共和国

四川省に位置する自治州。

チベット語の「カンゼ(dkar mdzes)」とは、「白く美しい」

の意で、中国語名の「甘孜」はその音写である。

中国語では、チベット自治区のチャムド地区やこの州などの

カム地方を「康」と略称する。この州の州都の中国名「康定

(カンディン、チベット名: ダルツェド、dar rtse mdo)」は、

「カムの地を平定する」の意。なお中華民国時代は西康省。

ここと西蔵省とが、かつてのチベットの版図。

カム地方の人々はチベット語で「カムパ (khams pa)」と

称し、中国語でもこれを音訳して康巴(カンパ、拼音:

Kāngbā)地区あるいは康区ともいう。

東は四川省のアバ・チベット族チャン族自治州、雅安市、

南は涼山イ族自治州、雲南省のデチェン・チベット族自治州と

接し、西は金沙江(ディチュ河)沿いにチベット自治区の

チャムド(昌都)地区、北は青海省の玉樹チベット族自治州、

ゴロク・チベット族自治州と接する。西康省は、中共時代に

なって東側が四川省に、西側がチベット自治区に分割された。

※旅行案内書には

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丹巴県(たんは-けん、ロンタク、rong brag、ダンバの読みも

ある)は中国四川省カンゼチベット族自治州の東部に位置する

県。県城は海抜1,800mにある。

チベット族中でもギャロンチベット族(嘉絨蔵族)と呼ばれる

人々が多く住む。県内の著名な名勝には美人谷(美人の多さと

風景の美しさで知られる)、党嶺、古石碉楼(石造の塔)

などがある。→NHK BSのドキュメンタリーで有名になった。

丹巴県(ロンタク、rong brag)に住むギャロン・チベット族

は、7世紀に始まったチベット族(吐蕃)の支配によりチベット化

した先住民族の末裔と言われる。言葉もチベット語とは系列の

違うギャロン語を話す。文化的にもチベット族よりもむしろ

チャン(羌)族に近い。

巴底という集落へ移動した。ここには古代ボン教で崇拝されて

いた女神の壁画がある「擁忠達吉嶺寺」がある。

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※ボン教はチベット統一前の象雄國の国教である仏教の異端で

ある。チベット仏教とは教説が異なっている。逆卍が有名。

以上を総合すると、ギャロン族は羌族だったが、吐蕃の東征で

服属しチベットの習俗を受容したのか、或いは元々蘇毗羌の

後裔の蘇毗(ソンパ)国に属する部族であったが、吐蕃に蘇毗が

服属した時に一緒にチベット化したのか、そのどちらかである

と推測される。

チベット高原から四川や雲貴方面に通ういわゆる茶馬古道は

有名だが、私はここを通行して交易の業に従事したのは、

蘇毗族に入っていた白馬族(宇馬族=于闐族)ではなかったかと

推理するのだ。于闐族こそ、古来からのシルクロードの交易民

だからである。

 

 

 

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