「天孫族考」補遺
「天孫族考」補遺 “葱芘は元来はsou-phi”
◯葱芘はSou-pi なのか?
第20章(続)に於いて、部族名・葱芘は古代音ではSou-piだろうと書いて
しまったのだが、これにつき若干補足をしておきたい。
日本の上古音(奈良朝くらいまで?)では、「はひふへほ」の“ha”の音韻は
無くて、「ぱぴぷぺぽ」だったというのが、学校で習う国語の常識になって
いる。
これが平安朝になって、「fa,fi,fu,fe,fo」となり、その後中世後期になり、
やっと今の「ha,hi,hi,he,ho」になったと習う。(但しこのfa という音韻は
英語などで学ぶ“f”の音では無く、ドイツ語などで一般的な“ph”の音だと
されている。カナ表示では、「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」である。)
ところが、ヒシ音韻転訛の話題に言及した時に書いた様に、もし和族に
ヒシ音韻転訛があったのなら、葱芘の芘は上古音での甲類ヒ;つまりphi
であって、乙類のヒ;即ちpi ではなかったと考えられるのだ。
(という事は、葱芘は元来はsou-phi だったろう。)
だがこのヒシ音韻転訛が和族特有のものであり、もっと言うならヒの甲乙の
使い分けこそが和族に特有に発現したものだとし、他の天山族(白馬族と
黄牛族)には無いものだとすると、和族以外は甲乙のヒの使い分けが無いの
だから、葱芘もsou-piになり、蘇毗族も中国人にはsoupi 族だと伝わった
のではないかとの推理が成り立つ。
それはどういう事かと言えば、蘇毗羌もチベット東部に在った蘇毗(sompa)
國も、純粋に葱茈族だけの国ではなく、甲乙のヒの区別のないクシャトリア
(黄牛族)やバイシャ(白馬族)も含む、というよりむしろ葱芘族は神職・王侯
のみの少数派だったのかと思われる。
だから唐朝には、民族名が葱芘souphi (や音韻転訛した葱茈sousi)ではなく
Sou-paなどの呼称として伝わったのだろうと推量されるのだ。また唐朝で
は蘇毗としてより、その最高支配階層の葱芘族が女性優位であった事から、
「東女國」という認識が優先したと思われる。
◯吐蕃とは?
東部チベット高原の蘇毗や、西部の象雄を征服して、チベットを統一した
のは吐蕃であった。彼らはラサ南部の谷合に蟠踞した部族であったが、
唐に対して、自分たちは唐王朝と同じく鮮卑族の出身だと主張した。これが
唐朝に吐蕃王の妃に唐の公主を降嫁して欲しいという要求に繋がる。
しかし吐蕃は、降嫁した公主には自らの習俗である文身をするには及ばず
と言って公主を安心させている。
そも文身は、中国では呉越のいわゆる南蛮倭族の習俗であり、北方遊牧民で
ある鮮卑族の習俗ではない。この事からも、吐蕃は鮮卑系ではなく、むしろ
呉越やネパールなどに近い民族の出ではなかったろうか?
或いは、som-pa →thom-pa,tompa→to-bamと似通っている事から、実は
蘇毗の一部族であったのかも知れない。
但し、吐蕃の行動パターンは、和族風ではなく、クシャトリヤ的な要素が
多分に感じられるので、鮮卑ではなくとも西夏などの西域武力民あたりとの
混血が在ったのかも知れない。
◯月氏語の音韻について
天孫族考の幾つかの箇所で「月氏語では」などと言っている所が複数ある。
無論、月氏語の辞書や解説書があるわけではない。
しかし今では、月氏は、ほぼBC3世紀頃から西南アジアで使われ始めた
「カローシュティ文字」を用いていた事が分かって来ている。西域の砂漠都市
の幾つかでの発掘文書類(木簡)にあり、また後世になるが(大月氏国系の)
クシャン朝ガンダーラ王国の記録でもこの文字が使われていた事が解明され
ているようだ。
そのカローシュティ文字の音標表(日本語の五十音表の如きもの)によって、
古代の月氏の音韻が推理されるのである。
つまり月氏は相当古くから文字を使用していたのだ。
ところが、西域→遼(辰国)→三韓→北九州と東遷して来た和族には、漢字
渡来以前に文字使用していたとの形跡が乏しい。という事は、小月氏の東遷
は、カローシュティ文字の西域普及よりも以前の事だった可能性が高い。
ところで、ここで問題になるのが「神代文字」である。
一部の古代史マニアは、漢字渡来以前に、我が国の古代には「神代文字」
という表音文字が使われていたと主張する。
もしカローシュティ文字の中に、それらの神代文字の類に似ている所がある
なら、それは天孫族が大八洲列島にもたらしたものでは無いか?という
可能性が出てくるからだ。
だが残念ながら、私の見る限りでは、数々提示されている神代文字候補の中
にカローシュティ文字を連想させるものは、今のところ見当たらない。
それどころか、それらの神代文字の一部に、日本の古代には存在しなかった
「ha,hi,hu,he,ho」の音標文字があれば、その文字体系が偽だという事
の馬脚を自ずと現してしまっているものだと思える。
※ヒシ音韻転訛は和族に特有と書いたが、実は和族とヒマラヤ山地〜
チベット高原南部で接していたサンスクリット語にも見られるようだ。
だがサンスクリット語とルーシ(月氏)語のどちらが先に、そういう音韻転訛
現象を生起させたのか?は、未解明の分野である。