番外「卑弥呼の髪型衣裳について」

天孫族考番外「卑弥呼の髪型・衣裳について」

☆噴飯物のHK卑弥呼

先般の「NHKスペシャル 古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」に於いて描写された(再現?ドラマ)の卑弥呼の姿形は実に噴飯物であった。俳優のシシド・カフカとやらが卑弥呼を演じたのだが、この再現の姿形(髪型や衣裳)が時代考証抜きの(としか思えぬ)ひどいものと見えたのである。

そもこのHKドラマでは、卑弥呼は赤と青との色物衣装を来て、ロングヘヤーに赤いバンドを鉢巻にしているという出立ちだった。

大体、弥生時代にあんな色布は存在していなかった。紅が出てくるのは、ベンガラ染めや紅花が一般化してからであり、平安朝でも貴族しか調達出来なかった。古代に於いては、あっても藍染や墨染にせいぜい紫草などの淡い草木染めくらいしかなかった筈だ。弥生時代では、衣裳はほとんど白い麻布であったと考えられる。秦氏が養蚕を持参してからは貴族は白妙を身につける事が出来る様になったが、それまではほとんど麻布の、庶民は貫頭衣を身にまとっていた。女性も下半身は腰布を巻き付けていた。

だから、麻糸でも縫い合わせた呉服を着られたのはごく少数の上級階層だけであったと思われる。

衣裳は大陸からの輸入品を購入する事は出来たであろうから、弥生時代の末あたりには、秦族の行商がそういう“加羅物”を首長層とその子弟に売りに来て、入手出来た階層はあったかも知れない。

しかし髪型はああいうロングヘアーに鉢巻などという事はあり得ない。これは卑弥呼が巫女であるから、あれでいいのだなどと思ってはいけない。

古代の巫女はあんな髪型をしていたという証拠(絵画や埴輪など)は皆無なのである。

卑弥呼をああいうイメージにしてしまった“元凶”(とは失礼だが、それ程印象が強く結果的に影響力もあったと考えられるの)は、篠田正浩監督の映画「卑弥呼」ではなかったろうか。また手塚治虫の漫画「火の鳥」の中の卑弥呼の方が先であったろうか。

篠田監督に聞いておけばよかったが(凡そ1年間、私のプロデュースした番組のレギュラー解説者を務めていただいていたので)、当時は私も厳密には考えず、あんな物かと思っていた。というのも、我が国の上代を髣髴とさせる沖縄の久高島のノロが、ああいうイメージに近い姿形をしていたからだ。

結構考証には一家言ある篠田監督のことだから、恐らく日琉共通祖先論などを意識して、「琉球古制には倭国古俗に通じるものがあるだろう」などという推理でもされたのかもしれない。奥様のお志麻さんが卑弥呼を演じていたが、それなりに怖かった!

そも巫女と一概に言うが、それには二つの系統があった。

巫女には神社に奉仕する神子 (みこ) と,民間を遊歴して祭文 (さいもん) を語ったり死霊の口寄せに従事する歩き巫女・口寄せ巫女である。。

☆二種類の巫女

1)神祇に奉仕する神子

これにも二通りがあった。

①一つは神楽女である。

神楽は伝承によれば、天の岩戸の前で舞踏した天鈿女命に起源するということになっている。この為、宮中などでは平安朝迄は、天鈿女の子孫と信じられた猿女氏の処女が神楽女に任じられた。その平安朝の頃、猿女氏は山城の和邇氏と小野氏の郷に住み、そこから宮中に参内した。和邇氏も小野氏も春日氏の同族である。春日氏は、仲津臣であったので、神祭官だったからその下僚として神楽女が居たのは不思議ではない。しかし平安中期以降この両猿女が神楽女の定員を全う出来なくなると、一部は庶人の子女をもって代用したという。

従って、民間の神社などでは当然庶人の子女から神楽女が起用されたと思われる。

この猿女氏の始原の天鈿女命が、岩戸前で踊る姿の想像図でも、頭に蔓草で鉢巻をした;いわゆる巫女を連想するロングヘアーを振り乱す態になっている。

②神子のもう一つは、祝女(ハフリメ)という女性の下級神職である。

祝は禰宜の下について、神社や神祭の雑用をこなす業である。明治の神祇官が男性優位になってしまったので、禰宜も祝も男性の職であり、その下に雑掌職の神子がいたと誤解されている。

しかし平安朝の神祇官では、禰宜にも祝にも女性が起用されていた。浅井虎夫氏の「女官通解」などを見れば、宮中の神祇職では、禰宜か祝かどちらか片方を女性にすべき事が決められていたようだ。

※因みに下級の(下級では無かった神社もあるのだが)神職を祝というのであるが、その語源については諸説があって確定していない。

--------------------------------------------

祝 (はふり)

古代以来の神職の名称の一つ。〈ほうり〉ともいい,祝部(はふりべ)とも称した。一般には禰宜(ねぎ)の下位に属した。その語義については,〈はらう〉の義,〈放り,葬り,屠り〉に通じる語,あるいは〈羽振〉であるとして神前に衣の袖を振り,舞を奏したことから起こる語ともいうが未詳。初見は《日本書紀》仲哀天皇八年正月条で,海路安全を祈るため〈倭国の菟田(うだ)の人伊賀彦を以て祝として祭らしむ〉とある。令制下において,諸社の祝は国司が神戸から簡定することになっており,もし神戸に人がいない場合は庶人を採ることになっていた。諏訪大社には大祝,権祝,擬祝,副祝などの職名があり,また阿蘇神社には一祝から十祝に及ぶ職階と国造祝,金凝祝があった。

                  執筆者:茂木 貞純

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」

--------------------------------------------

私が有力な説と思うのは、這侍(ハヒサブライ=神前で這うようにして奉仕する;→ハヒブライ→ハフライ→ハフリ)である。

いずれにせよ、祝は神前に御食や幣や花などを供進したり、清掃したり、神前小道具の調達や修理などを担当した。寺院の承仕法師や宮中女官の掌侍の如き役目である。

こちらは男女ともに存在した。

2)もう一つは卜占や(憑依して)神託を口述(神降し)するいわゆる“巫女(フジョ)”である。

巫女は女性だが、男性で同じ機能を有する者を覡(ゲキ)といい、両者を併せて巫覡(フゲキ)といった。

宮中には、御巫(ミカンナギ)という巫女が複数箇所にいたとされる。

(内裏の御巫の他、宮門御巫=御門巫と称する者や、禁門内の生島神社に寄る生島巫などである。)

この御巫の職能は、そこに関わる官吏や女官の要望で、日々の縁起や外出の吉凶を占ってもらったりするためのものであった。

宮中の御巫も女官であるので、こちらは死者の口寄せなどはしなかったであろうが、卜筮の際に神が憑依しての神託を述べるくらいの事はしたかもしれない。生島巫とはそういうものだろうか?

(平安中期には何と天皇が御巫に卜占をさせたりまでしたというのを、源順が身分秩序の紊乱と批判している。)

※この御巫が宮中の諸司の氏的な利用の卜占であるのに対し、公式の行事など表向きの目的での卜占は、陰陽寮に属する陰陽師の業務であった。

残念なことに宮中の御巫の装束や髪型などを述べた有職故実の書には接した事がない。

ところでカンナギという言葉は、“神を和ぐ”というのが原義で、神の荒御魂を、祈りの行為によって慰めて和(ニギ)御魂に鎮める事である。因みにこの「和」という漢字は(天孫族考で縷々述べて来たように)「龢」(ナギ)の簡略字体である。日之下族=和族は龢波羅門であった。従って大王も本来は、大禰宜だった筈だが、これはかなり昔に臣下の春日氏に機能移管してしまった。(だから春日氏は和邇という。倭族の禰宜という意味合いである。)天皇が神職を務めるのは大嘗祭など限られた機会のみになってしまったのである。この機能移管は次第に下層に及び、その最下層で職能の一部を代行しているのが宮中の御巫なのである。(中世になって藤原氏・中臣氏が春日氏の職務を簒奪後は、中臣は海峡南北に広がった濊族の出なので、天孫族の龢という行為の神聖性に対しては理解が乏しかった。結果的にか、いや意図的にか、「龢を以て貴しとなす」も「和を以て貴し」に変えられた!というのも、天孫族考で繰り返し述べて来た。)

この宮中でいう御巫の民間版がいわゆる市子とか歩き巫女や梓巫女である。しかし、彼女達には、陰で淫売の疑いがあり、神祇官の御巫側にも、そういう目で見られる事が生じたらしく、激しく非難の声が上がった。

「和名類聚抄」では、「人倫の最下等なる遊女、------群盗、海賊、囚人の如き忌まわしき者に列したり」と酷評している。

この民間の巫女(市巫女や歩き巫女)の姿が、いわゆる巫女の容姿として流布したと考えられる。

☆巫という漢字の成り立ち

説文解字流に云えば;巫の上下の線:二は天と地を表す。地の上には人人が居る。そこへ(|=↓)天命が降りてくる。この天命を人人に示達するのが巫なのである。覡の方はその巫を見るというので、もしかすると天命が降りるのは巫女の方で、それを見て判定する(審神者=サニワの)役が元来の覡なのであろうか?

ところで、日琉同祖論に従えば、沖縄での巫女も、内地の巫女と同様な事情があったと考えられる。

☆沖縄の巫女の二種

沖縄にはノロとユタという二種の巫女がいる。

ノロ(神司カンツカサ)は御嶽での神祭を司祭する。

ユタ(霊媒師)  とは、本土のイタコ、市子と同様機能の者である。

イタコ(東北地方に残る土俗で盲目女性の霊媒師)の語源はよく分かっていない。一説では、”イタク“(告げる)というアイヌ語だというのだが。しかし沖縄にユタという全く同様の職種の女性巫女がいるので、イタコとはユタ+コで、同一起源であろう。東北と沖縄の両エッジで残っているからには、縄文語ではないか?という見解も出てこよう。

しかし日琉共通古語には、縄文時代起源ではなく、共通の渡来人祖先の言語由来である可能性もあるのだ。

私は”依託“の意味で、憑依した霊が伝える=幽伝えや斎伝え(ユツタエ)ではないかなどと考えた事もある。しかし、古来、巫女の関わる神事に湯立てとか弓立てという卜占法があり、ここからユタテ+コ→ユタコ→ユタ、イタコという語が派生したという説があるのを見て、恐らくこれが正解なのかと思った。(もう一つ有望な説が、上述の宮中にもあった生島神社と足島神社との二坐に属する巫をイクタル《生足》巫と言ったので、イクタルコ→イタコとなったというものである。)

一方古語で市子というものがある。これは、市場で茣蓙掛けなどした囲いの中で、死者の口寄せや神降しをする者で、市巫女という;公には寺社に属さない巫女がいた。梓弓の弦を弾いて卜占する梓巫女などもおり、これも市子の一種である。(もっとも、梓巫女は信濃の梓川流域;異説では八ヶ岳山麓に本貫があるとした歩き巫女集団であり、全くフリーの巫女ではないともいう。)

市巫女は時に春も鬻いだ(売った)という。

市子→イタコとなったという説があるが、私は逆だと思う。でないとユタの由来の説明がつかない。ユタコ、ユタ→イタコ→市子だろうと思う。

中世には修験者の大黒さんなどで、亭主のやる加持祈祷の補助をするだけでなく、憑依しての託宣をする巫女(寺巫女などという)もいたが、これは市子とは言わないようだ。あくまでも市子は市場にいるか門付をするかであり、願者の方が寺に居る巫女を訪ねて行くのとは違うようだ。

こういう市子は、一般に白装束で頭に白鉢巻をしていた。

こういう市子の容姿が、巫女の原像となり、この延長下で卑弥呼の想像図も作られていった。

☆埴輪に見る古代の巫女

古墳時代の巫女の容姿を、忠実に留めていると考えられるのが、埴輪の巫女像である。埴輪の女性の中で、「これは巫女だ」と指摘されるものは、出土地域の違いがあっても、ほぼ同様の容姿をしていて、「いやこれは巫女ではない」という異論はほとんど出ていない。

であるなら、弥生時代末期から古墳時代の始原期に相当すると推定される卑弥呼もまた、鬼道を用いるという魏志の描写を考えれば巫女であり、ならば埴輪の巫女と同様の髪型や服装をしていたと考えなければならない。

ところが、世に流布する卑弥呼の想像図は、奈良時代以降か中世のいわゆる巫女の容姿をしたものばかりである。

唯一例外は、以下に掲げた「埴輪の巫女」の再現とした画像である。

但し、これも一部に赤色を使っているので、その点が瑕疵である。これを白黒画像に転換すれば、より埴輪の巫女の像に近づくであろう。

☆そも卑弥呼とは架空の人間では

卑弥呼(ピミコ)は、魏志倭人条に数回登場するだけで、ほかに存在を証明する文献資料は無い。その存在と、所在地つまり邪馬臺国を巡って、古来大変な論議を呼んで来た。しかし今もって定説が無い。

私は卑弥呼とは、倭国の人間が当方の国情を偽るために考案した架空の存在ではないかと考える。従ってその埋葬墓を何処かとか、何処に居たのかなどを細かく論じていても真実に辿り着く事はないのだ。

何せ、その後の日本でも、「王家の起源は日向にあって大陸とは無関係」と偽って日本書紀を作りそれを唐朝に提出したくらいである。

魏使は伊都国までは来訪したと考えられ、その地の習俗の記述には信憑性がある。しかしその後の邪馬臺国へ移動する経路などは、恐らく虚偽であったと思える。これは万一、中国が倭を併合する野望などを持ったとしても、その防備のため、地理事情を偽って分からなくしておこうという、つまり意図的に偽話を伝えたのだと思う。

大体この頃、来訪した魏使と言葉の通じた人間は極めて少数だったろう。

だから魏使が、応接者の言が正しいかどうかを市井の民に問うたとしても回答は得られなかったであろう。だから応接者は、適当に話を作る事が出来たのだ。但し、邪馬臺国(というか倭人の連合政権)の南に狗奴国という倭種ながら連合政権に参加していない国があって、そことは戦闘がある事を訴えたのは正確な話であったろう。

This blog post is actually just a Google Doc! Create your own blog with Google Docs, in less than a minute.