天孫族考番外「“朝鮮”とは何処のことか?」
天孫族考番外 「“朝鮮”とは何処のことか?」
標題のマターを論じる前に、それが如何なる問題意識から生じたテーマであるのかを論考して行く。
◇高句麗歴史的帰属問題論争
略して「高句麗論争」とは、21世紀初頭、中国(の歴史学会)と、韓国・北朝鮮(の学者及びマスコミ・民衆)との間に生じた主に古代南満州にあった高句麗が、歴史的に見て、中国と朝鮮のどちらに帰属するかの問題を巡る論争の事である。
この論争は、二つの局面を持っていた。一つは、中国側の歴史研究者による「東北工程」というプロジェクトについてである。
金沢大学の古畑徹氏は、これを以下の様に要約している。
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「東北工程」とは、国家の重点研究課題として2002年に開始された中国社会科学院辺疆史地研究中心 (“中心”はセンター)と 東北三省 (黒竜江省 吉林省 遼寧省) の連合による歴史研究プロジェクト「東北辺疆歴史与現状系列研究工程」のことである。 主旨は中国東北地域の歴史全体と国境問題を研究することとされるが、その中核は“高句麗の歴史的帰属が中国であることを確定”しようとする点にあるとみられており、韓国では2003年後半より 「高句麗歴史歪曲問題」「歴史戦争」としてマスコミに取り上げれ、中韓の外交摩擦として急浮上した問題である。
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中国側の主張の要点は、“高句麗は近世以降でいう満洲族系の部族によって建てられた国であり、一時は現北朝鮮の平壌を首都としていたものの、王族や臣民の多数は満洲族系であったので、これは朝鮮民族の祖先に属するものではなく、現代中国が満州を版図としている以上、高句麗史は中国辺境の一つの民族の歴史であり、中華民族の歴史の中に含まれる”というものだ。
また二つ目の問題は、一つ目に密接に関わるものだが、高句麗の歴史的遺物を、古代中国文化の遺産と見るか、それとも古代朝鮮民族の文化遺産と見るのか、という事である。これは、上述の東北工程問題論争とほぼ同時期に生起した事象である。(というより、むしろ世界遺産問題の方が先で、それが中国に東北工程研究を促したという見解を持つ韓国人研究者もいる。しかし東北工程自体はそうかもしれないが、実際はこの問題はもっと以前に起因すると考えられる。→これは後述する。そこで論点を世界遺産問題に戻す。)
1998年に世界遺産協約の加入国となった北朝鮮は、国際記念物遺跡協議会などの財政的・技術的支援を受けて遺跡整備を進め、2001年に高句麗遺跡を登録申請をした。 これに対し中国の研究者から これは高句麗を朝鮮史が独占することをねらう北朝鮮の政治的行為だとする批判が出たようで、2001年末中国政府は急據文化部副部長を北朝鮮に送り共同登録をしようと提案したのだが、拒否されたという。 (この事は一見奇妙に見える。朝鮮戦争で中共の援助を受けて、中朝両国は血の団結を唱い上げる関係であったからだ。しかし、これを中国側は、北朝鮮のナショナリズムの抬頭とも考えた。)
そこで中国は、吉林省集安と遼寧省桓仁にある高句麗の古首都と王陵古墳を 「世界文化遺産」の暫定目録として提出し、2003年1月に正式申請。さらに半年をかけて大規模な遺跡補修をした。 この間北朝鮮の申請は2003年の第27回世界遺産委員会で問題点が指摘され1年間登録延期となり、 2004年の蘇州での第28回同委員会で中国と同時登録が認められることになった。
その2004年7月の中国蘇州で開かれた世界遺産委員会では、中国と北朝鮮の2物件として、北朝鮮側分も含めて「高句麗遺跡群」が世界文化遺産として正式登録されたのである。
この事について『人民日報』は「紀元前三十七年に、扶餘人である朱蒙が西漢玄菟郡高句麗県で建国した高句麗は、漢〜唐時期の中国東北の少数民族政権であった」と報道したほか、中国各誌で「高句麗は中国領」という記事が掲載されたのである。その後、この問題は、北朝鮮では沈静化?した(というより政府が抑えたのだろう)が、むしろ韓国側の学会民間の意識を刺激し2007年に当時の温家宝首相が中韓親交を目的に韓国訪問するまで継続した。
「中韓高句麗歴史論争のゆくえ」と題する論文で、金沢大学の古畑 徹氏は、以下の様に、この件に関する朝日新聞の記事を紹介している。
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『朝日新聞』は, 2007年4月3日付朝刊の国際面に,
「“高句麗は中国” 結論隠し 政府系機関 「東北工程」, 研究終える 対韓国摩擦に配慮 立場は変えぬまま」という見出しの記事を掲載した。 その冒頭は次のように始まる。
中国の政府系研究機関が主導した中国東北史研究が, 当初予定していた報告書とりまとめを行わずに終了したことがわかった。「東北工程」と名付けられたこの研究プロジェクトは、古代国家の高句麗を中国史に位置づける主張を強める動きとして韓国側が反発、両国間で歴史認識問題が生じていた。 温家宝首相の訪韓を控え, 中国側は研究成果を出さないことで対韓関係への影響を避けようとする姿勢のようだ。---------
中国と韓国の外交摩擦となっている 「東北工程」について、中国の関係者が取材に対し、プロジェクトの終了と当初予定の研究総括報告書を出さない方針を明らかにし、「元々対外的な宣伝を意図した研究ではなかった。 韓国側をこれ以上刺激し、外交関係に影響を与えることを懸念している」と語ったという。
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『朝日』 は、 前年末までに中国側の問題不拡大方針が固まり、1月の首脳会談で温家宝首相が盧武鉉大統領にそれを伝えたことを指摘する。 その一方で、別の関係者の 「成果を宣伝しないだけで、今回の研究プロジェクトを肯定的に捉える姿勢は変わらない」 という発言も伝え、内部の非公開文書作成が検討されているという。 『朝日は、この背景として、中国東北地方に多数居住する朝鮮族 への求心力を維持するため、中国東北地方の歴史を中国史として位置づけたいのだと指摘し、同関係者の韓国側への譲歩は 「朝鮮族に間違ったシグナルを送る恐れがある」との発言を付している。
韓国の学者・金光林は、中国が高句麗の帰属問題を重要な国家的政策課題とした時期を、この問題で北朝鮮との摩擦が生じた2001年から2003年の間とみており、 そのあらわれとして「東北工程」がスタートしたと考えているようである。
だが、中国の満州地域研究は、中華人民共和国が発足して、漸く中国に科学的歴史研究学が成立後スタートしたのだ。第二次世界大戦の終了後暫くして開始されていたのである。これは、日中戦争中、満州国という傀儡政権を建てられた事に対する反省もあって、中国の少数民族(その中でも極めて重要な民族である満洲族)について、どう中華民族に取込んで行くかという問題意識に依拠したものである。
これは、中華人民共和国憲法 (1954) に示された 「中華人民共和国は統一した多民族国家」 で、「各民族の自治地方は、すべて中華人民共和国の不可分の一部」というテーゼに基づくものであったと考えてよい。
ところが、この様な研究は一時文化大革命(1966〜1977年)の混乱で停滞する。
1980年代になって高句麗を中国史の一部とみる見解が増加する。
これには、1981年5月に北京で開かれた中国東北地方の境域民族史研究についての 「中国民族関係史研究学術座談会」の重要性が指摘される。
座談会では、第一に中国は秦以来、統一的多民族国家であった;第二に、 現在の国境は、歴史伝統の国境・国家間の平等な協議 条約に基づくもので、東北の場合は1689年のネルチンスク条約に基づく;第三に、民族と境域は互いに関連し、歴史伝統境域内の民族は 「中華民族」 に属するという3点が共通認識として確認されたという。
しかし、そういう内に、韓国の側に動きが生じる。
全斗煥軍事政権が1983年に、「南北統一後は、旧満州の朝鮮族の失地を回復しなければならない」という趣旨の発言をして、中国側を痛く刺激した。
中国側は、これはかつての日本帝国主義者の発想の延長下にあるものと批判した。
この後金正日政権後の北朝鮮の衰微が中国側で懸念され、韓国による北朝鮮併合が必ずしもあり得ぬことでは無くなると、中国側は、東北3省(旧満州)と中国本土の一体化思想を喧伝するようになる。そういう背景下で、前述の、北朝鮮政府による高句麗彩色古墳のユネスコ世界遺産登録申請の問題が浮上したのだった。
現在の北朝鮮政権は、習近平に精神的に依拠しているため、中朝間の高句麗論争は、抑制されている。また韓国側でも、北に配慮する文政権下では抑制されていた。
しかし水面下では、社会主義欧州の崩壊後のドイツ統一を目にした中国では金正恩亡き後には、北朝鮮と韓国の統一が現実化しそうである以上、北朝鮮は高句麗〜高麗〜李朝の後継国家であり、それは満洲族という中国少数民族の地方政権なので、韓国との合併はあり得ぬという考え方が確固としたものになっている。
しかし、この論争の元になっているのは、中国・朝韓双方の「朝鮮」という地域概念に対する誤解である。
そも双方とも、今の「朝鮮半島」の全体が、歴史的にずっと「朝鮮」だったと思い込んでいる。
しかし、中世後期に高麗王朝を簒奪した李成桂による李朝が、高麗に代わる国号の候補に朝鮮を挙げ、それを無知にも(?)宗主国の明の洪武帝に選んで貰った。「朝鮮」は明国皇帝が李朝に賜与した国号である。
洪武帝は、明の太祖だが、その出自は紅巾の徒であり、恐らく朝鮮とは何処の地域を指す名辞なのかはよく知らなかったのだろうと思う。
一方、選択肢に「朝鮮」を挙げた李成桂もまた、高麗時代の民族的な意識の昂揚から「古朝鮮」の観念が創出されていたので、それに沿って、旧高麗の版図(ほぼ現在の「朝鮮半島」)が朝鮮に相当すると思い込んでいたものと想像される。
しかし、「古朝鮮」の在ったのは、本来の朝鮮である(今は中国の)満州の遼寧省であるのに、鴨緑江以南の旧高麗の版図が朝鮮だと考えてしまったのだろう。(だが、もしかすると、後世の全斗煥の如く李成桂にも)鴨緑江以北の古代の高句麗の版図;それには遼河地帯の大部分も含むのだが;を、あわよくば奪回しようとの意図が隠されていたのかも知れない。というのも明初には、未だ北方に元が残存していた(=北元である)ので、明と元の争闘の間隙に遼寧は勢力の空白地帯になる可能性もあったからだ。
李朝が国号を朝鮮としたために、以後は、その版図である半島は“朝鮮半島”と思われる様になり、また李朝の国民は“朝鮮民族(朝鮮族)”だと思う様になった。
しかし、古代史に於いての朝鮮は、本来は遼寧であり、漢代に於いては、漢四郡が置かれて、その内の楽浪郡が、転移の結果今の平壌に郡治を置いたので(郡治は朝鮮県に置かれたため)、そこまで朝鮮の概念が拡張されたが、それはやがて高句麗によって駆逐され、以後新羅が半島の旧三韓を統一しても、結果的にそこは「韓ではあっても朝鮮では無くなっていた」のだ。
そこで、一体その朝鮮という地域概念は、時代的にはどう変化したのかを考究してみた。
◇韓と朝鮮
(以下は、私が整理の為に作成したレジメである。)
◯朝鮮関係の地域名は一定しない(時代で変わる)
韓民族と朝鮮民族、
三韓:馬韓、辰韓=斯羅國ではない!、弁韓(伽耶、任那)
辰韓には新羅統一に反抗した邦々(クニグニ)があった。→伊西國など。馬韓を統一したのは百済である。
(※伊西國は北九州に亡命して伊都国を建てた。)
◯歴史的には、韓民族と朝鮮民族は異なる。
韓民族
①大韓帝国とその後の大韓民国の国民である民族←近代
②三韓時代の辰韓・馬韓・弁韓の構成民族・韓族←古代
朝鮮民族①漢の四郡設置下で支配された古代”韓民族②“の一部
②李朝とその前身の高麗の国民である民族
※高麗国民は自らを朝鮮民族と言っていたかどうかは不明である。但し、檀君神話は高麗時代に登場している。
政治的な思惑から、韓国では自国民の民族名としては、(北朝鮮国民も含め)“韓国民族“と言っている。勿論、北では(南北合わせて)”朝鮮民族“と言う。
しかし、韓国民も、朝鮮民族でも間違いだとは思っていない。韓国で最大の発行部数の新聞は「朝鮮日報」である。(第二が東亜日報、三番目は中央日報という事になる。ほかに左翼系のハンギョレ=一つの同胞という新聞も。)
◯朝鮮
①朝鮮の語の指す最初の地域は?
最初は旧燕国の東部渤海沿岸域+遼西(勿論今の朝鮮半島は含まれない)「朝陽の鮮やかなる所」
→やがて、遼東へ(第二次の「朝鮮」も遼東半島までで、鴨緑江の南側は含まれていない)。
※古代に遼東半島にあった貊族の百残は、それ以前に馬韓に移動→伯済)
→最終的には漢の四郡地域(“平壌“地域を含む)+更に高句麗の地域。
狭義には楽浪郡の朝鮮県(郡治が置かれた)の存在した地域。
※元来の朝鮮は、燕(戦国時代に今の北京地域にあった国)の東の外縁地域を指した(日昇の方角=東の鮮やかな地)であり、今日云う”朝鮮半島“は含まれていなかった。それが、楽浪郡の東遷の結果、その支配地が朝鮮という認識に変わり、楽浪郡の最終的な郡治の城地である”平壌“、そして後世楽浪郡から分離された南側の帯方郡の支配域も含めて、そこが漠然と朝鮮と認識されるようになった。
しかし、高句麗が南下してくると後述の如く朝鮮県は遼東に帰西してしまい、半島には朝鮮と呼ばれる地域は消失する。
② 李朝とその前身の高麗の版図の地域
漢の時代に北部・東北部の玄菟郡や南部の真番郡、南東部の臨屯郡を含めて広域的に朝鮮という認識が出来ていたのかどうかは不明である。(そこまで含む一帯を朝鮮とした文献は「史記朝鮮伝」になるのだろうか?)
だが後に高句麗がその遼東までを版図にし、そして楽浪郡も併合したので、後世の高麗と李朝は昔の高句麗の版図までも朝鮮民族の国域だと解していただろう。現在の中国吉林省の鴨緑江北縁地域をも含めてである。
もっとも、高麗は統一新羅を打倒して成立したので、当然に旧新羅と一時の後百済も含めて、高麗と同一民族であるとの意識はあっただろう。しかし、高麗国民に初めから”自分達は「朝鮮民族」なのだ“という認識があったかどうかは不明である。李氏が国号を朝鮮に改める前に民族名として朝鮮民族という名称が成立していたかどうかも分からないのだ。恐らく”高麗民族“か。
さりながら、檀君神話が創られ、平行して「古朝鮮」という概念が形成された様なので、「檀君朝鮮」が民族の由来だという伝説が次第に高麗国民の間に広まったと思われる。その結果、李成桂が明の洪武帝に、国号の賜与を願い出た際に、自分の出身地である”和寧“と、古朝鮮の継承を意識した”朝鮮“を挙げて二択を要請したのだが、その時に李成桂には、高麗も朝鮮民族の国という認識があったのだろうと推測される。和寧は、敵対する北元の都が和林なので、問題外だったが、朝鮮は、洪武帝が識者の助言で、周の武帝が箕子を封じた地の名であり、伝説の名君の事績に倣おうとしたのは明白である。洪武帝には朝鮮など東の辺境はどうでも良かった。(問題は、李朝が北元と通じないようにする事が大事だったからだ。)
行政区域としての朝鮮は元々は楽浪郡の朝鮮県であった。だから、楽浪郡が、遼西→遼東→平壌地域と三遷(四遷とも?)していく内に、朝鮮県も東遷して行った。
楽浪郡治は朝鮮県に置かれたので東遷し、他の地域固有の名称を持つ県は、それぞれ遼西郡などに残されたと考える。
漢の武帝が設置した当初の四郡は概ね鴨緑江を越えていなかったと思われる。
(だからその前の衛満の自立した《後世言う》衛氏朝鮮も)周以来の幽州に含まれるのではないか。今日の遼寧省に相当する。伝説の箕子朝鮮も同様。
そも箕子支配地や衛満支配地は、(広義の)朝鮮にあっただろうが、当時その地域のみが特定されて朝鮮と呼ばれていたかは疑問である。
史記の伝える伝承では、“殷の賢人だった箕子が、殷の暴君紂王の政の乱れを諫言して囚われの身となり、これを周の武王が解放した。箕子は二君に仕えるのを憚って、東国朝鮮に亡命した。そこで武王は、箕子を不君(臣下ではない)待遇として、改めて朝鮮(の地)に封じた”という事になっている。これは「朝鮮に封じた」のだが、朝鮮公に任じたというのではない。
また史記には箕子の当時の王(箕準)を、燕の将軍衛満が追放して衛氏三代が支配した地域は朝鮮にあるとしている。だがそれらを「朝鮮国」とは言っていない。「衛氏朝鮮」も後世の呼称であろう。
李朝になってから箔付の為に箕子朝鮮とか衛氏朝鮮の概念が固まったのではなかろうか?また檀君神話は高麗時代、国民の祖先を、箕子や衛氏の様な中国人由来の国の以前に構想したものだ。
(これは出雲族の三輪王朝の前に、天孫族の神武王朝を架構したのと同工であり、)支配民族の一貫性を装うためだろう。
もっとも、高麗の建国者の王権は満州系(靺鞨遺民)だったという。
◯楽浪郡の東遷について
楽浪郡は(従ってそこに含まれる朝鮮県も)当初は遼西(即ち遼河の西から戦国時代の燕国の東部までの地域、中原から見ての東北部辺境)にあったと推理される。というのは、
1)遼東郡は一貫して存在したが、遼西郡は一時的には無いか、もしくは沿岸部が楽浪郡になって、遼河中流以北の西岸が遼西郡となっていたのか?と思われる節がある。
2)楽浪郡に含まれる遂城県(現在の北京南東方の保定)は古代の燕の東部にあった。つまり、楽浪郡西部は燕の領域に重なるので、楽浪郡全体では周の置いた(秦にも受け継がれた)幽州に相当する。
(もっとも「幽州とは、やがては遼東も含めた今の遼寧省全域を含む」のだという説も出されている。)
元々の楽浪郡は朝鮮県 ・屯有県・渾弥県・遂城県・鏤方県・駟望県から成るのだが、この内、遂城県は現在の河北省保定市である。当時の燕京=現在の北京の南方の地域に当たる。という事は、最初の楽浪郡はやはり遼西にあったと考えざるを得ない。
従ってその朝鮮県もまた遼西にあった事になる。
つまり、朝鮮は今のようなKorean半島にあったのではなく、遼西平原の一地域名だったという事になる。後世の熱河省のあたりか?
後世、その(河北省の東接域は)朝陽県と呼ばれたのだが、この朝陽こそが元々の「朝鮮」ではなかったろうか?
そもそも楽浪郡の名は、水軍の行き易い地を意味した。武帝の配下の将軍達の陸軍と水軍が、集結地にし易かったからの名であると言う。
黄海と渤海湾は、一見普通の内水の様に見え、波穏やかな海水域と思われがちだが、黒潮の分流が侵入していて、所により水上交通のかなりの難所があるという。
(我が国で言えば相模湾などが、規模は小さいがそういう性格を持っている)
この黄海潮流の影響を受けにくい所、中国本土からの兵船が楽に行ける所、それこそが”楽浪“の港なのだという。当初は行政機関としての郡ではなく、臨時の駐屯軍の軍営としての“楽浪軍営”であったかと考える。)
遼東郡も、当初は遼河の東岸地域だったが、やがて遼東半島も含めて、後世の遼陽地域まで含む事になる。
※武帝が朝鮮征略に乗り出した時、最初に設置されたのは蒼海郡という名の郡であった。この郡治も何処にあったかは不明である。しかし蒼海との名を持つのだから、渤海湾岸に面していたであろう。だが、この時代日本でいう縄文海進の時代であるから湾も今より相当内陸に広がり、灤河・大凌河・遼河などの大河川の流入する湿地帯で、葦や葭などの水辺植物の繁茂する不毛の地が多かったと思える。だから漢も水軍を使って先ず海岸地帯から押さえにかかったのかと想像される。だが蒼海郡は短く終わり、その後暫くして楽浪郡と臨屯郡・真番郡が、1年遅れで玄菟郡が設置されたのである。
(蒼海郡は後の臨屯郡と同じく東海=日本海に面していたという学者もいるようだが、その頃は未だ衛氏や濊貊族が蟠踞していたから、東海辺に蒼海郡が在った筈はない。)
ところが、楽浪郡が東遷して来て営口辺りを郡治として遼東半島までの海岸地域を郡域とする事になったので、遼東郡はほぼ内陸の郡域名となる。その頃に再び遼西郡が秦の時代の規模で復活したのだろうと思われる。
※上図の下図は矢木毅(京大)氏の著書から借用
楽浪郡の郡治即ち朝鮮県は、①錦州付近 ②営口付近 ③遼陽(襄平)付近 ④(大同江下流の)“平壌”
という変遷を辿ったのか?と推理される。
※①は先述の如く、燕の外縁地域に設置されたのが最初だったし、④は考古学的に証明されている。しかし、③④については、考古学的にも文献的にも証明されていない。一部の学者がそう推理しているのである。だが、①からいきなり④では、余りにも唐突な移動になるので、私もこの③か④への中途的な移動があったものと考える。
遂には楽浪郡は第三(四?) 次の東遷をさせられて、郡治は“平壌”に落ち着く。そこには新たな朝鮮県が置かれた。
但し、ここで注意すべきはこの楽浪郡治のあった“平壌”という都城市の名前であるが、これは後世に高句麗が楽浪郡を征服した後に旧郡治の都城に首邑を移し、そこを平壌と呼んだから、以後そこを“平壌”と呼び習わす様になったのであり、楽浪郡朝鮮県の置かれた頃の都市名Xが何だったかは究明されて来なかったのである。高句麗では都があるところを平壌と言ったので、過去遼東北部(今の遼寧省)に都していた時は、そこが平壌城と呼ばれていた。平壌城は王険城とも呼ばれたので、高句麗の遷都によって、複数の同名都城が存在する事になった。(因みに、帯方郡治の候補地にもなっている現ソウルは、高句麗では南平壌と言った様で、要するに中国での南京の様な意味合いであろうか。満洲族系の国では、後の渤海もそうだが、副都を持っている事が多く、南平壌も高句麗の副都であった。避寒の冬宮なのか? 高麗では平壌は西京と言った。)
これによって、“平壌”付近の、旧馬韓北方地域までに、”朝鮮“の名称観念が拡張されることになった。但し、敢えて留意点を指摘するなら、この楽浪郡朝鮮県の居住者は、郡の東遷に連れて移住してきた中国人たちであり、古来の韓族はその中国人に隷属する者たちでしかなかった事だ。丁度ローマ帝国のイタリア半島以外の地域の市民は、イタリア出身者とごく少数の現地人;と言ってもローマ市民と現地人の混血の子孫の中の有力者に限定されていた事に相似である。
つまり、楽浪郡朝鮮県の市民多数は後世の“朝鮮族”では無かったのである。
楽浪郡は、途中で廃止された真番郡や臨屯郡も吸収して、大楽浪郡となり、下部に実に20程の縣を持つ規模になっていたという。この後(後漢末)公孫氏により南部7県が分離して帯方郡とされる。
高麗(都城は開京)時代、檀君神話が構想されると、檀君が殷の賢人とされる箕子に国を譲って、南に隠居して仙人となったという伝承が作られるが、その檀君の隠棲したのは南平壌付近とされ、そこも高麗族にとっての聖地であると観念された。だが、無論箕子の時代には、今の平壌も平壌などではなく、村邑Xでしかなかった筈だが、Koreanにとっては、平壌も南平壌も半島中部の黄海側にずっと存在した都市の名称だと思い込んでいるのだ。
(これは、東洋史を学ぶ日本人学生も同じである。)
○楽浪郡の帰西
更に複雑さを増す要因として、朝鮮県の”再西遷“の問題がある。
後漢末に楽浪郡が公孫氏の支配下に置かれると(実はその時代始めに帯方郡が分離されたのだが)、以前から楽浪郡や他の半島地域に居住していた中国人(漢人)には遼東郡や遼西郡に退避する者が出た。
高句麗が楽浪郡を攻めると、楽浪郡からの漢人の逃亡が増加した。
そしてそこに楽浪郡の僑郡が仮置され、その中に朝鮮県も僑置された。高句麗は遼河付近まで侵出したので、楽浪僑郡は最終的には遼西に落ち着いたようだ。(それが朝陽辺りか?)
もっとも、僑郡は同名の地域を実効支配しておらず、いわば亡命政府の如きもので、退避して来た旧楽浪郡の民を管理する機関だった。(現発事故後、福島の某村が、埼玉県の加須に村役場ごと退避して、周辺各地に分散退避をした村民の戸籍や収税などの管理をしたのが、いわば僑村であろうか。)そこには、漢人のみならず、平壌楽浪郡に居た貊族や韓族なども随伴して来ていたと思われる。この人達が、遼西に箕子廟を祀った。
この為、後世、李朝から中国に派遣された朝貢使節が遼西に滞在し箕子廟を見て、古代には遼西まで”朝鮮“国領だったと誤解する様な事も生じたらしい。
→それが昂じて、今の朝鮮人に「遼西にあった江山文化(遼河文明)は、古代朝鮮民族が興したもので、その流れの殷や燕もまた朝鮮文明の支流だ」などという夜郎自大な思想をもたらしてもいるらしい。
このような見解に更なる混乱を生じさせたのが、扶餘問題である。百済が(高句麗と同様に)王家は扶餘族から出たという主張をした事で、百済を南扶餘と呼び、高句麗を北扶餘と呼ぶことがあった。
この為、中国南朝では、陸路が北朝や燕によって途絶した為に、“扶餘は遼西にまで勢力下に置いていた”という歴史的な記憶から、「百済が遼西にまで領域を広げていた」などという記述が南朝(宋書や梁書など)の史書にまで記載されてしまった。これは北扶餘つまり高句麗が遼西にまで勢力範囲を広げていたことがあった事を誤解したものである。肝心の扶餘はその分国であるという高句麗によって滅ぼされたので、北扶餘は旧扶餘の事だと考えて、扶餘は、遼地北部にしか版図が無かったから、遼西に勢力を拡張したのは扶餘でも南扶餘つまり百済だとの誤解が生じたのである。
或いは南朝と修好していたのは百済だったから、百済側がそういう誤解を否定しなかったのかも知れぬ。
※現代の韓国でも、漢四郡は漢の植民地であり、朝鮮民族にとって不名誉な事として、国史教育では我が国の様には詳しくは教えていない様だ。だが、日本でも、漢四郡はずっと今の朝鮮半島にあったという誤解で教育がされて
来た。
○百済の建国神話に於ける扶餘祖先説
百済は、ある時代から、自国王室の祖先は扶餘族の出自であるとした。その結果、百済と高句麗は共に扶餘族の祖先を持つ事になった。
実際は、百済がその都を、慰礼城(ソフル)〜熊津(公州)〜四沘と三遷させたのは、進出して来た高句麗の侵害を避けるためだった。四沘は後(新羅から)扶餘の名でも呼ばれたので、百済=扶餘族というのは、半ば公知の事なった。
高句麗・百済が祖族と主張した扶餘は、後に強勢化した高句麗によって滅亡したが、中国では高句麗が扶餘の後継部族であると考えて、高句麗も扶餘と呼び、南の扶餘=百済に対して北扶餘とも呼んだのだ。
この為、高句麗(北扶餘)が、遼西まで勢力を伸ばすと、誤解が生じて、南朝の宋や梁などでは、南扶餘つまり百済の領域が遼西にまで及んでいたとの記述が、南朝史に載ることになった。
この見方は、遼西に楽浪郡の僑郡があったことで共鳴しあっている。
百済が馬韓に入るまで、どこにその中心部族がいたかは諸説がある。元々真番郡や馬韓にいた部族が、強勢化して行く高句麗への対抗上、自分達の祖先もまた高句麗と同様に扶餘族だと主張して対等化を図っただけだという学説もあるのだが、敢えて同族を主張するのは、全く無根拠だったとは思えない。やはり、百済の王家は、貊族に何らかのゆかりがあったのだろう。
百済の元の名は伯済、そして更に以前の名は百残(伯残)なので、これは貊残(=貊族の残存部族の意味か)で、高句麗と同系だったと考えられる。
鴨緑江を挟んで、遼東半島から、いわゆる遼の地域までに分布していた貊族が、箕子〜衛氏の遼東への進出で分断され、貊族主流が鴨緑江中流〜上流の地域にあり、分断された貊族の残存部族(つまり貊残)が遼東半島あたりにいて、前者が後に高句麗を建て、後者は、武帝時代の漢の侵攻で南遷して漢江の南の馬韓に混住して百済となったのではないか?
馬韓の覇権を握ったのが、騎馬民族の扶餘由来の貴族を有した百済であったのは、馬韓に入った貊族系が比較的大人数だったからであろう。
扶餘(扶余)自体は、主に貊族他の蒙古系北狄と東夷の濊族とで構成されていた。この扶餘の西方、鮮卑の居住域との間には、かつて一時「辰国」があったと私は考えているのだが、辰国もまた箕子の遼東への進出で南遷して馬韓の民衆の基礎になる白馬族と、更に東岸の濊族居留地に進出して辰韓となった黄牛族、南方の弁韓に出て弁辰とも呼ばれた地域に都市国家を作った加羅族(その中に天孫族も含れる)とがあり、それらが三韓と通称される地域連合を形作っていたのである。
三韓はそれぞれが都邑小国の連合体だったが、それなのに全体で韓と言わず馬韓・辰韓・弁韓というのは、それぞれに各韓支配者同士の緩い連合体が出来ていたからであろう。とはいえ辰韓の王だった月支王は、馬韓の各国主の共同の承認を得て就位したというからには、神聖ローマ帝国の選帝侯のような制度が形成されていたからなのだろうか?或いは古代ギリシャのデロス同盟の様な都市国家の同盟体が、三韓にも存在したのかも知れない。(デロス同盟はアテネが盟主。)
当然同盟の盟主国はあっただろう。それらの盟主国や有力国の中に馬韓では百済が、そして辰韓では斯羅國が在ったのであろう。一番緩い連合体が弁韓で、私説では、弁韓には馬韓や辰韓の諸国の分国が存在したのではと考えたのである。弁韓の有力国は、始めは金官加羅でその後は高霊加羅になった。
特に新羅の統一戦争に抗した盟主が高霊加羅であり、任那連合は高霊加羅を中心に結成されたのだと思われる。
◯幽州と平州
朝鮮の地域概念に重なるものに、中国で言う幽州がある。
幽州の東部は一時分離されて平州となった。第四次楽浪郡は平州に属する。
後漢末に公孫度が平州牧を号し、公孫三代にわたり東夷九種を服属させた。→これが、平州の名称の始めである。公孫氏が楽浪郡と帯方郡を含む遼東〜半島北部地域を支配していたので、公孫氏の都城は“平壌”だったと一部の人達には思われているが、実は襄平(後世の遼陽)だった。
魏晋南北朝時代
魏は東夷校尉を設置、襄平県に派遣し、遼東郡・昌黎郡・玄菟郡・帯方郡・楽浪郡の五郡を幽州から分離し平州を設置したが、その後幽州に再統合している。魏が滅ぼした公孫氏が平州の独立王国だったので、その平州の名を一時は使用したが、結局中国側で確と認識するのは幽州の名だった。
公孫氏は魏の司馬懿によって攻め滅ぼされたが、その代わりに魏が平州の名を以ってそこの地域名にし東夷校尉を置いたのは襄平だったから、平州の首邑はやはり襄平だったのだろう。
274年(泰始10年)2月、西晋は昌黎郡・遼東郡・玄菟郡・帯方郡・楽浪郡等の五郡国を分離し再度平州を設置、26県、18100戸を統括した。
南北朝時代になると、平州には高句麗が侵攻してくる。
高句麗は、隋唐時代には、都城を“平壌”に移している。(正確に言うなら楽浪郡治のあった都市Xに遷都しそこが平壌になったのであるが。)
◯どこまでが朝鮮か?
ところが昨今、第四次の楽浪郡も、常識になっている(現在の)平壌ではなく、高句麗の平壌城のあった今の遼陽あたりにあった筈だという見解が出されて、結局西晋の時代まで含めて、古代中国側の認識では、朝鮮の地域名称の意味する領域は、鴨緑江を越えていない;つまり遼寧省の内側にあったという説が出されるまでになった。
京大の矢木毅氏によると、「それこそ(公孫政権〜高句麗時代に再西遷した)楽浪僑郡についての無知に起因する」という事だ。
さりながら、証拠物件つまり平壌に遺る考古学的な出土物によって、第四次の楽浪郡は、確実に鴨緑江を越えていたというのが通説になっている。
だからこそ、そこを支配した公孫氏が、楽浪郡を分割して帯方郡を置いたという実態が生じたのだ。
但し「公孫氏が都城を置いたのは楽浪郡治のあった都市X=高句麗の平壌ではなく、遼寧の襄平だった」というのは既述の通りである。
魏志倭人条に記された“邪馬台国が通交した帯方郡”はやはり半島中部にあったと考えて良いのではないか。(もっとも帯方郡の郡治のあった都城は未だに解明されていない。大楽浪郡に吸収された時の真番郡が帯方郡とほぼ重なるという説がある。)
※一部学者に、“後漢が公孫氏を「朝鮮国王」に任じて印綬を与えた”と言う人がいるが、その事実はない。あくまでも漢の遼東太守であり、一時は曹操から公孫度が武威将軍・永寧郷侯に任じられて印綬を授けられただけである。後継した公孫康も官位は左将軍だった。
◯韓半島と朝鮮半島
古代史研究者としては、「朝鮮半島の語は古代には無かった」可能性があるので、便宜上Korean 半島などの用語を用いた方が良いかもしれない。
日本列島も、日本という国の成立する前は 大八洲などの物理的な名称を用いる方が正確であろう。
※豊葦原瑞穂国というのは、稲作を連想させるので、縄文時代をいうのには不適切であろう。
もっとも日本もニッポンではなく元はヒノモトであっただろうが。
韓半島というのは、三韓時代の半島南部についての表現となる。但し、近代に於いて、李朝が「朝鮮」の国号を改めて一字国号の「韓」を採択し大韓帝国を標榜したので、その後継になる現代の大韓民国も含めて、その存在の地の地勢名称を韓半島と言っても間違いではないだろう。李朝の支配地域には平壌を含むKorean半島北部まで包摂していたからだ。(鴨緑江を国境としたのは清国皇帝の決定。)
とはいえ、韓半島というと、現今は北朝鮮を含まない概念と誤解されやすい。
◯古代の半島地域の”濊族“とは?
古代の“朝鮮”半島に於いては、南部東部に濊族、そして中部北部に貊族が居住していたようだ。
貊族は北夷と呼ばれた扶餘と高句麗などの狩猟民族である。
一方、濊族は、黄海を挟んだ中国側の江淮の海人族が移住して来たものと考えられる。特に淮河の下流部一帯にいた民族であり、濊とは“淮夷”もしくは“倭夷”の卑字表記であろう。
淮河系海人族は、後世の蛋民の様に、一部が家舟生活をする水上生活者と簡単な(竪穴式か?弥生時代風の掘立小屋式の)住家を持ち、水稲耕作をしていたのではないだろうか?川沿いに住地が広まったのだろう。
中原の民族は、春秋時代頃には椅子に座る生活形態であり、水上生活や土間に座る生活様式は、不潔に見えて“濊”の表現になったものと思われる。
戦国の割拠国では、呉楚が江淮地域の国に相当する。
中国での倭は、越(倭奴)の民が中心だが、広義には江淮地域の土民海民も含んでの概念だろうと言われている。
※長江流域に上流までの各地に居た複数の少数民族の総称が倭(Wi、ヰ)であり、それは南韓に移住して濊族となり、南下して日本列島沿海に住む様になったのが阿曇、いわゆる海人族である。
天孫族考で繰り返し述べた様に、倭はWiだが、Waiと訛った可能性はあるものの、決してWaではない。Waはあくまでも天孫族=和族の事であり、和族の九州王朝が、東征して三輪王朝を打倒した時に、三輪王朝=大倭を大和と読み替えた事で、“倭もまたWaと呼ばれていたのではないか”という錯覚が(遡及して)為されるようになったのである。
○韓半島での人種構成での韓系人の減衰
幾たびかの戦乱や異人種支配などにより、古代三韓の民は、現在では極めて希薄化していると考えられる。
馬韓は白馬族・濊族民衆の上に貊族の百残が遼東から南遷して来て支配者となった。馬韓語は、辰韓・弁韓と異なっていたというが、これは支配者が貊族(伯済)になっていたからだろう。
辰韓・弁韓はほぼ同一言語であったという。月氏の黄牛族と、それに白馬族更に龢族の都市国家が併立していた。但し、言語的には月氏の流れを汲むとはいえ、元々の月氏3族が、完全に同一の人種ではなかったと思える。
黄牛族は、モンゴル系やチュルク系との混淆だっただろう。交易の民である白馬族は元来中央アジア各地の多様な民族との混血が進んでいたであろう。
◆高句麗の南下による半島北部支配
楽浪郡を滅ぼしたのは、高句麗であり、この地域には貊族の血が多数流入したと考えられる。また帯方郡は百済によって滅ぼされている。
この頃の百済には、旧馬韓人に対岸の中国南朝から、亡命中国人(漢民族や呉の部族)が多数渡来して来た。
◆新羅の統一戦争
結局、弁韓(加羅)や百済を滅ぼして、また唐によって討たれた高句麗の南部まで含めて、新羅が半島を統一した。
この過程で、まず辰韓内の反斯羅國派(伊西國や旧馬韓の牛頭方など)が、斯羅(新羅)によって討滅され、その人民の多くは倭国の北九州〜山陰地方へ亡命した。これが後の出雲族である。
弁韓加羅と百済も新羅に討たれて、これは河内政権下に亡命した。高句麗に支配されていた旧馬韓人も狛人(高麗人)として、我が国に亡命して来た。
この結果、半島の主要な人種は、新羅の黄牛族とそれに支配される旧濊族という構成になった。
この頃、龢族の王家は、馬韓の月支国と弁韓の高霊加羅に残っていた筈だが斯羅國の黄牛族は、龢族王家に親和していなかった部族だろう。従って、血縁も薄かったものと思われる。(中央アジアで、貴霜国が月氏他部族を配下に置いてクシャン朝を成立させたのと同様だろう。)
この時点で、日本列島の住民とは、DNA的にも既に相当乖離していた。
◆高麗での靺鞨系貴族
新羅を打倒して成立した後高句麗〜高麗では、満州系の人種の血が入った。
新羅からの奪権闘争の間に、新羅の王族は殆ど淘汰された。結果、黄牛族の血統は半島ではほぼ途絶えたと考えられる。高麗の貴族が弓術の的に牛的という黄牛の頭を描いた図柄を使っていたのは、打倒した新羅王族のトーテムが黄牛だったからである。
12世紀後半から高麗では民衆反乱が頻発する。特に搾取の酷かった南韓地域に反乱が多い。これを鎮圧して、高麗の宮廷に武官が(下剋上的に)進出した。(日本で平家や源氏等武家勢力が進出して行くのと似ている。)
◆元による支配と奴隷貢納
元が中国を統一すると、高麗はその支配下に入り、属州も同然の扱いとなり王族も元の公主を妃に迎え、また高麗貴族も蒙古族の貴族や軍人と混血したばかりでなく、民衆(これは元の新羅の人民である)は、元国に奴隷として貢納され、韓系人種の血は極めて薄くなった。元の支配に抵抗する武臣の反乱が三別抄の乱で、巻き込まれた南韓民衆は鎮圧され命を奪われた。これに拍車がかかったのは、2度の日本遠征軍への参加(元寇)である。主力の戦闘員や船方には、旧新羅系の民衆が徴用され、多くが戦死した。一説では、元寇後の高麗南部(旧新羅)の男子は半数以下になったともいう。
この頃大同江以北の地(今の北朝鮮にほぼ重なる)は元の東西の行政府2府の直轄地になり、高麗人は鴨緑江の北側に移住させられてコロニーを作った。(これが後世の吉林省朝鮮族自治区の種になる。)
◆満洲族系李氏による朝鮮王朝
李朝になると、支配者は、李王家と同様の満洲族系となり、旧新羅系の血はますます希薄化して行く。
決定的になったのは、壬辰・丁酉倭乱(秀吉の出兵)での南韓地域の荒廃である。
◆豊臣秀吉による半島侵攻
二度にわたる侵攻を受けて、南部の民衆はいわばジェノサイド的な壊滅状態に陥る。李朝での、南部の旧韓族系の男子は一時3割にも満たなくなる。
◆江戸時代の日朝友好期
相対的な安定期であり、朝鮮の人口は数的には回復するが、支配者層のヤンパン(両班)は、ほぼ北鮮系の人種となっていた。南韓(旧新羅・百済地域)出身者は賎民視されていた。
◆江華島事変〜日清戦争
江華島事件後の日本軍の出兵で、相当数の朝鮮兵が戦死した。日清戦争は、実際には、清国の袁世凱指揮の下、李朝の民衆が戦闘に駆り出されて、多数の戦死者を出した。
◆朝鮮併合での日本人支配と満州移民
日本帝国主義によって、日韓併合となると、その後の日中戦争〜太平洋戦争までの間に、朝鮮人の抑圧的支配が行われた。この間、満洲国の成立まで、関東軍の満州浸出に伴い、多数の朝鮮人が労働力として、また満人への対抗のために、満州地域に移住させられた。
この満州移民は、比較的貧困層の多い、南朝鮮地域からの人が多かった。
日本の統治の手先には、比較的知識層の多い北朝鮮系の人間が起用され、南北にシャッフルされた。こうして、南北の人種構成は差異が小さくなったと思われる。が、南部農村部では依然、旧韓人系の民衆が残っていただろう。
◆朝鮮戦争での全半島混乱
朝鮮戦争では、南北に分かれて民衆が動員され多数の死者を出した。
このような動乱の結果、韓国でも韓系人種は3割以下になったともいう。その中でも、月氏の血を継承する者の内、黄牛族系と龢族系は殆ど消失したと思われる。辰韓・馬韓の民衆中の白馬族系が、僅かに残っているかも知れ
ないが。
大部分は満洲族系なのが、いまの朝鮮半島の人種構成であろう。強いていえば、韓国には古代の白馬族の血脈は残っているかも知れない。
従って、よく言われるように「韓国人と日本人のDNAの共通性が希薄」なのは、こういう経緯があるからだろうと考えられる。
◯高句麗帰属論争の余波
21世紀初頭に、高句麗帰属論争や高句麗関連遺跡の世界遺産登録競争などが生起した事を述べたのだが、その直後韓国では、この問題の余波というか、直接的な刺激によってか、韓流ドラマで高句麗を題材にしたものが複数制作された。有名なのは、2006年の「朱蒙」であり、翌年の「太王四神記」、そして2011年には「広開土太王」が放映された。(いわば日本の大河ドラマの様なものである。)特に「太王四神記」は主役を冬ソナのペ・ヨンジュンが演じた事で、日本でも評判になった。これらのドラマは韓流だから当然に配役は韓国語を喋るわけである。
しかしこれを問題視して、中国でも(華流ドラマの)高句麗ものが制作されたというのである。これは日本では放映されなかった様で、調べたが何というドラマだったか?は確認できなかった。
しかし華流ドラマの中での高句麗人は、当然に中国語を喋っているのだろう。
我々から見れば、一見滑稽な双方に思える。だがこれは実は笑い事ではない。
高句麗問題論争で、中国側は、「朝鮮・韓国の南北統一などは論外だ。北朝鮮は、本来満洲族系の民族によるものなので、統一するなら韓国ではなく、吉林省の朝鮮族自治区とでなければならない」と主張しているのだが、これはあながち虚偽の根拠によるものではない。
しかし、民族自決の原則の前提となるのは、自決する当の民族の同一性の自覚・認識なのであり、他国や特に隣接する大国の主張に依拠すべきではないのである。これは昨今のロシア・ウクライナの民族の異同認識でも同じである。ロシアが幾らウクライナは同胞であると言っても、ウクライナ側が違う民族だというのでは仕方が無い。
また中国は、台湾どころか琉球も清国から冊封されていたので、本来は中国が領有すべきだとも言っている様だ。
極端な論としては、「百済が(王族は)扶餘出身という以上、旧百済の故地もまた中国領にする根拠がある」などというものまである。
こうなってくると、日本も元は大倭で、呉の太伯の遺民だから中国が領有してもおかしくない!などという主張さえされそうである。
早々と大倭の名を払拭して大和に変え、国号も日本にして則天武后に認めさせたのは、奈良時代の政権の先見の明であったかと、今更ながら思うのである。