吉野ヶ里の日吉神社跡地の石棺について
天孫族考追補「吉野ヶ里の日吉神社跡地の石棺について」
〜吉野ヶ里は忍野日下里か〜
今回の佐賀県吉野ヶ里町での石棺については、随分話題になった。
そこで、私のこのFacebookの「古代史研究会」へのコメントを再整理して、更に推理を進めてみたい。
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《以下は「古代史研究会」での箕岡義憲氏と私とのチャット風になったやりとりの記録》
箕岡義憲
ところで、 肥前国神埼郡は、以前に投稿したことがあるんだが、 関心をほとんど呼ばなかった。 実は、 肥前国は、詳しく調べてあって公にしていないことがある。 肥前国神埼郡の郷の分布図を添付するので、見てください。 吉野ヶ里遺跡は、 神埼に属す。 詳しく調べた者でないとその価値は、恐らく分からないと思うが...
◆箕岡氏の投稿地図
鈴木 宏義
箕岡様 ありがとうございます。 既に過去に神埼郡の地図をアップロードされていたんですね。その時は見落としたようです。吉野ヶ里という所がそもそも神埼で、その南西に宮処という地名があります。
通常はミヤコと読むのでしょうが、私はこれはクガ (久我、 古賀、日下)で、日之下国 (日下国=狗奴國)に属するのではと考えています。 そしてこの神埼は、日下国の主要クガ三所(左賀=佐賀、中賀、右賀=遠賀)の一つである中賀ではないかと推理しています。 更にここに宮を置いていたのは、彦太忍信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)=武内宿禰の祖父ではないか? 彦太は美称ですが、忍信命は忍野信で、この忍野は葭野=吉野で、 吉野ヶ里は忍野日下里なのではないか?(日下は近畿ではクサカで祭日壇の事です。)
そして吉野ヶ里=久我原の北方には山古賀=久我山の地名もかつてありました。
箕岡義憲
鈴木 宏義さん、こんにちは。 肥前国佐嘉郡の郷の分布図を添付するので、 ご覧ください。 観ていると地形が浮かんで来るようでしょう。
(中略)
鈴木 宏義
箕岡様 佐賀でも多久に左日下があったと考えています。 その辺りの古郷名はどうだったでしょうか?
また武雄心命即ち武内宿禰の父は、 武雄というより大帯日子忍代別なので小城に宮地があったと考えているのですが。
箕岡義憲
鈴木 宏義 さん、今晩は。 肥前国小城郡の郷の分布図を添付しますので、ご覧ください。 甕調(ミカツ
キ)。高來(タク)。
肥前国佐嘉郡の深溝に、 「佐嘉村」 がのちに 「春日村」に変わり、更に、佐賀市大和町大字久池井になっている。
◆箕岡氏の投稿地図
→※鈴木注 佐嘉村が大和町になったのは律令の時代になってここに肥前の国府が置かれたからです。大和の出張役所のある所の意味です。沖縄でも県庁のあったところを俗にヤマトと呼んでいました。それと同じです。
鈴木 宏義
箕岡様 小城郡の古地名図有難う存じました。 多久とは高来なのですね。 もしかすると高日下 (高久我)だったのかもと考えました。 かつてJR中多久駅の南に古賀の地名がありました。 今は地名変更で、南多久とか下多久とかいう変哲の無い名前に変わっています。 地名の無造作な変更は実に残念な事です。ここが天孫族の一大拠点痕跡かも知れないのに。(添付写真は想定地)
ここの古賀は真東に鏡山という山があり、後世の大和の香久山と同様に冬至の太陽を前もって鏡で受けて何処かに送る働きをしていたのかもと推理します。 また甕調の地名は思わせながら、 調という税制がいつ頃から始まったのか?こちらは奈良時代になってからの地名かも知れません。 伴部というのは大伴の事なのか?
箕岡義憲
鈴木 宏義 さん、こんにちは。 「高來」 の郷は、ここを含めて、 四か所ある。 『倭名類聚抄』には、読みにくいものには、 特殊仮名遣いで読みが書いてある。 片かなに直すと、 「タカク」 と読んでいるところがある。因みに、 「鏡」とか「香美」とか「香久」とか「加賀」とか当て字を使っているので、実に、紛らわしい。 「鏡」も「香美」も「香久」も「加賀」も草原の意味で、即ち、あまり木が生えていない土地や山のことを言う。
鈴木 宏義
箕岡様 カカミの語源に関わる話、興味深く伺いました。
因みに鏡(キョウ)を和語でカガミと訓むのは何故か?については、定説がありません。古代、鏡が無い頃、水面を代用にしていたので、 屈んで見るからカガミだなどという馬鹿げた語源説もあります。 しかし私は、“日下彌”で彌は霊; つまり神霊。 日之下の神霊は無論太陽です。 だから太陽光を反射する鏡は太陽神の霊だという考えから来たと考えています。
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上記の様に
>>かつてJR中多久駅の南に古賀の地名がありました。
>> 今は地名変更で、南多久とか下多久とかいう変哲の
>>無い名前に変わっています。
と書いたのだが、JR唐津線の東多久駅の東南に古賀平という地名が残っている。またこの西側に古賀山の地名もあり、かつて古賀山炭鉱という炭鉱もあった。こちらが多久の古賀(日下)なのか?私は、漠然とであるが、今は中央中学校の敷地になっている(先述の)中多久駅の南方の台地の方が地勢的により日下に相応しいと考えているのだが。
東多久の古賀の方は、今は古賀平団地という住宅群になり特徴の無い住宅地である。しかしここの北東には古賀山1号墳という横穴式円墳もあるので、古代との繋がりが類推される。(とは言え、この古墳は6世紀末~7世紀初頭の築造だというので、狗奴國の時代の物ではなさそうだ。)
※もっとも、この東多久の古賀平や古賀山の地名は、近世までこの多久を佐賀〜唐津への街道が通り、そこの宿場が“古賀宿“の名であった。その為この古賀宿界隈が古賀平と
呼ばれたものであるらしい。だから古代の古賀は中多久と東多久とどちらであったかは分からないのである。
○石棺は空白だったが、判明したことは?
骨も副葬品も見つからなかったのだが、幾つか分かった事はある。
1)石蓋には線刻が見られた。
2)石棺内には朱を用いた形跡があった。
3)石棺内部のサイズが小さい為成人男子が被葬者だったとは考えられない。
これらについて、順に考究してみよう。
◯線刻について
これについては、古代史研究会で次の様に書き込んだ。
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別の方の書き込みへコメント付けしましたが、今回の吉野ヶ里の石棺の蓋の内外に付けられた線刻は、後世アヤツコ(綾子)と言われる様になったマジナイだと思います。因みに、辞書では
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あやつこ
アヤッコとも。日本で生児が初外出の時に墨や紅で額に×や・の印か、犬、大などの字を書く風習をいう。ヤスコ・ヤッコという地方もある。魔除けとか、丈夫に育つとかのまじない。
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※現地の学者が、“線刻は破邪を目的とした呪いだろう”と述べていたのも同様の趣旨であろう。
ですが、私はこの習慣は、海人族の多氏水軍系の海民が付けた目印の大の字に起因すると思っています。大や太とかその変形でキとか廾とか、近世にはその大の字の縁取りから☆型までも使われました。志摩の海女などが潜水時の布の被り物の額の部分に、大とか☆の印の縫い取りをしている事を、かつて私の天孫族考の海人族の章で詳説しました。一部の天孫族の高位者には大の漢字が理解できたでしょうが、弥生晩期は殆どの民衆は文盲でしたから、何か線を刻めば良いと思って色々なバリエーションができたのだと思います。
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この海人族の習慣については、私は天孫族考の海人族への論稿で考究した。
→ 補遺15続の2「海人の大の字とアヤツコについて」
https://tiny.cc/suzuki-1
※但し、この論稿は長文なので、取り敢えず前半を参考にしてほしい。
(無論興味が湧けばそのまま最後までお読み頂きたい。)
◯石棺内部の朱について
これについても次の宮地氏への、後続の様なコメントで言及した。
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宮地陽輔(古代史研究会)
6月6日 11:21
吉野ヶ里遺跡の石棺、というのか甕棺に石蓋がかけられていた墓の発掘、皆さん興味ありますよね。
石蓋に✗印がいくつか刻まれていたとの記事。何を意味し埋葬物の分析など、
興味持って報道見ています
(鈴木のコメント)
もし吉野ヶ里の石棺の水銀朱が中国陝西省産だとしたら、以前に小倉南区で発見された城野遺跡の方形周溝墓と同じになります。そうすると、この時期小倉地域と吉野ヶ里地域の両方を統括する様な(地方政権)クニがあったのかも知れません。これが邪馬台国連合に属するクニなのか?
私が従来提唱してきた古遠賀湾〜洞海湾地域の右賀(遠賀はその転訛)と、佐賀(左賀)の武雄〜小城地区、そして中賀(那珂賀)の吉野ヶ里地区に跨る狗奴國
(日下国=久我国)の版図なのか?
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度々論及する日下国については、同じく天孫族考の旧論稿を参照願いたい。
→ 第18章 「日下(久我、陸)国が狗奴国」
http://tiny.cc/suzuki-2
但し、上記の論稿では、中日下の存在位置については、那珂川上流の安徳台を意識して書いていた。というのも、ここには隣接して春日氏居住域があったと思われるからである。(日下の司祭は春日氏の職能だと考えていたからだ。)
さりながら、その後の吉野ヶ里の遺跡の規模を見るにつけ、中日下は当初は吉野ヶ里にあったのではないかと考えるようになった。
吉野ヶ里の名前自体が、葭野原にあった日下里であり“葭野日下里”の事なのだろうと考えているからだ。弥生の後期辺りには未だ湾入した海に面した浜里だった。
そこは和邇〜大氏系の海人族の活躍する有明海〜筑後川水系に面していたからである。だから、天孫族の日下国(狗奴國)が、邪馬台国連合に属していると思われる伊都国や末羅国を征服して、脊振山脈の北麓にまで進出した後に、安徳台に想定される日下を中賀として利用するようになったのだと考えている。
だからこそ那珂川の名もあるのだと。
そして、そこの間(吉野ヶ里の北側)に横たわる山々は“背振”=曽布利=添という名を持っていた。曽布利とは月氏語での日之下であるからだ。
吉野ヶ里から那珂川上流に行く背振の南麓の高台には古賀の尾という地名もある。そこも日下壇が置かれていた可能性もある。
主要な三賀のほかに、日下族は各地の大集落ごとに、又は複数の小集落共同で日下壇を持っていた。
菊池川に沿う肥後の方保田東原遺跡も日下壇の置かれた所だと考えているのは、上記の天孫族考第18章に記述したとおりである。山鹿は“中世にある武士が山へ入ったところ多数の鹿に出会った。そこでここの地を山鹿と名付け、武士は山鹿氏の祖となった”などという俗説があるが、山鹿郡の名が既に奈良時代の文献にあるというので、山の鹿に
地名の由来を求めるのは仮構であろう。私は山鹿は景行天皇の征服譚もあり、日之下族の山日下→山久我→山賀(山鹿)の設置箇所だったのではないかと考える。
中世には山鹿に日輪寺なる寺もあった。またこの辺りには日奉に従事した部民に因む日置の地名もあるからだ。
方保田東原には日輪を意味する火焔車の巴型銅器も出土している。太陽祭祀の形跡だろう。
また多氏の水軍が河内王朝の時代に東国経略に乗り出すと、関東の各地にも日下壇が設けられた。日下壇はいわば氏神を祀るムラの鎮守でもあったのだ。
常陸の古河や、武蔵の日野などには日下が置かれたと考えている。また村落の日下は久ヶ原や久我山などにも置かれたのだろうと考えた。
◯被葬者について
石棺のサイズから女性か子供であるとして、結局その遺骨は確認できなかった。
有機物だから溶解してしまったという見解もあるが、もし被葬者が実際にその棺内にあったら、衣服の痕跡や装身具は残っている筈だ。
これについても私は、以下のようなコメントを付けた。
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youtube へのコメントにもありましたが、子供か女性を葬った後、氏族の移住によって改葬された可能性がありますね。九州→畿内へと?。一瞬、石造の拝火壇の様な祭壇かとも考えましたが、構造上単に石壇ではなく、やはり石棺でしょう。後の可能性は、何か小動物の供犠を容れたのかも知れないというものです。祭祀用のニワトリとかカラスとか。
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しかし小動物供犠説でも、もし鳥禽類なら骨や羽の痕くらいが残っているはずだ。
副葬品が見つからなかった事からも、私は改葬を考えるべきだと思う。
そこで、次回の小論では、改葬の対象になった被葬者について、大胆な推理を展開してみることにした。