補遺17続の2(3)芭蕉周辺

天孫族考 補遺17続の2(3)

(猪名部族の後裔らしき)芭蕉とその周辺について

前文= 補遺17続の2(2)で、芭蕉が猪名者であろう事に言及した。しかしその周辺を考察すると、もう少し見えてきたものがある。つまり芭蕉の周辺人物と員弁の関わりの可能性である。

既に「奥の細道」に同行した河合曾良は伊勢長島藩に仕えていた時代に水路工事に携わった人=つまり猪名者である

可能性には触れたが、そのほかの俳人もしくは関係者についてである。

◯芭蕉の甥、松尾桃印について

「古代史研究」の補遺17続の2(2)へ以下の追加コメントをアップした。

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補足 芭蕉の大垣でのパトロンだった木因の因は員であり、員弁の出自を暗示すると述べた。

肝心の芭蕉のお膝元、神田上水の補修工事の仕上げの時に江戸へ呼び寄せた芭蕉の甥は俳号を桃印という。桃は伊賀の桃地氏に因むのは芭蕉=桃青の事で触れたが、甥の土木師である桃印の印こそ印南=員弁そのものである事は、繰り返し言及した通りである。なお桃印は芭蕉の妾と噂される寿貞と駆け落ちしてその間に二女をもうけた。この駆け落ちの失意が桃青をして深川の庵に隠棲した契機だというのが表向きの理由になっている。

芭蕉の江戸でのパトロンは杉山杉風だが彼は江戸城御用達の魚商・鯉屋であるが、生類憐みの令が施行されているのに潰れなかったのは、杉風も幕府の隠し目付だったろうと嵐山光三郎氏は示唆している。また芭蕉の周囲には、服部嵐雪など伊賀者も複数いた様だ。

猪名者は黒鍬者でもあるので、伊賀者同様に隠密の起用があったのである。

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桃印は芭蕉の兄の半左衛門の息子かと思っていたが、嵐山氏の著書などで半左衛門の息子ではなく、姉の出戻って来た時の連れ子で実家の半左衛門が家長として世話をしていたのだそうだ。松尾は無足の貧乏な家だったので、芭蕉が江戸へ引き取ったのだという。とはいえ、上水補修事業の手伝いに起用したのだから、半左衛門の下で、黒鍬の業の基本は教育されていたのであろう。俳号はあるが句を詠んだという形跡は無い。しかし本名の方は全く伝わらないのは、多数の弟子たちにも秘匿して居たとしか思えない。

(黒鍬は発注のあった業務に携わる時以外は無収入になる不安定な職だ。)

芭蕉は桃印を、将来何かの隠密仕事につかせる意図もあったのだろうか。

或いは単に養子にしようと思っていただけかも知れないが。しかし期待に反し、桃印は寿貞と駆け落ちし、戻ってきた時は、労咳を病んでいた。そして間もなく病死してしまう。寿貞は、芭蕉庵で留守居をしながら桃印との間の二女を育てていた。

一方芭蕉は、自分と知り合う前の寿貞の連れ子だった次郎右衛門を息子同様に扱い、旅にも同行している。

芭蕉の姉の子は婚家(藩の上士の家来=陪臣)の山岸家に男子二人がおり(こちらも芭蕉の甥になる)、後伊賀蕉門の弟子となって“半残”の俳号を名乗っている。

俳人に黒鍬者(猪名者)や伊賀者が多いのは、吟行などの名目で旅に出ることで目的を隠蔽し易かったからであろう。

◯ 京都の俳人・青木春澄

蕉門の俳人では無いが、芭蕉とも親交のあった京都の俳諧師に春澄がいる。春澄と言えば、平安前期に出た春澄善縄が猪名部造だとも言われて、猪名者であるかないかという話題に登場する人物だが、その名と同じである。

芭蕉と同時代の京都俳壇にあり、江戸に一時逗留して蕉門の俳諧師とも交流があったのが、その青木春澄(通称勝五郎、出家して貞悟)である。

俳諧の活動しか伝わらず、本業が何かは分かっていない。この時代著名な俳諧師は、連句会の“点者”(優劣の判定者)を務めて謝金を稼いでいた。

俳諧商人という言葉がある。(この言葉から、池波正太郎氏が「剣客商売」を連想したのではないかと私は想像している。)

しかし、そういう金を稼ぐ必要の無い(つまり本業が別にあり概して裕福な)人は、点者にはならずこれを“非点者”と言った。

春澄は著名な俳人であったが非点者だった。という事は何か生活費を稼ぐ実業を有していた筈だが、多くの句集に採用された句を残しながら、稼業の記録が見当たらない。

俳人としての春澄には、研究書も発表されている。

WEB上で読めるものは↓

https://books.google.co.jp/books?id=vbbD8YeqkFcC&pg=PA115&lpg=PA115&dq=%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%98%A5%E6%BE%84&source=bl&ots=rVPUhuhp6z&sig=ACfU3U03CLz3hOxhk58aAkvcCSG3OVUiYA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi_sZ27m8D1AhUDsVYBHcveAT4Q6AF6BAgGEAI

だが、こちらにも“家業は不明”とされている。

北村季吟とも交流があったが、松永貞徳の流を継承していると自称した。

出家後の俳号・貞悟はその観念からのものである。

ただ、春澄が、平安初期の文章博士・春澄善縄の名に因むと思しき以上、

①春澄が文章道の達人である事からの単なる憧憬での借名なのか?

②この青木勝五郎が実は猪名部の後裔に連なる者、例えば材木商だったり、宮大工の束ねだったりする事からの連想からなのか?

これについては、今のところ判定のヨスガが無いのである。

しかし、気になるのは、彼が桃青と句会を持ったのは、春澄の仙台行き〜松島詣での帰路であった事である。一応歌枕を訪ねたことになっている。

さりながら、その後芭蕉が仙台藩探索に出かけた(=奥の細道紀行)のは、偶然の事であるのか?

芭蕉が伊達領に入る前、仙台藩が命じられて従事していた日光東照宮の補修工事の行われている日光へ立ち寄っているのも、識者に依れば、黒鍬で大工業務にも知識のあったと目される芭蕉が、東照宮工事への手抜きが無いかを隠密裡の点検に行ったのだとする説もある。

この時期、仙台では、青葉城ではなく、市街地の南部に政宗の隠居所として造成した新屋敷を有していたが、これが城郭構造を有する事から、一国一城令に違背するのではないかとの疑いを幕閣は抱いていたと思われ、家光時代から綱吉まで何度かの隠密探索が行われた。

いわゆる若林城である。寛永13年に政宗が死去した後は、仙台城の二の丸をはじめ各所に多くの建物が移築されてまったため 、限られた期間のみ使用されたものと、公にはされている。

現在残っている城跡は堀を含んで東西420m、南北350mの規模を誇り、実に青葉城二の丸に匹敵する。だから本当に、政宗死後に建物が移築されて、城としての機能は無くなったのか? 単に伊達家の別邸になっていただけか?

これを幕閣は疑惑の目で見ていたのだ。もし伊達家謀反となれば、攻城軍は青葉城と背後の若林城の近接2城郭を攻めなければならなくなり、ただでさえ山城としての難攻不落を誇る青葉城と2正面作戦を強いられるからだ。

また松島の瑞巌寺も城郭としての機能を有していたという人も居る。

芭蕉の仙台訪問は明白にこの目的だったと言われる。だから、松島の後平泉に行くのだが、この道程から逸れた岩出山城(仙台に移る前の伊達家の居城)にも立ち寄っているのである。伊達領の探索後、あたふたと鳴子街道から峠越えして新庄に向かった。逃げるが如き態だったという。

だから春澄も実は黒鍬者に連なる者で、その仙台行きにも、隠密探索の任務に就いていたのかとも思えてきてしまう。ただ、春澄の俳諧活動は関西では相当活発であり、仙台行き以外に怪しい節が見当たらないので、私は目下の処は純粋の(?)俳諧師だった考えている。

しかし芭蕉もまた、稀代の俳人であり、短詩文学の頂点に立つ人でありながら、一方で猪名者であったのだから、表裏あっても、表面だけ見ている者には分からないのだ。芭蕉を俳聖と仰ぐ熱中者は、彼を猪名者とは認めないであろうし(上水の補修も単なる補修所の書記役だったとする)、また嵐山光三郎氏のツトに説くような衆道の人だという事も容認していない。

ところで、その青木春澄の家業は不明だが、その氏名である“青木”の方はどこにルーツがあるのか?

もっとも、日本人は木は青色だと感じていたので(青葉も青山もそうだが)何処でも青木という姓は成立しそうな素直な名ではある。しかし、系流としての青木氏は、大きく二つあるとされている。

A 武蔵七党武士団の一つ外秩父の丹党の青木氏。外秩父といっても、上州と武州の国境を成す神流川(カンナガワ)流域、地方名で言えば武蔵国児玉郡を本拠とした中世武士団である。鎌倉時代には勢威を誇ったが、南北朝時代に新田氏に付いた事で、室町時代に足利系に徹底的に叩かれ、

四散したという。山城や播磨などの関西に居る青木氏はこの丹党の流れを称する氏が多い。その後、そこから中国筋や九州にまで広がった。

ところでこの丹党の名は、古代氏族である多治比(丹比)氏の末裔で、履中天皇や宣化天皇に連なるなどというが、仮冒であろう。

信州の青木氏は2系あり、北信はこの丹党系と言われる。

B 甲州武田武士団である武川衆の青木氏。これは戦国時代に大活躍して、後世は徳川に仕えて幕臣となった。この系統は甲州と南信に広がっている。こちらには武田の黒鍬衆を配下に持つものがいた。

もっとも、BはAの後裔かも知れない。だから京都の青木春澄はこのAの方の系統かと思われる。

Aの神流川流域は神流石の産地でもあり、石工を輩出している。関東の砥石はやはりこの神流川流域に取れ、昭和時代まで東京の町に出職して来た研ぎ師にはこの流域出身者が多い。石工にも治水技術に通暁する人がいたから、青木氏の系流にもそういう人脈があったかも知れない。是非春澄の家業を知りたいものだ。

青木と言えば、甘薯の普及で有名な青木昆陽がいる。彼は吉宗時代の人で町民ながら博識を町奉行大岡忠相に買われて幕臣となり書物奉行を勤めた。

だが、この昆陽は何と日本橋小田原町の魚商・佃屋の倅である。小田原町の魚商といえば、芭蕉のパトロンだった杉山杉風が鯉屋という屋号で同業者だった。そういう環境に、青木春澄や、次に述べる山口素堂が集まって来たのである。春澄と、佃屋青木氏は無関係なのだろうか?

素堂も酒造業だが住まいは甲府の魚町であった。

海無し山梨で魚町というのは知らない人は不思議に思うかも知れない。だが古来甲州人は魚好きなのだ。鮪の消費量国内第二位(一位は静岡県)、寿司屋の密度も甲府は第一位(二位が金沢)。この為、東海道の吉原宿から甲府まで、「魚の道」と呼ばれた中道往還が通っていた。約20キロの道を馬の背に魚箱を振り分けに積んで急ぎ5時間。早朝駿河湾で獲れた魚が昼には甲府の店先に並んだ。(絵は明治期の想像図だが、半可通で、実際は“駿河の馬に積む為に

工夫された細身の茶箱”の古に熊笹などを敷き詰め生魚を入れて運んだのだ。)

甲府の魚町は肴問屋だけで5店もあり、江戸から詰めている甲府勤番侍なども上得意だった。(海人族と山部・員弁に交流回路があった事は、人麻呂が木工権頭になった古代の例がある事を補遺17本文で述べた。面白いのは、歌聖と言われる柿本人麻呂と俳聖の松尾芭蕉がともに猪名部との回路を持っていた事だ。)

◯芭蕉の俳友・山口素堂

蕉門ではないが、葛飾派の俳諧の創始者というのが、その甲州出身の山口素堂である。

というより、「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句の作者と言えば、そうか!それは名人だ、と誰もが納得するだろう。

嵐山光三郎氏の著書「悪党芭蕉」の中で、桃青の住んだ江戸日本橋小田原町界隈の先住者だった、と書かれている。その紹介は

>>素堂(山口信章。甲斐の素封家の子で、のち笛吹川堤防>>工事を監督した。水路専門家。)

とだけ短い。しかし、これもまた私の目には、笛吹川(実際にはその支流の濁川)の堤防工事を監督する(実際は後世山口堤と呼ばれる築堤をした)など、一介の素封家や俳諧師に治水の心得があったとするのはどう考えても無理が

あると思えてしまう。

今、出身地との噂のある北杜市(ここは母か妻の郷だったという説もある;

「南アルプスの天然水」の生産地である白州のある辺り)には県営の施設に「山口素堂資料室」も設けられている。

地元でどういう風に伝承されているかを見てみよう。

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素堂消息 『甲州俳人伝』 昭和七年四月、功刀亀内 著

 

寛永十九年五月五日北巨摩郡蓬莱村(×鳳来)に生る。

幼名重五郎。父を市左衛門(✖︎実際は市右衛門の誤り)

と呼び、

幼時一家甲府魚町に移転し、酒造業を営む。

父の死後襲名して市左衛門と改む。名は信章、字は子晋

又公商、

幼より風雅を好み、中年家を弟に譲り、

母と共に江戸に出て、官兵衛と改称し、東叡山下に寓居す。

茶を今日庵宗丹に学び、書を持明院に学び、和歌は清水谷家に受け、俳諧は京都北村季吟に師事し、其蘊奥を極む。

風流諸芸に通じ、交遊多く諸藩に出入りす。

屡火災に羅り、深川に庵を遷し、後葛飾安武の芭蕉庵の隣に住り。

葛飾風の一派を創め門葉多く、馬光、今日庵二世を継ぐ。

素堂母の心に違はんことを恐れ、終身娶らず。

元禄五年母の七十七秋七月七日賀筵を開く。黒露著『秋の七草』に任し。

(※「任し」は何と読むか?要は収載されている事か。或いは“任した”か)

元禄八年甲府代官桜井政能を援けて、甲府緑町に仮居して濁川を治水す。

時人之を徳として蓬沢村に、政能と共に其の生碑を建て

山口霊神と称す。

(桜井政能 享保十八年二月十四日歿、年八十二)

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元禄年間だから未だ綱吉治下であろうが、甲府石和の代官桜井氏に呼ばれて濁川に堤防を築いたのである。

甲州の「産業事蹟」には

「元禄中、田園変して池沼と為り、多く卿魚を産するに至る。(中略)元禄九年。政能新に渠道を通じ、土堤を築くこと二千百五十間、其広さ四五間より六七間に至る。以て濁川を導く。淳水一旦に排泄して田園悉く旧に復す」

とあるが、この治水工事を設計測量、現場監督まで山口がこなした。

酒造業の先代で、江戸に出て風雅の道に遊んでいる山口に、わざわざ築堤の依頼をするのである。桜井氏に、山口信章が「水路専門家」だと認識する何かの根拠があっての事だろう。(研究者の中には、素堂が江戸に出て、林春斎に師事して儒学を学び、その推薦で一時唐津藩に仕官したが直ぐに致仕した、とか、幕府ご普請組に仕官し一時組屋敷住まいだったなどという説もある。もし後者なら、土木技術者として認められていた事になるのだが。)

播磨の員弁の後裔を調べている時に、近世には酒造業者になっている者が複数いる事に気づいた。

小石川上水の水路造成に功のあった大久保藤五郎は菓子屋だが、家康は銘菓の製造には良い水が判る必要があるから、と言って藤五郎に諮問した事になっている。酒造業にも、米と麹のほかに良水の存在が不可欠である。

水は、地下水脈の専門家である猪名部〜黒鍬者にも必須の知識対象である。

通例田舎の酒造業者は、豪農が多い。これは普通の食糧米のほかに酒米を作らねばならない。年貢の分の作付けに余裕が無ければできない。また杜氏を賃雇用しなければならないし、多量の麹も購入しなければならない訳だから、資金的な余裕も必要である。だから豪農が副業として営んだ事例が多いのである。山口家が酒造業になる為の資金はどう調達したのか?

甲府の町人なら、全ての原料と酒倉建築にも金がかかったであろう。だから素封家には違いない。しかも素堂は、中年で引退し江戸に出て様々な芸事に精通した。師匠に払う謝金もかなりかかった事であろう。

貧乏人に初鰹を愛づる余裕はない。自分が啄木になってしまう。

山口信章がただの俳人だとはとても思えない。元は、信玄の黒鍬に由来する者では無かったろうか?

北巨摩郡など甲信国境地域には、武田の武士団のひとつ武川衆(むかわしゅう)が配されていた。武田が滅びた後は、家康に従い、旗本や甲府勤番衆や中には大名にまで出世した者も出た。柳沢吉保もこの武川衆の子孫である。

戦国末期には、信玄旗本以外は信玄の弟である信繁の配下に入り、川中島の戦いや真田家の上田城攻めなどに参加している。この配下には黒鍬が居たと思われ、山口家はその末裔なのではないだろうか?(白州に山口の字があり、現地ではここが素堂の出生地だとしている。)

但し武川衆の名簿には山口氏の姓は無いので、武川衆の各家の頭領ではないと思われる。或いは後世に土地名を氏名にしたのか。

(武川衆には金丸や甘利、青木など現代に繋がる氏名も多い。)

◯杉山杉風

日本橋小田原町の魚商鯉屋の主人だが、嵐山光三郎氏は、幕府御用達商人というが、町方への隠し目付のような存在では無いかと睨んでいる。

芭蕉+山口素堂+青木春澄が関係した小田原町の杉風の俳諧サロンというものは、本当に表の顔だけだったのか?

前述までの三者の関係を知れば、偶然の邂逅だとは信じられなくなる。

そもその杉風(名は市兵衛または藤左衛門)。父の杉山賢永(俳号仙風)が摂津の今津から江戸に出て魚屋になり御用商人にまでなったとされている。

(将軍が家光か家綱の時代であろう。)いくら江戸初期と言え、一代で御用商人になるというのは、並大抵のことでは無いだろう。誰かの引きがあるか?今津で祖父の代に余程の財をなしていたのか?のどちらかであろう。

今津では佃島漁民の如き徳川家との関係は見当たりそうに無いのだが。

摂津の今津も員弁に所縁の土地柄であり、祖父道有は材木関係の商売でもしていたのだろうか?

ともかくも、俳諧師と猪名者との関わりの回路について、今まで指摘した人がおらず、従って上記の様な疑問への回答の手がかりは無い。

ところで、山口素堂について調べていくうちに、

1)山口は松尾忠右衛門(桃青)よりも先に杉風の知己を得ていた

2)少し遅れて松尾が神田上水の補修監督として江戸に下り杉風の許に来た

という事は、杉山杉風は、既に山口信章が水路建設の専門家であるとの知識があったと思われる。しかし山口の起用ではなく、わざわざ伊賀から松尾を招請したのは、神田上水の補修が、山口の技を越える高度な技術を必要としていることにつき、恐らくその山口からの助言を受けていたのだろう。

山口の甲府の濁川補修工事でも単なる築堤だけでなく一部は暗渠(地下水路)も使われている。

だが実際に、補修後の神田上水は、後世の見沼代用水の建設にも使われた掛樋や伏せ越(潜り樋)といった高度な技術や、地下の樋水路などが駆使されている。お茶の水の神田川を越す掛樋などもこの時に出来たものと思われる。

つまり、松尾忠右衛門(桃青=芭蕉)の員弁としての治水土木技術は、それ程高度なものだったという事になるのだ。これは従来あまり重要視されては来なかった。また逆に山口素堂はこの芭蕉の神田上水工事の見学をしていた可能性はあり、それが甲府の水路工事に役立ったのかも知れない。

あくまでも想像の域を出ないのだが。

また謎なのは、この松尾忠右衛門(つまり津藩藤堂家の陪臣で俳人の宗房、後に桃青)を江戸へ招請したのは、本当は誰であったのか?という点である。神田上水の補修の責任者含みなのであり、幕閣の誰かが噛んでいないとあり得ないのでは無いだろうか?

杉山杉風が江戸の町年寄3人に推薦したのだとしても、町年寄の身分で藤堂家を動かす事はできない。(或いは、この工事後に、大阪西町奉行から江戸南町奉行に昇進した人:能勢出雲守頼相あたりではないかと想像しているのだが、確証は目下得られていない。能勢氏は旗本だが、戦国時代までは摂津の能勢の国人だった。能勢は古代は猪名部の活躍地だったからの想像である。杉山と能勢の間に、何らかの回路があった可能性がある。というのは、能勢頼相は、江戸以前もまた町奉行在任中も一貫して生類憐みの令の違反者取り締まりに関わっており、魚商の鯉屋杉山が黙認されたのは、この能勢との裏の関係があったからなのかも知れないのだ。何せ金魚の虐待で罰せられた時代である。なお杉山の旧郷摂津は大阪町奉行の管轄地である。)

また猪名部の一部から派生したと思われる木地師の場合、全国に散っていても、東近江の小椋谷にある筒井公文所、或いは高松御所と呼ぶ登録所の名簿に名前を記載していた。嫁取りや子の生誕があっても、直接もしくは伝手により名簿に追加登録して貰った。だから小椋谷に行けば、全国の木地師が何処にいるのかが把握出来たのだ。

修験者の場合は、勿論宗旨ごとに本山に名簿を差し出した。坊主名は本山〜末寺〜先達や触頭経由で伝授される形だった。

私たちが知らないだけで、猪名部にも、元来の出自系統別に、全国に散在する員弁や黒鍬者の名寄せをした寺社があったかも知れない。そこで情報を得れば仲間の居場所が分かるような仕組があったのかも知れないのだ。

また別の仮説として、伊賀者が上忍・中忍・下忍と分化した様に、猪名者も上員・中員・下員(仮名)という様に階層分化していた可能性はある。戦国武将の能勢頼一の子孫は江戸期には旗本能勢家として数家あったが、その中に黒鍬の頭領家(上員)がいたのではないか?こういう上級黒鍬系の中流旗本が関西方面なら能勢家、中山道方面なら青山家、-------という風に、地方別に統括する家があって、大型の土木工事が企画される時には、彼らが情報の交換をして、工事責任者の適任者探しをしたのではないか?とも考えた。各分国ごとの地域には、中員の小頭格がおり、例えば伊賀国なら藤堂玄蕃家などがあって、そこにはその地域の黒鍬者の人別情報が纏められていた、という様な具合である。能勢頭領家→出雲守頼相(大阪奉行)→ 藤堂玄蕃家→

家臣山岸家(芭蕉の姉の元婚家)→松尾家というような回路で、松尾忠右衛門の情報が、江戸の杉山杉風らに伝わる様な仕組みが出来ていたとしても不思議ではないだろう。

これらを考究すれば、修士論文程度は書けるのでは無いか?誰かが挑戦して明らかにしてくれることを期待する。

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