天孫族考 補遺19 再び「神社の祭神・由緒は信用すべきでない」という事
天孫族考 補遺19 再び「神社の祭神・由緒は信用すべきでない」という事
☆祭神の変質による祭祀氏族の変更と旧族の反抗
◯鹿島神社の在陸奥末社の反抗
平安の初期、仁明天皇嘉祥元年(848年)、陸奥にある鹿島神社の末社38社が、本宮である鹿島にある鹿島神宮の奉幣を拒否して、奉幣使の陸奥への入国さえ拒否するという、不思議な事件が起こった。
これは、当時東国で疫病が流行り、それが神の祟りだとして、鹿島神宮の神官である中臣某が、末社へ奉幣して共に祈りをあげる事を呼びかけたが、末社側に拒否された、という事態である。中心は磐城郡の鹿島神社十一社である。
写真は磐城小名浜の鹿島神社
大和岩雄氏の「日本古代王権試論」“古代王権と東国”では、これを詳しく解説しておられた。
少し長くなるが引用する。
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鹿島の苗裔神三十八社が陸奥にあることを記した「三代実録」の記事は、続けて、
聞古老云。延暦以往、割 大神封物、奉幣彼神社、弘仁而置、絶而不奉。由、是諸神為、崇、物性是繁、 嘉祥元年請・当国移状、奉幣向、彼、而陸奥国称、無旧例、不聴、入関、宮司等於 関外河辺、祓幣物 而帰、 自後神崇不止、境内早疫。望請下知彼国、聴、出入関 、奉幣諸社、以解神怒、其幣料用 大神封物
と記す。
なぜ陸奥の鹿島社に対する常陸の鹿島社の奉幣を、旧例にないといって関を閉ざして拒否するのか。
陸奥の三十八社の鹿島社のうち十一社は磐城郡にあることからして、拒否の中心になったのは、磐城郡の於保磐城臣らであろう。なぜ彼らは、常陸の鹿島大神の奉幣をことわったのであろうか。
春日神社の創建についてははっきりしないが、神護景雲二(七六八)年に、常陸の鹿島神宮の祭神タケミカツチを、大和の春日の地に遷座したときをもって創建とするのが、通説である。鹿島神宮の文書でも、神護景雲二年に大和へ遷幸したタケミカツチの神が、大和からまた戻って大同二(八〇七)年に現在の鹿島の地に遷座したとある。
「三代実録」の記事によれば、奉幣をことわられた鹿島大神が崇ったのでなく、「諸神為、崇」とあることから して、陸奥の三十八社が祟ったのである。その時期は弘仁年間(八一〇〜八二四)である。大和の春日神社のタケミカツチノ神を常陸の鹿島大神として祭るようになってから、祟っているのである。嘉祥元(八四八)年になっ て、その祟りを封じようとして陸奥へ奉幣に向うが、旧例にないと言われて関を閉じられたので、しかたなく関外の河辺で奉幣して帰ったが祟りは止まず、「境内早疫」というひどい状態になってしまったとある。もし陸奥の 鹿島社への奉幣を絶ったために祟ったとすれば(そのような意味に書いているが)、奉幣の使が来れば、「旧例に無いと称」して、「関に入るを聴入れず」などということはあるまい。奉幣こそ旧例だから、よろこんで入れるはずである。
「旧例にない」といった言外には、かつての常陸の鹿島の大神は、陸奥の鹿島社と同じタケミカツチであったのが、このたびの鹿島の大神は、大和の春日神社のタケミカツチ神であるから、変質した神の奉幣を「旧例にない」といってことわったのであろう。
つまりタケミカツチを祭る鹿島神宮と称しても、陸奥の鹿島社からみれば、本来の甕の神が春日社風タケミカツチに変質しているのだから、ことわるのは当然なのである。勝手に鹿島の神を大和の春日へもっていき、更に春日の神を鹿島の神と称して、陸奥の鹿島社へ押しつけようとすることに対する抵抗である。
その中心に、鹿島社が十一社も所在する磐城郡の於保磐城臣がいたように、同じオホ臣系の那珂国造も、自分たちが祭っていた鹿島神宮の変質に抵抗している。
陸奥国へ入れるよう「彼国」へ「下知」してほしいという、鹿島神宮の宮司の言を載せた「日本三代実録」は、 つづいてこのように記す。
又言、鹿島太神宮惣六箇院、二十年間一加修造、所用材五万余枝、工夫十六万九千余人、料稲十八万二千 余束、採造、宮材之山在那珂郡、去宮二百余里、行路嶮峻、挽運多煩、伏見、造、宮材木多用 栗樹、 此樹易栽、亦復早長、宮辺閑地、且栽栗樹五千七百株価樹三十四万株、望請付神宮司 、令加殖兼斎守、 太政宮処分、依請。
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最後の段は、従来の宮の補修材は那珂国造の領地の山林から提供されたが、これが拒否される様になったので、鹿島神宮の近くに成長の早い栗の木を植える事を太政官に奏請しているのである。
この様に東国経略の中心軍団になった多臣系の国造達から総スカンを食らっているのだ。
武甕槌神が武御雷神に変わってしまい、(実は宮地も行方郡の大生里から鹿島郡の今の鹿島神宮の場所へ遷座したのだが、その時に)宮司も、鹿島中臣氏から、恐らく春日社を祀る畿内の中臣氏が赴任して来たのかと考えられる。
鹿島中臣氏は、多氏の東方経略の従軍卜占師であると同時に、優秀な将校でもあったと考えられる。畿内の中臣氏は、つまり藤原氏の分流であり、後に大中臣氏となり神祇伯に任じられる家筋である。
この事件の背景には、春日大社が(権力の中枢にいた)藤原氏の氏神とされ、大和氏が指摘された様に、春日大社の主神に武御雷が据えられた。それは、日本書紀に於いて、出雲族からの国譲りに活躍した神とされたのである。
春日大社の伝承では、武御雷神は鹿島から神鹿に乗って大和の春日野に遷座した事になっている。
春日神社は元来、ここ春日野;大和への入り口である奈良坂を守護する為に春日氏(和邇系海人族の宗家であり、恐らく宮廷の日神祭祀の神主でもあった)が置かれ、その祖神を祀っていたものであった筈だ。
春日氏と同祖同族であるという多氏が、東国経略の為常陸に進出させられ、そこに祭祀したのが武甕槌神とその子とされる(東国征服の伝説的祖神である)建借間命= 建鹿島命である。これを行方郡の大生郷で、東国多臣の頭領格の
那珂国造が中心に祀ったのが、元来の鹿島神社なのである。
この鹿島というのは、多氏の原郷である肥前鹿島に同名の地があり、中九州に有明海から豊予海峡まで、ベルト状に展開した多氏族の中で、神功皇后の東征後、いわゆる“倭の五王”の河内王朝時代に、東国経略に投入されたのは肥前の多氏水軍であったと考えられている。何故なら、常陸鹿島の多氏が蝦夷との戦いの際には、杵島曲(キジマウタ)を歌い踊ったとの記事が、風土記などに散見されるからだ。杵島曲とは肥前の杵島岳に因む郷土歌謡であり、酒宴に際してそれを歌うというのは、この鹿島の多氏の出自を物語っている。無論、この鹿島は、多氏の海人族としての性格や最初の渡来地に関わると思われる筑紫の志賀島に因むものであり、志賀島→鹿島だと言われて来たのである。
そしてそれは志賀島に、鹿が寄って来た地があり、鹿を海神の使いと見ての連想だとも説明されて来た。
一方で、常陸の鹿島の方は、霞ヶ浦や北浦などの古代の鹿島の内海が香ノ海と呼ばれ、香ノ海とは神ノ海で鹿島は神島でもあるという語源説もあった。
しかし、今整理して考えれば、この鹿島や香ノ海とは、祭神たる武甕槌に関わるものだったのではないか?と思い当たる。
◯鹿島(志賀島)の由来は甕島では無いのか?
古代人は、甕(ミカとはカメでもある)に呪術的な意味合い、魔力を感じていたと思われる。
即ち、災いを吸い込んで封じる力があるという信仰があり、部族間の勢力の境界に埋めて頭環だけを出しておき、そこを境目とした。
また村落のはずれに埋めて、外界から災禍が村に入らぬ様にした例もあるようだ。奈良の外周の北側に当たる山城と大和の国界の地は、瓶原と言いかつては奈良へ悪神が入らぬ様に、甕を埋めた所である。(瓶原の事は後述)
更にこの延長上の観念で、海路においても、航海の難所には、龍神の災いを封じるために、島の狭小な瀬戸の底に甕を沈めて、そこに龍神を入れ籠める呪法が行われた。海人族が、甕の呪力を奉斎した地点が甕島である。
処で海人族は、製塩に於いても、鉄製の塩釜が普及する前は、煮詰めた海水の容れ物に甕を用いた。また天日製塩で得た塩も当然甕で保存する。
この製塩の際にこぼれ落ちた塩分が砂に染み込んだのが塩土であり、この塩土の存在はまた海人族の痕跡である。その神格化が塩土老翁(シオツチノオジ)で、しばしば海神や住吉神と習合した。
そして海人の製塩場の塩土を求めて鹿が集まる。だから甕島は鹿島になるのだと考えられる。
そして鹿島の神は、綿津見の神でありながら、武甕槌ノ神になるのだ。
◯大和の北側に接する木津川沿岸の盆地・瓶原(ミカノハラ)について
百人一首には中納言藤原兼輔(紫式部の曽祖父)の歌、
みかの原 わきて流るる 泉川
いつ見きとてか 恋しかるらむ
(『新古今集』恋・996)
があり、瓶原(ミカノハラ)はこの歌で後世にも有名である。
この地は、ちょうど春日神社の奥山の森林地帯や三笠山の北側に当たり、木津川(これを古代に泉川と呼んだ)の流れている盆地である。平城京への北側からの進入経路なので、ここに魔除けの甕が埋められていたのは当然であった。
しかし、この地は聖武天皇の御世に遷都対象先である恭仁京の建都の地になったが、完全なる完成を見ずして更に東の紫香楽宮に遷都された。
その後、都が奈良に戻ってから、山城の国分寺の建設地となっている。
現在では、恭仁京跡と山城国分寺跡の両方の碑が立っている。
後世にその丁度北の山地に開創された海住山寺からの眺望では、木津川を挟む小盆地が、その瓶原だった事がよく分かる。
瓶原から見て南に、三笠山が奈良の青垣として聳える様子も分かる。三笠山の方は、これまた
天の原ふりさけ見れば春日なる
三笠の山に出し月かも
と歌に読まれている。そこは、仁徳天皇皇后の磐之姫の陵墓の地でもある。
◯春日神社は御蓋山からの日辰を奉斎するだけでなく奈良坂を守った
春日神社は、三笠山からの日昇を祭祀した神社でもあるが、同時に、東からの奈良坂と瓶原からの北側の山越えで奈良盆地に侵入してくる敵性の賊を遮る為の呪術的な意味合いを持っていたと考えられる。だからこそ堺の神である武甕槌を主神としていたのである。そしてそれは海人族の和邇の春日氏から見れば、筑前の志賀島以来のワダツミでもあったのだ。
だから、春日神社が、藤原氏の氏神社として、権力に接収された後に、その境内外に新たに春日若宮が設けられたのである。若宮は、天孫族考の海人族についての補遺で詳述した様に、春日氏の元来の祖神であるワダツミを祀るものであった。神統譜などには幾つかの武御雷神の子神があるかに見えるが、春日若宮の祭神は一応、天押雲根命とされている。
春日大社の由緒説明には、以下の様に記載されている。
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春日大社の摂社である若宮の御祭神は、大宮(本社)の第三殿天児屋根命と第四殿比売神の御子神であり、その御名を天押雲根命と申し上げます。
平安時代の中頃、長保五年(1003年)旧暦三月三日、第四殿に神秘な御姿で御出現になり、当初は母神の御殿内に、その後は暫らく第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られ、水徳の神と仰がれていました。
長承年間には長年にわたる大雨洪水により飢饉が相次ぎ、天下に疫病が蔓延したので、時の関白藤原忠通公が万民救済の為若宮の御霊威にすがり、保延元年(1135年)旧暦二月二十七日、現在地に大宮(本社)と同じ規模の壮麗な神殿
を造営しました。若宮の御神助を願い、翌年(1136年)旧暦九月十七日、春日野に御神霊をお迎えして丁重なる祭礼を奉仕したのが、おん祭の始まりです。
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として、高名な「春日若宮おん祭り」の始源譚にもなっている。
これを解釈すれば、平安中期に大雨や洪水と疫病が相続き、春日の第四殿に出現したという若宮の霊の祟りと考えて、その鎮魂の為に若宮神社を大々的に造営したという事なのだ。何故、若宮が祟ったかというと、当然ながら、
本来の春日神社の祭神であるワダツミを差し置き、藤原氏が勝手に春日大社をでっち上げたので祟ったのだと、氏の長者である関白忠通が感じ取ったのであろうか。そこで別社を建てたのであろう。
ワダツミは時に海童とも書くように、しばしば童形の神と看做されていた。
そこで、海人族について論じた時に触れたように、「春日若宮おん祭り」では磯良舞が舞われている。
しかし、そういう抵抗や摩擦があるかも知れないのに、何故敢えて、藤原氏は春日神社を接収したのだろうか。春日神社の地でなくても、藤原氏の権力をもってすれば、山辺の道沿いにほかの地を選んで氏神社や氏寺を建てる事が出来たのでは無いかと思えてしまう。しかし、それでは駄目で、どうしても、春日神社の地である必要性があったのだ。
◯春日神社が何故藤原氏の氏神として接収されたのか
それは草壁皇子の佩刀であった黒作懸佩刀(クロヅクリ カケハキのタチ)を納める秘所とする為だったのだ。
何故春日社なのかと言えば、春日野が大和における日下辺であるからだ。
日下に因む草壁皇子は日並の神子と称され、日神の申し子なのである。
だから、その佩刀は、日下奉斎の神官である春日氏の祀る春日神社が最適であったのだ。そしてそこは、春日氏の配下の下級神職でもあった中臣氏出自の藤原氏にも所縁の深い聖所であったろう。
そして、春日大社の第二神は刀剣の神霊である経津主神とされた。これは草壁皇子の佩刀を経津主に習合視したのである。
どうしてそこまでその太刀を聖視したのかといえば、この黒作太刀が単に草壁皇子の身に帯びていたものというだけでなく、持統帝が藤原不比等に手渡した秘刀でもあるからだ。無論不比等は春日神社を接収して自家の氏神としたのだが、何故そうしたのか?と言えば、それは不比等が女帝の内意を受けて、草壁皇子亡き後の皇嗣候補にしたかった皇孫珂瑠皇子(後の文武天皇)の最大の対抗馬となる高市皇子の暗殺を実行するのに使用した凶器だったから、その太刀を秘蔵する必要があったのだ、という伝承がある。
だから本来春日氏の氏神だった春日神社を強引にも接収したのである。
何故皇子草壁はその名を与えられたかと言えば、母君である持統女帝は名が示す様に、鵜野の讃良で育った。そこは河内の日下(草香)の隣接地だった。
幼時に鵜野讃良皇女は、河内王朝の王統にとって草香の地の重要性を何度も聞かされていた事だろう。
だから、天照の直系を意識する持統女帝にとって、草壁以外に皇統を渡す訳には行かなかったのであろう。(対抗馬の大津皇子も反乱の疑いをかけて殺してしまう。)
一方、この秘密の太刀がある限り、皇統を護った藤原氏の存在を、王家は無視できないのである。
歴史は繰り返され、文武の息子である聖武の時代、高市皇子の子息の長屋王が、藤原四兄弟の攻撃で自死させられた。(この時、大臣相当にまで出世していた大伴旅人が、太宰の帥に左遷されていたのは有名である。また柿本人麻呂が宮廷から追放されたのは、長屋王襲撃を嘆く歌を詠んだ為だという。)
これが春日大社の祭神が、そして連動して鹿島神宮の祭神までも変えられてしまった顛末である。
この様に、古代に祭神が政治権力によって変更になった事態は、必ずしも一つではなかったと思われる。
これと前後して、宇佐神宮の祭神と主宰者が、中央権力によって変えられた事件があった。
◯正八幡宮とは? では、偽八幡もあるのか?
東京の文京区と新宿区はほぼ目白台に沿って流れる神田川を境にしている。
江戸川橋を北に渡り、目白通りを西北にだらだらと登って行くと、右側に石段がありその上に関口八幡という通称の「正八幡宮」がある。
早稲田の学生だった頃、目白台の旧肥後細川侯の屋敷跡(今は永青文庫になっている所とその北側の和敬塾一帯は昔、高田老松町と言った、その)付近に足を伸ばした事がある。
その時に、「正八幡」というのは何故か?不思議に思ったものである。正というからには正でないもの=偽八幡もあるのだろうか、と。
明治以降は、正八幡も、宇佐〜石清水系八幡も全て、祭神は誉田別尊つまりは応神天皇とされているので、一見違いが分からないのである。
また明治以前にも、正八幡系に対して、宇佐〜石清水系も自分達も正八幡宮だと言い始めていたので、謂れを知らない人間には、何の事やら分からぬのである。
で、ここでいう正八幡宮とは、元来は(明治以降、鹿児島神宮と呼ばれた)鹿児島県の国分にあった八幡宮神社の事なのである。そしてこの全国の末社が、それぞれ正八幡宮を名乗ったのだ。
勿論その真意は、正八幡宮こそが真正の八幡社であって、宇佐〜石清水系の八幡は偽八幡だという意味合いなのである。
どうしてこんな事態が生じたのか?
事は、遥か奈良時代に遡る。
宇佐八幡の神託などがあり、八幡神は応神天皇となって具現したという観念が芽生えた頃、大和政権は、王家の祖神の祭祀の為に、従来の宇佐で神社を祭祀していた(秦氏系)の神職に加えて、中央から大神氏の神官を派遣した。
大神氏は、三輪山を祭祀していた大三輪氏の一族である。
この為、宇佐現地では、宇佐神宮の運営権を巡って、元来の神職である辛島氏と新参ながら朝廷の権威を背景にした大神氏との間に、争乱が生じたようである。辛島氏の、辛というのは加羅や韓の事なので、半島渡来の秦氏系である。
そして奈良時代8世紀の始めに約20年間に亘って、南九州で隼人の乱が頻発する。これは律令の時代になって、公地公民班田収授制を適用しようとする中央政権に対して、元々の有力者の墾田私有制に拘泥する隼人の頭が、土地
と隷属民を取り上げられる事への反抗だったとされる。
特に養老3〜4年の反乱は大規模だった。大隅や日向などの南九州の国衙の兵や太宰府の兵員では不足であったと思われ、中央政権から征隼人の派遣軍の将軍が任命された。
“朝廷は養老四年三月、中納言大伴宿禰旅人を征隼人持節大将軍とし、授刀助 (授刀寮の役人)笠朝臣御室と民部少輔巨勢朝臣真人を副将軍として、二年がかりで平定”に当たった。隼人の斬首・捕虜が合わせて千四百人にものぼったという。
万葉集や令和の年号の由来の梅花の宴でも有名な大伴旅人が、実戦で活躍した記録でもある。
この時は、太宰府治下の豊前以南の国司たちまでが参戦させられた。
隼人の反乱鎮圧には、宇佐の秦氏の兵員も徴募された。禰宜である辛島勝も、宇佐の神輿を担がせて参戦している。
こういう情勢を背景に、朝廷は辛島氏に対し、薩摩の国分にその部族200人を率いて屯田移住する事を命じた。
これは無論対隼人政策であったが、同時に宇佐神宮の神職組織から辛島氏の勢力を削ぐという、大神氏の意見具申に沿うものでもあった。つまり朝廷側には宇佐の神託を、政権に都合がいい様にコントロールしようとする意図があったものと思われる。
この結果、辛島氏が薩摩に移住して来たのだが、そこで辛島氏が創建したのが、正八幡宮なのである。
即ちその心は、大神氏に牛耳られるようになった宇佐八幡は最早真の八幡宮ではなく、古来から祭祀して来た辛島氏の建てた鹿児島国分の八幡こそが、真正の八幡宮=正八幡だという主張なのである。
そして正八幡では、祭神は品陀別尊であり、それは天竺から震旦(中国)を経て、仏陀の係累である品陀菩薩が東支那海から南九州に渡来して鹿児島に鎮まった。その霊が神功皇后の腹に宿った品陀別つまり応神天皇だという説を唱えたのである。そしてその後各地に正八幡が勧請されていった。
この為、宇佐側は慌てたと見える。鹿児島に工作団を派遣したのである。
◯十三塚原の伝承
今鹿児島空港のある台地上に、13基の塚が数十メートルの間隔をおいて並んでいることから十三塚原と名付けられた原野がある。
この十三塚の由来について、次のような伝説がある。
「かつて国分八幡神社(鹿児島神宮)と宇佐八幡神社(宇佐神宮)の間でどちらが正統の八幡宮であるか論争があった。1132年(長承元年)あるいは1527年(大永7年)11月、宇佐八幡の神官14名が鹿児島を訪れ国分八幡の古文書を調査し、正統性は疑わしいとして社に火をかけた。ところがこの火災の煙が「正八幡宮」の文字を示したことから神官たちは驚きあわてて逃げ帰ろうとした。逃げる途中、台地上の大木の下で休んでいたところ、木が倒れて下敷きとなり13名が死亡、残された1名も宇佐八幡に戻って顛末を報告するとともに死亡した。この死者たちのために13基の塚が建てられたという。“
全く国分八幡側によって作られた伝説であろう。しかし、宇佐側も困却したと見え、その後宇佐も、そこから勧請した畿内の石清水八幡宮も、自分達側が正しい八幡だとして、宇佐正八幡とか石清水正八幡などと唱えたりもした
のである。
また一方で、宇佐では早くから神仏習合が進行しており、隼人の乱の最中に犠牲者の祟りを逃れる為に放生会が行われるようになった。放生会は全く仏教の考えに基づくものだ。既に奈良時代に宇佐では虚空蔵寺と法鏡寺の二つの寺院の存在が確認されている。更に宇佐の神宮境内に神宮寺として弥勒寺が開創されている。そしてそういう時代には虚空蔵寺が別当寺となり宇佐の社寺全体を統括していた。
(八幡宮は、勧請された各地でも寺院の支配下に入る。石清水もそうだし、鎌倉の八幡も鶴岡八幡宮寺であり、寺院
であった。実朝を境内で暗殺した兄頼家の息子である公暁は当時八幡宮寺の別当職にあったのである。余談ながら、2022年のNHK大河ドラマでは、伊豆山権現は、神社でなく僧侶によって運営される寺院であると正しく描写していたが、これから登場する鶴岡八幡はどう扱われるだろうか?正しく八幡宮寺として登場するだろうか?)
この様に、中世に至るまで、祭神と祭祀の正当性を巡る争乱は各地に残る。
特に中世神仏習合が進み、神社の運営が僧侶(社僧)中心になると、その別当寺の宗派の違いによって、祭神やその本地仏の解釈に異同も生じる事になる。
かつて私は、天孫族考の補遺で、神社の縁起をそのまま信じてはいけない事を説いたのだが、この様な類の最たる例が秋葉信仰を巡る祭神の改変の問題である。
◯秋葉信仰の改変 廃仏毀釈の一例
Facebookの古代史研究のサークル内の書き込みでも、いつぞや秋葉山に登山して、秋葉山神社境内の荘厳に感じ入ったという人がいたようだ。
だがこの秋葉神社なるものは、明治以前には秋葉山には無かったものなのである。
秋葉信仰が各地に広まるに連れて、名古屋辺りから関東までの各所に秋葉社の社祠が作られたが、それらを管掌していたのは当地の秋葉衆徒である修験なのである。
秋葉山信仰とは、遠州の浜松北方にある秋葉寺に対する信仰である。
秋葉寺は江戸期には曹洞宗の可睡斎の末寺になっていた。中世には真言宗豊山派の修験道場であったが、徳川家康が遠州を領有して浜松城に進出した時に、可睡斎の第11代住職仙隣等膳が、家康により「東海の大僧録」に任じられた事から、秋葉山寺も可睡斎の末寺とされたのである。
可睡斎は本来は萬松山東陽軒という寺院だった。
その時の住職・仙隣等膳は修行時代に駿府の臨済寺で、今川義元の人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)の教育を受け持ったことがあった。浜松城主となった家康はその時の恩を忘れず、旧交を温めるために等膳和尚を城に招いた。ところが道中の疲れもあり、当時を懐かしむ話をしている最中に、和尚は居眠りを始めてしまった。その様子を見た家康は「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚 、眠るべし」と言い、以来和尚は「可睡和尚」と呼ばれたことから、東陽軒であった寺の名も可睡斎となった。
秋葉寺は南北朝時代までは天台宗に属していた。しかし、浜北の地侍である井伊氏とともに南朝方に立って、守護の今川氏に敵対した。南北朝合一の後、新義真言宗に転宗したが、本山の根来寺が秀吉により壊滅させられた後は長谷寺を仮本山として豊山派になっていた。しかし室町期に今川氏の目を憚り曹洞宗を仮冒していた事がある。この為、浜松城に家康が来て可睡斎が大僧録司になった時に、可睡斎末寺にされてしまったのである。
そこで袋井の可睡斎から秋葉寺の運営に禅僧が派遣されたが、秋葉寺の大衆は殆どが修験者だったので、結局修法は豊山派のもののままとなり、あたかも曹洞宗と新義真言宗の兼宗の寺となったのである。
一方、秋葉寺のご利益が火防であるのは、本尊の聖観音菩薩が水防火防の霊験を持つ仏だからである。そこにいつの頃からか、戸隠に由来を持ち、越後から伝説の天狗である三尺坊が飛来して、秋葉山寺の護り神となった。
そしてこの三尺坊権現が専ら火防神とされたのである。天狗であるので手に羽団扇=葉団扇を持つが、その形が秋葉つまり五肢の紅葉である事から、秋葉寺の寺紋は紅葉である。
江戸時代に各地に作られた秋葉信仰の社祠は秋葉権現つまり三尺坊を祀るものだった。従って、正確には(神道でいう)神社ではない。つまり江戸期には「秋葉社」はあっても「秋葉神社」はなかったのである。
この様に、神道にないのに擬神社だったものに、天満宮・氷川社・日吉社・八幡社・稲荷社・白山社などがある。
庶民は、神道についての理解が乏しいので、あたかもそれらも神社であるかの様に思っていたが、それらは江戸期
には僧侶や修験が管理していた“寺院”なのである。
(明治以降の神仏分離その後の廃仏毀釈の騒動下に、それらの寺院の境内社・運用社宮は全て◯◯神社となったのである。そしてその時、神道に合わないもしくは神統譜に載らない祭神は変更されてしまうのである。)
有名な八坂神社もそうであり、江戸時代までは祇園社は祇園感神院という寺院であり、延暦寺の末寺であった。しかし中世以来その社僧別当は紀氏の一族が相伝していた。
慶応4年(9月に年初に遡って明治元年に改元)の神仏混淆禁止、神仏分離により感神院は廃寺とされ、名称も「祇園感神院」から「八坂神社」へと改められたのである。室町時代には延暦寺の支配が弱まり、代わって京都の町衆が旦那となって寺院の経済を維持して来た。これが八坂神社になっても継続され、祇園祭にも反映されているのである。
こういう明治期の動乱の時に、劇的に変化の嵐を蒙ったのが秋葉社である。
秋葉寺は、明治5年に、廃仏毀釈の運動に乗じた;地元森町の遠州一之宮である小国神社の神職であった鈴木重友と、それに唆されて還俗した6人の“脱走法師”によって突如打ち壊されてしまった。
これにより全ての堂宇と門前の宿坊などが廃墟と化したのである。
この暴挙は、明治4年夏の廃藩置県後であったので、新政府の修験道弾圧の方針に沿うものとして咎められる事がなかった。当時の浜松県令林厚徳も平田派共鳴者だったのではないかと言われる。
鈴木重友は、名も小國重友に改め、この後、その脱走坊主とともに、秋葉寺の廃墟跡の山上に秋葉神社を建ててその祠官・神職となったのである。
そして祭神を神統譜に載る火神という火迦具土神に変えた。しかし、本来の秋葉衆徒達は、「火迦具土神は母神の伊邪那美を焼き殺した不孝の悪神であり、火防の霊験などはあり得ない!」と嘲笑したのである。
この時、三尺坊のご神体は、衆徒によって持ち出され本山の可睡斎に安置された。可睡斎の本坊の左方に大きく構えられた御真殿こそが三尺坊の祀られる堂宇である。
しかし、修験を恐れた明治政府によって修験禁止令が出されたので、本来の秋葉衆徒は還俗したままになった。(私の高祖父の従兄もそこに含まれる。)
この後、修験禁止令が解かれたのは、太平洋戦争敗戦の後の信教の自由の時代になってからである。
従って、この様な事情を知る者からすれば、申し訳ないが、明治以降でっちあげられた“秋葉山神社”の“神域”で、その霊威に感動することなど出来ない。
では、鈴木重友は何故そういう過激な行動に出たのか?
小国神社は江戸期には、各地の神社がそうである様に、別当寺の僧侶の支配下に置かれていた。小国神社の別当寺は同じ森町にある天台宗蓮増院だった
が、境内に神宮寺蓮華寺が置かれて、江戸中期以来、神社の神職と寺僧との折り合いが悪かった。
これは、江戸中期になると、東海道筋を中心に国学の学習が流行しており、神仏習合への反発が、古社の神職達から鬱没として生起したのだ。
この中心的な動きが、畿内では石清水八幡宮寺であり、そこの神職が尊皇攘夷に染まって全国の神職に檄を飛ばした。蛤御門の変の時に、石清水八幡が長州の尊攘派の激発本拠になったのは有名である。
鈴木重友は掛川藩在の伊達方村大庄屋だった学者・石川依平の門下となって国学を学んだ。遠州は賀茂真淵が出た浜松も含めて、甚だ国学が盛行した。
その学習の中心になったのが、古社の神職達だった。
(実は、私の高祖父も商人ながら石川依平門下の一人である。)
依平自体は、自らが庄屋職であり豪農であったので、決して平田神道の様な過激な廃仏主義者ではなかった。
しかし、浜松を中心にした西遠州では、平田神道が浸透して行った。
これらの過激な尊攘派の国学の徒は、維新の動乱に際して、遠州報国隊という、いわゆる草莽隊を作り、隣の駿州赤心隊などと連携して官軍に加わるのである。彼らは、長州部隊に参加して、江戸まで行軍し、上野寛永寺の彰義隊戦役や、彰義隊残党との飯能戦争にも参軍した。大村益次郎の指揮下での戦闘である。
鈴木重友も遠州報国隊に参加したようである。(これは石川同門の曽祖父が同じ門下の友人から聞いた話だと祖父が言っていたという。文献では確認できていない。)
こうして遠州報国隊は官軍内で一定の評価を得たのだが、いざ新政府が出来ると、藩閥に属さない為に、お役ご免になってしまう。
ところがである、皮肉なことに、彼らの出身地である遠江・駿河は、徳川の宗家の後継者となった田安昭武が駿府藩主に封じられ、江戸から旧旗本や御家人などの幕臣が多數移住して来たのである。この為、徳川に反抗した草莽隊への風当たりは強く、赤心隊のリーダー格であった三保神社の神官は清水に帰ったところで、(恐らくは静岡藩士に)殺されてしまうという事件が起こる。こうなると遠州報国隊や駿州赤心隊の参加者は、地元では隠れ住まわなければならなくなってしまった。
そこで、やむなく故郷を捨てて東京に出る者が多くいた。これを見かねたのが、官軍で仮に所属した長州隊の大村益次郎で、参議の木戸孝允に相談して東京九段に、戊辰戦争で犠牲になった官軍兵卒を弔う為の神社を建立した。
東京招魂社である。そして駿遠の草莽隊の連中の基は神職であったから、その招魂社の神職に雇い入れたのである。これが発展して後に“靖国神社”となるのである。
廃藩置県で静岡藩がなくなり、鈴木重友は遠州に戻り、先述の如く、秋葉山の襲撃を実行するのである。
同じ遠州の鈴木姓だが、祖父がその親(私の曽祖父)に聞いた処では、「あちらは森町鈴木氏と言って、(遠州には三河の鈴木氏の流れもあるが、三河系ではなく、元は秋葉系だった筈だが)遠州鈴木の本流が南朝側に立った時に、
今川方=北朝系になって守護に恭順した連中だ」という事である。※重の通字を用いるのは三河の鈴木に多い。
(私の友人にも、テレビ制作会社を経営していた森町鈴木氏の出身者がいる。)
ところで私はこの鈴木重友という人を非難しようとしているのではない。
彼の行為は、彼の国学学習の結果であり、それによって形成された信念に基づくものである。彼は、自分の行為が正しい事と信じていたに違いない。
それは廃仏毀釈に駆り立てられた各地の人々にも共通した時代の熱情とも言えるものだったろう。後知恵で言うことは出来るが、果たしてその同時代に、正邪の区別が出来たであろうか。
(しかし、後世の私の目から見て、廃仏毀釈は間違った行為だったと考えている。その結果、我が国の宗教は国家神道に染まり、明治中期には、新政府も行き過ぎに気付いて仏教を再承認したのだが、それでも主神従仏の態度は終戦まで継続された。神道には、仏教の様な哲学が無かったので、結果的に、我が国の民衆は、祭神の何たるかも考えずに、盲目的に神社に詣でるという実際上は無宗教に等しい精神的な風土に陥ってしまったのである。これがもたらしたのは、畢竟、倫理観の欠如である。仏罰神罰を恐れる事が喪失し何でもやってしまう現代の風潮にまで至っている。これは、明治の廃仏毀釈の結果だったと、私は考えるのだ。)
ここまで、秋葉信仰について述べてきたので、江戸〜東京の“秋葉神社”についても論じておこう。
◯秋葉原と“秋葉神社”
東京で秋葉神社といえば、誰しも外神田の秋葉原駅付近にあった秋葉神社を思い浮かべる。この神社が明治二十一年に、 入谷(松が谷)に遷座したのは、この今の秋葉原地域に新たな鉄道駅ができる事になったからである。
それは当時は民鉄だっ た日本鉄道の東北鉄道線(即ち後の国鉄東北本線)の建設のためだった。秋葉神社が立ち退いた後の跡地とその周囲にあった火除け地とを総称して秋葉原と言ったのである。だからこの立ち退く前の秋葉神社こそが、秋葉神社の江戸の総社である かと錯覚している人が多い。
しかしこの秋葉神社はずっと新しく、明治二年の東京府下の大火を受けて、明治天皇の勅命により、明治三年に鎮座した神社である。
その経緯は、明治初年に東京府内に火災が頻発し、明治天皇の身を憂えた英照皇太后(明治天皇御養母) の思召を以て、明治天皇より太政官に御下命になり、東京府一円の火災鎮護の神として、明治二年十二月の東京大火災の後、神田相生町など十七カ町の火除地としてその地の中央、今の秋葉原に奉遷されたものだ。
その元は千代田城内の紅葉山にあった火防神であった“鎮火社”で、民間の参拝を広く可能にする為に、皇居の外部、外神田花岡町に遷座したものだ。
この祭神は火の神=火産霊大神(ほむすびのおおかみ)、水の神=水波能売神(みずはのめのかみ)、土の神=埴山毘売神(はにやまひめのかみ)の“火伏の三神”(火・水・土の鎮火三神)であるが、その社祠を遷し、鎮火社(ヒシズメシャ)の祭神とした」とされる。
そして、月一回、皇后の代参の女官が「鎮火社」を参拝するようになったのである。
※この火産霊大神は、後に古事記の火之迦具土神と同一神だと言われ、この為、先述の如く廃仏毀釈で秋葉寺を打ち壊した小国神社の神官鈴木重友が、代わりに、秋葉山神社を創建した時、火之迦具土神をもって秋葉神社の祭神としたのである。恐らくその結果、東京の秋葉神社の火産霊大神も火之迦具土神の別名と解釈されたのであろう。
(だが本来の秋葉山寺の寺内社である秋葉社即ち秋葉権現の祭神は三尺坊という天狗で、秋葉寺の鎮護神であり、その本地は聖観音なのである。)
ところが鎮火社が火防神である故、その面では最も有名だった秋葉権現と習合してしまった。民間が、幕末までの秋葉信仰の盛行の余熱から、これはすっかり秋葉神社と思い込んだというのだ。
明治政府もどうしてか、これを積極的に否定しなかった。この為、僅か十数年間しかこの外神田には祀られていなかったのに、誰しも真性の?秋葉神社と信じ込んでいる。
だから、幕末に盛行していた秋葉信仰の江戸の中心地は、この外神田の(秋葉原にあった)「秋葉神社」だったとの誤解が流布した。
元来の秋葉社は、秋葉権現信仰で、様々な町内に設けられた小祠である。
その最初は、元駿州藤枝の田中藩から川越藩主になった老中酒井忠利の家来が、駿州時代に信仰していた秋葉権現を、屋敷地の一角に勧請したものだという。この小祠が評判になり、江戸各所に分祠が出来たのである。
(これには、その酒井忠利の嫡男忠勝が大老になり、将軍家光の御成を度々受けたのに、その屋敷が火災に遭わなかったので、それは秋葉社のご利益とされたからだ。)
また江戸一番の秋葉神社を自称した向島の秋葉神社というものがあり、これは社殿が大きかった為に、これこそ江戸の秋葉神社の代表と錯覚して、庶民はもとより大名旗本の帰依を受けている。しかしこの向島の秋葉神社は、秋葉山にある本家秋葉権現のように曹洞宗でも、また秋葉衆徒の作法を司る真言宗豊山派のものでもなく、古義真言宗である醍醐寺の末寺である。 (元禄の始め当山派修験者葉栄が神感を得て寺社奉行に願出 て、上州沼田城主本多正永の報賛にて、元禄十五年(1702) 秋葉・稲荷両社と称して社殿を造営し又千葉山満願寺を興して別当寺とした。醍醐三宝院末である。)
従って、ここは宗派違いなので、江戸に来る(秋葉講の御師を 務める)秋葉衆徒修験者の寄る場所ではない。
実は、曹洞宗可睡斎の配下にある秋葉権現の江戸の総社を標榜する神社、もしくはその別当寺は、江戸の後半期まで江戸にはなかった。江戸後期、秋葉講の盛行の時代は、秋葉神社の 小社祠が江戸の町々各所に祀られていた。
しかしそれらの中に総社的な機能を果たすものは無かったのである。
(強いて言えば、西大宮の中釘にあった武蔵秋葉神社が 秋葉神社関東総社を称していたので、これをもって武蔵国の秋葉神社総社だとする人もいる。
しかもこの神社の別当寺は、同じ中釘地区にある、曹洞宗の寺院・永昌寺なので、こちらは宗派的にも合致するのである。 だが、江戸に出てきた秋葉衆徒がわざわざ大宮まで足を伸ばしたとは思えない。恐らく中釘秋葉神社は、先多摩=埼玉地区以北、上州野州などの秋葉神社の総社的な存在ではあったのだろう。紀州徳川家もここに帰依している。)
だから、江戸に出てきた秋葉衆徒が、一時草履を脱いだのは、秋葉講中の役職を務めた有力町民の家か、江戸府内の曹洞宗寺院であったと思われる。
但し秋葉衆徒の江戸に於ける情報集約所の役割を果たした拠点はあった。それが本所番場町にあった里修験の三聖軒という坊宇である。ところが、この三聖軒は、幕末の嘉永三年、深川御船蔵町にあった中央寺という曹洞宗寺院に吸収される。以降明治になるまで、この深川の中央寺こそ
江戸の秋葉権現の正式の参詣所として、秋葉山中央寺と呼ばれるのである。この間、江戸の町火消はここ中央寺に参るのが習慣となった。
(中央寺の正式な山号は日照山である。また中央寺は、関東大震災後一時 江戸川区に、そして今は江東区南砂に移転している。戦災にもあって建て替えられたのだろう、今の堂宇の佇まいを見ると、とても江戸火消し四十八組の尊崇を受けた秋葉山寺の後継だとは思えない。今の御住職や檀家には申し訳ない言い方ではあるが。)