第6章 月氏三部族と身分階層
第6章 月氏三部族と身分階層
月氏族の三部族の事に話を戻そう。中国の史書には
注目すべき記事がある。
葱茈族は女王が統治し、副王も女性であったという
のだ。婿は黄牛族か白馬族から取ったというが、
女系制社会であり、婿は妻問婚の形態であったろう。
白馬族は正王が男子で副王が女性だという。黄牛族に
ついては記述が無いが、記述されないというのは普通
の王国の如く男王の統治であったろう。(また副王が
いたか?も不明だが、女性は正王であれ副王であれ、
祭祀の際のシャーマンもしくは巫女として神の詔を
聞くのが元来の役割であっただろう。)
ユーラシアの遊牧民族には、身分の三分法があったと
いう。祭祀者(王)・戦士・農牧民(生産者)である。
葱茈族は祭祀者が極めて強力な社会であり、白馬族は
祭祀者と民が相和し、戦士の性格は小さい。一方、
黄牛族は極めて戦士の勢力の強い社会であったかに
見えてくる。これは黄牛族が最も北辺に近い所に居た
;従って匈奴などの侵略者に立ち向かう機会が多く
この為男系社会になったと思われる。葱茈族は山越え
で印度に近く、Brahman(婆羅門)階級が祭祀を独占し
支配する印度の社会の影響があったのかも知れない。
しかし、月氏三部族の最高位は葱茈族の女王であった。
(今も甘粛羌族自治区の小月氏系の末裔と思われる部族
には、自分達の祖先は女王国だったとの伝承がある。)
この様な小月氏の社会統治の形態が、大和朝廷にも
影響を残し、女神天照や女性天皇の統治を認容する
我が国古代の精神風土に繋がったと考えられるのだ。
※ところでこの小月氏の三部族については、従来我が国
ではほとんど言及されたことが無い。私は、小月氏が
羌族に合流したとの記事を読んで、羌族についての
中国の歴史解説書にネットで接したのである。そこに
十余の羌族内の小部族の異同が詳述され、三部族は
月氏国の末裔と解説されていたのである。
羌族に小月氏が合流した事は、日本の学者にも知られ
ていたのだ。三国時代の後に五胡十六国の動乱期、
羌族は後秦という国家を樹立する。それに先立って
羌族と共に漢族からは西戎と呼ばれた氐族が前秦と
いう国号を名乗るが、これは戦国時代の覇者・始皇帝
を出した古代の秦も周王の厩番だった秦嶺山脈に源を
有する部族であり、氐族はその秦の王家と同族だった
と自称したのである。また後秦の羌族も類似の主張を
した。この五胡十六国の大動乱を避けて朝鮮半島に
逃亡した小月氏系部族が三韓を建てた、という説を
唱える人もいる。しかし、これは三韓と時代が近接
し過ぎているので、成立し難い。代わって、本当の秦
の時代に、対匈奴戦に備えて始皇帝が築かせた万里の
長城、その建設に動員し北辺に移住させられた羌族の
中から、小月氏族が談合してか?東に逃亡して、辰国
を建てたという説もある。これは時代的にはそれ程の
矛盾はない。しかし、これだと辰国の子孫が秦韓を
名乗ったと言うのと矛盾する。秦の圧迫から逃れた
のに何故その元凶である秦の名を借りるのか?
単に箔付けだけの偽称なのだろうか?また万里の長城
建造の頃、動員された西戎の羌族に既に小月氏族が
含まれていたのかも微妙である。しかし羌族に合流し
なかった小月氏族が中国の北辺に滞留していた頃、秦
によって長城建設の強制労働に従事させられたという
可能性は全否定は出来ない。
そして天王の事である。小月氏三部族は天山山脈の
主峰の神格化された天王の崇拝を共有していた。
出雲族はその族長の祖先神を牛頭天王と呼んだ。
天孫族が後に大和朝廷の支配者になった時に、天王に
近い天皇を称したのも、謂れなき事ではない。
ところで白馬族(秦氏)の崇拝した天王はどうであった
のか?
秦氏は香春岳に降臨した韓神を信仰していた。これが
やがて宇佐の神すなわち八幡の神となり、九州出身で
河内王朝の祖となった誉田別の尊=応神天皇と習合して
しまったので、古形が不分明である。
また何波かの渡来時期によっても差異がある。天白・
白山は秦氏の奉斎した神であり、先住民の石神と習合
したのが宿神と荒神であった。
だが、筑前〜香春岳西方と豊後などに集住していた
天孫族本流と近接していたため、あくまでも天王には
天孫族の大王を共戴していたのかも知れない。また、
宇佐の秦氏は早くから神仏習合になっていたらしい
ので、天王崇拝が変形していた可能性もある。(それが
八幡大菩薩なのであろう。)また稲荷も白馬族の祭祀に
始まる神であり、宿神とも習合した。
香春神=韓神は秦氏が金官加羅にあった頃に祭祀した
氏神だったのだろうか?韓神と書くがこの香春の神は
カル神、即ち香春で算出する銅の精霊で、カルとは
古代において神聖を表現する語でもあった。軽皇子の
カルは軽いと言う意味ではなく、鏡を造る金属である
青銅のように輝かしい神聖なという修飾なのである。
宇佐神宮の古代祭礼では、香春岳で製造された鏡を
行列を作って宇佐神宮の海岸にまで運ぶのである。
ところで、神職を禰宜と称する事と豊後の禰疑野に
ついて述べた際には大王が多氏の働きを労ったので
の命名だと言う俗説に触れた。実は禰宜の語源も、
折口信夫が、神官は神を労う職なので禰宜と言った
のだという説を唱えている。しかし、労うという語は
やはり目上の者が目下の者の働きを賞でて労わりの意
を表す事を言うのであって、目上である筈の神を神職
が労うというのは逆ではないか?という疑問が長い間
呈されて来た。しかし上古に於いては上下の関係とは
関係がなく使われたという反論もある。
ネギラウというのは、ネンゴロ(懇ろ)になる様にする
という事なので格上格下には関わらないというのだ。
しかしこのネンゴロというのは懇ろと書くように、
栽培する物に適するように土壌を耕して柔らかにする
という意味である。私はこれこそ"葱頃"であり、葱を
植え易いように土を耕す事から来ているのではない
のか?と考えるのである。それは天孫族にとって、
葱は産土に関わる特別な植物・霊草だからである。
一方、禰宜=ネギラウ人説に対して、近年はネグ人説
が出されている。ネグとは、請ぐ(願う)或いは祈ぐ
(イネグ、アイ願う)であるから神に祈願する人が即ち
禰宜だという説である。この説では祈りというのは、
イネグリの訛った形だという事になるらしい!?
しかし、この請ぐ(願う)或いは祈ぐ(イネグ、アイ願う)
にせよネガウという概念表現の語源は何だろうか?
普通には、"念が合う"あたりになるのだろうか?だが
これも私は強引ながら"葱合う"だと解釈している。
焼き鳥の葱間は肉の間に葱を挟む。鴨葱の例えでは
ないが、肉に葱を合わせるのは味わいだけでなく、
肉が葱の成分で柔らかくなる効能もあるのだ。硫化物
であるアリシンが、殺菌や防腐の作用も有する。
この"葱合う・葱間う"が転じて"願う"という一般的な
願望を表現する言葉になった!という、いささか乱暴
な説を提案してみたい。
そして、現在の神職の装束は、平安初期に賀茂神社の
神官たちの装束を一般化したものだと言われる。
正式の大祭では、宮司も下級の神官も白の上下を着用
するのだが、略装では狩衣に袴と烏帽子という装束で
狩衣の色は青や緑など基本的には任意とされている。
この賀茂社の禰宜の略装を見ると、葱坊主を付けた葱
と見立てられる格好になっている。宮司の下位の祝が
禰宜と呼ばれるようになったのは、この葱に見立てた
呼称ではないか?(元々は、神職は根子と呼ばれていた
のでもあるからだ。)
更に私は、天孫族神話の始原に登場する天照の直系、
天忍穂根耳尊と瓊瓊杵尊の二神は、天忍穂葱と瓊葱
ではなかったかと推理しているのである。
天皇と葱の関係を示すもう一つの例は、天皇が行幸に
乗る輿である葱華輦の存在である。輿の頭頂に葱坊主
が乗っているのでその名がある。天皇が乗る輿は二つ
あり、もう一つは鳳輦でこれは頭頂の飾りが鳳凰に
なっている。こちらは、鳳凰は王者の鳥だから分かり
易い。だが、葱華輦の方の意味はといえば、葱が縁起
の良い作物だからと説明されている。何故葱は縁起が
良いのか?これは説明できていない。鳳凰の他に宝珠
とか日月とか縁起の良い形象は幾つもある筈なのだ。
それが縁起の不明な葱華輦が重視される。天皇だけで
なく、伊勢の斎宮も葱華輦を用いるのは何故か?
しかし、天皇が葱茈族の天王だとすれば容易に理解が
できるだろう。葱華輦は通常の行幸にも用いられるが
天皇が崩御されて棺を八瀬童子が運ぶ時は必ず葱華輦
を用いる。天皇は大倭根子の別称がある。崩御により
大倭根子が大倭種子に返るので、後々の天皇霊の再生
に繋がるという呪術ではないかと私は推理する。折口
信夫流に言うなら、「種子では天皇霊は休眠状態で
あり、次なる天皇の登極によって賦活して再び根子と
なる」のである。
そして天王族の三部族に関わる話として、あの八咫烏
の伝承にも思いが及ぶのである。八咫烏は何故か脚が
三本になっている。この八咫烏の三本脚は、天王族・
つまり小月氏を構成していた三部族を象徴するもの
ではないかと考えるのである。
神武天皇が熊野で大和への道に難渋していた時に出現
して案内したのは、金の鵄(トビ)と八咫烏と、二つの
異説が存在している。トビは恐らく先住していた須佐
族が帰順した伝説(これは恐らく神武ではなく応神の
大和入りの時の話であろう;神武は恐らく須佐族系の
三輪王朝の崇神と、九州王朝の天孫族本系の応神の
二系統の大王の事績伝承を合わせて創造されたもの
と考えられるが、国譲りの神話はこの二つの天王族の
統治権の継承を物語るものと思われる)が、八咫烏は
天王族の三部族が力を合わせて大和国家の成立を完遂
したことの暗喩ではないか、と思う。
以下の点にも注目してみたい。
菅原道真が天神と祀られたのは何故か?菅原氏の本姓
は土師氏であり、"出雲系"氏族である。出雲系氏族の
最高神(?)は牛頭天王であるが、これは黄牛族の王者
である。よって菅原氏は、怨みをのんで死して天王、
つまり天神となったのである。
天神(天満宮)には牛が付き物なのだが、これは天神・
牛頭天王が黄牛族の斎く神であり、牛は黄牛族がそれ
をトーテムとしていた事の名残である。
また初午は稲荷神社の2月の祭礼である。初午の日に
は、稲荷の使い獣である狐に捧げるために稲荷寿司や
初午団子を供える。しかし、稲荷と馬の関係は説明を
されて来なかった。稲荷は秦氏が祀った神である。
秦氏とは白馬族である。初午とは、秦氏のトーテムで
ある馬を祀った祭礼の名残なのである。
さて、伝承という点から言えば、実は七夕の伝説にも
三部族が関わっている。
今我が国に伝わっている七夕の伝説は織女と牽牛の
悲恋物語である。
これは中国では牛郎織女の伝説として知られ、凡そ
後漢の時代から広まったとされている。
明の馮応京著『月令広義・七月令』の引く梁の殷芸
『小説』に記されているらしい。河東に住む天帝の娘
である織女(織姫)が河西の牛飼(牽牛郎)に嫁ぐこと
を許したが、嫁いだ後に機織りをやめたことで天帝の
怒りを買い、河東に戻ることを強要、一年に一度だけ
会うことを許したとされている。そして『牛郎織女』
の物語は更に京劇などで演じられる『天河配』の物語
となる。こちらは大変に詳しくなる。
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天の川の東岸で暮らす織女は、天帝の母(天王太后)で
ある"王母娘娘(おうぼにゃんにゃん)"の外孫娘。
朝から晩まで「天梭」を使い、「天衣」と呼ばれた
雲錦を織る仕事をしていた。
ある日姉妹達(七仙女)と共に人間界の河(碧蓮池)
の辺に降り来たって水浴をした。人間界の青年である
牽牛郎が飼い牛(実は金牛星の化身)の助言によって
河辺に水浴びしていた天女の紫や桃色の羽衣を盗む。
織女を見かけて一目惚れした牽牛郎が、彼女の羽衣を
盗んで隠したのだ。羽衣を失った織女は、天界へ帰れ
ないので地上に残り、牽牛郎の求婚を受け入れる。
その天女は牽牛郎の妻になり、一人の男の子と一人の
女の子を生んで幸福な生活を送っていた。
しかし、幸福な生活は長く続かない。この事を、人と
神の婚姻を禁じていた王母娘娘が知ると、「天兵」
(天帝の軍隊)を遣わして、天界の戒律に違反した
織女を捕らえて天に連れ帰る。牽牛郎が天に昇る道は
ない。ところがその飼い牛・金牛に「吾が死んだ後、
吾が皮で靴を作って、その靴を履けば天界に上ること
ができる」と言われる。その後牛が死んだ。牽牛郎は
飼い牛の言う通りにし、その牛皮で作った靴を履き、
子供達を連れて天界に上り織女を探す。これに怒った
王母娘娘が「牽牛郎などは自らの姪孫婿とは認めぬ」
とし、「(容姿を隠させた)七人の天女の内から織女を
見つけるなら会う事を許す」との謎解き条件を出す。
牽牛郎は見つけられないで困るが、子供達が母親を
認める。だが王母娘娘は、織女を再び人間界に戻す事
にあくまでも反対し、天兵に命じて織女を天牢に閉じ
込めてしまう。牽牛郎が織女を探して、遂に天牢に
辿り着くかという間際、王母娘娘が頭の金簪を抜いて
一振りすると天の川に大波が引き起こり牛郎と織女は
両岸に分け隔てられてしまう。だが子供達の事を流石
に憐れんだ王母娘娘によって毎年七月七日だけは、
カササギに天の河に橋を架けさせて、牽牛郎が子供と
ともにその橋を渡って織女に会うことを許した、と。
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この話は、結局七夕の起源譚でありまた能の羽衣の
原話に当たる。七夕と書いて、我が国でタナバタと
読まれるのは、日本神話では織女は棚機織津姫という
名の神女だからである。
だが中国でも天帝の娘(もしくは姪)の織女は織姫とも
呼ばれた。一方で我が国では牽牛郎が何故か彦星とも
呼ばれて来た。飼い牛が本当は金牛星の化身だからと
言って、牽牛に日子の形容をするのはちょっと不思議
である。
だが、この牛郎織女譚にはもう一つの要素が脱落して
しまったのだと推理される。牽牛のほかにもう一人、
彦星=日子が居たのである。
西洋の天文学での、こと座のベガが中国でいう織女、
わし座の主星アルタイルが牽牛である。この二つの
恒星は天の河を挟んで対峙している。
だがもう一つ極めて明るい星がその近くに存在する。
白鳥座のα星であるデネブ(Deneb)である。この星は
位置的には天の河の中にあるように見える。
ベガとアルタイルとデネブは、夏の星座中で、有名な
「夏の大三角形」と呼ばれる関係を構成する星であり
この三つの星を使って、(天帝の化身である)北極星を
探す方法が古くから知られている。
このデネブこそが実は、天帝の妹である太陽の女神の
息子すなわち日子であり、日本でいう彦星なのだ。
元々の話は、天王太后の認めた彦星の許嫁が織姫で
あったが、ある時織姫が姉妹達と下界の池で水浴び
をして居た時に、池辺の牛飼いにその姿を見られ、
天の羽衣を隠されてしまう。止む無く織姫は牛飼い
(牽牛)の嫁になり、二子をもうける。しかし天王太后
に探し出されて、天からの使いが来て織姫は昇天し、
彦星の許へ嫁がされる。だが、下界に残して来た子達
の事が忘れられず、天帝に願い出て、年に一度だけ、
七月七日の吉日にだけ、子供を連れた牽牛が天の河を
渡って会いに来る事を許してもらう。
一方、彦星との間に出来た息子は、天帝の命令で下界
を治めるために天山に降臨し、地上の、成長した牽牛
の二人の子達の助けを得て、地上を統治する。
この説話の、彦星の子孫が天孫族であり、牽牛の子達
が黄牛族と白馬族の祖となった、という伝説である。
恐らく中央アジアのタリム盆地の空を見て創造された
説話だったが、その始原の土地では、三部族の祖神の
神話として意味をなしていたのだが、これが東の中国
に伝播する過程で(三部族の存在を知らない為に)一つ
のファクターが脱落し、織女と牽牛だけの物語に単純
化したのだろうと推理されるのである。その結果、
後漢の時代以降には牽牛と彦星の錯綜が生じたのだ。
我が国には、この説話が奈良朝に伝来したというので
既に織女牛郎の話になっていたのだろう。
記紀が纏められた飛鳥・藤原朝〜平城京の時代には、
天王族が元は三部族に由来するという話は、むしろ
隠蔽する心理が働いていたのではなかろうか?
そして、国譲りしたのは、大物主(大国主)を奉ずる
三輪王朝(開化・崇神・垂仁)系でありこれが後世いう
出雲系であり、その後を継いだのは九州王朝(景行か
その高祖に始まる)で応神の畿内進出により河内王朝と
なった系統なのだが、それらを一系の王統に見せる為
に、両方の王統の共通的な祖先神話として神武からの
九代が構想・架上されたのだと思われる。
国譲りして山陰に退去した三輪王朝系の人々が住んだ
土地が新たに出雲という国名にされたのだが、元々の
出雲は三輪山とその後背の宇陀や熊野の地域の総称で
あったと思われるのだ。そこがいわゆる山国で、御纏
(纏向はその対岸をいう)が山の戸場口即ち山門(ヤマト)
であった。
応神の母神功皇后は、琵琶湖東岸の息長氏の出身で
あり、父方は開化天皇の、そして母方は渡来人である
天之日矛系だというから出雲族の一系統である。
そして応神は父方が景行(天孫族)系仲哀天皇とされ、
母方の出雲族の血統も入っていると了解されていた
のだろう。
しかも応神が白馬族である宇佐の八幡神の化身と
もみなされるのは、白馬族の血統も受けている
可能性があるのだ。
またこの天孫族と出雲系息長氏の関係は、応神の五代
の孫とされ、かつ母方に息長氏の系統を持つ継体天皇
(これが実際上この後の万世一系の祖に当たる)にまで
反映されるのである。
しかも息長氏の近江の本拠地は、白馬族である秦氏の
居住地とほとんど隣接しているのだ。
この様に我が国の古代は、月氏族に起源する三つの
天王族によって形成された。そこに非月氏族である
海人族と、先住民たる縄文人及び(三韓時代に、直接・
間接に関わりがあった韓人の)渡来人、これらが
天王族に支配を受ける民として存在したのだ。
次には、月氏3部族が築いた伝説の国、辰国について
考えてみたい。
タリム盆地の澄んだ夜空には星がよく見えた事だろう。
そしてこの天体に関わる月氏の事績が、まさに“辰国”
という古代国家の建国伝承である。