補遺17続その2の(2)員弁の近世

“「天孫族考」補遺17「謎の員弁族」続その2

員弁の系譜/猪名部から芭蕉と江戸の上水まで”

(2)近世(戦国末期〜江戸時代)

☆近世の黒鍬や金山衆

江戸時代になってからの話ではあるが、黒鍬の上級武士は、伊賀者と同様に幕府の秘密の任務をこなすようになっていた。

徳川家の黒鍬衆は作事奉行配下の中間身分だが、3人いた黒鍬頭は士分で、目付の配下となっている。黒鍬頭は(普段は作事や普請、城内清掃や雑事に携わる)黒鍬衆の組頭を通じて、人を選んで目付から要請のあった秘密の任務を遂行させたのである。黒鍬衆の地方への出張には、現地の黒鍬や員弁との交流が利用されたに違いない。

不浄門から死人病人罪人を城外に出すのは黒鍬組の役目である。

城内での刃傷事件を起こした浅野内匠頭も当時の江戸城不浄門だった平川門(今の竹橋にあった)下の階段から濠舟で新橋川沿いの田村右京大夫邸に搬出された。浅野の家臣は平川門まで見送ったという。この当時、内濠〜外濠は青山通りの東で繋がっており、外濠は溜池〜今の外堀通り〜新橋堀と右京大夫上屋敷際にまで舟で行けたのである。この護送は目付の配下としての黒鍬衆と田村家家臣とが行った。また平川門からは、江戸城内の糞便を近郷の許可を受けた百姓が集め、これも舟に乗せて運んだ。このような時も立ち会うのは黒鍬衆なのである。

武士化した黒鍬衆の他に、土木水制の専門職人=工人・人夫(云う処の土方)を業とする集団が各地に存在した。彼らは、普段は地元の本百姓の小作人などをしながら、川普請や道普請・山道の石垣普請などの作業を賃仕事人として働いた。その記録は各地にあるが、有名なのは印旛沼開拓に従事した黒鍬の衆である。関東各地の村々に散住していた黒鍬が応募した。その働きは、一般農民の賃仕事として応募した者達の倍以上の作業量であったという。

掘削や運搬(モッコ担ぎ)などの作業で目覚ましい働きぶりであった。

印旛沼開拓は、大名普請として諸藩が動員された。多くの藩は、資金を出して人夫は現地雇用したが、庄内藩だけは老中首座の水野忠邦に睨まれて、現地雇用者だけを使役する事が認められず、農繁期に二千人もの農民が遠く庄内の鶴岡や酒田近在から、印旛沼まで旅をさせられて、労役に従事した。

これは先年に、幕府が企てた三藩の国替(三方領知替えという)に庄内農民が一揆して幕府に嘆願書を書き、「鶴岡藩主酒井家は江戸初期から代々この地を治めて来て庄内農民に慕われており、酒井家庄内統治を継続して欲しい」という前代未聞の訴えを起こして、三方領知替え策が瓦解した事件に対する幕閣の復讐であった。

※ 具体的には、武蔵国川越藩主松平斉典を出羽国庄内へ、庄内藩主酒井忠器を越後国長岡へ、長岡藩主牧野忠雅を川越へ転封しようとしたもの。実現しなかったが、数ある三方領知替えの中で最も有名。庄内義民事件という。

11代将軍徳川家斉の実子・斉省を養子にした川越藩主松平斉典が、実高が多く裕福と考えた庄内藩領地を狙って幕閣に働きかけたものだった。この係争中に家斉が死んで次期将軍によって中止となった。

(しかし歴史は皮肉で、この三方国替えが実現していたら、幕末に庄内藩の江戸見廻組による薩摩屋敷の襲撃事件;これが鳥羽伏見の戦いの引き鉄になったのだが、それも起こらなかっただろうし、幕末長岡藩牧野家家老の河井継之助による官軍への反抗戦とその後の悲劇もなかったであろう。)

もっとも、この庄内農民の訴えは、一見藩主と領民の強い結び付きの美談の様に思われるが、飢饉の続く天保期に、国替などがあっては、去りゆく藩公への送別運上金や、新藩主への支度金の臨時課税などが行われるのを忌避しての、領主据え置きの願いでしかなかった。この事情を推察した幕閣の意趣返しが、印旛沼開拓へ、庄内農民を多数動員せしめる命令となったのだ。

この為、この工事には、一般農民だけでなく、庄内の名主クラスの大百姓も指揮者として参加しており、この農村の知識階層が詳細な工事記録を残したのである。(庄内藩の上層農民は、一関藩と並び、恐らく江戸中期の農民の知識層としては、全国有数であったと考えられている。

因みに一関は寺子屋の分布が全国一だったと考えられており、関流和算などの高度な数学を発達させた事が特筆される。明治政府の、東北諸藩軽視政策もあり、天保天明の大飢饉期などの惨状の伝聞で、東北地方は知的にも遅れた地方だったかのような誤解を持たされて来たが、全く事実とは違う事を認識しなければならない。)

そこに、現地雇用した黒鍬の生態がツブサに記録されており、黒鍬労働図はその時のものである。そしてそこに黒鍬が如何に大きな作業量をこなしたかが記されている。労賃は、一般雇用人夫の平均2倍以上である。

(庄内藩大庄屋の久松宗作が,郷里に寄せた書状で述べているだけでなく、普請の実際についての詳しい記録『続保定記』を残した。)

江戸期の黒鍬人夫は土木工事にありつければ、相当に裕福な収入を得ていた事が想像できるのである。

とはいえ、それは普請工事の頻繁に行われた江戸などの大都市周辺の事情であり、街道の補修などにしか仕事口の無い地方の黒鍬土方は貧窮していたと思われる。先述の藤村「夜明け前」はそれに言及している。

黒鍬の概念の追究から、いきなり江戸中期の話になってしまったが、ここでもう一度時間を戻して中世末〜近世初頭の黒鍬や員弁系の活躍を見て行く。

☆近世の員弁ゆかりの土木工事家 徳島藩の稲田植元

近世初期(織豊時代)戦国の戦いに、土木の知識を駆使して効果を上げたのが豊臣秀吉である。墨俣一夜城、備中高松城の水攻め、小田原攻めの一夜城など巷間に流布したものが多数ある。これを真似して武蔵忍城の水攻めをしたが、まんまと失敗した石田三成の「ノボウの城」の話もある。これはそういう戦法が誰にでも上手くやれるものではなかったという事だ。

秀吉の成功は、家臣に蜂須賀小六正勝が居た事である。講談などで小六は野武士のように思われているが、三河のれっきとした地侍の家柄である。

従って蜂須賀にもそんな深い土木技術の知識は無かった。実際にこのような土木水制の工事に当たったのは、蜂須賀家臣の稲田稙元(イナダ タネモト)という者である。稲田氏は元岩倉織田家の家老職にまでなっていたが、黒鍬支配の頭である。濃尾地区は木曽三川の下流であり、戦闘にも土木知識が必須であった。稲田氏は播磨の赤松氏の浪人だといい、信長の清洲織田家と争う岩倉織田家に仕えていた。しかし父の稲田貞祐が、織田信長と内通しているという讒言により主君の織田信安の命によって天文22年に切腹させられてしまう。当時9歳の稙元は父の朋友であった蜂須賀正勝に預けられた。

(僅か9歳の稙元に土木技術が備わっていたとは思えないので、父貞祐が稙元に付けた譜代の臣に黒鍬の頭がいたのだろう。徳島藩蜂須賀家の家譜の稲田の項には、その譜代の臣が誰だったかを推理できる記録があるかも知れぬが、「ファミリーストーリー」では無いので、それ以上調べていない。)

この時、正勝が家臣でなく義兄弟として遇すると言ったことで、稲田稙元は生涯を通じて蜂須賀家への忠義を全うした。数々の功労で、秀吉から直に2万5千石で家臣となる誘いを受けたが、これを断った事で益々の信頼を得た。関ヶ原後に、蜂須賀家が阿波一国の太守となると、稙元は脇城主として万石格の領地を与えられて、正勝隠居後は蜂須賀家筆頭家老となった。

(またその子示稙(シゲタネ)は、洲本城代として事実上淡路一国を与えられている。)

播磨の稲田氏は村上源氏の子孫を称しているが、これは員弁に多い仮冒であろう。稲田の名が示す様に、また水制土木技術の知識といい、正に中世の黒鍬の上級者であったと思われる。赤松氏に仕えたというが、その出自の地は(兵庫県加古川市)加古川町稲屋であるらしい。この稲屋で元は稲葉氏と言っていたが戦国期に稲田に改めたという伝承があるようだ。加古川中流域も古代には猪名部の集住地だった。

☆江戸幕府の金山銀山奉行 大久保長安

江戸期の金山衆の出世頭は大名になった大久保長安である。

播磨国の大蔵が出自の地だという。もっとも父親の信安は大和猿楽に属していたが、この大蔵の地に流れて来て、そこで大蔵流を創始したという伝承がある。

但し、播磨の大蔵には三つの候補地がある。①明石市の明石川中流左岸の堅田という地域の大蔵(大蔵神社のある地域)②明石市の山陽電鉄大蔵谷駅周辺(南側は大蔵海岸という、大蔵谷は北部にずっと延びていて高速の大蔵IC付近までの丘陵地帯③加古川の左岸の大蔵神社周辺。

②は付近に人丸の地名もあるので、猪名部が住んでいた可能性は高い。

③に関わるかどうか分からないが、加古川支流の万願寺川沿いには宮木町の名が残り、古代に宮木部の存在した事もうかがわれる。また加古川左岸には稲美町もあり、この稲美は印南同様に稲木(猪名木部)の事であろう。

大久保信安は、元秦氏系の名を称していたが、大蔵の地に移って来てから大蔵氏を名乗ったという。

さりながら、今も残る狂言の流派である大蔵流には、播磨で発祥したという伝承は無い。この流派は猿楽の金春流の系統である。金春禅竹の名をもじり善竹何某という神戸に拠点を置く大蔵流の一派があるが、これも播磨での発祥の謂れは伝わらない。

とはいえ、中世中期には、猿楽の系統に大和猿楽や近江猿楽と並び播磨猿楽があったというので、この田舎猿楽の播磨猿楽の系統に播磨の大蔵神社に集う猿楽小集団があったとしても不思議ではない。

信安は猿楽師として甲州の武田信玄の膝下に流浪して来て召し抱えられて、子の長安が武田家臣の土屋氏の与力となったのを契機に一族扱いで土屋の姓を名乗り、武田家(勝頼)滅亡後、長安は他の武田衆と共に家康に臣従したという。そして、土屋の名から家康によって、三河では由緒のある大久保の姓を与えられたというのである。

だが、長安が何故、甲州の名門土屋の一門扱いになったのかと言えば、猿楽師としてでなく、いわゆる“信玄の金山”の発掘に専ら功があったからだ。

無論、家康も鉱山奉行としての長安の才に着目したからなのだ。

家康の天下取り後、それまでの甲州金山や伊豆の金山のみならず、石見銀山や佐渡金山の採鉱に力を振るい、大名に取り立てられ、幕府の勘定奉行から最後には老中の席にまで名を連ねた。

だから、信安が猿楽師というのは表向きで、実際は金山衆だったに違いなかろう。家康から大久保姓を与えられたというのも、西明石に大久保の地名があるので、播州時代の繋がりで大久保姓を願ったのかもしれない。上述の西明石と加古川に挟まれた稲美町はその大久保の西北に隣接している。

私が、“三河武士ではない大久保”は猪名部に関係の回路を持つ氏名ではないかというのもそういうような根拠によるものだ。もっとも大久保が地形上の“大窪”に由来するものだとするなら、大窪が何故猪名部の集住地になったのかも究明しなければならないだろうが、今の処は果たせていない。

北勢員弁も、中世以降伊勢神宮の神郡となってからだが、伊勢太々神楽の座元となっており、伊賀の服部氏から大和猿楽の集団が出たように、猪名部は材木・大工・金山衆や黒鍬衆であるだけでなく、田舎猿楽の演者集団でもあったのかも知れない。伊那谷や奥三河でも他と違う田楽や神楽を伝える集団がある。

☆江戸の治水の根本 利根川流路変更

戦国の時代を終わらせて、江戸という長期安定政治を築くのには、無論開府者家康のほかに、周辺の多彩な人材があったからだ。

戦国末期の戦いを支えた徳川四天王は必須の人材であったろうが、しかしその政権の中心地としての江戸という都市を確固たるものにしたのは、治水であり、最も重要な事業は利根川の東遷工事であった。

その結果、江戸湾に流入する川は、西の多摩川、東の荒川(その分流が隅田川)となり、時ならぬ出水はあったが、比較的安定した都市基盤が出来たのである。また多数の河川による大量の流下が調整された事で、江戸湾岸の干拓が可能になり、江戸は政権中枢都市(政都)としての人口を存在させる事も可能になったのである。

その意味で、利根川東遷工事を成功させた伊奈半左衛門の功績は、江戸期の行政官僚の中で最大級の功労者であったというべきだろう。

そもこの工事の前、つまり家康が秀吉から突然の国替を命ぜられて、三河・遠江(+それに加え旧今川領の駿河、武田領の甲斐)の太守から、小田原北条氏の旧領関東八ヵ国と伊豆と、面積こそ多いものの、当時はまだ荒野の多かった地域に移らされた時には、江戸は大河川のデルタ地帯だった。

江戸湾には、西から多摩川、利根川(荒川・入間川はその支流で、隅田川はその河口デルタの分流の一つ)のほかに、何と渡良瀬川(下流は太日川:ほぼ今の江戸川の流路)までが江戸湾に流入していたのである。

それを荒川と利根川を分離して、一旦渡良瀬川と合流させ、それを更に東の鬼怒川に合流させて江戸湾側から離隔し、霞ヶ浦の太平洋側の出口であった銚子に向けて流れる様にするという、文字通りの大工事である。

16世紀の末から始まり17世紀の半ばまでかかった。

利根川東遷工事についてはその解説書が多数出ていて、研究成果はほぼ確定しているので、ここでは詳細は割愛する。

私の話題の眼目は、この大工事の責任者である伊奈半左衛門忠次とその子忠治親子の事である。

伊奈氏は、元々は伊那谷の郷士であり、荒川氏を称していたという。三河の松平氏〜徳川氏に臣従してから伊奈氏を名乗る様になった。

何故そんな治水の専門家だったかといえば、古代から猪名部の本場の一つだった伊那谷の員弁の出自であったからだ。伊奈半左衛門の“伊奈半”こそ正しく稲葉に他ならないと思える。

忠次の大伯父は、一時三河西尾の小島城を預かるまでになっており、平の黒鍬などではなく、荒川氏は伊那谷の員弁の頭人の一人であったろう。

伊奈忠次はこの利根川東遷工事の功で、関八州の徳川直轄領(後世いう天領)全体の代官頭に任じられた。大名相当とされ、嫡男の忠政が、武蔵小室藩を創設した。(こちらの方はその子忠勝に継嗣が無く三代で除封となった。)

次男の忠治が旗本として、幕末まで代官頭(いわゆる関東郡代である)を世襲した。忠治は、関東の総代官職として、八州の治水工事などの監視役も務め玉川上水の開削計画の評定にも加わっている。

江戸の中期以降には、新田開発と治水工事や河川の流路変更が各地で実施された。

◯六郷用水 

六郷用水は、稲城の対岸である狛江の西河原地区から多摩川の水を分水して立川第三段丘の西端〜南端に沿って掘られ、砧台下を南流して荏原〜蒲田の西部地域いわゆる六郷地域に農業用水を送った。

これを指揮したのは、徳川家臣の小泉次大夫。多摩川の対岸登戸側の二ヶ領用水も同時に着工し、一方を掘り進む間に、動員した他方の農民・人夫を休ませて交互に工事を進めた。彼はこの功もあって後に川崎代官に取り立てられている。(川崎代官所は武蔵小杉にあった)

小泉は今川家の黒鍬と思われる。富士南麓の用水路の掛樋奉行の役だった。駿河の国主が徳川になった時に家康に臣従したものである。

☆神田上水

江戸の事実上最初に敷設された上水道が神田上水である。

それ以前(江戸開府期)には、明神水と山王水という自然の湧水が川になって流れていたのを改修して上水に用いていた。この改修が神田上水の前身の小石川上水ではなかったか?と言われるが、諸説あってはっきりしない。

神田上水は一説では大久保藤五郎と内田六次郎が井の頭池から引いた水路。(後世に神田川と呼ぶのはこの水路である。)

但し、大久保藤五郎忠行が行ったのは、小石川上水の方で、神田上水には関わっていたかもしれないが、メーンではなかったのではないかと思われる節がある。というのは、神田上水が完成後、その管理者として水元役に任じられたのは内田の方(茂十郎家)の一家だけであったからだ。

大久保藤五郎はその功により家康より「主水」の名と「山越」と称される名馬を賜った。また、主水の名については、家康から水が濁ってはならないから、「モンド」ではなく「モント」と唱えるよう命じられた。

大久保忠行は、武家ではなく菓子司だったという。しかし水利工事の心得があったというのだから、単なる菓子職人などではなかったろう。

とはいえ、この藤五郎大久保はその後江戸城出入りの菓子司となっている。

家康が、彼に上水に関する諮問をしたのは、菓子を作るには良い水が必要と日頃知っていたからだという。家康は有名な甘党である。

さりながらこの藤五郎大久保についてはその出自など詳しい伝承が無い。

武家の大久保には、幾つかの系統があるが、佐渡金山拡張に関わった大久保長安(既述)などが金山衆であったりするので、黒鍬系統の大久保氏があったのではないかという推理は既に述べた。

更に藤五郎の名だが、金沢の地名の由来になった“芋掘り藤五郎”の伝説もある。芋堀藤五郎とは、加賀国に存在したとされる民話上の人物で、山芋を掘って生計を立てる人だった。藤五郎が掘り出した山芋には砂金が付いていて、芋を洗った沢が「金洗いの沢」と呼ばれたことが、金沢という地名の由来とされる。金沢神社のそばにある金城霊澤が、この「金洗いの沢」であるとされている。また金沢南部の山科には、芋堀藤五郎を祀る藤五郎神社がある。

藤五郎という名前の付け方は平安後期のもので、金沢の地名は実はもっと古い可能性があるという。砂金の存在で金沢の地名が出来、これに金山衆の通称にも使われる藤五郎の名が附会したのであろうか。

井之頭池を起点とした神田上水は、途中補助水源として、善福寺池を水源とする善福寺川と、更に妙正寺川を併せて小石川の関口大洗堰に至るもの。(後には淀橋で玉川上水の分水・神田上水助水も併せた。)

井の頭池という名そのものが、神田上水が引かれてからの名で、伝説では鷹狩りの休息に立ち寄った家光が、ここが神田上水の水源池と聞いて、では「今後は井の頭池と呼ぶ様に」と言ったからだという。それまでは、池畔の弁天堂に因み弁天池とか、(狛江の泉龍寺の湧泉と続く龍穴だからと言って)狛江池と呼んでいたとも言われる。実は源平の昔、稲城から多摩川を渡った義経が、狛江側からこの弁天池(井の頭)を通って、妻の郷御前の実家である河越館に落ち延びたという伝承がある。鎌倉道が出来るまでは、この道が先多摩方面へ行くルート・古往還であったらしい。

戻るが、家光が井の頭と言ったのは、神田上水は江戸市中では暗渠になって武家地や町地に配水され、利用者はその水路の天井開口部を井戸として使うのが一般的だったので、江戸の井戸の頭(始源)になるという意味なのである。

関口大洗堰は流れてきた水を左右に分脈、左側を上水に使う水として水戸藩上屋敷(現在の後楽園)に流し、右側は余水として江戸川と呼ばれるようになった(かつての「平川」。これを関口から飯田橋まで江戸川、飯田橋から浅草橋までを神田川と改称したのである。1965年の河川法改正で江戸川の名を廃し、全流路が神田川になった。)。関口大洗堰が設置された年代はわかってはいない。『水戸紀年』によると水戸藩邸に上水が引かれるようになったのが1629年(寛永6年)とあるから、それ以前に建設されたのではないかと推定されている。

☆玉川上水 事実上の設計者は安松金右衛門

発展する江戸の水道水不足を救ったのは、玉川上水の通水である。これを成し遂げたのは、世上ではいわゆる玉川兄弟ということになっており、どこやらに(羽村の堰近くだったか)両人の銅像まで作られている。

しかし実際に完成させたのは玉川兄弟ではないのだ。

そも庄右衛門・清右衛門の二人が玉川上水完成の功で玉川の苗字と士分帯刀を許され、年200石相当の給金をもらうようになって、二人の孫(3代目)までが上水の水使用料を、利用する村方町方武家大名からその規模に応じて徴収する事を許されたのだが、管理不行き届きで3代目に玉川両家は上水管理の役から突如外されてしまう。

玉川両家というが、二人が本当の兄弟であったのかさえ分かっていない。

実は今もって氏素性が知られていないのである。

一説には羽村の大百姓ともいい、江戸芝口の商人だったという説もある。(羽村の加藤家の兄弟説と、福生の豪農の福田家の兄弟説が、後日唱えられた。)

そも上水工事に応募したものの、どうやらやっていた事を点検考査すると、とても土木工事の真の専門家とは思えない節がある。

とはいえ、水路開発の仕事へ参加した実績がなければ、請負に応募し、また計画概要書を作ることさえ出来なかった筈だから、江戸近辺でなくても、木曽三川とか何処かの地での水路開削に加わった経験はあったのではないかと考えられる。関西での高瀬川を通した角倉了以の様に、商人が水路開削をした例は無いわけではない。もっとも角倉了以自身が土木技術や水路設計に長けていたのではなく、資本を出して専門家を雇ったのであるが。

庄・清両人が出した計画書は、幕府の当該上水担当の総奉行である老中松平伊豆守信綱や水路奉行に任じられた伊奈家の後継者忠次や町奉行神尾元勝などの幕閣が目を通した上で発注されている。後世に伝わらないだけで、幕閣にはその両人に請負わせる何らかの謂れが一応はあったと考えるべきであろう。(両人の推薦者は南町奉行の神尾。)

計画書では、拝島〜小平を通りそこからほぼ西から東に真っ直ぐ武蔵野台地の尾根上を流すというルートは、成功後と同じであった。図面上では最短ルートを押さえている様に見えた。水路奉行の伊奈も加わる審査を通ったのである。

(図は、渡辺一ニ著「図解・武蔵野の水路」より借用)

幕府から上水工事費として数千両(一説には当初六千両、更に追加で合計して七千五百両も)出させて請け負ったという。1両=10万円として7億強の金子である。

途中で資金が不足して、凡そ二千両もの金を、私財を注ぎ込みかつ一時借金して都合をつけ、やっと完成に漕ぎ着けたと言う。これが完成後、二人が名字帯刀を許された理由である。

工事の過程を伝聞した物を読むと、それなりの水路工事への見識は持っていたとは思える。

しかし、この両人、二度(三度という伝えもある)もの失敗をしている。

一度目は、今取水口になっている羽村より少し下流を取り入れ口にして掘り進んだが、(これはどうも試掘だったような感じもあるが)試しに水を流したところ、全て土中に吸い込まれてしまい、数十メートル先にも流れなかった

という。多摩川の南流するのは武蔵野台地の西端、正確には立川面(立川第二段丘)の西側に立川断層の作った谷である。ところが、この立川第二段丘が直接多摩川に面しているのではなく、その下方に地質学者が青柳面と呼ぶ立川第三段丘があり、ここは殆どが砂礫層なので、直に通した水路では水が流れず吸い取られてしまうのだ。土地の人はこれを“水喰らい土”と呼んでいた。

私が不思議に思うのは、玉川兄弟が羽村の大百姓だったなら、この辺りの多摩川沿岸は水喰らい土である事を知らない筈が無いからだ。という事は余りご当地の地質についての知識が無かった者達だったというわけである。

ちょっと場所を変えてもう一度掘ったがやはり(当然だが)水喰らい土だったので、取水口は羽村にした上で、水喰らい土の区間は、石工を多数雇って、水路の底面と左右の壁を石造りにして(直方体の切石を積む築地積みという工法で)小区間造った後、試しに通水した処今度は(自然の高低差があるので)無事に通水する事が確認できたのである。

そこで金と手間暇は掛かるが、青柳面から南東に向けて掘り進め、立川面の崖に到達した。石造の水路だから、羽村に設けた堰から大量の水量を流せば溢水して崖を乗り越えられると考えたようだ。

ところが、幾ら崖下に池が出来てしまっても、立川第二段丘の崖を越えられないのである。(後述の見沼用水の様に、段丘の無い台地上を通した水路なら、途中に調整池を設ける事で連続的に通水出来る。ところが段差のある、しかも段丘の崖は所によるが5〜15米もあるのだが、これを水が越えないのだ。)

更にこの立川第二段丘の上に第一段丘(これは東は武蔵野面に連続している)があり、上水は崖を2段も越えなければならないのだ。

(立川面も上のロームが薄いので石垣は必要になる区間がある。しかし最上段は関東ロームが厚いので、素掘(直の泥堀)で通水出来る。問題は崖をどういう風にすれば越えられるか?なのだ。)

これで、上水計画は頓挫することになった。しかしそれは兄弟両人が水制土木技術の専門家に必須の「崖越え」法を知らなかった為だ。

この頓挫に“慌てた”のは幕閣である。この時点で、請負わせた資金の相当な額が使われていた。認可した幕閣の責任にもなりかねない。

そこでおもむろに?手を打ったのは建設総奉行の老中松平伊豆守である。

自分治下の川越藩の家臣・安松金右衛門に命じ、設計のやり直しをさせた。

安松は水利土木の専門家らしく、「崖揚げ」という水制工事の手法を知っていたのだ。(また算術の名人だったという。)

崖揚げとは、建設する水路の深度を先に行くほど浅くする事で、水面が越すべき崖の相当な高さにまで達する様にして、その崖上の掘り始めの第二水路を(段差も利用して)上がってきた第一水路の底面近くまで掘り下げる事で、段差を越える技法である。(正確な言い方をすれば、“計画地の地面の自然傾斜角度より、建設水路の傾き角度を小さくする”という事なのだ。と言っても頭の中で立体図形を想い浮かべられる人以外は分かりにくいだろう。)

素人は自然傾斜があるから、水路の深度は一定かもしくは崖下の方を深くする事で乗り越えられると思ってしまう。それが逆なのだ。崖に向かって水路は極端にまで浅くすることで溢水して崖を越えられるのだ。

(これを説明する既成の図を検索したが、見てすぐ分かる様な良い図を見つけられなかった。私自身で描いてみたが、それは私にはよく理解できるが、客観的に見ると、私が分かっているから理解できるので、立体図形が想定できなければ、見てすぐ分かるものでは無さそうなのでここに掲載は遠慮した。)

実際に玉川上水沿道を歩いて見ると、上水の水面が深い所と浅い所があるのに気づくであろう。これは深い所の直前に段差があるからだ。

武蔵野面も必ずしも一定傾度では無いので、小平〜江戸市中の途中でもこの技法が施される。

安松のプランで見事に崖揚げが出来て、その後ほぼ平坦で水喰いしない台地=武蔵野面上では、水路建設は破格のスピードで進んだという。しかし高井戸まで掘ったところで幕府からの資金は使い果たしてしまったので、両人が家財を売り借金をして遂に四谷大木戸までの上水が完成したのである。

始めから幕閣が安松を起用していたら、失敗なく円滑に完工していたろう。

どうも、これには裏があるとしか思えない。

この安松氏という聞き慣れない苗字だが、元は伊奈氏配下の穴太衆ではないか?との疑いを持った。

安松ではなくて安野←阿野←穴太かという推理をしたのだ。

というのも、信綱の父大河内久綱は関東郡代(当初は代官頭の名)伊奈氏与力に付いていた代官で、信綱もこの武蔵北足立郡伊奈町小室の小室️陣屋で生まれた。だから安松はこの頃に伊奈氏の下に居たのかと勘ぐったのだ。

信綱は、叔父の松平正綱の養子となって、家光の小姓になった事で出世の糸口をつかんだ。大河内では出世が望めないので、家康から徳川家の支流である長沢松平家を継ぐ様に言われた叔父の養子になり松平の姓を得たのだ。

(これは数えで僅か6歳の時の事である!)正綱も能吏で知られ、家康と秀忠2代の勘定頭(家光以降の勘定奉行だが、正綱は老中格であった)を務めた。

信綱が老中になってから、あの島原の乱の最終鎮圧指揮官となった。

兵糧攻めで切支丹反乱軍を弱体化させたというが、配下の黒鍬が原城の水脈を切って飲み水も絶ったのが功を奏したのだという。

信綱は、日光東照宮造営にも関わっている。

左甚五郎というのは、実際は飛騨の匠甚五郎の事だ。

家康時代(か忠長の時代か)に駿府の浅間神社工事にも携わっている。飛騨の宮大工は前述の如く員弁の後裔である。(飛騨の宮川は宮木部に所縁の名ではないか?これもイナキ(引木)川か。)

知恵伊豆の代名詞もあり、能吏の評判が高いが、黒鍬や大工などの員弁の後裔にも人脈を持っていたとしか考えられない。これが、父が伊奈氏の下僚時代に、その伊奈の家臣らと知り合っていた事によるもので、信綱の家臣の安松氏も、実際は伊奈氏の人脈に繋がる者ではないか?との想像力を逞しくしたのである。

しかし、安松金右衛門の事を調べて行くうちに、安松氏は伊奈氏の人脈では無かった事が判明した。

信綱自体が、猪名部的素養を持つきっかけは、伊奈氏の下僚だった父親からの教示があったのかもしれない。

しかし安松は、そういう伊奈氏とは全く異なり、安松氏自体の祖先が猪名部に関わりがあるようだという事が分かってきた。

安松金右衛門の生国は播磨国。安松九左衛門の子。旧姓を神吉(かんき)と称し,名は吉實(ヨシザネ、もしくは吉美)、金右衛門は通称である。

久左衛門が播磨から関東に流れて来て、代官をやっていた恐らく西国に所縁のある能勢氏を頼って、所沢の安松という所に住まった。そこで安松の姓を名乗る様になったという。

金右衛門が信綱に仕えたのは、その能勢四郎右衛門の推挙によるものという。

安松親子は元、三木城の別所氏の家臣で、一族の長が神吉城を守っていた。

織田との戦で、信長嫡男の信忠により落城した。この為、主君を失った神吉=安松親子は、旧知だった能勢氏を頼ったのであろう。神吉の名は今は全国に散らばっているが、本貫地は播磨国印南郡神吉荘である。今は加古川市域になっている。印南は猪名部のことである事は先に触れた。

「神吉」という地名の由来は、崖や川岸のことをいう「ガンギ」を清音で呼んだものであり、加古川の本流が升田山の下を西へ曲がって流れていた昔には、今の東神吉町神吉のあたりは崖であり川岸だったので「カンキ村」と言ったのだという説がある。

※崖岸ガゲシ→ガンゲ→ガンギ→カンキだというのだが、少し遠い?

もう一説は、近くにある高御位(タカミクラ)山の神が降りて鎮座した佳き土地だからというもの。その鎮座地を神吉山といい神吉城はそこにあった。

神来カミキ→カンキ、神吉カミヨシ、神吉カミキチ→カンキ、或いは神木かとも。

私は、猪名木部の居住地であるので、神木の可能性も捨てきれないと考えている。

恐らくこの印南郡に住んだ猪名部の後裔である神吉氏の親子が、所沢の安松に移り住んで安松姓を名乗った(というより、神吉の名を隠した)。

そして安松金右衛門の名は、野火止用水の建造者としての方が有名である。

野火止用水は、玉川上水の最大の分水である。これによって信綱の領地・川越藩の農業は増産された。川越には江戸との荒川や新河岸川の水路も整備され、小江戸と呼ばれるまでに栄えたのは、偏に信綱の功績である。

野火止用水で沿岸の各地の農産はなんと10倍にもなったという。

ここで裏があるのでは?と疑ったのは、安松が野火止分水を造るのに要したのは僅か40日だったというのだ。小平の小川の分水口から川越まで25キロである。玉川上水本水路が羽村〜四谷42キロであり、それが失敗ありとはいえ1年半以上かかっている。安松がいかに水利のプロだった事が分かる。

野火止用水は、松平信綱が玉川上水建設の総責任者であり、最終的な完成はその家臣の安松によるものだとして、幕府から恩賞として、上水の1/3の水量までを、川越領に分水することを認められたものだ。

しかし、その褒賞後僅かの内に分水を完成させている。これは初めから、玉川上水と同時に野火止分水の計画を安松に立てさせていたとしか考えられないのである。

つまり、最初から上水建設全体を安松に任せていれば、失敗無く1年以内で完成していたであろう。元々計画の審査には、幕府随一の治水のプロである伊奈氏も加わっていたのである。これは、信綱が幕府の金で玉川上水を建造し、ついでに自領の川越領に分水を引くというのでは、文字通り我田引水であり、老中首座にあるまじき行為と謗られかねない。そこで敢えてダミーとして“玉川兄弟”に請負わせたのではなかろうか?(だから次代にあっさりと失脚させられてしまったにではないか?孫の代は熱りサマシだろう。)

鷸蚌の争いの後に漁夫の利を得るやり方に似ている。正しくは鷸蚌の争いでは無く、玉川兄弟と幻の水路計画との齟齬なのだが。町奉行の神尾も一味だったろう。(神尾は凡庸な一町奉行ではない。何せあの由井正雪の乱の鎮圧者なのだから。)

恐らく伊奈もこの企てを勘づいていたであろうが、かねて昵懇の信綱に配慮したのだろう。

このカモフラージュの為か、完成した野火止用水は初めはチョロ水しか流れず、3年目の雷雨の時に一気に通水したなどというという“奇跡の伝説”も作られた。

信綱は、家光の下で大老を務めた酒井忠勝(若狭の太守、小浜藩主、庄内の酒井家とは別系統)をして「信綱は別格の智慧者」と言わしめた人であり、どう企んだのか分からない。(川越は一時酒井忠勝の旧領だった。)

ところがこうして充実に努めた川越は、代が変わって綱吉になると、その寵臣・側用人の柳沢吉保に与えられてしまい、(大河内系・伊豆守)松平氏は高崎へ転封させられてしまうのである。高崎城は幕末まで大河内松平家の居城のままだったが。

☆松尾芭蕉は猪名者か?

そして、その綱吉の時代である。

元禄の頃、江戸の神田上水の補修監督になったのが松尾芭蕉である。

彼はこの工事の後、江戸の町年寄達との親交が出来、江戸下町に居住するようになった。

というのは、この頃玉川上水や神田上水の支配は、江戸の3人の町年寄が加わることになって、上水路の左右の土地3間は、江戸町年寄が買上げて付属地化され、上水を汚さないように管理されたのである。

(職制としての水道管理は番役からの加役である水奉行の担務だった。)

元禄直前の頃は、玉川兄弟家3代目との共同管理になっていたが、それも玉川家側の雇い人である手代が、上水沿線各地で不当な要求をしたりの告発があって、玉川家は上水に関わることを停止されてしまった。また経年劣化での側面崩壊なども起こったようで管理不行き届きという咎で閉門になった。(というのが表向きの理由だった。)

従って芭蕉を水道監督に雇ったのは、幕府の水奉行ではなくこの江戸の町年寄達だったのだ。上水の村方分水や町場での(拝領武家地も含めての)水使用料(水銀)を町年寄が徴収して水路管理の費用に充てたのだが、余りは彼らの収入になった。その芭蕉(桃青)が、著名な俳諧師である事も年寄達は知っていたので、江戸に住むようになった芭蕉を世話しながら、自らの俳諧趣味の教師にもなって貰ったのだ。

しかし彼が伊賀者で、幕府の内意を受けて、仙台伊達家の取り潰しの為の探索に行った口実が「奥の細道」紀行という説は余りにも有名である。

本来は松尾桃青だったのが、深川の庵に移り、そこに弟子が植えた芭蕉があったので、芭蕉という俳号に変えたという。

しかしこれも口実で、芭蕉庵の近くにある仙台堀の仙台藩江戸屋敷の監視を幕府から命じられたからだという。そこで風流の体を装う為に弟子に芭蕉を植えさせたというのが本当のところらしい。

奥の細道への出立は芭蕉庵に移ってからであった。

因みに桃青の俳号も、母が桃地氏の出だったからだ。百地は山を越えた甲賀の忍者の家系。伊賀の桃地氏も同族だという。これが芭蕉も伊賀者という説に繋がる。

嵐山光三郎の著書「芭蕉という修羅 (新潮文庫) 」がそれを活写している。

本の惹句を引用する。

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「古池や蛙飛こむ水の音」の句を詠んで華やかな江戸文化人サロン注目の俳諧師となった松尾芭蕉。遂には「風雅の正道」と喧伝され没後は朝廷から「飛音明神」の号を賜り、偶像化され神となった。しかしその芭蕉にはもう一つの顔があった。水道工事監督、幕府隠密、イベントプロデューサー。

それぞれに危うい博打を打ち、欲望の修羅を生きた「俳聖」の生々しい人間像を描き出す決定版評伝。

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だが、そもその江戸での活動の開始が神田上水の補修監督だったというが、上水道工事など素人や一般の大工職でできるものではない。芭蕉の兄の名は半左衛門という。半右衛門や半左衛門は員弁〜黒鍬系(猪名者)に多い名である。

※伊賀の服部半蔵もそうだが、名前に“半”がつく者には、単純ならざる職能を持つ者が多いように思える。いつかこれは考究してみたい。

だから、芭蕉は伊賀者ではなくて猪名者つまり伊賀・伊勢の太守藤堂家の黒鍬の一族では無かったろうか?藤堂高虎は築城の名人としても、従って城攻めの達人とも言われている。彼の家臣配下には、多数の黒鍬の者が居たに違いない。松尾氏は伊賀の藤堂の分家の家来だが、伊賀の柘植は員弁郡と並ぶ猪名部の根拠地だった。(古代の猪名部・闘鶏御田の伝承もある)

また「奥の細道」紀行(実は仙台藩探索)に同行した蕉門の

河合曾良もまた、伊那谷出身の黒鍬者であった可能性が高い。伊勢長島藩で治水の仕事をしていたし、奥の細道の後は、幕府目付の下士として九州巡検などにも加わっているが、これは本来は目付配下のお小人目付や黒鍬組の者の役目である。

「奥の細道」紀行も大垣で終わったというのも意味深である。戦国末期には大垣は美濃三人衆の筆頭稲葉家の居城の

あった所であり、木曽三川地帯には治水を専門にした猪名部の後裔が多数存在する土地柄だったからだ。

因みに大垣での芭蕉のパトロンは、大垣の水門川水運での

廻船問屋(兼材木運送業)の谷木因(北村季吟門下で芭蕉の兄弟弟子)だが、この木因は木員のもじりではないか?と私は疑っている。

☆見沼代用水

余り有名ではないこの用水の建造は、員弁の最も高度な水制土木技法が使われている。(これは江戸末期の濃尾北勢の地下水路マンボの建設にも繋がると思われる技術である。)

元々、ここ(今のさいたま市見沼区)には用水用に溜めた見沼が造成された。

さいたま市の“見沼たんぼ”のHPから引用する。

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荒川は寛永6年(1629年)、熊谷の久下で元荒川を締め切り、流れを西に移し入間川・隅田川を通じて江戸湾に注ぐ流路に変えました。これを荒川西遷といいます。

利根川東遷・荒川西遷、これらの工事によって大河川が遠のいた跡の池沼地帯では、耕地を広げるために池沼の水を排水する 落川(おとしがわ)や農業用水を貯めておく溜井(ためい)がいくつも造成されました。

八丁堤が作られる前・八丁堤が作られた後

これらの大土木事業を行ったのは、 伊奈備前守忠次を始めとする伊奈一族です。忠次の次男半十郎 忠治(ただはる )は荒川を付け替えた同年に、現在のさいたま市東部に広がっていた見沼の東岸と西岸が最も近づく附島(緑区)と木曽呂(川口市)の間に約8町の長さから「八丁堤 」と呼ばれる堤を築き、見沼へ流れ込む水を貯留しました。これが、「 見沼溜井 」です。

井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)による見沼代用水造成

《享保の改革による新田開発と見沼代用水》

見沼溜井から水を引く「見沼用水」のお陰で周辺の新田開発が進みました。しかし次第に見沼溜井だけでは水が不足するようになりました。

その後享保12年(1727年)、 徳川吉宗の命を受けた 井沢弥惣兵衛為永が、新たに利根川から用水を引き、見沼溜井は干拓して新田開発し、排水路として中悪水路(現芝川)を掘削する工事を行いました。見沼たんぼの誕生です。

利根川から引かれた水は、見沼に代わる用水なので「見沼代用水」と呼ばれました。見沼代用水は、取水口の利根川から見沼まで全長60km。そこからかつての見沼用水につなげましたから、末端は現在の東京都足立区まで84.5kmにも及びました。

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そしてこの工事の指揮者が井沢弥惣兵衛。

元は紀州の那賀郡の大百姓だったという。しかし、紀州家和歌山藩の新田開発に腕を振るっていたのだという。

吉宗が八代将軍として徳川宗家を継ぐ前、紀州藩主だった頃、井沢は前代から紀伊徳川家の治水事業に貢献していた。即ち元禄3年(1690年)に紀州徳川光貞に登用され、以後、綱教、頼職、吉宗、宗直の5代の藩主に仕え、治水・土木事業を行っていたという。

吉宗が将軍職に就いてから、その米作増進政策としての新田開発の推進の為に、井沢はその才能を買われて江戸表に召し出され、見沼新田や見沼代用水開削を含む様々な干拓・潅漑事業を次々と行い、新田増加に多々貢献した。

その功で幕臣に取り立てられ、木曽三川の治水の業務を担う美濃郡代にまで出世した。

井沢弥惣兵衛の見沼開発は伊奈氏の方法(関東流)とは異なり、既存の沼を廃して新たに用水路を開削し、用水と排水を分離するもの。この方法は、伊奈氏の「関東流」に対し、「紀州流」と呼ばれる。

しかし、この紀州流、単に用水排水の分離というだけでなく、水路その物の建設技術が画期的なものであった。

この用水について、水問題の研究家でもある今上陛下(当時は未だ皇太子)の講演レポートの一部を拝見する事にする。

参考:(宮内庁ホームページ)第4回世界水フォーラムにご出席された皇太子殿下の基調講演

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見沼代用水による灌漑のしくみ

見沼代用水は、利根川から取水し、綾瀬川を越えた直後に台地の縁に沿って東西2本に分流します。西側の台地に沿って掘削された 見沼代用水西縁 (全長約22km)と、東側の台地に沿って掘削された 見沼代用水東縁 (全長約16km)です。 見沼代用水は干拓して開発した水田に水を入れたのち、低地を流れる芝川に排水する仕組みをとりました。

この工事により見沼新田だけでなく、その周囲も含む、多くの村に用水を供給することができるようになりました。

見沼代用水の重要構造物

見沼代用水は、利根川から見沼たんぼまで、多くの水路や道路を横断しなければなりません。そのため、川の下に水路をくぐらせる 伏越 (ふせこし )53基、川の上に水路を渡す 掛渡井 (かけとい )4基、関枠(取水口)は大小合わせて164基、主要な橋は(石橋・土橋合わせて)90ヵ所も設置されました。

とくに元荒川 をくぐらせた 伏越 、綾瀬川の上を渡した 掛渡井は、重要構造物として知られています。

伏越(ふせこし)

川底より下に木造の水路を作り、水をくぐらせて流した。

掛渡井 ( かけとい )

水路の上に橋を架け渡し、水を通した。

これらの工事には総労働人数90万人、その賃金15,000両、構造物の費用m5,000両という巨費が投じられ、着工後6ヵ月という短い工期で完成させています。

こうして見沼に始まる 見沼溜井は約1,200町歩(1町歩は3,000坪)の新田に替わり、毎年5,000石もの年貢米を生産する実りの土地に変貌したのです。

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この様な天皇が注目されるような画期的な工法を、幾ら紀州での土木事業の経験があるからと言って、そも普通の大百姓が考えつくものであろうか。

他の治水土木家がそうであった如く、彼にも員弁としての素質があったと考えなければならないだろう。(或いは、歴史に名を留めないが、井沢の従者に優れた黒鍬者がいたのかも知れないが。)

そこで、彼の出自について考察してみた。

◯井沢弥惣兵衛

紀伊国那賀郡の人である。

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紀伊国の中心であり、古くは「奈我」と表記し『続日本紀』大宝3年(703年)5月9日条に「紀伊国奈我・名草の二郡をして布の調を停めて糸を献らしとむ……」とあるのが、郡名の初見とされている。その後、神亀元年(724年)10月7日条には「(天皇)行して紀伊国那賀郡玉垣勾頓宮に至りたまふ」とあり、「那賀」と表記されている。

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この紀州那賀郡とは一体どういう性格の土地だったのか?

名草郡(今の和歌山市)が紀伊の国府の置かれた地域、那賀郡(ほぼ紀の川支流の貴志川地域)はそこに隣接し、両郡が紀伊の中心地域であった。

そして平安期に忌部氏が、紀州の員弁は自氏族の配下にあったと主張した。

そこで、よく混同される員弁と忌部について一言しておきたい。

員弁と忌部

Facebookの「古代史研究会」への私のアップロードした房総の員弁に対するコメントで、「員弁とは忌部のことではないか」というものがあり、私はこれに次の様にレスした。

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員弁と忌部とは、全く分布地や部民としての職能が異なるものです。

また読み(発音)自体、員弁inabe と忌部imbe と異なります。員弁は猪名部ですが、仮に雅字表現の員弁を音読みしてもinbe つまりN音を含むもので忌む部であるimube のM音とは異なります。後世の「ん」は、nとmが混同され、mma 馬がンマ(ウマ)などと書かれたりしますが(仔馬コンマ、本来はkomma、強いて書くならコムマ→コウマ)、古代にはNとM音は区別して発音され、また聞き分けられていました。(梅mume も同系ですね。)

現代でも伊万里焼は稲荷焼と混同はされません。ですが産婆samba と三婆sanba は音が混同してしまいました。

なお、安房に忌部が居て、香取神社の経津主神も布都主と同じで元は忌部系だといい、阿波忌部が関東経略に一役買ったという説がありますが、安房の忌部とは、阿波の忌部氏(忌部鳥麻呂)が、後世に安房国の目(サカン)に任じられたのを契機に、政権中央で卜部氏(中臣氏)に対抗する意味で、元から関東にも進出していたという強弁を(「古語拾遺」などで)したのだという説が有力です。

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紀州の員弁

忌部の一族に紀国の忌部がいるが、彼らは紀伊の員弁は自らの配下であり。忌部が祀る神社や神社内の造作などに関わる宮木部を支配下に置いていたと主張している。しかしこれは忌部・員弁の音が似ていることからの僭称であると考えられる。大中臣氏(藤原氏の分枝)に対抗する意図からだろう。

また紀の国の忌部氏は当地の木材をもって大和王権の宮殿の建築等を司ったとも主張している。しかし大和の宮殿建築は、伊勢・伊賀の猪名部や、飛鳥時代には飛騨の匠によるものであり、ともに員弁族である。もっとも彼らの造ったというのは神武の宮廷である橿原宮だという。

(神武は仮想でまたその橿原宮は考古学的には認められない。磐余宮は神功皇后と応神の宮地。)

貴志川の

三船神社は祭神が「木靈屋船神 配 太玉命、彦狹知命」

和歌山市の

上小倉神社は「手置帆負命 配 彦狹知命」

など、忌部の祖神太玉命や彦狹知命を祀ったものとされる。

しかし、これは古代末に阿波から紀伊に進出した忌部の平安前期の僭称である。(同様に安房国も忌部が開発したと主張して安房神社の祭神として、太玉命に繋がる天富命という神格まで創出している。)

但し、貴志川は、支流柘榴川奥に三船神社が鎮座するが、ここに応神天皇を奉じて大和に進出した初期河内王朝の和邇系水軍の船溜まりと造船補修所もあったとされているので、その造船集団である舟木部が祀ったものだろう。

元は御船神社と書かれた。木靈屋船神とは船玉神であり、記紀の玉依姫の事であろう。和邇系水軍が、神功皇后や武内宿禰とともに東征した時の舟その物には船霊が、そして航海神としては住吉神が付いていた。

そこに後から進出して西紀州の神社の祭祀に関わるようになった忌部氏が、祖神太玉命、彦狹知命を合祀して、三船神社と改称したものと想われる。

貴志川の本流である紀の川沿いにはかつらぎ町(旧伊都郡伊都町)もあり、北九州から武内宿禰の直系である“桂城族”が最初の拠点を置いた所であるに違いない。(私説では伊都国に置かれた一大率を葛城氏が継承して襲津彦の名を名乗ったと考えている。だからここが伊都郡なのだろう。)

そしてそこに隣接する那賀郡は、北九州の那珂から移って来た和邇系海人の拠点となった地域である。元来この地域に先住していた員弁はやはり出雲系三輪王朝の舟木部兼宮木部;つまり猪名部であっただろうが、応神東征後、和邇水軍や葛城氏の為の員弁になったかと想像される。

(那賀郡や那珂郡は鹿島同様に、和邇系水軍の進出地の地名である。)

「古語拾遺」で彼ら忌部が強弁をしなければならぬ程に、大中臣氏との間に宮中祭祀の職の優先権を巡る目に見えぬ争いがあったという事だ。

何せ、卜部からの下剋上であっても大中臣は藤原氏の分族であり、彼らは元来の仲ツ臣だった春日氏と多氏の祭神まで乗っ取っていたからだ。

とはいえ忌部の姓は首(天武朝で連)で天孫族の陪臣であり、中臣もまた連であって、天孫族の陪臣か、出雲族系(とか秦氏系)かであり、ともに春日氏や多氏の下で祭祀に従事していた下級バラモンであろう。

(祭祀に関わる氏族にはほかに賀茂=鴨氏があり、こちらは中級バラモンと考えられる。鴨の姓は臣である。)

もっとも、忌部は、天孫族が加羅に居った時からの臣従なのか?それともそれ以前にまで遡る古い家系なのかは判然とはしない。

(私は、彼らの本貫地はやはり阿波で、南海ルートで東征してきた和邇系海人族=阿波の海部の中の祭祀階層だったのではないか?と考えている。)

「古語拾遺」で忌部氏が主張したかったのは、忌部の方が中臣より自分達の方が、天皇家(天孫族)に仕えたのは早かった筈だという点だろう。確かに、中臣の前身は対馬の卜部なので、九州王朝になってからの臣従で、しかも当初は多氏に随従して戦いの成就の占いをしたものとの伝承がある。だから、多氏の水軍が阿波にまで進出した時と、どちらが古いかという事は今のところ判定の材料はないのだ。

ともあれ、統括者が誰であったかは別にして、紀の川下流には、古くから員弁が居て、舟木部・宮木部の役を果たしていたのは信じられよう。

この様な考察から、紀州那賀郡は古代から員弁の集住地であり、そこ出身の大百姓だという井沢弥惣兵衛は、彼自身もしくは彼の周辺に員弁の土木技術の継承者がいたと推理されるのである。

※時系列的には、先述した印旛沼開拓は、天保時代だから、見沼代用水よりも後の開発である。

☆マンボとは

「北勢濃尾のマンボは江戸時代中期以降のものですが、中世後期既に同様のものが甲州に見られ、これは武田信玄の黒鍬によると考えられます。

しかし、これらは単に水路とか水道などと呼ばれ、マンボと言ったという記録は目下の処ないようです。」---------(FB「古代史研究会」書込)

と書いたが、間歩マボ・マンボの名は、鉱山の開口部の名としては全国に通用している。

石見銀山にも龍源寺間歩があり、また前出の様に、中世の多田銀銅山(近世には秀吉〜江戸幕府も直轄地とした)には、坑道や排水路の出口としての間歩(マボ)の名が14も残っている事は既に述べた通り。

この間歩が近世の北勢濃尾でのマンボの名の由来であることは、補遺17本文で記述した。これも員弁との繋がりの傍証であろう。

だから、マンボは近世末に突如登場したかの様に思っている人もいるようだが、実際には中世からの鉱山の開口部として使われていた用語が、鉱山には関係のない地下水路の開口部の名に流用されただけであり、員弁から見れば見た目では区別ないものなのだ。

久良の名について

員弁関係の人物名や、時には地名に、“久良”が出てくる。

この久良とは何か?という疑問がかねてあった。

これについて一つの仮説をたてた。

かつて、諸国の屯倉の調(雑税)は“大蔵”の管掌する職務であった。

古くは蘇我氏がその頭人を務め、(北河内の)中臣氏が事務方に人を出した中臣氏が、単なる下級祭祀氏族から脱するのは、この職務が評価されたからだ。

飛鳥に都があった時にも、大蔵職は何故か河内の難波京に居たという伝承がある。難波京は、海上と河川交通の要衝であり、大蔵の物品を収蔵するのに都合が良かったからだろう。河内の石川郷を本拠とした蘇我倉山田氏は、この難波京の大蔵を管理した蘇我氏の一族だったに違いない。(だから、乙巳の変=大化の改新後にも、倉山田氏は生き残った。中臣氏との関係が幸いしたのではないか?)

ところで、特に蘇我氏が直接経営に当たったのが備前国と播磨国の屯倉であった。

播磨に残る大蔵郷の名はその所縁であろう。

(ここから出たのが、江戸初期に徳川家の銀山金山奉行であった大久保氏である。最初の氏名は大蔵氏であった。ここから出た大蔵信安は、大蔵流の猿楽師を自称して武田家に支えたが、実際は信玄の金山を開発した金山衆であった。)

屯倉現地で生産活動に従事したのが蔵部である。

聖徳太子の下で内匠を務めたのは、宮大工の鞍部多須奈だが、この鞍部も鞍作部という事で鞍部とされたが、実は蔵部だったのかも知れない。

全国に広がる木工細工師、木地師には小椋と佐々木の姓を名乗る人が多い。

この小椋は、南近江の甲賀細工所に所縁のある細工師集団であり、本貫地は東近江(湖東)にある。

小椋とは、小野宮や小野氏に因む名だというがこれは附会だろう。

小椋も小蔵だったのではないだろうか。蔵部の内、木細工師がの集団が、木細工→小細工となり、小蔵→小椋となったというのが、私の仮説である。

小椋の椋の字は、木編に京と旁る。これも意味深である。木細工で都人に奉仕したというのが小椋の氏名の暗に示す意味だ。

一方の佐々木だが、武家源氏の佐々木は源氏の家紋である笹竜胆の笹に因むものだが、木地師の佐々木の方は、細工→細木だと考える。

細は細雪の様にササメ、またササイの読みがあり、細木→サイキ→ササイキ→ササキであるからだ。

武蔵国の久良(クラキ)郡は久良岐郡とも書かれた。この久良岐も蔵木であり、大蔵の管する用材の産地だったのだろう。

鞍作止利の母方の祖父は久良(その娘だから、母は久良女)だが、飛騨の員弁であり、現代的に言えば蔵部の現地契約者だったので蔵=久良と呼ばれたのだろう。

役者の佐々木蔵之介の名は、だから武家佐々木ではなく、職人系の佐々木ではないだろうか?(実際には酒造家らしいが。酒造家も杉玉をシンボルにしている様に、元は木に関わると思われる。)

員弁の通史が欲しい

以上の如く、員弁に焦点を当てて、古代から近世までの歴史的な展開を見て来た。しかし浅学で、員弁の通史ともいうべき研究書には出会えていない。

このように、時系列で員弁(宮木部・舟木部)〜金山衆・黒鍬衆〜治水土木民集団を並べてみると、我が国の発展の根底に員弁系部族が果たして来た役割の大きさが見えて来る。

その内、文化人類学的観点から、このマターに迫る人が出て来ることを強く期待するものである。

(残念ながら、最早私の齢は、その目的を達し得ない。)

もう一点、今回の員弁の考察を通して見えてきたのは、出雲神話なるものでは、出雲族の祖は須佐男と五十猛の二神であるが、随伴した従臣などがどう存在したかの記述がほとんどない。しかし員弁もそうだが、土師部など出雲族系の氏族は、海人族の海上氏まで入れて、かなり多数いた事が判る。

という事は、単に族長クラスだけが移動したのでなく、相当数の人民を連れ辰韓地域から山陰方面への渡来があった事が推理されるのである。

採鉱部族や加羅鍛冶まで、出雲族系ではないかという部族は多い。

また三輪王朝も、畿内や中国地方だけでなく、南関東にまで版図を拡げていた事が類推される。出雲族についても、更なる考究が必要だろう。

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