補遺16 月氏の大東遷
天孫族考 補遺16 月氏の大東遷
☆月氏の青海山地〜遼寧への移動の期間
私は、以前から、「西域に居た月氏が、匈奴の西侵を恐れて、幾つかに分かれ、多くはタリム盆地から移住して去ったが、青海方面の羌族や更に甘粛省方面の氐族の居留域に移住して、あたかもそれら氐羌の一部族のようになったいわゆる小月氏の中から、更に東を目指して東遷し、それが満州と中国の間にある遼の地域に建てたのが“辰国”であり、更にそれが、河北の燕から出た衛満によって追われて韓半島の南部に分住し、三韓となり、その辰韓及び弁辰から日本列島へ渡来してきたのが、出雲王朝そしてまた九州王朝の中核となった勢力(天孫族)である」
との仮説を持って古代史を解釈して来た。
この仮説の前提として、青海・甘粛方面から遼への移住という事績が、果たして現実的に可能であったのか?という検証が必要だろう。
甘粛方面からの北部草原ルートは匈奴の跋扈する敵地であり、また中原を経過するルートは春秋戦国時代とはいえ、中国人の諸国が支配する地域であり、遊牧の匈奴の地域より、農耕定住民中心の南部ルートの方は人口密度が北より圧倒的に高かったであろうと思え、多数の移民者が横断するのは不可能に思える。
しかも陸路にすれば2千キロをも上回る距離なのである。
だが、この問題を考えるのに参考になる歴史的事実がある。
移動の方向としては全く逆になるのだが、シボ族の西遷の実績である。
18世紀後半、オイラート族ジュンガル部が西域に建てた所謂「ジュンガル帝国」が清朝に制圧された後、清の皇帝の命で、東進して来る帝政ロシアも意識しながら、清とカザフスタンの国境地帯の防衛の為に、屯田兵として移住駐留をさせられたのは、何と、その頃当時の盛京(今の瀋陽)の王城防衛に当たっていた少数民族のシボ族の兵員1016人とその家族、合わせて約3000人余りであった。
現在も、往年の天山北路の中国領最西端の伊犂河畔にある新疆ウイグル自治区イリカザフ (伊犁哈薩克) 自治州の察布査爾(チャプチャル)シボ (錫伯) 族自治県に子孫2万人が居住している。
昔のHK番組、石坂浩二ナレーターの「シルクロード」では、“西域に残る満州族”という紹介をされていた。
実際、彼らは周囲のウィグル族の反乱を鎮圧する役目を負っていたので、清朝の時代は周囲の民族とは一線を画す生活態度を保ち、満州語を話し満州文字を使っていたのである。また未だに騎馬と弓術に、女性や子供まで長けている。番組では、“まさに満州族の特色を保っている”という説明がなされた。
しかし、実は彼らシボは満州族、つまり女真人ではないのだ。
彼らは鮮卑拓跋族の生き残りなのである。拓跋族主流が、北魏を建て、その後の南北朝時代に北周まで行き、最終的に隋や唐という王朝を建てたのだが、その頃も主流に合流せずに興安嶺方面に残っていた部族である。
それが、清朝の時代になって、清の皇帝が蒙古高原の大汗の位も得て、ほぼ北緯50度以南の満州・蒙古・ジュンガル盆地とタリム盆地を支配した。
その頃、シボ族も、満州族に臣従し、勇猛さを買われて、盛京や北京の禁営軍に加えられていたのである。
それが、蒙古草原の西端ともいえるジュンガル部の反乱の後、辺境駐防軍の屯田兵として、瀋陽からイリまで何と5000キロの移住を強制されたのであった。
この大興安嶺を越えて、草原の道・北緯45度を東から西へと移動するのに、1年9ヶ月つまり21ヶ月をも要したという。だが1年9ヶ月というのには、厳寒期3ヶ月2回を含むので、実際には15ヶ月が移動をしていた期間になろう。そうすると1月で 333キロ平均という事になり、1日では僅か11.1キロにしかならない。馬乗や牛車を使っている事を考えれば、余りに1日当たりの移動距離が短い。このルートでは降雨は少ない筈である。
通例、江戸時代の日本人の街道の歩行は、1日16〜20キロと言われている。街道の整備された江戸時代の話だからとはいえ、これに比較して1日平均11キロの移動とは少な過ぎる。
これは、強制されたシボ族の移動は途中での脱走が相次ぎ、伴走していた清の理藩部の役人達が、全体の行軍を留めて、脱走者の捜索と処刑を行なったりしていたというから、遅々としての移動になってしまったのだろう。
勿論、この頃この地域には鉄道や水路など無かったのだ。ほぼ古代以来の移動方法であった筈だ。
一方、私が想定する小月氏の東遷は、蘭州から遼東地域まで、凡そ2000キロの移動である。陸路のみを取った場合は、1日16キロ平均とすれば125日となる。
しかし私の考えた様に、蘭州近郊から羊皮筏子ヤンピーツァシ(羊の革をくり抜いて膨らませた浮き袋を多数使った筏)を使い黄河中流域のトクト(托克托、現在の内蒙古の東南部。山西省まで僅か100キロの所)まで1200キロを行くとするなら、途中何泊か岸で野営したとしても、水行40〜60日ほど。そして山西省の北部を回り込んで遼東に行くまでの800キロが陸行40〜50日。
すると4ヶ月ほどで移動する事が可能だという計算である。
勿論、途中での襲撃や原住民とのトラブルを回避する時間を考慮しても、人口の疎な地域の移動だから、あらかじめ先行調査隊が隊商を装って派遣されていて、陸路の先導者が居たとするなら、多くても半年くらいで移住出来たのではないかと考えられる。
決して不可能な想定ではないのだ。
つまり、春に蘭州を立てば、冬になるまでに、灤河や西遼河の流域か渤海湾沿岸にまで達する事が出来たであろう。
小月氏のこの東遷は、闇雲なものではなく、東西交易に携わった当時の世界では一流のトラベラーだった白馬族に十分下見をさせた上での、計画的な行動であったと思われる。太陽神信仰者でもあった小月氏は、ともかくも日域、日の出の地を目指したのだと考えるのである。
☆東遷の時期はいつ頃だったのか?
ところで、この小月氏の東遷はいつ頃であったのだろうか?
通常、匈奴に追われてタリム盆地の月氏が駆逐され(実際は一部が匈奴に臣従した)、西に逃げた月氏の大多数が建てたのが大月氏国、東南に逃げて羌族に混住したのが小月氏とされている。
しかし、この匈奴によるタリム盆地の征圧は、BC 175年頃だとされる。これは匈奴の冒頓単于が漢の文帝に送った書簡で、そう言っているからだ。文帝は高祖劉邦の庶子(四男)だが、第2代皇帝の景帝の後、その子達二人が即位するが呂皇太后の専横で短期(各4年ほどずつ)で弑されたので、実質的には第3代相当で後世に太祖とも呼ばれた。
冒頓単于が月氏を征服したのは、彼が父親の頭曼単于に廃嫡されて、月氏に人質として送られていて、頭曼が月氏を討とうしたため殺されかかったからである。これは未だ中国では秦の時代の事だった。
この頃は、西域から蒙古高原は、西から月氏・匈奴・東胡の三すくみ状態だった。
頭曼単于が本来の長子である冒頓を廃そうとしたのは、愛妾との間に出来た末子に単于の位を承継させたいと考えたからだという。
だが、一説によれば、月氏に冒頓を人質として送ったが、密かに単于からの偽木簡を用いて冒頓の殺害を要求し、実はそれは偽であると後から暴露して、殺害を理由に月氏を攻める為の口実にするという、一石二鳥の策略だったともいわれている。
だから、匈奴の西域への圧迫は既に頭曼単于時代には顕著になっており、いわば月氏は匈奴の従属国化していたとも考えられる。だから頭曼が冒頓の殺害を要求すれば、月氏が従うだろうとの読みが成立したのだろう。だから、月氏の一部は、将来の匈奴の西征に備えて天山山脈の北西側や、崑崙山脈の南麓への移住を徐々に開始していたのではないだろうか。私は、小月氏として羌族に混住していた東部の月氏の一部が、新天地を求めて黄河を下ったのは、頭曼単于の時代もしくはその前あたりではなかろうかと想像する。
この頃、頭曼単于は戦国時代の中国北部の各国・燕や趙をも攻めており、この為燕や趙は北側に長城を築いて匈奴に攻め込まれない様に防備に努めた。秦の始皇帝が天下統一した後も、匈奴の脅威に備え燕〜趙の長城を西に延長する形で、オルドス南部に延々と長城を築くのも秦の頃の匈奴は極めて活発に略奪目的で南下して来たからだ。
ところでこの頃の東胡は匈奴に押されており、興安嶺方面に逼塞していた。そこで、黄河の北流域(オルドス地方)と燕の西北方面には、緩衝地帯ともいえる空白地帯が生じており、この力の間隙を縫って、東部月氏の東遷が成されたのではないかと考えるのだ。即ちそれはBC 250年〜215年頃の事では無かったろうか?
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◯紀元前318年、匈奴は、韓、趙、魏、燕、斉の五国が秦を攻撃したのに加担したが、五国側の惨敗に終わった。→これは頭曼の前々代の単于の時代と思われる。
◯趙の孝成王(在位BC265年 - BC245年)の時代、李牧将軍は代の雁門で匈奴を防ぎ、単于の軍を撃破した。→恐らくこの頃は漸く頭曼単于(もしくはその父)の時代であろう。ここまでは、戦国時代末期である。
◯秦の時代
紀元前215年、秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させ、黄河の河南(オルドス地方)を占領して匈奴を駆逐するとともに、長城を修築してその侵入を防いだ。頭曼単于は始皇帝および蒙恬の存命中には、中国へ侵入できなかったが、彼らの死(BC210年)によって再び黄河を越えて河南の地を取り戻した。
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この直後、頭曼は冒頓の反乱で殺されている。仮に頭曼が50歳代で死んだとすれば、BC 265年頃の生まれなので、BC 245年以前には単于に成っていた可能性はある。
(但し、15歳を越えていなければ、代々の単于の血筋でもクリルタイで推戴されないだろう。)
冒頓単于が東胡を滅亡させたのは、BC 170年頃であった。この為、遼陽の地には、南には貊(狛)族、東側には濊族、東北側に沃沮族があっても、西の東胡の脅威が無くなった所であり、月氏主導の辰国が成立する余地があったと思われるのだ。
辰国が、漢楚戦争の余波で、燕人が遼へ進出したのに押され南遷、更に漢の建国で楽浪郡が成立すると、月氏の民は北朝鮮から南下し、三韓の地へと辿り着く。
※但し、今上述で東北側に沃沮といったが、辰国の南遷後沃沮により扶余が建てられたが、この扶余の王族は辰国月氏の残存者であった可能性がある。というのは、扶余には牛を供犠にする習俗が見られ、また高位の官職には牛加があった。これは月氏黄牛族のものと考えられるからだ。この為、一時“扶余の弁韓あたりの分国が、やがて秋津島列島に渡って来た-------それが天孫族だ”という説を生んだ。(元来沃沮は海人系の濊族の同族だと考えられて来た。扶余もまた中国王朝からは“濊族の王”の呼称を貰っている。)
江上波夫氏の騎馬民族説も最終的には、この天孫族扶余説に傾いていたようだ。
また、その後も、北海道の歴史研究家・新岡武彦氏(「月氏が来た道―大和朝廷のルーツに挑む 」–1988)の様に、天孫族扶余説に立っての主張も為されて来ている。
しかし、もし扶余の分国が三韓内にあったとしても、それは出雲族のルーツにはなり得るだろうが、天孫族ではない。(馬韓の牛頭方国や、辰韓の伊西国が扶余系だとすればであるが。)
残念ながら、江上氏も新岡氏も、月氏には三部族(曽布留族=和族、黄牛族、白馬族)があり、出雲族はクシャトリアである黄牛族、一方天孫族はネギ・バラモンである和族であるという観点が無かったからそういう推測になってしまったのだ。(新羅として南韓統一したのは辰韓の斯羅國だったが、彼らは自分達がクシャトリアである事を自覚
していた。つまり黄牛族である。新羅の伝承には、牛が関わるものが多い事、また新羅を打倒した高麗王朝では、王族の弓道の的に黄牛の顔の絵を描いたものを使っていた=つまり高麗は敵の象徴が黄牛だと認識していた事、など新羅の出自が黄牛族である事を物語る。
だが、日本列島に渡来した出雲族は黄牛族ではあったが、辰韓では斯羅國と敵対して征服された国の王族と人民だったと、私は考えているのである。)
遺憾にも、月氏に三部族があった事に着目しているのは、私一人であるようだ。
こういう認識がなければ、クシャン朝になった大月氏国の分国である貴霜翕侯国が、クシャトリヤの建てた国である事にも気づけないであろう。そしてその版図の中心的な地域であるガンダーラ(罽賓)は、アケメネス朝ペルシャの属国だった時代にも既に黄牛族の国であった事は、天孫族考の補遺で言及した通りである。
但し、この事はガンダーラが中心になって貴霜国と合併してクシャン王国になったという意味ではない。あくまでも、バクトリアの翕侯国を統一した貴霜国が、同じ黄牛族系のガンダーラ地域までも併合したという事なのである。そして、その後安息と戦って高附(カーブル)地域も獲得し、一時そこには高附翕侯国が置かれたという説もある
ようだ。一方統一したクシャン朝の王はシャーナンシャー(王の上の王=大王)と呼称されている。
翕侯は突厥の官位である葉護(ヤブグ)に相当するというのが通説だが、私は翕侯はシャーと呼ばれたのではないかと考えている。シャーとは西アジアの民族に広く使われていた王位の呼称だからである。月氏が王をシャーと呼んでいる事で、我が国の須佐男の須佐や宇佐の佐はこのシャーに由来するのではないかと推理してきた。
☆月氏の日本列島への渡来まで
匈奴の脅威を感じて、月氏がタリム盆地を撤退し始めて、大部分の部族は天山山脈の北側へ移住し大月氏となったが、一部は青海湖方面の羌族や更に東の氐族に混住する途を選択した。これが中国で言う“小月氏”である。更に一部は崑崙山脈南麓高原(今のアクサイチン〜チベット高原)に残存した。この部族が蘇毗であり、唐代にチベット東部にあったソンパ国(また女王支配なので東女国と呼ばれた)で、これが吐蕃族に滅ぼされて後の吐蕃=チベットになったのである。
(また蘇毗の内、崑崙山脈沿いに羌族に混住した小月氏の葱茈族に隣接していたのが、若羌と呼ばれた部族である。)この蘇毗の系統の月氏を私は特に中月氏と名付けた。(もっとも、タリム盆地内と西域北道方面で匈奴に臣従した月氏の一部もあった。虜囚月氏である。)
さて、私説では、その小月氏の一部から、黄河を下って東アジアへの移住を敢行した月氏があり、これを特に月支氏と呼ぶ。また故地の共通山岳崇拝に因み天山族とも呼んできた。
この天山族が、遥か日本列島へ渡来しヤマト盆地に至るまでの、移住経路は以下の様に括ることが出来る。
青海東部の黄河の源流に近い、後世の蘭州周辺が出発点だったと想定している。
①青海東部(甘粛省)〜(黄河下り)〜黄河中流の内蒙古の
托克托まで
---------これを大東遷前路とする、ほぼ水行
②トクト〜灤河上流〜西遼河地域〜遼河の東・遼寧の地域=辰国まで
---------これを大東遷後路とする、ほぼ陸行
③辰国〜朝鮮半島南部の三韓地域まで(半島部南遷)
④辰韓・弁韓〜日本列島への渡来(日本海側と、北九州)
⑤出雲&九州地域〜畿内への東遷(出雲族、和闐族=秦氏
次いで和族)
☆古代西域での使用文字を通しての小月氏の大東遷の時期推定
上記の大東遷の前には当然、その事前の時期があった。
即ち、
ⅰ)月氏が平和裡にアクサイチン高原とタリム盆地に広がっていた時期
ⅱ)東から匈奴の圧迫が開始された時期
ⅲ)月氏の一部が天山北麓方面〜イシククル湖方面と、崑崙の南側のアクサイチン〜青海方面への移住を開始した時期
ⅳ)匈奴の西征で大月氏と小月氏などに分かれて逃れた時期
この(ⅳ)の時期の後に、先述の大東遷①の時期へと繋がるのである。
ところで上記の(ⅰ〜ⅱ)の時期に、天山南麓、シルクロード名称でいう西域北道=天山南路方面の城砦都市では、BC3世紀頃から、文字使用が始まったと言われる。これはそれら天山南路方面の都市跡の考古学的な発見によってもたらされた知見である。
このタリム盆地北域で使われた文字は、トカラ文字という。これは現代の研究によって2種類に分類され、トカラA文字が焉耆などで、トカラB文字が亀茲などで使われたという。この2者はかなりの差異が生じていたので、学者によってはA文字をトカラ文字といい、Bの方は亀茲文字と呼んだりするようだ。
この文字使用は、上述の(ⅲ〜ⅳ)の時期を経過して紀元後数世紀も続行したと考えられている。紀元後の記録はほとんどが仏教関係の経典や僧侶の身分証の様な物だという。という事は、匈奴がタリム盆地を征圧後も、私のいう虜囚月氏の都市で使用が続けられており、やがてチュルク族が南下して来てタリム盆地を征服するまで使われたという事になる。このトカラ文字とは、BC4世紀頃北印度で使われ始めたブラーフミー文字の亜流だと言われる。恐らく、西域南道の都市住民が、交易で北印度に行き、そこでブラーフミー文字を見てこれを郷里に移植したものでは無いかと考えられる。
字体はブラーフミー文字に比べて草書体だと評されるが、草書体というよりは、軟筆で書かれた字体かと思える。
ところが、同じ時期もしくはそれより少し遅れて、西域南道〜于闐にはカローシュティー文字が広まった。この文字もブラーフミー文字の姉妹だと言われ、ほぼ同様な字体(こちらは硬筆か骨筆を用いて書かれたようだ)である。BC3〜2世紀に北西印度で使用され始めて、その後ガンダーラから大宛(フェルガナ盆地)方面へと北伝して于闐に伝来
したと考えられる。この文字は、小月氏や、前漢が匈奴をタリム盆地駆逐してからの楼蘭などの残存月氏の間に広まった。
天山北麓方面へ逃れたいわゆる大月氏は、(恐らく最初の頃はトカラ文字を使用していたのかも知れないが)チュルク系民族で匈奴と連携していた烏孫との抗争を避けて南遷し、やがてアレキサンダー帝国の残存国家の一つであるバクトリアを滅ぼして、その地を占拠する。
大月氏のバクトリアでは、先住支配者の用いたギリシャ文字を使用する事になった。大月氏バクトリアはやがて五つの翕侯国の分治体制に移行する。そしてこの五翕侯国を統一したのが貴霜翕侯国で、これがいわゆるクシャン朝である。クシャン朝でも公用語はギリシャ語であったようだ。ところが4代目の王カニシカ(AD2世紀半ば)が、言語はバクトリア語に変える。但し文字は依然ギリシャ文字を使った。
クシャン朝の5代目の王ヴァシーシカから、文字をカローシュティー文字に変えたようだ。
これは、クシャン朝の中心がガンダーラ地方になり、そこでは紀元後ずっとカローシュティー文字が使われていたからだろうと思われる。
この後、3代でクシャン朝はササン朝ペルシャに征服されてしまう。
だが、この後もガンダーラより北部の中央アジアではカローシュティー文字が使われていたといわれる。
さて、先述の①〜⑤の月氏の東遷開始時には、カローシュティー文字を用いていたという形跡がない。またトカラ文字も東伝していない。
辰国や三韓でこれらのブラーフミー系文字が使用された形跡がない。
という事は、少なくとも①の大東遷は、カローシュティー文字の崑崙山脈北麓や南麓への普及の前だったという事になる。またトカラ文字も東伝しなかったのは、東遷した月氏には西域北道方面の城砦都市の住民は含まれていないか? もしくは、西域北道にトカラ文字が普及するより前だったか? このどちらかであろう。(恐らく前者)
このような観点から私は、月氏の大東遷は、頭曼単于の頃であり、BC3世紀の後半ではなかったか?と推理するのである。
だが、東遷の前に、シルクロード交易に従事していた白馬族などにはBC3世紀の前半にカローシュティー文字やトカラ文字に接していた人がいた可能性があり、これが東遷後にも断片的に伝えられ、白馬族の工人によって我が国で作られた金属製品や木工製品等に、意味は不明ながら印刻されたりしたかも知れない。その時ブラーフミー系文字についての知識のない人がそれを見て、これはヘブライ文字ではないか?などという疑いを持つリスクがあることを指摘しておきたい。
ブラーフミー系文字もヘブライ文字も共に、フェニキア文字から発展した字形なのでよく似ているからだ。
この事は、いわゆる日ユ同祖論者を喜ばせてしまうかも知れないので、敢えてここで注意しておこうと思う。
図は“フェニキア文字—アラン文字”系文字の字形比較
(上図は、左上がブラーフミー文字、右上がカローシュティー文字、左下がトカラ文字、右下がヘブライ文字)
ところで、こういう考察を加えてくると、月氏の分住についての通説に若干の異議をあげずばなるまい。
先述の如く、
ⅰ)月氏が平和裡にアクサイチン高原とタリム盆地に広がっていた時期
ⅱ)東から匈奴の圧迫が開始された時期
ⅲ)月氏の一部が天山北麓方面〜イシククル湖方面と、崑崙の南側のアクサイチン〜青海方面への移住を開始した時期
ⅳ)匈奴の西征で大月氏と小月氏などに分かれて逃れた時期
と整理したのだが、
通説では、(ⅱ)の状態から極めて短時間に(ⅳ)の様に成ったという印象がある。
しかし、小月氏と呼ばれる三族が羌族に混住するのに、幾ら過去の友好的関係などがあったとしても、親和してあたかも羌の一部族の如くになるまでには、少なくとも数十年以上の時間を要した筈である。(世代で言えば3代以上の期間を考えなければなるまい。)
という事は、上述の(ⅲ)の時代はある程度長い;凡そ1世紀弱の期間になるのではないだろうか?
上述の整理では(ⅲ)は(ⅱ)の結果として考えているのだが、匈奴の頭曼単于もしくはその前代の頃から既に匈奴の伸張傾向が見られ、敏感に反応した月氏の一部が(ⅲ)の行動を取り始めたと解釈すべきだろう。
シルクロード交易の中心路に位置していた月氏諸族は、恐らく交易を通じて、周辺(ならずかなり遠隔地)諸国の情報に通じていたと想像される。だから実際に匈奴の冒頓単于によるタリム盆地征服の遥か以前から、将来匈奴が侵略してくるという予感を持っていたと思うのである。
にもかかわらず、大・小月氏の地域に逃亡せず、残存して虜囚の道を選ぶ人々がいたのも、また彼らが情報を持っていて、匈奴は他民族を征服しても、ジェノサイドには至らず、相当量の貢納をすれば、存続を容認してくれる民族だという知識も得ていたのかも知れない。
(実際、後世の蒙古などは、征服地には必ずジェノサイドが伴っているので、匈奴の他民族支配は、それに比べて寛容である。タリム盆地の前に、興安嶺方面にいた東胡が匈奴に打たれたのだが、冒頓単于との経緯があって、かなりコテンパンに打たれているが、完全滅亡には至っていない。匈奴の東征で東胡は一時民族的な纏りを失い、烏桓と
鮮卑とに分裂したが、滅亡はしなかった。
漢民族も高祖劉邦が匈奴との戦いに敗れて、武帝が出るまで、屈辱的な貢納や公主の嫁入に応じなければならなかったのは周知の事である。)
敏感な事前情報を持って月氏の一部は羌族に混じる道を選択した。
だが、これに必ずしも満足できなかった東部月氏の一部が、彼らの持つ豊富な国際的な情報知識を活かして、黄河を下る大東遷の選択をしたのだと考えるのである。
(勿論、羌族との混住を甘粛省方面で継続した一族もあっただろう。
それは五胡十六国の時代に、羌族の建てた西秦などにも参画していたであろう。蘭州を遡った黄河の支流にある炳霊寺石窟の弥勒菩薩信仰は、ガンダーラ方面で発生したものが、月氏の回路で伝わったものだと推測される。弥勒信仰は、月氏のミスラ神の信仰が仏教化したものだからである。西秦の時代にも、奥黄河地域に小月氏の末裔が残って
いた事の傍証であろう。タリバンによって破壊されてしまった有名なバーミヤンの大仏の西大仏は弥勒であり、その石窟の天井画は弥勒の居る兜率天を描いたものだ。クシャン朝時代には、アフガニスタンは殆どがクシャン朝大月氏の版図であった。弥勒信仰は三韓〜秦氏を通して、推古朝の我が国に伝来していたのは周知の事である。)